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秋の東北旅行(7)

中庭
Photo_20231201055201  上段の間、仏間から羅漢の間、墨絵の間を経て、視界の開けた廊下から見えるのが、中庭である。平成30年(2018)瑞巌寺修築の落慶法要に合わせて整備された。
 既存の庭に使用されていた材料を活かし「松島に息づく文化・瑞巌寺が歩んできた歴史・宗旨の根幹をなす禅」という、瑞巌寺にとっての大切な三要素が共鳴するように作庭されている。水源は命の源であり、発展の源でもある。滝から流れ出た水が松島の豊かな島々を育み、鎌倉から桃山へ連綿と受け継がれてきた歴史・文化・自然の中で、僧侶が坐禅をする姿を表しているという。

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秋の東北旅行(6)

本堂
 庫裡に入って順路標識にしたがって進むと、本堂に着く。本堂は正面38m、奥行24.2m、棟高17.3m、入母屋造の本瓦葺で、室中(孔雀の間)・仏間・文王の間・上段の間・上々段の間・鷹の間・松の間・菊の間・墨絵の間・羅漢の間の10室から成る大規模な建物である。それぞれの間は、部屋の使用目的にふさわしいテーマに沿って描かれた絵画や彫刻で装飾されていて、それぞれ天井も造りが異なる。昭和28年(1953)国宝に指定された。
 墨絵の間以外の障壁画は昭和60年(1985)から制作が開始された精巧な復元模写が導入されている。本堂の中は、写真撮影が全面的禁止となっている。Photo_20231130060301
 法要が営まれる室中孔雀の間(しっちゅうくじゃくのま)は、本堂の中心となる部屋である。襖絵は仙台藩最初のお抱え絵師 狩野左京による「松孔雀図」で、手前右側より左回りに冬→春→秋と四季の移ろいを描くことで、世俗的な時間を超越した場所であることを表現している。正面の「雲に飛天」の彫刻や虹梁の迦陵頻伽の絵画とともに、この部屋が「この世の浄土」を具現化した空間であることを示している。
 室中の奥に位置する仏間は、本尊の聖観世音菩薩像、初代藩主政宗から12代藩主斉邦までの位牌、瑞巌寺三代開山の木像、歴代住職の位牌が祀られている。襖絵は金地の上に咲き誇る「桜図」で、黄金世界を表現することで浄土を表わしている。須弥壇前面の「牡丹唐獅子図」は、獅子が文殊菩薩の乗り物であることから、仏の智慧を象徴するものである。
 文王(ぶんおう)の間は、伊達家一門の控えの間で、藩主との対面の場である。襖絵は狩野派と共に桃山絵画を担った長谷川等伯の高弟であった長谷川等胤による「文王呂尚図」で、理想の国家とされる周王朝の基礎を築いた文王と名補臣太公望呂尚との出会い、国都洛陽の繁栄、さらに狩猟場面を描いている。
 上段の間(じょうだんのま)は藩主御成の間で、他の部屋より畳面が一段高くなっている。明り取りの火頭窓と違棚が正面奥に、帳台構が右手に設えられている。襖絵「四季花卉図」は平和と豊かさを、床の間「梅竹図」は藩主の理想的資質として求められる「高潔と清操」を、帳台構の「牡丹図」は富貴を、それぞれ表している。さらにこの間には、伊達政宗甲冑倚像復元像がある。これらは平成の大修理完了を記念して制作され、平成30年(2018)の藩祖忌において開眼法要が執り行われた後、ここに安置された。
 上々段の間(じょうじょうだんのま)は、天皇あるいは皇族をお迎えするための部屋である。藩主御成の間よりさらに一段高くなり、付書院、違い棚を設え、天井の格子が花菱格子となっている。違棚の「紅白椿図」に描かれた大椿は、32,000年に一つ年輪を加えるとされ、皇室の永遠の繁栄を願ったものとされている。明治9年(1876) 6月明治天皇の東北御巡幸の際に行在所となり、一夜をお過ごしになった。

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エマニュエル・トッド『我々はどこから来て今どこにいるのか』下巻

