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高瀬保『ガット二九年の現場から』中公新書

 大蔵省関税局の若手官僚からスイス・ジュネーブのガット事務局に出向し、そのまま退職までの29年間を国際機関に勤務し続けた著者による、国際機関と国際交渉の重要性についてのエッセイである。
 先ずガットとその継承組織たるWTOの目的とその歴史的経緯を紹介し、経済の中長期的発展と世界の平和維持のために国家間の経済活動の協力が必須であるとする。そして、その育成と有効利用のためには、短期的・自国のみ視点でなく、長期的視点から国益を追及する考え方が必要で、交渉相手とのウインウインの合意点を協力して構築することが当時者自身や自国の利益になるという。
 日本国あるいは日本人は、これまで国際交渉において十分活躍しているとは決していえないとして、いくつかの指摘をしている。国際共通語としての生きた英語の習熟、先ずマクロから説得してミクロに向かう理路整然たる主張、誰が発言したかでなく何を議論したかを重視する態度、沈黙は同意とみなされるため美徳どころかときとして危険であることの認識、交渉当事者に交渉に足る権限を与えることの重要性、などしごく当然のようでありながら未だにわが国では達成できていないポイントを列挙する。これらが困難な背景には、日本の文化・習慣に加えて、日本の伝統的な制度の問題もある、とする。
 たしかに、この本で指摘されている多くの点は、私自身も体験したことであるし、今でもおそらく心もとないことが多数残っていそうである。著者の切歯扼腕がひしひしと伝わってくるように感じる。わが国では稀有な経験をもつ著者の貴重な指摘・指導として、我々に役立つ、役立てるべき内容が豊富な本である。

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佐和隆光『これからの経済学』岩波新書

 約30年前、東西冷戦体制が崩壊した直後に発刊された経済学のエッセイである。さきの大戦以後の日本およびアメリカ・ヨーロッパの政治と経済、そして経済学の歩みと相互関係について述べ、経済学が政府によって大いに選択・利用されてきた歴史を説く。1980年代の経済学が「マネタリズム」「サプライサイダー」「合理的期待形成学派」の新古典派経済学三派連合に席巻されたのは、それまで経済学の主流だったケインズ経済学が理知的に否定されたのではなく、政治の保守化に則わなかったため政府から除外された、とするのである。
 もうひとつの大きな論点は、20世紀の終わりに近づいて経済の「ソフト化」が進展し、これまでの経済学、とりわけ軽量経済学の理論が現実の経済に追いつけなくなったことが経済学の大きな問題であり課題であるとする。
 ほかにも何点か論点が示されているが、特段新規なもの、新鮮なものではない。平易で読みやすいが、同じことの反復なども目立ち、いささか促成の著述という印象が否めない。

