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斎藤精一郎『現代デフレの経済学』PHP新書

 古書店で購入した1998年11月発刊、すなわち20年近く前の本である。30年近く前に斎藤さんの講演を聞く機会があり、明快なわかりやすい話ができる学者だと思っていた。20年以上にわたる長期のデフレからようやく脱出かな、という現状だが、20年前の段階で経済学者がどのように現状認識していたのか、興味があって読んでみることにした。
 1990年代初め、つまり昭和から平成に替わるころから、バブル崩壊後の不況がだんだん深刻化し、1997年度ついに23年ぶりにマイナス成長を記録したが、斎藤が言う通りメディアもエコノミストも経済学者も、「景気後退」「不況」「リセッション」とは言うものの、「デフレ」とは決して言わなかった。当時の橋本龍太郎首相は、97年度の消費税引き上げ断行を「失政」と世評から判断され、挽回のため大型の財政支出を断行したが、景気回復の勢いは失われたままであった。
 斎藤は、1997年のマイナス成長が、23年以前の1974年のオイルショックによるものと基本的に異なるものとして、むしろ70年前の1920年代後半のデフレに対比すべきだとする。それは、10年以上の長期的調整を要すること、ケインズ的需要促進策では効果なくミクロ面の構造調整を必要とすること、その達成のために金融超緩和政策・雇用維持・失業手当など大規模なマクロ政策が必要であることを説いている。デフレは、①実質金融資産を増価させ、②実質債務を増加させ、③物価下落による実質金利の上昇、④マネーサプライの実質的増加をもたらし、⑤消費を先送りさせ、⑥売上減少・収益減をもたらし、⑦コスト競争を激化する。
 ただし、1920年代後半と大きく違う環境要素も存在する。①物価下落が緩慢で相対的に小さく、②輸出価格・輸出額の低下が相対的に小さく、③実質GDP・鉱工業生産指数の落ち込みも小さい。その理由は、①政府の経済介入、②企業のコスト削減・経営合理化・収益力強化能力の増進、③消費者家計の金融資産が昭和初期に比べて大きく拡大して、「デフレのソフト化」が達成されたのである。それでもデフレを放置することは危険である。
 一方、現代は経済のグローバル化と、アメリカ金融界の構造転換による産軍複合体からウォール街=財務省複合体へのプレイヤー交代で、「証券化」により、日本など先進国に退蔵されていたマネーがアメリカ金融界を介して、急成長する振興アジア諸国に流れ込み、新興国の経済成長を促すとともに、世界の一部で発生した経済危機が高速で世界中に感染する状況となった。
 現代のグローバル経済は、1920年代にはなかった①国際協調体制があり、②市場フロンティアがあり、③技術革新が台頭し、④ケインズ理論と政府介入が一般化しており、③情報網による迅速な構造調整が可能となっている。
 デフレから脱却するためには、①実質金利をマイナスにし、かつかなりの長期間それを維持するだけのマネーサプライ増加策を実行して人々に物価上昇の期待を確信させ、②規制緩和など構造改革を断行し、③ケインズ型財政政策を実施し、さらに④当面の最大の癌たる不良債権問題を可及的速やかに解決する必要がある。
 経済の診断と対策に完全な正解はないだろうが、斎藤の経済分析と政策を読むと、民主党政権がまったく経済を理解できず政策を誤って墓穴を掘り続けたこと、現在の安倍政権でかなり取り戻して健闘していること、を10年以上も事前に未来として予言していたとも言える。
 斎藤の解説は、この本でも明確でわかりやすい。こうして整理した議論を知ると、わが国で現在行われている経済政策の意図もよくわかる。20年も前から、これだけの見通しがあったことにいささか感銘を受けた。

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五十嵐敬喜・小川明雄『公共事業をどうするか』岩波新書

 20年余り前の新書であり、近い過去を振り返る視点から読んでみた。
 多数の「無意味な」公共事業の例があげられ、それらを「強行」してきた「政・官・財」の癒着、公共事業と「票」と古い体質の社会構造について説く。
 この本にとりあげられている公共事業の例、「政・官・財」の密接な関係、わが国の社会構造の問題などの事実関係については、さまざまな実例として読むものに参考になることもあるだろう。しかし、この本はまず「公共事業=悪」の大前提で書かれていて、一方的に非難する。しかも評価が多分に感情的であることが大きな欠点である。アメリカの例を引いてわが国の現状を批判するなど、よくある方法で「改革」を説いたりもするが、この部分に限らず全般的に議論の幅がごく狭く、感覚的・感情的で、そのため説得力が弱い。この種の問題を考えるには、もっと多角的に深く考えないと妥当な結論は得られないと、素人の私でさえ思う。
 10年弱以前に、すなわちこの本が出てから10年ほど後に民主党政権が出現し「コンクリートから人へ」をうたい文句に政策をアピールしたが、そのときの軽薄さに通じる欠点がある。