「場所の記憶」として永続する家族類型が歴史を規定する
 まずこの本の内容を、ごく大雑把にまとめる。
⑴なぜ人類の下層構造はいつまでも残存するのか ─「場所の記憶
 人類社会の価値観・習俗を規定し、その結果として歴史を規定するのは、教育・宗教・家族から決まる人々の無意識層および下意識層、つまり下層構造である。そのなかでも根源的なのは家族類型である。Photo_20231130145101
 ユーラシア大陸中央部では、農業発生の中心地に近かったため、家族的・社会的形態が経験した時間、すなわちマクロな歴史時間が長く、家族構造がより高度に複合的になり、原初の未分化核家族から外婚制共同体家族、内婚制または一夫多妻制の共同体家族が派生した。
 ユーラシア大陸西周縁部では、相対的にその歴史時間が短く、純粋核家族とその周縁に残存する原初的な未分化核家族となった。
 歴史が進み時代が変わっても、その根源的な習俗が変わらず特定の地域に残るのは、「場所の記憶」として説明される。価値観の継承は、親子・兄弟など家族の枠内のみならず、ひとつのテリトリーすなわち「場所」を共有する大人たちと子供たちとの間でおこなわれる。そして個々の人間が濃密には意識していない信念、いわば「弱い価値観」が、あるテリトリーにおいて、長い年月、ときには果てしなく生き続ける。個々人はフレキシブルに郷に入れば郷に従うが、気軽な、強制を感じない「弱い価値観」こそが、軽やかな模倣や居心地の良さなどを通じて、移住者を、意図することもなく無意識に適応させて「場所の記憶」を根深く維持する。多くの個人がむしろ弱く有している価値観が、集団レベルではきわめて強く頑強で持続的なシステムを生み出し得るのである。
 宗教にかんしても、たとえばパリなどフランス中央部では、かつてはカトリック教が定着していたが、今では人びとの宗教的関心も宗教的慣行も希薄化しているにもかかわらず、カトリック教的な価値観、つまり必ずしも平等主義的でなく権威主義的な性向は根強く残存して、社会・政治・経済の活動に大きな影響を与え続けている。トッドはこれを「ゾンビ・カトリシズム」と名づけている。

⑵民主制はつねに原始的である
 民主主義は、人類学的には原始的現象である。主な成立要因は都市の発生と発展と考えられ、言語や神話から推定すると、ギリシアを2500年遡るメソポタミア・シュメールに民主主義の嚆矢が見出される。互選あるいは合議に基づいてリーダーを選出したのである。古代インド、インカ帝国の地域共同体でも同様のことが見られる。しかしトップの人物は名門一族からという場合が多く、親族グループが未分化であれば世襲はできないが、平等主義的ではない。代表者たちは事実上の寡頭支配集団を構成してしまうので、原始民主制と原始寡頭制の区別は困難である。以後も、民主制と(実質的な)寡頭制とは、つねに近親的である。
 インド・中国・中東よりずっと遅れて、ヨーロッパでは都市化が中世になってようやく進展した。それに先んじて、フランスでは、旧ローマ帝国支配下でローマ風平等主義的核家族の痕跡があり、北フランスでは平等主義的核家族が、イタリアでは父系制共同体家族が出現していた。イギリスでは未分化の原初的に近い絶対核家族が発生し、この原初的民主主義かつ寡頭制の残存が、17世紀に自由主義革命を可能ならしめた。
 16世紀以降のヨーロッパは、「軍事革命」が絶対主義を促進して、権威主義的国家の勃興が続いた。ドイツは、直系家族にもとづく権威主義的かつ不平等主義的家族システムの大国で、イデオロギー的革新は、ずっと後の脱宗教化の時代のナチズムとなった。
 ヨーロッパで、政権交代をともなう自由主義的民主制が容易に実現したのは、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、デンマークの核家族システムの国だけだった。
 イギリスでは、絶対核家族のもと、自由主義だが寡頭制的な体制が確立し、産業革命、農地革命と労働者人口増加で有権者比率は収縮したが、不平等への不満は小さかった。
 古代ローマ時代の父系性共同体家族が、帝政時代に平等主義的核家族に変容したフランスでは、「抽象的普遍的人間像」を理念として打ち出したが、その理念は普遍的だが空想的であった。
 アメリカは、イギリスからの独立時、イギリスの権威主義を否定し、普遍的で平等主義的な民主制を造ろうとした。そして人類史の原初的形態に近い絶対核家族の下層の上に、白人たちあるいは白人に後から追加された疑似白人たち(アジア人や最近のインディアン)の平等を実現する一方で、そのために黒人を差別する民主制を達成した。アメリカの「具体的普遍的人間像」は、他者(黒人)との境界線を必要とし、レイシズムと非過分であった。絶対核家族のアメリカの民主制は、人類(ホモ・サピエンス)の原初的類型に近く、あるがままの自然さという意味でより普遍的と言える。
 民主主義的で個人主義的な普遍は、アメリカ、イギリス、フランスのみで存在している。「民主制」は、演繹的・哲学的な理念ではなく、経験主義的・人類学的な事実であり、普遍主義的な性質のものではなく、エスニックで、排他性を必要とし、ナショナリズム、レイシズムをともなうものである。「民主制」は、自らの領土において、自らのために自らを組織化する特定の人民のものである。この集団は、自分たちの領土を護る。人類一般のために物事を決する抽象的な集合体ではないのである。
 当事者たちが気づかない人類学的基底が残存するため、自由主義的民主制が不平等的権威主義体制に変異することがあり得ることは、つねに忘れてはならない。

