2012年5月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
フォト
無料ブログはココログ

お笑い芸人と生活保障受給

  メディアで露出度が高い、いわゆる人気お笑い芸人のひとりの、その母が15年近くにわたって生活保護を受給していたことが週刊誌の記事で話題となり、国会議員がそれをとりあげて、当事者の芸人がテレビで記者会見して謝罪するという事態となった。
  年収5000万円以上と推定される人気芸人の母が、ごく最近に至るまで生活保護を受給していた。母親が受給を始めた15年ほど前には、芸人という仕事でほとんど収入がなく、後に売れて収入を得るようになってからも収入が不安定で母親を扶養する自信が持てなかったために、母の受給を継続した。ようやく収入が安定してきた5~6年前からは母親に仕送りを始め、今年4月からは、母の意志で生活保護の受給を辞退している。
  この騒ぎに関して、宮台真司という社会学者は、議員の行動は「人気取りであると同時に不用意な、というか不必要な問題の拡大」だとし「本質的な議論がなされないで倫理的な批判ばかりが出てくるということになってしまう」、受給は福祉事務所のやりとりによって「当局が許容していたこと」だとし、本来なら批判についてもこの芸人と福祉事務所に半々か、4:6で、6の方が福祉事務所にいかないとおかしいとする。「役所には税金を使って、税金の使い方を最適化した上で福祉を行う責務がある。そのため、役所が最適化の責務を怠っていたことになる」とし、「役所がそれでいいというのなら、『じゃあ母親は生活保護のままでいいや』って思う人が出てくるというのは、もちろん道義的に責めていいけれど、いくらでもあり得ること。行政の適切性という観点で考えれば、そういう人間が必ず出てくるということを想定した上で、枠組みを適正化するべき。それが本質なのに、実名を挙げて特定の個人に批判を集中させた議員の資質には大きな疑念がある」と語り、「問題の本質を見失わせるようなスキャンダラスティックな意見表明をするなと(議員に)警告するべきだ」としている。
  またこの件に関して、お笑い芸人の大先輩で大物のひとりであるビートたけし氏は「世の中にはさまざまな仕事があって、好き嫌いを言わなければ、大部分の人間はなんとか職に付けるだろう。一方で、芸人はほとんどが儲からない、収入がきわめて少ない。そういうことは十分わかったうえで、敢えて『好きな仕事』として、芸人という道を選んでいる。だから芸人は、必死にアルバイトをする、他にカネを得る、という努力をしなければならない。そういう自発的な努力は当然だ。」と言っている。
  育ててくれた親が自活できないという状況にあるとき、子供としてはなんとかしてその親を扶養することは、法的義務などという問題以前に、当然のことである。そういう親の状況を省みず、「自分の好きなことをしたい」という理由で、収入がない仕事をしている芸人は、ビートたけし氏が言うように、懸命にカネを得るためのアルバイトをして、少しでも親を扶養しようとするのが通常の、あるいは本来の姿である。
  今回話題となっている芸人も、親が生活保護を受けていたことを「恥じていた」という。ところが、問題が発覚して、反省したうえで、「母親への援助を始めた5~6年以前からの受給に対して、なんらかの返済を考えたい」としている。これは少しおかしい。
  自分の母親が生活保護を受給する、という事態に対して、子として自分が恥じる、反省する、というのであれば、その反省は、自分がその状況下で必要なカネを稼ぐことを優先せず、敢えて自分が「好きな仕事」として収入が期待できない芸人という仕事を選択した、ということに対してでなければならない。自分が「好きな、儲からない仕事」をしたがために母親に生活保護を受給させてしまったことを反省すると言うのであれば、今や芸人として成功を収めたのだから、生活保護を受給した最初の15年前の分から、全額を返済することを提案するのが自然であり当然であろう。現時点でのこの芸人は、ビートたけし氏が言う「さまざまな選択肢があるに関わらず、『自分が好きな仕事』として芸人を選んだ、ということのしっかりした自覚が欠落している。記者会見で、かわいそうなほど反省しているように見えても、本質的なところで、まだわかっていないのである。
  宮台真司の批判は、的外れのみならず大きな問題がある。今回の問題について、福祉事務所側の対応・処置に問題があることは事実である。しかし福祉事務所側の問題を含めて、こういう問題を的確・タイムリーに指摘しなければ、いつまで経っても問題は隠れたままであり、解決される機会がない。今回のような露出度の高い関係当事者が発見されたとき、これを契機として問題提起をすることは、議員の立場として当然のことである。とうてい「不必要な、不用意な問題の拡大」ではない。しかも「倫理的な批判ばかりが出てくる」という言い方には、看過できない大きな問題がある。社会福祉に関わる制度は、できるだけ「性善説にもとづき」かつ「やわらかい」法制度によるものであることが望ましい。宮台真司が主張する「そういう人間が必ず出てくるということを想定した上で、枠組みを適正化するべき」と言う思想では、どうしても性悪説にもとづく「かたい」法制度が必要となる。そういう制度では、どうしてもほんとうに救済すべき弱者への対応が洩れがちとなる。当事者・関係者の健全な倫理的態度こそが、社会福祉制度を健全に運用・維持することを担保できるのである。「役所がそれでいいというのなら、『じゃあ母親は生活保護のままでいいや』って思う人が出てくるというのは、もちろん道義的に責めていいけれど、いくらでもあり得ること。」という態度では、どうしても「かたい」法制度にもとづく、弱者への洩れの多い制度とならざるを得ないのであり、「本質的な問題」には、法制度の問題とともに、当事者・関係者の倫理的な態度の重視が必須なのである。こういう問題は、中長期的には教育の問題にも波及するであろう。
  問題を抱えた当事者・関係者が他にも多数実在するなかで、たまたま問題を指摘され、メディアに暴露された今回の芸人に対しては、私もその不運を同情する気持ちが少しはあるけれども、これが表に出たおかげで、私は未だに「学者」「識者」と自認する者たちが、とても問題の多い思考をしていることにも気づかされた。そういう意味では、今回の事件は、十分意味があった。

