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大竹省二写真展「時代の顔」

  横浜高島屋で写真家大竹省二の個展があった。
1920年生まれの写真家大竹省二は、中学生のころから本格的に写真をとり始めたという。そのころを含めて、彼の初期の作品には、東京を中心とした戦前の町や田舎の日常風景の写真が多くある。当時の、生活する普通の人々や遊ぶ子供たちなどの生活風俗を、何気ない雰囲気で、しかし的確にとらえている。素朴な子供の表情、質素な服装や家屋、私の子供時代にもかろうじて存在した覚えがある当時の日常家具、そして今では想像もつかない東京の田んぼの景色など。現在の日野市はともかく、都心の駒込や新宿でさえも、草と田んぼの景色があった。
戦後すぐには、東京や横浜に大勢のパンパンがいた。エリザベス・サンダースホームという孤児院があり、その子供たちの日常風景も写真に収められている。占領軍の総司令官ダグラス・マッカーサーが妻と微笑んでいる貴重な写真もある。占領軍やその戦車とともに、当時の空気がわかるようなスナップである。
後半は、彼が得意とする俳優、女優、文化人などのポートレートである。表情を選んで、被写体の人格がよく現れるように工夫していることがわかる。しかし、この一連の写真は、雑誌などで比較的見慣れているものが大部分で、新たな感動があるというほどのことはない。
最後のコーナーには、一連のヌード写真がある。大竹省二は「女性の究極の美はヌードである。女性は、男性が決して持ちえない美を授けられた」という。ここでは、どれも性的アピールは少なく、造形美を前面に出したような、静かで上品なヌード写真だけが展示されている。
こういった写真の技術的ポイントは、観る者に対して、的確に何を見させるかを導く、ということのようだ。絵画と違って写真は、光線が届く限りのものをとりあえず光線の強度に比例してすべてとらえてしまう。写真家の意識がとらえたい部分だけを、画面に抽出することはできない。そういう条件下で、いかに相手に自分が注目する部分をはっきり示すか、という問題である。結局、写真を観る相手に、注目すべき部分に自然に注意がいくような瞬間をとらえること、そして、そういう効果を与えるような構図を切り出すこと、ということになるのだろう。実際には、光線の具合や、対象に対する角度など、いろいろ細かい条件があろうが、いかに対象を絞り込むか、ということに要点は尽きると思う。
昭和13年の「兄弟」という写真では、幼い子供が、兄らしい少し背の高い少年を、頼るような眼差しで見上げている瞬間をとらえた、美しい作品である。我々の眼は、自然に幼い方の子供の視線をなぞって兄の顔に移る。敗戦直後らしい時期の「列車を待つ人々」では、さまざまな年代や職業の、しかし一様に質素な服装をした大勢の人たちが、列車が近づくのであろう同じひとつの方向に一斉に視線を向けている瞬間をとらえている。表情、とくにその真剣な視線から、彼らの余裕のない気持ちと待ち遠しさが伝わる。
ポートレートにおいても、我々の眼は、最初にほとんど一点におちつく。観る者の眼を、一点に留めさせることが、重要なポイントであるらしい。
こうして展示会で、あらためてまとめて作品を見ると、それぞれにピリッと引き締まったものがあり、それでいてけっして重くはなく、軽妙なやすらぎがある。私は通常めったに写真という芸術を鑑賞しないが、こうして眺めると、写真もいいものだと思った。(2003.4.21)

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