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ブリテン島周遊クルーズ (14)

エディンバラ 聖ジャイルズ大聖堂
 アダム・スミス像の後ろにそびえる巨大な大聖堂が、聖ジャイルズ大聖堂の後ろ姿である。午後になり街の人出も増加して、大聖堂の周辺も内部も、人だかりで混雑してきた。Photo
 聖ジャイルズ大聖堂の名は、中世カソリック教会でとりわけ人気が高かった、身体障害者とハンセン病患者の守護聖人であった聖アエギディウス(英語名はジャイルズ)に由来する。建物は、1124年ころの材料が部分的に発見されているが、1385年火事のため大きく損傷した。その後、長い年月をかけて修復と増改築が重ねられたが、熱烈な信仰心にもとづく建設のエネルギーにこと欠かなかった半面、大聖堂の全体像の総合的プラニングには欠けていたようで、全体としてゴシック様式ではあるが、ゴシック聖堂に常識的な形態の対称性も実現されず、思い思いにスプロール的に巨大な聖堂に成長した。

Photo_2 途中宗教改革で多くの装飾が破壊されまた修復され、さまざまな歴史の結果として、王冠の形をした印象的な屋根と、多数の大きな美しいステンドグラスの窓をもつ、異様なまでに巨大で異形な現在の大聖堂ができている。
 エディンバラにおける宗教の中心であり、スコットランド国教会の大聖堂である。
 教会内では頻繁にコンサートが開催されていて、ちょうど私たちが訪問したときには、少年団員を含む男声合唱団の美しい歌声をしっとりと聴くことができた。

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ブリテン島周遊クルーズ (13)

エディンバラ ハイ・ストリートのアダム・スミス像
 ロイヤル・マイルの道路は石畳みがびっしり敷き詰められ、建物の重厚な焦げ茶色がよく映えて、中世あるいはルネサンス時代にタイムスリップしたような雰囲気である。
 ようやく大聖堂が見えてくると、そのすぐ前の道路に、大きな銅像がみえる。近寄って台のはめ込み版をみると「アダム・スミス」と記してある。

Photo_2
 アダム・スミスは1722年、スコットランドのカーコージーに,税官吏の子として生まれたが、その父は彼が生まれる前に亡くなった。母親の手ひとつで英邁な少年として成長したスミスは、早くから数学と古典に秀で、グラスゴー大学に進み、進歩的な道徳哲学者フランシス・ハチスンに学んだ。17歳でグラスゴー大学を卒業すると6年間にわたってオックスフォード大学に留学し、そこでデヴィッド・ヒュームの著者『人生論』に出会い、思想形成上で大きな影響を受けた。オックスフォードから帰ったスミスは、グラスゴー大学の論理学講座の教授に任命されたが、そこで12歳年長のデヴィッド・ヒュームと直接出会い、生涯にわたる親交を得た。スミスが生まれる少し前からスコットランドはイングランドに合邦され、合併吸収の深い屈辱感とともに、後進国スコットランドにとって大きな経済的発展の期待感が膨らむ時期でもあった。そんな時代環境の中で、スミスは『道徳感情論』を公刊した。ハチソン、ヒュームの思想を発展させ、「同感」「共感」を重視し、人々がともに生き、喜び、悲しむ、すぐれて人間的な感情を素直に、自由に表現できる社会の実現を主張した。そのような社会を形成し維持するためには、経済的な面で豊かになっていなければならない。その意図で続いて新たに著されたのが『国富論』であった。労働の社会的分業の重要性を説き、自然価格、資本蓄積などの概念を明確化し、各人の利己心が最大限に発揮できる自由な市場経済のもとでは、社会的見地からみてもっとも望ましい資源配分が実現する、と予定調和的な見通しを説いた。このように全体を見渡した行動ではない自利心に導かれた行動、すなわち個別投資家が自らの資産運用において安全かつ効率的であろうとすることが、結果的にあたかも「見えざる手」に導かれるかのように、全体として効率的な投資を実現し、経済を成長させることを論じている。これが以後の経済学に多大な影響を与え、基礎を与え、経済学がひとつの学問分野として確立する嚆矢となったとされている。実際にスミスがグラスゴー大学に学んだとき、そして教授に任命されたときは、未だ「経済学講座」なるものは存在せず、スミス自身も直接経済学を目指したわけでなく、自身がめざす道徳的な社会の実現・維持のために考えたことが結果として経済学になった、というわけであった。
 スコットランドは、現在にいたるまで多くの著名で影響力のある学者や科学者を輩出し続けているが、アダム・スミスもその重要なひとりである。

