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ボイス+パレルモ展 大阪国立国際美術館(2)

ボイスの初期のアクションと彫刻
Photo_20211201064101  ボイスは、早くも1961年に40歳にしてデュッセルドルフ芸術アカデミー教授となったが、本格的に作品を発表するようになったのはそのころ以降だという。それまでに「フルクサス」と呼ばれる前衛芸術の運動に、ボイスも参加していた。「フルクサス」とは、建築家ジョージ・マチューナスが提唱した前衛芸術運動で、美術、音楽、詩、舞踏など分野の別にこだわらず、広い芸術ジャンルにまたがって、新奇なインターメディア表現、シンプルで意味を限定しない表現、ユーモア・ウィットのある表現、ゲーム性を好んだ表現などを展開していた芸術運動であった。1964年7月、アーヘン工科大学で、フルクサスのイベントとして、「新芸術フェスティバル」が開催され、この場でボイスは「クーカイ、アコペー─ブラウンクロイツ、脂肪コーナー、モデル脂肪コーナー」という奇妙な題名のアクションを行った。演奏しながらピアノの音を歪めたり、電熱器で脂肪の塊を溶かしたり、参加者が意味を理解しにくいアクションを次々に演じていたが、そこへ突然ひとりの学生が乱入し、ボイスは殴られて流血した。しかしボイスはその後、敢えて鼻血を垂れ流したままキリスト像を掲げローマ式敬礼をするなど、あたかも自己神話化をめざすかのような振る舞いをしたことが、記録フィルムとして展示会場で放映されている。
 その翌年1965年11月には、デュッセルドルフの画廊で、自分の作品の前で死んだウサギを抱えて徘徊し、ウサギにそれを鑑賞させようとしているかのようなアクションを演じた。ボイスは、自分の頭髪にハチミツを塗り、頭と顔面には金箔を貼り、腕にウサギの死体を抱き、そのウサギに語り掛け、それにウサギが応じて頷くかのようにウサギを動かしている。最後の場面では、死んだウサギだけか残される、そんな短い短編の記録映像である。
 Photo_20211201064102 1967年の作品に「ユーラシアの杖」という、彫刻がある。彫刻といっても、造形のために材料を彫り出すのではない。厚めのフェルトでびっしり巻かれた4本の4メートル近くもある長い鉄アングルと、同じような長さの銅製のパイプである。解説によると、4本の鉄アングルは動物(鹿)の四つ脚で、銅パイプは杖を象徴する、とある。題名のユーラシアは、ユーラシア大陸全体ではなく、シベリアの凍てついた大地を意味し、その酷寒に堪えようとするフェルトに覆われた長い脚と、たどたどしい歩みのための長い杖の象徴なのだという。しかし、その寸法といい、単純過ぎる形状といい、私には説明なしではそのように解釈できるものではない。

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ボイス+パレルモ展 大阪国立国際美術館(1)

 私はボイスもパレルモも、これまで知らなかった。大阪市中之島の国立国際美術館で特別展が開催されているというので、知らない芸術家の作品を観るのもよいかも、と気軽に出かけた。11月の平日の午後から入館して、多分すぐに終わって日の暮れないうちに帰宅できるだろう、と高を括っていたのだが、果たして午後5時の閉館にかろうじて間に合うという長時間を要する鑑賞となってしまった。