人気ブログランキングへ

本荘赳回顧展 平塚市美術館

 平塚市に生まれ、丹沢の麓で制作活動を続けた、郷土の芸術家である本荘赳(たけし)の個展が、平塚市美術館で行われた。昨年9月に87歳で亡くなったが、その回顧展である。
 この作家の作品で特徴的なのは、樹木、林、そしてとりわけ水あるいは水面の、みずみずしい表現である。画材としては油絵を使い、洋画に属するが、日本の風土に整合した湿りけのある光と、その光に反映した抑制した画面を表現する、彩度を落とした、日本画的な画風を、前向きに取り入れているように思える。油絵ではあるが、絵具を塗り込めて積み上げるのではなく、画面の多くの範囲で、塗り上げた絵具を敢えて削り落とし、カンバスにしみ込んで残った絵具だけで絵を構成する。このため、絵の表面にはカンバスの織り目が残り、生地が浮きでている。この質感と光沢が、画面に独特のつやと明るさをもたらしている。
 「妙高高原の黄昏」という、林を描いた作品があるが、樹木の幹のこげ茶色は、カンバスの生地の質感と、独特の光沢で輝き、全体に彩度を落とした色調の画面のなかで、生命感を表して浮きでている。「竹林小径」という作品でも、竹の根元の色の明るい部分に同じ手法が導入され、静かにしかし力強く生命の息づかいを表している。「川へ行く道」「冬霞」でも同様である。
 静物としては、花を好んでよく描いている。「椿」「ダリヤ」「うっこんさくら」などがあるが、いずれも咲き誇る派手な花としてではなく、静かに内面に生命の力と輝きを秘めた、内向的な表現である。
 私が感じるのは、この作家の真骨頂は、水あるいは水面の際だった表現方法だということである。何点かの木崎湖の作品、「丹沢湖の朝」「湖畔早しん」などの湖水の描き方、「三浦風景」「石廊崎黎明」などの海面の描き方は、いずれも非常に印象が深いものがある。彩度をあまり上げず、トーンを落としてはいるが、実に工夫を凝らして色を選び、微妙な色付けと筆入れを行っている。その絵の水の色と質感から、水の温度、さらにその温度の時間的変化、すなわち季節までも、そこはかとなく感じさせるような、見事な表現であると思う。
 「山湖春雪」は、全80点のなかで私が最も気にいった、印象深い作品である。画面の70% 位は、画面中央を横切る湖水である。画面上方には冠雪した山の連なりが描かれ、画面下方には湖畔の春の息吹を感じさせる草が僅かに描かれている。思いきって単純化した画面は、極めて現代的でありインパクトがあるし、画面の主要部を占める湖水は、この作家の最も得意とするところである。
 この作家は、師範学校を卒業し、小学校の教員として勤め、アマチュアの画家としてスタートしたという。この間、「五葉」という雅号で俳句も作り、「山村絵巻」という俳画と随筆の組み合わせのような興味深い作品もある。「西洋の科学的・客観的な自然観に対して、日本、東洋の宗教的・主観的な自然観を追求する」「自然を客観的に見るのでなく、自然と融合することを目指す」というのが、この作家の主張であったという。事実、彼の作品の風景は、観察している作者と対峙するものとしてでなく、観察者と一体化して融合したものとして描かれており、対象に向ける作者の深い愛情と一体化にともなう穏やかなやすらぎが感じられる。花を描くときも、自らその中に入り込むことで、外に向けた華やかさより、作者自身の控えめな性格が移入されて、内向的で抑制の効いた、生命力の静かな主張という表現になったのであろうと推測する。
 西欧の自然観が科学的・客観的、さらには非精神的であり、日本の自然観が宗教的で精神的であるというのは、戦中時代の新感覚派などによって主張された考え方でもあり、この作家の生きた時代の基調的な雰囲気であったのかもしれない。こういう考え方そのものは、いまでは一般に正しいものとは受け入れられていない。たとえば、フランスの印象派とともに一時代を形成したバルビゾン派も、本荘と同様に都会派というよりは田舎の風景を好んで描いたグループであるが、自然に対して宗教的、牧歌的な感情を強調し、自然と人間との一体感を主張していた。ただ、内容の正否はともかく、敢えてなんらかの主張を打ち出し、それに基づいて既存の洋画を一旦否定し、自分独自の世界を構築してゆくという姿勢は、芸術家として何より貴重であると思う。洋画をベースにして、しかし、かっての日本の洋画がそうであったように、西洋画の模倣をするのでなく、日本画の手法やヒントを導入して、独創的な画調を創造したことは、大いに尊重されるべきである。
 この平塚美術館は市立の新しい建物で、この作家の知名度があまりないこともあってかほとんど人がなく、ゆっくりマイペースで鑑賞できたのは快適であった。(1994.2.27)

