2018年12月
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伊能忠敬と佐原 (1)

佐原駅
 今年の春、偶然のきっかけから「伊能忠敬測量協力者顕彰会」に参加する機会を得て、伊能忠敬歿後200年法要に参列したこともあり、一度伊能忠敬記念館とその旧宅を訪れたいと考えていた。12月になって、それがようやく実現したのである。

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 東京日本橋の宿から、電車を乗り継いで2時間半近くで、ようやく千葉県香取市の佐原駅に着いた。この駅舎は、伊能忠敬旧宅あるいは佐原の伝統的町並みからヒントを得たらしく、近世の商家の様式となっている。そして、駅前には大きな「伊能忠敬翁」の銅像が聳え立っている。現在は、まずは伊能忠敬を地元のヒーローとして、観光開発を進めているようである。逆光で少し顔が見えにくいが、この春に東京の富岡八幡宮で見た銅像とは、容姿がかなり違っている。こちらの方は、かなり若くて、ずいぶん高い鼻が特徴である。Photo_2
 この地は、明治20年に「佐原町」が町制として成立し、伊能忠敬の子孫であろう伊能権之丞・他の地元有力者が「下総鉄道」(後の成田鉄道)を明治26年(1893)設立したのが鉄道運輸のはじめであった。この佐原駅は、明治31年(1898)から開業している。路線は、我孫子と成田の双方に向かったが、我孫子との間の方が交通量は多かった。駅からは、馬車や人力車が使われた。大正5年(1916)からは、北総自動車によるバスの運行も始まった。大正8年(1919)には、すでに佐原公園に「伊能忠敬銅像」が建てられたという。近世以来、この町を流れる小野川の舟運は物資輸送の主軸で、鉄道・バスなどの開始後も河川の船舶輸送は並行して発展した。大正9年(1920)成田鉄道は国有化された。
 駅の観光案内所で観光マップをいただき、伊能忠敬旧宅・記念館への行き方を確認する。旧市街の風致地区をゆっくり見ながら、約20~30分で記念館に着くという。
 いったん駅から少しだけ南に下り、すぐ左折してふたたび線路に沿ってしばらく東に向かって歩くと、利根川の支流である小野川に至る。ここから南南西に旧市街地区が続いている。

