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水戸市街散策(4)

徳川慶喜と至善堂(下)Photo_20240623054402
 至善堂は、藩主の休息所や藩主の家族など諸公子の勉学所となっている。斉昭の七男で後に将軍となった徳川慶喜も、斉昭の教育方針のもと江戸から水戸に帰って、ここで勉学したという。
 最後の将軍であった徳川慶喜は、慶応4年(1868)1月の大坂城からの突然の逃避と鳥羽伏見の戦い敗戦の後、江戸寛永寺に謹慎していたが、江戸彰義隊の敗北のあと新政府軍の江戸総攻撃回避のために3月14日に行われた東征軍参謀西郷隆盛との会談のとき、勝海舟が慶喜の謹慎場所を岡山でなく水戸にしてほしいと嘆願して認められた。慶喜は4月11日明け方に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かい、松戸、藤代、土浦、片倉を経由して4月15日に二十数年ぶりに水戸に到着した。水戸ではこの弘道館の至善堂にて謹慎した。
Photo_20240623054401  しかし水戸藩の前藩主の子である慶喜が水戸にいることが、水戸藩士に担がれて新たな挑戦を引き起こしかねない懸念があったので、慶喜は3か月のみの至善堂滞在で、7月19日に駿河にむかった。
 まもなく10月初めには、藩内抗争の最後の激戦とされる弘道館の戦いが起こった。この戦いの背景と経過については、しばらく後で述べる。この激しい藩内戦争で、文館、武館、医学館など主要かつ重要な建物が焼失した。その後、藩内の行政改革で学校組織が再編され、小規模ではあったものの文館と武館が再建された。苦難を経てようやく教育活動が軌道に乗ろうとしていた矢先の明治5年(1871)維新政府の学制発令によって、弘道館は停止・閉館となり、30年余の歴史に幕を下ろしたのであった。

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水戸市街散策(3)

徳川慶喜と至善堂(上)Photo_20240622053701
 この弘道館の敷地面積は32,000坪で、わが国の藩校のなかで最大である。ちなみに2番目の福山藩誠之館(せいしかん)が23,700坪という。
 中心の「学校区」は、水戸城の大手門に向かい合う正門、庭園をはさんで建物が建ち、建物は主要部の「正庁」と、十間畳廊下を渡って、4間の「至善堂」とからなる。「正庁」を挟み、正面から見て右(北側)に文館、左側(南側)に武館があり、斉昭の「文武一致」に基づいた構成としている。
 Photo_20240622053801 この正庁は、学校御殿ともよばれる管理棟で、藩主臨席での試験や儀式が行われるもっとも格式ある施設である。
 正庁の入側と呼ばれる畳敷きの廊下の南縁側に面して、藩主以下の藩幹部立ち合いで行われる剣術試練の場「対試場」がある。
 現在は庭園となっているが、かつては至善堂の北側にあった文館では、講義室と、学力優秀と認められた「居学生」のための個室たる「居学寮」が63もあったという。学生たちがしずかに自学自習できるようにとの配慮であった。

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水戸市街散策(2)

