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渡辺一郎『伊能忠敬の歩いた日本』ちくま新書1999

伊能忠敬の前半生―成功した事業家
 わが国で最初に本格的な地図を、日本全国にわたって測量し作成した先駆者として、私も伊能忠敬の名前は知っていた。しかしその人物や仕事の詳細については、ほとんど知るところがなかった。このたび偶然この書を知り、読んでみたのであった。
 この本のお陰で、伊能忠敬という人物がどういう存在であったのか、その仕事・業績がどういうものであったのか、わたしにとっては、はじめてはっきりしたイメージを得ることができた。
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 まず伊能忠敬というひとが偉大であったその基盤は、49歳まで営々と誠実かつ懸命に働いて、十分な財力を蓄えたことであった。伊能忠敬は、延享2年(1745)上総国、現在千葉県の外房九十九里浜の小関村に名主小関家の三男として生まれた。いくつかの偶然ともいうべきめぐり合わせで、17歳のとき、生家からは少し離れた佐原の酒造家伊能三郎右衛門家に婿入りすることになった。伊能三郎右衛門家では、たまたま当主か亡くなって、21歳で子持ちの未亡人の年下の婿となったのであった。婿入りしたときの伊能三郎右衛門家は、赤字に転落していたわけではなかったものの、当主をなくして苦境にあった。有能な実業家として忠敬は事業に邁進。拡大し、酒造のみならず運送業、薪問屋、貸家、農業、米商、金融業と現代の総合商社のように多角的に事業を展開して、一大豪農商となった。32年間働き、49歳で隠居するまでに3万両以上の財座を積み上げたという。現在の貨幣価値に換算すれば30~40億円くらいに相当する。

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木村尚三郎『歴史の発見』中公新書

 ちょうど半世紀前1968年発刊のフランス中世史家による新書である。材料としては西欧史をもちいるが、論ずることは歴史学の基本的な考え方、つまり歴史哲学というべき内容である。
 「歴史的思考」とは何かについて、まず「現代社会とはなにか」を過去の社会を考察することで析出させるのが歴史であり、その過去の社会すなわち現代とは異なる異質な社会への思考実験としての問いかけこそが歴史学であるとする。史料に基づいて過去を再構成するのだが、当然その営為はそれを行う歴史家が抱く問題意識に規定される。
 現代につながる「近代」をまず定義する。近代とは個の論理、すなわち私の論理が確立する時代である。そこでは法律体系として、国家と個人の間の権利義務関係を規定する「公法」と、国民相互間の横の権利義務関係を規定する「私法」とが明確に分離される。そこでは「私的所有権」が確立している。
 時代区分の基軸は「地縁的組織集団」である。統一的権力を内在する地縁的組織集団ができて、それが領域的強制力を確立したのがヨーロッパでは11世紀ころであり、それ以前を「先史時代」とする。
 農村共同体ができ、地縁的農業組織集団が確立し、それを封建領主が率いるのが11~13世紀である。地縁的農業組織集団が地縁的工業組織集団にとって代わられ、それをベースに近代市民社会が構成されるようになるのがヨーロッパでは20世紀ころである。この間の過渡期たる14~19世紀は、封建社会が崩壊してゆき絶対主義が現れ、市民革命が続き、マルクス主義も出てくる。このような歴史の流れをマクロなウィジョンとして提示する。
 興味深いエピソードとしては、イギリスは歴史的にみると、未成熟な農業経済社会から一挙に地縁的工業組織集団へ脱皮したという特異性をもち、そのため社会の特徴として、私的所有権を含む「個の論理」や市民社会の理念が希薄で、公法と私法も未分離な部分を残し、たとえば成文法としての憲法を未だに持たないこと、などを指摘している。
 以上の諸点は、わたしにとっても理解しやすいものであるが、さすがに半世紀前の論考だけに、現在ではあてはまらないところもある。たとえば、この本が著された当時は資本主義陣営と社会主義陣営とが対立して冷戦構造をなしていた。さらに冷戦構造は安定期に入り、資本主義下でも経済活動に広範囲に国家の行政指導が入り込み、私的所有権ですら一定程度国家権力に組み込まれ、資本主義と社会主義とが接近する傾向があった。たとえば西側ではフランスでは広範囲に国家行政が経済活動に介入し、そのことが時代の趨勢をリードしているような印象すら存在した。わが国の1950年代の戦後復興なども、典型的な国家主導であった。しかし1989年を画期としてマルクス主義陣営が崩壊し、現在は新自由主義という言葉さえ出るほど経済は政治・行政から距離を置くようになっている。そのような時代遅れの点もあげられるが、不易の真理を多々学べる良書である。
 私は最近になってささやかながら日本史に取り組んでいる者だが、広く歴史的についての基礎的な論考として、非常に啓発的で興味深い読書であった。

