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藤原道長 京都国立博物館

  京都国立博物館の春の特別展示会として「藤原道長  極めた栄華・願った浄土」という企画展があった。これを見学・観賞し、あわせて講演会 大原嘉豊「道長時代の仏教絵画」を聴講した。
  展示の最初に、「栄華物語」の写本がある。そして、貴重な原本として、藤原道長直筆の「御堂関白記」がある。上段には暦が時系列に記述され、その下に簡潔な道長の日記が記されている。日記を書く道長の書体は、かなり自由にのびのびと書いているのがわかる。これに比べると、紺地紙上に金字や銀字で写経するときの道長の字は、丁寧で几帳面である。なかなかの達筆である。
  「石山寺縁起」という絵巻がある。詞を三条西実隆が、絵を土佐光信が分担した作品で、屋敷の御簾越しに琵琶湖畔を眺めている紫式部が、源氏物語のストーリーのインスピレーションを得て、書き始めるときのエピソード、あるいは観音信仰にもとづいて道長が自分の荘園を寄進する話などが、絵と文章で綴られている。栄華を極めた道長にふさわしい、華やかな絵巻である。
  仏教思想によると、釈迦立法後最初の千年は正法、つぎの千年は像法、そしてそれ以後は末法とされ、永承7年(1052) は、その末法が始まる時期とされていた。道長の時代はその少し前で、来るべき末法の時代に備えて、浄土信仰が急速に広まった。天台宗の恵心僧都源信が、多くの仏典、経典、論書などから極楽往生に関する文章を集めて、「往生要集」を著した。その「往生要集」も展示がある。隋の僧 吉蔵が法華経の大意をまとめた「法華玄論」という平安初期の大陸の著作も展示されている。
  仏像美術の展示としては、大阪府高槻市安岡寺の「千手観音座像」がある。寛平6年(894)から遣唐船が廃止され、いわゆる国風文化として美術の様式がかなり和風に変わりつつあったころの仏像作品で、天平時代の仏像と比べると、表情はより柔和でおだやかである。道長が支援した代表的な仏像作家 康尚(こうじょう)の作品として唯一現代に現存する仏像として、「不動明王座像」がある。康尚は有名な定朝の父である。定朝は、和風仏像の様式を確立して、道長の子の頼通が建立した平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像などを制作したが、父である康尚は、仏像が和風化するその過渡期と位置づけられている。
 寛弘4年(1007) 道長は、大峰山の金峯山に納経のための登山を決行した。金峯山埋経という。このとき奉納した経本の一部が、「紺紙金字法華経等残闕」として残っている。藍で染め抜いた和紙は、1000年の年月を経ても朽ちることなく、金字とともに鮮やかさが見事に残っている。道長の自筆を、ほとんど瑕疵なくかつての面影をしっかり残してこうして眼前に眺めることができるのは、やはり感動する。
  道長が行った金峯山埋経は、他の貴族たちの宗教行動にも大きな影響を与えた。「法然上人絵伝」では、如法経供養の儀式の内容が詳細に絵で記録されている。道長が使ったとされる大型の金鍍金の円筒型納経筒に対して、その子中宮彰子が使ったのは「金銀鍍宝相華文経箱 (叡山横川出土)」である。豪華な金銀鍍金の繊細な装飾を施した方形の金属容器である。貴族達は、それぞれ全国各地に経塚をつくって埋経した。やがて上流貴族だけでなく、中級貴族にもこの仏事が広まり、12世紀中頃には、「花脊別所経塚群出土」の各種の経箱など、陶磁器製の経箱や経筒が現れた。
  こうしてごく間接的ではあるが、藤原道長と、彼の時代の貴族達の行動を想像させる品物を眺めていると、歴史の書物から感じられることと少し異なる平安時代の印象を感じる。
道長は、権力者として、また現世を生きる人間として、栄華をきわめた。しかし、平安時代という時代は、その名にかかわらずけして平安な時代ではなかった。
まず国内では、安倍清明など陰陽師が活躍する魑魅魍魎の雰囲気が漂い、巷には餓鬼草子に描かれるような悲惨な状況の貧民が溢れていた。藤原道長は、中央政権のトップにいて、日常的には土御門邸という奥まった別世界で生活して、下々の世界に疎かったかも知れないが、それでも為政者として、現実の世間をある程度知っていたであろう。そのなかで、政治力を駆使して娘を帝に嫁がせ、孫を天皇にするという方法で、およそ考えられる限りの最高の栄華を現実に獲得した。それでも娘に親王が誕生することそのものは、祈祷に依存せざるを得ない。栄華をきわめていながら、悲惨な境遇に零落することを、常に恐れていたのではないか。またさまざまな努力を惜しまないうえで、最後は神頼みせざるを得ない。そういう状況から、道長の深い信仰心、仏教への一途の帰依が発生したのだろうと推測する。
  海外では、長らく憧れの的であった大唐帝国が傾き、先進文化を導入する典型的な手段であった遣唐船が、寛平6年(894) ついに停止となった。この後、中国は五代から宋の時代へと変遷していく。国立博物館学芸部の大原嘉豊氏は、遣唐船がなくなったあとの「国風文化」の時代とは言え、引き続き貴族の間には、強い中国文化への憧れがあったという。今回展示されていた「青磁水注  越州窯  宇治市木幡金草原出土」のように多くの中国製の文物が輸入されたのだろう。それでも、栄華を誇った大唐帝国の滅亡という事実は、やはり末法思想に対して、大きな追い風になったと思う。
  周囲が困窮をきわめるなかで、自らは栄華をきわめたが、その頂点にいた道長自身は、常に転落への怯えを、深く重く抱えていたのだろう。華やかで、しかしなにか渇望感をともなう雰囲気をもつ展示会であった。(2007.5.26)

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