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人間とAIについて

 一昨年末ころ以来、世界的に「生成AI」「Chat GPT」などAIの著しい進歩が話題となり、それを受けてわが国でも、これからは人間の知的な仕事がかなりの範囲でAIにとって代わられるのではないか、さらに青年たちはもはや大学に進学する意味があるのだろうか、などという議論が発生している。
 AIにも、大学などの高等教育にも、私は深いかかわりや知識をもつわけではないが、ひとりのエンジニアOBとして、これらの話題にかんして思うところを簡単に述べたい。
 まずは、人間の頭脳の働きにかんしての考え方である。
 「知識の4段階」という命題がある。この内容は、以前に丸山眞男が、最近はユヴァル・ノア・ハラリが、似たような、あるいはヒントになるようなことを言及していたことを私なりに理解して、私が非常勤講師として大学で講義するとき雑談として話していたものである。なぜ「知識」を取りあげるのか。人間の精神活動の究極を論ずる哲学においても「哲学は、人間の究極の普遍的知識であるべきだ」とされることもあり、少なくとも「知識」が、人間の精神活動の主要な要素であることは間違いないと考えるのである。概念を図で示す。4_20240413060101
 まずもっとも次元の低い水準の知識として「データdata」がある。これは単なる事実の集合であり、「今日は天気が良い」とか「富士山の高さは3776メートルだ」とか、内容は正しいが、誰もが価値を見出すものではない。
 その「データ」から当事者の価値観あるいはニーズにもとづき選別されたものが「情報information」である。進学しようとする高校生にとっての「この大学には、こういう学部がある」とか、製造業で「これを造るためには、この原料が要る」などである。
 その「情報」を自分の頭脳に取り込んで、必要な量の「情報」を、自分の関心・必要性・意欲に応じて能動的に「思考」して、頭のなかで個々の情報の関係を整理し、必要に応じてつなぎ合わせ、構造化する。こうして、多数の「情報」の要素を絡み合わせ構造化したネットワークのようなものとして「知識knowledge」が構成される。これが「本当の知識」というべきものである。これは、当事者の関心と目的と意志に基づいて独自の構造化がなされるため、個々のヒトそれぞれに個性があり、かならず差異がある。
 その当事者独自の本物の「知識」を材料として、渾身の努力・没頭・熟考・ひらめきなどにより、なんらかの飛躍を遂げて析出するのが「叡智wisdom」である。霊感=artistic inspirationとも言うべき頭脳の働きによる賜物と言える。これは本来的に独創的なもので、目的に照らして役に立つ「叡智」に到達すれば、他に擢んでることができる。
 だれでも「データ」を集めることは容易にできるし、現代ではネット検索で広範囲のデータを簡単に入手することができる。
 「データ」を選別して、自分に役に立つ「情報」を得るためには、自分の要求を明確に定義して「データ」の値打ちを評価する必要はあるが、そんなに難しいことではない。「情報」を自分の頭脳に取り入れることは、記憶力に頼れば、かなりの蓄積ができる。ただ、このままでは、いわゆる断片的な知識にとどまる。
 「情報」を材料として自分なりの「本当の知識」を構築するためには、関心・必要性・意欲をもって、目的を据えて自発的に考えることが必要となる。つまり「能動的な思考」と知的努力が必須となる。
 「知識」を材料として「叡智」に到達するためには、決まりきったルーチンに止まらない、なんらかのブレイクスルーが必須であり、その飛躍のためには、熱意・没頭・熟考・ひらめきなどの意欲的で大きな努力が必要である。
 いわゆる「試験test」という手段で評価できるのは、「情報」のすべてと「知識」のごく一部のみである。「個性化」する本質を有する「知識」を、客観的に外部から把握することは基本的に簡単ではないからである。これは、人間に対する「試験」という評価手段の本質的限界を意味し、ひらたく言えば、試験で優秀であってもほんとうの知識が有るか否かは判明しない、ということである。
 しかしながら、なんらかの具体的な問題を解決するためには、本当の「知識」を必要とすることは多い。さらに、擢んでた成果を実現するためには、本当の「知識」のうえに、飛躍を遂げて「叡智」に達することが必要となる。
 つぎに「Chat GPT」を代表例とするAIについて考える。「Chat GPT」が最近話題を席巻したのは、基本的には「自然言語インターフェース」と「ビッグデータ」の結合に成功したためである。
 ビッグデータは、10年余り以前からとくにスーパーコンピューターの活用によって、人間が扱いかねる規模の大量のデータから、それまで知られなかった意外な新情報が獲得できることが指摘されて、注目されるようになった。データ処理アルゴリズムとスーパーコンピューターなどのデータ処理手段の進歩の成果である。
 自然言語インターフェースは、プログラム言語など機械が理解できる形態のテキストではなく、人間が日常的に使用する言語そのままを機械が判読するもので、キーボードで文章を入力すればリクエストできるし、すでに進化している音声認識技術と組み合わせれば、ヒトの発声を理解して反応する機械が実現できる。この実用化はごく最近であった。
 したがつて「Chat GPT」は、我々が日常使っている言葉でリクエストを入れると、ビッグデータあるいはそれに準ずる大きなデータベースを迅速に処理して、回答を返してくれるのである。
 ここで、AIが実行していることは、本来的には人間が発生した大量の源情報を、人間の要請に応じてコンピューターで処理し、その結果を新情報として回答する、という働きである。通常の人間の能力では到底手におえない膨大なデータを短時間で処理できるので、たしかに有力・有効ではある。
 先述の人間の頭脳の「知識の4段階」に照らすと、大規模な「情報information」の蓄積を機械的に実現し、通常の人間のキャパシティーを凌駕する規模で「情報information」のネットワークを機械的に構築し、そこから新しい結果を得ることができる、というものだと位置づけられる。
 ただここで、源の材料たる大規模・大量の「情報information」は、人間の知力の成果の収集であり、情報のネットワークから構成される「知識」は、ネットワーク作成の手続きは機械的に行われるとしても、人間の関心・必要性・意欲によるリクエストからはじまるものであり、したがって人間が選別したものから成る。さらに、コンピューターによる情報処理は、基本的には統計的相関関係を用いるもので、ジューディア・パール『因果推論の科学』文藝春秋社、2022に指摘されているように、正しい因果関係が保障されるわけではない。正しい因果関係の確認のためには、ヒューリスティックな検証、すなわち人間の頭脳の介入が必要な場合も多いのである。
 そして、最終的に人間のartistic inspirationが達成する「叡智wisdom」を実現することは、AIにはできない。
 AIは、人間の知的行動に対して強力な支援ができるものであり、有効に活用すべきものであると思うが、本質的に人間の頭脳にとって代わるものではない、と私は考えている。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(11)