徳川斉昭と弘道館
 この弘道館、そしてこの後訪れた偕楽園と、現代の水戸の代表的なスポットとなった場所は、ともに水戸藩主であった徳川斉昭(なりあき)の創建・造営によるものであった。
 徳川斉昭は、江戸時代後期の寛政12年(1800)3月水戸藩第7代藩主治紀(はるとし)の三男として江戸屋敷で生まれた。水戸徳川氏は御三家として参勤交代がなく、藩主は江戸常勤であった。徳川斉昭は、第8代藩主の兄斉脩(なりのぶ)早世のあと、文政12年(1829)30歳のとき水戸藩第9代藩主となった。この藩主就任の前後からすでに水戸藩内部では、守旧派とされる門閥派と斉昭を推す改革派との激しい内部抗争があった。Photo_20240621060101
 水戸藩は御三家の一角として、自藩のみならず日本国家全体に責任を感じる立場であり、当時は藩内には財政的不安があり、日本国家には対外的危機がせまり、水戸藩はなんらかの行動をとる必要があった。藩主となった斉昭は「天保の改革」と呼ばれるラディカルな藩政改革に取り組んだ。
 斉昭は、学問の師であった会澤正志斎、水戸学の重鎮藤田東湖等、彰考館の学者とともに、中・下層出自の藩士の登用、倹約の励行、武備の充実、全領知にわたる検地の実施、税制改革、寺社改革などを強力に推進した。
 そのための重要施策として、斉昭は藩校の建設に意欲を燃やした。天保4年(1833)初めて水戸に入ると、学校建設計画をはじめようとしたが、反改革派の強い抵抗と、折しも飢饉による財政困窮のため進展はできなかった。二代藩主光圀(みつくに)が『大日本史』の編集のために建設した彰考館がすでにあり、そこで藩士の教育は行われていたので、財政不足のなか新しい学校の必要はない、という意見も根強かった。
Photo_20240621060102  藤田東湖、会澤正志斎等の努力により、天保10年(1839)城内三ノ丸に校地を定め、そこに住居していた重臣たちに移転を命じ、ようやく天保12年(1841)3月斉昭41歳のとき、校舎が落成し開館式が施行された。ただ、このときは神道・儒教の手続きが未完で、「学制」も未定であったため、「仮開館」となっている。
 天保14年(1843)には、斉昭の意志から医学館が弘道館内に加えられた。また江戸小石川の水戸藩上屋敷のなかに「江戸弘道館」が開設され、江戸詰め藩士の子弟の教育が行われた。
 斉昭は、改革の一部として武備の充実・拡大に真剣に取り組み、寺院の釣鐘や仏像を没収して海防のための大砲の材料とし(毀鐘鋳砲)、廃寺や道端の地蔵の撤去までも行った。弘化元年(1844)鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の仏教弾圧事件などで仏教関係者たちの反発を買い、幕命により家督を嫡男の慶篤に譲った上に、強制隠居の身となった。水戸藩は門閥派の結城寅寿が実権を握って一時は専横を行なったが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって、2年後の弘化3年(1846年)に謹慎を解かれた後、斉昭は嘉永2年(1849年)に藩政関与が許された。
 そして仮開館から16年後の安政4年(1857)、斉昭の致仕・謹慎や江戸大地震などの苦難を乗り越えながら、ようやく弘道館の本開館を迎えた。

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水戸市街散策(1)

 私はこれまで首都圏にかなり長く住んでいたのに、東京の他には、神奈川と一部の埼玉にはなんどか散策したものの、千葉や茨城はほとんど行ったことがなかった。ごく最近になって広い千葉県を少しずつ歩き回っているが、まだまだ一部にとどまっている。
 茨城県は、つくばになんどか、日立市に少し、仕事で行った以外はほとんど知らない。そこで今回は、幕末期から注目を浴びた水戸に行きたいと思った。あいにく旅行の前に左膝を痛めてしまい、一時はどうなることかと思ったが、レンタサイクルという移動手段があると知って、未経験ながらも横浜市街、東京都心の歴史散策に続いて、水戸市散策もレンタルサイクルで行くこととした。
 朝から東京浅草の宿を出て、乗り継ぎがさほど良くない常磐線で水戸駅に着いたのは、すでに午前11時前であった。駅を降りて、観光案内所でアドバイスとマップをいただき、北口のレンタルサイクル貸出所で電動アシスト自転車を借りて、まずは水戸弘道館に向かった。Photo_20240620053701

弘道館 正門
 水戸駅からほぼ真北に坂道を登ると、水戸京成ホテルを過ぎてすぐに弘道館がある。
 最初に邂逅するのは「正門」である。
 これは天保12年(1841)の弘道館創建時に建てられたもので、本瓦葺四脚門という荘重な様式の総欅造りである。この門は、藩主が来館のときあるいは儀式のときのみ開いた門である。門柱には、明治元年(1868)の弘道館の戦いのときの弾痕が残っている。

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海上保安資料館横浜館 北朝鮮不審船戦闘(3)