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吉例顔見世12月興行 南座

 南座での顔見世の12月興行を鑑賞した。夜の部はいつもより遅い午後4時50分の開演であった。

12 最初の演目は「義経千本桜 木の実・小金吾討死・すし屋」である。これは『平家物語』を底本としながら、平治の乱で源氏に敗れた平氏一族の残党に対する源氏の追討の一環のエピソードの物語である。平清盛の子で武勇・人格に際立って優れ人望を集めていた平重盛には維盛(これもり)という嫡子がいたが、源平合戦で敗れて自死したと伝えられている。しかし、この舞台では、実は生きて高野山に逃れた、ということになっている。
 維盛の妻若葉の内侍と、その子六代の君が、重盛にかつて仕えていた主馬小金五という若侍に連れられて、高野山の維盛をたずねる旅の途中、大和国吉野の街道筋の茶店に立ち寄っているところから「木の実」の舞台が始まる。幼い六代の君が、木から落ちた木の実を拾って遊んでいると、遊び人風の男が通りかかって、礫で木の枝を打ち、たくさんの木の実を落として六代の君を喜ばせる。ここまでは、ごく平穏な風景である。しかし実はこの男「いがみの権太」とあだ名の名うてのワルで、謀って小金吾から金を巻き上げる。この茶屋は実は、権太の女房である小せんが営む茶店で、六代の君と同じくらいの年頃の男の子が遊んでいて、後の展開の伏線となっている。
 「小金吾討死」の場では、若葉の内侍の一行が旅を行く途中で、大勢の源氏の追手に襲われ、大立ち回りの末、小金吾はついに切り殺されてしまう。舞台はさまざまな派手な振り付けが見もので、とくにたくさんの縄をつかった殺陣の振り付けがおもしろい。そこへ近くの村のすし屋の親父弥左衛門が通りかかり、死んだ小金吾を発見して、なにやら不審なふるまいを始めるところでこの場は終わる。
 最後の「すし屋」の場では、この店の主人弥左衛門が権太の父であり、ここに維盛が店の見習いの使用人に身を窶して滞在している。ここへ偶然若葉の内侍と六代の君が迷い込み、維盛と喜びの再会を果たす。その事情を、たまたま金の無心に来ていた放蕩息子の権太が立ち聞きして、悪知恵を働かそうと動き出す。親父の弥左衛門は、かつて重盛に命を救われたことがあり、命がけで重盛の子の維盛を救おうとしていた。この店の鮨は、桶に米を入れて発酵させる押し鮨で、そのため多数の空桶が置いてあるが、この取り違えがストーリー展開の鍵となり、悪だくみを図っていた権太は、弥左衛門にその罪を咎められて刺殺される。しかし、死に臨んだ権太は、実は父の意志を理解しており、弥左衛門が切り取って桶に隠していた小金吾の首を、維盛の首と偽って、さらに自分の女房と息子を、若葉の内侍と六代の君に取り換えて源氏の追手に差出して、自分と家族を犠牲にしてまで維盛とその妻子を救おうとしていたのであった。
 ワルの権太が肉親への愛情から、自己と妻子を犠牲にしてまで改心を示し、さらには褒美として与えたられ頼朝の陣羽織のなかに、維盛に対する「出家すれば放免する」とのメッセージがあって、頼朝の度量の大きさが表現されたり、とストーリーはかなり複雑である。
 さらに、父親に刺されて出血しつつも、その瀕死の苦しみの中で事情と心情を説明する権太の長い長い往生際は、百川敬仁『日本のエロティシズム』ちくま新書、2000によれば、日本特有の「もののあわれ」に関連して、観衆の情動を喚起する演出として古くからよく用いられた演出であるという。断末魔の苦しみにあえぎながら告白することが、権太の真心の真実を証明するのであり、劇中の権太という配役は、死を目前にしたこの短い時間のためにこそ生きている。歌舞伎舞台としては、やはり仁左衛門の年齢を感じさせない溌溂として機敏な美しさが際立つ。
 2番目の演目は、「面かぶり」という長唄囃子による舞踏である。13人の囃子をバックに、ただ一人鴈治郎が踊る。観衆全員の視線を、まさに一身に集めてのかなり長時間の演技は、さすがにプレッシャーがあると思うが、鴈治郎はさすがに安定感と安心感のある舞台であった。
 3番目は「弁天娘女男白浪(べんてんむすめ めおのしらなみ)」で、「浜松屋見世先より」と「稲瀬川勢揃い」の2場である。女に化けて商店を荒らす弁天小僧菊之助が、店に寓居していた日本駄右衛門に正体を見破られ、それでも意地を張って金を奪おうとするお話しで、弁天小僧演じる愛之助のコミカルで軽妙な演技と、最近はテレビでもすっかりお馴染みとなった南郷力丸演ずる右團次との掛け合いが見せ場である。日本駄右衛門演ずる芝翫は、いまではすっかり貫録がついて、老練で重厚な演技といえる。勢揃いでの、それぞれゆかりの地名を随所に取り入れた口上は、やはり山場として聴きごたえがある。
 最後は「三社祭」で、清元による悪玉・善玉2人の掛け合い舞踊である。善玉の片岡千之助は孝太郎の子だが、祖父仁左衛門に似て美貌で、期待の18歳である。悪玉を演じた中村鷹之資は、五代目中村富十郎の古希のときの子で、少しぽっちゃりしているが、この人もまだ19歳の新鋭である。鷹之資の舞踏はとてもキレがあって、なかなか良かった。
 夜の部が終わったのは、午後10時少し前であった。さすがに顔見世だけあって、とても充実した、延べ5時間にわたる中身の濃い舞台であった。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (5)