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富山和子『日本の米』中公新書

 1993年発刊された本で、タイトルは「米」だが、内容は米を基本的なキーワードとしつつ、米の生産に必須である「水」、「土壌」、「森林」の基本的自然資源に対して、人間とくに日本人の歴史がどのように向き合い、格闘して人間が生きるためのさまざまなインフラとして河川、港湾、池、田地を構築・管理・維持してきたのか、そのために我々の祖先たちがどのように石、木材、土や泥と格闘し使いこなしてきたのか、歴史と観察から説く。
 日本の第一次の国土開発は古代の古墳時代であり、米の生産に基本的に必要な土地と水の利用方法がさまざまに開発された。第二次は室町時代末から近世前期、とくに戦国時代を中心とする時代で、膨大な規模で新田開発が進められ、この300年間で耕地面積は86万町歩から300万町歩と3.5倍に増加し、人口が1000万人から3000万人に急増した。そして第三次が明治時代であり、国土の70%を占める豊かな森林資源が充実した。
 日本の海面干拓総面積は30万ヘクタールにおよび、世界的にも最大のオランダ57万ヘクタールに次ぐ規模であるという。
 いささか誇張やアジテーションの感じもあるものの、富山が説くように米・水・川・森林が、非常に長い時間と莫大な祖先たちの労力によってもたらされたきわめて貴重で大切な財産であることは、われわれも再認識すべきであろう。実際、ごく普通に「美しい日本の自然」と呼ばれているものの大多数は、よく見ると「生の自然」ではなくて、広大に広がる田園、季節をあらわす山肌の森林、陽光できらめく河川の水面など、人間の手が深く入ったものである。こうした忘れがちな「事実」を、「米」というキーワードを軸に横断的に列挙して解説した書物として、この本の意義は大きい。

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佐々木毅『いま政治になにが可能か』中公新書

 昭和の末期1987年5月発刊の本である。あとがきに1987年1~2月に一気に書きあげたとある。当時は中曽根康弘首相の長期政権末期で、主な政治課題は内政よりも対米通商摩擦であった。
 佐々木は、対米通商摩擦を「横からの入力」と表現し、国内では選挙に大勝して安定政権を誇っていた自民党中曽根政権の政治の問題点に切り込む視覚としている。世界第二位のGDP、世界第七位の国民一人当たりのGDPを達成して、ジャバン・アズ・ナンバーワンの著作に象徴されるような世界の大国に成りあがった日本であったが、その経済構造は外需に大きく依存し、とくにアメリカへの輸出の比率が突出していた。しかしそのアメリカが、10年以上にわたるベトナム戦争などの疲弊で経済的に低迷期に突入し、レーガノミクスの「失敗」で財政赤字と貿易赤字の双子の赤字に苦しみ、巨額の貿易黒字を累積する日本に対して、対米輸出の削減・輸入の増加を厳しく求めるようになっていた。
 佐々木は、このアメリカに対する日本政府の対応を観察・分析して、日本の政治がいかに綻びを呈しているかを説く。要するに「御用聞き」的な個別分散的な有権者に対する対応に終始してなんとか集票にこぎつけ、自民党一党優位体制を維持しているものの、政治が本来担うべき「大政治」、すなわち日本全体の公共の利益を大局的に考えて政策を練り対応するといったことが実現できていない、とする。
政治とは、治める者と治められる者との根本的な意味での自由・平等を前提に、そこに政治権力が人々の了解と承認のうえで成立し、運用され、それが濫用されないかぎり治められる側がすすんで服従することを意味する。この治める者と治められる者との理解と説得の世界が「政治的意味空間」であり、「納得づく」の政治の根拠であり、政治を政治らしくする条件である。
 しかし現実の日本の政治は、「地元の面倒をみる」あるいは「特定の業界の面倒をみる」ことに終始し、それこそが「政治的意味空間」を分断して、政治のダイナミズムを失わせ、自己改革を著しく困難にしている、と説く。
 対策としては、やはり政権交代の実現による国民の関心の喚起と、政権党の緊張感の育成が挙げられている。
 読んでみての感想としては、レーガン政権の政策に対する評価がいささか厳しすぎるように思う。現在の多数のアメリカ人たちは、双子の赤字の問題以上に、あのタイミングでのSDIを含むアメリカの軍事拡張の姿勢がソ連の崩壊を実現した、とポジティブに評価している。中曽根政権の臨調を導入しての政治改革も、佐々木のいうとおり本来の政府がやるべき王道のやり方ではなかったにせよ、結果として果断な改革の実現とみる見方が多いと思う。そしてこの本の発刊の後、平成時代の30年余りを経て、わが国の政治も政権交代や選挙制度の変更など、少しずつ変化をみた。佐々木も政権交代の必要を説いていたが、実際に政権交代を経験してみると、圧倒的に悪いことのほうが多かった。たしかに下野した自民党の反省による以後の政権復帰後の改善効果はあったようだが、政権担当能力を欠く政権が残したネガティブな側面・遺産は厳然と実在した。わが国の最大の課題は、政権担当能力がある現実的・穏健な野党の育成ということになるのだろう。