ヨーゼフ・ボイス
 ヨーゼフ・ボイスJoseph Beuys(1921-1986)は、ドイツ西部ノルトライン・ヴェストファーレン州クレーフェルトに1921年生まれた。鹿、ウサギ、家畜の羊などが好きで、さまざまな伝説・物語を好んで読む、医師を目指す少年時代であった。15歳のころ、ボイスはヒトラー・ユーゲントに加入した。「誰もが教会に行くように、当時は誰もがヒトラー・ユーゲントに行ったのさ。」と後に語っている。同じころ、ナチスに焚書されるべき書籍の中にあった彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックの作品図版を見て強い衝撃を受け、以後生涯にわたりレームブルックを尊敬し、かつ彫刻の可能性を信じるようになったという。Photo_20211129061201
 青年期からはデッサンを描き始めるが、そこでは北方や東方の神話、自然科学、ルドルフ・シュタイナーの「人智学Anthroposophie」などをテーマとしていた。その1940年ころに、第二次世界大戦がはじまり、ボイスはドイツ空軍に志願し、通信兵として東部戦線に参戦した。ドイツの敗戦間近の1944年5月、ボイスはクリミア半島上空でソ連軍に撃墜され、瀕死の重症を負ってドイツ軍野戦病院に収容された。このとき、どういう縁かクリミア・タタール人の遊牧民に助けられ、一命をとりとめたと後に語っている。体温を維持するために脂肪を全身に塗り込められ、フェルトで包まれたというのだ。これが、ボイスにとって後に彼の作品の主要な材料・モチーフとなる脂肪とフェルトとの出会いであった。
終戦後は、芸術家になることを目指してデュッセルドルフ芸術アカデミーに学び、40歳の1961年には教授となって、パレルモなど多くの芸術家を輩出した。
 ボイスは、アカデミーの主流派とは異なり、「拡張された芸術概念」、「社会彫塑」、「人は誰もが芸術家である」と主張していた。作品は、絵画(どういうわけか、この展覧会の解説文ではすべてドゥローイングと表記されている)、彫刻、インスタレーション、学生との討論会(むしろ同志の集会)などの多面的な活動を行った。最晩年の1984年には、日本にも訪れている。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(7)

7.モダニズム建築の京都
 西欧では、20世紀前半にル・コルビュジェを代表とする「モダニズム」という建築様式が展開した。それまでの古代ギリシア・ローマ風の円柱をもった重々しい特徴的な装飾と色合いをまとった優美な様式から離れ、産業的な精神を軸に過去から自立し、科学の時代に適合した新しい様式を求めた。科学的裏付けをもった採光、照明、ガス、電気、水道、電話など機能的なインフラや装置をふんだんに取り入れ、そこで生活するひとびと、仕事するひとびとの安全と便利を最大化する合理性が特徴である。建物の形状としては、ごくシンプルな直方体であることも多い。
 このモダニズム建築と京都との関係を振り返ると、その導入の予兆を感じさせる戦前と、モダニズムを受容しつつもそれを進化させ日本の風土になじませようと努力を重ねた戦後とに大別できそうである。Photo_20211125062101
 西欧モダニズムの受容期の一例として、京都帝国大学花山(かさん)天文台があげられる。これは、京都大学の天文学研究設備として大学構内にあった天文台を、昭和4年(1929)東山の花山山頂に新設したもので、設計の主導者は京都帝国大学建築学科第一期生の大倉三郎と推察されている。半球、半円、円柱、直方体といった幾何学的形態の組み合わせによって全体が構成されている点にデザインの最大の特徴がある。その一方で、エントランスホールは、複雑で変化に富んだアール・デコ風の意匠を採用している。
1_20211125062101  モダニズムと日本あるいは京都との折衷と融和を模索した様式の典型と思われるのが、昭和41年(1966)竣工した国立京都国際会館である。設計は、丹下健三の片腕としても活躍した大谷幸夫で、公開設計コンペの195点の応募作に対して勝ち取った作品であった。この建築の最大の特徴は、断面図に現れる台形あるいは逆台形の、鉄筋コンクリート製の巨大な柱で、これらが空間を貫いていることである。このすべてが傾いた外壁面で、一見奇抜で荒々しい外観が、実は宝ヶ池や周囲の山並みなどの自然環境とみごとに調和するように考えられている。内部のメインホールやメインラウンジも、独創的なデザインで伝統とモダニズムの調和が実現されているそうだ。一見奇抜だが京都の風情に意外に融合する、ということでは原広司が設計したJR京都駅ビルを連想する。
 この展覧会は建築がテーマなので、絵画や彫刻のように作品の実物を鑑賞することはできず、写真や模型を眺めて説明文を読む、ということになり、極言すれば書籍を学ぶのと大差ないとも思われるが、こうして多数の大型写真、大型模型を並べた展示場のなかにいると、あらためて京都には近代以降のみでも多数の芸術的建造物がたくさん残っていることに感銘を受けた。安藤忠雄が言っていたが、建築は芸術だが、そこはヒトが住まったり活動したりする場所でもあり、その観点からの実用性は絶対的に要求されるので、本来的に自由度には限界がある。たとえば住宅であれば、立地環境に適合して、住まうヒトが満たされて、はじめて価値ある住宅建築となる。吉田山にある旧谷川住宅群のうちの一軒に現在住んでいる夫妻が、フィルム展示映像で話していたが「私たちは、ここに家を購入して住んでいるが、気持ちとしては京都のこの環境に住まわせてもらっているので、住まいをお借りしている意識だ。生活の快適のために安易に家屋に手を加えたりせず、そのままで居続けることがもっとも満足できる。」との言葉は印象に残る。
 私は、これから先何年生きるかわからない老人の身だが、幸い京都は近いので、今回知った京都の近代建築を、ひとつでも多く訪れたいと思った。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(6)