1928年・1918年
 昭和3年(1928)は、金融恐慌を受けて経済低迷と財政難に苦しむなか、田中義一内閣が、国際協調外交から軍事重視の傾向へ転換し、山東出兵から張作霖爆殺事件にいたる不安定化の時代であった。海外では、ソ連でトロツキーが失脚し、イタリアでファシスト党が創立した。国内では日本共産党の一斉検挙があった。Photo
 このように不安感をはらむ時代ではあったが、大正デモクラシーの余韻も残り、美術活動も活発で、多くの若手画家は西欧絵画の習得に励んでいた。経済的に余裕のある者、あるいはスポンサーを得た者は、積極的に海外に留学して才能を研鑽した。外国に出ることが叶わなかった者は、国内で研鑽を積んだ。
 明治以来のひとつの目標であった西欧絵画の技術の習得という点では、多くの画家が未だぎこちないが、留学というチャンスのお陰かあるいは才能なのか、佐伯祐三と国吉康雄は、ひときわ一段群を抜いたレベルを感じる。
Photo_2 大正7年(1918)は、私の父が就職活動に苦労した大不況の最中であった。「大学は出たけれど」という言葉が流行した時代であったと聞いている。ロシア革命の余波を受けたシベリア出兵から派生した米騒動への対応で失脚した寺内内閣のあとを受けて、わが国初の本格的政党内閣との触れ込みで原敬内閣が誕生した年であった。日露戦争以来続く厳しい財政難と軍拡の慢性的過重負担のなか、国民生活のためのインフラ整備と大正デモクラシーの醸成が務められた。
 64年も後の1982年になって、少年時代の記憶をもとに描かれた絵として岡本唐貴「『自伝的回想録』より」として米騒動のことが描かれている。岡本唐貴にとって、米騒動はよほど強烈な印象だったのだろう。
 展示されているこの時期の絵画は、日本の古くからの伝統的絵画の延長戦上のものと、新たに取り入れた西欧絵画の系統のものとのふたつの流れがある。とくに版画では、日本の伝統的技術と表現に則った作品は、当然ながらしっかりした優れたものが多いように思える。
 こうして100年間にわたるわが国の美術を概観できた。ヒトの人生は短いもので、高齢の私でさえ自分の経験したこととつきあわせて鑑賞できるのはせいぜい50年程度に過ぎない。それでもこうして時代を軸に美術作品を眺めると、当然ながら美術創作活動も時代背景に規定されている面があるわけで、その意味ではより理解しやすい、鑑賞しやすい側面があることを改めて感じた。同時に、これまで過ごしてきたささやかな自分の道のりを、美術を通して見つめなおすひとときでもあった。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (4)

 

1948年・1938年
 昭和23年(1948)となると、私が生まれる前年であり、私個人の経験からは完全に離れる。インド独立の父マハトマ・ガンジーが暗殺され、朝鮮半島で朝鮮民主主義人民共和国ができた。国内では、美空ひばりが全国的にデビューし、現在のホンダの前身である本田技研工業株式会社ができた。極東国際軍事裁判が東京で行われた年でもあった。Photo
 さきの大戦の敗戦からまだ日が浅く、日本国内は荒廃が収まっておらず、物資も食糧も不足し、多くの人々は貧しい生活を余儀なくされていた。
 芸術では、文芸評論家の花田清輝、美術家の岡本太郎、文学者の野間宏が、前衛的な総合芸術の研究会として「夜の会」をつくった。椎名鱗三、埴谷雄高、佐々木基一、安部公房、関根弘らもくわわった。「リアリズム序説」「対極主義」「反時代精神」「創造のモメント」といった研究発表を軸に、アヴァンギャルド芸術をめぐる熱い討論がかわされたという。
 展示された絵画を見ると、田中幸之介「ミシンと女」、伊藤清永「室内」のように、戦争が終わって貧しくとも平和が到来したことに安堵した作品と、田中忠雄「鉄」、上野省吾の『銅版画集』のように、敗戦後の厳しい生活を暗示的にあるいは直接的に表現した作品との、大別して二通りがみられる。当時のひとびとにとっては、そのいずれもが実感だったのたろう。山本敬輔「ヒロシマ」は、あまりにパブロ・ピカソの「ゲルニカ」に似すぎていて、さすがにいかがなものか、と感じてしまう。
Photo_2 昭和13年(1938)は、さきの大戦がいよいよ抜き差しならぬ段階に陥っていく時期であった。私が生まれる10年以上前のことで、当然私に当時の記憶はありえないのだが。ヨーロッパではドイツ・ナチスがオーストリアを併合してますます勢力を拡大し、ユダヤ人への迫害がはじまっていた。日本は、中国との戦争がはじまり、国家総動員法が公布され、1940年開催予定であった東京オリンピックを返上した。当然不穏な環境であったろう。
 阿部合成の「見送る人々」は、すでに何回かみたことがある。青森に生まれ、旧制中学で太宰治と同級で過ごし、京都で絵を学び、この「見送る人々」で画壇から認められた。出征していく若者を見送るひとびとを描くが、画面の右手に自分の顔を描き込んでいる。他の大勢の登場人物が醜く付和雷同するのに距離を置き、視線もそらして一線を画している。この描き方は、大衆に対する侮蔑と自分は知的に優越していることを強調したい表現に思えて、あまり感じのよいものではない。まあしかし、当時の不穏な世情を表したとは言えるだろう。一方で、浅原清隆「郷愁」や古家新「養魚場」のように、平穏できれいな作品もある。
 