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呉善花『韓国併合への道』文春文庫

他人事でない自立できない国家の悲劇
 このたび、「韓国併合」について、ふたつの新書を読んだ。ひとつは海野福寿『韓国兵併合』岩波新書、1995であり、もうひとつがこの呉善花『韓国併合への道』文春文庫、2000である。
 この本の最大の特徴は、著者が韓国人であり、朝鮮の長い歴史の積み重ねに基づく朝鮮半島の人々の政治感覚と政治風土について解説があることである。私の場合は、この種の記述に触れるのが初めてであり、もちろんこの本だけですべてを理解したように思ってはいけないのだろう。それでも、とりあえずはひとりの韓国知識人の歴史の見かたとして貴重である。
 呉善花氏は、韓国併合の結果を導いた最大の要因は、日本の問題以前に、当時の朝鮮側の政府や人々の側に問題があったとする。有史以来中国を宗主とする華夷秩序体制の下で真の独立した国家運営を求めもせず、したがって経験せず、19世紀末の西欧列強の進出に対して中国・ロシア・日本などの近隣の強国に強く依存する他に生き残る術を見いだせない国であったことが、結果として日本の韓国併合を結果した。
 この書を読むと、翻ってわが国の今後が深く憂慮される。憲法9条さえ堅持すれば平和独立が維持できるなどという空論は論外としても、いつまでもアメリカの傘の下でいいのかという素朴な憂いが擡げてくる。日本単独で平和を維持するのも現実味がないが、一定度の自立を実力として保持しない限り、わが国の自立・独立はありえないだろう。
 歴史に関する著作は、たとえ同じ史料に基づいていても、その解釈やそれによる歴史像が大きく隔たることがある。著者の思考のバックグラウンドがそれぞれ違うのだから当然である。多様な人々の著作を読んでみないといけないと思うととともに、深刻な問題がけっして他人事ではない、と思い至ったのであった。

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海野福寿『韓国兵併合』岩波新書

 著者の海野氏は自ら外交史の専門家ではない、という。なのになぜ外交史を軸とするこのような書を記すに到ったのかについて、1993年平壌で開催された「日本の戦後処理に関するピョンヤン国際討論会」に参加し、「従軍慰安婦問題」や「強制連行問題」を議論したところ、北朝鮮側の主張は「従軍慰安婦問題」「強制連行問題」などの個々の問題以前に「日本の朝鮮支配全体の責任」を問うものであった、という。日本の植民地支配そのものが正当性・道義性を欠いていたから、「従軍慰安婦問題」や「強制連行問題」をひきおこしたというのである。
 海野氏は、これを問題提起として「にわか勉強」で研究の末「韓国併合は形式的適法性を有していたが、正当でもなく道義性もない」という結論に達したとする。
 この書は、明治5年(1872)のわが国明治新政府使節の朝鮮派遣、続いて発生した江華島事件からはじまる。それに続く日本と朝鮮の間のやり取りについて、不平等条約、壬午軍乱、甲申政変、日清戦争、大韓帝国成立、日露戦争、大韓帝国の保護国化、朝鮮内の義兵闘争、そして韓国併合にいたる国際政治過程について、主に外交を軸に説いている。
 海野氏は、明治初期の江華島事件から韓国併合まで、40年間一貫して日本は朝鮮の植民地化を目指し、朝鮮を見下しながら、常に侵略の推進に邁進してきたとする。清国に対しては前近代の「華夷秩序」を背景に朝鮮の宗主国を主張はしても、朝鮮を服属させてはいなかったし、朝鮮の内政。外交に介入してはいなかった、と一定度擁護するが、日本の政治家については、たとえば韓国の併合に反対して保護国化を主張し朝鮮の教育普及・殖産興業をはかった伊藤博文でさえ「思いあがった、独立冨強の名分をふりかざす侵略主義者」とする。海野氏からみると、明治時代から日本人は朝鮮に対して終始一貫して稚拙で卑怯で卑屈で悪意に満ちた存在であったかのようである。人数がかなり多かったわりにたいした成果もなかった義兵蜂起など朝鮮側の民衆運動に対して、過大とも思える評価をしているのも特徴である。
 史実に対する評価の面では、以上のように首肯しかねるところが多々あるが、史料に基づく事実関係の部分については、得るところもある。
 いわゆる「自虐史観」とは、こういう考えなのだろうと理解した。