6.住まいとモダン・コミュニティ
 京都は、8世紀末の平安遷都の平安京の大都市計画から都市化が始まったが、長い年月を経て実際に開発・発展したのは、著しく東側に偏っていた。800年近く経って豊臣秀吉が京都の大改革を実施して、御土居という堀を都市京都の境界線とし、その内を洛中、外を洛外と呼ぶようになったが、この洛中は平安京の中央を貫いた朱雀大路の東側半分に北部の一部と鴨川縁の東部を加えた、平安京の当初のプランのほぼ半分の範囲のものとなった。明治維新以降、京都の市街地近代化は、洛内市街地の商業地・業務地の近代化と、それにともなう人口増加に対応して居住地が発達・拡大した。これは、洛外とくに東山地区からはじまった。明治維新で東山山麓の社寺の境内地や多数の塔頭が上地され、やがてその土地が民間に払い下げられることで別荘や住宅が増えて行った。明治20年ころから造営が始まった南禅寺界隈の別荘地は、その嚆矢となった。そのひとつ、山形有朋の別荘無鄰菴は、私も訪れたことがある。Photo_20211123062401
 郊外の住宅地化が本格的に進展するのは明治40年代で、そこにまず住み着いたのは、学者や芸術家、あるいは文筆家といった人たちであった。衣笠一帯には、木島櫻谷や土田麦僊など多くの日本画家が来住し、「絵描き村」とよばれようになった。志賀直哉も一時期衣笠に暮らした。同志社や第三高等学校、京都帝国大学に近い塔之段、下鴨、北白川などには、早い時期から大学教員や学者が住むようになった。
 京都学芸大学に近い北白川の住宅地に、駒井卓・静江記念館がある。駒井卓は、京都帝国大学理学部教授で遺伝学の研究者であった。妻・静江は、のちにヴォーリズの妻となった一柳満喜子と神戸女学院の同窓生であった。この縁だと推測されるが、駒井宅の設計はヴォーリズであった。赤色桟瓦葺の屋根、スタッコ仕上げの外壁、窓はアーチ型が多用され、壺飾りもあり、全体にスパニッシュ風のデザインだが、控えめな装飾性で、機能性と合理性を重視した、学者の暮らしぶりを顕すような仕上げとしている。内部の部屋の配置や内装も、工夫の行届いた設計となっているらしい。主屋のほかに別棟の温室や附属室も備え、当時の近代における郊外の暮らしを今に伝えている。
Photo_20211123062402  さきの大戦の前、御所の西側、堀川に沿って下長者町通りと下立売通りの間に、堀川京極商店街という繁華街があった。しかし戦争末期に延焼防止のため建物疎開となり、建物が撤去されてしまった。その疎開空地に昭和26年(1951)から昭和29年(1954)にかけて鉄筋コンクリート造の市街地型集合住宅が建設された。これが「堀川団地」である。椹木町団地、下立売団地、出水団地、上長者町団地で、建物は全部で6棟からなっている。戦後復興期の深刻な住宅不足の解消、都市防災のための防火建築帯の構築、商店街の再興が目的の事業であった。昭和25年(1950)に設立された京都府住宅協会が、最初に住宅金融公庫の融資を受けて建設した団地でもあった。
 いずれの建物も3階建で、1階を店舗兼住宅、2・3階を住居専用とし、堀川通側に住戸を並べる。各戸は、面積が異なるものの集合で、面積に応じて2K、3K、2DKの間取りが採用されている。2階壁面の後退を利用した2階共用テラス、各団地でことなる平面と立面の組み合わせの試み、通風や採光への配慮、店舗による賑わいの創出など、新しい住環境を指向する設計者の情熱が感じられる。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(5)

