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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(13)

科学技術が人間中心主義の必要条件を否定する
 これまでは科学技術とうまく協力してきた人間中心主義だが、いま発展しようとしている科学技術、具体的にはAIと生物工学は、人間中心主義にとって困難な新しい問題を突き付けている。自由主義的人間中心主義liberal humanismのよって立つ基盤、前提条件を根底から揺るがしているのである。
 自由主義的人間中心主義liberal humanismは、人間が「自由な意志」を持つことを前提としている。「人間の自由な意志」の概念は、ルソー、ロック、ジェファーソンなども思想の前提条件としており、humanismも当然のように前提とするのだが、これが最新の科学で否定されたのである。人間の心の動きや行動は、ほかの自然界の現象と同じく、あくまで電気化学的連鎖反応であって「意志」など存在せず「自由」は無い、ということが実験的事実として証明された。「自由」は、ただ人間が考えた空想の中にのみ存在する虚構fictionの概念なのである。
 さらにもうひとつ、「自己individual」も科学的に否定されるという。自己individualも人間中心主義にとって重要な要素である。これがないと「自分の内なる声」が存在しないことになるので、人間中心主義は成り立たない。
 最近の科学的実験にもとづく研究成果によると、人間の実際の「決断」は、内明の対立・葛藤する複数の「声」の格闘の結果として成り立つ。平たく言えば「悩み」があり、その悩みの葛藤の末に心が決まるのである。人間中心主義にもとづいて自分の心の扉を開いてみると、そこには「唯一不可分の自己が静かに持つ唯一の感覚」などは存在せず、「複数の騒がしい感覚(意見)がひしめきあって競合し格闘している」のを発見したというのである。
 人間中心主義は、人間の個々人はそれぞれが独自に自己として価値があり、その各自が持つ自由な意志には決断する権能がある、ということを措定するから、経済における自由市場も、政治における選挙も信頼できた。市場に参加する顧客は常に正しく、投票する人間は常に正しい判断をする、と信じるからである。
 しかし最新の科学の成果によれば、人間中心主義が基盤としてきた「自由な意志」と「唯一不可分の自己individual」が実はともに存在しない、したがって人間中心主義は実は成り立たない、というのである。

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Yuval N Harari,”Homo Deus”(12)

人間中心主義と科学と宗教
 2016年の時点で、個人主義・人権・民主主義・自由市場のパッケージたる人間中心主義=自由主義的人間中心主義liberal humanismにとって代われるような基本的枠組みは、未だ存在していない。この人間中心主義と、科学技術および宗教との関係が問題である。
 科学技術は、その進歩の過程において深刻な選択を迫られたとき、宗教の助けを受けてきた。科学技術は、19世紀には蒸気機関・ラジオ・内燃機関など人間の力を増強する成果をもたらした。しかし20世紀には、ファシスト・共産主義・独裁政治、そして民主制をももたらした。ただ、科学が発明した技術シーズを何に向けて開発していくべきかについては、科学技術自身が知らないため、強力な宗教的信念がなかったら蒸気機関などは、どこへ向かっていくべきか決断できなかったであろう。
 その反面で、科学技術はしばしば宗教的ヴィジョンの範囲・限界に大きく影響を与えた。農業革命はそれ以前の狩猟人の神を葬り、新しい神をもたらした。新しい技術は、古い神を葬り新しい神を誕生させたのである。19世紀にはピウス9世の誤謬表、洪秀全の太平天国の乱、スーダンのムハンマド・アフマドによるマフディーの乱など、強烈な衝撃を与える宗教が発生したが、いずれもマルクス主義の全世界への影響の大きさとは比べるべくもない。それは、マルクス主義が単なる懐古趣味でなく、新しい科学技術が現実の社会にどのように関わっているのかを正しく理解していたからである。しかしマルクス主義の末裔の社会主義は、あとから出てきた新しい科学技術の進歩・発展・変化について行けなかった。現代では、人間中心主義、より正確には自由主義的人間中心主義liberal humanismが、もっともうまく最新の科学技術とつきあっている。たとえば、イスラム過激派は、現代を正しく把握するどころか、未だに中世段階に固執し産業革命時代にすら追いつけていないので、彼らに明るい未来は見込めない。

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Yuval N Harari,”Homo Deus”(11)