人気ブログランキングへ

団菊祭 大阪松竹座

  五月大歌舞伎として「団菊祭」が大阪松竹座で開催された。久しぶりに海老蔵もみることができるということもあり、家内と一緒に鑑賞することとなった。
  上演の構成はいつもと同じで、伝統的な歌舞伎十八番、長唄舞踊、そして新作の人情喜劇の3部からなっている。20120516_2
  最初の伝統的演題として「絵本太功記」が上演された。織田信長が襲撃された本能寺の変に題材をとった劇である。主君 小田春永を討ち取ったあと、武智光秀は尼崎の庵室に母 皐月を訪ねる。母 皐月は息子が主君に対して謀叛したことを憤り、庵に籠もっていたのであった。主君小田春永を闇討ちした後ろ暗さを感じる光秀は、猜疑心が高じて庵室に春永の腹心である真柴久吉が潜んでいるのではないかと疑い、障子越しに竹槍を差し込む。ところが竹槍に刺されたのは、母の皐月であった。まもなく光秀の息子である十次郎が瀕死の傷を負って戦場から戻る。そして新婚の妻 初菊に看取られて息絶えてしまう。母を誤って殺してしまい、さらに自ら引き起こした戦で息子を死なせてしまった光秀は、悲嘆にくれて山崎の山道をさまようが、やがて母のいた庵に戻ってくる。そこには、光秀を捜索していた真柴久吉が家来を引き連れてきていた。しかし光秀の窮地と心情を理解した真柴久吉は、ひとまずこの場は引き揚げ、戦場で再開しよう、とその場を去っていく。
  ストーリーは、本能寺の変の裏話を装うが、あくまで光秀側の不忠・謀叛、それに対して秀吉(ここでは久吉)の正当性と情の深さを強調する、ごく単純な善悪区別・勧善懲悪を基調としているのが微笑ましい。正統的な唄いと様式的な芝居とで構成する、重厚な伝統芸であり、光秀を演じる団十郎と真柴久吉を演じる菊五郎が主役であるが、菊之助の十次郎、その妻 初菊を演じる梅枝の若々しい美貌が見物である。ここでは佐藤正清役の海老蔵も、完全な脇役である。
  第二部は、桜見物の春を題材にした狂言演目の「高杯(たかつき)」である。主人の大名から、盃を載せる高杯を買ってまいれ、と命じられた次郎冠者が、高杯のなんたるかを知らず、高下駄である高足を売る棒手降に唆されて高足を買ってしまうというお話である。主人の大名から、そんなものは高杯ではない、と言われ、苦し紛れに高下駄を履いて桜の下で踊りだす次郎冠者であった。
  次郎冠者を演じる海老蔵が、高下駄を履いてタップダンスのように酔っぱらって踊る、というのが見物である。海老蔵のおどけた演技と巧みなタップダンスは、たしかにこの役者の魅力を引き出している。
  最後は、山本周五郎原作の人情喜劇「ゆうれい貸屋」である。いくら働いても暮らしが楽にならないと仕事に精を出すことを辞めてしまった桶屋の弥六は、まったく働かず昼間から酒を飲んでぶらぶら生活するという体たらくで、とうとう女房 お兼に愛想をつかされ、お兼は家を出て行ってしまう。そこへ、元芸者の美貌の幽霊 染次が転がり込んでくる。長屋の店賃を支払わないと追い出されると家主からせっつかれ、染次は、成仏できない幽霊を集めて、怨みを晴らしたい人を顧客として幽霊を貸し出す商売を始める。幽霊貸屋は繁昌するが、ある日、ひとりの幽霊から、人間はつまるところ生きている間に努力し充実した人生を送らないと意味がない、と諭され。弥六は改心する、というお話である。
  いつもながら三津五郎の円熟した演技はすばらしい。染次を演ずる時蔵の美貌と艶やかな所作もなかなか見物である。こうして男性が女性を演じると、あらためて女性の美しさとはなにか、ということを解剖的に観察し、考える機会に遭遇するような気がする。
  歌舞伎は入場料がかなり高額ではあるが、こうして4時間もの長時間にわたって、十分に楽しませてくれるので、納得させられるように思う。

人気ブログランキングへ

上田秋成特別展 京都国立博物館(2)

  こうして激しい論争のすえ、学識で卓越していた本居宣長には、結局論争では敗北することになり、秋成は終生それに傷ついたらしい。

  ともあれ、秋成独自の国学の作品としては、陶淵明の「弦のない琴を奏でる」故事を題材にして「古のことは余計な詮索・解釈を加えずに古のままに素直に捉えよ」という寓意を著した「をだえごと」(享和年間 1801~04)、賀茂真淵が弟子 野村弁子に講義した内容を野村弁子から聴いて書き留めた「古今和歌集打聴」(寛政元年 1789) などが展示されている。野村弁子(もといこ) は長州藩江戸屋敷に勤めた武家の女性であった。
  若いころから文人画を学んだ秋成は、画家との交友関係も多彩であった。とくに、松村月渓 改め呉春とは、18歳の年齢差に関わらず親友としての交友があった。呉春の絵に秋成が賛を記すという作品が多数ある。右幅に秋の、そして左幅に春の景色を描いた屏風絵「柳図」(寛政10年 1798) は、呉春が師 蕪村の死のあと松村月渓から号を改めた直後、まだ円山応挙に師事する前の作品であり、みずみずしい新進画家の清新な雰囲気が伝わる。Photo
  秋成は、50歳を過ぎてから医師を廃業して隠棲し、また左目の視力を失うなど、貧しい生活に追い打ちをかけるように不幸が重なったが、創作意欲は衰えず、国学、評論、校訂、考証、俳諧、和歌などに打ち込んだ。
  60歳のとき、妻の実家がある京都に引っ越し、やがて幼いころに神託を受けた68歳を迎え、それ以後はほんとうの「余生」として精神的に一層自由きままに創作に励んだ。驚くほどの膨大な著作を残している。長い期間にわたって書きつらね、晩年に発表した「胆大小心録」は、当時の文化人たちを片っ端から忌憚なく批評した随筆であったが、秋成の狷介な性格と鋭い批評精神が現れ、当時の多くの文化人がその評価に注目していたという。
  今回の展覧会では、秋成自身の作品だけでなく、彼が直接・間接に関わった江戸時代の代表的な芸術家たちの作品も展示されている。Photo_2   「胆大小心録」で秋成が、狩野派が怠慢なままのうちに応挙が出て、わが国の絵画が写生一色になってしまった、と揶揄するように評した円山応挙の作品が数点展示されている。とくに「龍門図」(寛政5年 1793) は、滝を昇る鯉は龍に変わるという伝説を、見事に描いた3幅の絵である。中央の滝を昇りつつある鯉は、水の間からのぞくウロコがかすかに金箔で縁取られて、すでに龍に化身しつつあることを鮮烈に表現している。細部の描写も見事だが、それ以上に画面の構成がとてもモダンである。たしかに、応挙の精緻な写生と絵画表現の能力には、素人の私でも深く感銘を受けるものがある。