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映画「今夜、ロマンス劇場で」

 綾瀬はるかと坂口健太郎が主演する、ファンタジーである。映画助監督が映画を愛するあまり、なつかしのモノクローム映画のシーンからヒロインの御姫様を引き出してしまい、ファンタジーの世界で淡くはかない恋物語を展開する、というお話しである。ストーリーは、主人公の助監督の最晩年の回顧談となっていて、どこまでが彼の実体験で、どこからが彼の夢想なのかさえ明確ではない。しかし映画の世界とは、またその魅力とは、本来そういうものなのだろう。
 綾瀬はるかは、この浮世離れした幻の御姫様を演ずる女優として、まさにぴったりである。相手役の坂口健太郎は、最初は役柄にふさわしいのか心配したが、見ていくにつれて優れた俳優だと再認識した。その老後の最晩年を演じた加藤剛も、すっかり弱弱しい老人になって、あまりにぴったりで感動した。加藤剛は、この7月に亡くなったが、最後の演技だったのかも知れない。
 現実にはありえない、まさに荒唐無稽なお話しではあるが、映画としては決して軽んじることができないひとつの真理を表わしているのだろう。

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北岡伸一『国連の政治力学』中公新書

 10年余り前でまだ企業で働いていたころ、興味をもつて新刊書として購入したものの、いろいろ取り紛れて放置してしまった。本棚を整理しているときに見つけて、遅ればせながら読んでみた次第であった。
 私たち日本の一般大衆にとって「国連」の印象はあまり芳しいものではない。常任理事国という特権的な5か国があって、大事な案件に限ってたいてい中国やロシアの拒否権で望ましい行動はできない。人権委員会というのがあって、韓国や中国の暗躍で、クマラスワミ報告などという理不尽な日本を貶める声明が出る。日本にとって害はあっても益がほとんどないように思えるのに、分担金は世界でもトップレベルに近い。
 最近は存在感が薄いけれども10年ほど前までは、小沢一郎氏が「国連中心主義」を提唱して、メディアでもてはやされたりしていた。ほとんどウンザリという印象が強かった。
 しかしこの本で、国連に自ら飛び込んで、前向きに国連のため、日本のために働いた第一級の政治学者の体験にもとづく国連論を読むと、私たちももっと国連に対してまじめに向き合わないといけない、という気持ちになった。
 世界に200ちかくに達しようとするほどの数の国家があり、巨大国も微小国も、豊かなくにも最貧国も、みな同じ発言力を担保されている組織であるがため、理念的には理想的、現実にはほとんで決定できないという深刻な事情を、冷静に受け止めて、それでも世界中のどの国ともコンタクトできる貴重なルートであることを、しっかり強かに活用することが大切であることを思った。
 机上で、あるいは頭の中だけでの議論ではなく、この本のような最前線の実務体験に基づいた論考を、今後もつぎつぎに出版していただきたい。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (3)