進化論的人間中心主義evolutionary humanism(ナチズムNazism)
 人間中心主義humanismは、さまざまに多様で変化しやすい人間の心に依存するため、常に葛藤を生じる。それでも20世紀はじめまでは自由主義的人間中心主義liberal humanismは、自信をもって個々人が自由でさえあればうまく行くと主張し、現実にかつてない平和と繁栄を享受できた時代があった。しかし第一次世界大戦がはじまった1914年に、そのなかの左右両派から激しい攻撃を受けることになった。
⑵進化論的人間中心主義evolutionary humanism
 まず右派から派生した進化論的人間中心主義evolutionary humanismを説く。
 進化論的人間中心主義は、自由が重要で、かつ自由の中で生存競争に勝ち残る人間こそが尊重されるべきだとする。生存競争を否定したり抑制したりすることは、人類の弱体化を招き破滅を招来すると考える。「飢える自由」すら認めるべきで、個人の孤立化もやむを得ず、不平等の固定化さえも受け入れる。それは人種主義とファシズムに行きつく。こうして発生し勢力を得たナチズムは、1914~1939年の間、ヨーロッパをかき回した。

社会主義的人間中心主義socialist humanism, communist humanism
 進化論的人間中心主義とほとんど同じタイミングで、社会主義的人間中心主義socialist humanismが台頭した。
⑶社会主義的人間中心主義socialist humanism
 マルクスは、自由主義的人間中心主義liberal humanismが人種差別と資本主義の利益優先主義にともなう弊害を免れないと指摘した。それまでの政治論が政治そのものの課題や問題を取り上げたのに対して、マルクスは経済の構造と動作機構を重視し、経済こそがすべてを決定するとした。そして経済に密接な科学技術に対しても真っ向から考察を加えた。

 20世紀の主要部分を占める1914年から1989年の間、これら3つの人間中心主義の間に血生臭い戦いが繰り広げられた。
 まず1939年に、米欧のリベラル連合がナチズムに勝利した。一方で1949年、東欧の全体がソ連の衛星国になってしまった。しかも中国で中国共産党が内戦に勝利し、ソ連・中国の共産主義陣営と、狂信的な反共国となったアメリカを盟主とする自由主義国陣営との間に冷戦がはじまり、1989年まで続いた。最終的には、自由主義国陣営の核戦力が勝利した。共産主義陣営は、古い宗教とはちがって科学技術を重視したに関わらず、軍事のみならず経済においても、自由主義陣営に勝てなかった。科学技術の進展について行けないことが原因だった。自由主義的人間中心主義liberal humanismが3つのうち唯一勝ち残ったのである。
 この長い冷戦は、間違いであり浪費も損失も大きかったが、この間に人間は抗生物質、核エネルギー、コンピューター、そしてフェニズム、反植民地主義、フリーセックスなどの新しい成果を得た。人間中心主義も自惚れを脱して謙虚になり、敗者たるナチズムや共産主義から多くのアイデアと仕組みを学んだ。それでも、政治の選挙では投票者が常に正しいことを自明の前提とし、経済の市場では顧客がもっとも賢明であることを前提としていて、コアの部分は驚くほど変わっていない。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(10)