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飯尾潤『日本の統治構造』中公新書

 2007年に発刊され、その年の「サントリー学芸賞」、翌2008年の「読売・吉野作造賞」を受賞した、かなり有名な本である。
 飯尾は冒頭で、わが国では「議員内閣制」が誤解され、あたかも議院内閣制であるがために迅速でダイナミックな意志決定や大胆な改革ができない、と思われているが、それは正しくない、とする。戦前までの旧憲法下では、議員内閣制的な規定のみならず「内閣」の規定も言葉すらも存在せず、政党内閣の法的正統制を欠いていて、政治の意思決定中枢がなかったことが最大の問題であった。明治憲法体制は権力集中による独裁者をつくったことで崩壊したのではなく、意思決定中枢がなかったがために、責任をもって必要な決断を行うことが不可能な仕組みであったことこそが根本的な問題であった。
 議院内閣制のもっとも大切なことは、行政権を担っている内閣が議会の信任によって成立していることであり、その結果内閣を主導する首相が全省庁にわたる強力な権限を行使できる、行使すべきことである。
 しかしわが国近代化の政治史において、旧憲法下で官僚からなる省庁の代理人としての各省大臣が寄り合う「官僚内閣」のもと、大臣の分担管理原則が行われ、それが現代まで残っていることが大きな問題である。
 また、政府・与党二元体制という実態もあった。法案はすべて与党の「事前審議」で条文の細部まできめてからようやく議会にかけられ、議会の議論によって条文を修正することがなかった。
 また、わが国では特定の政党に所属することに国民側の拒否感があり、政党が国民に「御用聞き」はできても、「民意の集約」ができない。すなわちいったん有権者から要求を受け入れ帰納的に政策をつくり上げ、ある程度抽象化した段階で妥当性を判断して政策を決定し、その政策から演繹的に個別の施策を打ち出すということがなかなかできないのである。
 統治体制は、それぞれの国で制度のうえで相違するうえ、運営の実態でさらにヴァラエティに富むのが実状である。イギリスはかなり極端に議会に権力の軸を据えた議院内閣制であり、内閣も最高裁判所もある意味では議会の一部ととらえ得るほどである。アメリカは、そのイギリスから独立した経緯からイギリスとは異なる方向を目指し、権力分立を重視する。大統領と議会とは独立に選挙で選出され二元体制の権力であり、日本で誤解されているような大統領に権力が一元的に集中した体制ではない。フランスは、革命以来帝政と共和制の交代・変遷を繰り返し、1958年アルジェリア危機で議会中心主義が行き詰まり、第五共和政でカリスマ軍人政治家ド・ゴールにより、大統領が首相を任命するが内閣は議会の信任を必要とする「半大統領制」としてできた制度である。いずれの統治体制も草創期から歴史を経るにしたがって遭遇する問題に対処するなかで現実的に変化してきたものであり、またどの体制が優れているというわけではない。
 飯尾は、わが国の統治構造も多くの問題を抱えつつも、相対的には「よくやっており」それなりに妥当に進歩してきたと評価する一方で、「権力核の不在」、「権力核の民主的統制の不足」、「政策の首尾一貫性の不足」が主要な問題として残ると指摘する。そして具体的に重要なことは、政党・首相候補・政策の3点をセットで提示して、有権者が政権を選挙で選ぶことである、と指摘する。
 この本の発刊から10年が経過し、おそらく飯尾も、諸課題がある程度解決に向けて動いていることを感じ指摘できるだろう。もちろん残る課題も多い。
 この論考は、学者の議論にありがちな「理念」先行的なものとは異なり、実に泥臭い政治の実態をよく踏まえた現実的な論理展開がされていて、とても説得性がある。たとえば「三権分立」は理念的には存在するが、世界の現実の政治で達成している例はない、などはとても刺激的な指摘である。これまでなんとなく理解しかねていたことも目から鱗が落ちるように腑に落ちたこともあり、非常に印象深い本であった。

