「GUTAI 分化と統合」展 中之島美術館(2)
具体結成時のメンバーたちの作品(続)
山崎つる子「図形による題」(1963)がある。
山崎つる子(やまざき つるこ、大正14年1925~令和元年2019)は、兵庫県芦屋市に生まれた。甲南高等女学校を経て、小林聖心女子学院に進んだ。大学卒業前のころ、芦屋市主催の市民講座に聴講に行ったことで、講師として呼ばれていた吉原治良に出会い、その講義に強い感銘を受けた。これを機に、山崎は吉原の自宅で開催された絵画教室に友人と通い、指導を受けるようになったという。
初期の風景を対象にした抽象画にはじまり、キュビズム風の「顔」、金属の光沢を利用した作品群、赤いビニールを木に括って張り巡らせた蚊帳状の立体作品、など、作風に大きな変化を見せるとともに、ブリキ、染料、光、影などといったそれぞれの物質感が連鎖作用を起こすことで存在感を表すユニークな作品を発表し続けた。この絵では「色は渇き、色は叱咤、色次第」との言葉とともに、色彩を追求したのだろう。
正延正俊「作品」(1964)がある。 正延正俊(まさのぶ まさとし、明治44年1911~平成7年1995)は、高知県高岡郡須崎町(現在の須崎市)に生まれ、高知県師範学校(現在の高知大学教育学部)専攻科を卒業した、抽象絵画を手がけた画家である。昭和10年(1935)東京に移り、数年後に神戸市に移ったが、この間、高知県内、東京、神戸市内で小学校の図工教員として勤務し、昭和43年(1968)まで教員生活を送った。
戦前期から具象的な絵画を公募展に出品していたが、昭和23年(1948)ころ神戸で吉原治良に出会い、師事するようになった。この後急速に抽象絵画に傾注するようになり、「油絵具やエナメル塗料で幾層にも塗り重ねられた地肌」の上に「おびただしい数の微細な筆触」を置く、あるいは「糸くずを丸めたような形態や手書きの線が画面全体を覆う」と表現される、独特の作風に達した。正延は言う「ペインティングナイフの下から、筆の裏から、また流れ出る線の集積の間から、チラリと胸に響くなにかがのぞくとき、また思いがけない線が画面のなかで存在を主張し始めるとき、画面空間はにわかに息づいてくる。消え去りやすいものを掘りだし、ムーヴマン(主に絵画や彫刻における動勢や動き)をしてより生気をもたせようとつとめる。画面が次第に胸の中のものとつながりはじめると、仕事が方向づく。偶然の効果と意識的操作をからませつつ、胸の中の響きかけの強さ・深さ・微妙さ・爽やかさ・烈しさ・新鮮さ・・・などの真実さを確かめていく。ここ数年の作品の多くは、こうして形らしい形がなくなり、次第にタッチ、動き、リズムのようなものだけが画面を占めるようになっていった。無意識のうちのこうした取捨選択による制作進行を、画面を、僕の内部に近づけていく方法のひとつだと思っている。」この概念は、フランス現代思想のジル・ドゥルーズたちが主張する「スキゾ」に関係しているのかも知れない。
吉原通雄「作品」(1965)がある。吉原通雄(よしはら みちお、昭和8年1933~平成8年1996)は、吉原治良の次男であり、日本の現代美術家であった。今回展示されているこの作品は、材料が紙テープで耐久性の問題から、この展示用に再制作されたものである。
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