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「ゴッホ展」兵庫県立美術館 (3)

ハーグ派に導かれて 農民画家としての夢
Photo_20200327061801  1980年画家を志して以来、弟テオからの仕送りに依存する生活、そんな「甲斐性なし」に対して不満をぶつける家族たち、などで彼の生活は不安定で、精神的環境も良くなかったようだ。年上の女性との恋愛と破局、父との葛藤と父の急死などを経て、1883年ころには子持ちの娼婦シーンと同棲して、彼女をモデルに絵を描き続けた。そのひとつが「ジャガイモの皮を剥くシーン」(1883)である。このころまでは鉛筆・チョーク・水彩などの絵が多かったが、ゴッホは農民画家として自立を目指し、油彩の技能向上を図って多くの習作的な作品を集中的に制作した。
Photo_20200327061802 「農婦の頭部」(1885)はそのうちのひとつである。たしかなデッサン力にもとづくしっかりした基本構造のうえに描かれているのがわかる。おなじような女性の頭部の作品がいくつかならんでいる。
 それらの周到な準備のうえにそれまで練りに練って考えた独自の画風を駆使して、彼自身の農民画の集大成として「ジャガイモを食べる人々」(1885春)を完成した。ゴッホはこの出来栄えにはかなりの自信があった。油彩の原作品からリトグラフを作って、親友であった画家仲間のアントン・ファン・ラッパルトにも送った。にもかかわらずラッパルトからは、人物、コーヒー沸かしなどの日用品、それらの構図上の関係の問題など、描き方が甘いと酷評され、憤慨する。ラッパルトに対してゴッホは「リトグラフについては説明しておきたい。僕はあれを記憶だけで、しかも1日で仕上げたんだ。頭がおかしくなりそうなほど構図を探して、とても難しい処理をして、それらをまとめることができる新たなアイディアを探していたんだ。」と手紙に書き送り、以後絶交にいたったという。Photo_20200327061901
 同じころの静物画として「器と洋梨のある静物」(1885)がある。ゴッホの写実の技能がこのころには高い水準に達していたことがわかる。

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「ゴッホ展」兵庫県立美術館 (2)

ハーグ派に導かれて ハーグ派の画家たち
 オランダの都市ハーグを拠点に19世紀後半に活動した画家たちのグループは「ハーグ派」とよばれ、町の周囲の田園地帯や海岸地帯の風景を詩情豊かに描きだしていた。


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 ゴッホが弟テオへ宛てた手紙には、彼が「生命の表現」を目指していたこと、そのために「色調と色彩」がとても大切であること、そしてそれをアントン・マウフェから教えられたことが綴られている。この「生命を表現する」という言葉は、ゴッホの以後の作品を読み解くキーワードのように私には思える。 
Photo_20200325061401  アントン・マウフェ「雪の中の羊飼いと羊の群れ」(1887)は、厳しい自然たる白い雪と、それに対抗して静かに燃え続ける羊の生命を表す褐色との対比が、地味ながらも鮮明である。
 やはりテオへの手紙に書かれた文章「自然、現実、真理。これらのものから芸術家は意味や解釈、特質を取り出し、そこに表現や自由を与え、暴露し、解放し、つまびらかにする。マウフェやマリスやイスラエルスの絵は、自然そのものよりも明快に語るんだ。」は、ゴッホがマティス・マリスの「出会い(子ヤギ)」(1865)から何を見いだしたのか、どのように影響を受けたのかを鮮明に表している。

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「ゴッホ展」兵庫県立美術館 (1)

 兵庫県立美術館で、ハーグ美術館の協力・監修を得てフィンセント・ファン・ゴッホの総合的な美術展が開催された。東京上野の森美術館と、ここ兵庫県立美術館との二つが今回の展覧会開催場となった。
 ゴッホは、とても人気のある画家なので、これまでにもなんども特別展が開催され、私もなんども観た。一昨年にも大阪市立美術館で観た。
 今回は、ゴッホの画業の進展を、彼に影響を与えたと考えられる他の画家を、よく知られている有名画家か否かにこだわらずあわせて展示していることが特徴である。
 展覧会の構成は、わずか10年間のゴッホの活動期間を二分して、最初の2年間主にハーグで独学中心に活動したころ、続いてアイントホーフェン近郊のニューネンなどを拠点に先行する画家たちに学びつつ画業の基礎を確立していった画家としての前半生を「Ⅰ.ハーグ派に導かれて」とし、フランスに移り印象派の画家たちに大きく影響を受けつつ独自の境地を切り開いていった画家としての後半生を「Ⅱ.印象派に学ぶ」としている。