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石川真澄『戦後政治史』岩波新書

 朝日新聞社編集委員であった石川真澄が、1984年に発刊した『データ戦後政治史』を増補・改訂する位置付けで1995年1月に発刊した新書である。これに先立って私は内田健三『現代日本の保守政治』岩波新書、1989-3を読んだ。ある程度類似した構成の書だが、内田健三の書が1964年11月佐藤栄作政権の発足から1989年の竹下登政権の初期までを対象としているのに対して、この石川真澄の書は1945年8月の日本敗戦直後から1995年1月の村山富市政権初期までの、発刊当時の戦後政治史の全域を扱っている。つまり25年ほども長い期間について述べているので当然それぞれの政権の施政の中身についての解説はかなり簡略となるが、内田の書が題名のとおり保守与党の動きに絞り込んでいるのに対して、この石川の書では野党の動きについても簡潔にポイントが述べられていること、石川の得意とする選挙データの数量的分析による政治分析があることなどの特徴がある。一方で外交や安全保障に関する考察は、この書では薄い。
 書の冒頭で述べられているように、著述の姿勢としては、個々の政策の分析や評価より、生起した事実の記述を重視していて、戦後政治でどのようなことが起こったのかを振り返るデータとして、十分役立つものとなっている。

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内田健三『現代日本の保守政治』岩波新書

 ちょうど昭和がおわった1989年の3月に発刊された政治評論である。東京オリンピック閉幕とほぼ時を同じくして、1964年11月に池田隼人から政権を受け継いだ佐藤栄作からはじまって、1987年11月中曽根康弘から指名されて首相に就任した竹下登までの、昭和の最後の四半世紀にわたる日本の保守政治、自民党政治の回顧的概説である。振り返ってみると、昭和時代の戦後の後半期に相当する。
 戦後の復興がようやく軌道にのって経済成長が目立つようになった池田政権時代のあとをうけて、佐藤栄作は「自主防衛」と「経済援助」を政策の二本柱として戦後政治の総決算を密かにめざしていたという。佐藤政権成立の前年1963年は、ケネディ大統領暗殺、フルシチョフ退場・ブレジネフ登場、イギリスの政権交代で労働党政権発足、中国核実験、と矢継ぎ早に世界で大きな事件や変動があった。ケネディにはじまるベトナム戦争の激化、対中国関係正常化の葛藤、日韓基本条約仮調印、ILO87号条約批准があった。そして1971年7月にまったく突然の米中接近がニクソンによって実現された。国内では、公害問題が勃発して、また沖縄返還の代償として日米繊維問題に悩まされた。そんななか、佐藤は7年8か月の長期政権で、沖縄返還を成し遂げた。自民党支配の絶頂期に長期政権を担当した幸運な指導者であった。
 この佐藤栄作時代の自民党支配の絶頂期、その佐藤政権末期に、世界と日本の経済の変調の兆しが出ていた。ベトナム戦争の負担とその対策としての「2つのニクソン・ショック」すなわちドル・ショックと中国ショックであった。この閉塞状況を打開する期待を担って、1972年7月、異才の宰相田中角栄が登場した。田中は、首相就任早々ハワイに田中・ニクソン会談を行い、椎名悦三郎自民党副総裁を台湾に派遣して根回しのうえで、1972年9月電撃訪中して日中共同声明を発表し、台湾を切り捨てて日中国交正常化を宣言した。内政では「日本列島改造論」を首相就任直前に発刊し、国土の総合開発と経済の新展開を説いた。