1968年・1958年
Photo 昭和43年(1968)は、私はまだ大学生であった。この年は国内外で激動の年であった。ソビエト連邦の強圧下に呻吟していた東欧諸国がようやく動きだし、チェコスロバキアでブラハの春がはじまり、また長びいていたベトナム戦争では、転換点となったテト攻勢がはじまり、アメリカではマーティン・ルーサー・キング師が暗殺され、戦後世界の進歩的知識人たちが大きな期待を注いでいたフランスの五月革命が敗北に終わった。日本の一般社会では1989年のベルリンの壁崩壊が社会主義の終焉との印象だが、ヨーロッパ思想界では、五月革命敗北をうけてフェリックス・ガタリとジル・ドゥルーズが「アンチ・オイディプス」を発表して、すでにベルリンの壁崩壊の20年以前から共産主義・社会主義革命実現への希望が潰えていた。国内では、霞が関ビルが竣工し、イタイイタイ病が公害病に認定され、川端康成のノーベル賞受賞が決まった。三億円事件も発生した。そして日本全国の大学で学園紛争がまん延し、学生ストライキ、学舎籠城、デモ、内ゲバなどが各所で発生していた。
 私は、この年はじめてアメリカのロサンゼルスを訪れ、いろいろ印象深い経験をした。美術界では、マムセル・デュシャンが亡くなって、わが国でもささやかながら展覧会などの話題となったことを覚えている。Photo_2
 理科系に興味が偏重していた私が偶然美術に興味を持ち始めたのは、高校生活後半時代の片恋からであり、本格的には大学に入ってからであった。
 横尾忠則は、大学紛争たけなわのこの時期ころから学生たちにも人気者となったが、このころはまだアングラ芸術家であり、日陰のアーティストという感じであった。
 このたびの展示でも、マルセル・デュシャンのコーナーがあり、彼が美術を眼に訴える芸術から精神に訴えることを唱道したと説明があるが、私たちには、レディメード、すなわち芸術家が自ら制作しなくとも、有り合わせのモノであっても視角を変えて新しい美術的価値を見つけ出すことができれば、それは芸術的創造だ、と主張したことが新鮮であった。この時期の美術作品として、サルバトール・ダリの作品が何点か展示されている。見方によってはきれいな絵の日本のマンガにも見えるが、当時からなんとも不思議な魅力を感じた。
Photo_3 昭和33年(1958)は、私は小学校4年生であった。この年に月光仮面がテレビドラマとして放送されたこと、今上天皇が正田美智子さん、つまり現皇后と婚約されたことなどは、朧気ながら記憶に残っている。ほかにも東京タワーが竣工したこと、日清食品がチキンラーメンを発売したことなどがあるらしいが、私の記憶にはさだかでない。
 展示には、アルベルト・ジャコメッティの「石碑Ⅰ」というブロンズ像がある。ジャコメッティは、独特のやせ細った人物の塑像で人気が高かったそうだが、このころはすでに晩年であったようだ。国内では1951年に戦後前衛芸術活動の代表的な画家のひとりであった瑛九が、既存の画壇の権威主義的な傾向に異議をとなえて「デモクラート美術協会」を設立し、泉茂、池田満寿夫、吉原英雄、靉嘔などが集まった。関西では、吉原治良のもとに糾合した関西の若手の作家たちで1954年「具体美術協会」ができた。こうしてわが国の抽象絵画の活動は大いに勢いづいた。ここでは、瑛九の版画集の作品や靉嘔「アダムとイブ」、白髪一雄の「作品Ⅱ」などが展示されている。
 しかし、ここにならんでいる抽象絵画の油彩は、なぜこんなに申し合わせたように絵の具を徹底的に厚塗りしているのだろう。それぞれに独創的な絵画表現を探求した、と聞いているが、これではみんなワンパターンではないか。さすがに、当時小学生の私がこれらを知ることはなかった。渡辺一郎の「架線」もある。浜田知明「飛翔」も、今となってはありふれた表現かも知れないが、四角の箱からヒトの顔と脚が出て、空中に浮遊するという構成の発想はおもしろい。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (2)

