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新作歌舞伎「NARUTO」京都南座

 京都南座に、家人と一緒に、新作歌舞伎「NARUTO」を鑑賞した。
 ちょうど1年余り前に「ワンピース」という、やはり人気マンガを歌舞伎にした公演を観たが、なかなか良かったので今回も観ることとしたのであった。Photo_55
 落ちこぼれの若手忍者ナルトが、ライバルでかつ親友のサスケと、協力したり対決したりしながら、忍者の  里を侵略しようとする悪の忍者集団と必死に戦い、忍者としてまた人間として逞しく成長していく物語りである。
 私たちは原作のマンガ作品を知らないので、物語の進行内容そのものがなかなかわかりにくいという難点がある。名前も普通の演劇で使用されるような名前でなく、またマンガの画面に類似した特殊な衣装とメークで登場するそれぞれの配役の区別も容易ではないことがある。そういういくつかの困難があるにもかかわらず、若手の魅力あふれる歌舞伎俳優たちのエネルギッシュな演技は、観ていて飽きることが無く、たしかに楽しめる。
 主人公ナルトを坂東巳之助、ライバルでほとんど主人公とおなじ重要度をもつサスケを中村隼人、悪の首魁マダラを中村梅玉が、それぞれ演ずる。終盤のナルトとサスケの目まぐるしい殺陣のカラミは見応えがあり、とくに滝の下でびしょ濡れで水しぶきの中で取っ組み合う場面は、若手俳優ならではの大変な重労働の演技である。ヒール役のイタチを演ずる客演俳優市瀬秀和も、なかなか魅力的である。
 観客席は、平日なのにほぼ満員で、人気の高い演目だということがわかる。西欧人らしい客もかなりいる。イヤホンガイドには、英語版もあるらしく、歌舞伎のためにはとても良いことだと思う。
 初夏の一日、延べ5時間あまりをすっかり堪能した。

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スカイツリー (2)

  スカイツリーからの展望
Photo_52  スカイツリーの展望室は、構造上360度の眺望というわけではなく、北方向から東方向の間は多少見えない角度がある。説明板やパンフレットの図と眼前の眺めを比較しつつ、見える対象を照合しようとするが、なかなか容易ではない。
 ゆっくり展望室を1周してから、今度はより高い450メートルの天望回廊に上る。しかし率直な実感としては、350メートルから450メートルまで、100メートルさらに上がっても、景観の印象には大きな差がないように思えた。もちろんいずれも値打ちある景観だけど。Photo_54
 ここからほぼ真北の100キロメートルあまり先には、日光があるはずだという。その背景に男体山や赤城山らしい山影がうっすらと見えるようにも思えるが、定かではない。それらのはるか手前では、北西から南東に向けて流れる荒川の大きな流れがあり、そこに向かって北上して荒川の手前間近で西に急カーブを描く隅田川が見える。今では、荒川の手前は高層ビルが林立し、荒川の向こう側にも多数のビルが立て込んでいることに改めて感銘を受ける。
 西方向には、真下にアサヒビールの黄金のモニュメントがあり、隅田川の対岸には浅草寺の建物と仲見世も見える。上野公園と皇居の緑地の拡がりも見える。その右奥には、新宿副都心の高層ビル街があり、ビルの多い東京市街地のなかでも、とりわけ高層ビルが多いのがわかる。
 早春の絶好の快晴に恵まれて、のんびりと展望室から下界を眺めて回っただけでも、十分満足できたひとときであった。

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スカイツリー (1)

 東京に出かける機会があり、当初は別の訪問先を予定していたが、たまたま快晴との天気予報に予定を変更して、はじめてのスカイツリー訪問となった。

スカイツリーへの行程と富士の眺め
 地下鉄浅草駅から京浜急行線に乗り換えて、スカイツリー最寄りの押上駅に向かう。Photo_50
 浅草駅からは、スカイツリーが間近に見える。私は中学1年生の夏休みに初めて東京に来て、東京タワーを見た。そのときは東京タワーが建ってからまだまる3年が経っていなかった。当時はビルの高さは31メートル以下に規制されていて、東京市街といえどもせいぜい8回建てのビルしかなかったので、東京タワーは大東京の市街地にさっそうと聳え立つ、とても高い、とてもインパクトの大きい建造物であった。その思い出に比べると、たとえ視角による錯覚とはいえ、現代のスカイツリーは、高さが東京タワーの2倍近くあるにも関わらず、高層ビルの間から覗くことのできる、なにか可愛らしい塔という印象である。
Photo_51  押上駅の地下コンコースには「Tokyo Skytree Town」の看板を掲げた回廊があり、そこから地上4階までエスカレーターで上ると、スカイツリー入り口に着く。スカイツリーには、地上高350メートルの「天望デッキ」と地上高450メートルの「天望回廊」の2つの展望施設がある。まずは入場券を購入して「天望デッキ」まで、長い高速エレベータで上る。
 地上高350メートルまで上ると、たしかに遠くまで眺望が開ける。少し春霞のためか、うっすらと霞がかかっているけれど、南西方向にはるか100キロメートルかなたの雪を冠った富士山が見える。
 その左手の方に、8キロメートルほど離れている東京タワーが見える。これは高層ビルに挟まれて、塔の上部のみが覗いているという感じである。