これにもとづく大型補正予算でインフレの進行、地価暴騰、景気過熱を引き起こし「狂乱物価」を招いた。さらに1973年10月、アラブ石油輸出国機構(OPEC)が産油量削減・石油価格引き上げに踏み切り、長らく続いた高度成長時代は終わりを告げた。1972年6月からくすぶっていたアメリカのウオーターゲート事件が重大化し、1974年8月ニクソン大統領が辞任に追い込まれると、軌を一にするかのように『文芸春秋』の立花隆・児玉隆也の「田中角栄研究―その金脈と人脈」で田中の過去の政治活動にからむ疑惑の土地ころがし・資金づくりを問題化し、ついに1974年11月田中は辞任した。
 政治の倫理性を問われて失脚した田中の後継者は、個人の政治的能力以上に、田中によって失われた自民党の信頼を取り戻すことが最大の条件であり、保守政権存亡の危機への切り札として、自民党長老椎名悦三郎の裁定で三木武夫が指名された。三木武夫は、まず政治改革を目指し、党総裁公選規程改正・政治資金規正法改正・公職選挙法改正に取り組み、政治資金規正法改正・公職選挙法改正はかろうじて達成したものの、党総裁公選規程改正は党内の田中・大平派の反対で未達となった。さらに独占禁止法改正案を試みたが、企業活力を弱め国際競争力を削ぐ怖れありとして廃案となり、このころから三木と椎名の関係は悪化した。外交では1975年の金大中事件、国内では公労協のスト件スト問題、そしてロッキード事件が発生して、総選挙で自民党結党以来初めての過半数割れに陥り、ついに三木は辞任した。1976年6月、自民党の内部抗争から自民党を飛び出した河野洋平等の「新自由クラブ」は総選挙で17議席と躍進した。三木政権の置き土産は、防衛費の1%枠の閣議決定であった。
 三木を継いだのはもと大蔵官僚のエース、岸伸介の秘蔵っ子、佐藤栄作の後継者と早くから首相になることが期待されていた福田赳夫であった。急速に台頭した田中角栄に首相の座をさらわれ、4年半遅れてようやく実現した福田赳夫首相を、著者は「遅く来過ぎた首相」という。三木政権のなかでは、三木ー福田と田中―大平が対立し、福田赳夫はすでに三木政権時代から日本経済運営の実質的な最高責任者であった。自民党の改革については「党改革実施本部」を設立して自ら本部長となり、「総裁公選規程」を改正して「総裁予備選」を導入した。内政では「経済の福田」を自任したものの、不況が続き完全失業者数が年間100万人を超えた。アメリカでは、1977年1月カーター民主党政権がスタートした。中国との日中条約の締結を実現したほか、東南アジア諸国連合(ASEAN)に向けて「福田ドクトリン」を発表し、日本の外交基本方針を明らかにした。しかしわずか1期2年の任期を過ぎて初めての総裁選挙で、自ら新規導入した予備選で福田は大平に敗北してしまった。
 1978年12月からの大平正芳政権は、福田赳夫以上に党内基盤が脆弱で、大平の急死でわずか1年半の短命であった。1979年10月韓国の朴正熙大統領射殺、同11月イラン米大使館人質事件、同12月ソ連のアフガニスタン軍事介入と国際情勢は激変に見舞われた。国内では、米ダグラス、グラマン両社の海外不正支払い問題があり、一方では60年代以降革新自治体を続出させた地方自治体の選挙で、東京都の鈴木俊一知事、大阪府の岸昌知事など保守への回帰があり、ようやく保守復調の兆しが現れた。しかし1979年10月の総選挙で、大平は財政再建のため「一般消費税」を選挙の争点にしたのが裏目となり、過半数割れの敗北を喫した。このあとの国会で首班候補を自民党として一本化できず、主流派の大平と反主流派の福田が競う前代未聞の事態となり、自民党の党内分裂が白日の下にさらされた。「自民党40日抗争」である。こののち大平内閣は、野党の攻勢と党内反主流派の非協力に苦しんだ。そんななか、1980年5月社会党から提出された内閣不信任案が、全野党の同調と自民党内反主流派の造反・欠席により可決され、大平は衆議院解散に追い込まれた。それを受けた衆参両院同日選挙の最中、大平派は急死した。ところがこの大平の急死が、思わぬ自民党の大勝をもたらした。