5.都市文化とモダン
 1920年代以降になるとヨーロッパやアメリカでは、ル・コルビュジェなどを典型とする機能性や合理性を重視して装飾を極端に省き、鉄筋コンクリート造や鉄骨造によるモダニズムと呼ばれる簡素な形態で抽象性の高いデザインの建築が流行しだした。しかしわが国の場合、これらのモダニズム的な建物は結果として普及せず、かなり保守的な伝統的美意識を必須要素として導入する、様式性を尊重した建物が依然として主流であった。とくに京都においては、そこはかとない京都らしさが隠し味のように強く求められていたように思える。必ずしも大きな建物に限らず、地元の工務店が設計したものが、洋風や抽象化されたモダンさのなかに、手作りの和風タイル、花鳥風月をテーマとしたステンドグラス、細かいところは象嵌細工などなど、和風の要素が取り入れられている建築物が多数ある。京都のひとびとが求めた近代建築は、「古くて新しいもの」であったようだ。Photo_20211119061501
 三条通りに面した京都文化博物館の建物は、もとは日本銀行京都支店として明治39年(1906)に竣工したもので、辰野金吾とその弟子の長野宇平治の設計による。イギリス風の煉瓦の表し仕上げ(あらわししあげ)で外観を統一し、壁面を白いストライプで飾る、いわゆる「辰野式」である。ルネサンス様式から、建物頂部や上部に、円柱やアーチ、ペディメントの要素を取り入れ、壁面にはゴシック風のバットレス(控え壁)を配置している。全体としては辰野式の様式にまとめつつ、巧みにさまざまな様式を部分的に折衷しているのである。
 日本銀行京都支店が河原町二条に移転した後、昭和43年(1968)から平安記念館として使用され、昭和44年(1969)から現在の京都文化博物館として使用されている。
Photo_20211119061601  四条大橋の西詰南側に、東華菜館という中華料理店のビルがある。これはかつて四条大橋の近くで八百屋を営んでいた「矢尾政(やおまさ)」のビアレストランの新店舗として、大正15年(1926)竣工した建物である。2代目店主であった浅井安次郎がウイリアムス・メレル・ヴォーリズに設計を依頼した。鉄筋コンクリート造の5階建てで、塔のように垂直に聳えていて、四条大橋付近のランドマークとして市民に親しまれている。外壁はテラコッタで装飾が施されたスペイン風で、とくに玄関付近には、魚、イルカ、タコ、ホタテ貝、巻貝などの魚介類をモチーフとしたレリーフが並ぶ。
 店主の浅井は、中国山東省出身の友人于永善にこのビルを譲り渡し、戦後に中華料理店「東華採館」となって現在に至っている。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(4)