人間中心主義のセクトあるいはその鬼子
 人間中心主義は、発生した当初から、それまで成功してきたいくつかの宗教からそれぞれの価値観を引き継ぎ、あるいは影響を残して普及したので、もともと分派があった。いずれも「人間の経験」を意味・権能の最高の源泉とするが、その意味づけを軸に相互に対立し、3つのセクトを生じた。
⑴自由主義的人間中心主義 liberal humanism, orthodox humanism
 「正統的人間中心主義orthodox humanism」とも呼ばれる。個々人はそれぞれ異なる考え方・見方をするのであり、最大限の個人の自由を認めるべきとする。人間中心主義のもっとも初期から存在した。
 [人間中心主義と民族主義]
 人間中心主義は、個人個人に区々で刻々変動する感覚で構成される内面を基本にするので、本来的に不安定さを内包している。
 人間中心主義を基盤とする「民主主義」は、宗教・物語などの共通の紐帯で結ばれ、価値や意味を共有する共属意識をもつ集団のなかでの不一致を、多数決で決めるときには正常に機能する。しかしその前提がないと機能不全に陥る。たとえばこれからドイツが大量の移民を受け入れてドイツ国内有権者の多数派を占めることになったとしたら、その多数決の議決結果は現時点のドイツ人(ドイツ民族主義に共属する)にとっては受け入れがたいものとなる可能性はきわめて高い。
 共属意識の代表的なものが近代的民族主義であり、民主主義は人間中心主義とともに民族主義と親和性が高い。人間中心主義のもとで、それまで別々であったアイデンティティ、共属意識、価値観などが緩やかに融合し、新しい民族主義が生成されることは、歴史的にも実現してきたことであり、望ましいことであるが、長時間の努力とコストが必要であってなかなか容易ではない。
 最近は、民族主義nationalismは反リベラルanti-liberalismであるかのように認識されている傾向があるが、少なくとも19世紀末までは民族主義とリベラルliberal humanismとは親密であった。たとえばイタリアの統一独立革命運動家Giuseppe Mazziniは、さまざまな国民の特異性を尊重したうえで、人々の多様な経験は共有に向かうことができるcommunalとし、「寛容な民族主義」を主張した。これは現在のEU憲章にも取り入れられている。
 しかし19~20世紀に人間中心主義が認められ普及が進むにつれて、1914年すなわち第一次世界大戦を契機に、2つの強力な分派ができた。進化派evolutionary humanismと社会主義派socialist humanismである。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(9)

人間中心主義革命 The Humanist Revolution
 近代以後の、神の法も意味もない世界にとっての解毒剤は、人間中心主義humanismから与えられる。人間中心主義は、人間の能力を崇拝し、人間こそがキリスト教やイスラム教の神の役割を果たすと考える。かつては偉大な宇宙像great cosmic planが生命や人間に意味を与えてきたが、人間中心主義は役割を逆に置き、人間が宇宙に意味を与えるとする。ここでは、人間は自らの内面的体験から自分の生の意味を引き出し、それのみならず全宇宙の意味までを引き出さなければならない。意味のない世界に、人間が意味を与えるのである。
 中世では、意味の源泉は人間の外=神にある、とされたが、人間中心主義では意味の源泉は人間の内=感覚feelingにある、とする。権威(権能)が天空から地上に、神から人間に降りたのである。ニーチェが「神は死んだ」といった意味は、このことを指している。

人間中心主義の覇権
 現代では、神を信ずることも人間の自由な意志による。神の有無、信仰そのものでさえ人間の内面の感覚feelingに依っている。
 人間中心主義以前の時代には、結婚や親と子の関係ができる根拠も、神の意志であった。不倫は神に対する反逆で、死に値する罪であった。人間中心主義では、人間相互の感情にもとづく愛情で結婚し、愛情が変われば離婚や不倫もあり得る。いまでは、宗教がひとびとに対して訴えかけるときに、人間中心主義にすり寄ることがある。たとえば、ユダヤ教やイスラム教でさえ、LGBTに対して、教義に反するから許容できないとは言わず、「だって気持ちわるいでしょう」となる。あらゆる芸術artは神から降りるのではなく、人間から、感情から生じる。経済では、顧客こそが神であり常に正しいとの前提で動く。
 「知識knowledge」の意味も変遷した。
・中世ヨーロッパでは、 知識knowledge=聖典scripture×論理logic
・科学革命では、  知識knowledge=実験結果experimental data×数学mathematics
 しかしこれでは価値valueや意味meaningがわからないので、道徳的問題は中世以来の方法で対処した。
・人間中心主義では、 知識knowledge=経験experience×感受性sensitivity
 ここで経験experienceとは、主観的現象たる①感情sensation、②情動emotion、③思考thoughtを指す。人間中心主義は、人生の歩みを無視・無頓着からさまざまな経験を経て啓発されていく内面の穏やかな変化過程とみる。
 人間中心主義は、人々の戦争に対する受容の仕方をも変えた。人間中心主義以前には、戦争の意味・良否について神に聞くことはあっても、兵士や市民に聞くことはなかった。ここ200年間の人間中心主義の時代になって初めて戦争を描く絵は、王や騎士よりも兵士や民衆を主題にするようになったのである。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(8)