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ブリテン島周遊クルーズ (12)

エディンバラ ピープルズ・ストーリー
 ホリルードハウス宮殿を2時間ほど見学の後、ロイヤル・マイルを登り、聖ジャイルズ大聖堂へと向かう。途中に「ピープルズ・ストーリー」というエディンバラの生活風俗を展示した博物館があるが、時間もないのでごく短時間簡単に見学した。Photo
 ハイ・ストリートに面した古い雰囲気の博物館で、塔が目印だが、間口はごく狭く、ごく小規模な施設のように見える。この建物は1591年に市役所であったが、裁判所や牢獄にも使われた歴史的建造物だという。しかし入場してみると、内部は意外に広がりがあり、展示物もとても豊富で充実していて来訪客も多い。エディンバラの一般庶民の生活から仕事、余暇にいたるまでの社会風俗全般を、人形に往時の衣装を着せ、往時の道具を使ってわかりやすく再現している。魚の行商人、印刷工、桶屋、など各種の職業や、住居、パブやレストランのようすなど、きわめてリアルに再現されている。多くの博物館が、王族・貴族たちや軍隊など、ステータスのある人々にかんする展示に偏りがちだが、ここでは徹底して庶民や貧民の生活、さらには囚人の生活までも展示しているのがなかなか興味深い。
 非常におもしろそうな展示だが、今回はじっくり鑑賞する余裕がない。ロイヤル・マイルの坂をさらに上がって、大聖堂へと向かう。

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ブリテン島周遊クルーズ (11)

エディンバラ メアリー・ステュアートとホリルードハウス宮殿
 さて、このホリルードハウス宮殿の主役は、16世紀の悲劇の女王メアリーである。1542年、エディンバラから西方20kmほどの場所にあるリンリスゴー城でジェイムズ5世の子として生まれたメアリー・ステュアートは、生後6日で父の急死によりスコットランド女王に即位した。

Photo
  メアリーの曽祖父チューダー家ヘンリー7世は、イングランド女王エリザベス1世(チューダー王家)の祖父にあたる。ヘンリー7世の子マーガレットがステュアート家のジェイムズ4世との間に得た子ジェイムズ5世がメアリーの父であり、メアリーはチューダー系の血統を引きながらもステュアート家の直系であった。また、エリザベス1世の父ヘンリー8世こそが、王妃キャサリンを離婚し、後にエリザベス1世の母となるアン・ブーリン(王妃キャサリンの侍女であった)と再婚するために、離婚を禁じるカソリック教会と激しく対立し、ついに宗教的プロテスタントとも言い難い、いささか異端のアンチ・カソリックたる、イングランド国教会を創設するきっかけをつくった人物である。
 さて、メアリーはエディンバラ城よりもこのホリルードハウス宮殿を好み、最初の夫フランス王フランソワ2世がわずか16歳で亡くなると、スコットランドに戻りこの宮殿に住んだ。そのころから、当時イングランド女王に即位したエリザベス1世の生母アン・ブーリンの出自が卑しいことから、エリザベス1世を「庶子」と主張してエリザベス1世を激怒させたことが、メアリーの晩年の悲劇につながる結果をもたらす。Photo_2
  その「メアリーの部屋」が宮殿北西部の塔にある。スコットランド女王にしては狭いごく質素な感じの部屋だが、ここで悲劇が発生した。メアリーの2度目の夫ダーンリ卿(やはりステュアート家系の貴族)が、メアリーが寵愛した秘書リッチオに対して激しく嫉妬して、この場所でリッチオを刺し殺したのであった。このショックのため、妊娠中であったメアリーは流産の危機に瀕したが、ようやく乗り越えて生まれたのが後のスコットランド王ジェイムズ6世(=イングランド王ジェイムズ1世)であった。こうしてメアリーの血統は今日までステュアート王家の直系として伝えられる結果となった。エリザベス1世が生涯結婚せず、子を得なかったからである。この後、ボスウェル伯がダーンリ卿を殺害してメアリーと結婚するに至るが、この結婚に対しては、カソリック教会・プロテスタント教会ともに、ダーンリ卿殺害の主犯がボスウェル、共犯がメアリーと判断して、大反対した。
Photo_3 メアリーは、この後も王族の宿命として権力闘争に陰に日向に関与を続け、身の危険からエリザベス1世のもとに身を隠すこともあったが、スコットランド王を廃位させられ、最後はエリザベス1世暗殺計画の疑惑のもとに、エリザベス1世から死刑を宣告されて死んだ。
 このように波乱万丈の生涯を送りつつも、エリザベス1世に対して常に毅然と接したメアリーは、イングランドに対してアンビバレントな意識をもつスコットランドの人々に、現在にいたるまで根強い人気で愛され続けているという。
 1,500円ほどの入場料には、日本語版もあるオーディオ・ガイドが含まれていて、さらにそのガイドの内容が非常に充実していて、じっくり聴き込むとまる1日は要するだろうと思うほどである。
 この宮殿は、現在はエリザベス2世の夏季の滞在地として使用され、女王が使用しない期間のみ一般開放されている。また、広大な庭園は、連合王国の叙勲式の会場としてわが国の園遊会場のように使用されている。