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山内昌之『中東複合危機から第三次世界大戦へ』PHP新書

 2016年4月発刊の新書だが、このような分野の状況は変化がきわめて早いため、すでにこの書に登場する何名かのプレイヤーは交代していたり、新たな大事件が発生していたりする。それでもこの書に述べられていることはきわめて啓発的である。
 中東の当事者としてのキープレイヤーは、イラン、サウジアラビア、トルコである。その間に新たな問題児としてIS(ISIS、イスラム国)とクルド族が入り込んだ。シリアとイラクには、自ら事態に対処する能力を、さらにはその意欲さえも喪失しつつある。そこへ外部から深く介入するプレイヤーが、ロシアであり中国である。アメリカは、オバマ政権時代を経てよくも悪しくも影響力が大きく減退した。エジプト、ヨルダンなどは、ドイツ、フランスなど西欧諸国なみの影響力もないようだ。
 中東の大きな要因は、イスラム教である。私は遠い日本にいてリベラルを自称する呑気なひとたちの発言なども聞き、スンニ派とシーア派の対立なんて大きな問題ではないのでは、などと思っていたときもあったが、実はこの宗派間の対立も深刻な問題でありつづけている。スンニ派のサウジアラビア、トルコ、そしてISがあり、対してシーア派のイラン、シリアがあり、かつてスンニ派が多数派で今ではシーア派国家となったイラクがあり、イラン周辺のバハレーン、UAEなどの沿海地域にも多数のシーア派が隠然と入り込んでいるという。
 大国で力はあるが王室の腐敗から国内的にも国際的にも信頼を獲得しがたいサウジアラビア、政教分離にいち早く取り組んでムスリム近代化の優等生国家となり権謀術数も駆使して周辺諸国との問題を抑え込むことに成功してきたかにみえていたが、大トルコ主義への郷愁とポピュリズムから最近綻びが目立ってきたエルドアンのトルコ、核兵器開発をめぐってなんども国際的経済制裁に逢いながらも強かにかいくぐって着実に目標に漸近し、かつ巧妙にシーア派勢力を通じて中東全域に影響力拡大を図るシーア派のリーダーたるイラン、自国領内チェチェンから大量のIS戦闘員を出しつつもシリア実質支配を通じて中東での利権確保、さらにはクリミア領有を通じてヨーロッパ介入に余念のないプーチンのロシア、新疆ウィグルに自らの火種を抱えつつギリシアなどをいとぐちに中東さらにはヨーロッパへの触手を虎視眈々と探る共産党独裁の中国など、まるで映画の「仁義なき戦い」が遠くおよばないような凄まじい様相である。
 私たち日本人は、すぐ近くの尖閣諸島問題でさえ関心が高くない呑気な雰囲気で、中東の問題がメディアに上ることも少なく、あまりに無知なことに改めて驚く。小さな本だが、わが国を代表する中東問題専門家が解説する内容は広く重く深い。

