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談山神社紅葉見物(5)

本殿
 木造十三重塔を過ぎて少し東に進んだところに、本殿(旧聖霊院)がある。2_20241207054301
 大宝元年(701)十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂が建立され、聖霊院と号したのが現在の本殿の由来である。
 大織冠社や多武峰社とも呼ばれていた。三間社隅木入春日造という珍しい造りである。日光東照宮造営の手本とされたという。幕末の嘉永3年(1850)に造替が行われた。
 靴を脱いで建物のなかに入ると、広々とした部屋、高い格子天井、朱色の柱と梁など、非日常的な雰囲気の美しい空間である。すくなくとも室内の内装は、最近手を入れてきれいにしたのかも知れないと思った。
Photo_20241207054301  室内には、「多武峰曼荼羅」と名づけられた藤原鎌足・定慧上人・藤原不比等の3人を描いた絵の写しが展示されている。この本物は、権殿に展示があった。
 曼荼羅の絵の最上段には三面の神鏡があり、その前に御簾が垂れている。それから両脇に向かって帳(とばり)が降ろされる。藤が絡む松の描かれた衝立を背景として、画面中央に藤原鎌足が少し左方向に顔を向けて座っている。画面の右下には鎌足の長男定慧上人が、画面の左下には鎌足の次男藤原不比等が、それぞれ中央に顔を向けて座っている。定慧上人の手前には鎌を咥える狐が、不比等の手前には矢を咥える狐が控える。
 同じく室内展示として「増賀(ぞうが)上人坐像」がある。Photo_20241207054401
 木造、玉眼、彩色の増賀上人坐像である。法衣を纏い禅定印を結んで結跏趺坐している。静かに端座する老僧の姿は、端正で静謐な趣に満ち、多武峰で浄行を行った増賀上人の面影を彷彿とさせている。
 比叡山で慈恵大師(元三大師)良源に師事して天台教学を学び、応和3年(963)如覚の勧めで多武峰に住んで「摩訶止観」「法華文句」を講じ、「法華玄義鈔」「無限念仏観」などを著した。また、毎年四半期ごとに法華三昧を修した。一方不動供(不動明王を供養する修法)などの修法や法華経読誦を行い、奇瑞を現したという。高い名誉や利権を嫌い、奇行譚を多く残した。即身仏となったと伝わる。

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談山神社紅葉見物(4)

権殿
 石段を登ったところの正面にある大きな建物が権殿(ごんでん、重要文化財)である。2_20241206060401
 権殿は、天禄元年(970)摂政右大臣藤原伊尹(これただ)の立願によって創建され、実弟の如覚(にょかく、多武峰少将藤原高光)が阿弥陀像を安置した常行堂(天台宗において四種三昧のうち常行三昧の修行をするために建てられた仏堂)であった。また、室町時代には、ここで「延年舞」が行われた。
室町後期の再建によるものが500年ほど残ったが、平成時に大修理を行い再生した。
 古典芸能・現代舞踊・音楽・絵画・写真・彫刻・陶芸・映画・演劇・歌謡・落語・漫才・文学・詩など広義の芸能に携わる人たちの守り神として、また芸能上達を祈願する「祈りの場」として、あるいは「集いの場」として崇敬を集めている。
 私たちが訪れたときは、中臣鎌足や大化改新にまつわる絵・絵巻物・衣装の展示を催していた。

十三重塔
1_20241206060501  権殿にすぐ隣接して、高く聳える十三重塔がある。これは高さと特徴ある形態から、かなり遠くからでも見つけることができる談山神社のメルクマールである。
 鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後、天武天皇(白鳳)7年(678)鎌足の長男たる定恵(定慧)が唐から帰国後に、父の墓を摂津国安威(大職冠神社の将軍山1号墳=阿武山古墳)から大和国の当地に移し、その墓の上に十三重塔を造立したのが、この談山神社の発祥であるとする。すなわち談山神社の起源となった建造物である。現存のものは享禄5年(1532)再建されたものである。
 木造十三重塔としては、現存で世界唯一の貴重な重要文化財の建造物である。