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宇沢弘文『経済学の考え方』岩波新書

 1989年の出版なので、ちょうど30年前の本である。たまたま古書店でみつけて入手したのである。
 人間が営むさまざまな行動から「経済」に強くかかわる事象を切り出して考察対象とする取り組みは、古くはアリストテレスにもみられたが、社会科学の一分野にまで高めたのは18世紀後半のアダム・スミスであった。ひとりひとりの人間が、自分の感情を率直に自由に表現し、生活を享受できるような社会を「市民社会」とし、その実現と維持に必須な豊かさを支えるための物質的生産の基盤をつくることがアダム・スミスの目的であったという。その目的から『感情道徳論』についで『国富論』を発表し、労働の社会的分業の重要性を説き、自然価格、資本蓄積などの概念を明確化した。アダム・スミスは、各人の利己心が最大限に発揮できる自由な市場経済のもとでは、社会的見地からみてもっとも望ましい資源配分が実現する、と予定調和的な見通しを持っていた。これを受けてディヴッド・リカードは、分配の問題を掘り下げて、土地制度の改革や穀物法の廃止などの法的措置の必要性を説いた。
 カール・マルクスは、資本主義発達の歴史がアダム・スミスやディヴッド・リカードのいうようには資源配分が望ましい方向に向かわず、現実に貧困や分配の問題があり、それを解決するためには生産手段の私有を否定しなければならないとした。しかし世界中の学生・学者を魅了したマルクスの社会主義も、ソ連や東欧諸国の現実の厳しさに加えて、たとえば「必要なモノを必要なだけ供給する」との概念は良くとも、それをいかに実現できるかについてはミーゼスやハイエク等から理論的疑義が出された。
 19世紀後半には、レオン・ワルラスが近代経済学の体系的な理論を「一般均衡理論」として構築し新古典派経済学を開いた。これは、理論的整合性に優れて、以後の経済学の理論展開の基礎となったが、その理論の前提条件に多くの非現実的な要求・要素を含むものであった。
 この新古典派経済学に体系的・総括的な批判を行ったのが、19世紀末のソースティン・ヴェブレンであった。現実の人間は新古典派経済学が説くような単純なものでなく、文化的・社会的・歴史的条件、さらに「制度的条件」によって強く規定される。とくに、現実の生産活動の主な部分が、機械を用いて工場で私企業によって行われることを考えると、新古典派経済学が前提条件とした、生産手段の切り替え、生産規模の変更、労働力の変更などが実際はきわめて固定的で調整が困難であり、結果として産業と営利に乖離が発生する。それはさらに、金融資産市場を不安定にする。ヴェブレンは、それらの問題の解決法については悲観的で、政府のなんらかの介入の必要性を言及し、利潤動機にもとづく資本主義の否定、計画経済の必要にまで及んだという。果たしてヴェブレンの死の直後、1929年に大恐慌が勃発した。
 こうして大恐慌の到来によって、それまで支配的であった新古典派経済学は主流から消えた。そのあと20世紀前半の経済学をリードしたのが、ジョン・メイナード・ケインズであった。ケインズは、新古典派経済学が市場機構さえ円滑に運用すればすべての問題は解決すると楽観していたことを批判し、市場にまかせるだけでは完全雇用も、富・所得の分布の不平等性も解決しないとした。ケインズはヴェブレンと同様な企業観・企業概念をもち、さらにいまや現実の企業では所有と経営の分離が進んで、新古典派経済学が想定していたような、生産要素を適宜組み合わせて利潤最大化にむけて迅速に生産をあやつるようなことは不可能だと指摘した。経済は、生産と投資を決定する企業部門と、消費と貯蓄を決定する個人からなる家計部門との2つの、それぞれ独自の行動様式をもつグループに分れているとする。そして企業はさまざまな固定的な生産要素から構成され行動するが、そこで働く労働者たちの利害とは整合的でない。企業は経済環境に対して生産を調整しようとするとき、新古典派経済学が想定したようなものと異なり、コストも時間も要するうえに、できる範囲も制限されている。企業の固定的要素は、投資の重要性を増し、投資が生産の能力を決め、また対応能力を制限する。これら企業活動のコストと時間の要因から、総需要と総供給は平行にならず、交わるのみであり、その一致点として「有効需要」を指摘した。ケインズは、これらの理論を「一般理論」としてまとめ、その応用として政府が財政・金融政策を通じて経済に介入することで、有効需要の人為的創生など、市場の欠陥を補い、経済に安定をもたらすことができると主張した。第二次世界大戦の復興期の経済は「ケインズ革命」と呼ばれるほどに、ケインズの考えを受け継いだひとびとによって担われた。
 マッカーシズムが吹き荒れたり、さまざまな混乱もあったものの、戦後30年間ほどは世界の資本主義は比較的安定な経済成長を達成し、経済学は経済成長についても理論をもとめられるようになった。しかし1970年代になって、大変動期となった。この転換期に大きな影響力をもったのがジョーン・ロビンソンであった。彼女はケンブリッジ大学でまず「不完全競争の経済学」を研究し、さらに新しい理論をもとめて「ケインズ・サーカス」と名付けられた研究集団に加入し、やがてその主導的メンバーとなり、ケインズ革命を牽引した。ケインズ経済学の展開において、同じケインズを継承しても学者間で理解や展開に対立があり、ロビンソンはアメリカン・ケインジアンをバスタード・ケインジアンと厳しく批判もした。ロビンソンは、ケインズ理論を動学化する研究において『資本蓄積論』などで貢献し、また弱者、虐げられた人々に対する深い人間的愛情を学問に反映したという。
 1971年、ロビンソンが「経済学の第二の危機」と題する講演をしたが、世界的に経済循環は不安定さを増し、第一次石油危機が追い打ちをかけた。こののち10年あまりの間、経済学界はケインズが傍流に押しやられ、反ケインズ主義、新々古典派経済学の時代となる。サプライサイド経済学、マネタリズム、合理的期待形成学派などが勃興して、アメリカやイギリスの政策に取り入れられることさえあった。
 しかし、1980年代後半からは反ケインズ経済学も限界に達して、ケインズが再度見直されるようになり、現代経済学の時代になっている。ケインズ理論のなかの誤謬の発見や修正とともに、マルクス理論からの必要部分の利用をも含む多面的な論考が進められているという。
 経済学が人間の行動に正面から向き合う以上、多様で複雑な人間の行動をいかにモデル化するか、どこまで、どの程度までの忠実さでモデルに組み入れるか、との問題はずっと続くだろう。また、人間の行動に密接な社会科学であるため、宇沢がなんども説くように「正義」の問題からも逃げられない。しかし「正義」は、ロールズの論にあるとおり、簡単に判断しかねる要素を多々含む。たとえば、重要な経済学者として取り上げたジョーン・ロビンソンは、晩年は正義感から毛沢東礼賛者になったし、宇沢弘文氏自身も中国の社会主義を、ソ連の社会主義とは違うものと評価している。しかし多くの他の人々からは異論が多いだろう。ベトナム戦争にしても、宇沢が断言するほどに全面的「悪」と理解・評価する人々が圧倒的多数でもないだろう。レーガンの軍事費増強も同様である。
 新書でごくちいさな本であるが、とても密度が高い、内容の濃い本である。実験ができないため、実績を歴史事実から引用して論考し検証する経済学の難しさ、奥深さの一端をみたように思えるだけでも、読んでみた価値があった。

