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亀戸銭座跡 東京 亀戸天神界隈 (5)

  日清紡績創業の地の石碑のすぐ南側、歩道の反対側に、亀戸銭座跡の碑がある。寛永通宝のモニュメントが石碑の上にすえられた碑である。1_01
  わが国ではながらく銭貨を鋳造せず、中国大陸からの輸入に依存していたが、江戸時代の寛永期になって、豪商の自発的活動から発展した銅貨鋳造がはじまり、寛永通宝として流通するようになった。これは寛永13年(1636) 足尾銅山の開発により銅の産出が増大し、鋳造所も増加して、浅草、芝、近江坂本の三座、さらに水戸、仙台、三河、松本、高田、萩、備前岡山、豊後竹田の八座が加わった。
  そして寛文8年(1668) 呉服屋を営んでいた後藤縫殿助が中心となってこの亀戸の地で、大規模な銅銭鋳造が開始された。ここで鋳造された寛永通宝には「文」という文字が入っていて、「背文銭」と呼ばれたという。
  興味深いのは銭の製造方法が、現在でも行われているロストワックス法という方法に類似した、多数の鋳造対象を樹木のようにつないで砂鋳型で鋳造するものであったということである。わが国でもすでに江戸時代からこのような方法が用いられていたことにあらためて感銘を受けた。銭座は金座や銀座に比べると全国に多数存在したらしく、この隅田川付近でも、たとえば南千住あたりに存在したらしい。

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