 22時13分、不審船は巡視船と銃撃戦の末、突然爆発炎上を起こして、東シナ海沖の中国EEZ内で沈没した。不審船が自爆する瞬間まで、乗組員は巡視船に向けて自動小銃を発砲し続けた様子が映像に記録されている。その後の捜査で、爆発の直前に不審船から北朝鮮本国に「党よ、この子は永遠にあなたの忠臣になろう」「マンセー」とのメッセージを含んだ電波が発信されたことが判明しており、自爆したものと推測された。この事件で、日本側に3人の負傷者、北朝鮮側に15人の死者が出た。
1_20240619060201  この事件の後、沈没した不審船の船体および海底に散らばった遺留品は、平成14年(2002)9月に海中より回収され、鹿児島県の港に運び込まれ、鑑識による分析が行われた。その結果、「船は北朝鮮の工作船であり、遺体で回収された乗組員は北朝鮮の工作員である」と断定されたのである。Photo_20240619060301
 工作船は、「長漁3705」との銘板があり、全長30メートル、幅4.7メートル、総トン数44トン、速力33ノット、と漁船に比べて異常なまでの高速・高馬力と戦闘に対応するための鋭い船首形状を備え、常識的な漁船の船体とは大きく異なっており、はじめから特殊目的で建造されたものと思われた。さらに工作船のなかには、別の1隻の小型舟艇が格納されていて、それは全長11メートル、総トン数3トン、速力50ノットで、スウェーデン製と見込まれた。
 武器は、ロケットランチャー、無反動砲、二連装機銃、自動小銃、軽機関銃、手りゅう弾、など多数が搭載されていた。
 ある程度大型の漁船というものはあろうが、取った漁獲物を貯めおくように器はなく、代わりに怪しげな小型高速船を搭載しており、強力な武器が多種・多数搭載されていた。これはまぎれもなく重武装船である。
 さらに引き上げた回収物資をもとに捜索を展開した結果、この工作船は不法薬物(覚せい剤)の運搬(密輸)に使用されていて、それは日本の反社会勢力に販売され、その仲介をしていた北朝鮮系の人物は、日本に住み着いて朝鮮大学校の幹部を勤めていたことなどが判明した。さらに、工作員の不法出入国などにも利用されていた。北朝鮮は、国家という組織になっているがためにさまざまな追及を免れているが、やっていることの実際は、マフィアやヤクザとなんら異なることがないと言える。
Photo_20240619060401  海上自衛隊は海上警備行動こそ発動しなかったが、海上保安庁と連携して対応に当たった。一連の不審船事件は海上防衛の在り方にも一石を投じた。海上保安庁は今回の事件を教訓に、現場の海上保安官(乗組員)の生命保護のため巡視船艇の防弾化および相手船舶を安全な距離から停船させるための高機能・長射程の機関砲の搭載、船艇の高速化、海上警備における水産庁の漁業取締船との連携強化、航空機の輸送力アップなどを急速に進めることとなった。
 展示の説明を読んで、そして展示されている想定外に大きな本格的な軍事船舶である工作船を見て、なんとも重苦しい気持ちになる。こういう事件の内容や詳細は、マスコミはほとんど報道しないが、実はかなり深刻な国家間の軍事的衝突が現実に発生していて、海上保安庁や海上自衛隊が黙々と動いてくれているのである。とても教育的、広報的、啓発的な展示であると思う。

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海上保安資料館横浜館 北朝鮮不審船戦闘(2)

Photo_20240618060201  そして、16時13分から不審船の船尾にあると推定されるエンジンを破壊するために、警告放送の後に20mm機関砲による射撃を行った。しかし効果はなく、なおも不審船は逃走を続けた。16時58分「撃つぞ、船首を撃つから船首から離れろ」と警告の後、不審船の左舷側より20mm機関砲により、船首への射撃を行った。その後、不審船の右舷側から船首への威嚇射撃を行ったときに、発射された曳光弾が船首の甲板上のドラム缶に備蓄されていた予備燃料に命中して引火し、不審船に火災が発生した。これにより17時24分、不審船はようやく停船した。しかし30分ほどで不審船乗組員によって鎮火がなされ、南南西に向けて11ノットで逃走を再開した。Photo_20240618060202
 21時00分に、再び船体射撃を行ったところ、この射撃を受けて21時35分には不審船は再度停船したが、2分後には再度動き出した。
 逃走する方向には、10キロほど離れたところに無関係の中国の漁船団が多数操業していることがわかり、不審船はここに紛れ込むことを目論んでいると判断されたことから、SSTの到着を待たずに不審船を確保する必要が生じた。22時00分、逃走する不審船に対し巡視線が距離を取って監視し、右舷側と左舷側の両側から、サーチライトを照射しながら2隻の巡視船が不審船を挟撃、強行接舷し、小銃で武装した海上保安官の臨検要員の突入を試みた。その際、不審船に乗っていた複数の乗組員が軽機関銃と自動小銃による銃撃を、巡視船と海上保安官に対して開始してきた。これを受けて海上保安官は、正当防衛射撃を直ちに行った。対して不審船乗組員は機関砲や小火器を用いて執拗な攻撃を繰り返してきた。防弾の施されていない巡視船は、銃撃戦による被害が大きく、船橋を100発以上の銃弾に貫通され、乗組員3名が負傷した。
 銃撃戦が長引いた理由としては、海上保安庁は警察機関の一つであり、該船(取締り対象の船)の撃沈や乗員の殺傷による無力化ではなく、拿捕・検挙を目的とするため、20ミリ機関砲が持つ本来の3,000発/分の発射速度を500発/分に制限しており、弾薬も警告射撃のときに被疑者に光で警告する効果を期待して曳光弾と普通弾を保有しているが、炸薬を充填した榴弾を保有していないことがあった。

