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2017年の紅葉見物(1)

 今年はかなり暑い真夏のあと、短い秋がすぎて急速に寒くなった。この気候の推移から、なんとなく紅葉は期待できそうだと思っていた。ところが11月に入って葉が色づくころから雨の多い秋となった。予定した紅葉見物の日程が相次いで雨天となり、ともかく雨を逃れて紅葉を見たいと出かけたのが今回であった。

青蓮院3

  阪急河原町駅から、四条通りを東に歩き、祇園に八坂神社を抜けて円山公園に出て、知恩院の前を北に少し上ると青蓮院である。
 入り口には、天然記念物のクスノキの大木が2本聳える。一見はさほど大きそうには見えない門構えをくぐり、寺院のなかに入る。
 青蓮院は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡寺院のひとつである。当初は比叡山山頂の東塔南谷にあった房のひとつであった。平安末期に行玄大僧正が京都に院の御所に準じて殿舎を建てられ住居とした。久安6年(1150)最勝寺経供養の日を祈祷により晴天にしたことにより、この住房を皇后の祈願寺として、青蓮院と称されることとなった。行玄大僧正は藤原師実の子であったが、そのあとも明治にいたるまで門主は皇族あるいは五摂家の子弟に限られた。

1 室町時代に第17世門主となった尊圓親王は、書道にとくに秀でて和風と唐風を融合した日本独自の書風を樹立し、これが「青蓮院流」として後世に伝えられた。私たちが目にできる多くの古文書の書風も、基本的にはこの書法を基準としている。
 応仁の乱では兵火に逢ったが、徳川幕府は殿舎の造営に尽力し、17世紀に東福門院の旧殿を移して宸殿とした。18世紀後半には、天明の皇居火災のときこの青蓮院を仮御所とされ、ここ境内の小御所に滞在された。
2
 境内は外から想像するよりもはるかに広大で、仮御所として用いられただけあってか、洗練された美にあふれた空間である。相阿弥・小堀遠州・大森有斐がそれぞれ作庭したという庭園も素晴らしい。
 肝心の紅葉だが、期待していたほどには真っ赤な紅葉が多くはなかった。庭園の手入れをしているらしい人に、家人が訪ねてみたが、今年はちょうど今くらいが盛りでしょうとのことであった。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館(7)

神の領域
Photo_2 小波瀬と江戸を往復しつつ老躯にむち打ち、なおエネルギッシュに創作に励んでいた北斎は、80歳代の後半になっても新しい表現を追求し続けた。「流水に鴨図」(弘化4年1847)では、流水は大胆に様式化を遂げ、表現に余分が一切無くなり、とても簡素で、それだけに一層鮮烈な表現を達成している。
 90歳にあと少しという嘉永2年4月に亡くなるが、その年の正月に、絶筆ともいうべき作品群のうち2点が展示されている。そのひとつが「雪中虎図」(嘉永2年1月1849)である。
死期の近づいていることを明確に知りながら、なお前を向き上を目指して、まるで龍のような手足で力強く逞しく突き進もうとする北斎自身が、ストレートに表現されている。
 そしてもうひとつの作品が「富士越龍図」(嘉永2年1月1849)である。北斎が終生愛してやまなかった富士から火葬を連想させる黒々した煙が立ち上り、その煙のなかに北斎の魂たる龍が昇天して行く。北斎は「人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原」という辞世を残しているが、私はこの絵こそが北斎の真の辞世だと思っている。
Photo_3
 展覧会の会期末が迫っていたからなのか、それとも北斎の人気がやはりずば抜けて高すぎるのか、大変な混雑のなかで、「恐れ入りますが大変混雑しています。あと少し早めにお進みいただくよう、お願い申し上げます。」と何度も係員に急き立てられ、多くの作品を群衆のわずかな隙間越し、頭越しに鑑賞するという、まれにしか体験しないような厳しい鑑賞であった。それにもかかわらず、やはり思い切って鑑賞に出かけて、待ち行列に耐えて、鑑賞を達成したことを、全く後悔なく幸福であった、と思う。
 卓越した基本的な技能を備え、人並み優れた長寿に恵まれ、それでいて常人の何倍もの苦労を重ねた上に到達した葛飾北斎の芸術は、際立って独創的で完成度が高く、自由奔放で、エネルギッシュで、さらに畏まらずのびやかで、遊びがあり明るくて、とても楽しい芸術であることを、何度鑑賞しても感じることができる。いかに天才とは言え、真剣に集中して禁欲的に全身全霊を打ち込んでこその見事な出来栄えなのに、そうしたことに伴いがちな重さ・堅苦しさ・近寄りがたさなどがまったく感じられず、そこはかとなく余裕・ユーモア・ホスピタリティ・やさしさが感じられる。やはり希代の芸術家である。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館(6)