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談山神社紅葉見物(3)

閼伽井屋
 総社本殿から権殿に向かう途中、権殿のある高台に上る石段に向かう手前に閼伽井屋(あかいや)がある。Photo_20241205060601
 閼伽(あか)とは、仏に供える水のことで、その「閼伽の水」をくむ井戸を閼伽井戸と言い、その井戸を納める小屋を閼伽井屋という。
 この小屋は、屋根はこけら葺き(薄板の積層)で、江戸時代初期元和5年(1619)の造営である。この中の井戸は「魔尼法井(まにほうい)」と呼ばれ、その昔中臣鎌足の長男定慧(じょうえ)和尚が法華経を講じたとき、龍王の出現があったと伝える。これも重要文化財である。


比叡神社
2_20241205060701  権殿(ごんでん)の前の石段を登り、左手奥に行くと比叡神社(ひえじんじゃ)がある。
 この建物は、江戸時代初期の寛永4年(1627)造営の一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、すなわち切妻の屋根の正面側は非対称に長く、正面を構成する2本の柱の間隔は1間であり、小型の様式である。しかし正面には軒唐破風をつけ、檜皮葺の小さくも豪華な様式となっている。もとは飛鳥の大原にあった大原宮がここに移築されたもので、明治維新までは「山王宮」と呼ばれていたという。これも重要文化財である。

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談山神社紅葉見物(2)

総社拝殿
 境内に入ってすぐ、ちいさな広場を挟んで神廟拝所の向かいに総社拝殿がある。Photo_20241204055301
 これは寛文8年(1668)、本殿の建て替えなど神社全体にかなりの規模で改築・改修が行われたときに造営された建築物で、重要文化財である。この談山神社の拝殿を縮小したような様式で、正面・背面ともに唐破風を備えた優美な風貌である。今は、布袋存(ほていそん)の木彫像が祀られている。
 内と外の小壁には、狩野永納(かのう えいのう)が描いた壁画が残り「山静」の落款が見られるという。

総社本殿
1_20241204055401  総社拝殿をぐるりとめぐって背面に入ると、末社・総社本殿(重要文化財)がある。
 これは延長4年(926)の勧請というから、起源は平安時代前期でとても古い。日本最古の総社と説明板にある。寛文8年(1668)談山神社本殿を造替した元の本殿を、寛保2年(1742)ここに移築したものとされる。

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談山神社紅葉見物(1)

 秋の快晴の日、家人と奈良多武峰の談山神社に、紅葉見物に出かけた。


Photo_20241203061201

 今年は残暑が厳しく、10月の後半までは夏の名残が続き、11月も後半に入ってようやく涼しくなった。ただ気温の降下がかなり急速であったので、遅れていた紅葉の見ごろのネット情報が始まると、紅葉の見ごろも早く過ぎ去るのではとの懸念と、急速に下がった気温から紅葉の鮮明さへの期待とから、いささか気が急いて紅葉見物に赴いたのであった。
 鉄道の桜井駅から談山神社まではバスで30分程度だが、1時間に1本以下の頻度である。早めに家を出て桜井駅に着くと、早くもバス乗車の待ち行列ができていた。紅葉シーズンとあって、バスは同じ時刻ながら増発していて、2台が同時にバス停に来た。私たちは1台目で幸い着席できたが、立っている乗客も混雑して、ほぼ満員であった。
 江戸時代の三間道路くらいの幅(5メートル余程度)の道が続き、対向車とすれ違うことが難しい場所もあり、ときどき停車する。道幅の狭い道路で緩やかな上り坂が続く。
 談山神社に近づくと上り坂が急になり、ようやくバス停に到着した。まだ午前10時過ぎだが、早くも帰り路に向かうバス乗客が列をつくって待っていた。Photo_20241203061301
 談山神社は、案内パンフレットや案内マップがないので、バス停前の土産物のお店で神社への道筋を聴いた。ゆるやかな坂の小径をぐるっとまわって、神社の入口に着いた。
 入口に境内の案内図の説明板が建っているのが貴重な情報源である。入場受付所で入場料を支払うと、靴を脱いで上がるときの靴入れのポリ袋をいただくが、入場券はないらしい。
 談山神社は御破裂山の麓にあり、傾斜があって、入口から境内の全貌を見ることはできないが、とりあえず十三重塔とその手前の神廟拝所のまわりの木々を眺めることはできる。まだ紅葉は一部にとどまるようだ。
 入場してすぐの場所で、神廟拝所と十三重塔を背景にして記念写真を撮るビジネスが営業していた。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(10)