  文人画の大家 池大雅が絵を描き、与謝蕪村が「春の海 ひねもすのたりのたりかな」と賛を記した「春海図」(明和7~安永5年 1770~1776) がある。さほど大きな絵ではないが、まるで生き物がゆったりした海の波に反応しているかのような松林が描かれていて、おもしろい絵である。
  秋成の若いころの師 与謝蕪村の絵としては、唐の伝説的聖人で、文殊菩薩および普賢菩薩の化身とされる寒山と拾得を描いた「寒山拾得図」(明和3~5年 1766~1768) がある。大きな絵で、墨の微妙な濃淡で空間的な厚み、立体感を表現し、また髪の毛の細かいところまで丹念に描きこまれていて、実に高度な技術が観察できる。
  これまで名前だけをかすかに知るのみであった上田秋成という江戸の文化人について、総合的に鑑賞することができた。江戸時代の文化の内容、その知的交流・人的ネットワークの豊かさの一例を、具体的な例としてかいま見ることができた。展示作品点数は82点とそんなに過大ではなく、また会場は空いていて、鑑賞にはなんの問題もなかったが、内容が非常に濃密で、鑑賞に予想以上に時間を要し、鑑賞を終えたあとには、疲労感があった。

人気ブログランキングへ

上田秋成特別展 京都国立博物館 (1)

  江戸時代後期の文学者・国学者であった上田秋成の没後200年を記念した展覧会が、京都国立博物館で開催された。予想通り、上田秋成という存在がさほど一般受けしないことから、私が最近経験した京都国立博物館での展覧会でもっとも空いていた、したがってゆっくりのんびりマイペースで快適に鑑賞できる展覧会となった。
  上田秋成は享保19年(1734) 、大坂曽根崎に母 松尾ヲサキの子として生まれた。父は不明である。秋成は晩年「父なし、その故を知らず。四歳、母また捨つ」と自ら記していて、秋成は終生孤児であったことを気に病んでいた。母ヲサキの姉は、豪商であった末吉家に嫁いでいるので、それなりの名家の出自であったらしいが、なんらかの不義の子ゆえの事情があったのかも知れない。ともかく母はそれなりの出であったためか、孤児ながらも秋成は、堂島の紙油商であった嶋屋 上田茂助に引き取られ、仙次郎と呼ばれて大切に育てられた。5歳のとき疱瘡に罹患し、生死をさまよったが、このとき養父茂助は加島村の香具波志神社に平癒を祈祷し、仙次郎は夢に神様が現れて「68歳の寿命を授ける」と告げられたという。秋成は、実際には76歳まで生きたが、68歳以後は、まさに「余生」であると理解して、自由に知的活動を展開していくことになった。
  養父からは、教育の機会も与えられ、18歳からは俳諧に親しんだ。さらに戯作、和漢の古典などに深く学び、以後の広範囲の活動の基礎を形成したようである。
27歳で京都生まれのたまと結婚、翌年養父茂助が死んで、嶋屋を相続した。しかし商売には不熱心で、学問好きの秋成は、賀茂真淵の高弟であった加藤宇万伎に師事して国学を学んだ。また文人画を与謝蕪村から学び、同年代の木村蒹葭堂と親交を重ねた。交友は、俳諧、文人画、日本画、国学と広範囲に渡り、江戸文化人の知的ネットワークの広さのひとつの典型例となっている。
  展覧会冒頭に、陶像作家 初代高橋道八による、上田秋成が70歳を越えた晩年の姿を忠実に表現した陶像がある。少し斜視で気難しい知性ある老人として、非常に精緻に創作された像である。Photo
  嶋屋の当主であったころから書き始め、38歳のとき店舗が火災にあい、商売から引退するころに書き上げたのが代表作「雨月物語」である。この後、秋成は東洋医学を学び始め、以後十数年を医師として生計を建てた。雨月物語の初版本(安永5年 1776) が展示されている。加藤周一「日本文学史序説」に「なぜ秋成の筆は、亡霊・狐狸・妖怪変化の類を描いて、これほどに冴えていたのか、おそらく彼自身がそれを信じていたからである。(中略) 作者にとって現実的な世界の叙述であったから、一種の凄惨な鬼気を生じたのであろう。」と評価されるほどの名文であるという。残念ながら小説の類を読まない私は、まだ自らこれを読んでいない。
  親友であった木村蒹葭堂の語りを秋成が独自の名文で書き下して構成した木村蒹葭堂の半生記「あしのやの記」(安永3年 1774) がある。2歳年少の親友のためにこうして丹念に筆をとる秋成は、性格が狷介で長く続いて親しまれた弟子も少なかったと伝えるが、反面では自分の弟子や妻の作品を出版することにも熱心であった。また彼の弟子やファンが秋成の書いた文章の断片を集成した「文反古」(文化5年 1808) その下版であった「文反古稿」(文化4年 1807) が展示されている。秋成の文章は、夙に名文として認識され、弟子や後進の学徒にとって、模範文例集として重宝がられたらしい。
  国学者としての秋成は、賀茂真淵の弟子加藤宇万伎の弟子として、独自の学を建てた。そして、伊勢松阪に活動する同年配の本居宣長とはライバル関係にあり、激しい論争を戦わせた。加藤周一「日本文学史序説」によると、

(引用はじめ)宣長は『日本書紀』、『古事記』に記された神話を、多くの国の多くの神話のなかの一つとは考えず、唯一の真実と見なしていた。(中略) これに対して秋成は、他国には他国の神話があり、自国の神話を他国に及ぼすことはできないと考えていた。そのため、秋成からみると、宣長の議論は「いなか人のふところおやじの説」にすぎず、「売僧(まいす)の談義弁」程度のものにすぎない。「やまとだましいということをとかくにいふよ。どこの国でも、その国のたましいが国の臭みなり」といって、次の痛烈な一首を添えた「しき島のやまと心のなんのかの うろんな事を又さくら花」(『胆大小心録』)。(引用終わり)

(2010.8.28)