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ブリテン島周遊クルーズ (10)

エディンバラ ロイヤル・マイルとホリルードハウス宮殿
 やっとエディンバラの中心エディンバラ・ウェイヴァリイ駅に着いた。駅の南側に出て、駅前の道を線路沿いに少し東に行き、南方向に坂を登ると、旧市街のメインストリートであるハイ・ストリートに出る。このメインストリートの西端にエディンバラ城が、東端にホリルードハウス宮殿がある。まずホリルードハウス宮殿に向かう。

Photo_2
 ハイ・ストリートは、東方向に向かっては長い下り坂になっている。旧市街のメインストリートにふさわしくクラシックで上品な美しい街路である。途中にキャノン・ゲート、キャノン・ゲート教会、民衆生活の博物館であるピープルズ・ストーリー、エディンバラ博物館、斬新なデザインのスコットランド国会議事堂などがあり、ホリルードハウス宮殿にいたる。ここから西に坂を登りエディンバラ城にいたるまでの1マイル余りのハイ・ストリートは「ロイヤル・マイル」と呼ばれて、エディンバラ観光のハイライトである。ここだけでもじっくり散策すれば、数日は充実して過ごせそうだが、今回は半日余りの日程なので、思い切ってホリルードハウス宮殿と聖ジャイルズ大聖堂、そしてエディンバラ城に絞り込むことにした。
 ホリルードハウス宮殿に着いて、入場券を購入する。この宮殿にはクイーンズ・ギャラリーという附属美術館があるが、今回は時間の都合でそれを省き、建物のみの鑑賞とした。

Photo_3
 ホリルードハウス宮殿の前身は、中世の1128年に廃墟となっていたアウグスティヌス派寺院跡に、スコットランド王デイヴィッド1世が宮殿を建設したことにはじまる。アウグスティヌス派寺院跡の一部であった修道院跡は、Abby Churchとして現在も廃墟として遺されている。
 その寺院の礼拝堂は、17世紀末にイングランド王ジェイムズ2世(=スコットランド国王ジェイムズ7世)のとき、群衆によって破壊された。当時あたらしくできたキャノン・ゲート教会は、この破壊された教会にとってかわって、地元教会区の主教会となってしまった。そのため、現在の連合王国エリザベス2世女王は、ホリルードハウス宮殿滞在中の礼拝は、キャノン・ゲート教会で行っている。
 15世紀ころから現宮殿の北部にゲストハウスが建てられて、王がここを訪問した時などに宿泊するようになり、やがて王の住居となった。すでに1430年にこの地で生まれたスコットランド王ジェイムズ2世は、ここで戴冠式も結婚式も執り行った。ジェイムズ4世は、15世紀最末期に、建物を大規模に修改築して王宮にふさわしいものに整えた。

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ブリテン島周遊クルーズ(9)

