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東大阪散策 司馬遼太郎記念館

  近鉄奈良線で石切駅から八戸ノ里駅に向かう。駅の数はあっても同じ市内、10分あまりの行程である。八戸ノ里駅に降り立つと、道路の脇や地面上に「司馬遼太郎記念館」への行き先標示がたくさん設置されている。おかげで迷うことなく約10分弱歩いて、記念館に到着できた。Photo
  ここは、作家司馬遼太郎の自宅があり、隣接して安藤忠男設計による記念館がある。われわれ一般人が入館できるのは、記念館だけである。
  自然の植生を尊重したという広い庭園を進み、安藤忠男らしいコンクリート打ち放ちの記念館の外側通路を歩き、入り口に着く。階高の高い円筒型の特徴ある建物である。

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  司馬遼太郎は、大正12年(1923)大阪市に生れたが、乳児脚気を煩い、3歳まで奈良県北葛城郡当麻町の母の実家に預けられた。小学校から大阪市に戻り、旧制大阪外国語学校に入学した。中学時代から本に没頭し、そのなかで世界地図に出てくる奇妙な蒙古語由来の地名に興味をもったことが、外国語学校で蒙古語を専攻した動機であった、と館内の紹介ビデオで説明があった。
  昭和18年(1943)学徒出陣のため大阪外国語学校を仮卒業し、兵庫県加東郡河合村(現在の小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊、満州の陸軍戦車学校を経て、満州牡丹江にいた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属された。昭和20年(1945)本土決戦のためとして内地に帰還し、栃木県佐野市で陸軍少尉として終戦を迎えた。この戦争体験が、強い「反陸軍」意識を醸成して、以後の司馬遼太郎に大きく影響を与えたという。
 戦後は、在日朝鮮人経営の新世界新聞社を経た後、昭和23年(1948)から産経新聞社の記者となった。このころから30歳をすぎたら作家になろう、と決心したと本人は言っていたそうである。
  昭和30年(1955)初めての作品『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を、福田定一の本名で発表した。翌昭和31年からは司馬遼太郎のペンネームを使用して小説を発表するようになった。昭和34年(1959)同じ産経新聞社に記者として勤務していた松見みどりと結婚した。そして昭和35年(1960)小説「梟の城」で直木賞を受賞したことをきっかけに産経新聞社を退社し、以後作家活動に専念するようになった。
 以後平成8年(1996)腹部大動脈瘤破裂のため72歳で急死するまで、華々しい作家活動を精力的に続けた。
 記念館には、4万冊にのぼる蔵書のうち約半数を収蔵するという。壁やショーケースに展示されている原稿などを垣間見ても、その筆力、読者の心に迫ってくる表現力のすごさには、あらためて敬服する。
 司馬遼太郎という人の存在は、わが国ではとくに歴史および歴史学の一般読者への普及と洗脳に絶大な影響があった。司馬遼太郎は、圧倒的な文章力・表現力により、日本の歴史を広く多数の読者に親しみをもって伝達したという偉大な業績がある。その一方で、彼がいかに原典まで適宜遡って丁寧に考察したといっても、やはり学問的アプローチとは異なり、他の研究者のコメントを聴いて再考したり修正したりする機会がなかったがため、どうしても独特、率直に言えば独善的となってしまう。敢えて単純化すると、司馬遼太郎の「歴史」は、少数の「偉大な人物」がその特異な能力によってほとんど単独で歴史を切り拓いたという歴史観である。その結果、歴史を良い方向に進めた「善き指導者」と、悪い方向に導いた「悪い指導者」とがいた、という単純な構図となりがちである。現実の歴史はさほど単純ではなく、ひとりの指導者の偉大な業績の背景には、実にさまざまな要因があるのだが、そういう部分はわかりにくいためか表現から除外される傾向がある。そういう意味で、功罪ともに偉大な作家ではある。
 それにしても、高い関心と強い興味をベースに、厖大なエネルギーを傾注した司馬遼太郎の文学の業績は、やはり偉大とおもわざるを得ない。
 半日以上ゆっくり過ごすことのできる記念館である。

