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経済原則と公害

 応用物理学会の機関誌「応用物理」の巻頭言に、筑波大学の南日康夫先生が「炭酸ガスやフロンなどによる地球規模の汚染は、近視眼的コストに目の眩んだ現代工業社会が責任をとるべきである」と書いておられる。私自身、ながらく自由主義経済と社会主義経済と、これらの公害や環境汚染の問題との関係について興味を持っていたので、ここで少しコメントしたい。
 私は結論から言うと、環境汚染や公害などの問題を、できるだけ早期に妥当に「コスト」の問題に反映できるようにする社会構造を構築することが、これらの問題を予防し、最小化し、かつ解決する最良の手段であると思う。
 私は、早くから社会主義経済がそのなかで働く人々にとって、妥当なインセンティブを与えにくいために、基本的に効率が悪かろうとは思っていた。けれども長い間、その成果を利益のみで評価しない構造を基本とすることから、公害や環境汚染などの利益と直接結び付かない問題に対しては、根本的に優れた対応をなしうるものであって、少なくともその点では自由主義経済よりも優れているはずであると考えていたのである。
 実際、戦後の復興が目に見えて軌道にのり、奇跡的な経済成長が定着した1970年ころから、公害問題が大きな話題となり、これこそ資本主義体制、自由主義経済の弱点の露呈であるかに見えたのであった。これに対し、当時の社会主義国家では、このような問題は報道されなかった。ところが、1989年の東欧革命の前後から、社会主義経済体制の下でも、甚だしい環境汚染や公害が存在し、その程度は自由主義経済下よりもさらにひどいものであることが判明したのである。
 このような皮肉な結果をもたらした原因は、中央集権の硬直性、計画経済の非効率、など運営の問題もあるが、基本的には「経済原理に基づく妥当な負帰還が存在しない」ということが根本的問題なのである。
 類似の現象として、日本の家庭電化製品の品質や信頼性が、米国の軍事用エレクトロニクス製品のそれよりもはるかに高いことがある。当初の思想からいうと、必要十分なコストが認められる軍事用の方が、コスト・プレッシャーの大きい家電製品よりも品質や信頼性が上であるべきように思える。しかし現実はこれに反して、大量に出回る低コストの商品がもし問題を起こすと、その対策費用が収益を容易に上回る可能性があるという深刻な経済的リスクがあって、これを予防する努力の結果として、家電製品のほうが軍事用エレクトロニクスよりもはるかに信頼性が高いという、一見意外とも思える事態が起こるのである。
 現実に公害や環境汚染の問題が存在し、一部の企業活動が企業の外の人々に困難をもたらしているのも事実である。これは政治の分野に属するのであろうが、この対策としては、社会主義的アプローチよりも、このような問題が的確に「コストの問題」を引き起こすような体制を構築することの方が重要であると考える。
 かつて三重県四日市市で中部電力の火力発電施設の排出する煤煙が公害の原因となっているとの裁判で、敗訴した中部電力社長が、このままでは日本中のすべての電力会社が敗訴して国家的問題になるとして、当時の東京電力社長木川田氏に、協力して逆提訴する相談をもちかけた。しかし木川田氏は、当面の国家的利益を優先して公害をそのままにするのでなく、技術的に排出ガスを改善すべきであるとして同調しなかったという。この背景には、当時の東京都知事美濃部亮吉、神奈川県知事飛鳥田の両革新知事の存在が大きく影響を与えたと推測されている。このように、自由主義のわが国では環境問題の解決に何らかの貢献をした社会主義者が存在するのに、社会主義国家では逆に甚だしい環境汚染をもたらしたというのは、悲惨な皮肉である。
 また、かつて米国でマスキー法という当時としては非常に厳しい自動車の排ガスに関する規制が提案され、米国への輸出と日本市場への波及で話題となったとき、わが国最大手のトヨタ、日産の2社は、製造コストの上昇とそれにともなう価格上昇による普及の鈍化を根拠に、わが国での立法化に反対したのに、下位メーカーである三菱自動車と東洋工業は技術的にメドありとして規制導入に前向きであったという。この結果、いずれの自動車メーカーにおいても競争で技術開発が行われ、米国の立法化が遅れ、米国企業の対応が遅れているすきに、わが国の自動車が技術的に圧倒的に優れたものとなり、国際的競争力の向上に結果的に大きな貢献をしたという。この例は、自由主義経済の競争原理が、技術の進歩を促し、結果的に公害を克服したというものである。
 巨額の税金を徴収し、国民の保護を義務づけられた政府としては、最大限公害防止と対策に努力すべきことはいうまでもないが、社会主義国家が幻想したように、国家の能力を過大にみてはいけないというのも厳然たる歴史的事実である。かつての社会主義国家がそうであったように、唯一の中央権力だけがすべてを決めるような体制では、本当に有効な対策が複数提案されて、その中からもっとも有効なものが選択されて、効率よく実行されるという保証がまったくないのである。妥当な経済原理は、まさに見えざる手として強力な問題解決能力を発揮することがある。公害の問題も、コストに反映させる方法によって、または自由主義的競争原理に還元して、解決を図るのがよいと考える。(1994.12.4)

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