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佐伯啓思『「市民」とは誰か』PHP新書

 1990年代以降になって、とりわけメディアや政治で使用されるようになった「市民」という言葉についての、経済学・社会思想史の学者による歴史的・思想的論考の書である。
 朝日新聞が1997年元旦付社説で「21世紀への助走」との表題を掲げて「市民社会」の実現を訴え、さらにこの本の10年以上後であるが「市民の政治」を謳う民主党がひとときは政権を獲得した。たしかに私たちはさまざまな場面で「市民」「市民社会」の言葉を聞く。
 そのように頻繁に出現する言葉でありながら、「市民」も「市民社会」も、きちんとした定義なり説明なりは決して与えられていない、と佐伯は指摘する。むしろ、情緒的・アプリオリに「権力に対立して批判を加える正義の市民」という漠然とした根拠のないイメージだけが先行している、という。「市民」は何をもって権力を批判すべきだというのか、が明確でないのである。
 「市民」という言葉をことさら強調する背景には「国民」という言葉を嫌う心理があるらしい。実際、「市民の政治」を謳う鳩山由紀夫は、これからの時代は国境にこだわる時代ではなく「地球市民」の時代だ、と言っていた。「市民」とは誰なのかがよくわからないままに、既存の政治権威の否定、国家的なものの否定といった含意のみが示されている。
 佐伯はこの「市民」という言葉について、ある範囲まではすぐれて日本的であるといい、ヨーロッパの古代から中世を経て近現代にいたる「市民」なるものの本質を、歴史的・思想的に吟味する。そこからヨーロッパおよびその歴史文化を引き継ぐアメリカにおいても、「市民」という概念は、共同体や国家から離反したり遊離したりするものではなく、むしろ共同体や国家、そして文化に強く結合した存在であることを解明する。そして「市民」に限らず、あらゆる政治的主体たる存在は、その人々の歴史・文化・経験に強く規定されるものであり、突然共同体や国家から独立・浮遊して「自由に新たなネットワークを創生する」というような安易で軽薄な存在ではあり得ない、ということを順序だてて述べる。
 鳩山由紀夫や菅直人は言うに及ばず、松下圭一などの議論がなんとなく胡散臭いと感じていたが、この本でかなりすっきりとして腑に落ちたように思う。小さな本だが内容はとても濃い良書である。