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松竹演劇「三婆」

 大阪松竹座で「三婆」を家人と一緒に鑑賞した。昭和36年(1961)有吉佐和子原作で、若いころにテレビドラマや舞台中継として、テレビを通じて何度か見たかすかな記憶があるが、話の内容はほとんど覚えていない。
Photo_49    一代で大きな金融業を立ち上げた社長が、突然妾宅で亡くなった。実は最近彼の金融事業はうまくゆかず、大きな借金を残しての急死であった。その社長の本妻と、唯一の肉親である妹、そして妾の3人の中高年女性があとに残された。
 長らく自宅に寄り付かず寂しい思いをさせられた本妻は、当然妾を快く思っていない。妹は長らく身体が弱かったこともあり、初老の現在にいたるまで独身だが、住処を兄の借金の抵当に取り上げられて、本妻宅に押しかけてくる。肉親の妹として妻に劣らぬ相続権が、自分にはあると信じている。妾も住処を失い、自分が経営することになっている料亭の建築が落成するまでのひと月だけ置いてほしいと、これまた本妻宅へ押しかけてくる。互いにいがみ合う立場の3人の初老の女たちが、問題だらけの奇妙な同居生活をはじめる。
 本妻宅には、妙齢の女中がいて、これももはや身寄りのない本妻の幼女になって財産を乗っ取ろうと狙っている。みんなほんとうのワルではないが、人並みの欲にとらわれた人たちである。このややこしい女性たちを脇から支えたり調整したりできる唯一の人物が、死んだ社長の側近であった専務の重助であった。
 波乱続きの同居は数年続き、ついに同居解消と合意したものの・・・
 ストーリーの本質は、人間は憎み合ったり、嫌ったりしても、しょせん一人きりでは生きられない、嫌うのも十分意識しているからであり、誰も本心ではひとりきりになりたいとは思っていない、というごくありきたりのものである。演劇としてのポイントは、3人の老女たちの達者な掛け合いである。もしへたな女優たちが演じたら、おもしろくもなんともない、味気ない演劇になるだろう。しかし幸いにして今回の舞台は、死んだ社長の本妻を大竹しのぶ、妹を渡辺えり、妾をキムラ緑子 という錚々たる練達ぞろいである。この舞台の見ものは、偏にこの3人のベテラン女優たちのあの手この手の名演であった。
 脇を固める重助役の佐藤B助、女中役の三倉茉奈も、とても良かった。なんの難しいところもなく、只管良い女優たちの演技を堪能し、満足できたひとときであった。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (21)

21.瞑想 Meditation
 人間はすでに述べたように宗教・イデオロギー・文化などから創生された物語を受け入れていて、しかもそれらはすべて事実ではない。そのため人間は、自分自身の心を実はよく知らない、知ることができない。この自分の心を知る方法こそが瞑想であり、瞑想によって人間ははじめて自分の心の事実を知ることができるのである。
 人間を団結させ、強くし、生き延びさせるため、歴史を通じてますます複雑な物語を自身に対してつくってきたので、「私自身とはなにか」を知ることはますますむずかしくなっている。技術の進歩は、武器を発展させ、社会秩序を不安定にした。壁の絵からテレビにまで伝達手段を発展させ、物語を伝える力を増強した。将来は、アルゴリズムが「私はなにもの」を決めてしまうかも知れない。
 「頭脳」と「心」はまったくちがうものである。頭脳は器官として客観的に科学的にさまざまに調査・分析・観察ができる。しかし「心」は主観的な経験の流れ(痛い、楽しい、怒り、など)であり、これを観察できる可能性があるのは自分自身の心のみである。しかし自分自身の心に対しても、それを客観的に観察するのは至難である。唯一の方法として、瞑想がある。[完]

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (20)

