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死刑廃止論についての所感

  テレビの討論番組で、わが国の死刑廃止論者のひとりである明治大学 菊田幸一氏が発言していた。最近、あいつぐ凶悪事件の発生や死刑を回避した裁判のやり直しなど、この問題に関わる話題が続いて出ているので、この討論番組を見ての私の感想を記しておく。
  菊田氏がいう死刑廃止の理由として、次の6点があげられていた。
(1)死刑に犯罪抑止効果はない
(2)犯人を死刑で殺しても、被害者は癒されることはない
(3)死刑は、国家権力による殺人であり、国民をまもるべき国家がやるべきことではない
(4)裁判は常に完全を期することはできないため、どうしても冤罪が発生し、無実の人を死刑に処して殺してしまうことがある
(5)世界的趨勢は死刑全廃であり、日本は文明国・先進国として、率先して死刑全廃を実施すべきである
(6)死刑制度が存在するために、誤審を誘発することがある
  全体的に感じるのは、菊田氏の場合、犯罪の加害者側の立場を忖度すること厚く、被害者側の立場にきわめて無頓着なことである。上記6点のうち、唯一被害者側の立場を考えるものとして「犯人を死刑で殺しても、被害者は癒されることはない」という主張がある。これは当然であろう。かけがえのない人を殺された被害者にとって、加害者がいかに処罰されようと、たとえ死刑に処されようと、けっして癒されるわけがないことは容易に推測できる。被害者側に立てば、取り返しのつかない事態であるが、せめて加害者がこの世からいなくなってほしい、というものであろう。近代刑事裁判制度が始まるまでは、「仇討ち」制度など、わが国でも復讐権が被害者側に担保されていたが、現在の制度では、この復讐権を個人から強制的に取り上げ国家管理としたのである。したがって、国家が被害者に代わって必要な刑罰を代行することは、国家の義務の一部である。必要ならば、裁判などの正当な手続きを経たうえで、国家が加害者を死刑に処するのは当然なのである。
  死刑に犯罪抑止効果がない、という議論は、一部分では正しい側面もあろうが、すべて正しいわけではない。「殺してしまうのは簡単だが、ほんとうに加害者を悔い改めさせるためには、生かして時間を与えたうえで、深く反省させるべきだ。その方がより厳しい刑罰になりうるし、人道的でもある」という意見がある。これも正しい面があるが、一方では「『死』は『すべての可能性』を当事者から奪うから、もっとも厳しい悪条件である」という側面もある。とくに、殺された側から考えると、加害者側だけに「可能性が残される」ことに納得できないのも当然であろう。多数の人びとや移り行く時代をかかえた多様な実社会において、こういう微妙な問題に単純なひとつの回答など存在しない。つまるところ死刑は、抑止効果を主目的とするものではないだろう。
死刑に代えて終身刑を設けるべき、というのが菊田氏の主張らしい。終身刑の方が死刑よりも懲罰効果がある、という意見も、抑止効果と同様で、正しい側面と、そうでない側面を併せ持つのである。私は、終身刑を導入するときに、その面倒を観ることになる看守など職員の負担と、彼らの生計を支える税金をもあわせて考えるべきであると思う。少なくとも、終身刑が死刑に代行できる制度にはならない、と思う。
  冤罪による刑死の問題は、衆議院議員の亀井静香氏も指摘している。たしかにこの問題は非常に大きな問題であると思う。しかし、およそ人間が行う判断に一切の誤りがないということは期待できないという厳然たる事実の一方で、現実社会に生涯を送る人間の生きる時間は有限である。完全を求めるために問題を先送りにして、人の生命の時間を越えたところで判断したのでは、社会制度の意味がなくなる。裁判は過ちをもたらす可能性を認めるがために三審制を導入しており、しかも時限を導入するがために3回の審議を限度としているのであろう。誠実・真剣な裁判は当然必要であるが、その結果に対しては、たとえ完全ではなくとも従うべきだ、とするのが健全な法治主義である。ついでながら、死刑執行に法務大臣の判断すなわち署名が必要な現行規則を改変して、法務大臣の実質的な判断なしに死刑執行を行うようにすべきという意見を、現法務大臣が述べたところ、「人ひとりの命に関わる重大な問題にたいして、不見識である」という非難が出ているそうだ。私は、慎重な裁判の結果をこそ重視すべきであり、判決が決定したあと、しかも時間が経過したあとで、再度法務大臣が執行の可否に介入する方がはるかにおかしい、と思う。
  死刑制度廃止が世界的潮流であり、先進国のひとつとして、わが国もそれに倣うべきである、という主張は、私には説得性が感じられない。他人がやるから、自分もやるべき、などという稚拙な議論は、本来とりあげるにたらない。
  死刑制度があるがために誤審を誘発する、という菊田氏の主張は、その論拠が私には理解できない。
  菊田氏は「死刑制度存続論者は、高学歴、高収入の人に多い。そういうひと達は、自分が殺人事件の加害者になることを想定しない。」という。たしかに私自身、殺人事件の加害者になることを想定することは、通常はない。ただしこれまでの生涯で、一度も他人に殺意を持たなかったということでもない。自分自身が、環境によっては、場合によっては、殺人を犯すかもしれないということについて、想像は可能である。そういう場合、自分だけが死を免れて相手だけが死ぬのが当然だ、とは考えない。菊田氏の主張は、明らかにピントが外れていると思う。
  私は、終身刑の導入の如何にかかわらず、死刑制度は当面存続せざるをえないと思う。理想としては、死刑制度が存続するにもかかわらず実際には死刑が判決されることがない、という状態であろう。現実には、むしろ今後一層被害者側の立場をより忖度した裁判を行うべきだと思う。ひとつの実例として、朝日新聞の販売促進員がインターネットを通じて知り合った2人の男と共謀して、母ひとり子ひとりで慎ましく暮らしていた結婚前の若い女性を強盗目的で惨殺するという凶悪事件が、今年あった。従来の判例にしたがうと、ひとりの犯人が3人以上殺害しない限り死刑は稀だったそうである。この場合、3人でひとりの被害者を殺害したので、犯人ひとりあたり1/3人しか殺害していないから、とても死刑の条件には該当しない、というような論理が成り立つのだろうか。そういうことをもっともらしく声高に言いたてる弁護士が何人かいそうである。そういう馬鹿馬鹿しい判断だけは、ぜひ避けてほしいと思う。(2007.10.8)

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コメント

「菊田氏の場合、犯罪の加害者側の立場を忖度すること厚く、被害者側の立場にきわめて無頓着なことである。」という部分は、別に両方を求める必要はないのではないでしょうか。
ある人が「加害者の人権を守ろう」と活動していても、それを不満に思えば、不満に思った人が「被害者の人権を守ろう」と活動すればいいだけですから。
それから「完全を求めるために問題を先送りにして、人の生命の時間を越えたところで判断したのでは、社会制度の意味がなくなる。」という部分は、ほかの刑罰なら時間が亡くなるぐらいですが、死刑の場合は命が亡くなるから、質的に別じゃないでしょうか。だから終身刑の話が出てるわけですし。
あと、「殺された側から考えると、加害者側だけに「可能性が残される」ことに納得できないのも当然であろう。」というのは、国家が扱うのは、事件が起こってからですから、国家の裁判や刑罰などの国家対人の問題と、逮捕前の人対人の問題は、次元が違いますよね。感情と刑罰がイコールじゃないから制度は安定して運営されるわけで。
最後に、死刑の抑止力のことはまだハッキリしたデータはありません。これは、「だから廃止しない」ということではなく「それなのにするの?」という話です。

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