 大平の死と総選挙の大勝利は、自民党に70年代の混迷と内部抗争と決別し保守支配再構築への始動を要請した。「大平政治の継承」が錦の御旗となり、そんな空気のなかで、またも政治運営能力より党内調整力を求められ、大平派の大番頭で調整型政治家たる鈴木善幸が新総裁に選ばれ、1980年7月鈴木政権が発足した。鈴木は、ひたすら派閥抗争の休止、挙党体制の回復による自民党政権の継続と安定に注力し、政治浄化、政治倫理の確立を強調した。政権発足から1981年4月までの政権前半は国際情勢も平穏で、国内経済も不況を脱出し順調で、環境に恵まれていた。そんななか、鈴木首相―中曽根行管長官体制下で行政改革が具体化され、「臨時行政調査会」が設置され、臨調会長に土光敏夫経団連会長が内定した。こうして順調とみられた鈴木政権が最初に躓いたのが1981年5月の鈴木訪米・日米首脳会談であった。会談後の日米共同声明の「日米の同盟関係」「同盟の役割分担」の解釈として、訪米帰国後に鈴木は、「同盟に軍事的意味合いはまったくない」「役割分担に日本の新たな軍事的負担は背負わない」と、共同声明の軍事色を極力薄める発言を繰り返し、外務省や党内から批判されることになった。このような国際常識の無視、外交的無知をさらしたことで、鈴木首相の威信は大きく傷ついた。このころ、党内の田中派は急速に拡大・膨張していた。行財政改革は進まず、赤字脱却のめども立たなかった。「公職選挙法改正」は、通常国会の大幅延長という強硬手段で法案成立に持ち込んだ。不測の波乱として教科書検定問題が発生し、韓国・中国に対する「ことなかれ的」な解決として「政府の責任において是正する」との回答でしのいだが、これはあとに大きなツケを残すことになる。しょせん一時しのぎの政権は、1年4か月の短命で終わった。
 1982年11月総裁予備選を経て、田中の後押しを得た中曾根康弘が首相に就任した。閣僚人選は、田中派に深く配慮したものとなった。中曽根は、首相就任から日の浅い1983年1月電撃的に韓国に全斗煥大統領と首脳会談し、鈴木政権時代に合意に至らず日韓間の不協和音を生んでいた経済協力を40億ドル支援で解決し、さらに続けて訪米して中曽根・レーガン会談で「ゆるぎなき日米同盟関係」を再確認した。このときのインタビューで出たのが日本列島の「不沈空母」化であった。田中支配との批判を受けた中曽根であったが、1985年2月田中角栄が脳梗塞に倒れて政治的に再起不能とり、田中支配は終焉した。このときから1986年7月の衆参同日選挙大勝ころまでの1年8か月が、中曽根政権の全盛期であった。中曽根は、行政改革、財政改革、教育改革の3大改革を軸に積極的に動いた。この時期、行財政改革は、財政主導の福祉国家論から「小さな政府」、規制緩和、民間活力の利用、官業民営化論など、マクロな時代的要請・流れに沿うものとして期待されていた。工業化社会から脱工業化社会への産業構造転換、国際化・情報化・高齢化など社会構造の変革の潮流に、行財政システムがいかに対応すべきか、という大きな課題であった。中曽根は、土光臨調の「増税なき財政再建」の答申を受けて、国鉄分離・民営化を推進した。電電公社・専売公社の民営化も実現した。教育改革では、臨教審を設置して3年間の審議のうえで1987年8月最終答申を提出した。外交では、中南米・中近東・アフリカを除く世界37か国を歴訪した。1985年には、日本の経済協力総額がOECD開発援助委員会加盟国のなかでアメリカを上回りトップとなった。こうした目覚ましい活躍の勢いに乗って、総裁任期の延長を実現し、5年の長期にわたる首相任期を全うすることになったが、最後の1年は、売上税問題、防衛費問題、そして選挙大勝がもたらした自民党の内部の弛緩・油断がめだつようになり、さらに地価高騰が激化したことが追い打ちをかけ、ついに1987年11月に中曽根政権は幕を閉じた。