4.ミッショナリー・アーキテクトの夢
 明治維新の後、わが国は西欧の先進文化・先進科学技術を学ぶことに懸命であったが、その活動の一部として、純粋な宗教的情熱を越えてキリスト教の精神や文物に憧れ、それらを媒介として西欧の先進文化・先進科学技術を取り入れようとした。それに応えて西欧からは、宗教的使命感をもった多くの宣教師や知識人が来日した。宗教的使命感のもとでキリスト教にかかわる教会堂、ミッション系の学校、病院、YMCA、宣教師館などの設計や建築にかかわった建築家たちを「ミッショナリー・アーキテクト」と呼ぶ。彼らの作品も、京都には多く残っている。Photo_20211117061701
 新島襄は、若き日々をアメリカに学び、明治8年(1875)帰国して京都に同志社英学校を開校した。やがて会津藩に生まれ戊辰戦争を闘った山本八重と知り合い結婚した新島襄は、明治11年(1878)京都御所近くの土地を購入して私邸を建てた。新島旧邸は同志社の教員で宣教師でもあったW.テイラーのアドバイスを得て、特徴あるベランダをもつコロニアル様式に、鎧戸(ガラリ戸)付のガラス窓が並ぶ木造二階建ての洋式住宅である。施工は、京都の大工であったという。セントラル暖房や洋式トイレなどがある一方で、日本瓦の寄棟屋根、角柱で真壁式の漆喰壁、障子風の欄間窓、2階の和室など、和洋混淆となっている。宣教師としての新島襄の生活信条から、全体としてはごく質素な佇まいである。昭和60年(1985)京都私邸有形文化財となって、保存されている。
Photo_20211117061702  新島襄が創設した同志社のキャンパスには、明治20年代から規模の大きな立派なレンガ造り建築が増えて行った。「同志社クラーク記念館」は、B.W.クラーク夫妻の寄付によって建てられた神学館である。神学部のための建物であり、キャンパスでもっとも目を引く建物である。北側に切妻屋根、中央部に大きな寄棟屋根、南西部角に小ドーム屋根をもつ八角塔が置かれる、きわめて個性的なデザインである。外壁にはさまざまな円形アーチ窓があり、棟飾りをもつ華やかな屋根、館内の重厚な玄関ホール、豪華なアーチ型船底天井のある2階講堂など、ドイツのネオ・ゴシック様式のきわだった建物である。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(3)

3.和と洋を紡ぐ
 わが国で、本格的な西洋建築が始まった当初から、和=日本と洋=西洋とをいかにつなぐかが、建築関係者の関心のひとつの核であった。御用技術者として日本政府が招いたイギリス人ジョサイア・コンドルは、明治10年(1877)来日すると、辰野金吾や片岡東熊など教え子たちに西洋建築を教えはじめた当初から、日本やアジアの要素を建築設計に取り入れることを指導していた。東京帝国博物館(明治14年竣工)のレンガ造りの外観には、インドやイスラムを想起させるドームやアーチが取り入れられている。この日本の地に建つべき建築として、コンドルは、最初から日本やアジアの要素の紡ぎ込みを問いかけていたようだ。Photo_20211115061201
 円山公園から「ねねの道」に下る途中にある大雲院は、実業家大倉喜八郎が京都別邸として建てた「京都大倉別邸」であった。この敷地にある「祇園閣」は、祇園祭の山鉾を模したユニークな塔である。昭和2年(1927)の竣工であるが、設計は伊東忠太である。日本建築の全体から細部まで、すべてを熟知した伊東忠太ならではの、京の遊びの系譜に近代的な贅沢を加えた傑作と評されている。
 昭和3年(1928)昭和天皇即位の大礼が京都御所で挙行されたが、これを記念する事業として、当時の京都に未だなかった公立美術館を建設しようと、当時の京都市長が提案し、市議会の賛同と多数の市民からの寄付を得て昭和8年(1933)開館したのが、「大礼記念京都美術館」(現在の京セラ美術館)であった。
Photo_20211115061301   設計は「四囲の環境に応じた日本趣味を基調とした様式とすること」との規定がつけられたコンペとなり、前田健二郎が当選した。前田健二郎(1892-1975)は、東京美術学校(現・東京芸術大学)図案科を卒業して逓信省、第一銀行技師を経て、大正末に自身の設計事務所を設立していた。多数の設計コンペに入選したが、結果として実現したのはこの大礼記念京都美術館のみとなった。コンペ以外では、共立女子大学共立講堂や鎌倉妙本寺釈迦堂などが作品として残っている。和洋の保守的な様式も、流行のデザインもうまく駆使できる建築家であったと評されている。
 今では京都市京セラ美術館となったこの建物は、建物全体のマクロな様式は西洋風とし、小さくともアクセントの大きい正面の千鳥破風をはじめ、飾金具、蟇股(かえるまた)などの局所的な要素に和風を巧みに導入している。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(2)