現代の契約 ─科学革命による無知の自覚と無限の知識追求─
 前近代においては、全能の神あるいは無窮の自然法が与えた(決めた)偉大な宇宙像great cosmic planのなかで、人間は力を制限される代わりに、演じるべき役割を与えられ、涙から行動まですべてに意味を与えられ、なんら恐れることなく誇り高く戦い、仕え、生き抜いて平穏に過ごすことができた。
 現代では、人間は自分の力を信じることができるようになったが、その代り役割も奉仕する主も、存在し行動する意味をも与えてもらうことができなくなった。力のみを頼りとする恐怖と不安に満ちた生き方となった。その力は、科学の進歩と経済の成長で支えられている。
 中世までは、科学に対する期待も投資もなく、進歩が乏しい停滞した社会であった。しかし近代では、人間は未来を信じるようになり、信用と金融が飛躍的に拡大した。投資の拡大が金融を拡大させ、利息を下げ、起業家はより借りやすくなり、経済が成長するという拡大スパイラルを実現し、科学と経済が加速度的に成長・拡大するようになった。
 パイが一定で成長がなかった中世までと異なり、現代は成長こそが主なエネルギーとなった。この経済成長によってのみ、飢饉・疫病・戦争は大きく解決に漸近したのである。現代の宗教・イデオロギー・運動の諸問題のすべてが、経済成長に解決を求めるようになった。
 科学革命は、人間は無知であり、さらに知るべきことが無限にある、と教えた。こうして人間が関わる資源は、それまでの原料+エネルギーにさらに知識を加えた。前2者の資源は有限だが、知識は無限に拡大できるので、資源は無限になった。
 これからのつぎの壁は、eco-systemをどうやって維持するかという環境破壊問題である。この対策にともなう経済成長の鈍化の被害は、低所得層からはじまるという問題もある。
 さらに環境問題をクリアーし経済成長を持続できたとしても、そのための競争はどんどん激化するので、個人レベルの緊張とストレスは増加する。昨日の贅沢は今日の必要となる。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(7)

宗教と科学の関係
 AD1500年ころに科学革命が起こって以来の500年間、宗教と科学はほんとうには互に理解できていない奇妙な夫婦のような関係であった。
 宗教は、なによりも社会秩序の維持を目指してきた。宗教は、①道徳的基準(ex.人の生命は尊い)、②事実の基準(ex.人の生命は懐胎にはじまる)、③道徳と事実の合成(ex.たとえ懐胎後1日でもすでに堕胎は殺人の罪となる)、の3つの要素を持つ。しかし現実には道徳的判断を事実的判断から切り離すことはむずかしい。事実的判断を道徳的判断の都合で変えてしまう傾向がある(ex.人の生命は誕生の後名づけが終わるまでは始まらないから、堕胎しても殺人にはあたらず罪ではない)。道徳的判断が内に事実的判断を隠すこともある(ex.人命は神聖だから、人の霊魂は不滅である)。
 科学は、なによりも力の追求を目指してきた。その成果として、病気を克服して人の寿命を著しく伸ばし、戦争を有利に遂行し、技術の進歩で生産を飛躍的に高め経済を成長させた。
 科学も宗教も、個々人としては真実を強く重視してきたが、集団や組織としては真実よりも秩序や力をより重視してきた。それがまた科学と宗教の良好な関係を可能にしてきた。
 科学は、宗教の道徳的判断を否定したり裏付けたりすることはできず、むしろ宗教が科学に道徳的正当性を与える。そしてほんとうは、宗教は科学の成果を正当に受け入れるべきである。
 科学が定着してからは、ある種の宗教としての人間中心主義humanismと科学との協力関係ができた。近代社会は、人間中心主義を信仰し、科学を人間中心主義の教義を疑うためにではなく、人間中心主義の教義を実現するために利用してきた。21世紀になっても、humanismの教義が純粋な科学理論に置き換えられることはなさそうだが、humanismと科学の盟約関係は大きく変わり、科学と新しいpost-humanismとの取引関係となるだろう。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(6)