⑶高等教育による新しい格差と分断
 20世紀初めのアメリカの教育革命以来、まず先進国で、そしてそれを追って開発途上国で教育が普及し、されに高等教育が普及していった。「識字化」にはじまる教育の普及は、人々の社会の発展に大きく寄与したことは言うまでもない。
 しかし高等教育の拡大・普及は、社会を、そして政治・経済をリードする高度な知識の取得によって、それらを享受した人々のステータスを高め、それは「メリトクラシー」の思想を生んだ。その結果、社会に新たなエリート階層を形成するようになった。アカデミアは、公式イデオロギーはたいていリベラル・進歩主義・左翼だが、客観的にもたらす機能は、平等の破壊をもたらしたのである。
 アメリカでは、黒人を差別することで平等となっていた白人層の内部に、高等教育による分断が加わるようになった。1970年代にアメリカは世界一の高等教育普及率を誇るようになり、1980年レーガン大統領就任ころから、経済的にグローバリズムによる新自由主義の時代、すなわち不平等の時代となり、1980~2015年にはアメリカ全体の最富裕層の所得が激増し、経済的不平等が毎年拡大するようになった。
 グローバリズムは、国際的には富裕国と貧困国との格差をもたらし、国内的には黒人層と新たに教育格差から加わった新しい下層の人びとに大きな経済的打撃を与えた。
 黒人大統領オバマを輩出し、ラテンアメリカ系、アジア系移民に門戸を開け、2010年以降増加する白人以外のアメリカ人の優遇を唱えて、アメリカの優越的地位の継続・発展の夢を唱えて、有権者の多数を掌握するかに見えたアメリカ民主党だが、トランブは、中国に騙され、同盟国(トルコ、サウジアラビア、フィリピン)に愚弄されたアメリカをごまかさずに引受け、グローバリズムのもたらす国民の困窮を指摘して選挙民に向かって世界の現実を述べることができたことで、大統領選挙に勝利した。
 教育の普及は一定度世界的収斂を示すが、発展途上の国々が教育の成果たる頭脳を先進国に略奪されることも恒常化している。アカデミズムは新しい格差を生じるので、社会のイデオロギー的分裂は超克不可能であることも注意すべきである。

⑷直系家族型社会─ドイツと日本
 平等主義的意識が低い直系家族は、社会的規律と個人的内向を同時に強化するが、並外れた効率性とパフォーマンスを発揮するときがある。父から子への継承を重視する直系家族の特徴として、ドイツと日本は、産業・技術の継承・継続に熱心であり、それが産業の成功に貢献している。この2国は、集団的な組織能力、国民レベルのナショナルな集団意識に優れる。たとえば政府が貿易制限を設けなくても、自然に自発的に自国製品の購買を選好する。
 日本は、自ら自分たちは特異だと自覚し主張している。ドイツも日本も、ゾンビ・ナショナリズムが浸透しているのである。これに対してゾンビ・平等主義核家族のフランスは、どの国も皆同じ人間と思うお人好しである。
 ただドイツ・日本の2国は、ともに出生率の低迷に苦しんでいる。この点では、ドイツ・日本の父系の強い直系家族が不利であり、個人主義的・自由主義的・女権拡張的なヨーロッパ的核家族型社会が有利である。すなわちホモ・サピエンスからさほど遠ざかっていない、原初に近い社会のほうが、出生率改善によりよく機能していると言える。
 ドイツと日本が異なるのは、移民に対する方針である。日本は、人口の漸減をも受け入れ、移民を強く抑制しているのに対して、ドイツは近年移民受け入れに積極的となった。しかし移民がドイツに適合できるためには、かなりの時間を必要とする。「場所の記憶」は、郷に入っては郷に従う人類の特性から、じゅうぶんな時間をかけさえすれば出自の性向を脱して、移入した先の場所の習俗に倣うようになるが、短時間に大量に移入すると、移民だけが集合して独自のグループを成し、不満のある時は移入先に対して反乱を起こすことがある。ドイツも、苦い経験を繰り返すと、日本のように移民を閉ざすようになる可能性はある。