人気ブログランキングへ

大阪市職員のいれずみ問題

  橋下市長の指示で大阪市職員の調査を行ったところ、110名を超える職員が「いれずみ」をしていたことが判明した。橋下市長は、公務員としては異常なことであり、その該当者を、窓口業務や市民との対人対応を必要とする仕事から一般市民と接点が少ない部署へ配置転換していく、としている。これに対して、マスコミでは賛否両論が報道されている。芸能人でも、野球選手でも、いれずみをしている人びとは多数いる、外国ではいれずみがおしゃれの一部として、すでに普及している、などの意見もある。たとえば長野県の阿部守一知事は、定例記者会見で「公務員として信用失墜に当たるか、グレーゾーン。外見だけで直ちに良い、悪い、という問題ではないのではないか」と発言したという。
  私は個人的には、不快感を与えないような程度とデザインのいれずみはあり得ると思う。したがって私自身は、いれずみをしていても許容可能な範囲と場合があり得ると思う。しかし、どの程度までが許容できてどこからが不可と線引きをすることは、私一個人の規準に対してでさえ、そんなに簡単ではない。そもそもこういう問題は、セクシャル・ハラスメントと同様に、受けて側の感覚によって判定されるべき問題である。およそほとんどすべてのいれずみに対して、不快感・警戒感を抱く人たちも、実際に存在している。
  したがって、こういう問題に対して、一部の「識者」や弁護士が言うように「個人の価値観・表現の自由」で済ますべき問題ではない。たとえば市職員は、どんなに派手な奇抜な服装あるいはメークで勤務してもよい、ということにはならない。「表現の自由」として、大声でしゃべったり、ひどいコトバ遣いで仕事してもよいということにもならない。たとえば職種によっては規制のひとつとして「制服」があり、社会に受け入れられている。どこまでが許容できそうか、という線引きも簡単ではないので、橋下市長が主張するように、市職員として勤務するならいれずみを全面的に禁止する、という判断は、決して妥当性を欠くものでも、行き過ぎでもない。
  一部のメディアや「識者」・弁護士が言うように、個人の表現・思想の自由を尊重するべき、というなら、もっと以前にやるべきことがたくさんある。たとえば「アルビノ」という遺伝子疾患がある。メラニン色素を合成する機能が過少であるために、髪の毛・肌の色が非常に白く、視力も弱いという症状がある。ただ、そういう点以外はほとんど通常の生活ができるのだが、社会的に差別されがちで、就職・結婚などで困難に遭遇することが多いという。「アルビノ」の場合は、当事者の意志・選択に関わらず、そういう問題に直面させられているのである。それに対して、いれずみの場合は、あくまで自分の意志で選択できる問題である。自分の意思・選択に関わりなく蒙る差別問題をこそ、「人権派」を自称する「識者」や弁護士たちは問題提起し、活動すべきではないのか。どちらが「差別」としてより問題が大きいか、自明である。
  大阪市職員のいれずみに関しては、橋下市長が言うとおり、市職員側に傲慢と常識の欠如がある、と思う。

人気ブログランキングへ

死刑廃止論についての所感

  テレビの討論番組で、わが国の死刑廃止論者のひとりである明治大学 菊田幸一氏が発言していた。最近、あいつぐ凶悪事件の発生や死刑を回避した裁判のやり直しなど、この問題に関わる話題が続いて出ているので、この討論番組を見ての私の感想を記しておく。
  菊田氏がいう死刑廃止の理由として、次の6点があげられていた。
(1)死刑に犯罪抑止効果はない
(2)犯人を死刑で殺しても、被害者は癒されることはない
(3)死刑は、国家権力による殺人であり、国民をまもるべき国家がやるべきことではない
(4)裁判は常に完全を期することはできないため、どうしても冤罪が発生し、無実の人を死刑に処して殺してしまうことがある
(5)世界的趨勢は死刑全廃であり、日本は文明国・先進国として、率先して死刑全廃を実施すべきである
(6)死刑制度が存在するために、誤審を誘発することがある
  全体的に感じるのは、菊田氏の場合、犯罪の加害者側の立場を忖度すること厚く、被害者側の立場にきわめて無頓着なことである。上記6点のうち、唯一被害者側の立場を考えるものとして「犯人を死刑で殺しても、被害者は癒されることはない」という主張がある。これは当然であろう。かけがえのない人を殺された被害者にとって、加害者がいかに処罰されようと、たとえ死刑に処されようと、けっして癒されるわけがないことは容易に推測できる。被害者側に立てば、取り返しのつかない事態であるが、せめて加害者がこの世からいなくなってほしい、というものであろう。近代刑事裁判制度が始まるまでは、「仇討ち」制度など、わが国でも復讐権が被害者側に担保されていたが、現在の制度では、この復讐権を個人から強制的に取り上げ国家管理としたのである。したがって、国家が被害者に代わって必要な刑罰を代行することは、国家の義務の一部である。必要ならば、裁判などの正当な手続きを経たうえで、国家が加害者を死刑に処するのは当然なのである。
  死刑に犯罪抑止効果がない、という議論は、一部分では正しい側面もあろうが、すべて正しいわけではない。「殺してしまうのは簡単だが、ほんとうに加害者を悔い改めさせるためには、生かして時間を与えたうえで、深く反省させるべきだ。その方がより厳しい刑罰になりうるし、人道的でもある」という意見がある。これも正しい面があるが、一方では「『死』は『すべての可能性』を当事者から奪うから、もっとも厳しい悪条件である」という側面もある。とくに、殺された側から考えると、加害者側だけに「可能性が残される」ことに納得できないのも当然であろう。多数の人びとや移り行く時代をかかえた多様な実社会において、こういう微妙な問題に単純なひとつの回答など存在しない。つまるところ死刑は、抑止効果を主目的とするものではないだろう。
死刑に代えて終身刑を設けるべき、というのが菊田氏の主張らしい。終身刑の方が死刑よりも懲罰効果がある、という意見も、抑止効果と同様で、正しい側面と、そうでない側面を併せ持つのである。私は、終身刑を導入するときに、その面倒を観ることになる看守など職員の負担と、彼らの生計を支える税金をもあわせて考えるべきであると思う。少なくとも、終身刑が死刑に代行できる制度にはならない、と思う。
  冤罪による刑死の問題は、衆議院議員の亀井静香氏も指摘している。たしかにこの問題は非常に大きな問題であると思う。しかし、およそ人間が行う判断に一切の誤りがないということは期待できないという厳然たる事実の一方で、現実社会に生涯を送る人間の生きる時間は有限である。完全を求めるために問題を先送りにして、人の生命の時間を越えたところで判断したのでは、社会制度の意味がなくなる。裁判は過ちをもたらす可能性を認めるがために三審制を導入しており、しかも時限を導入するがために3回の審議を限度としているのであろう。誠実・真剣な裁判は当然必要であるが、その結果に対しては、たとえ完全ではなくとも従うべきだ、とするのが健全な法治主義である。ついでながら、死刑執行に法務大臣の判断すなわち署名が必要な現行規則を改変して、法務大臣の実質的な判断なしに死刑執行を行うようにすべきという意見を、現法務大臣が述べたところ、「人ひとりの命に関わる重大な問題にたいして、不見識である」という非難が出ているそうだ。私は、慎重な裁判の結果をこそ重視すべきであり、判決が決定したあと、しかも時間が経過したあとで、再度法務大臣が執行の可否に介入する方がはるかにおかしい、と思う。
  死刑制度廃止が世界的潮流であり、先進国のひとつとして、わが国もそれに倣うべきである、という主張は、私には説得性が感じられない。他人がやるから、自分もやるべき、などという稚拙な議論は、本来とりあげるにたらない。
  死刑制度があるがために誤審を誘発する、という菊田氏の主張は、その論拠が私には理解できない。
  菊田氏は「死刑制度存続論者は、高学歴、高収入の人に多い。そういうひと達は、自分が殺人事件の加害者になることを想定しない。」という。たしかに私自身、殺人事件の加害者になることを想定することは、通常はない。ただしこれまでの生涯で、一度も他人に殺意を持たなかったということでもない。自分自身が、環境によっては、場合によっては、殺人を犯すかもしれないということについて、想像は可能である。そういう場合、自分だけが死を免れて相手だけが死ぬのが当然だ、とは考えない。菊田氏の主張は、明らかにピントが外れていると思う。
  私は、終身刑の導入の如何にかかわらず、死刑制度は当面存続せざるをえないと思う。理想としては、死刑制度が存続するにもかかわらず実際には死刑が判決されることがない、という状態であろう。現実には、むしろ今後一層被害者側の立場をより忖度した裁判を行うべきだと思う。ひとつの実例として、朝日新聞の販売促進員がインターネットを通じて知り合った2人の男と共謀して、母ひとり子ひとりで慎ましく暮らしていた結婚前の若い女性を強盗目的で惨殺するという凶悪事件が、今年あった。従来の判例にしたがうと、ひとりの犯人が3人以上殺害しない限り死刑は稀だったそうである。この場合、3人でひとりの被害者を殺害したので、犯人ひとりあたり1/3人しか殺害していないから、とても死刑の条件には該当しない、というような論理が成り立つのだろうか。そういうことをもっともらしく声高に言いたてる弁護士が何人かいそうである。そういう馬鹿馬鹿しい判断だけは、ぜひ避けてほしいと思う。(2007.10.8)