20.意味 Meaning
 人間が「意味」を問うことについて考察する。
 往古より、人は「私は何者」「人生でなにをやるべき」「人生の意味はなに」との問いをしてきた。つまり①自分がやるべきことの明示と、②個人の領域を超えたより広い範囲での自分の位置づけ、すなわち自分自身のアイデンティティの確認、を求めているのである。
 そもそも人間にとって世の中のすべての概念は、長い歴史を通じて蓄積されたフィクションでできている。そのフィクションを誰もが幼いころ、未熟なころから自然に教え込まれ、知性がそれを疑うよりも合理化しようとする。さらにわれわれ個々のアイデンティティが、そのフィクションの上に形成されてゆく。そして私たちが生活する社会そのものもそれらのフィクションを集めて組み立てられているのである。こうして形成された社会という構造物は、その基礎はフィクションだから本来きわめて脆弱なのだが、その上に載っているものが国の法律、社会規範、経済機構などなどきわめて重いがために、基礎の脆弱さにかかわらず屋根の重みで維持されているような事情になっている。
 このような社会を形成している物語(フィクション)を疑うには、とてつもなく強靭な神経が必要である。もしその物語が誤りだとすると、我々が知る世界は直ちに崩壊してしまうからである。
 こうして我々はすべてフィクション(物語)に囲まれ守られて生きているので、我々が「意味」を問うと、答えも当然フィクション(物語)でできている。しかし我々はそれを信じるのである。
 フィクションを人間に信じ込ませるのに大きく貢献しているものに儀式・儀礼がある。儀式や儀礼は、抽象を具象に、フィクションをリアルに変換する役割を果たしている。
 人々は、物語を信じているが、その物語は多くの場合唯一とは限らない。自分の嗜好でいくつかの物語をリザーブして、適宜信ずるものを切り替えて問題に対処する、という柔軟さをもっている。いわばアイデンティティのポートフォリオを組んでいるのだ。この反例としてたとえばファシズムは、複数でなく唯一の、国家の利益になるという価値基準で唯一の物語を選択し、真実か否かは全く問わないのである。このような極端な単純化は、ひとびとにとって大きな魅力となり得て、ある種の条件下で猛烈な人気となり、夥しいひとびとから支持されたりする。ファシズムは醜い、間違っていると非難するだけではファシズムの再発を防止できない所以である。
 ファシズムでない普通の人々は、複数のフィクションを必要に応じて信じてきたが、心底ではどのフィクションも真実とは確信していなかった。その不確実さは、宗教をゆるがした。それでもかつては、証拠なしに信じることが良いこと、疑うことは罪で忠誠こそが大切と考えようとした。それをひっくり返したのが、近代の科学と文化であった。忠誠は心理的奴隷に過ぎず、疑うことこそが自由への糸口と思えてきた。17世紀のシェークスピアによる「ハムレット」のto be or not to beが近代へのパラダイムシフトのヒーローであった。
 しかし近代は過去から引き継いだ数多の物語(フィクション)を拒否はしなかった。その結果、スーパーマーケットの棚に載せられたさまざまな商品のように、さまざまな物語が、ひとびとの求める物語の選択肢として提供されることになった。
 ファシストは、その選択肢の自由度の大きさに耐えられず、唯一の物語を絶対的なものとして取ったのであった。多くの人は、自分の嗜好によって物語を吟味し受け入れた。こうした事情から、我々が意味を問うたときに得た解答は、すべてフィクションであった。
 聖書、コーラン、ヴェーダ、などすべては人間が書いたものだ。フィクションと人間とは互いに依存しているので、人間の心がフィクションに力を与えている。
 人間には、欲求することを自分の意志で実行する自由がある。しかし自分の心は受け入れた物語で構成されているので、なにを欲求するかの自由は人間にはない。欲求は物語によっていて、したがって文化や宗教、さらには生物学的個性によって決められる。すなわち「自我」とはつまるところフィクションであり、こみ入ったわれわれの心の機能が、常に更新したり書き直したりしている結果である。
 人間は、フィクションをつくり、伝え、共有し、信じることで地球を制覇するほどに成功し発展した。それがために人間は、フィクションと真実とを判別することを苦手とする。この人間にとって難しい判断を、できるだけ正しく行うためのキーポイントは、つまり対象とする物語が真実か否かを判定するキーポイントは、その物語の主人公が苦しむか、苦しむことができるか、という問いかけである。1831年のロシア侵攻において、ミツキェヴィッチは「ポーランドは死なず」と鼓舞した。しかし「ポーランド」とは人の心に抽象概念として存在する国家であり、したがってそれが苦しむことはない。一方でロシア兵に蹂躙されるポーランド女性は生身で苦しまねばならない。ポーランド女性の苦痛はリアルであり、真実である。一般に政治家が「犠牲、永遠、純粋、救済」などの言葉を発するときは、その対象がリアルな実態のことなのか否か、じゅうぶん注意すべきである。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (19)