⑸ヨーロッパ連合の失敗
 EUは、2つの大きな過ちからスタートした。
①経済の決定力がなにものにも勝るとの誤解
②諸々のネイションのあり方が、消費社会のなかでひとつに収斂していくという誤解
 しかし人類の世界は、そんな単純な仕組みにはなっていない。経済の推移だけでさえも、教育・宗教・家族の影響力という深層に潜む力が支配しているのだ。
 EUは、平等主義核家族のフランス中央部のエリートが提案した、経済統合による共存共栄から加盟国が実質上人々の統合を果たし、「市民とネイションの自由と平等の繁栄」を目指すものであった。まさに平等主義を前提とした理想を追求したものだが、ユーロ圏各国の家族類型を冷静にみると、46%が直系核家族、27%が平等主義核家族で、そもそも直系核家族のドイツが主導権を握る傾向を包含したものであった。さらに、フランスの周縁部はパリのある中央部とは異なり、ゾンビ・カトリシズムの地域で、反宗教改革の延長から権威主義的で不平等主義的な傾向があり、直系家族型に通じる性向を有する。
 家族類型と宗教の影響の複雑な複合の結果、権威主義的な気質がユーロ圏で支配的となっている。ユーロ圏全般に、緊縮経済政策を選好し、トップダウンの権利を歓迎するイデオロギーが存在している。単一通貨ユーロを構想したのは、実はそのようなフランスのエリートたち、1981年政権についたフランス社会党のエリートたちであった。単一通貨ユーロは、人々に仕えるためでなく、人々を支配するためにつくられた通貨であった。かくてEUの管理は、現実には人間不平等の価値観で進められた。
 ユーロのせいで、経済の強い国と弱い国との間の競争がより過酷になった。平価切下げで無理な条件から自国経済を護る手段が失われ、イタリアやフランスの産業は、ドイツやスカンジナビア諸国との競争に耐え得なくなった。すでにフランスは、独自に経済政策を立案・遂行する能力を喪失して、EUに、つまりはドイツに、ほとんど隷従しているのである。ユーロを提案したフランスは、ドイツに敗れ去り自滅したと言える。
 西ヨーロッパと東ヨーロッパの賃金水準の格差が、若い労働力の移動、とくにドイツへの大量流入を惹き起こし、東・南ヨーロッパの人口破壊まで招いている。EUで国ごと併合された旧東側諸国は、低賃金を西側に受益させながら自分はめぐまれないままとなり、精神不安まで発生し、ネイションとして生き残れるかどうかの瀬戸際に瀕しているのである。
 いまやヨーロッパはドイツにしっかり掌握されている。この権威的かつ不平等的なEUに反抗したのが、本来自由主義的価値観を担う核家族型が支配的なイギリスであった。ブレグジットは、合理的で適切な判断であった。