ハーグ派に導かれて 独学からの一歩
Photo_20200323060901  1853年と言えば、わが国の嘉永6年で、6月にアメリカのマシュー・ペリーが率いる軍艦艦隊が浦和に入ってきた歴史的大事件の年であった。この年の3月、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホがオランダ南部の町に牧師の子として誕生した。彼は16歳の時に大手の画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリなどにも出て働いたが、7年後に解雇された。そのあと少し教師や書店員などをしたのち、24歳のころ牧師になろうと大学神学部入学をめざして1年余り受験勉強をしたが挫折し、27歳の1880年ころから画家を志すようになった。弟テオの経済的援助を受けつつ、1881年からオランダ・ベルギーの諸都市を転々として画作を続けた。独学で絵を描いていたゴッホは、色彩・デッサンの専門書を読んで学んだり、ジャン=フランソワ・ミレーなど巨匠たちの作品を模写したりしていた。
 ゴッホは、ミレーが描くような、働く貧しい農民の境遇や表情の表現に共感し、社会派、写実派、あるいはバルビゾン派に共感する立場から画業をはじめた。ゴッホは、かなり速筆だったのか、短期間に同じようなテーマ、対象の絵画をまとめてたくさん描いて残していて、そういう彼なりのハードな修行方法で短い期間に絵画の技量を高めていったようである。
 このゴッホの初期の作品として、鉛筆・ペン・インク・水彩による「疲れ果てて」(1881)がある。しっかりした構図とデッサン力とが誰にもよくわかる。

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無駄と潤いと満足

 ある同窓会で、友人のひとりが「人間は生きながら、実は無駄を積み重ねていくようだ」と呟いた。自宅の整理をしたり、亡くなった親の遺品整理をしたりして、そんなことを思ったという。それを聞いた他の友人がすぐに同感を表明した。私も、とくに母が亡くなった時の実家の整理のとき、結局大部分の遺品を廃棄しながら、同じようなことを思ったことを思い出した。
 多くの場合「無駄」という言葉の含意は、個人的な判断である。ある人がとても大切にしていたものであっても、その本人以外はその大切さを共有できず、突き詰めれば「無駄」に過ぎないことは普通である。人間が生きていく上に本源的に必要な基本的な食糧・衣類・住居を除けば、大部分のモノは究極的にはそのような位置づけになるだろう。父や母が生前大切にしていた衣類などが典型的な例で、亡くなったら結局は破棄することになる。
 私個人を振り返っても考えても、現在私が大切にしている書籍、衣服、道具なども、その大部分は子供たちを含めて私以外にはほとんどなんの意味も価値もないであろう。
 実家の遺品整理でふと気づいたことだが、廃棄せずに引き取って持ち帰ったモノの多くは、百円ショップで売っているような品物であった。価格はとても低くても、誰にとっても一定の価値があるモノというのは、そのようなモノである。それだからこそ、百円ショップの売り手は、莫大な在庫を抱えていても安心なのである。
 少し考えると、人それぞれによって判定する「価値」が異なるようなモノこそが、より文化的、教養的なのだとも言える。その数によらず誰かが大いに個性的な価値として認める、受け入れるモノが文化を支えていると言える。ほぼ全員がおなじように価値をみとめるような、誰にとっても必須なモノだけでは、我々はとても潤いある満足な暮らしはできないであろう。その意味では「無駄」の効用面をしっかり認識して主張することは大切である。その一方で、多くの文化財はその価値を認める人々の一方で、その価値を認めない人々が常に大量に存在するのが通常というのも事実なのである。
 多くの人々がその価値を受け入れられない、認めたがらないものを、育成して保存するためには、保存しようとする人々の努力とともに、大勢の人々にとっての無駄を抱え込むことができる精神的・経済的余裕が必須となる。文化財の維持を、高踏的に「わが国の文化度の高さ」、「民度の高さ」などと偉そうに主張しても、多数の人々が本心では必要性を認めないのは当然かつ自然であり、それでも保存・維持するためにはそれを支え得る精神的合意のうえに、経済的余裕が必須であることを、我々は常に真剣に考えなければなるまい。「カネではない、心の豊かさこそが大切」とは言うものの、そういう側面も忘れてはならないのだろう。
 ある友人のふとした呟きから、ついついいろいろ考えてしまった次第であった。