想像の世界と北斎の周辺(後)
 北斎は80歳を超えた最晩年にいたって、天保の改革による理不尽ともいうべき質素倹約令で仕事が激減したり、放蕩者であった孫の行状で悩んだり、脳卒中あるいは尿路結石の持病が悪化したり、と経済的にも身体的にも精神的にも苦労の多い老後をすごしていたらしい。

1 そんななか、信濃国小布施の豪商高井鴻山の招聘に応じて北斎は娘のお栄=葛飾応為とともに小布施を訪れ、そこで逗留して画業に励んだのであった。
 85歳のころ小布施に半年ほど逗留した北斎は、東町祭屋台の天井絵『龍図』と『鳳凰図』を描いた。小布施ではかつて夏祭りの際に、各町が一基ずつ祭屋台を巡行させていた。このときの『鳳凰図』の下絵が、今回展示されている。「鳳凰図天井絵彩色下絵」である。暗い藍を基調にした背景に鮮やかな朱色で彩られた鳳凰が描かれる。
翌年、再び小布施を訪れた北斎は上町祭屋台に取り組み、濤図(なみず)『男浪(おなみ)』と『女浪(めなみ)』を描いた。小布施町の外では初めての公開となった「濤図(なみず)」(弘化2年1845)である。
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 ここで濃い青色つまり群青色の絵の具として当時最先端の画材たるプルシアンブルーを用い、薄い青には顔彩の藍を、そして薄い緑色には緑青(ろくしょう)を用いている。渦の奥の波をプルシアンブルーの濃い群青で、前面の波を藍の薄い青で、さらに手前の波を緑青の薄い緑で描くことにより、色の明るさと濃度の階層の使い分けで見事に立体的な表現を実現している。この作品の制作には、浅からず娘のお栄=葛飾応為が貢献しているというのが、最近の研究の結論であるらしい。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館 (5)

想像の世界と北斎の周辺(前)
Photo 想像の世界についても、北斎は多数の作品を残している。今回の展示ではほとんど無かったが、さまざまな妖怪や髑髏の絵があることも有名である。
 「鍾馗図」(文政9年1826)は、朱一色の濃淡のみで鍾馗像を巧みに描きあげた作品である。鍾馗(しょうき)とは、もとは中国の民間伝承に伝わる道教系の神のひとつであった。わが国では鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりすることもあったという。鍾馗の図像は、長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で睨みつけている姿として描かれた。端午の節句に絵や人形を奉納したりした。
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 北斎の三女お栄は、はやくから北斎の側で画業を手伝いつつ習い、文化期半ば(1810ころ)から作品を出していたと伝える。美人画では北斎でさえも、「余の美人画は、お栄に及ばざるなり お栄は巧妙に描きて、よく画法にかなえり」と、お栄の技量を称賛していたという。お栄は葛飾応為という画号で作品を残している。「月下砧打ち美人図」(弘化-嘉永期1844-54)が展示されている。この人の作品では、とくに光の効果、あるいは光の表情が重視されているようだ。光の表現が印象的な作品として、「吉原格子先之図」(弘化-嘉永期1844-54)がある。Photo_5


 

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館 (4)

目に見える世界(続)
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 北斎が84歳にもなったころの絵で「端午の節句図」がある。端午の節句を祝う道具を淡々とていねいに描いたものだが、西洋画にもある静物画と同様に、菖蒲の花を束ねる紙のすその皺にいたるまで、細かいところまで徹底して緻密に描写しようとしている。北斎にとっては、創作のための技能のトレーニングと位置づけていたのだろうか、と勘繰ってしまう。