日本煉瓦製造株式会社とホフマン輪窯
 あかね通りを北上していくと小山川に行き当たるが、手前で大きく右折すると南北に走る道路に面して、かつての日本煉瓦製造株式会社の大きな煙突が聳えているのが見える。
 明治政府は、東京新都心として日比谷周辺を近代的建築による官庁街とする「官庁集中計画」を立ち上げ、その実現のために明治19年(1876)臨時建築局を設置した。
 財政的に厳しい明治政府は、実業界の実力者渋沢栄一に大量生産ができる機械的レンガ工場の設立を要請した。渋沢は、従来から瓦の生産が盛んで、煉瓦の原料となる良質な粘土が採れること、小山川から利根川に入り、江戸川、隅田川を経由して東京へ煉瓦を運ぶ舟運が持込めることから、自分の実家近くの上敷免村を工場建設地として選定した。
 建設にあたり、ドイツ人煉瓦技師チーゼを雇い入れ、設計を進めた。製造の要の窯は、ドイツ人フリードリッヒ・ホフマンの考案による当時最先端の「ホフマン式輪窯」を採用し、明治21年(1888)から操業を開始した。翌年には2号窯と3号窯が完成し、操業を拡大した。Photo_20241202055001
 現在遺構が残っているのは、明治40年(1907)建造のホフマン輪窯6号窯で、煉瓦の連続焼成が可能な、長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの煉瓦造りである。大きな楕円型の炉の内部を18の部屋に分割し、窯詰め・余熱・焼成・冷却・窯出しの行程を、各部屋ごとに順次行いながら移動していき、約半月で窯を一周する。焼成の過熱は、部屋の天井にある小さな孔から石炭を落下させて燃焼する。各部屋には18,000枚の成形された焼成前の煉瓦を収納して焼成し、全体で月産65万枚の製造能力を持っていた。昭和43年(1968)までの約60年間、煉瓦を焼き続けた窯であった。
 当時は、世界最大クラスの煉瓦量産工場であった。明治時代に東京に相次いで建設されたレンガ造りの建物の多くは、この工場の製品を使っていたことになる。
 戦後の最終段階では、電気加熱も導入されたという。平成18年(2006)工場の操業は停止された。

深谷・渋沢栄一遺跡を巡って
 電動アシスト自転車を使って、20km弱ほどの行程を6時間程度かけて散策した。深谷駅直近の中心市街部以外は、田畑に囲まれた美しい豊かな田園都市という風情であり、おおいに楽しめた。
 ただ、観光案内所や訪問先でいただく案内マップに統一性・一貫性がなく、訪問したい場所を探すのに、地域は重なっているはずなのに、何枚もの別々のマップを探す必要がある。散策してまわる者の側からすると、かなり使いにくい案内マップとなってしまっているのである。これは市の観光担当部署あたりで、統合・整理していただければ有難いと思った。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(9)