1988年・1978年
B_2 昭和63年(1988)は、バブルの真最中で、そのあと20年間続く平成不況直前の昭和最終年であった。ファミコンのドラゴンクエストが大流行し、青函トンネルが開業し、東京ドームが開場し、瀬戸大橋が開通した。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件という奇怪な悲劇もあった。そして昭和天皇が危篤となり、急遽日本国内に自粛ムードが広がったときでもあった。私自身の思い出としては、長らく過ごしてきた関西を離れ、首都圏に生活するようになってすっかり落ち着いたころであった。仕事でもさまざまな問題を抱えて、残業時間もずいぶん長かったけれど、好景気の環境から後のような逼塞感はなく、それなりに明るく過ごしていた。最近過労死がメディアに取り上げられて大問題になっているが、当時はもっと長時間の残業も珍しくなかった。やはり将来に希望がもてる時代だったと言えるのかも知れない。しかし一方では、地価が上昇しすぎてまともな給料取りの生活では生涯かかっても土地付きの住宅を購入することは至難のこととも思えた。Photo
 当時人気が高かった写真週刊誌の表紙を担当していた三尾公三の「画室の女(B)」(1988)は、画面を構成するそれぞれの要素は小ぎれいで貧しくないけれど、それらのモノも人物もなにか足りず、満足感がなく、虚無的でさえある。
 木下佳通代「88-CA497」(1988)は、意味不明のタイトルの抽象画だが、カンバスの白地に長短・太細のさまざまな黒い直線を描き込んだ作品で、印象として活気・混迷・逼塞の諸要素を感じさせる。
 その10年前の昭和53年(1978)は、東京池袋にサンシャイン60が竣工し、成田に新東京国際空港が開港し、日中平和友好条約が調印された年であった。私は企業勤務の生活に順応して、社員組合の役員を勤めたりして、予想外の本務以外の仕事で忙しいという経験をしていた時期であった。横尾忠則がすっかり大家となって、大手メーカーの商業宣伝ポスターの制作をしている。浜田知明や元永定正の象徴的あるいは超現実的な表現の作品も、このころには違和感なく定着しているように思える。
 前田常作の仏教画がいくつか展示されている。私はこれまでこの画家については知らなかったが、充実した落ち着いた作品が並んでいる。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (1)

 兵庫県立美術館で「10年ひとむかしと人は言う」との、少しおもしろそうなタイトルの企画展が開催されたので、大型連休の初日を神戸に出かけた。
 ちょうどこの日から「ジブリの大博覧会」という別の特別展が始まることもあって、美術館のエントランスはかなりの人だかりであった。ところが私が入場した企画展の展示場は非常に空いていて、肩透かしのようであったが、その分ゆったりと快適に鑑賞できたのであった。
 この企画は、兵庫県立美術館所蔵品を、大正7年(1918)から10年おきに、平成20年(2008)まで、のべ100年間にわたってそれぞれの10年おきの代表的な美術作品を展示する、というものである。

2008年・1998年
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 展示の順序は、現在に近い平成20年からはじまり、順次遡って大正7年が最後となっている。冒頭の平成20年(2008)も、すでに10年も昔ではある。この年のできごととしては、2月のアメリカの狂牛病騒動とインドネシア・スマトラ島の大地震、5月の中国の大地震、北京オリンピック、9月のリーマンショック、そして年末のバラク・オバマ氏の大統領当選などがあった。Photo_2
  展示作品で興味深いのは、大岩オスカールの「雪雨」(2002)が、雪があるような寒い季節なのに、なぜか嵐のようにさまざまな家屋・車・動物などが吹き飛ばされ、洪水にながされる悲惨な大きな風景画である。この2008年の内外で発生した大地震や、少しのちの2011年の東日本大地震を予見したかのような絵である。やはり大岩オスカールの「www.com」(2003)は、これもまた5年ほど後の狂牛病騒動を予見したかのような絵である。
 平成10年(1998)のコーナーは、この展覧会でもっとも展示が少なく、この年に亡くなった高松次郎のインスタレーションと絵の2点のみである。この年には、長野冬季オリンピック、明石海峡大橋開通、米英のイラク空爆などがあった。当時私は、製造業で働いていたが、長期化した不況であまりあかるい雰囲気ではなかった。

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吉例顔見世11月興行 南座 (下)