 「冨嶽三十六景 五百らかん寺さざゐどう」(天保1-4年1830-33)がある。江戸時代後期、禅宗のひとつ黄檗宗の天恩山五百羅漢寺というお寺が現在の江東区大島町にあった。その建物のひとつに「さざゐどう」があった。サザエのようならせん型の回廊を登っていくとつぎつぎに仏像が配置されていて、堂内を進むだけで自然に巡礼できるような構造の高楼があり、高村光雲の『江戸維新懐古録』にも話題が登場する。当時展望台として人気があり、そのころは高楼上の欄干から富士山を眺望することができたらしい。その風情を描いた長閑な作品で、芸妓・子供・武士など様々な階級の人物を描き分けている。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館 (3)

目に見える世界
Photo 冨嶽三十六景シリーズに続いて、書肆西村屋与八の企画で「諸国滝廻り」というシリーズが発刊された。「諸国滝廻り 美濃ノ国養老の滝」(天保4年1833)がある。実際の養老の滝は、見上げるようなとても高い滝のはずだが、ここではかなり低めのコンパクトサイズとして描かれている。展示説明では、登場する人物像があまりに小さくならないように、敢えてデフォルメしたのであろうとの由。さらに滝はかなり抽象化され、滝の上方と滝つぼ付近を残して描写が大胆に省略されている。しかしながら簡素化された滝の水流は、一層勢いを増す。200年ほど昔とはとても信じがたいほどの思い切った表現である。そうした表現の斬新さ・新規性とともに、この絵からは北斎の敬虔ともいうべき滝に対する宗教的な真摯さをも感じることができる。
 滝に続いて次は「諸国名橋奇覧」が、おなじく書肆西村屋与八の入れ知恵で発刊されたらしい。「諸国名橋奇覧 摂州阿治川口天保山」(天保5年1834)がある。天保山は江戸時代の淀川河川整備事業で出た土砂を積み上げて作られた人口の小山である。海に近い安治川の河口にできたため大阪湾を一望でき、当時から行楽地として賑わった。この絵は橋の絵というよりは、パノラマ的な画面を意識して描かれたようだ。
 

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館(2)

富士と大波
1 北斎という希代の大芸術家は、還暦を過ぎてからようやく本領を発揮し、天才しか達し得ない境地を開花させたらしい。65歳ころの作品に「花見」(文政7-9年1824-26)がある。それまでの形式的な絵から一段抜け出し、鮮やかな着色のグラデーションで立体感を現し、表現のレベルを格段に上げている。色彩も華やかで、暖かみのある楽しそうな絵となっている。

 「東海道名所一覧」(文政元年1818)がある。京から江戸までの東海道にそって散在する多数の名所を、デフォルメした絵図の上に細密画のように名所を描きこんでいる。デフォルメが著しいので場所の同定を直ちにはつけにくいが、ここでも主役は画面左上の富士山である。

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 70歳を過ぎて、いよいよ北斎ワールドが炸裂する。天保元年(1830)からはじまり、シリーズ作品として発表された「冨嶽三十六景」である。「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」(天保1-4年1830-33)は、北斎のいわば「顔」として、あまりにも有名な作品である。

1_3  私も何度も観ているが、けっして飽きることはなく、観るたびに見とれるのである。最近ある写真家が、いったいどの程度のシャッター速度を用いればこの絵の波頭の姿を忠実に撮影できるだろうか、そもそもこんな形状の波頭が実在しているのだろうか、と実験してみたという。その結果、5,000分の1の超高速シャッターでようやく北斎が描くような、まるで掴み掛らんばかりのヒトの手指のような波頭が、忠実に見事に撮影できたとのことであった。北斎の波頭の描写は、結果として決して単なる絵空事ではなく、科学的事実として検証されたのであった。北斎は、まさに「神の眼」を持っていたというべきか。

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 「冨嶽三十六景 凱風快晴」(天保1-4年1830-33)がある。これも幾度となく観た絵である。「赤富士」との名で極めて有名である。今回は、となりに展示されている「冨嶽三十六景 山下白雨」(天保1-4年1830-33)に注目した。「白雨」とは夕立を指す。富士山の山頂付近の上空では快晴であっても、山麓では雷雲で漆黒につつまれたなかで一瞬の稲妻が走り、激しく雨が降っている。こんな小さな画面で、構成も簡潔な絵でありながら、壮大な空間的ひろがりをみごとに表現している。この絵は、「黒富士」とも呼ばれるそうだ。