人気ブログランキングへ

コレクションの誘惑展 国立国際美術館 (下)

  第二部の「自由な泳ぎ手 --- 現代写真の世界」では、今度は写真を軸に、イメージ、時間、身体、空間、という分類で、現代美術を展示している。
  「イメージ」のコーナーの、マルセル・デュシャン「L.H.O.O.Q」は、「レディメード」を初めて主唱した作者による、モナリザの写真上へのヒゲなどの落書きである。同じ景観の小さなカラー写真を4枚並べ、その上から油彩でサッサッと落書きのように色付けした「フィレンツェ」(2000)という作品を、ゲルハルト・リヒターが創作している。馬鹿馬鹿しいようだが、われわれが見る景勝の景観の記憶というものは、案外こういうザツなものかも知れない、と考える。田口知奈は「ほとんど、唯一と呼べる」(2009) など、3点の写真作品を展示している。いずれも、まず精彩に油彩で絵を描き、それをモノクロームの写真で撮影する、という手の込んだ手続きで作品をつくる。絵画とはなにか、写真とはなにか、問い続けているのかも知れない。
Nmao   「Time 時間」の コーナーでは、多数の連作的な写真作品が展示されている。宮本隆司の「九龍城砦」(1987)の一連の作品群は、以前もみたことがある。今は取り壊されたと聞く香港の場末の巣窟のような巨大な老朽化したビルの、外観・建物内の景観、通路、部屋など、多数のシーンを淡々と冷徹に撮影している。都市とは、人間とは、生命とは、暮らしとは、など、この作品を眺めながら、さまざまなことを考える。米田知子の一連の写真郡は、歴史的に価値がある文書類の一部を虫眼鏡で拡大している。一見なんの変哲もないように見える古文書やメモから、真実を抽出するという行為を、イメージとして表出して、そのプロセスから、そこに記された事実の時期まで遡り、時間を感じる、ということらしい。
  杉本博司の、世界中の著名な建物を撮影した写真群も、じっくり眺めるに値する。「有楽座」(1984)、「ベルリン大劇場」(1985)、など、今から壊すという老朽化した建造物の相貌を伝えるもの、さらに「SPACE --- 空間」のコーナーでの「光の教会」(1997) も、印象に残る写真作品である。Nmao_2
  松江泰治「BJX41115」(2008) は、タイトルの意味することが私にはまったく不明だが、要するに都市を上空から高精細カメラで撮影したものである。人間の肉眼は、意識のある部分、興味を引かれる部分に注目するような認識構造となっているため、ヒトが普通に眺めて認識する景観というのは、画面全体が均一には成り得ない。ところが、写真は、光が入射するもの全てを撮影して記録する。もしカメラの性能が、全画面にわたって焦点をぴったり合わせることができるなら、全画面にわたって均一になんらの差異なく画像を切り取ることになる。そういうまさに「不自然なまでに」均一で精彩な画面をじっと眺めると、ある種の吐き気を催すかのような、一種独特の不自然さを感じ、極端には不快感さえ覚えるのである。ヒトの視界の認識構造をふり返るひとつのチャンスともなる。
  展示件数が350点というのは、いかにも多すぎるのは事実である。別の予定があり、1時間半しか鑑賞できる時間がなかったので、結局かなり駆け足の鑑賞となった。しかし、こうして時代の順に、あるいはテーマごとに、現代アートをまとめて眺めると、これまで断片的に鑑賞してきたのと、また一味ちがう感じがした。現代芸術、現代絵画というのは、時間の淘汰を経たクラシックな作品群、名作群と比べると、私にはどうしても納得できる作品の比率が相対的に小さいけれど、現代の美術に関わる芸術家たちが、それぞれ真剣かつ懸命に新しい芸術を創造しようと、たゆまず努力・格闘していることはよく理解できるような気がした。