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浅草寺 (4)

 

スカイツリーと浅草寺の夜景
Photo_2 浅草寺はスカイツリーから近いので、いろいろな場所からスカイツリーを見上げることができる。確かに634メートルの塔はとても大きいけれど、半世紀以上前の東京タワーを見た私の実感としては、「こんなものなの?」というのが本音なのである。半世紀前の東京は、当然ながら高層ビルなど無くて、高さ333メートルの東京タワーは、孤立して、まさに天高く聳えていた。現在は商業ビルやタワーマンションなどの高層ビルがいたるところに林立し、スカイツリーを見上げるとき、たいてい高層ビル群の谷間から眺めることになり、スカイツリーの高さがもひとつインパクトに欠けるのである。
 境内の料理屋でゆっくり夕食をとり、そとに出ると、長い春の日もとっぶり暮れていた。さしてあてもなく浅草寺の境内をブラブラ散策した。このごろは仲見世やその他の周辺の店舗の多くが、夜は早く店を閉めるようだ。そういうこともあり、昼間あんなに混雑していた通りの人だかりが、すっかり閑散としてくる。そして、街の景観と雰囲気が大きく変わってくる。でも、こういう閑散とした通りも、また落ち着いた別の情趣がある。

Photo_3
 ここ何日か、今夜も含めて毎日食べすぎた。腹ごなしのためにも、夜景の浅草をゆっくり楽しんでいこう、と思った。 

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浅草寺 (3)

宝蔵門
 仲見世を突っ切った終点の場所に、また立派な極彩色の門がある。「宝蔵門」である。

Photo 入母屋造の二重門、すなわち屋根も部屋も二階建ての門である。現在の門は、実業家大谷米太郎夫妻の寄付によって昭和39年(1964)に再建された鉄筋コンクリート造である。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することから「仁王門」とも呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。実際その名の通り、門の上層は文化財の収蔵室として使われている。
門の背面左右には、巨大なわらじが吊り下げられている。これは魔除けの意味をもつとされ、10年おきに新品が奉納されているそうだ。
 宝蔵門の西側に五重塔がある。この塔の由緒は古く、古代の天慶5年(942)平公雅が三重塔を建立したのが始まりと伝える。その後焼失を繰り返し、慶安元年(1648)に五重塔として再建された。関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631)に焼失した三重塔の跡と伝承されている場所付近に場所を移して、昭和48年(1973)に再建されたものである。基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルある。

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浅草寺 (2)

仲見世
Photo 雷門をくぐると、表参道の両脇に店がぎっしり並ぶ仲見世である。
 江戸時代には、大勢の香具師が来て、土産や駄菓子の他にも、芝居小屋や大道芸人の見世物などがあったらしいが、現代では仲見世は専ら土産物・駄菓子、さらには駄菓子とも言えないかなり高価な菓子なども売る商店街となっていて、芝居小屋や寄席小屋などは別の通りにすみわけ・整理されているようだ。
 それにしても、いつも大変な人だかりである。日本人の数を上回るほどの、大勢の外国人がいる。最近、日本の海外観光客の誘致が進んだとのことだが、こういう場所では実感できる。

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浅草寺 (1)

雷門
 浅草通りから並木通りに入ると、正面に雷門を見通すことができる。私がはじめて浅草寺を訪れたのは半世紀前にもなるので、このあたりの景観も全く違うものであった。
Photo
 雷門は、切妻造の八脚門である。向かって右に風神像、左に雷神像を配置することから正式には「風雷神門」という。慶応元年(1865)に焼失後長らく仮設の門であったが、昭和35年(1960)、実業家の松下幸之助の寄付を受けて、約百年ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。三社祭と台風到来の時だけ提灯が畳まれるという。
 ここまでくると、人だかりが急に増してくる。いつの時代も浅草の魅力と集客力は不滅ということらしい。

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浜離宮恩賜庭園 (4)