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飯沼二郎『風土と歴史』岩波新書

  半世紀前の新書であり、日本史の文献のなかに引用文献のひとつとして記されていたのを、古書として購入した。
  食用可能な一部の植物が、本来はその植物が拡散・増殖することを求めて、人間を種子を運ぶ媒体として利用したことから、人間の居住空間に近いところに自生するようになったことが食用植物の起源であり、そこから人間がわずかずつ栽培に向かっていったことが農業のはじまりである、という非常に単純ながらも興味深い説明がある。その農業活動が、雨量と気温を主要な指標とする風土の多様性によって、いかにヴァラエティを蓄積してきたか、人間の営みがそれを発展させてきたかの解説がある。私のような農業にまったくの門外漢であっても、とてもよくわかる優れた解説書である。
  著者は農業経済学者であり、活動した時代背景もあって、マルクス主義や社会主義に大きな期待を持つ一方で、資本主義を強く否定している。独立後のインドがいまだに農業の改革を行い得ない原因を、資本主義とイギリスの植民地政策に帰しているが、これは宗教・伝統・文化の問題と政治の問題との誤解にもとづく混交であり、いまでは説得性がない。まあ、著者の生きた時代を考えれば、いたしかたなかったのだろう。
  私は日本史を研究する立場から、農業にかかわる記述につねに接する機会がある。そのための基礎教材としては、農業技術とその歴史的経緯に関するかぎり、とても優れた書である。

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東大阪散策 石切劔箭神社 (4)

箭神社本殿と御神劔木
 絵馬殿をくぐり、少し参道を歩き大鳥居をくぐると、真正面に本殿がある。その向かって左手に大きな御神木が聳える。本殿前には、有名な御百度参りの石があり、数名の参拝者が御百度参りをしていた。この御百度参りでも全国的に有名である。

Photo 石切劔箭神社は、『日本三代実録』に「貞観7年(865)9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下を授く」との記述があり、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とある。宮山の地にあった祭祀の社は、いつの頃か現上之社の場所に遷され、さらに明治38年(1905)現在の本社本殿に合祀された。上之社のあった土地は「奥の院」として引き続き信仰を集め、再興の気運の高まりを受けて、昭和7年(1932)に解体保存されていた本社の旧本殿を上之社に移し、昭和47年(1972)に往古の姿を取り戻したという。
 この社の宮司は、代々木積(こづみ)家が勤めている。木積家は、古代に天皇家に仕えた物部氏の子孫とされた穂積家の系譜を持つとされている。
 石切劔箭神社の御祭神は饒速日命(にぎはやのみこと)である。物部氏は饒速日命の子孫とされ、その子孫に連なる穂積氏、さらにその系譜をもつ木積氏が御社をまもる、ということである。
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 饒速日命は、『日本書紀』によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。当時大和国には、鳥見(登美:とみ)という一族がいて、やがて鳥見一族が崇拝する神となった饒速日命と、その神子である可美真手命(うましまでのみこと)の二柱がこの石切劔箭神社に祀られることとなった。
 本殿にお参りしたあと、摂社・支社の穂積神霊社と、ひとつだけ願い事を叶えていただけるという一願成霊尊、そして江戸時代後期に飢饉に苦しむ民に代わって小堀代官に命を懸けて直訴して処刑され、後に小堀家によってこの社に祀られたと伝えるこの地の庄屋を祀る乾明神社とをお参りした。

 

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東大阪散策 石切劔箭神社 (3)

石切劔箭神社絵馬殿と大鳥居
Photo  大鳥居の南側には「絵馬殿」という楼門がある。正面からみて右側には剣をもつ神像が、左側には弓矢をもつ神像が、それぞれ祀られている。神像のすぐとなり上方に大きな額が掲げられている。そこには、大正7年(1918)瘰癧(るいれき)と診断された男性が、ここ石切劔箭神社の大神に祈願して御霊験により快癒したとの事跡が記されている。瘰癧は、結核菌によって頸部などに発生するリンパ腫で、治療は簡単ではないが、この御社は「でんぼの神様」とも呼ばれ、腫れ物の快癒を祈願することでも親しまれている。
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 「石切」という名前の由来にどう関係するのか、私にはよくわからないが、この石切劔箭神社には、御神刀として「石切丸」という名刀が奉納されている、という。河内有成あるいは三条有成共呼ばれる刀匠が鍛えた平安時代の刀だと伝える。平安時代に鍛造されたのち、戦火や火災によって焼け身となり、それを焼き直した「再刀」であるという。現代の金属工学からみると不思議だろうが、日本の刀は古い時代に製造されたものほど、性能が優れていると信じられてきた。鎌倉時代の名刀が多いなか、平安時代の刀というのだから、当然名刀なのだろう。
 この門をくぐると、正面に大鳥居が見え、その下から本殿が見える。

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東大阪散策 石切劔箭神社 (2)