6.具象画/シュルレアリスム/キュビスム/抽象画
 この展覧会で、はじめて明確に、シュルレアリスムが「無意識」の表現・伝達を前面に押し出した芸術運動であったことを知った。今後の自身の学びのためにも、現時点での私の理解を簡単にとりあえず整理しておく。
 具象画(典型的には写実画)は、目に見える対象を具体的に表現する。それを観る私たちは、自分も眼にできるその対象についての新しい側面、新しい見つめ方を発見し学ぶことができる。そういう道筋はわかりやすい。したがって相対的に理解しやすい。
 キュビスムは、絵の対象となるものをそのまま表現するのではなく、絵の制作者が対象の形を分析し、解体して、再構成する。それを観る私たちは、対象の形態の捉え方・考え方・意味について、新たな視角を教えられ、考えることができる。もちろんすべてがわかりやすいわけではない。それでも絵の対象は、現実に存在する実体であり、具体的である。
 シュルレアリスムは、観る者に人間の「無意識の世界」を提示する。絵はそのための表現手段であって、描かれる対象は現実に存在するものに限らず、「人間の意識のなかに存在し得るもの」すべてが対象となる。それを観る私たちは、絵を描いた制作者の意識を自分で想像して探ることになる。人間の意識はきわめて個性的で多様だから、これは本質的に難解になりがちである。
 抽象画は、具体的な対象物を描かない絵画である。制作者は、具体的な対象物を提示しないのだから、それを観る私たちは、制作者が表現したいこと、主張したいこと、を自発的に間接的に想像するしかない。わかりにくいことは本来的である。シュルレアリスムの作品は広義の抽象画、あるいは抽象画の一部だと思う。鑑賞者たる私たちの理解も、当然多様性があるし、理解できないことも含めて多様性が許されるべきである。一方でキュビスムは、ときとして表現の難解なことがあるとしても、抽象画という概念からは距離があるのだろう。
 この度、気軽な気持ちでシュルレアリスムの展覧会を鑑賞したが、展覧会の構成としては、とてもよく整理され、まとまっていて、絵画について自分なりに学び、また考えてみるとても良い機会となった。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(10)