⑹共同体家族型社会─ロシアと中国
 ロシアでは、ソ連崩壊後の1990~2000年の大混乱の後、選挙制度と全会一致的傾向の強い投票行動を組み合わせて安定化を図る権威主義的民主制が台頭した。その背景には共同体家族の価値観がある。権威主義は人民のなかに根を張っていて「場所の記憶」として際限なく再生産される共同体家族の価値観を源泉にしている。
 それは父系制農村の緊密な対人関係、平等主義的な大家族、自主的共同組織、そして権威に対して甚だしく恭順的、という特性をもち、国家主導の社会主義に適合するものであった。スターリンは、それをうまく利用して、抗しがたい集団主義の夢を実現させた。ロシアを支配している権威主義的民主制は、一人の人物とその一派の結果であるよりも、むしろロシア人の政治的体質の表現である。西側からは「独裁者」に見えるプーチン大統領だが、ロシア市民の多くは彼に満足していると思われる。
 クリミア半島奪回、ウクライナ内のロシア系住民の自治権獲得などは、伝統的な人民自決権に照らせば正当な調整と思われる。
 第二次世界大戦でナチス・ドイツを敗退させ連合国勝利に貢献したこと、そして今の地政学的現実の考慮からは、ロシアに対する西側の脅威は過大評価そのものだ。冷戦の勝利に酔うアメリカがふたたび全世界の支配者を自認し始めるのを阻止し得る唯一の均衡要素として、我々はロシアの存在に感謝すべきである。
 中国は、アメリカをはじめとする西側に、安価な労働力の提供、大きな市場の開放などで、とくに富裕層に貢献したので、きわめて好意的に捉えられた。
 中国は(インドも)父系性へ向かう傾向を示していて、男性の出生を女性より優先しようとしている。強い父系性原則から権威主義に、しかしあわせて平等主義に結びついた共同体家族的価値観の残留がある。中国の価値観に潜在する平等主義は、経済的不平等がいちじるしく拡大する時期には、社会的・政治的システムの均衡にとってひとつの脅威となる。そのため指導者たちは、民衆を恐れる気持ちのなかで生きている。体制硬直化が中国の民衆に重圧をかけているので、体制は民衆の気持ちを逸らすために危険なまやかしの標的を作り上げる。つまり外国人恐怖症的なナショナリズムが中国共産党によって培養されている。その点で、中国共産党はマルクスレーニン主義から遠ざかり、ファシズムに近づいて、それが隣国日本に毒を盛っている。繰り返し南京大虐殺を叫ぶのである。
 世界全体の需要鈍化にぶつかり、それに起因する成長率急落を被り、男女人口の著しい不均衡に苦しみ、平等主義文化の状況下で不平等の台頭に直面している以上、13憶の人口を抱える中国は、世界の不安定化の大きな極のひとつになるだろう。

 以上が、エマニュエル・トッドの述べた内容の梗概である。以下に、私の感想を簡単に書く。
 これまでの多くの論考、歴史書などが、ほとんど「経済面の重視」が目立っていたことは、トッドの言う通りであろう。トッドがもっとも主張したいことは、経済だけでなく、人類の心理の、また歴史の深層に潜む、下層の意識構造を考慮しないと、歴史の進み方、世界のありさまを理解できないというものである。私には、彼の述べることすべてがよく理解できたとまで言えないが、私がこれまで理解できなかった世界情勢や歴史の事実に対して、こういう切り口、こういう理解の仕方があったのか、と考えされられることがあったのは事実である。たとえば、アメリカの軍事・外交の専門家ロバート・ゲイツの書『Exercise of Power』にある、「歴史的事実としては、悪虐 な独裁者を取り除いても、代わって登場する人物もまた大問題の人物となるのが普通だ」という現実に、トッドのいうような事情があると納得できる。

 1990年代末ころに発刊されたアメリカの歴史学者デイヴッド・ランデスが記した『強国論』という本に、国が経済的成功を実現するためには、その国の経済に関する態度、いわば文化のありようが決定的である、との説明があった。私も仕事を通じての直接の経験で、国によってその文化が大きく異なることは体験した。しかしなぜそのような国別の差異ができるのかの説明はランデスの本にはなかった。今回、トッドの本で、かなり理解できたように思う。
 ただその意味では、今回のトッドの本では、イスラム系の人たちの家族類型による行動の特性についての論考がほとんどないのは残念であった。
 最後に、トッドの論考のなかで、とくにロシアに対する評価については、私はほとんど了解できない。私には、理不尽なロシア贔屓にしか見えない。
 すべてが理解できたのでもなく、すべてが納得・了解できたものでもないが、これまで見たことのない斬新な視覚を提供してもらえたことは、とても有難いし感銘もあった。

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秋の東北旅行(5)