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海上保安資料館横浜館 北朝鮮不審船戦闘(1)

 横浜市市街散策のとき、「赤れんがパーク」の一角に「海上保安資料館横浜館」という展示館があり、2001年に発生した北朝鮮工作船の不法侵入事件にかんする展示を行っていたので閲覧した。
1_20240617072401  これは平成13年(2001)12月22日の早朝から同日夜までに起こった領海不法侵入事件である。
 平成13年12月18日、在日米軍から海上保安庁に不審船の情報があったのを受けて、北朝鮮にかんする無線の傍受を各通信所で行ったところ、19日に喜界島通信所で不審な通信電波を捕捉した。それにより海上自衛隊機が喜界島近辺海域を哨戒した。
 12月21日夕方、対潜哨戒機が九州南西海域(奄美大島の北北西150キロ)において、漁船に似た不審船を発見した。防衛省は撮影した画像を解析し、その船が工作船の可能性が高いと判定した。内閣関係部門と協議のうえ、政府は特殊警備隊(SST)の投入を検討した。
 通報を受けた海上保安庁は、近隣の海上保安部に捜査本部を設置し、捜査を開始した。政府からは、海上自衛隊の特別警備隊(SBU)に出動待機命令が発令された。2_20240617072501
22日6時20分、奄美大島沖で西進する不審船の船影を確認、20分後不審船に対して停船命令を発した。不審船はこれを無視し逃走を続けたため、音声と無線、朝鮮語を含む多言語さらに発煙筒などで重ねて停船命令を伝えた。しかし不審船は逃走を続け、午後3時ころにはEEZの日中中間線を超えてなお西進を続けた。
 この時点で「漁業法違反容疑(立ち入り検査忌避)」が成立したため、巡視船は「停船しなければ銃撃を行う」という意味の旗旒信号(きりゅうしんごう)をマストに掲揚し、多言語で射撃警告を行った後、逃走防止のため、不審船の上空および海面への威嚇射撃を行った。以後、45分間にわたって断続的に計5回、段階的に警告度を高めつつ威嚇射撃を実施したものの、不審船はいずれも無視して逃走を続けた。

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横浜市街散策(4)

みなとみらいからベイクオーターへ
Photo_20240616082901  日本丸に隣接するさくら通りを北東に上がるとパシフィコ横浜に行き当たる。しかし自転車ではこれ以上進めないので、左折して国際大通りを北西に進み、いちょう通りを南西に下る。自転車だとわずかの間に横浜美術館に着く。
 横浜美術館は、鎌倉に住んでいたころ美術館会員となり、かなり頻繁に訪れたとても懐かしいところである。しかしここ数年間老朽化の修復工事で閉館していたという。思えば私が1980年代半ばに鎌倉に移転の後、平成元年(1989)新規開館した美術館であった。美術館は老朽化したが、私も老朽化するわけだ。
 美術館のファサードなど外観は修復前と違いはないが、美術館の周囲の景観はかなり変化した。私がよく訪問していたころは、美術館の前からはみなとみらいの超現代的な高層ビル群を眺めることができていた。しかし現在では、美術館の真正面に大きな商業集合ビルが建って、景観はそれなりに美しいものの、眺望はない。そもそも横浜市街全体に、高層ビルや超高層ビルがかなり林立するようになっている。大都市は、どんどん変わる。Photo_20240616083001
 横浜美術館から、さらにいちょう通りを下り、みなとみらい大通りで右折してJR横浜駅に向かう。
 みなとみらい大通りを北上して帷子川(かたびらがわ)に架かるみなとみらい大橋を渡ると、横浜ベイクオーターという飲食街スポットがある。自転車散策で少し疲れ喉が渇いたし、雲が厚くなっていまにも雨がきそうなので、この一角のスイーツのお店に入って甘い洋菓子をいただいた。
 旅行などで動き回ったとき、珈琲やスイーツはリフレッシュにとても有効なことを最近実感している。

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横浜市街散策(3)

