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末木文美士のことば「死者とともに生きよ」

  読売新聞2月26日付け読書欄に、仏教学者末木文美士のことばが出ていた。
  「死者は不在であることによって、生者に大きな力を与える存在でもある。そんな死者を意識し、死者と共に”生きる”ことは、本当は死者が世界を支えていることを教えてくれる。」精神病理学者渡辺哲夫「死と狂気」によると、「親や子供を殺すほどの重篤な精神疾患の患者は、死者を死者として適切に認識することができない。死者をきちんと位置づけられない時、人は狂気に陥る」という。末木文美士は、「近代はすべてを合理的に説明できるという前提のもと、生きた人間同士の関係をルール化する倫理を組み立ててきた。しかし、論理で説明できない事件が現実に次々と起こっている。だからこそ、”死者とのかかわり” を通して、理解不可能な他者を前に畏れ立ち止まる姿勢を取り戻すことが必要なのだとおもう」とする。そして、葬式仏教と揶揄される葬式と墓地のわが国の仏教にも、我々の精神生活に貢献している側面があることを指摘する。
  私は、ここしばらく幕末・維新の史跡を訪ねて、東京近辺や京都などの街を散策している。その場合、おおむね半分くらいが、幕末・維新に活動した志士たち、知識人達、そして政治家たちの墓を訪ねることになる。宗教には墓地がなければならない、とまで言うつもりはないけれども、少なくとも、わが国の仏教が、死者を墓に弔うという伝統を残してくれたことは、いまの私にとっては非常にありがたい。墓を訪ねることで、大きな時間の格差を隔てながらも、かつて自らの使命に没頭した先達たちに向き合うことができる。
  他人のこころ、心理に対して、どうしても理解できない範囲が残るのは、むしろ当然である。他者のこころの動きがすべて合理的に説明できるわけではない、という意見には、まったく賛同したい。人間に、創造性があり、発展性があるのも、他の誰もが気づかない、理解できなかった範囲が、ある特定の人間には存在したからこそ、ということかも知れない。他者を完全に理解できる、という思想は、人間の理性の傲慢だろう、と私は思う。少し前には、小学生が同じ小学生を残酷な手段で殺す事件があり、最近には、日本人と結婚した外国人主婦が、自分の子供の目の前で、その子供の同級生を刺し殺す、いう悲惨な事件が起こった。これら「狂気」に対して、メディアや識者の議論が喧しい。私は、これら悲惨な事件の再発を防ぐために、さまざまな考察をする努力は大切だと思う。しかし一方で、これらの「謎」が必ず解明されなければならない、きっと解明できるにちがいない、という性急な態度には、危うさと傲慢さを感じる。
  末木文美士は、真摯な尊敬できる研究者であると思い、いくつか彼の著作を読んだこともある。人生の中仕切を過ぎた私であるが、これから残る時間は、ひきつづき人間と社会について、自分なりに学んで、考えていきたいと思っている。(2006.2.28)

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