庫裡
Photo_20231128055101  庫裡(くり)は「庫裏」とも表記され、仏教寺院における伽藍のひとつで、主として台所の役割を担う建物である。瑞巌寺では、本堂などの館内の拝観は、ここから入場する。正面13.8m、奥行23.6m、切妻造の本瓦葺で、大屋根の上には入母屋造の煙出しがある。
 庫裡は実用本位の建物なので、通常は装飾が施されないが、瑞巌寺では正面上部の複雑に組み上げられた梁と束、妻飾の豪華な唐草彫刻が漆喰上に美しく設えられている。
昭和34年(1959)に国宝に指定さている。

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秋の東北旅行(4)

松島・瑞巌寺
 2日目の朝は、かみのやま温泉の宿を出て、宮城県仙台市の傍を走り、松島湾岸の瑞巌寺に向かった。ここには13年前、東日本大震災の半年前に訪れたことがあった。そのときは、平成20年(2008)11月から平成30年(2018)までを予定していた「平成の大修理」が行われている最中で、拝観ができなかったので、円通院を主に見学したあと、小雨の中を周遊船で松島湾の島々を観たのであった。

瑞巌寺の概要
 道路45号線からほぼ海岸線に直角に瑞巌寺に向かって歩くと、まもなく総門がある。切妻造、本瓦葺の薬医門である。ここから境内に入ると、長い参道がある。Photo_20231127054901
 参道両脇には「忠魂碑」、「鉄道殉職者弔魂碑」などが並ぶ。参道の杉並木も、真っすぐ高く聳えて、壮観である。
 瑞巌寺の正式名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)という。
 平安時代の天長5年(828)淳和天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の延福寺であったと伝えるが、事実だという確証はない。
 鎌倉時代、禅に傾倒した鎌倉幕府執権北条時頼は、この寺に来て武力で天台派の僧徒を追払い、法身性西を住職に据え、臨済宗建長寺派円福寺と改め、禅宗寺院に変えたという。怒った天台宗の僧は福浦島に集まって時頼を呪詛し、ついに死に至らしめたともいう。臨済宗円福寺は将軍家が保護する寺社である関東御祈祷所に指定された。
しかし戦国時代の終わりには、火災によって廃墟同然にまで衰退した。天正6年(1573)ころ、93世実堂の代から臨済宗妙心寺派に属した。
Photo_20231127055001  江戸時代に入り、仙台藩を支配した伊達政宗は、自領内の円福寺復興に着手し、慶長9年(1604)から全面改築を行った。慶長14年(1609)5年の歳月を投入した全面的修復工事が完成し、このときから寺の名は「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と改められた。元和6年(1620)から2年を費やして障壁画の制作が行われた。今に伝わる本堂など桃山風の国宝建築を含む伽藍は、伊達政宗の造営による。
 以後、伊達藩歴代の藩主は、瑞巌寺を厚く保護し、幕末まで隆盛を極めたという。
 しかし、明治維新で、仙台藩(伊達藩)が盟主となった奥羽列藩同盟は戊辰戦争に敗れた。続く新政府の神仏稀釈方針により、瑞巌寺は明治政府に所領を没収され、収入を失った瑞巌寺は付属の建物の多くが荒廃した。
 その後の復興としては、明治9年(1876)の明治天皇東北巡幸の際の下賜金、大正12年(1923)地元民の寄付金、などの支援もあり徐々に修復が進み、さきの大戦後の昭和28年(1953)本堂が国宝に指定された。
 平成20年(2008)11月から、東日本大震災をはさんで、平成30年(2018)まで「平成の大修理」が行われ、平成30年6月落慶法要が営まれた。

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秋の東北旅行(3)

荒川峡と鷹の巣吊り橋
Photo_20231126054701  日本海東北自動車道の荒川胎内ICを出て、国道113号線で東に行くと、景観はそれまでの平野と田園から、山岳と森林とわずかの田園へと大きく変化する。このあたりは、とりわけ過疎化が進んでいる地区であり、また最近は線状降水帯による集中豪雨の被害で、数少ない民家から住人に大きな被害が出たという。復旧に時間を要して、最近ようやく原状に戻りつつあるというが、厳しい環境である。過疎化が進み、産業が期待できない地区なので、行政としても支援が難しいのは理解できる。Photo_20231126054702
 関川村から山形県小国町までの約20kmに渡って続く荒川峡もみじラインと呼ばれる紅葉の名所がある。渓谷のなかの観光スポットとして鷹の巣吊り橋があり、ここでバスから降りて、渓谷を観る機会をえた。ただ、令和5年は吊り橋工事中のため、吊り橋の外観が「工事中」の養生姿となるとともに、通行が制限されている。実際、この橋を渡ると、吊り橋特有の揺らぎに加えて、底板のギシギシという軋み音が聞こえる。少し危なっかしい雰囲気である。
 この鷹の巣吊り橋付近は、新潟県景勝100選に指定されていて、清流荒川、山々の紅葉、さらに風情のあるつり橋を一緒に眺められる絶好の観光スポットであるという。しかし今年は橋の工事中に加えて、今年の夏の猛暑を受けて、紅葉が順調でなく、紅葉になりきる前に葉が枯れる樹木が多いという。
 このあと、山形県かみのやま温泉に移動して、1泊した。