 1987年11月竹下登は首相に就任した。閣僚人事は指名者たる中曽根の影が強くかつ派閥均衡の布陣であった。竹下新首相は、政策課題として首都圏の地価高騰の抑制、日米経済摩擦の緩和、税制改革の3つをあげた。まず臨時国会で緊急の地価鎮静策を講じ、高値安定ながら頭打ちの状況までは達成した。竹下・レーガン会談を経て二国間交渉を続行し、貿易自由化の品目・時期について最終決着をみた。税制改革は、大平・中曽根の挫折・失敗のうえにたって、慎重きわまる準備と根回しを丹念に積み重ね、1988年末についに達成した。その間、リクルート疑惑が国民の政治不信を招き、現行税制の不備と不公正を際立たせて、政府・自民党の税制改革を遅らせた。そしてこれ以後リクルート疑惑が内閣支持率を急落させた。この本が発刊された1989年3月の少しあと、6月に首相を辞任している。
 著者内田健三の過去四半世紀にわたる自民党政権の総括はかなり正鵠を射たものだと思うし、自民党の制度疲労の指摘も半分以上首肯できる。しかしたとえば、福田赳夫が自ら新規に導入した総裁予備選挙で、党員132万人、党友17万人、合計149万人の投票で大平正芳に8万票差で敗北したことについて、田中派の策謀による、としているが、私の記憶にもとづく素朴な感覚では、政治の現場をよく知らない多数の国民は、福田赳夫が大蔵省のエース出身でアタマがよさそうと聞いても、いつも苦虫を咬みつぶしたな難しい表情に親しみが薄くて、大衆的な投票だと負けるのも頷けた。いかに田中とはいえ、150万人もの多数を操ることができるのだろうか。また時代背景もあってか、憲法改正問題にほとんど関心がないこと、靖国問題などでの韓国・中国側の不合理・理不尽にまったく触れていないこと、など首肯しかねる部分もある。
 著者の内田健三は、保守政党たる自民党のこれまでの政権運営をかなり評価しつつも、自民党一党支配というひとつの政治体制があまりに長期にわたって固定することで、流動性を失って硬直し腐食し、やがて崩壊にいたる危機であるという。自民党の支配体制が制度疲労していて、なんらかの抜本的改革が必要だとするのである。しかし内田自身がいうとおり、政治改革、政党改革は言うは易くとも実現はなかなか難しい。内田健三のように、現状の欠点を鋭く知悉しているジャーナリストでさえ、いざ「まともな改善案」となると、なかなか良案を提案できないのが現実だろう。
  かねてより世界の他の先進国で実現されているような、政権交代可能で、かつまともに政治運営ができるしっかりした保守政党が存在し、いわゆる二大政党制が実現することが現実的な解決策なのだろうと思う。近年日本に実現した「民主党政権」は、党のなかに保守派には程遠い、現実の政治を真剣に考えない、よく言えば「観念的」わるく言えば「ただのサヨク」のような議員たちが多数いて、到底政権を安心して任せ得るものではなかった。さらにそれ以前に、政治運営能力の未熟さ・稚拙さ・能力の欠如などをあますところなく露呈していた。あんな事態は決して繰り返したくないというのが、多くの日本国民の素直な感覚だろう。日本にも、代替可能なまともな政党が切に待望されるのである。