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 「冨嶽三十六景 東海道金谷ノ不二」(天保1-4年1830-33)もきれいな絵である。金谷は現在の静岡県島田市にある。「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠われた東海道最大の難所を描いている。江戸時代、大井川では架橋や渡船が禁じられていたために、川越しの人足や馬の背に、荷駄や人を乗せる徒渡しが行われていた。荒海のように波立つ大井川の対岸には島田宿が見える。ここでは波はけっして穏やかではないようなのに、波に心地よいリズムがあって、なんとなく長閑で楽しそうに見えるのがおもしろい。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館 (1)

 大阪天王寺のあべのハルカス美術館で「北斎―富士を超えて―」という展覧会が開催された。北斎のコレクションでも高名な大英博物館との国際共同企画だという。私にとって葛飾北斎はもっとも好きな画家であり、若いころから10回とまではいかないまでも数回以上はさまざまな会場で展覧会を観てきた。機会があれば何度でも観たい画家である。
 今回の会場は、わが国でもっとも高層の商業施設とされるあべのハルカスの16階にある美術館である。多くの美術館が月曜日に休館となるところ、たまたまこの日は開館して、私は午前中に別件で天王寺に近いところに所要があって、そうした偶然もあって訪れたのであった。会場に着いてみると、驚くほどの人だかりである。入り口に立て札があり「待ち時間50~60分」とある。さすがにうんざりしたが、この日は夕方にも別の予定があり、多少時間を余分に費やしても帰宅するよりはいいという事情もあって、入場することにした。まず入場券を購入するだけで、長蛇の列で30分を費やした。やっと入場券を得ると、次は入場の待ち行列で25分を費やした。入り口立て札の「警告」は実に正しい。

画壇への登場から還暦まで
Photo 江戸時代後半期70年間の長きにわたって精力的に活動した葛飾北斎は、宝暦10年(1760)江戸葛飾に百姓の子として生まれ、4歳で他家に養子に出るもそこも出て、貸本屋や木版彫刻師の下で働き、ようやく18歳のころ浮世絵師勝川春章の門下となり「春朗」を名乗ることになった。19歳のころの作品として「三代目瀬川菊之丞の正宗娘おれん」(安永8年1779)がある。「春朗」デビュー作とされる錦絵だが、色彩も表現もごく地味で、後の北斎を思わせる個性的な特徴は甚だ乏しいが、線や描写は素人目にも確かで、明らかに非凡であることがわかる。
 34歳のころ、勝川一門を破門され、琳派を慕って「宗理」を名乗った。このころの作品に「梅樹図」(寛政7-10年1795-98)がある。まだ北斎らしさがなく様式的だが、それでもさすがに上手と思う。参考出展として「亀図」という絵が写真で展示してある。文化期のはじめ(1804)ころ、「北斎」に改めたことの連絡通知を、この小さな絵を添えて知人たちに伝えたという。
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  「北斎」期の初期の作品として「日蓮上人図」(文化8年1811)がある。北斎は熱心な日蓮宗徒であった。日蓮上人が、眼尻がきりりと上がり、聡明で気の強そうな人物として描かれている。
 ここまでみても、北斎という画家がただ者でないことはわかるとしても、まだ後の北斎らしさ、自由奔放さ、エネルギッシュな雰囲気はほとんど見られない。北斎はすでに50歳を超えていた。