紙に書かれた物語
 紙の上に文字で書きとめられたstoryは、より信じられやすくなり、より強力になる。
 1950年代末の毛沢東指導下の共産党中国の「大躍進政策」は、虚偽の農業生産報告書が存在しない豊かな農産物を提示した結果、極端な飢餓輸出を導き、2000万~5000万人の餓死者を出した。1978年タンザニアのニエレレは迂闊にも中国共産党の「大成功」に共感し、大規模で性急な集団農場を導入して、多くの国民を餓死させた。
 別のケースでは、ポルトガルのソウサ・メンデス(日本の杉原千畝も同様)は、さきの大戦時にビザという紙切れを独自の判断で発行することで大勢のユダヤ人の生命を救った。
 紙に書いたことが事実を押しやって現実を造ってしまうことさえある。アフリカ大陸の各国の国境線は、アフリカの現地に一度も行ったことが無いヨーロッパ人が書いた地図で、以後の国境を確定してしまった。独立したアフリカ諸国も、異議を唱えたら発生必至の泥沼戦争の勃発・継続を回避するためには、なんの根拠もない国境線を受け入れるほかなかった。
 こうして人間がstoryをつくり、紙に書いて人間を動かしコントロールする段階が、今後はコンピューター・アルゴリズムと生物工学によってstoryがつくられ、人間を動かしコントロールする段階になることが予測されるのである。そうなると、フィクションと現実factとの判別、宗教と科学の関係は、人間にとって現在よりはるかに困難で複雑になるだろう。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(5)

フィクションとヒトの統合と意味のウエブ
 1989年12月、ルーマニアでチャウシェスクを殺して政府を倒した民衆は、そのあとどうやったら国民が協力して新政府を構築できるかを知らなかった。そのため元共産党員のイリエスクが共産党員を組織して、急激な民営化の旗印のもと、大規模な払い下げを実行し、結局元共産党員だけが大金持ちになり、大多数の一般民衆は捨て置かれた。2011年のエジプトムバラク政権崩壊時も、デモ参加の民衆は、政権の空白を埋める方法を知らず、軍隊とムスリム同胞団のみが生成され、それにうまく合流できた者のみが政権を掌握した。
 このいずれの実例も、人間を率いるとき決定的に必要なことが、多数の人間をまとめるフィクションであることを実証している。人間の数が多くなると、少人数の時に成立した合理的秩序や法則は成り立たず、多くの民が信ずるフィクションを提案した者が中心となって統合・結合と、それにともなう力が実現する。
 サピエンスは生物の中で唯一、具体的でない抽象的なもの、概念を表現・伝達し、想像を共有shared imaginationできる。金(貨幣)、法律、神、帝国など、人間にとって重要な仲介物の大部分は、この「想像の共有shared imagination」である。
 このヒトにとって決定的に重要な「想像上の秩序」は、理解されにくい。主観的現実でも客観的現実でもなく、「主観的現実の相互間の現実感 intersubjective reality」であり、個々人が信じ感じるだけでなく、その成立は人々のコミュニケーションに依存するものである。
 歴史とは、この相互間の現実感 intersubjective realityのウエブがいかに発生し、壊れていくのか、後の人々にとって意味が変わってしまうのか、を吟味する営為である。言い換えれば、歴史学はサピエンスがつくりかつ従ったstoryを調べ分析することが主たる仕事であり、これが生物学と違うところである。

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Yuval Noa Harari,”Homo Deus”(4)

生物はアルゴリズムだという教義
 最新科学からもたらされた現代の教義dogmaは「生物はアルゴリズムであり、そのアルゴリズムは数式で表すことができる」という驚くべきものである。ただ、現時点では、その数式は明らかにはなっていない。
 アルゴリズムは、完成に近づいた全自動運転の自動車のように、かつて人間(すくなくとも生物)にしかできなかったことを実際にやり遂げることを示しているが、感情も欲望も持たず、したがって意識が欠けている。「意識」は、生化学的には不必要な脳のプロセスの副産物なのだろうか。
意識にもとづく主観的経験を前提としなくとも脳の働きを科学的に説明できるとする科学者もいる。しかし現代政治や倫理のジレンマは、主観的経験を欠いては解けない。たとえば、拷問や強姦がなぜ悪いのか、主観的経験を否定しては説明できないであろう。
 現代でも、科学者や医師は個人的には神を信じつつも、学術誌では論じない。おそらく心mindは霊魂soulに繋がるが、心(=多くの部分から構成されかつ変化し統合の必要がない)と霊魂(=唯一不変の不可分統合体)の違いは大きい。さらに、心(痛み、喜び、怒り、愛などの経験の流れ)を科学的に否定することは不可能である。

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