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遠藤誠・佐藤友之『オウム事件と日本の宗教』三一新書

 23年以上前に発生したオウム真理教事件について、なにか新しいことがわかるかもしれない、と思って21年以上も前の出版ながら、ともかく読んでみた。遠藤誠は、オウム真理教信者のひとりで教団の専属弁護士のような立場でもあった青山吉伸の弁護を担当し、さらに麻原彰晃から弁護を依頼されたことがあるというようなことで有名となった高名な「人権派弁護士」である。そんなこともあって、オウム真理教やその信者たちの内情などにも詳しいのではないか、と期待していた。
 ところが、この本の内容は、オウム真理教の中身については「100%邪教」、「麻原彰晃は宗教者とは言えず、ペテン師にすぎない」など、われわれ一般人がすでに知っていること以上の新情報はない。そのかわりこの本の中身は、もっぱら日本の現状・社会にたいする批判にある。いまの世の中は、誰もが物と金ばかりを追いかけ、物が豊かになれば人類は幸福になれる、技術さえ発達すればそれで人間はしあわせになれると思い込んでいる、と断定する。そうした「愚民観」を前提に、対して自分は社会や人間の本質をよく把握しているから「愚民」の過ちには陥らない、との立場である。とくに遠藤誠の場合は「自分がいちばん偉いと自覚している」とまで公言するほどの自信家である。
 そしてオウム事件が我々に突きつけたのは、今の社会も政治も宗教も堕落の極みになっていて、愚かな民衆はそれに追従し反抗できない、という根本問題であって、そういう絶望的な社会が麻原彰晃やオウム真理教を発生させた原因なのだ、とする。民衆は「権力」を正しく敵と認識し、反抗し、打倒しなければならない、と理由も根拠もよくわからないままに熱弁している。しかし当然ながら、このような立場・姿勢は、本人は高みから「正論」を吐いているつもりかも知れないが、われわれ一般人を説得することは難しく、政治的にも社会的にも実効性がない。
 このように情緒的で論理が飛躍した「愚民観」と選良意識とが、どうしてこんなに自信満々に出てくるのか、私には到底理解できない。「人権派弁護士」と呼ばれる人々は、総じてこのような傾向があるのだろうか。
 残念ながら、この本を読んだ時間は、ほとんど無駄だったようだ。

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21世紀研究会『新・民族の世界地図』文春新書

 2006年発刊なのでもう12年も前の情報によるものだが、世界の情勢を理解する補助にもなれば、とひとまず読んでみた。
 民族の諸問題について、言語、宗教、さまざまな要因にもとづく移動、先住民族・少数民族、民族対立・紛争、中東・アラブとユダヤ、エネルギー争奪戦のそれぞれの視覚から分析・整理している。12年の時間が経過して様相が違ってきている問題もあるが、問題の基本的な性質や歴史など、この本に書かれていることで参考になることは多い。
 ここで問題となっているものの大部分が、非常に解決困難であると思わざるを得ない。とりわけ先住民族の権利の問題などは、心情的には理解できる範囲もあるものの、権力や暴力を含めて長い歴史的経過の蓄積の結果のことについては、いまさら問題提起しても良い結果が期待できないことが多いとも思う。
 政治も歴史も、人間の営みは完全ではあり得ないことを認識したうえで、ベストは無理ども少しでもベターな選択を実行し続けられるよう、この本に指摘されている諸問題を少しでも多くの人々が認知することは重要であると考える。
 ちいさな本に網羅的に多くの問題について概説しているので、個々の問題の詳細については、各々がさらに個別に参考書にあたることも必要だろう。それでもこのようにコンパクトに要約された本の存在は、入門書・啓蒙書として貴重なものだと思う。

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高瀬保『ガット二九年の現場から』中公新書

 大蔵省関税局の若手官僚からスイス・ジュネーブのガット事務局に出向し、そのまま退職までの29年間を国際機関に勤務し続けた著者による、国際機関と国際交渉の重要性についてのエッセイである。
 先ずガットとその継承組織たるWTOの目的とその歴史的経緯を紹介し、経済の中長期的発展と世界の平和維持のために国家間の経済活動の協力が必須であるとする。そして、その育成と有効利用のためには、短期的・自国のみ視点でなく、長期的視点から国益を追及する考え方が必要で、交渉相手とのウインウインの合意点を協力して構築することが当時者自身や自国の利益になるという。
 日本国あるいは日本人は、これまで国際交渉において十分活躍しているとは決していえないとして、いくつかの指摘をしている。国際共通語としての生きた英語の習熟、先ずマクロから説得してミクロに向かう理路整然たる主張、誰が発言したかでなく何を議論したかを重視する態度、沈黙は同意とみなされるため美徳どころかときとして危険であることの認識、交渉当事者に交渉に足る権限を与えることの重要性、などしごく当然のようでありながら未だにわが国では達成できていないポイントを列挙する。これらが困難な背景には、日本の文化・習慣に加えて、日本の伝統的な制度の問題もある、とする。
 たしかに、この本で指摘されている多くの点は、私自身も体験したことであるし、今でもおそらく心もとないことが多数残っていそうである。著者の切歯扼腕がひしひしと伝わってくるように感じる。わが国では稀有な経験をもつ著者の貴重な指摘・指導として、我々に役立つ、役立てるべき内容が豊富な本である。

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