5.戦後のシュルレアリスム(下)
 阿部展也「飢え」(昭和24年1949)が展示されている。Photo_20240411055801
 阿部展也(あべのぶや、大正2年1913~昭和46年1971年)は、新潟県五泉市に生まれた。詩人で美術評論家の瀧口修造との昭和12年(1937)の共作である詩画集『妖精の距離』で一躍注目され、画家としての本格的なスタートを切った。また前衛写真家としても、雑誌『フォトタイムス』を中心に旺盛な発表を行い、戦前期の日本写真史に足跡を残している。
 戦時中は陸軍報道部写真班員としてフィリピンに徴用され、記録写真の撮影とともに、陸軍が発行に関わった雑誌『みちしるべ』の表紙絵なども手掛けた。
戦後画壇に復帰した後は、キュビスムやシュルレアリスム、アンフォルメル、幾何学的抽象へと目まぐるしく画風を変化させた。国際造形芸術連盟の執行委員を務めるなど、文化交流の最前線に立つ機会も多かった。世界の新しい美術潮流にいち早く接し、それらを貪欲に吸収するだけでなく、雑誌への寄稿等を通じて日本へ紹介する役割も担っていた。
 画家、写真家、評論家、中世墓石彫刻の研究家など、さまざまな顔をあわせ持ち、58歳でローマにて客死するまで、世界を所狭しと駆け回った。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(9)

5.戦後のシュルレアリスム(中)
 岡本太郎「憂愁」(昭和22年1947)がある。Photo_20240410074401
 自分の頭部のイメージのように思えるが、額の上には9本もの白旗が付けられていて、いかにも戦に完璧に敗れました、という表明のようだ。先の大戦での敗戦から間もないころでアメリカ軍も駐留してきて、世の中の雰囲気もこのようなものだったのかも知れない、と思う。
 戦前、パリで活動していた岡本太郎は、親交のあった戦場カメラマンのロバート・キャパの公私にわたる相方であった報道写真家ゲルタ・ポホリレにより、岡本の名前が1936年よりビジネスネーム「ゲルダ・タロー」として引用されたことがあった。ゲルダの活動期間はとても短く、まもなく1937年にスペイン内戦のブルネテの戦いの取材時に自動車事故で死去してしまった。このあと制作した「傷ましき腕」が、シュルレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム簡易辞典」に掲載された。岡本太郎は、海外でシュルレアリスムの作品を制作・発表したことが認められたわが国で唯一の画家なのであった。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(8)

5.戦後のシュルレアリスム(上)
 戦後、自由な作品発表が徐々に可能になり、戦前にシュルレアリスムにかかわった画家たちも、新たに独自の表現を模索していった。Photo_20240409054701
 わが国のシュルレアリスムを創成期から牽引してきた福沢一郎も、戦後活動を再開した。昭和23年(1948)発表した「敗戦群像」は、日本の近代美術史において、しばしば戦後美術の起点と位置づけられている。福沢は昭和27年(1952)渡欧し、その後ブラジルやメキシコ、インド、オーストラリア、ニューギニア等を旅してまわった。高度経済成長をとげる日本の社会状況にむしろ逆らうかのように、プリミティブなエネルギーから想像を膨らませた作品を多く描いた。そして昭和27年(1952)美術文化協会を脱会し、以後無所属を通した。
 同年、第4回日本国際美術展にて「埋葬」で日本部最高賞を受賞した。昭和33年(1958)ヴェネツィア・ビエンナーレ副代表として瀧口修造とともに渡仏し、さらに昭和40年(1965)公民権運動が高まりを見せていたアメリカを旅し、自由を求める運動のエネルギーを、アクリル絵具を駆使したすばやいタッチの連作として描いた。1970年代以降は旧約聖書や神話の世界に主題を求め、力強く奔放なタッチに鮮やかな色彩を特徴とした。多摩美術大学、女子美術大学で教授をつとめ、昭和48年(1978)文化功労者、平成3年(1991)文化勲章を授章している。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(7)

