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なぜ「保守」なのか

  最近、衆議院議員の政策秘書を経験した後、現在は政治学者である桜田淳氏のブログ「雪斎の随想録」で「政治家が憧れ倣おうとした『指導者』」という記事を読んで、深く感銘を受けた。
  この記事は、妙に私の心に響いた。まさに私自身もこのような発言をしたかった。さて、その前提として、私は政治に関しては「保守」を基本的な態度とする。なぜなのか? これについて自分なりに簡単にまとめてみたい。
 

  ひとことで言えば、政治という営為は非常に複雑で、把握すべき・制御すべきパラメーターが多すぎて、決して簡単に対処できるものではない、ということである。
  企業の経営でも、それなりに把握すべき・制御すべきパラメーターは通常想定以上に多数あって、そのためいわゆる「改革」という作業は容易ではない。それでも企業は活動の目的が「経済利益」であり、外部に対しては限定された特定商品を通じての「顧客満足」であり、内部に対しては「従業員に対する責任」である。要因が複数・多数あってそれぞれに単純ではないものの、可算・有限であることを自信をもって理解できる。したがって、ときとして「断固改革を実行」することが必要であり、また実施できるのである。
  一方、国家の「政治」では、その複雑さが比較にならないほど大きい。シンガポール元首相のゴー・チョク・トン氏が言ったとおり、国民は企業の従業員と異なり、自分が選ぶことも、リストラすることもできない存在である。それでも、政治のリーダーはすべての国民に対して責任を持たねばならない。実行しようとする政策が、果たしてどのような結果をもたらすのか、ことは経済や利益といった限定的・単純なことではなく、きわめて多様な環境で生きるさまざまな国民の生活全般に関わり、生産活動に関わり、国際関係にも大きな影響を与える、など「人間の能力」に把握・対応できる範囲を超えるのである。
  こうした状況に対して、いわゆる「革新派」を自認する政治家は、一般的に人間の頭脳、政治家の能力を過信しがちである。「こういう問題は、このようにさえすればこのように解決する」と主張し、実際そう信じこんでいる。この事実こそが、これまでの世界の歴史で、取り返しのつかない大きな悲劇や禍根の原因となったのである。フランス革命がそうであり、最近では社会主義革命がそうである。1989年にソビエト連邦と東ヨーロッパ各国の政治が瓦解したが、多大な犠牲を支払った壮大な歴史的実験であった社会主義の失敗において、その根本的な原因こそ、この「人間の理性・能力に対する過信」であった。
いわゆる「左翼」に限らない。「右翼」も「保守」から見れば同様に「保守」ではなく、「革新」なのである。わが国の近代史を見ても、「革新派」の官僚や政治家たちが、さきの大戦のような大きな惨禍を引き起こすことに加担している。
  「保守」という立場は、人間の能力に限界があることを先ず自覚し、歴史的な人間の営為の積み重ねを、絶対的とはなりえないのは当然としても、相対的にはより信用できる、と考える。どんな結果になるかわからない行動よりも、これまで経験して比較的マシな結果をもたらしたものの方をより信用するのである。したがって、伝統や習慣、経験を尊重する一方で、真新しい試みには慎重である
  しかし、歴史には保守的行動だけでは済まされない事態も現実に発生する。戦争がその最たるものである。戦争は、勝っても負けても、それ以前の状況に戻る可能性は小さいから、典型的な「革新」のひとつである。「保守」を標榜する私は、基本的に戦争には反対である。
  明治維新のような「革命的」とも言える大きな変革はどうなのか。明治維新は、その創設から時間を経過してさまざまな制度疲労が蓄積した徳川幕藩体制が、外圧をトリガーとして崩壊した「革命的」事件であった。実際、幕藩体制と明確に切り離された新体制を構築するために、戊辰戦争があり、また西南戦争があった。結果的にはこれらの戦火のお蔭で、現在につながる新体制ができたわけだが、当然それらの戦争での犠牲も大きかった。それでも、その犠牲をより少なくする要因として、わが国の伝統・財産としての「天皇」の存在があった。もし天皇という制度がなかったら、明治維新の戦争の惨禍ももっと大きなものとなったであろう、と私は思う。わが国では、明治維新に関わらず、ずっと以前から天皇という存在が継続することで、政治的変革に大きな安定を与えていると理解する。天皇制は、わが国の先達たちが多大な努力で維持してきた貴重な財産なのである。
  現実の政治において、政治環境は時間の経過につれて変化するので、それに適応するための変革は当然ながら必要となる。その場合、決して見栄えは良くなくとも、漸進性、連続性を最大限尊重すべきである。それがもっともケガの少ない道である。少しでも断絶を伴う「改革」を必要と認めて実行するときには、真剣にその影響の及ぶ範囲と結果を推量しなければならない。「改革」をいとも簡単そうに主張する政治家を、私は決して信じない。
  クリーンでクリアで善意に溢れ、良いことばかりでなんの問題も副作用もない、そんな政治が実在するなら、誰も反対できない。ところが現実には、そのような政治は実在しない。現実には、精一杯既存のものを尊重しつつ、そのなかで最小限変化させるべき要素を注意深く変えていき、それでもさまざまな思いがけない副作用や新たな問題に遭遇し、それらを丁寧にひとつひとつ対処していく、そういう地道で粘り強い努力の積み重ねであるような政治こそが望ましいのである。
  平凡な市井の一老人である私が、自分の経験からそのような考えに至ったのは、実はごくごく陳腐なことである。私は最近まで知らなかったが、今から220年も前に、
英国のエドマンド・バークが、当時進行中のフランス革命を観察しつつ、同じようなことを考えたらしい。
  私は、日教組教師と呼ばれる先生たちが多い時代に初等教育を受け、学生時代には多くの学生運動家の仲間がいる環境に過ごし、そのあとも自分の専門分野外である社会科学系・人文科学系の本といえば、いわゆる進歩的知識人によるものを主に読み、頻度では圧倒的にリベラル、社会主義指向、反体制派などの主張や発言に接してきた。いまでも、私は敢えて時間を費やして読む本は、保守派のものよりも、リベラル、社会主義指向、反体制派などの方が多い。それでも、これまでの自分自身の経験から、私は「保守」を選ぶのである。
  私から見れば、いわゆる左翼も右翼も、かなり類似するところの多い「革新派」である。私は、そのような「革新」の対極を目指し、わが国の伝統・習慣、そして制度としては貴重な歴史的財産として天皇制を尊重する「保守派」である。

 

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