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秋の東北旅行(2)

新発田付近の白鳥飛来
Photo_20231125060201  北陸自動車道を北上し、磐越自動車道と交わる新潟中央ICを過ぎると、高速道路の名が日本海東北自動車道と変わる。この高速道路は未完成で、現在は村上市の朝日地区までのごく短い間しか通じていないが、その入口付近は阿賀野市である。このあたりから、新発田市にかけて、田んぼに毎年冬になると、野生の白鳥の群れが飛来する。新潟県全体では毎年10月頃から3月頃にかけて15,000羽もの白鳥が中国北部やロシアなどの北方から飛来するのである。
 はじめて野生白鳥の飛来が観測されたのは、昭和25年(1950)であった。その後、昭和29年(1954)吉川重三郎(通称白鳥おじさん)が、日本で初めて野生のハクチョウの餌付けに成功した。この年「水原のハクチョウ渡来地」として国の天然記念物に指定された。平成20年(2008)には湿地の生態系を守る国際条約であるラムサール条約の登録湿地に指定されている。

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秋の東北旅行(1)

 残暑が厳しかったこの夏も、ようやく秋らしくなった11月の上旬、3泊4日で旅行会社のバス・パッケージ旅行で東北を訪れた。
 早朝から湖西線・北陸線を走るサンダーバードで金沢に行き、北陸新幹線に乗り換えて上越妙高駅まで鉄道で移動する。そのあとは大型バスによる旅程となる。
 さいわい2日ほどは少し天候が悪化したが、いずれも小雨に収まり、この地方のこの時期としては気温も高めでとても過ごしやすかった。
 下記の地図に、今回の旅程の概要を示す。
 大阪府の自宅を出て、京都府、福井県、石川県、富山県を鉄道で通過して新潟県に入り、ここらかバスで新潟県、宮城県、岩手県、秋田県、山形県を駆け抜ける強行スケジュールであった。それでも荷物はいつもバスに預け、移動に時間的ロスがなく、バスでは眠くなったらうたた寝できるという気楽さがあり、総合的にはとても快適な旅であった。
東北旅行旅程図
①新発田付近の白鳥飛来 ②荒川峡と鷹の巣吊り橋
②松島・瑞巌寺 ④松島から中尊寺へ
⑤中尊寺 ⑥中尊寺から田沢湖へ
⑦田沢湖畔のたつ子像と秋田駒ヶ岳 ⑧角館
⑨立石寺 ⑩五色沼と裏磐梯
⑪大内宿 ⑫湯之上温泉駅から西若松へ
⑬会津鶴ケ城

「走泥社再考」展 京都国立近代美術館(4)