2.様式の精華
 近代都市京都は、新規発展のみでなく歴史都市としてのアイデンティティをも追及した。古都のイメージと西洋近代建築様式との折衷・調和は、早くから意識されていた。1000年の都として京都に蓄積されてきた美術工芸品を収集・保存するため、明治21年(1888)の東京上野の帝国博物館に続いて、京都と奈良にも博物館が求められた。明治維新政府の最初期の政策には、激しい廃仏毀釈などもあり、多くの貴重な仏像が安易に廃棄されたり、仏師として懸命に修行を重ね高い技能を認められていた若き日の高村光雲が、絶望して西洋彫刻に倣った彫刻を制作しはじめて、結果として世界から賞賛される彫刻芸術家になったという逸話も誕生した。1_20211111062001
 ともかく、こうして明治28年(1895)「帝国京都博物館」(現・京都国立博物館)が竣工した。設計は、宮内省内匠寮の技師であった片山東熊が担当した。片山東熊(1854-1917)は、長州藩士の子として嘉永6年に生まれ、少年ながら戊辰戦争に従軍した後、明治12年(1879)工部大学校造家学科を第1期生として卒業、欧米各国をめぐって西洋の建築を視察し、西洋様式と日本の歴史的様式の統合に努め、帝国京都博物館をはじめ、東京御所(現・迎賓館赤坂離宮)など皇族邸宅・離宮なども設計した。
Photo_20211111062101  円山公園の南端に「長楽館」と呼ばれるレンガ造り3階建ての洋館がある。これは「サンライズ」という紙巻煙草で実業家として成功した村井吉兵衛の別邸として明治42年(1909)建てられた。アメリカから来て立教学校校長を勤めた伝道師・教育家であり、かつ建築家であったジェームズ・マクドナルド・ガーディナーが設計し、清水組(現・清水建設)の清水満之助が施行を担当した。
 岩石を原料とする天然スレート葺の屋根を持つルネサンス風の建物で、イオニア式の玄関ポーチを導入し、外壁は1階部分を花崗岩貼り、2・3階は黄褐色のタイル貼りにコーナーストーンを施している。迎賓施設として用いるために、1階には客間、ビリヤード室、食堂、2階には客間、貴婦人室、喫煙室、美術室などの接客空間が配置されている。内装も、1階はルネサンス風、2階喫煙室はイスラム風、3階は桃山風の書院など和風を凝らして、西洋・東洋・和の意匠を網羅しようとする意図が感じられる。

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モダン建築の京都展 京都市京セラ美術館(1)

 「モダン建築の京都展」は、1か月以上前から始まっていたが、コロナ騒動の緊急事態宣言や例年にない10月に入ってまでの残暑などで、ついつい出かけるのが遅れてしまい、やっと10月末になって鑑賞することができた。Photo_20211109062401
 私にとっては、京都市美術館が改装され「京都市京セラ美術館」と改められてからは、初めての来館である。建物の外観は、構造や装飾ももちろん変わらないが、丁寧に清掃したのか全体に綺麗になっている。そして一番変わったのが出入口で、地下一階からとなった。そして館内の内側の壁が大きなガラス貼りに替わり、美しい庭園を広範囲から眺めることができるようになった。