鴨場と三百年の松
Photo この庭園は、元来御鷹場として使用されていたという。園内には、「庚申堂鴨場」と「新銭座鴨場」の2つの鴨場がある。鴨場とは、野生の鴨を鷹などを使って猟するために、古くから大名の別荘地などに設けられていた場所のことである。鴨場は、飛来してきた鴨が休む島を配した「元溜り」と呼ばれる池と、そこからの引き込み水路である複数の「引堀」とから構成される。池には、獲物の水鳥を引堀に誘い込んでくれるように訓練した家鴨(アヒル)を放しておく。この囮の家鴨を目指してやってくる水鳥の集まり具合を「大覗」から観察し、猟を行う引堀を決める。引堀の奥には「小覗」という木の板に除き窓を開けた壁が設えられていて、そこから様子を観察しつつ、板木を叩きながら稗・粟などの餌を撒いて、囮でおびき寄せた水鳥を、引堀の小土手から鷹や網で捕獲するのである。

Photo_2
 大手門の近くに、大きな斜面に刈り込んだ松がある。「三百年の松」と呼ばれるひときわ立派な松である。約300年前の宝永6年(1709)、第6代将軍徳川家宣がこの庭園を大改修して、名称も「浜御殿」と改められたころに植えられたと伝える。大きな黒松であり、都内では最大級とのことである。

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日大アメフト危険タックル騒動の報道をみて

 日大アメフト部の学生が関西学院大学とのオープン戦で、危険な反則タックルをしたことが発端となって、事件から3週間以上が経過した現在でも、テレビや新聞は毎日のように喧しく取り上げている。事件の内容そのものはさておき、議論になっている点とは異なる方向での雑感を簡単に記しておく。
 ひとことで言えば、フィードバック・ループのない権力の危うさ、ということである。
 日大のアメフト監督内田正人氏は、アメフトに限らず日本大学グループ全体の最高幹部で、誰も彼に逆らえないという。彼にしてみれば、これまでやってきたように彼なりにまじめに粛々とやっているのに、なぜ責められるのか理解できないのだろう。相手チームの選手をケガさせたり、自チームの選手をいじめて追い込んで犯罪的なプレーをさせても、彼にすれば「ごく些細なこと」なのだろう。これまで誰からも指摘されず、咎められもせず、昨年のように日本一になったら大いに称賛もされた。大学と付属高校全体の人事権を掌握していて、理事長を除いては彼になんの意見を言えないのだという。今回の事件への日本大学の対応としては、まっさきに理事長が出てきて、必要な対処を開始するとともに謝罪会見をするべきであった。
 今回の会見を見て、私は既視感があった。今年3月の女子レスリングの伊調馨選手にまつわるバワハラ事件のとき、突然テレビで発言した至学館大学長の谷岡郁子氏である。谷岡の発言からは、伊調馨選手やその監督栄和人氏に対するリスペクトが皆無で、ただ自分の権力がいかに絶大であるかのみを無意味に誇示していた。自分がリスペクトされた経験がまったく無いため、他人をリスペクトすることができないらしい。この谷岡という人物は、なんの修行も蓄積もないまま30歳過ぎで祖父と父親の威光のみで学長となり、なにを言ってもなにをしても許される異常な環境で老女になる現在まで過ごしてきた。問題の本質的なことが理解できないだけでなく、その過ちを指摘してくれるヒトが傍にいないのである。
 いささか感想の性質は違うものの、やはり印象深かったのが、日大アメフト監督・コーチの記者会見のとき司会を勤めた、新聞記者出身で広報担当の米倉久邦という老人であった。この人物は、かつて新聞社で論説委員まで勤めたというから、ジャーナリストとしてはそれなりに一流と思われていたのだろう。しかし広報担当者として謝罪の記者会見を仕切る立場としては、最悪のふるまいであった。広報のスキルがない、態度が悪いなど、その通りとしか言えない非難に晒されているが、私が思ったのはそれ以上に、ジャーナリストとして「正義の味方」よろしく舌鋒するどく社説を記したりする人物が、組織に属して自ら行動すると、正義か否かに一切関係なく、所属組織の権力者を擁護する行動に一心不乱かつ脈絡なしに遮二無二突走る、ということである。ジャーナリストの「正義感」などこの程度のものに過ぎない、ということをみごとに証明してくれたのであった。
 スポーツという本来明るく心を躍らせるようなものであるべき話題で、とんでもなく醜い人たちを見てしまった。

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