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マッソン&マッタ展 

 横浜美術館で「アンドレ・マッソン&ロベルト・マッタ-------それぞれの宇宙」という企画展覧会が開催された。アンドレ・マッソンとロベルト・マッタは、ともに戦前フランスで始まったシュールレアリスムの主要メンバーとして活躍し、ナチスを避けてアメリカへ亡命し、さらにともに戦後シュールレアリスム運動から離れていったという共通点を持つ作家である。今回は個展が並列して2つあるという形で、おもしろい機会であった。
 まず両者の共通点から見る。いずれも、人間の根源的なエネルギー、人間の運命を左右するエネルギー、それも暴力的ともいうべき絶対的な存在としてのエネルギーを、人間の外側、具体的には何らかの宇宙的存在に見いだすという傾向が見られる。マッソンの初期の「星座」や「宇宙」などには、太陽のようなエネルギーのかたまりが空に瀰漫しているイメージが描かれている。マッタにしても、初期の「心理学的形態学」や「光の徒刑囚」からごく最近の「我失われし果実より来る」にいたるまで、人間存在から離れた空間や宇宙に、なにか人間世界を支配する決定的に大きなエネルギーのイメージが存在している。さらに、人間の本能や基本的欲望そのものが、人間の固有の存在を離れて宇宙的な普遍性をもったものであるとの主張があるかのように見える。このような、人間存在を越えた支配要因への信仰と、人間の根源的欲望や本能の肯定的認識が、これらの作家に「オートマティズム」のような、人間の努力の範囲を越えた領域の技術や手法への傾向をもたらしたのであろうと推測する。
 また両者ともに、主な作品は抽象的であり、かつオートマティズムを導入したりしてオーソドックスな絵画技術から離れているように見えるものの、基本的な絵画技術が非常にしっかりしており、素人の私にも実に見事な絵であることがはっきりわかる。
 これらの類似点の反面、両者は異なる点も多い。私が今回の展示から見た限りでは、ひとことでいって、マッソンは内向的で思索的であり、かつ主に人間の政治的社会的側面に興味を注いでいること、これに対してマッタは外向的で感覚的であり、かつ科学技術文明と人間との関係を主な興味の対象としていることである。
 マッソンの作品で印象が深いのは、代表作のひとつと言われる「トレドの寓意的風景」である。スペインの歴史、栄光、エネルギー、光と影、人間の燃え上がる欲望、陰鬱と光明、そして迫り来る恐怖、など実に盛り沢山の内容が密度濃くひとつの画面に取り入れられている。しかもフランコ総統の政治的野心という高度に政治的問題をも扱っている。ここでも画面中央のクリスタルは、エネルギーの根源である太陽に通じる存在なのであろう。
 文芸評論家の粟津則雄氏によると、マッソンは若いころ第一次世界大戦に二等兵として従軍し、激戦地で、極限的な非常事態のなかでの生と死と、偶然と、不幸と、奇跡と、そして根源的な恐怖を体験し、それがこの作家の生涯を通じてのモチーフとなっているという。他のシュールレアリスム作家が主に「驚異」をモチーフとしているのに対して、マッソンは自ら「恐怖」をモチーフとしていると言ったという。何が起こるか分らない世界、そして神話が現実に蘇り息づくような「記憶する世界」を表現するために、マッソンはシュールレアリスムという表現方法をとったという。