1.古都の再生と近代
 京都は、明治維新で天皇が東京に移ってしまい、あわせて公家たちも東京に出て、かつての都としては文化的に大きなダメージを被った。また天皇以下の朝廷を軸とする都を支えていた商工業も衰退した。しかし京都は、官民を挙げて教育と勧業を軸にして繁栄の再建と近代化に取り組んだ。
  明治2年(1969)には、全国に先駆けて小学校が建設され、殖産興業のために京都府に置かれた勧業方は、勧業場、女紅場(じょこうば: 女性の授産のための育成機関)、養蚕所、製糸場、牧畜場などを次々に開設した。明治28年(1890)には、第4回内国勧業博覧会が岡崎で開催され、同時に博覧会場に接してその会場の北側に平安神宮を創建した。
 平安神宮の設計を担当したのは、伊東忠太(1867-1954)であった。伊東忠太は、出羽国米沢に生まれ、軍医を目指した父にともない上京し、父の転勤で千葉に移転したり、ドイツ語を学ぶために東京外国語学校に学んだりした後、帝国大学工科大学造家学科を卒業し、大学院に進んだ。大学院のとき「法隆寺建築論」を記し、わが国の日本建築史研究の先駆けとなった。ちなみに、「造家学」では建物建造においての芸術性を表せないとして、「建築学」の呼称を提唱したのが伊東忠太であったという。Photo_20211109062501
 明治政府が「学制」を発令したのは明治5年(1872)であったが、それに先駆けて明治2年(1869)に、京都の町組はのちに「学区」となる「番組」という住民共同体単位で64校もの小学校を創生していた。これらの施設は、行政の出張所や町組の集会所としても機能させた。小学校の建設や運営は、町組が主導することになったので、それぞれが独自性を発揮して、個性豊かな校舎を誕生させる結果となった。
 古くからの京都市街の中心に、下京三番組小学校として開校したのが明倫尋常小学校である。アーチ型や丸型など、美的意識の高い意匠の窓が取り入れられていた。建設は清水組(現在の清水建設)であった。現存の校舎は、昭和天皇御大典記念事業として昭和6年(1931)改築されたものである。鉄筋コンクリート造の躯体に、外壁は人造石洗い出し仕上げとなっている。小学校の統廃合のため、平成5年(1993)廃校となったが、建物は改修されて、現在は京都芸術センターの建物として使用されている。Photo_20211109062601
 琵琶湖疎水は、京都復興を目指して第3代京都府知事北垣国道が始めた、灌漑、上水道、水運、水車の動力など多方面へのテコ入れを目的とした、当時史上最大規模の土木事業であった。滋賀県大津の取水口から京都蹴上の船溜までの約8キロメートルを、3つのトンネル(隧道)を経由して高低差3.4メートルの緩勾配で接続する壮大かつ緻密を要する工事であった。工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎が、主任技術者として設計監督を担った。
 京都御所の防火用水を実現するため、紫宸殿の棟まで放水することが求められ、十分な水圧を得るために九条山頂上に貯水場を設け、蹴上側トンネル出口から水を九条山貯水池にくみ上げるために九条山麓にポンプ室が設置された。明治45年(1912)完成した建物にはポンプが収納されるのみだが、その外観は英仏の新古典主義を取り入れたレンガ造りで、皇室建築の風格を漂わせている。
Photo_20211109075701  勧業政策に注力する京都府は、勧業場や舎密局(せいみきょく)を木屋町近くにつくった。仏具職人から出て鋳物業を木屋町で営んでいた島津源蔵は、明治8年(1875)勧業場や舎密局で必要となる理化学機器の製造を始めた。これが島津製作所のはじまりであった。
 昭和2年(1927)、島津製作所は、京都帝国大学建築学科創設メンバーたる武田吾一を設計顧問に迎え、武田吾一のもとにいた荒川義夫の設計により、河原町二条下ルの高瀬川沿いに本社営業所ビルを建築した。平滑でグラフィカルな斬新なデザインのファサードが特徴で、これは後に島津製作所河原町別館となり、平成24年(2012)からはレストラン・結婚式場「フォーチュンガーデン京都」として使用されている。