あかね通り
 次の訪問先は、渋沢栄一らによって設立されたレンガ工場「日本煉瓦製造株式会社」の史跡である。14号線を少し南下して、大寄小学校の横を左折して、国道11号線中山道に並行して東西に走る道に入る。唐沢川を渡り少し行くと「あかね通り」という遊歩道に行き当たる。この道は、ヒトが歩行するラインと自転車が通行できるラインとの2つに分けられ、両脇に並木のある個所も多く、ある程度整備された道となっている。Photo_20241201055301
 「日本煉瓦製造株式会社」のレンガ工場は、利根川の支流小山川に近接しており、明治21年(1888)の操業開始から、製造された煉瓦は舟運により小山川から利根川へ、そして江戸川に入り東京に至るというルートをとっていた。
 しかしやがて輸送力向上を目的として明治28年(1895)日本鉄道の深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって、日本初の製品輸送専用鉄道が敷かれた。この専用鉄道が開業した4年後、舟運による輸送は廃止された。専用列車は、大正時代ころは1日に3往復が運行していた。
 しかし、大正12年(1923)関東大震災によって建築物の煉瓦構造の脆弱性が指摘されたこと、日本煉瓦製造株式会社が秩父セメント(後の太平洋セメントの一部)を設立してセメント製造業に進出したこと、などによって煉瓦の出荷量が減少した。さらに鉄道による貨物輸送の衰退も相まって専用鉄道は存在意義が減少していった。
 ついに昭和47年(1972)から休止扱いとなり、昭和50年(1975)3月に全線の廃止が決定し、翌年3月に線路用地が深谷市に譲渡された。
 その後線路が撤去され、歩行者と自転車が通れる遊歩道「あかね通り」となっているのである。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(8)

誠之堂と清風亭
 尾高惇忠生家を出て下手計(しもてばか)交差点を右折して14号線に入り、小山川の橋を渡ってすぐのところに大寄公民館がある。この公民館の敷地に、誠之堂と清風亭がある。Photo_20241130054901
 これらはともに東京都世田谷区瀬田にあった第一銀行の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に建てられていた建物を、この地に移築・復元したものである。清和園にあったときはあまり公開されることがない建造物であったが、建築研究者や建築関係者の間では、いずれも日本建築史上、大正期建築を代表するものとして注目されていた。
Photo_20241130055001  しかし昭和46年(1971)清和園の敷地の過半は、聖マリア学園(セント・メリーズ・インターナショナルスクール)に売却された。建物と敷地は第一勧業銀行の所有であったが、平成9年(1997)学園の施設拡張にともない、これらの建物は取り壊しの危機に瀕することとなった。渋沢栄一を輩出した深谷市としては、貴重な文化遺産が取り壊されるのを看過できず、譲り受けに乗り出したのであった。
 ただ、このような繊細な煉瓦構造物の移築はわが国でも先例がなく、移築方法に検討が必要であった。深谷市につくった移築保存検討委員会の研究・検討の結果、煉瓦壁をなるべく大きな単位で切断して搬送し、移築先で組み直す「大ばらし」という新規な工法を採用することとした。2年間の解体・復元の工事を経て、平成11年(1999)8月移築・復元が完了した。
 誠之堂は、大正5年(1916)渋沢栄一の喜寿を記念して第一銀行の行員たちの出資により建築されたものである。
 渋沢栄一の大きな業績のひとつが第一国立銀行の創設であり、渋沢栄一は自らその初代頭取を勤めた。栄一は、喜寿を迎えるのを機に、第一銀行頭取を辞任したが、こうして誠之堂建設の出資にその行員たちの多数が関わったことから、栄一が行員たちから深く敬愛されていたことがわかる。
 「誠之堂」の命名は栄一自身によるもので、儒教の「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也」、すなわち、誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり、のことばに因んだものである。
 設計は、当時の代表的建築家のひとり田辺淳吉が担当した。設計の条件として、西洋風の田舎屋で、建坪は30坪程度とされ、田辺淳吉独自の発想を凝縮してこの建物が実現した。建築面積112㎡、煉瓦造平屋建て、外観はイギリス農家風ながらも、室内や裏面のところどころに日本風あるいは中国・朝鮮の東洋風のデザインを取り入れ、独特の魅力的な建物を実現している。Photo_20241130055101
 外部壁面には白色・薄茶色・褐色の3色の煉瓦をリズミカルに配置して、装飾性と心地よい軽快さを与えている。いずれも深谷市内の日本煉瓦製造株式会社で焼かれたもので、実は白色や薄茶色の色の薄いものは、製品規格から外れた不合格品を有効活用したという。
 化粧の間や大広間には、森谷延雄のデザインによるステンドグラスを取り入れた窓がある。大広間の円筒型漆喰天井(ヴォールト天井)は、石膏レリーフで雲、鶴、松葉の緑、寿の文字が配され、次之間の天井は、日本的な網代天井で数寄屋造りを取り入れている。
 清風亭は、大正15年(1926)当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希を記念して、誠之堂に並べて建てられたものであった。建築資金は、誠之堂と同様に行員たちの出資による。
Photo_20241130055102  佐々木は、28歳の若さで第一国立銀行本店支配人に就き、大正5年(1916)渋沢栄一を継いで第一銀行第2代頭取となった人物であった。勤勉精励、謹厳方正な人柄で、終始栄一を補佐したという。
 清風亭は、当初佐々木の雅号をとって「茗香記念館(めいこうきねんかん)」と称されたが、後に「清風亭」と呼ばれるようになった。
 設計者は、銀行建築で高名な西村好時である。建築面積168㎡で鉄筋コンクリート造り平屋建、外壁は人造石掻落し仕上げの白壁に黒いスクラッチタイルと鼻黒煉瓦がアクセントを加えている。「南欧田園趣味」として当時流行していたスペイン風の様式が取り入れられている。大正12年(1923)関東大震災を契機に、建築は煉瓦造りから鉄筋コンクリートに主流が代わったが、その最初期の建造物として建築史上貴重なものとされる。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(7)