石切参道商店街
 上之社を降りて、近鉄奈良線の線路をくぐると、石切参道商店街の入り口に着く。ここから石切劔箭神社の下之社すなわち本社へは、ほぼゆるやかに連続する下り坂となっている。高齢者のための杖が無料で貸し出されている。

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 入り口近くの商店街の通りは、ところどころ一般民家もあり、また休業中の店もあるようだ。それにしても、たったひとつの神社がこれだけの多数のお店を支えているというのには、いささか驚きを感じる。
 途中、和菓子屋さんでヨモギ餅をいただいた。店頭で食べることにしたところ、わざわざ椅子を出していただき、お茶までごちそうになった。店員さんのこのようなちょっとした気遣いも、私たちには心地よく、町の印象がとてもよくなる。
 ゆっくり10分余りを歩いて、御社の鳥居に着いた。

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東大阪散策 石切劔箭神社 (1)

 東大阪市は、大阪府下で大阪市・堺市に次いで3番目に大きな市であり、人口は50万人にのぼる。こんな巨大な市になったのは、昭和42年(1967) 中河内の3市であった布施市・河内市・枚岡市が合併してひとつの市となったことによるが、西は大阪市に東は奈良県に隣接する、地域的ひろがりとしても大きな市である。まずは、近鉄奈良線石切駅を降りて、東側に歩き、石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)の上之社を訪れた。

石切劔箭神社上之社
Photo 近鉄石切駅を降り立って、改札口の駅員さんに「この付近で観光地はどこですか」と訪ねたが、石切劔箭神社しかない、という。観光案内所もない。駅から少し南に下ると、途中に案内所という看板の小さな建物があるが、これは最寄りのホテルが運営するもので、しかも午前中のみの営業だという。観光地としては、さほどやるきがない土地柄らしい。
Photo_2  気を取り直して、小さなガードで近鉄奈良線の線路をくぐり、線路の東側にでる。道で行き会わせた上品なおばさんに、石切劔箭神社上之社に行く道を聴くことができた。親切で上品なおばさんのお蔭で、石切の印象が俄然改善した。10分ほどゆっくり坂をのぼると、鳥居があり、鳥居下から参道の長い石段がある。
  少し長い石段をのぼると、真正面に本殿がある。大きくはないが存在感のある上品なつくりである。神官の方と行き会わせて、挨拶した。この方も感じのよい方で、暑い日なので扇風機と椅子がある休憩所はいかがですか? と言っていただいた。

Photo_3  本殿に参拝したあと、休憩所でひとやすみして、今度は左手から上る摂社・末社を訪れた。「御礼池」という小さな池がある。石切劔箭神社に祈願をして、満貫成就したあかつきには、この御礼池にきて、ちいさな陶器製の「御礼亀」を池に放つと、御礼亀が本人に成り代わっていつまでも静かに御礼のお参りをしてくれる、という。Photo_4
  御礼池のとなりには、婦道神社というちいさな御社がある。ここには弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が祀られている。この弟橘姫命は、日本武尊の妃である。景行天皇の御代、日本武尊が東国の平定に向かったとき、相模国の海上で暴風雨に逢われたとき、妃は「さねさし 相模の小野に燃ゆる火の 火中にた立ちて問ひし君はも」と歌って、船上より身を投げ日本武尊の安全を護ったと伝える。自らを顧みず夫に献身された弟橘姫命を、日本の婦道の鑑とするためここに祀ったと説明がある。

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「バベルの塔」展 国立国際美術館 (4)

バベルの塔
  1569年、ブリューゲルは「バベルの塔」という作品を発表した。ブリューゲルは同じテーマで3つの作品を創作したと伝える。そのうち最初のものは残されていないが、あとのふたつはそれぞれ異なる美術館に収蔵されている。そのうちのひとつが今回展示されているボイマンス美術館所蔵のものである。

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   約60cm×75cmの板に油彩で描いた作品で、現代のアートに比べるとむしろ小型の作品にみえる。しかし近づいてじっくり眺めると、その描き込みの詳細で繊細で緻密なことに驚嘆する。さほど大きくない画面の下方に、どっしりした地面と海面が描かれ、上方には地平線と水平線を超えて無限にひろがる空が描かれる。その画面の中央にらせん状に登り詰めるレンガ造りの巨大な建造物があり、その建造物の途中に雲がかかっていて、この建造物の尋常ならざる壮大さを表現する。ここまではまだ見るものにとっても想定内と言えるだろう。
 しかし、近づいてまず地面をみると、古代ではないが16世紀ころらしい村の農耕の様子が丁寧に描かれ、耕作に励む農夫の姿もある。ヒトは大きさがわずかに2~3ミリ程度だと思うが、丁寧かつ正確に描かれている。