11月興行夜の部
 夜の部は午後4時半から9時前までに、4つの演目があった。
 最初の演目は「寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」である。源頼朝の寵臣となって富士山麓の巻狩りの総奉行を仰せつかった工藤祐経は、富士山を間近に見上げる屋敷で祝宴を催していた。その宴には大勢の源氏家臣たちの縁者や遊女たちが来ていたが、そのひとりに舞鶴がいた。舞鶴は源氏の勇将朝比奈義秀の妹であった。舞鶴は、祐経に二人の若者を連れてきて紹介する。それはかつて所領争いから祐経が殺害した河津三郎の子の曽我十郎・五郎の兄弟であった。二人は祐経を父の仇として仇討を実行しようとするが、頼朝の主宰する重要行事の寸前であり、今すぐ騒ぎは起こすべきでないと窘められる。時は正月でめでたい時でもあり、巻狩りの身分証明書である狩場の切手をもらった兄弟は、憤懣やるかたないものの諦めて立ち去る。このあと仇討実行の日を迎えるのだが、この舞台では新年の祝賀宴での敵同士の対面だけである。工藤祐経を片岡仁左衛門、和事の十郎をいつもは女形を演ずることが多い孝太郎が、荒事の五郎を愛之助がそれぞれ演じている。仁左衛門の工藤祐経は悪役だが、上座におさまって穏やかに話すだけで、さほど悪辣さを強調するでもなく、顔を真っ赤にして全身を震わせて怒り狂う愛之助の演技が見ものということだろう。河竹黙阿弥により台本が整理され、明治36年(1903)3月から演じられている現行の舞台では、正月などめでたい時に演じられることも多いという。Photo
 次は、二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎の親子三代が同時に襲名を披露する口上である。藤十郎が司会を勤め、仁左衛門がエピソードを紹介し、三人が順次口上を述べた。私たちが子供時代にテレビで見ていたころ青年期であった染五郎がこうして白鸚になり、6年前に舞台セリから奈落への転落事故に遭難して瀕死の重傷を負って回復した染五郎が幸四郎となり、その子でまだ13歳の中学生が背も高くなりすっかり歌舞伎役者らしくなってきて染五郎を襲名した。昼の部の父幸四郎との連獅子の競演も実に見事であった。とてもめでたいことである。
 三番目の演目は、幸四郎の弁慶と染五郎の義経による勧進帳である。無断で上皇から官位を得たことなどで兄頼朝の怒りを買い、奥羽の藤原氏のもとへ逃避行中の義経一行が、山伏装束で加賀国安宅の関に来る。すでに義経一行が山伏姿で奥州に向かっているとの情報が関守の富樫左衛門には届いていて、山伏はすべて捕らえて関を通過させないことになっていた。弁慶を先頭に関に来た義経一行は、俊乗房重源の東大寺再建の勧進をしていると富樫に説明する。富樫は、それなら勧進帳を読んで聞かせろ、と。弁慶は機転と知恵で偶然持っていたまったく無関係の巻物を勧進帳に見立てて、空で見事に朗読して富樫に感銘を与える、という有名な物語である。勧進帳読み上げの場面に続いて、剛力に扮した義経の嫌疑を晴らすため、主である義経を弁慶が金剛杖で打擲する場面、無事関の通過を認められて富樫たちが退いたあと、義経に弁慶が無礼を詫びる場面、そして再び登場した富樫から酒を振舞われた弁慶が、壇之浦の合戦に因んだ延年の舞を披露する場面、最後に先に関を去った義経を追って、飛び六方で見得を切りながら花道を去っていく場面まで、いつもながら見どころの多い舞台で、すっかり楽しめた。なにより襲名したばかりの幸四郎が、体の動きといい声の通りといい、まさに油の乗り切った素晴らしい熱演であった。
Photo_2 最後は「鴈のたより」という上方狂言の演目である。愛妾司を連れて若殿前野左司馬が有馬に湯治に来ていた。司はたまたま宿の裏手に髪結いを営業する五郎七が気になっていた。その様子に嫉妬した左司馬は、偽の恋文を使って五郎七をおびき寄せ辱めようとした。そこへ左司馬の家老高木治郎太夫が来て、偽恋文の企みを暴露して五郎七の窮地を救う。実は五郎七こそが元は武士であり、今は遊女に身を落としていた武士の娘司の許嫁であったことが判明する。五郎七を演じる鴈治郎は、いつもながら安心して見ていられる芸達者である。いささかファンタジー的でコミカルな面もあるこのような舞台には、最適の役者だろう。司を演じる壱太郎も落ち着いた美しさで絵になる。
 今回は、久しぶりの南座を満喫した。南座が戻ってきてくれて嬉しい、というのが率直な感想である。

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