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「発見された日本の風景」展(4)

庶民の仕事ぶりへの関心
 ひとびとの暮らしへの視線と同じようなことだが、日本の庶民の仕事ぶりにも関心が向けられていた。Photo_20211105064501
 やはり笠木治郎吉の「提灯屋の店先」がある。やはり水彩画なのだが、大胆で動きのある構図、繊細で高度な描く技術、結果としてのダイナミックさ、立体感、臨場感など、素晴らしい絵だと思う。写真よりも写実的な、というべき絵画作品である。
 本多錦吉郎「豊穣への道」がある。ミレーの「晩鐘」を連想させる暗い画面と背景のほの明るい夕空との組み合わせが印象的である。厳しい日常の農作業と、近い将来の収穫への希望を表現しているのだろうか。油彩でもあり、そもそも画面構成がそれまでの日本の絵とはまったく違うものである。
 本多錦吉郎(ほんだきんしろう、1850-1921)は、幕末の嘉永3年(1850)江戸の広島藩屋敷で藩士の子として生まれた。8歳のとき、父の死により家督相続し、15歳で広島に帰って第二次長州戦争に従軍した。その後、広島藩の藩校で洋式兵学を学び、あわせて英語を学び、やがて藩校の助教授となった。しかし明治4年(1871)廃藩置県により失職し、上京して慶応義塾で1年間英学を学び、工部省測量司の測量学校に第二期生として入学した。そこでイギリス人御雇教師であったライマー・ジョーンズに画才を認められ、洋画家への道を薦められた。その後、英学・英法学などを教えていたが、画才を活かして明治10年代から週刊新聞『団団珍聞』及び姉妹紙の『驥尾団子』(きびだんご)に風刺漫画を提供していた。明治16年から明治34年まで、陸軍士官学校と陸軍幼年学校の図画の教官を勤めた。明治19年(1886)には、文部省の委託により『小学画手本』14冊を編んだ。明治22年(1889)、岡倉天心やアーネスト・フェノロサらが、日本美術革新のためとして洋画を排斥した東京美術学校を設立すると、それに対抗して、明治美術会を小山正太郎・浅井忠らと設立した。
Photo_20211105064601  私は、彼の作品としては明治期の保守的作風の代表とされる「羽衣天女」を展覧会で観たことがある。「羽衣天女」はじゅうぶんに日本的のように思えたが、一方で「豊穣への道」のような、すぐれて西洋画風の作品を残していたことを知って、彼が岡倉天心らに反対したことも頷けるように思った。
 全体を通して印象に残ったことは、明治期のはじめころからわが国の絵画は、西洋画から受け取った優れた写実表現を、急速かつ高度に洗練していったこと、あわせて西洋画で「風俗画」を軸に進展した環境、生活、風俗への視点を着実に取り入れたこと、である。水彩画の緻密な表現力は、日本の画家が高い水準で習熟していた。
 こんな高い水準の写実性が、いまではほとんど忘れ去られているのは、やはり並行して日本に入ってきた写真技術の影響があったのだろう。写真の登場により、絵画での写実能力は、もはや大きなアピール・ポイントではなくなったのだろう。
 それでも、当時の西洋画から受け継いだ「視点」の豊かさは、明治以降までわが国の絵画・美術に影響を残し続けた。
 全部で286点という多数の展示は、私の鑑賞能力のキャパシティーを超えるものであり、ヘトヘトになって鑑賞しても、なにかやり残しや観残しの感覚がある。しかし、まあこれはこれでなかなか充実したひとときであった。

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