4.シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで(下)
 吉井忠「二つの営力・死と生と」(1938年)が展示されている。Photo_20240408054301
 吉井忠(よしいただし、明治41年1908~平成11年1999)は、福島県に煎餅屋の子として生まれた。福島中学(現在の県立福島高校)を卒業後、画家を志して上京し、太平洋美術研究所に学んだ。昭和3年(1928)帝展に「祠」を出品して初入選を果たした。以後その帝展で5回入選している。
 昭和11年(1936)第6回独立展に出品した後、渡仏した。翌年帰国し、東京豊島区に住んだ。昭和13年(1938)創紀美術協会を結成し、さらに翌年福澤一郎らと美術文化協会の結成に加わった。昭和19年(1944)従軍するが翌年帰り、福島県岩瀬郡仁井田村(現在の須賀川市)の農場に入った。
 昭和9年(1934)ころ、プロレタリア芸術運動が政府の弾圧を受けて壊滅し、表現者の間で閉塞的な空気が立ち込めるようになってきた。そのなかで文芸評論家の小松清らが唱えた「行動主義」、すなわち社会的・政治的変化をもたらすために特定の思想に基づいて意図的な行動をすべきと主張する思想に、福沢一郎も共鳴した。福沢は、古典的なイメージを引用しそこに象徴的な意味を忍ばせた作品を描き、社会批評的表現を試みた。福沢絵画研究所を昭和11年(1936)開設し、後進の指導を行った。昭和14年(1939)福沢は、シュルレアリスムに抵抗を持ち始めた独立美術協会を脱退し、若手の画家たちとともに新たに美術文化協会を結成した。以後、この団体がシュルレアリスムの影響を受けた画家たちの一大拠点となった。
 しかし、福澤は昭和16年(1941)4月5日詩人・評論家の瀧口修造とともに、治安維持法違反の疑いにより逮捕・拘禁され、シュルレアリスムと共産主義との関係を疑われ尋問を受けた。同年11月に二人は釈放されるものの、その後は軍部への協力を余儀なくされ、戦争記録画を手掛けるようになった。
 こうしてわが国のシュルレアリスムは、高揚期を迎えてまもなく低迷を余儀なくされた。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(6)

4.シュルレアリスムの最盛期から弾圧まで(上)
 昭和10年を過ぎると戦争は激化の一途となっていったが、日本国内ではヨーロッパの直接的影響を離れて、独自の円熟した作品が次々に生み出されていった。Photo_20240407054901
 靉光「眼のある風景」(1938年)がある。
 地球ではないかのような怪しげな空間のなか、岩石とも巨大生物ともつかない暗い色の塊が横たわり、陰鬱な表情の眼がいくつか描かれている。なにかを監視しているのか、それとも助けをもとめているのか、いずれにしても緊迫した悲惨な状況を感じさせる。
 靉光(あいみつ、明治40年1907~昭和21年1946)は、広島県山県郡壬生に農家の二男として生まれた。高等小学校を卒業後、印刷所に奉公して製版技術を習った。大正13年(1924)大阪に出て天彩画塾に洋画を学び、画家を志すようになった。このころから靉川光郎(あいかわみつろう)と名乗る。靉光(あいみつ)の名は、これを略したものであった。翌年17歳で上京し、太平洋画会研究所に学んだ。フランス近代絵画の影響を受けて作風はめまぐるしく変化した。昭和元年(1926)二科展に初入選した。「池袋モンパルナス」と呼ばれた界隈で、独自の画風を追求していった。次第に前衛的作品が増え、二科展の他、中央美術展、独立展などに出品して多くの賞を得た。
 昭和13年(1938)第8回独立美術展に出展したのがこの『眼のある風景』であった。独立美術協会賞を受賞し、靉光の代表作とされる。
 靉光はシュルレアリスム風や宋元画風など特異で多彩な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。将来を大いに嘱望されたが、敗戦後に戦地からの復員を待たず、38歳で病死した。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(5)

3.拡張するシュルレアリスム(下)
 小牧源太郎「民族系譜学」(昭和12年1937)が展示されている。Photo_20240406054601
 小牧源太郎(明治39年1906~平成元年1989)は、京都府に生まれた。龍谷大学予科(在学1年)、大谷大学専門部(同2年)を経て、昭和8年(1933)立命館大学経済学部を卒業した。このころ皮膚病に悩まされ療養生活を余儀なくされながら画家を志し、同10年北脇昇がその開設に尽力した独立美術京都研究所に入り、須田国太郎らの指導下に同14年まで学んだ。精神分析や土俗的な民間信仰に関心を寄せ、昭和12年(1937)第7回独立展に「夜」で初入選を果たした。この作品はすでにシュルレアリスムの傾向をもつ作風であった。その一方、同13年の「民族系譜学」や、第8回独立展に入選しながら反戦的であるとして撤去された「民族病理学、祈り」などの作品では、日本的土俗性を画面に盛りこむ特異な作風を示した。
 昭和14年(1939)北脇昇、福沢一郎らと美術文化協会の創立メンバーに加わり、日本におけるシュルレアリスムの草分けとなった。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(4)