人気ブログランキングへ

コレクションの誘惑展 国立国際美術館 (上)

  大阪中之島の国立国際美術館で、開館35周年記念展として、この美術館の主要なコレクションをまとめて展示するという展覧会が開催された。1970年開催の大阪万博の跡地利用の一環として1977年に開館された国立国際美術館は、大阪万博跡地に立地し、年月を重ねて徐々に収蔵作品数を増やしてきた。やがて施設が老朽化したのにともない、千里の万博跡地から中之島のかつて大阪大学医学部・理学部・本部があった場所に移転し、2004年に移設・新築して改めて開館した。現在までに、6300点のコレクションを蓄積する。そのなかから、代表的な作品350点を選んで、このたび開館35周年として展示するものである。
  展示は2部に別れ、第一部では「20世紀から21世紀へ --- 現代美術の世界」と題して、年代順に現代美術の変遷を展示している。
  「20世紀初期~1950年代」のコーナーでは、冒頭にパブロ・ピカソ「道化役者と子供」(1905)がある。ピカソの初期「青の時代」と呼ばれたころの具象的な作品である。続いて、パブロ・ピカソ「ポスターのある風景」(1912) がある。すでに描かれる対象の分解と再構成がはじまり、キュビスム初期の代表的な作品である。マン・レイ「イジドール・デュカスの謎」(1920/71) という立体造形作品は、ミシンのようなものを布ですっぽりと覆い、その上からロープで結わえたもので、一体布で覆われた中味は何なのだろう、と思わせるのがポイントである。ジュール・パスキン「バラ色の下着の少女 (青いブレスレットの少女)」(1924) にならんで、当時アメリカやパリで活躍した日本の画家として、国吉康雄「乳しぼりの女」(1923) 、藤田嗣治「横たわる裸婦 (夢)」(1925) 、佐伯祐三「パーの入り口」(1927) などの作品が展示されている。「パーの入り口」は、パリの下町の歓楽街の建物を描いているが、茶色のペンキで塗られた扉と、壁の落書きの文字が、この街に棲み着いた人びとの体臭と吐息を感じるような濃密な空気感を表現していて、生々しい迫力がある。Nmao

  ヴァシリー・カンディンスキー「絵のなかの絵」(1929) は、知的な幾何学的図形で画面を構成した知的な絵である。ジョセフ・コーネル「無題 (北ホテル)」」(1950) は、比較的小さな木箱ベースの、印象の強いコラージュ作品である。茶色の小さな木箱の前面を空けて、正面の底面に画家アルブレヒト・デューラーの肖像画の印刷された紙を貼り付け、その絵の「手」の先には、水道栓のような小さな釘を、レリーフのように造形加工してある。箱の上部には、ランプを暗示するような2つの小さな円筒体がぶら下がっている。小さな箱だが、たしかにその中に、ひとつのまとまったささやかな世界が存在している。
   ドイツのアンフォルメルの画家ヴォルスは、裕福なドイツの高級官僚の子としてベルリンに生まれ、トレースデンに移転して、さまざまな才芸を磨く恵まれた教育環境の下に育つが、16歳のとき父が死に、それ以後高校退学、工場での労働、バウハウスでのパウル・クレーとの出合いなどのさまざまな経験を経て、19歳のときパリに移った。そこでも放浪を続け、第二次世界大戦の最中には、パリで敵国人として収監されたこともあった。ようやく30歳代後半に至って、写真家を経て画家となった。以後、38歳に急死するまでのごく短い期間に、斬新なまったく新しい、ある種不気味な様式の絵画を1000点以上創作し続けた。今回展示されている「構成」(1947) も、不思議なそこはかとなく絶望的な印象の絵である。
  「1960年代~1970年代」のコーナーでは、私自身が少年時代から大学を終えるまでのころの時代の作品がならんでいる。なかでも存在感が圧倒的に大きいのは、アンディ・ウォーホルである。既存の写真イメージなどを活用して、量産可能で印象の強い大衆的造形を多作した。初期のフルクサス運動を指導し、また「社会彫刻」という概念の彫刻を始めたヨーゼフ・ボイスの作品も数点展示されている。既存のポスターをベースに、一部を書き加えて構成した「バラなしのは我々は それをしない」(1972) や、単なる木箱を二つに切り分けて、立てて並べただけの「直感」(1968) という作品もある。作品やその内容が、作者が生きる現実の社会から決して遊離したものではない、との主張であるという。この当時の「公害の時代」を反映して、原油のような不気味な液体が、大地を汚していく経過を追った写真作品として、ロバート・スミッソン「グルー・ボア」(1969) がある。工藤哲巳「環境汚染 --- 養殖 --- 新しいエコロジー」(1972) というコラージュ作品では、不気味な毒々しい蛍光色に彩られたペニスのような造形が、大地の草花を汚している。人類が地球にとって、あたかも害虫であり、自然を蝕む寄生虫である、という主張のようである。
  「1980年代~1990年代」は、私にとっては、企業に働いた少壮の時代にあたる。イミ・クネーベル「グレース・ケリー」(1990) は、縦長のカンバスに、中央に大きく明るい青色、その上には、銀色の横方向に長い長方形、左側には濃いブルーの縦長の長方形、下側には茶色の横長の長方形、そして右側には黒の縦長の長方形を置いた単純な抽象画である。画面になんら人体をイメージする形はないが、色彩の選択と長方形の組み合わせは、そこはかとなくグレース・ケリーの上品な美貌を連想させるような気がしてくる不思議な魅力がある作品である。トニー・クラッグ「分泌物」(1999) は、いささか不気味なイメージの題名で、湿りけをのようなものを予感させるのだが、作品そのものは、サイコロを多数アクリル樹脂でつなぎ合わせて高さ2メートルほどの大きな丸みを帯びた人体の変形のような形状の塑像である。形が粘性物のように定まらないというイメージを現すのだろうか。
  「2000年代以降」のコーナーでは、私にとっては勤務生活の最後期に相当する時代のものである。小川信治「アジェ・プロジェクト」(2004) は、鉛筆による写真のように精緻な描写タッチで、西欧の建物の前に佇む双子の少女や、現実的にはあまり存在感のない薄っぺらな高層ビルを二つ並べた風景などを描く。事実・真実・虚構のいずれともつかない、ふわふわした不安定な印象を与える。これらごく最近の作品群は、さすがに年月の淘汰をいまだ経ていないこともあり、また前衛を追求しすぎているためか、私には鑑賞のしかたがよくわからないものが多い。