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突然のパソコン故障とささやかな新たな挑戦と

 実は去る7月末ころから9月初旬まで1か月以上、私のパソコンが故障して作文・メール・ブログなどの作業一切がまったくできなかった。
 今年も2011年の東日本大震災以来、酷暑の1週間弱を除いてエアコン無しで過ごし、したがってPCも36℃ほどの中で使っていた最中、突然PCが停止して動作しなくなってしまった。「熱暴走」という現象で、CPUの空冷ファンの故障が想定されるとのことで、やむなく修理に出した。ところが、修理の過程でハードディスク・ドライブのエラーが異常に増えていることが判明して、ハードディスク・ドライブの取り換えが必要となり、当初の予想をはるかに超える大ごとになってしまった。
 旧ハードディスクのテータの救済は、幸いにしてほぼデータ回収でき、1か月以上かかった修理を終えたPCが9月初めに帰ってきたのだったが、そこからがまたひと騒動であった。
 OSは5年前近く前に購入した時点のWindows 8にもどり、故障時点で存在していたすべてのデータはすっかり空になっていた。OS をWindows 8から Windows 8.1にヴァージョンアップ、メールとインターネットの回線接続、メールアドレスとメール送受信データの復元、ワークファイルの復元、自分が追加して使用していたすべてのアプリケーション・プログラムの再インストール、プリンターとの接続、などなど実際にやってみると思いのほか手間と時間を要した。OSのヴァージョンアップや種々の設定は、日ごろやる作業ではないので、PCメーカーやネットワーク・プロバイダーに電話して、細かに指示を仰ぐことになる。その間、インストールや再起動、ソフトの更新などマシン時間がかかる場合は、いったん電話を切って、PCが落ち着いてから再度電話をかけなおす、というサイクルを何度も繰り返さなければならない。
 PCメーカーもネットワーク・プロバイダーも、電話すればすぐ出てくれるわけではなく、短くて10分、長いときは数十分待たされる。これが何度も繰り返される。
結局、PCの再立ち上げに、ほぼまる4日を費やした。
 この度は、これまでのテータの復帰と原状回復を最優先に、ともかく修理・再立ち上げとしたが、このPCもすでに5年近く経っており、近いうちに新機種に更新する必要もあるだろう。そこで、今回の事故で考えたのが、私自身が「親指シフトキーボード」から卒業すること、であった。私はキーボードを使い始めた28年前からずっと「親指シフトキーボード」を使用してきた。「親指シフトキーボード」だと老人の私でも、なんの苦労なく迅速に日本文のキーホード入力ができた。しかしながら、最近はいよいよ「親指シフトキーボード」愛用者の絶対数が減ってしまったのか、OSのヴァージョンアップへの対応が覚束なくなってきたようだ。私としても今後のPC更新に備えて、準備に取り掛かる必要を切実に感じ始めたのであった。
 日本語入力を「ローマ字変換」にすべきか、「ひらがな直接入力」にすべきか、という悩ましい選択がある。これまで「親指シフトキーボード」でワンストロークで1文字を入力することに慣れ親しんできた身には、いまさら1文字ツーストロークの「ローマ字変換」は、やはり抵抗があった。そういうわけで、68歳を過ぎた老骨に鞭打ちつつ「ひらがな直接入力」を修行中であり、いまもこの文章を覚束ない手つきで「ひらがな直接入力」で綴っている。
 そういう次第で、老身に様々なことが立ち向かってきた盛夏がようやく過ぎつつある。

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海北友松展 京都国立博物館 (4)

龍の連作と集大成の月下渓流図
  展示の最終付近に一括して現れるのが「雲龍図」である。北野天満宮、建仁寺塔頭霊洞院、勧修寺など、さらに遠く海外にまで買い取られて行った「雲龍図」は、海北友松のひとつの代表的な作品群なのだろう。たしかにいずれも迫力満点で充実した名作尽くしである。しばし黙して眺め入る。
 

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  そして、最後の展示作品が「月下渓流図屏風」である。 

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  この作品は、1958年からアメリカ・カンザスシティーの「ネルソン・アトキンズ美術館」に所蔵されているものを出張展示しているものである。高さ1.7メートル、幅3.5メートルの屏風2双構成となっている。早春の夜明けとおぼろ月の優しい光が、もやに煙る渓谷を照らす景観が情感豊かに描写されていて、光と影が交錯し、やさしく暖かく、とても心地よい日本の自然が見事に表現されている。海北友松の集大成との説明がある。
  会場はかなり混雑していて、自由に自分のペースで鑑賞することが少しむずかしい状況だったが、全部で76点、しかもすべてがかなりの大作で名作ぞろいであり、3時間弱ほどの疲労を感じながらも緊張を継続できる充実した鑑賞であった。

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海北友松展 京都国立博物館 (3)

円熟の全盛期
  60歳から70歳といえば、とくにこの安土桃山から江戸時代初期のころを考えると、すっかり老境のはずだが、この海北友松という人はなんとこのころ絶頂期を迎えたのである。
  画風に余裕というか、遊びというか、独自のおおらかさと優しさが出てくる。

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  「野馬図屏風」という作品がある。ここで描かれる馬は、速筆で一筆書きのように簡潔に、かつユーモラスでかわいらしく描いている。これを描いている友松の顔が微笑んでいるように思える。  