19.教育 Education
 21世紀には、①情報の意味を知る、②その情報が重要か重要でないかの区別をつける、③個々の情報からより広いピクチャーを構築する、ことが重要となる。この基礎を教育で養成しなければならないのだが、これも容易ではない。
 重要なポイントは、以下の3点である。
⑴変化への対応力: 21世紀は変化のスピードがますます速くなるから、経済や政治だけでなく、まさに「人間であること」の意味が変わってくる。
⑵新しいことを学ぶこと: これまでは15歳ころまでは教えられることに順応して多くのことを蓄えて、それ以後は変化に順応するよりも蓄えた知識に経験を加えて生きるというパターンであった。しかし21世紀は世界・社会の根本的な変化がより速くより大きくなるので、16歳以降、いな中年以降でさえ、つねに新しいことを学び続けることになるだろう。そのため、
⑶新しい状況に耐えて順応できるだけの心の強さ(mental flexibility)が必要となる。
 この弾力性・復元性(resilience)は、講義や本からは学ぶことができない。古い教育方法では無理である。ひとつのアドバイスは「大人に頼りすぎるな」。なぜなら大人たちは時代遅れの教育の産物だから。「汝自身を知れ」が古くて新しい重要ポイントである。

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Yuval Noah Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (18)

18.サイエンス・フィクション Science Fiction
 学術活動としての科学が重要であることは当然だが、その成果を適宜一般向けに広報することも、科学の使命のひとつである。21世紀も、先端的科学技術をひろく一般に知らしめる手段として、サイエンス・フィクションは重要であろう。しかし、誤解を与えたり、誤った事実を伝えたりすることがないよう、発信側も受信側もじゅうぶんに注意することが必要である。
 ひとつの興味深い例として、ディズニーの2015年のアニメ作品「インサイド・アウト」(日本版のアニメでは「インサイド・ヘッド」と改名された)がある。主人公の少女は、自分の心の声を聴いて、それに従って感じ取り、考え、行動する。ストーリーはハッピーエンドとなっていて、興行も大盛況であったというが、この物語は、実はさりげなく「人間の心は、実は外部の他者がコントロールできる」というAIと生物工学の時代の重大で深刻な問題を訴えていたのである。どれだけの人たちが、この深刻なメッセージを理解したのだろうか。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (17)

17.ポスト真実 Post Truth
 現代も、世界中で虚偽(フェイク)が蔓延っている。ロシアは、ロシア軍機ではないと主張する空軍を派遣してウクライナを侵略した。日本は1931年、中国北東部に満洲国というフェイク国家をつくって支配を正当化した。中国は、チベットが長らく独立国であったことを勝手に否定して支配している。イギリスは、5万年におよぶアボリジニの歴史を全面否定して「無人島のオーストラリア」を併合したと宣言した。シオニストは20世紀初めに、「ヒトのいない土地パレスチナ」に「土地のないヒト=ユダヤ人」が帰ると主張して入植した。
 このようにホモサピエンスは、まさに「Post-truthの種」とも言うべく虚偽に満ちた行動を世界中で展開している。これは、生き残るため、強くなるためにフィクション(物語)に依存して成長してきた、という歴史的事実に深くかかわっている。1か月だけ信用させる物語はフェイクニュースだが、それが何千年なら宗教であり、真実なのだ。

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Yuval Harari,"21 Lessons for the 21st Century" (16)

16.正義 Justice
 われわれが持つ他の観念と同様、「正義」も実は狩猟時代のままなのである。狭い領域をごく少人数で活動していたころの観念を、AIと生物工学が活躍する21世紀に通用させることはできない。まず「正義」は、抽象的価値だけでなく具体的な因果関係を理解することが必要である。しかし、社会構造が複雑化し、莫大な数の人とモノに関わりつつ生きる現代において、因果関係はほとんど個人には理解不可能となっている。たとえば、日常の食事と、食糧になっている動物の生命、投資と公害の関係など。したがって、正義の判断は不可能になっているとの自覚が必要である。
 現代は、憎悪と貪欲だけが罪をつくるのではなく、無知と無頓着が大きな罪をつくるのである。現代の非正義は、個人の偏見によるというより、大規模な構造的偏りに起因している。
 この複雑化した状況を理解しようとして、①事態に関わっていることがわかる範囲内で善玉と悪玉を作って判断する、②涙腺に訴える物語に託す、③陰謀説をつくって訴える、などの問題矮小化の方法がとられるが、もちろんいずれも正しくない。
 正義の議論には、じゅうぶん謙虚であらねばならない所以である。

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