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「ピサロと印象派」展 兵庫県立美術館 (中)

  1870年代になると、ピサロたちのグループは伝統的なサロンに飽き足らず、独自の展覧会を、自費を投じて実施しようと話し合った。Photo
  若手の画家と彫刻家が共同出資会社をつくって独自の展覧会をやろう、というのである。十分採算がとれるだけの観衆が見込めるわけもなく、当然多くの友人たちから反対が出た。親しかったエデュアール・マネも賛成しなかったという。1874年ついにグループ展覧会の開催にこぎつけた。これが後に、第一回の印象派展と呼ばれるようになった。。このときは、ピサロのほかにモネ、ルノワール、シスレー、ドガ、そしてモリゾが参加している。モリゾは、エデュアール・マネの弟の妻となった女流画家で、当時の印象派画家としては重要な人物であった。展覧会に対して、ほとんどの評論家・批評家は酷評した。それでもピサロは「まずは成功であった」と話していたという。
Photo_2  1877年の第三回印象派展までは、これらの初期の同志たちほとんど全員が連続して参加しているが、そのあと、ルノワール、シスレー、モリゾたちは絵が認められ、よく売れるようになって、サロンに戻っていく。その一方では、カイユボットが印象派を積極的にひっぱっていくようになった。こうしてしばらく印象派展も中だるみと変化の時期を迎えるが、1882年の第七回展では、奇跡的に当初の同志たちが全員集まった。しかしこの第七回が印象派展の終わりのはじまりとなった。
  その次の1886年開催された第八回展が最後の印象派展となった。このころには、同志たちのそれぞれの絵画に対する考えに、相容れない相違点が拡大していた。ピサロはこのころから、スーラ、シニャック、息子のリュシアン・ピサロとともに、「新印象派」と呼ばれる、点描を多用する絵画様式に取り組んでいた。ピサロは温厚な人柄であったらしく、個性の強い画家たちが集まる印象派のなかで、常に年長者・先輩として、仲間のリーダーとして、また絵画の師匠として慕われていたという。8回続いた印象派展に、全部の展覧会に出典したのは、ピサロただひとりであった。

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