上田秋成特別展 京都国立博物館(2)
こうして激しい論争のすえ、学識で卓越していた本居宣長には、結局論争では敗北することになり、秋成は終生それに傷ついたらしい。
ともあれ、秋成独自の国学の作品としては、陶淵明の「弦のない琴を奏でる」故事を題材にして「古のことは余計な詮索・解釈を加えずに古のままに素直に捉えよ」という寓意を著した「をだえごと」(享和年間 1801~04)、賀茂真淵が弟子 野村弁子に講義した内容を野村弁子から聴いて書き留めた「古今和歌集打聴」(寛政元年 1789) などが展示されている。野村弁子(もといこ) は長州藩江戸屋敷に勤めた武家の女性であった。
若いころから文人画を学んだ秋成は、画家との交友関係も多彩であった。とくに、松村月渓 改め呉春とは、18歳の年齢差に関わらず親友としての交友があった。呉春の絵に秋成が賛を記すという作品が多数ある。右幅に秋の、そして左幅に春の景色を描いた屏風絵「柳図」(寛政10年 1798) は、呉春が師 蕪村の死のあと松村月渓から号を改めた直後、まだ円山応挙に師事する前の作品であり、みずみずしい新進画家の清新な雰囲気が伝わる。
秋成は、50歳を過ぎてから医師を廃業して隠棲し、また左目の視力を失うなど、貧しい生活に追い打ちをかけるように不幸が重なったが、創作意欲は衰えず、国学、評論、校訂、考証、俳諧、和歌などに打ち込んだ。
60歳のとき、妻の実家がある京都に引っ越し、やがて幼いころに神託を受けた68歳を迎え、それ以後はほんとうの「余生」として精神的に一層自由きままに創作に励んだ。驚くほどの膨大な著作を残している。長い期間にわたって書きつらね、晩年に発表した「胆大小心録」は、当時の文化人たちを片っ端から忌憚なく批評した随筆であったが、秋成の狷介な性格と鋭い批評精神が現れ、当時の多くの文化人がその評価に注目していたという。
今回の展覧会では、秋成自身の作品だけでなく、彼が直接・間接に関わった江戸時代の代表的な芸術家たちの作品も展示されている。 「胆大小心録」で秋成が、狩野派が怠慢なままのうちに応挙が出て、わが国の絵画が写生一色になってしまった、と揶揄するように評した円山応挙の作品が数点展示されている。とくに「龍門図」(寛政5年 1793) は、滝を昇る鯉は龍に変わるという伝説を、見事に描いた3幅の絵である。中央の滝を昇りつつある鯉は、水の間からのぞくウロコがかすかに金箔で縁取られて、すでに龍に化身しつつあることを鮮烈に表現している。細部の描写も見事だが、それ以上に画面の構成がとてもモダンである。たしかに、応挙の精緻な写生と絵画表現の能力には、素人の私でも深く感銘を受けるものがある。
文人画の大家 池大雅が絵を描き、与謝蕪村が「春の海 ひねもすのたりのたりかな」と賛を記した「春海図」(明和7~安永5年 1770~1776) がある。さほど大きな絵ではないが、まるで生き物がゆったりした海の波に反応しているかのような松林が描かれていて、おもしろい絵である。
秋成の若いころの師 与謝蕪村の絵としては、唐の伝説的聖人で、文殊菩薩および普賢菩薩の化身とされる寒山と拾得を描いた「寒山拾得図」(明和3~5年 1766~1768) がある。大きな絵で、墨の微妙な濃淡で空間的な厚み、立体感を表現し、また髪の毛の細かいところまで丹念に描きこまれていて、実に高度な技術が観察できる。
これまで名前だけをかすかに知るのみであった上田秋成という江戸の文化人について、総合的に鑑賞することができた。江戸時代の文化の内容、その知的交流・人的ネットワークの豊かさの一例を、具体的な例としてかいま見ることができた。展示作品点数は82点とそんなに過大ではなく、また会場は空いていて、鑑賞にはなんの問題もなかったが、内容が非常に濃密で、鑑賞に予想以上に時間を要し、鑑賞を終えたあとには、疲労感があった。

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