尾高惇忠生家
Photo_20241129055101  旧・渋沢邸「中の家」と諏訪神社がある血洗島から14号線下手計交差点を目指して東方向に行く。下手計交差点の少し手前の北側に尾高惇忠生家がある。
 尾高惇忠は、渋沢栄一の10年年長の従兄であり、天保元年(1830)この家に生まれた。この家を建てて住み始めたのは惇忠の曽祖父尾高磯五郎であった。「油屋(あぶらや)」の屋号で呼ばれ、この地の有力な豪農でかつ商人であった。Photo_20241129055102
 磯五郎の3代後の惇忠は、尾高勝五郎保孝の長男であった。惇忠は、栄一の妻となった千代の兄であり、栄一の見立て養子となった平九郎の兄でもあった。また富岡製糸場長を勤めていた惇忠の依頼・指示により富岡製糸場の伝習工女第一号となった、惇忠の長女ゆうがいた。これらのひとびとがみなこの家で生まれ、成長した。
 また若き日の惇忠や栄一らが尊王攘夷運動に共鳴して、高崎城乗っ取り・横浜外国商館焼き討ちの謀議を行ったのもこの家の2階座敷であった。
 この屋敷は、やはり典型的な豪農の屋敷であるが、天井が高く、畳は江戸畳よりひとまわり大きく、それぞれの部屋が大きく、商いの店頭としても便利なように、広く開いた2間続きの間口が特徴である。
 煉瓦造りの大きな土蔵も特徴である。

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深谷散策 ─渋沢栄一関連を軸に(6)

諏訪神社と渋沢青淵翁喜寿碑
 渋沢邸「中の家」を出て、すぐ近くに諏訪神社がある。Photo_20241128060401
これはこの地の鎮守社で古来より武将の崇敬が厚く、古くは源平時代に岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただすみ)が戦勝を祈願し、戦国時代は皿沼城が鎮守社とし、江戸時代には領主安倍摂津守が参拝したと伝えられている。
 大正5年(1916)渋沢栄一の喜寿を記念して、境内に渋沢青淵翁喜寿碑が村民によって建てられた。神社の拝殿は、渋沢栄一がこれに応えて造営・寄進したものである。
Photo_20241128060501  栄一は、帰京のたびにかならずこの社に参詣したという。そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを、楽しみとしていたという。
 境内には、栄一手植えの月桂樹があった。また長女穂積歌子が父栄一のために植えた橘があり、その由来を記した碑がある。

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