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新型コロナウイルス肺炎騒動について私信

 お話しのように1月以来、新型コロナウイルス肺炎の話題で、格好の長持ちするネタとばかりに、どのメディアも毎日もちきりです。
 こういう国家的・国民的な危機においては、東日本大震災のときにやったように、政権与党vs野党などという対立は控えめに、多少の瑕疵は誇大評価・表現を控えてできるだけ最短に危機を乗り越えるための国民的協調・大同団結がいちばん大事だと思います。残念ながら野党の一部は与党への攻撃材料探しのみに躍起になり、一部のマスコミと多くのテレビはそれを囃し立てて危機感のみを必要以上に無責任に煽るという事態があります。
 政策を決めるのに専門家の意見を聴くことは必要ですが、専門家の言う通りにすればよいというものではありません。政治は広い視野からの高度な「常識的判断」が基本であり、専門家は「専門」の言葉とおりある限られた視点・視野からの狭いけれども深い洞察を与えるものであって、広い視野からの考察を与えるものではないからです。「専門家の見解を重視」というメディアが、その一方で報道ではなんども出ている専門家の見解を理解していない、あるいは無視するという場面も多々あります。
 今回のわが国の政府の判断と行動は、かつて経験したことのない事象でもあり、いくつかの失敗も後手になった部分もあったようだし、もろ手を挙げて賞賛するほどのものではないとは思いますが、大きな節目では間違わなかったし、大多数の日本人の基本的に生真面目な性格にも恵まれて、相対的には大過少なく経過していると思っています。
 いまさらながら、東日本大震災のときの民主党のような政権ではなかったことの幸いを実感しています。

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朝日新聞編集委員の「失言」

新型コロナ「痛快な存在かも」朝日新聞、編集委員の投稿謝罪
時事通信ウェブ版 2020年03月14日18時31分
(前略)朝日新聞社によると、大阪本社の小滝ちひろ編集委員は13日午後3時すぎ、自身のツイッターアカウントで「戦争でもないのに超大国の大統領が恐れおののく。新コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かもしれない」などと投稿。上司から事情を聴かれた後、同日午後11時すぎにアカウントを削除した。
 同社は「著しく不適切で、感染した方や亡くなった方々のご遺族をはじめ、多くの皆さまに不快な思いをさせるものだ」と謝罪した。小滝氏は主に文化財や寺社などの取材を担当しており、「心からおわびします。深く反省しています」と話しているという。

 編集委員というのだから、新聞社の幹部のひとりである。その人物の「失言」と後始末なのだが、私には大きな違和感がある。
 「超大国の大統領」というのだから、おそらく韓国の文在寅大統領ではなく、アメリカのトランプ大統領のことを指すのだろう。その大統領が、新コロナウイルスに対して「恐れおののく」ことが「ある意味で痛快」とする。新聞社の幹部がこのように発言する、この意味するものはなにか。
 大きな権力を持つ者はすべて敵視する、という意味であれば、新聞としては不適切である。たとえばすべての権力は可及的速やかに崩壊して、無権力、無政府になるべき、などとアナキズムのような思想を持つこと自体は、個人としては自由である。しかし「新聞」が公共的利益を社会にもたらすこと、「新聞は社会の木鐸」であることを標榜するなら、個人の嗜好での発言や行動は不正であろう。
 あるいは当該の特定の権力者、たとえばトランプ大統領に問題がある、というのであれば、その問題を簡潔であれきちんと説明することが必要である。「社会の木鐸」として政治権力者の問題を指摘することは、メディアの本来の使命である。今回の発言は、新聞がよくやるような、対象者の発言の一部を切り取って誤解を与えるような場合とは真逆で、自らの説明・発言が決定的に不足しているのであり、言論人として致命的な怠慢であり誤りである。意図的な「印象操作」のひとつと、疑われても当然である。
 新聞はさまざまなところで「政治権力とたたかう」というが、このような態度で行動する限り、社会に害悪を与えることはあっても、社会に良い影響を与える、良い方向に導くことはとても覚束ない。
 「感染した方や亡くなった方々のご遺族をはじめ、多くの皆さまに不快な思いをさせる」として謝罪しているが、そんなこと以上にもっと本質的なところで大きな問題がある。些末な「失言」のような扱いだが、実はこの人物の、さらにはこの新聞社のもっと本質的な大きな問題が、はからずも露呈している。
正直なところこの記事も、私にとってさほど驚くようなものでもなかったが、それだけに病根は深いのだろう。

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福知山散策 (7)