エディンバラ ダルメニー港
 アムステルダムのクルーズ・パッセンジャーズ・ターミナルを出港し、一昼夜の航行の後、ブリテン島北部スコットランド エディンバラのダルメニーDalmeny港に着いた。
Brilliance_of_the_seas
 ダルメニー港は、客船は直接着岸することができず、艀船で上陸する。艀に降りてみると9万トンの我々の船がいかに巨大であるかを実感できる。ダルメニー港へ向かう艀船は対岸を結ぶ鉄橋の下をくぐってゆっくり進むので、上陸まで意外に時間がかかる。桟橋に到着すると、バグパイプの楽団が歓迎してくれた。
Dalmeny 着岸した港は、エディンバラ市街地から15kmほど離れている。クルーズ会社と提携しているらしい臨時のバスと、少数のタクシーがあるが、私たちはできるだけ現地の雰囲気を味わいたいと思い、スコットランド鉄道を利用することにした。桟橋にいた現地の人に聞いて鉄道駅までの行き方は大略わかったが、歩き出すといささかの山道を20分程度歩くことになった。この小道の周囲は人通りがなく街灯もないので、日が暮れると迷いそうである。幸い今は夏至に近く、艀の乗船時刻までに日没はない。Dalmeny_2
 ようやくスコットランド鉄道Dalmeny駅に着いて、発車時刻を確認すると、まもなく4分後に、エディンバラ・ウェイヴァリイ駅行きが出発すると電光掲示板に出ている。チケットの入手について、さっそくプラットフォームにいた乗客のひとりに尋ねると、自分のチケットを出して見せて、あっちのホームにある自動販売機で購入せよ、という。時間の余裕が少ないので速やかにホームを移り、直ちに現金を投入して行先とチケット4人分の指定ボタンを操作した。自動販売機からスルスルと音もなく順次4枚の紙が出てきたので、指定した4枚のチケットと判断してそれを持って急いでホームを移り、少しだけ遅れた(それでもここの電光掲示板上ではon time)列車に乗った。Dalmeny_3
 しばらくして列車内で車掌さんの検札があった。私たち4人が持っている紙は、4枚の有効なチケットではなく、2枚の正しい往路チケット、1枚の復路のチケット、そして1枚の領収書だと指摘された。たしかに、よく見るとそのとおりであった。私たちにとってむずかしかった1点目は、ここでは通常つねに往復乗車券を購入すること、しかも私たちにとって驚くべきことに、片道も往復も料金は同一であることである、そして2点目は、往路チケット、復路チケット、領収書が、すべて同じ寸法・デザインの紙の上に細かい文字で印刷されていること、である。実は私たちが自動販売機でチケットを買ったとき、4人分の往路と復路のチケット、そして領収書1枚の、合計9枚がプリントされて出てくるまで待つべきだったのだ。外国での旅路では、何歳になっても思いかけず戸惑うことがしばしばである。

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ブリテン島周遊クルーズ (8)

アムステルダム ミュージアム広場からの帰り道
Photo 結局美術館はどこも入れず、まだ日没までは時間もたっぷりあるので、ゆっくり歩いて帰ることとした。市立美術館のすぐ前で、浴衣を着た日本人らしい女性がいたので、家人が声をかけた。「エリカさん」というこの若い女性は、ロンドンで8年間ほど滞在して学校も終え、昨秋からオランダにきてロッテルダムに在住という。この日はたまたまアムステルダムに仕事で来ていたとのこと。頼もしい日本人のひとりである。
 ヘーレン運河・シンゲル運河を経て、チューリップの花や種苗を売る店が立ち並ぶ運河沿いの道にきた。ここではダム広場付近より、より豊富な種類のより安価なチューリップの球根などが売られていた。
 トラムできた往路は遠く感じなかったが、こうして歩いて引き返すと結構距離があり、ずいぶん時間がかかった。オランダの首都を歩いているのだから、当然と言えば当然であろう。

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ブリテン島周遊クルーズ (7)

アムステルダム ゴッホ美術館・市立美術館
Photo 買い物の下調べやホテルに戻ってのチェックインなどを済ませたあと、午後3時ころから市街中心部の南にあるミュージアム広場方面に出かけた。少し距離があるので、公共交通機関のトラムで、ホテルのあるダム広場から市立美術館前まで移動した。トラムはいわゆる路面電車で、乗車時に切符を購入するのだが、運賃の3ユーロをその場でクレジットカード決済できる。そんなわけで、今回の旅行はこの後も、現金決済の必要性は予想以上に少なかった。もらったチケットは1回限りの使い捨てなのに、紙製とはいえワイヤレス対応のICカードであった。10分ほど乗って、車内の地元の乗客の助言を得て、間違いなく下車し、ゴッホ美術館に向かった。Photo_2
 ゴッホ美術館に来てみると、楕円形でガラス張りの新館の入り口に膨大な長蛇の列ができている。入場券売り場を聞いて行ってみると、入場券は原則インターネットによる事前予約申し込みが必要で、当日予約なしで入場希望なら予約キャンセル分などわずかのチャンスはあるが、それは市立美術館前の売店に問い合わせよ、と。しかたなく来た道を数分歩いて引き返して売店にたどり着き、問い合わせると、4時少し前に来たら可否が判明するという。ゴッホは生前たった1枚だけその絵画作品がわずか4ドルで売れたのみの、貧しい無名の画家であったことは有名だが、現在に至って日本ではトップレベルの人気画家であり、こうして母国オランダでも平日に長蛇の列をつくるほどの人気ものであることを改めて知ったのであった。