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呉座勇一『応仁の乱』中公新書

 歴史学者が著した専門的知識に基づく概説書であり、決して平易ではないはずだが書店で人気が極めて高く、数少ない「専門書」系のベストセラーとして評判の高い本である。「応仁の乱」は高校の教科書にも現れるが、名前だけ憶えていても、その内容となると私もほとんど知らなかったので、この機会に読んでみることにした。
 応仁の乱は応仁元年(1467)にはじまり10年以上にわたって、京と畿内近国、さらには越前・備前など周辺諸国にまで広がった、長期間かつ大規模な戦乱であった。
 応仁の乱の始まりは、守護でありさらに管領家でもある畠山家の内紛に、大守護大名ではあるが管領家よりは家格の劣る山名宗全が、畠山家内紛の一方の当事者畠山義就(よしひろ)を抱え込んで足利幕府政権を実質的に乗っ取ろうとしたことであった。山名は、将軍義政の親政打破を目論んだが、そこに至るまでには、さらに20年ほど遡る将軍義教の個性の強い政治があった。乱が始まると、山名は細川勝元と対抗するが、山名と細川の対立は、終始決定的に強いものではなかった。乱で細川方についた将軍義政だが、彼の優柔不断と大局観の欠如、さらに大名たちへの統率力の限界もあり、はじまった当初は京のなかのみの短期間かつ小規模で終息すると思われた戦争が、だらだらとなかなか終息せずに延々と続いた。山名も細川も自分の周囲に多くの大名・土豪を引き連れ、それら取巻きたちがそれぞれ勝手に動いたという側面もあった。終盤では山名宗全も細川勝元もともに病死したが、戦いはそれぞれの一族や追随者たちに引き継がれて継続した。しかし、双方ともに総じて戦意は低く消極的なのに、終わることのできない戦乱となった。当事者たちが当初想定していたのに反して延々と長引いたのは、近代の第一次世界大戦に似ている。
 なにより。戦争の当事者たちが何のために莫大な金・時間・人的資源のコストを払って意味の判然としない戦争を続けるのか、マクロにはわからなくなっている。
 この大きな戦乱の前後で、当然ながら権力構造も社会も大きく変わった。応仁の乱の前は、複数の国を統べるような大名たちがほとんど在京して、将軍の周辺にいて大名同士の交流もあり、多数の家臣たちや従者たちを引き連れて在京することで、京も繁栄した。しかし応仁の乱の後は、ほとんどの大名たちが国に帰り、在京するのは家臣のみとなっていく。大名たちは領国とより深く向き合うようになり、反面で将軍権力は地方にはおよばず、幕府は畿内政権の性格を強めていく。足利将軍権力は、権力を伸長はできないまでもそれなりに努力を重ねて強かに存続したようだ。私たちはなんとなく、応仁の乱で足利将軍権力がほとんど崩壊してそれが戦国時代を導いたと思っていたが、諸大名が国に帰ってそれぞれの領域支配を確立するようになったことが、戦国時代を導いた要因としてもっと意味がありそうだ。
 いつの時代でも、またどの戦争でもそうだろうが、戦争そのものが大きなインパクトをもたらすこともあって戦争そのものに注目しがちだが、戦争の前も後もしっかり見通さないと戦争そのものの歴史的位置付けができない、といういわば当たり前のことを改めて考えた次第であった。

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大エルミタージュ展 兵庫県立美術館 (7)

美術大国の狭間のドイツ・イギリス
Photo_5 最後のコーナーは、美術に関する限り華々しさはなかったが、独自の宗教的あるいは政治的変遷を経験して、18世紀以降頭角を現すに至ったドイツとイギリスを取り上げる。
 ルネサンス期ドイツで人文主義と宗教改革の影響を受けつつ活躍したルカス・クラーナハは、はやくから高名な画家であった。今回は「林檎の木の下の聖母子」(1530年頃)が展示されている。私もこの絵は学校の美術の教科書などで見た記憶がある。動きのない画面構成だが、独特の人間味と品性を湛える印象的な絵である。
 18世紀後半のイギリスの肖像画として、トマス・ゲインズバラ「青い服を着た婦人の肖像」(1770年代末)がある。丁寧な描写で優雅でかつコケティッシュな美しい女性像である。Photo_8
 このたびの展覧会は、ルネサンスから近代初頭までの時期をくだりつつ、ちょうどそれぞれの時代の美術を牽引した国ごとに、その芸術の特徴と代表的な作品を順次紹介するという、まとまりのよい巧みな企画で、鑑賞する側からみても理解しやすく、とてもわかりやすい構成となっていた。
全部で85点と、私の鑑賞能力のキャパシティーにてらして最適なボリウムでもあった。会期の比較的はじめの方の日程で、かつ平日ということもあり会場内も混雑なく、至極快適に鑑賞することができた。

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