福知山のレストラン
 今回、福知山でふたつのレストランを楽しんだ。Cafe
 ひとつは、福知山城の真下の由良川近く「ゆらのガーデン」にある「Cafe お城の下で」というお店である。若者向けのライブハウス形式のレストランで、私たちが食事したときにはライブ演奏はなかったが、大型スクリーンでJUJUなどの演奏シーンを放映していた。
Italianbar-il-pazzini  もうひとつは「ITALIANBAR IL PAZZINI」というお店で、建物のすぐ外に大型のスポーツ・バイクを配置したり、室内は高い天井から緑色のガラス瓶を多数吊り下げて照明を飾ったり、なかなか手の込んだ内装の店であった。福知山にも、こうした若者好みのモダンで瀟洒なレストランができていて、楽しく食事ができるようになっている。

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福知山散策 (6)

広小路通りから御霊神社
Photo_20200313063001  由良川の堤防を降りて、広小路通りを西に歩く。
 この広小路通りは広い道路で、とくに歩道が広いのが特徴である。電線の地中化にも努力が続けられるなど景観に配慮されていて、たしかにきれいな大通りである。大阪などから来ると、道路の広さに対して人通りや車の通行があまりに少ないように感じてしまう。福知山市街のメインストリートで、市街の案内マップには「福知山城エリア」「駅前エリア」に並ぶ注目スポットとして「広小路エリア」と記されている。光秀の時代以前は、由良川が流れていた地域であり、光秀藪によって造成された城下町のセンターであった。このエリアのハイライトとして、この道路の真正面の突き当りに「御霊神社」がある。 2_20200313063101
 「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」は、元来は宇賀御霊大神を祀る稲荷社と、光秀を祀る菱屋町の常照寺とに分かれていた。宝永2年(1705)福知山城主であった朽木氏が、かつて当地を「福智山」と命名し福知山城を近世の城に改修するなどの実績と貢献をもつ明智光秀を顕彰し、合祀を許したことが始まりとされている。この神社には、明智光秀にまつわる多くの史料が所蔵されている。

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福知山散策 (5)

蛇ケ端御藪
Photo_20200311061501  福知山城を出て、太鼓橋を渡って由良川沿いの堤防に出る。眼前に一面の竹やぶが見える。これは「蛇ケ端御藪(じゃがはなおやぶ)」またの呼び名を「明智藪」という。光秀が福知山城を建造したころは、由良川は現在の福知山市街のまんなかを流れていて、頻繁に氾濫していたという。「蛇ケ端」という名も、いかにも荒れ狂う川にふさわしい。光秀は、城下町を大きくしてなんとかして栄えさせようと、第一に治水に注力した。結局、由良川の流れを一部付け替えて北西に流れを移し、そのための堤防を補強するために築いたのがこの藪である。当然、本来はもっと長くつくられていたが、そのごく一部が残存しているのである。
 明智光秀は、織田信長の命令に従って天正3年(1575)から天正7年(1579)まで、粉骨砕身して丹波国を平定した。そしてこの地に福知山城を建造して、初代の城主となった。城が完成してまもなく、光秀は娘婿の明智秀満を城代として統治を任せ、自身は織田信長の命令に従って戦争に明け暮れて、そして天正10年6月の「本能寺の変」に至った。その後は、慌ただしく山崎の合戦と死に至ってしまい、福知山城に落ち着いた時間はほとんどなかったようだ。

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福知山散策 (4)

福知山城 天守閣と「銅門番所
Photo_20200309061101  天守閣の中に入る。小さな天守閣なのでエレベータはなく、階段で4階までのぼる。各階に展示があり、「光秀最後の13日」という本能寺の変から摂津国山崎で落命するまでを取りあげたビデオ15分が繰り返し上映されている。果たしてこのときの光秀が、少壮の武士なのか、初老の武士なのか、興味は尽きないが知りようがない。
 天守閣から出て、入り口と反対側にまわると「銅門番所(あかがねもんばんしょ)」がある。もともとは二ノ丸の登城口にあったが、大正時代に天守台に移築され、天守閣が昭和61年(1986)に再建されたときに再び本丸跡に移された。
Photo_20200309061102  天守台から降りる道の途中に、石垣の一部を指して「石垣の転用石」との表示がある。石垣は幸いにして400年以上昔のままのものが残っていて、当時の主流であった「野面積(のづらつみ)」という積み方である。その石のなかに、寺院の五輪塔や宝筐院塔などの石材が流用されているのがわかる。

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