3.「現代国際陶芸展」以降の走泥社
 昭和39年(1964)東京オリンピック開催を機会に、国立近代美術館(東京)、石橋美術館(久留米)、国立近代美術館京都分館(京都)、愛知県文化会館美術館(名古屋)を巡回して「現代国際陶芸展」が開催された。日本で初めて世界各国の陶芸が一堂に集められ、国内の多くの場所で展示された。
 この展覧会での海外からの出展作品は、高名な陶磁器研究家であり自身も陶芸家であった小山冨士夫(1900-1975)がこの年、欧米各国を旅し、展示作品を選出して集めたものであり、したがって必ずしも世界全体から、偏りなく集めたものではなかった。
それでも、海外の陶磁器芸術に改めて触れたわが国の陶芸界は、「日本陶芸の敗北」と表現されるほどの衝撃を受けたのであった。
 山田光「塔」(1964)がある。1964
 ここでは、タイトルの内容が直接登場するような寸法ではなく、机上模型のようなサイズ感覚で、鮮明な色彩を施し、塔というより、壁の集合のような表現でより抽象性が増しているようだ。
 熊倉順吉「風人’67」(1967)がある。
 これは、表現そのものが高度に抽象化して、敢えて陶器の塊で孤立して閉じ込められた生命体のようなものを表現しているように思える。
67  1964年「現代国際陶芸展」を観た当時の走泥社メンバーたちが、「日本陶芸の敗北」とまで感じた理由や内容は、私にはよくわからないが、私なりの感想を書き留めておく。
 絵画や普通の彫刻という表現形式と比較するならば、陶芸は、これまでの日本の陶芸文化の緊縛という文化的拘束力以外にも、いくつかの特徴があるだろう。陶磁器は、粘土を造形した後に窯に入れて高温処理をするため、寸法も形状も多少は変化するし、色彩にも制限があるだろうから、表現の精度には限界がある。また、窯に入れるためには、あまり大きな造形物は造りにくいだろう。その反面、出来上がった造形物はきわめて安定で、継時変化はきわめて小さいことが期待できる。
 要するに、硬くて、脆くて、比較的小さな塊しか実現しにくいが、継時変化はごく小さく安定であり、色彩も劣化しないだろう。
 走泥社の人たちが、他の芸術分野の作品や海外のアーティストの作品に対して、コンプレックスを持つのは、ひとつには、あまりに対抗意識が強くて力み過ぎていたのではないか、と推測する。あわせて展示されているパプロ・ピカソやイサム・ノグチの陶芸作品を観ても、彼らのごく自然な脱力感は、単純に対照的に思えた。
 制作上の技術的制約から、比較的小さな塊で勝負せざるを得ないという側面もある。たとえば、カンバスなり紙なりの広がりに描く絵画では、画面全体の構成があり、その中で主役や脇役を勤める対象が描かれる。鑑賞する者には、絵画の主張が理解しやすい。それに比べると、陶芸の場合は、拡がりが小さく、全体の構想も単調になりがちで、表現の中心部分もわかりにくいことが多い。それなら複数・多数の陶芸作品を、集合・統合するような表現方法もあるだろう。今回の展示でも、そのようなアプロ―チが一部で見られた。
 陶芸に堅苦しいとの感覚・思いがあるとすれば、自分の表現方法のあくまで一部として、パプロ・ピカソやイサム・ノグチのように、気軽かつ積極的に取り組むのはいかがであろうか。
 私はこれまで、陶芸に特化した展覧会を鑑賞したことがなかった。今回も、私には難解で消化しきれない鑑賞であった。それでも、半世紀余り前からのアーティストたちの真摯な挑戦は、門外漢の素人にも感動を与えるものであった。

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「走泥社再考」展 京都国立近代美術館(3)

2.オブジェ陶の誕生とその展開
1956  昭和27年(1952)東京でイサム・ノグチの作品展覧会が開催された。それは、走泥社のメンバーたちに大きな衝撃を与えた。すでに「自由」を求めて新しい陶芸作品に取り組んできたと思っていた彼らは、まだまだ自分たちが日本の陶芸の伝統に強く拘束されていることを自覚したという。すでに実用性の緊縛からは離脱したと思ったが、イサム・ノグチやパプロ・ピカソの作品は、色彩、表現がはるかに伸びやかで、もっと自由である、と感じたのだ。
1959  彼らは、陶芸の表現の枠をもっと拡張しようと懸命に努力を重ねた。
辻晉堂「時計」(1956)は、抽象絵画を立体造形の陶磁器に翻訳したかのような作品である。
 鈴木治「汗馬」(1959)がある。これは陶磁器で薄い板を形成し、紙のように少し曲げを加え、その上に少ない色彩で描いている。これもまさに抽象絵画を台の上に載せて提示したかのようである。Photo_20231122060901
 八木一夫「休息の眼」(1959)がある。造形の形態は、ますます抽象性と複雑さを増して、思索的な雰囲気を伴っている。
 伝統にとらわれない「オブジェ陶」は、歴史の長い日本の陶芸界において、また美術界においても一時代を築いて、多方面から注目され評価されるようになった。
 1950年代の終わりころから1963年までの間、走泥社の陶芸革新運動は、このような活動を通じてひとつのピークを迎えた。

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