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住居の整理ということ

  このたび父が40年、母が60年にわたって住み、私が3歳から、弟が誕生したときからそれぞれ成人するまで住んだ家を、老朽化のため取り壊すこととなり、荷物を整理した。当初の想定以上に大変な作業であった。

  60年間という長い年月、引っ越しせずに同じ場所に住んだことから、思いがけず多様で多数の物品が収納されている。しかも両親の世代は、戦中・戦後の物資に困窮した時代を生きた世代であり、モノに対して私たちの世代以上にこだわりがあり、なかなか廃棄できなかったようだ。なぜ今ごろこんなものを後生大事に、と思うモノがほんとうに多い。しかも、とくに衣服などは、自分が良いものと思っていたらしいものは大事にしまいこんで、ついに最後まで使用しないままとなり、粗末なモノから使用しているという傾向がある。

  すっかり古びた日用品も、私たちにとっては思い出深い品々が多々あり、ついつい片づけの手が止まりがちとなる。客観的には価値がない品々も、個人的にはかけがえのない存在であったりする。そもそも私たち団塊の世代にとって、両親の世代ほどではないが、それでも現在の若い世代に比べると、なかなかモノを廃棄できない。最近は「断捨離」とかいって、使用しない品々を思い切って廃棄することが流行しているらしいが、私たちにはなかなかそんなに簡単には割り切れない。

  ほとんどすべての品々について、これを購入したとき父は、あるいは母はどんなことを考えたのだろう、どんなことを感じたのだろう、などと考えてしまう。

  それでも、そのような品々を保管する場所などほとんど確保できないために、大部分の品々は、最終的には廃棄せざるを得ない。この作業は、単に手間取り、時間を費やし、労力がかかるというのみではない。それらの長らく保管された品々を、思い切りをつけて捨てるという作業は、常になにがしか心か傷むのである。想像以上にストレスをともなう作業となる。

  昨年の夏ころから始めて、当初はあまりの暑さにもかまけてはかどらず、冬の厳寒のなかでようやくはかどりはじめ、それでも2月ころから毎日集中的に労力をかけて、ようやく3月はじめに終了させたのであった。この間、なんど、どれだけごみ出しに通っただろう。そのたびに、いつも後ろめたい感覚が残った。

  この311日に、東日本大地震が勃発した。突然の地震と津波で、大切な家産を一挙に無条件に喪失されたひとびとが多数存在する。こうして60年間にわたって蓄積された家族の品々を、ひとつひとつ見つめて、それぞれに思い出し、思案して、結局はほとんどを廃棄したものの、たしかに見届けることができたということには、その幸運を感謝すべきなのだろう。

  多くのモノを廃棄したほろ苦い経験のあと、買い物をする意欲が大幅に減退してるのも事実である。モノがない生活は寂しいし、一方で使用しないモノが沢山あってもしんどい。生活していくということ、生きていくということは、そういうことの積み重ねであり、それぞれが大変なことである。

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