汽車道と日本丸
Photo_20240615060001  「赤れんがパーク」から西方向に、水上に橋を架けて鉄道線路を敷いた「汽車道」が桜木町方面につながっている。旧「新横浜港駅」と桜木町駅を結んでいた汽車路線の跡である。平成9年(1997)遊歩道として整備された。
 この道から見上げるとロープウエイが走り、足元には過去の遺物の線路と、その空には未来のイメージのロープウエイと、そこはかとなくシュールな雰囲気がある。
その整備からすでに四半世紀が過ぎ、今は床板の入替補修工事の最中であった。
 こうして横浜も、少しご無沙汰しているうちにどんどん発展・進化して、さらに老朽化していく。いや、私自身が自分で思うより年月を経ているのかも知れない。
 汽車道が終わる「日本丸交差点」から北西に折れると、まもなく「帆船日本丸」がある。日本丸(にっぽんまる)は、日本の航海士養成のための大型練習帆船であった。Photo_20240615060002
 神戸市の川崎造船所で昭和5年(1930)建造された。その美しい姿から「太平洋の白鳥」「海の貴婦人」などと呼ばれ、約半世紀にわたり活躍した。昭和59年(1984)引退し、航海練習船としての役割は日本丸2世が引き継いだ。平成29年(2017)国の重要文化財に指定されている。
 進水の後、太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、さきの大戦が激化した昭和18年(1943)には帆装が取り外され、大阪湾や瀬戸内海で石炭などの輸送に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として25,400人の引揚者を輸送し、遺骨収集にも携わった。昭和25年(1950)にはじまった朝鮮戦争では米軍人や韓国人避難民の輸送など特殊輸送任務にも従事した。昭和27年(1952)帆装の再設置が行われ、訓練帆船に復帰した。翌年春にはハワイに向け、戦後初の遠洋航海を行った。その後昭和49年(1974)以降は遠洋航海の規模を縮小したが、「アメリカ建国200年祭」の記念行事「オペレーション・セール」に参加するため、昭和51年(1976)4月日本を出帆し、ニューヨークの北東ニューポートに6月末到着、独立記念日にニューヨークでアメリカの「イーグル」を先頭に他の大型帆船20隻と共に航走した。
 昭和59年(1984)の退役までに約183万kmを航海し、約11,500名の実習生を育てた。
 この日本丸も、今回私は自転車随伴のため、見学を諦めた。

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横浜市街散策(2)

赤レンガ倉庫群
Photo_20240614060301  横浜港の海沿いの道路を西にとって返すと、赤レンガ倉庫群に着く。ここは、私が鎌倉から関西に引っ越したころになって、観光地として整備されたところである。
 明治政府が明治末期から大正期に、横浜新港埠頭建設の一環として横浜税関新港埠頭保税倉庫として建設した。保税倉庫としての役割は平成元年(1989)までに終わり、その後しばらく放置されていた。平成14年(2002)になって「横浜赤レンガ倉庫」として、1号館は展示スペース・ホールなどの文化施設、2号館は商業施設に生まれ変わり、赤レンガ倉庫の付近一帯は広場と公園を備える「赤れんがパーク」として整備された。
Photo_20240614060401  明治も中後期に入ると、江戸時代安政期(1950年代)開港から半世紀を経て、港湾の近代化への再整備が必要となった。再整備は、明治22年(1889)からの第一期で大桟橋、防波堤が、明治32年(1899)の第二期で横浜税関施設の拡張が行われた。赤レンガ倉庫はこの第二期前半の埋め立て工事の後、第二期後半に陸上施設、すなわち上屋、倉庫、鉄道、道路などの整備の一環として建設された。
 この赤レンガ倉庫の基礎工事、および地下構造がわかる遺構が残っている。
 かくてここは横浜港の新港地区であり、海運の要であった。Photo_20240614060402
 ここには「新横浜港駅」という国鉄の駅があった。明治44年(1911)横浜税関構内の荷扱所として貨物駅がつくられ、大正9年(1920)「新横浜港駅」となり、乗客が乗り降りし、東京駅から汽船連絡列車が乗り入れるようなった。列車はその後「岸壁列車」などと呼ばれて親しまれた。
 関東大震災の復興期、昭和3年(1928)当時の花形外航ターミナルにそって旧「新横浜港駅」のプラットホームが設けられ、華やかな海外航路時代を迎えた。「赤れんがパーク」の休憩所として保存再利用するにあたり、傷んでいた上屋を新材料で復元した。

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