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  「浜松図屏風」という作品がある。ここでは、まるで俵屋宗達や尾形光琳をずっと先駆けるかのような、時代を超越してモダンな感覚あふれる絵である。金色、緑色、そして茶色のたった3色で大きな画面を埋め、その大胆さ、単純さ、自由さ、そして大きさは観るものを圧倒する。
Photo_3  「網干図屏風」となると、さらにおもしろい。このように漁場の干し網を主題に絵を描くというのは、当時は友松の他には決していなかったろう。しかもここでは、網の干し具合、つまりまだ濡れている網、かなり乾いた網、すっかり渇ききった網のそれぞれを、緻密に見事に描き分けている。題材や構図が大胆なうえに、技術が冴えわたっている。どうだ、よく見ろ、と友松がつぶやくのが聞こえるような感じがする。
  「禅宗祖師・散聖図押絵貼屏風」は、とても美しい絵である。友松の技巧のすべてが現れているように見える。

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海北友松展 京都国立博物館 (2)

建仁寺での飛躍
  友松の作品が多く残されている寺院として、京都建仁寺がある。かねて友松と交友があった安国寺恵瓊は、慶長4年(1599)前身の安国寺方丈を建仁寺本坊方丈として移設するにあたり、障壁画をすべて新調することとし、その制作を海北友松に依頼した。こうした経緯で建仁寺の方丈には友松の大作が一挙に採用された。さらに大中院・霊洞院・禅居院の3塔頭にも多数の友松の作品が取り入れられ、あたかも海北友松の博物館のような様相となった。
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  建仁寺方丈障壁画のひとつに「竹林七賢図」がある。描かれた七賢人の身の丈はもっとも大きなものでは1.3メートルを超え、安土桃山時代の人物画のなかでも最大級の大きさである。賢人の飄々とした表情が良い。
 塔頭の禅居院には「松に叭々鳥図」がある。鋭いスピード感で上に鳥2羽と枝が描かれ、狩野派では見られない大胆な余白を活かしたひきしまった絵である。力強さと落ち着いた情趣を兼ね備えた味わい深い絵となっている。

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  「花鳥図」では、ふつう繊細に毛並まで絵がきこむことが多い孔雀を、敢えて荒々しい筆致でスピード感溢れる表現とし、躍動感を与えている。「山水図」では、草体画という手法で書道の草書のように筆数を省いて墨のにじみや墨自体の重量感を活かす表現を用いている。また一方で「琴棋書画図」では真体画という書道の楷書のような細部まできっちり描き込む手法の冴えも見せている。
  このころになると、狩野派の影響はすっかり退き、海北友松の独自の世界が満開となってくるようだ。

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海北友松展 京都国立博物館 (1)

海北友松の出自と交友関係
  NHKテレビ番組の「日用美術館」で海北友松(かいほゆうしょう)の紹介を観て、ぜひ観たいと思っていた。
  会場に出かけてみると、会期末が近づいていたためか、平日の午後というのに入場者は多く、入場制限で20分待たされた。
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  海北友松は、天文2年(1533) 近江湖北に海北綱親の子として生れた。海北家は源氏の系譜を主張する武家で、父綱親は浅井長政の家臣であった。天文4年に父が戦死し、幼い友松は寺院に預けられた。禅門に入り、東福寺で修行するとともに、幼いころから画才を認められて、狩野派に絵画を学び、狩野派の一員となった。
 天正元年(1573) 浅井長政が織田信長に亡ぼされ、兄たちはすべて討ち死にしたが、友松は寺にいたおかげで難を逃れることができた。友松は武門に未練を残し還俗したいとしたが、秀吉に画才を認められたこともあり、武門を去って画業に専念することになった。

Photo_2 友松は、武芸にも秀でたうえに、絵のみならず歌や茶道にも嗜みが深かった。そうしたこともあり、当時一流の文化人でもあった細川幽斎とは交流が深く、幽斎の縁から明智光秀重臣の斉藤利光と生涯の親友となった。公家の中院通勝、八条宮智仁親王、大名の亀井茲矩、東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊など、その芸術を通じての交友関係はきわめて広かった。
 幼少期にはじまる狩野家とのかかわりは深く長く、絵の師でもあった狩野永徳が亡くなってから、友松はようやく狩野家を離れ、独自の境地を開いていくことになった。すでに年齢は60歳に近づいていた。まだ狩野派のなかにいたころ、友松が50歳代のころの作品として「柏に猿図」がある。背景の草木は狩野派的な表現だが、猿を没骨法で柔らかく優しく表現するところに友松の特徴がある。

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