  建物は建設の途中で、画面左手には、レンガが地上からカゴに載せられ、ロープでつり上げられ、それを受け取る上層階の作業員がいる。その横には、漆喰を同じようにつり上げる様子が描かれ、一部その漆喰がぶちまけられたのか、体中まっしろに染まってしまった作業員もいる。画面中央近い建造物の正面付近には、ステンドグラスがはめられた教会のような部屋があり、そこに向かって大勢の人たちが列をつくって入場しようとしている。
  画面右手下方には港の桟橋があり、多数の船が行き交っている。それらのすべての要素に、多数の働くひとびとの様子が、ごく小さくではあるが、とても丁寧かつ精緻に描かれている。展示会場には、この絵画作品の近くに、この絵を10倍程度に拡大した写真の一部が展示されているが、いかに細かく、小さく、しかし正確・精緻に細部が描かれているのかがよくわかる。
  これだけ微細で詳細で緻密な絵画を創作した、その動機・支えたエネルギーの要因はなんだったのだろう、と思ってしまう。
  たしかに造形芸術としてこの絵が価値があるだろうし、作品を創作した技量も驚嘆すべきものがあるが、それ以上にこのような大変な作品をブリューゲルに造らしめたものは何であったのかと考えてしまう。その厖大な情熱の源は、宗教なのか、人間の行いへの思いなのか、人間の運命への感慨なのか、絵画技術の極限への挑戦なのか。
  展覧会場に来るまでは、私はさほど高い関心もなかったが、こうしてブリューゲルの作品を実際に目前に眺めてみて、これまで経験した美術作品に対する感銘と少しちがうタイプの強い感銘を経験した。
 今年は少し前に、神戸市立博物館で天正遣欧少年使節に関わるヨーロッパの美術を紹介した「遙かなるルネサンス」という展覧会を鑑賞した。ほぼ同じ時期なので、私個人としてはその意味でも感慨があった。

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「バベルの塔」展 国立国際美術館 (3)

ピーテル・ブリューゲルの登場
  おそらく1525-30年のころ、アントワープ近郊あるいはブレダ近くのブリューゲルという街で、ピーテル・ブリューゲルは誕生したらしい。伝記学者によると、彼は農民の出身というより、人文主義者たちと交流があった都市民の知識階層の出自であるという。
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  1551年にアントワープの画家組合=ギルドであった聖ルカ組合にピーテル・ブリューゲルという名前で登録されているのが、今に残る彼の軌跡の初出である。宮廷画家であったピーテル・クック・ファン・アールストやアントワープの版画業者ヒエロニムス・コックのもとで修行を積み、数年間イタリアに渡ってイタリア・ルネサンスの息吹を学んだという。
 1563年、ブリューゲルはピーテル・クックの娘と結婚し、ブリュセルに移り住んだ。彼の主な作品は、このブリュセルで創作されることになる。

Photo_2  「大きな魚は小さな魚を食う」(1572年ころ) という作品がある。これはいわゆる弱肉強食を表現した寓意画である。ヒエロニムス・ボスが始めた、寓意的で部分的にはきわめて緻密で詳細な表現が随所に見られる。
  彼は版画もたくさん創作している。ほとんどの作品では、下絵を創作して専門の版画業者に版木をつくらせ、版画として販売したのだが、残るうちで唯一、版画専門家に頼らずすべて自分で彫版したという作品が「野うさぎ狩り」(1569年)である。エッチングの作品で、こまかい線のそれぞれに周到な設計が感じられる繊細で緻密な版画である。

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16世紀ネーデルラントの芸術 (2)

