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コレクションの誘惑展 国立国際美術館 (上)

  大阪中之島の国立国際美術館で、開館35周年記念展として、この美術館の主要なコレクションをまとめて展示するという展覧会が開催された。1970年開催の大阪万博の跡地利用の一環として1977年に開館された国立国際美術館は、大阪万博跡地に立地し、年月を重ねて徐々に収蔵作品数を増やしてきた。やがて施設が老朽化したのにともない、千里の万博跡地から中之島のかつて大阪大学医学部・理学部・本部があった場所に移転し、2004年に移設・新築して改めて開館した。現在までに、6300点のコレクションを蓄積する。そのなかから、代表的な作品350点を選んで、このたび開館35周年として展示するものである。
  展示は2部に別れ、第一部では「20世紀から21世紀へ --- 現代美術の世界」と題して、年代順に現代美術の変遷を展示している。
  「20世紀初期~1950年代」のコーナーでは、冒頭にパブロ・ピカソ「道化役者と子供」(1905)がある。ピカソの初期「青の時代」と呼ばれたころの具象的な作品である。続いて、パブロ・ピカソ「ポスターのある風景」(1912) がある。すでに描かれる対象の分解と再構成がはじまり、キュビスム初期の代表的な作品である。マン・レイ「イジドール・デュカスの謎」(1920/71) という立体造形作品は、ミシンのようなものを布ですっぽりと覆い、その上からロープで結わえたもので、一体布で覆われた中味は何なのだろう、と思わせるのがポイントである。ジュール・パスキン「バラ色の下着の少女 (青いブレスレットの少女)」(1924) にならんで、当時アメリカやパリで活躍した日本の画家として、国吉康雄「乳しぼりの女」(1923) 、藤田嗣治「横たわる裸婦 (夢)」(1925) 、佐伯祐三「パーの入り口」(1927) などの作品が展示されている。「パーの入り口」は、パリの下町の歓楽街の建物を描いているが、茶色のペンキで塗られた扉と、壁の落書きの文字が、この街に棲み着いた人びとの体臭と吐息を感じるような濃密な空気感を表現していて、生々しい迫力がある。Nmao

  ヴァシリー・カンディンスキー「絵のなかの絵」(1929) は、知的な幾何学的図形で画面を構成した知的な絵である。ジョセフ・コーネル「無題 (北ホテル)」」(1950) は、比較的小さな木箱ベースの、印象の強いコラージュ作品である。茶色の小さな木箱の前面を空けて、正面の底面に画家アルブレヒト・デューラーの肖像画の印刷された紙を貼り付け、その絵の「手」の先には、水道栓のような小さな釘を、レリーフのように造形加工してある。箱の上部には、ランプを暗示するような2つの小さな円筒体がぶら下がっている。小さな箱だが、たしかにその中に、ひとつのまとまったささやかな世界が存在している。
   ドイツのアンフォルメルの画家ヴォルスは、裕福なドイツの高級官僚の子としてベルリンに生まれ、トレースデンに移転して、さまざまな才芸を磨く恵まれた教育環境の下に育つが、16歳のとき父が死に、それ以後高校退学、工場での労働、バウハウスでのパウル・クレーとの出合いなどのさまざまな経験を経て、19歳のときパリに移った。そこでも放浪を続け、第二次世界大戦の最中には、パリで敵国人として収監されたこともあった。ようやく30歳代後半に至って、写真家を経て画家となった。以後、38歳に急死するまでのごく短い期間に、斬新なまったく新しい、ある種不気味な様式の絵画を1000点以上創作し続けた。今回展示されている「構成」(1947) も、不思議なそこはかとなく絶望的な印象の絵である。
  「1960年代~1970年代」のコーナーでは、私自身が少年時代から大学を終えるまでのころの時代の作品がならんでいる。なかでも存在感が圧倒的に大きいのは、アンディ・ウォーホルである。既存の写真イメージなどを活用して、量産可能で印象の強い大衆的造形を多作した。初期のフルクサス運動を指導し、また「社会彫刻」という概念の彫刻を始めたヨーゼフ・ボイスの作品も数点展示されている。既存のポスターをベースに、一部を書き加えて構成した「バラなしのは我々は それをしない」(1972) や、単なる木箱を二つに切り分けて、立てて並べただけの「直感」(1968) という作品もある。作品やその内容が、作者が生きる現実の社会から決して遊離したものではない、との主張であるという。この当時の「公害の時代」を反映して、原油のような不気味な液体が、大地を汚していく経過を追った写真作品として、ロバート・スミッソン「グルー・ボア」(1969) がある。工藤哲巳「環境汚染 --- 養殖 --- 新しいエコロジー」(1972) というコラージュ作品では、不気味な毒々しい蛍光色に彩られたペニスのような造形が、大地の草花を汚している。人類が地球にとって、あたかも害虫であり、自然を蝕む寄生虫である、という主張のようである。
  「1980年代~1990年代」は、私にとっては、企業に働いた少壮の時代にあたる。イミ・クネーベル「グレース・ケリー」(1990) は、縦長のカンバスに、中央に大きく明るい青色、その上には、銀色の横方向に長い長方形、左側には濃いブルーの縦長の長方形、下側には茶色の横長の長方形、そして右側には黒の縦長の長方形を置いた単純な抽象画である。画面になんら人体をイメージする形はないが、色彩の選択と長方形の組み合わせは、そこはかとなくグレース・ケリーの上品な美貌を連想させるような気がしてくる不思議な魅力がある作品である。トニー・クラッグ「分泌物」(1999) は、いささか不気味なイメージの題名で、湿りけをのようなものを予感させるのだが、作品そのものは、サイコロを多数アクリル樹脂でつなぎ合わせて高さ2メートルほどの大きな丸みを帯びた人体の変形のような形状の塑像である。形が粘性物のように定まらないというイメージを現すのだろうか。
  「2000年代以降」のコーナーでは、私にとっては勤務生活の最後期に相当する時代のものである。小川信治「アジェ・プロジェクト」(2004) は、鉛筆による写真のように精緻な描写タッチで、西欧の建物の前に佇む双子の少女や、現実的にはあまり存在感のない薄っぺらな高層ビルを二つ並べた風景などを描く。事実・真実・虚構のいずれともつかない、ふわふわした不安定な印象を与える。これらごく最近の作品群は、さすがに年月の淘汰をいまだ経ていないこともあり、また前衛を追求しすぎているためか、私には鑑賞のしかたがよくわからないものが多い。

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