人気ブログランキングへ

原子力発電をどうするのか

  北海道の泊原子力発電所が定期点検に入り、わが国の50基にのぼる原子力発電所がすべて停止した。この事態に対して、民主党政府の対応が、国民からみてわかりづらいものとなっている。
  枝野経済産業省大臣は、今は大飯原子力発電所から再稼働が必要だという一方で、脱原子力発電を目指す、と言う。この矛盾するような発言に対して、メディアから問われた前原政調会長は、なんら矛盾はない、脚元は原子力発電が必要だが、将来的にはきっと原子力発電をなくすつもりだ、と言う。
  彼らの発言の意図は理解するが、これら一連の対応は、責任ある政府としては、多くの問題を含むものである。
  第一に、原子力発電を辞める方向だとするのであれば、原子力発電に依存しない電力量確保の、短期的・長期的対策を立てて、明確に説明する必要がある。辞めた菅直人は太陽光発電に注力する、と思いつきで言っていたが、今の野田政権としては、どうするつもりなのか。まず脚元としては、火力発電への依存が強まらざるを得ないが、その維持のためには真剣に原油輸入増量の確保、そのためのシーレーン確保が喫緊の課題である。民主党政府は、無責任にイラン沖船上給油活動を辞めてしまったので、シーレーン確保と逆行することはすでにやっているが、これからどうやってシーレーンを確保するのか、きちんと国民に説明しなければならない。当面の火力への依存度上昇による電力コストの上昇、「25%削減する」と思いつきで宣言した二酸化炭素の増加への対処などなど、関連するさまざまな問題に対してまじめに検討すること、国民に説明すること、などやらなければならないことは急増している。
  第二に、将来の電力確保の手段をどうするか、しっかりしたビジョンを早急に立案する必要がある。当然、素人中心の政治家に十分な構想ができるはずはないが、それでもたたき台を早急に国民に提示して、多面的な批判と智恵を集めることを開始しなければならない。菅直人のように、思いつきで「太陽光発電」などと言っても、なんの安心もできない。太陽光発電は、コストの問題のみならず、大きく変動する発電量にどう対処するのか、せいぜい一日の三分の一しか供給できない発電をどうやって主力の発電手段とできるのか、不安と不満は募るばかりである。
  第三に、安全のために原子力発電を辞めるというが、わが国が原子力発電を辞めることだけで、ほんとうに安全が確保できるのか。日本列島の 日本海側のほとんど全面は、中国大陸に面している。その中国では、現在は20基くらいだが、近い将来に70基、そして将来は200基の原子力発電所を建設する予定という。ちょうどいまごろ、中国から黄砂が日本に届いている。将来、多数の原子力発電所をもつ中国で、原子力発電所の事故が発生すれば、日本が影響を受けないことは、おそらくないだろう。そういう安全に対してどう考え、どう対処するのか。
  第四に、民主党政権は、一貫して原子力発電ブラントの輸出を積極的に拡大する、と主張してきたし、いまでもこれは翻していない。自分の国で安全性の問題から辞めるというものを、外国に販売していいのか。第三者から冷静にみたら、日本政府の態度は、矛盾して見えるか、無責任に見えるのではないだろうか。
  第五に、当面は原子力発電が必要だが、将来は辞める、という政府の発言が、国内にどういうインパクトを与えるのか、政府はまじめに考えたことがあるのだろうか。たとえば、原子力発電を扱う専門技術者の問題がある。半生記以前には、将来性の高い花形候補の分野として、原子力発電技術は期待が高く、多くの優秀な学生が原子力工学を学ぼうとした。それが30年余り前の米国スリーマイル事故、そしてソ連の25年前のチェルノブイリ事故を経て、学生たちは大きなショックを受け、積極的に原子力工学を学ぼうとする学生が激減した。いまその上に「将来は原子力発電をなくす」という政府のもとで、学生は決して原子力工学を学びたいとは考えないだろう。その結果として、近い将来原子力発電を支える専門技術者は皆無となる。「当面は必要」とする原子力発電所を保守・維持する人材をどうするのか。さらに、原子力発電プラントを輸出するなら、その将来にわたる保守サービスをどうするのか。私には、今の政府はなんにも真剣に考えていないように感じる。
  「言うだけ番長」とニックネームを付けられた前原政調会長だが、その「言うだけ」ですら、ちゃんとできていない。政治家の発言は、非常に広範囲に影響を及ぼすことがある。安易な発言で、わが国の学生が原子力工学をまったく学ばなくなり、技術的にまったく手も足も出ない状況を招来する可能性は非常に高い。それで、ほんとうにいいのか。
  寺島実郎氏は、原子力に関しては原爆を自粛している日本としては、原子力平和利用の典型として原子力発電の技術は世界一流のものをなんとしても確保・維持して、安全な原子力発電技術を確立して、平和利用の立場から原子力・核利用に関する日本の存在感と発言権を育成・確保することが必要だ、と述べている。これはきわめて妥当な見解である。
  原子力発電を辞めるという意見も、私は賛成しないけれども、ひとつの見識ではある。ただ、それならどうやって原子力発電のない電力確保、中国など外国の原子力発電を視野に入れた安全の確保、さらに当面のあるいは輸出後の原子力発電に対する技術的サポート体制を構築・維持するのか。問題は、非常に複雑で多岐にわたるのである。
  安易で軽率な政府は当然責任が重いが、このような大きな問題は、政府だけに任せるわけにはいかない。われわれ国民が、真剣に智恵を絞らなければならないのである。

人気ブログランキングへ

«「社会保障と税の一体改革」というけれど