Photo_3
 4時までに少し時間もあり、ゴッホ美術館はほとんどあきらめたので、隣接するアムステルダム市立美術館の鑑賞を試みた。市立美術館のチケット売り場に行ってみると、ここでは今日は午後5時で閉館という。私が持参した日本で出版されたガイドブックでは午後6時となっていたのだが、やむを得ずこれもあきらめざるを得なかった。

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ブリテン島周遊クルーズ (6)

アムステルダム 西教会とアンネ・フランクの家
 ダムラーク大通りを南下すると散策のスタート地点であったダム広場に行き当たり、そこを今度は西に右折して西アムステルダム地区に入る。ラートハウス通りを進むとやがて同じ通りが西ラートハウス通りとなり、西教会に行き着く。Photo
 この西教会は、オランダで最大規模の教会で、とくに高さ85メートルの塔は、高層ビルがないアムステルダム中心街で最大のものである。
1631年にプロテスタントの教会として建設されたもので、カソリック教会にくらべ質素な造りと内装がひとめでわかる。高い塔の先端に付けられた王冠は、15世紀末この地を支配したオーストリア皇帝マクシミリアン1世を記念したものである。時計のすぐ下には大小47個のカリヨン(旋律演奏を可能とするため複数の鐘をくみあわせたもの)があり、ときに美しい演奏を奏でるという。オランダが輩出した世界的画家レンブラントは、1669年この教会の共同墓地に埋葬された。1996年に、ベアトリクス前女王が結婚式をあげた場所でもある。中に入ると、大きなパイプオルガンが目につく。
Photo_2 西教会から少し北に歩いたところに、「アンネ・フランクの家」がある。アンネ・フランクは、ドイツのフランクフルト・アム・マインの裕福なドイツ系ユダヤ人一家の末娘として生まれ、ナチスの迫害を避けて一家でオランダに移住していた。しかし1940年、中立宣言していたオランダにドイツ軍が侵攻し、1942年からアンネ・フランクの一家はこの建物に隠れ住むようになった。1944年、とうとうゲシュタポに発見され、連行されるまでの約2年間を過ごしたのがこの隠れ家であった。Photo_3
 1960年からこの建物は博物館となり、現在はアンネ・フランク財団が管理している。私たちが訪れたときは午後になっていて、博物館の入り口には長蛇の列ができていたので、入館をあきらめた。日本からこの博物館を訪れる人は年間3万人にのぼり、これはイスラエルからの訪問客数より5,000人以上多いという。

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ブリテン島周遊クルーズ(5)

アムステルダム 中央駅と証券取引所
Photo 旧教会を過ぎて飾り窓通りから左折し、西の方向に歩いて、また運河の橋を通るとき、運河の向こう北側にアムステルダム中央駅が見えた。アムステルダム国立美術館を設計したP.J.H.カイペルスと、A.L.ファン・ゲントのオランダを代表する高名な建築家が設計し、1889年に完成した。辰野金吾が設計した東京駅のモデルだったと言われたこともあったが、様式が基本的に違うとして、現在では否定されている。なんといってもオランダ首都の中央駅であり、遠目にもどっしりとして安定感がある。
 さらに進むと、幹線道路のダムラーク大通りに出るが、そこの角に旧証券取引所の建物がどっしりと聳えている。これは、世界で最古の証券取引所であったと考えられている。1602年、オランダ東インド会社によって、株券や債券を売買するために設立された。現在に残る建物は、20世紀初頭に「アムステルダム・スクール」という建築家グループのリーダーであったH.P.ベルラーフ博士の設計による。竣工当時は、きわだってモダンなビルとして話題をよび「シガレットケース」「恐竜」などのニックネームで呼ばれた。
Photo_2
 ダムラーク大通りに面した正面壁の一部に、ベラルーフのレリーフがはめ込まれている。現在この建物は、交響楽団の練習場およびコンサートホールとして使用されている。

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