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「わだつみのいろこの宮」青木繁展 京都国立近代美術館 (3)

  早くから哲学、文学や古典に深い興味をもっていた青木は、日本神話、ギリシア神話、インド神話などを詳しく学び、さまざまな形で自分の作品に取り入れる試みを繰り返した。遭難した大穴牟知命を、二人の女神が助ける様子を描いた作品として「大穴牟知命」(明治38年 1905) がある。画面はさほど神秘的ではないが、決して通俗的ではなく、やはり登場人物の内面の表現に力が注がれている印象がある。

3   同じころ、出版社から旧約聖書の翻訳版の出版に際して挿絵の依頼を受け、多数の聖書物語に関わる挿絵を創作した。このころ、青木はさまざまなルートを通じて雑誌や書籍を取り寄せ、ヨーロッパの古典絵画や近代絵画を見ていたようだ。決して模倣するというのではないが、明らかにその影響は作品に現れている。
青木は、キリスト教に深く傾倒し、やがて洗礼を受けるようになる。
  また同じころ、そういった近代芸術指向の活動に並行して、絵かるた、扇子、さらには江戸時代を偲ぶかのような錦絵などの絵も描いている。画家の能力としては、十分装飾的な作品をも制作できることが示されているが、装飾的な作品としては、外面が控えめで地味であり、やはり画家の内面指向・表現主義的性向の印象は拭えない。
  そして明治30年(1907) 展覧会出品のために、それまでの神話世界にもとづく作品の集大成のような大作を発表する。「わだつみのいろこの宮」(明治40年 1907) である。「古事記」上巻の「綿津見の宮の物語」を題材としており、兄の海幸彦から借用した釣り針を紛失した弟の山幸彦が海に入り、海底の魚鱗(いろこ)のごとき宮殿に至り、豊玉毘売(とよたまひめ) と遭遇する場面を劇的に描いたものである。もうひとつの代表作「海の幸」がかなり極端な横長の画面であったのに対して、ここではかなり極端な縦長の画面をもちい、そのなかにやはり画面一杯に3人の人物を配置している。女性の顔やその着衣、プロポーションなどについては、イギリス・ヴィクトリア時代の絵画の影響があると言われている。青木はこの作品を、自身の渾身の傑作と自負があったらしく、その自負に反して三等賞という結果に対して深く落胆・憤慨し、美術雑誌に当時の画壇の後進性・閉鎖性を厳しく口を極めて非難している。しかし一方では、夏目漱石が「それから」の作品中で、主人公がこの絵を展覧会で見て深く感動するくだりを導入するなど、多くの人々を魅了した。

6    今回の展覧会では、冒頭にいきなりこの作品が展示されていて、鑑賞ではなんどか引き返して改めて繰り返し眺めた。縦長のなめらかな油彩で照明がむずかしく、見る角度を選ばないと画面の表面が照明ランプを反射して見づらいが、たしかに眺めていて飽きない魅力がある。私はこれまで知らなかったが、この作品が「海の幸」に劣らない青木繁の代表作であることはまちがいない。
  この同じ年の明治40年(1907) 8月、久留米から父危篤の知らせが入り、急遽青木は単身帰郷することになった。これが福田たねと息子との永訣となってしまった。
  父の死後、明治41年(1907) 10月からは、生活力のない青木は、郷里の家族とも別れ、天草、佐賀など、九州各地を転々と放浪するかのような生活を送った。この時代に描かれた作品は、すでに芸術家としてのピークを過ぎていると評され、また本人も自嘲ぎみに「見る相手にあわせて描いた」と言っているが、私が素直に眺めた印象では、それなりの円熟味があり、やはりそれぞれに魅力的な作品群であると思う。
  このころ描いた作品群の一分野が肖像画である。「谷ちか夫人像」(明治40年 1907)、「初代 富安猪三郎氏像」(明治41年 1908)、橋本道雄氏像」(明治43年 1910)、「木下秀康大尉像」(明治43年 1910)、「高取伊好氏像」(明治43年 1910) などが展示されている。生活の糧のためにも、クライアントの求めに応じて描いたのだろうが、いずれも単にモデルを立派に見えるように描こうという意図はなく、人物の内面に迫ってその心理や性格をえぐりだそうという強い意志を感じる。クライアントのなかには、青木の作品が必ずしも気に入らなかった人もいたのではないだろうか。
  こうして放浪気味のいささか荒んだ生活も影響したのか、明治43年(1910) ころには福岡の病院に入院を余儀なくされた。その8月に浜辺に出て描いた「朝日」(明治43年 1910) はついに青木の絶筆となった。青木は多数の海を描いたが、この絵はとりわけ明るい色彩が使用され、自らの境遇とは反対に、希望や新生、あるいは永遠といった感覚が伝わる。生身の自分は死んでなくなろうと、海・太陽・自然・宇宙はずっと続くんだなあ、と思いつつ諦めと同時にある種の安らぎを感じて描いたのではないだろうか。美しい絵である。
  明治44年(1911) 3月、青木は入院先の福岡の病院で死んだ。満28歳8カ月の若さであった。彼の死後、まもなく友人たちが彼の顕彰のための活動を精力的に開始した。友人であった坂本繁二郎は、ただちに青木の作品を集めるために奔走し、翌年明治45年(1912) 最初の回顧展が上野と福岡で開催された。さらに大正2年(1913) には「青木繁画集」が出版された。長らくの親友であった梅野満雄は、福田家から青木の作品全数を買い取り、自ら保管するとともに、機会あるごとに展覧会に出展した。こうした親友達の懸命の努力のお蔭で、青木繁の名は世に知られるようになり、代表作「海の幸」と「わだつみのいろこの宮」とが重要文化財に指定された。こうして、私たちが幼いころに学んだ学校の教科書にも掲載されることとなった。
昭和28年(1953) には、遺言にもとづき、筑紫平野を見下ろす兜山(通称、けしけしやま) に青木繁本人の作による歌碑が建立された。なお、私たちの世代にはなつかしいコメディ・音楽グループ「クレージーキャッツ」のピアノ担当メンバーであった石橋エータローは、福田蘭堂 (蘭童を後に改称) の息子であり、したがって青木繁の孫にあたるそうである。
10年に満たない短い活動期間にしては、多数のそれぞれに印象の強い作品を残したことに驚いた。明治という時代は、肺結核はまさの死の病であり、青木繁もその宿痾にとりつかれて夭逝してしまった。しかし、天才はその短い生涯にそれなりの仕事をするものである。形や光、色彩などの見える範囲のものだけを表現することに飽き足らず、ドイツ表現主義と同様に、人間の内面を表すことに注力し、その手段として現代の抽象表現にほとんど肉薄するようなところまで明治時代の日本で迫っていた画家であった。「神話などをモチーフとする浪漫主義芸術家」というに留まらない、わが国前衛画家の先駆者のひとりであった、と解説文があったが、蓋しそのとおりであろう。
  習作などの小品を含めて総数200点以上の作品展示があり、さらに手紙や関連文書・書籍・出版物などが50点以上という多数の展があった。私はこれまで青木繁について「海の幸」以外はほとんど何も知らなかった。鑑賞には3時間近くを要して、鑑賞後はまたまたぐったり疲労感を感じた。

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