奇想の画家ヒエロニムス・ボス
 オランダ南部にスヘルトーヘンボスという中世から交易・芸術で繁栄した街があった。宗教革命ののちカソリック教区に指定されたが,八十年戦争(オランダ独立戦争)を経て1629年に北部七州が主導権を握るオランダの一部となり、さらに1792年にはフランス革命軍の侵攻を受けフランス帝国の支配下になった。ネーデルラント連合王国にもどったのは1815年のことである。
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  スヘルトーヘンボスという街はそのように複雑な歴史をもつ地域だが、まだカソリック教区であったころ、1450年ころに父・兄・祖父・叔父たちが画家という一家にヒエロニムス・ボスは生れた。父のもとで画家としての基礎的な素養を積み、富裕な家の娘と結婚したことで彼は王侯貴族からの注文を得るチャンスを得たという。
  聖書にもとづく宗教絵画をベースにしつつ、現代絵画に通じるような奇抜なシュールレアリズム的な表現や、皮肉・批評を導入して人気画家となり、多数の作品を創作したと伝える。しかし16世紀宗教改革の偶像破壊運動によりその多数が失われ、現在はわずかに30点に満たない作品のみが残っているという。
  「放浪者(行商人)」(1500年ころ)という作品がある。70×70cmほどの、さほど大きな作品ではないが、大きな構図のなかに、部分的にきわめて精緻で詳細な表現を取り入れている。猫皮の袋の販売や金物修理などを営む貧しい行商人が、あやしい娼館から出てきて、なにやら後ろ髪を惹かれるような躊躇の表情を示している。彼を木の枝にとまる梟が冷たく見つめている。梟は悪徳と智恵の象徴であるという。

Photo_2  もうひとつ「聖クリストフォロス」(1500年ころ)という作品がある。クリストフォロスは、もとはレプロブスという名のローマの青年であった。ある日小さな男の子がレプロブスに向かって「私を背負って川を渡してほしい」と頼んだ。子供が小さかったので引き受けたレプロブスだったが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり、レプロブスは倒れそうになった。あまりの重さに男の子がただものでないことに気づいたレプロブスは、丁重にその名前をたずねると、男の子は自らがイエス・キリストであることを明かした。イエスは全世界の人々の罪を背負っているため重かったのであった。川を渡りきったところでイエスはレプロブスを祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名乗るよう命じた、という伝説にもとづいた絵である。
  いずれも非常に小さく精緻な説明的な絵を、主題の周辺にたくさん丁寧に描きこむのが特徴で、この手法が後のブリューゲルなどに伝えられ、発展することになった。
  ヒエロニムス・ボスには、この他にも「樹木人間」(1600年ころ)という版画が展示されていた。

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「バベルの塔」展 国立国際美術館 (1)

  私はこれまでルネセンス期の美術には特段の関心がなかったが、やはりブリューゲルという存在は気になるということで、今回暑いなかを中之島の国立国際美術館に出かけた。
会場は意外に人出が多く、さほどのんびりと鑑賞できる雰囲気でもなかった。私の知識や推測を超えて、ブリューゲルは非常に人気が高いようだ。


16世紀ネーデルラントの芸術
  今回の展覧会は、16世紀のネーデルラントの美術である。ネーデルラントとは「低い地」という意味で、ちょうどプロテスタントのオランダとカソリックのベルギーの領域に一致する。

Photo  展示冒頭に「四大ラテン教父 聖グレゴリウス、聖ヒエロニムス、聖アンプロシウス、聖アウグスティヌス」の小型の木彫刻がある。この作品はアルント・ファン・ズヴォレと推定されているものの、この時期の彫刻の多くは、作者が記銘・同定されていないことと、近代に一連の彫刻あるいはひと繋がりであった作品が、適当に切り離されバラバラに離散されて売却されたりしたため、業界の評価が高くならなかったという。しかし作品を直接眺めてみると、高さ70cmほどの小さな木彫ながら顔の表情の表現も丁寧で、性格や人格がわかるような気がする。服装の優雅なひだも美しい。Photo_3
  現在のオランダ西部地域は、かつてホラント地方と呼ばれ、アムステルダム・ロッテルダム・ハーグなど通商・経済の主要地がある地域である。16世紀に、ルカス・ファン・レイデンというレイデン生れの画家・彫刻家がいた。宗教画家であるが、すでに遠くイタリアのルネサンスの影響なのか、世俗的な興味深い作品がある。「ヨセフの衣服を見せるポテパルの妻」(1553年)という作品がある。召使のヨセフに不倫を迫って拒絶され、逆恨みしてヨセフが襲ってきた、とヨセフの衣服を示して夫に訴える妻を描く。こうなると日本の歌舞伎でいう「世話物」の世界である。
Photo_4  もう少し南、現在のベルギー南部に生れたヨアキム・パティニールという画家がいた。北方ルネサンス風景画の先駆者とされるひとで、今回は「ソドムとゴモラの滅亡がある風景」(1520年ころ)という作品が展示されている。神の教えを蔑ろにして奔放で紊乱な性習慣を生きた人びとが住む町が、神の怒りで滅亡するという旧約聖書「創世記」の神話だが、ここでは主人公である罪を犯した人びとが画面右下隅に小さく描かれるのみで、画面の大部分を風景が占めている。宗教画から風景画へ脱皮した絵画であるといわれている。

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