「魔女」という暗い画面に細い赤や紫の線で輪郭を描いた幻想的な作品も、この作家の内向的かつ幻想的傾向を良く表していると思う。「ミストラル」という比較的明るい風景画は、私にとっては面白い作品であった。どこといって「風」を表す具体的な物象は表現されていないのに、細かい筆のタッチの流れが、完璧に強風を表現している。このあたりに、この作家の基本的技術の高度さが遺憾なく表れていると思う。「女性のトルソ」も見事な作品である。デフォルメされた胴体が、胴体の半分ずつ青っぽい色調と赤っぽい色調で塗り分けられている。一見非現実的なデフォルメと色彩に思えるが、少し見つめるときわめて写実的ともいえる現実感のある、迫力ある表現となっている。「黒い炎の裸体」はマッソンが米国へ亡命中にボストン美術館で見た中国絵画の影響を受けた、墨絵風の作品である。簡潔ですっきりした構図と、しなやかで力強い鋭い輪郭線が、美しいさっぱりした女体を表現している。「詩人ハインリッヒ・フォン・クライストの肖像」も、この作家らしい特徴的な絵である。画面左上には、この作家の基本的世界観に基づくのであろう、太陽のようなエネルギーの源が描かれている。詩人はこのエネルギー源の恩恵を受けてはいるが、思索に苦悩し、眼は血走り、額は血と汗で覆われ、口は苦痛にゆがんでいる。人間の恵みと苦悩と恐怖が象徴的に表現されている。「絶望論(II)」は、黒と赤と白、そしてごく一部に紫色が使われた抽象画であろう。太く直線的な黒は「問題」あるいは「困難」、曲がりくねって飛翔する白は「努力」あるいは「思索」であり、黒に対してもがいて奮闘している。白を分断し、襲いかかる赤は「障害」や「苦悩」を表しているように思える。人間の心の内面の問題を、なんとか絵画として表現したかったのではないだろうか。「変容する家族」は、有名な作品であるが、私はやはり「オートマティズム」を主体としたこのような作品にはあまりなじめない。マッソンは心の内側に向かって思索を深める作家だと思う。また、マッタの「動」に比べ、マッソンは「静」の作家であるともいえよう。
 マッタの作品には、宇宙のエネルギーと人間存在との関係を表す抽象的な作品、彼独特の機械の一部と化した奇怪な変形してしまった人体を主題にする作品、そしてこれら2つのビジョンが融合して、独自の広がりを展開する晩年の作品群の3種がある。前者としては、初期の「光の徒刑囚」や比較的後期の「飛翔する空」がある。特徴ある彼の「機械化された人体」を随所に用いた一連の作品としては、「いかさま師たち」、「ガラス人間と光の徒刑囚との出会い」、「諤諤口」や「死んだ少女」など多くの作品群がある。科学技術の導入によって、人間性は疎外され、人体は機械化され醜く分解変形されている。そのような人間存在の危機にあって、なお人間は本能的欲望を失うどころか、より先鋭化させている。彼の作品の随所に性的な人間の表現がある。彼の最近の作品のひとつである「時間の貯水池」は、全体に黄緑色を基調として、放射線状の鋭い白、アクセントを与える赤、などで構成されている。ここに至って、彼の作品には宇宙に瀰漫するエネルギーに対する深い信頼感が感じられる。もうひとつの最近の作品である「我失われし果実より来る」は、画面中央左手に赤、オレンジ、白、黄色の炎の流れが描かれ、画面全体を走り回る白の渦巻きに対している。画面をじっと見つめると、まず左手の炎が燃え上がり広がってゆく。しかし、しばらくすると炎が収まり、主に右手にある白の渦巻きが勢いを増してゆく。さらにしばらくすると、また赤っぽい炎が勢いを増す、という具合に、時間的にどんどん変化する。この作品に典型的なのであるが、マッタの作品は総じて「動的」である。また問題が深刻なのに、表現が何故か明るいのである。この乾いた明るさは、やはり国民性なのか、それともこの作家の性格なのか。
 私にとっては、このような抽象的な絵画は、けっしてわかり易い美術ではない。けれども、こうしてじっくり作品を鑑賞していると、自分なりに作家が何を考えていたのか、何を表現したかったのか、分かるような気がしてくる。あまり人気のある作家でないためか、美術館内はゆったりと空いていて、ゆっくりマイペースで鑑賞できたのが幸いであった。(1994.4.24)

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