3.拡張するシュルレアリスム(上)
 1930年代半ば以降、帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)や東京美術学校(現在の東京藝術大学)で、シュルレアリスムを指向する学生たちによって新造形美術協会など複数の絵画グループが結成された。芸術界のオピニオンリーダーのひとりだった瀧口修造も芸術雑誌『近代芸術』などを通じて彼らを支援した。こうしてシュルレアリスムは、外から受け入れる潮流から、内外で認められる自律的な活動へと成長していった。Photo_20240405055801
 北脇昇「独活」(昭和12年1937)が展示されている。
 北脇昇(きたわき のぼる、明治34年1901~昭和26年1951)は、名古屋市に生まれた。父が単身朝鮮半島に渡ったことから、明治43年(1910)母親と京都に住む叔父の元貴族院議員・実業家であった広瀬満正を頼った。以後、北脇は死亡するまで京都をほとんど離れなかった。同志社中学校を中途退学して、鹿子木孟郎の画塾に入り、30歳近くになって津田青楓の画塾に移った。
 昭和7年(1932)第19回二科展に初入選した。この年9月、京都洋画協会の結成に参加した。昭和8年(1933)独立美術京都研究所が開設され、その委員となった。昭和12年(1937)には京都青年芸術家クラブ結成に参加している。昭和14年(1939)福沢一郎ら40名の前衛活動家と共に、シュルレアリスム運動で知られる美術文化協会の創立同人となった。
 日本あるいは東洋の文化(仏教、禅、易、曼荼羅など)、さらには数学等の自然科学との融合の方向性を探り、ヨーロッパのシュルレアリスムの真似にとどまらない、日本的な独自の境地をめざした。

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「シュルレアリスムと日本」展 京都文化博物館(3)

2.衝撃から展開へ(下)
 三岸好太郎(明治36年1903~昭和9年1934)は、札幌に生まれた。札幌一中(現在の札幌南高)を卒業して画家をめざして上京し、苦労を重ねながら独学で絵の勉強を続けた。大正12年(1923)20歳のとき、春陽会の第1回展に「檸檬持てる少女」で入選を果たした。続いて翌年の第2回展では「兄及ビ彼ノ長女」など4点で春陽会賞を首席受賞し、画壇の注目をあつめた。このころの作品は、オーソドックスな具象画であった。Photo_20240404061601
 昭和元年(1926)三岸は中国を旅行した。このころ彼は制作の新たな方向を模索して、当時画壇のひとつの傾向でもあった日本画風の表現なども試みている。昭和4年(1929)三岸は道化をモティーフとした作品を発表した。その特異な主題と表現は、彼の新しい境地を示すもので、その後昭和7年(1932)にかけて、どこか憂愁を感じさせる道化やマリオネットなど一連の作品が制作された。
 昭和5年(1930)には、新しい美術団体たる独立美術協会の結成に最年少の創立会員として参加していた。このころから作風は奔放さを増し、道化の主題をはじめ、女性像、風景、静物など、多様な制作が意欲的に続けられた。
 昭和7年(1932)末から翌年にかけ、大きく作風が転換した。「オーケストラ」をはじめとして、ひっかき線による作品や抽象的作品、コラージュ(貼り絵)など、さまざまな前衛的な手法を試み、斬新な表現が生まれた。さらに最晩年となる昭和9年(1934)作風はまたも大きく変貌した。蝶や貝殻がモティーフとなり、夢幻的な光景が描かれるようになった。その作品のひとつが展示作品「海と射光」であり、彼の代表作ともされている。
 「私は建築家になるべきでしたね。建築は絵画なんかより先進的です」と語るほど、三好は建築に関心を持っていて、亡くなる年の昭和9年(1934)斬新な構想を盛り込んだ新しいアトリエの建築を計画した。しかし、そのアトリエの完成を見ることなく、同年7月、旅先の名古屋で胃潰瘍の吐血で倒れ、心臓発作を併発して31歳の短い生涯を終えた。

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