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日展100年 国立新美術館

  東京六本木の国立新美術館で「日展100年」というタイトルで企画展があった。
  明治維新がなり、新しい時代を迎えてわが国の美術界は混乱していた。日本画では、旧派の日本美術協会と、新派の日本美術院とが対立していた。洋画では、旧派の明治美術会と、新派の白馬会とが対立していた。これらの調停を目的として、文部省は官展として「文部省展覧会」すなわち「文展」を明治40年(1907) にはじめた。
  このころの作品に下村観山「木の間の秋」(明治40年: 1907) がある。装飾的な屏風絵で、金色で光を表現している。左側には濃い均一な金色を背景に描いて、夕陽のまぶしさを表す。画面右側は、金色に灰色や黒色をあしらってさまざまなニュアンスを取り入れて、光のゆらぎや濃淡を表す。単なる様式的表現にとどまらない、すぐれた技法である。冨田渓仙「沈竈・容膝」(大正2年: 1913) は、現代的な漫画に通じるおもしろい日本画である。沈竈とは、竈が浸水してしまうような粗末な家と生活を表し、容膝とは、膝がやっと入るような狭い家を表す、という。赤貧洗うがごとし、という質素な生活を描いているが、画面の雰囲気はけっして暗くはなく、むしろユーモラスな温かみとゆとりがある。川合玉堂「暮るる山家」(大正7年: 1918) は、夕方農作業した馬を農夫が家に連れ帰り、馬の労をねぎらって暖かい湯で馬の身体を拭いてやっている、ほのぼのとした情景を描いたものである。馬の心地よさそうな表情が、貧しくとも豊かな精神的充実を表している。洋画では、黒田清輝「夏草」(明治44年: 1911) は、ひろがる花弁と光の描写で、むせ返るような暑さを表現した巧みな油彩である。夭逝した荻原守衛の「女」(明治43年: 1910) は、ロダンに傾倒していた彫刻家らしく、たしかにロダンの影響は鮮明であるが、それでも実に美しい女体の表現を達成している。

  文展の審査員から横山大観が除外されたことをきっかけとして、それまでもくすぶっていた審査員選定の不明瞭問題から、日本美術院が対抗的に再興されてふたたび美術団体が乱立することになった。これを収拾すべく大正8年(1919) 帝国美術院が発足、「帝国美術院展」すなわち「院展」がはじまった。
  この時期の作品として、堂本印象「訶梨帝母」(大正11年: 1922) がある。かなり様式化に忠実な宗教画であるが、それでも描かれた訶梨帝母すなわち鬼子母神に、暖かい人間的雰囲気があり、そういうところに近代性が感じられる。鏑木清方「三遊亭円朝像」(昭和5年: 1930) は、伝統的な日本画の様式に則りながらも、人物の個性を豊かに表現した秀作である。やはり鏑木清方は一段抜けているように思う。小野竹喬「風浪」(昭和5年: 1930) は、西欧に留学して岩彩での表現能力に限界を感じた画家が、日本的な表現方法に回帰して南画風の絵を描いたものであると説明があるが、これも実に魅力的な絵である。松岡映丘「右大臣実朝」(昭和7年: 1932) は、うつむき加減の貴公子を描いた想像の肖像画で、いかにも悲劇の詩人王子という風情が表れている。あまりにもそれらしい点が不満とも思える。彫刻では、建畠大夢「感に打たれた女」(昭和7年: 1932) は、内面の動きを顔の表情ではなく、肩、腕、全身の姿勢などを通じて表現する試みに成功している。北原千鹿「置物兜」(昭和4年: 1929) は、象徴的にシンプルに造形された彫金で、とてもモダンなセンスを感じる。
  院展は、松田源治文部大臣による改組の強行で紛糾し、昭和11年(1936) 展覧会が日本美術院から分離されてふたたび「文部省展覧会」となり、「新文展」と呼ばれるようになった。
  この時期の作品として、日本画に安田靫彦「孫子勒姫兵」(昭和13年: 1938) がある。女性兵の赤い衣服がまぶしい品格ある絵で、私はこれを以前、横浜美術館で見たことがある。工芸品では、二十世椎朱楊成「彫漆亀甲型平卓春秋紋」(昭和12年: 1937) は、落ち着いた朱色の漆がとても美しい。
  さきの大戦で敗戦したあと、まだ戦後の混乱も醒めやらぬ昭和21年(1946) 文部省主催の日本美術展覧会が再出発として実施されるようになった。これが日展である。
  福田平八郎「雨」(昭和28年: 1953) は、瓦の表面に落ちて瞬間に蒸発している雨粒の影を描いた日本画で、伝統的な技法で描きつつも、斬新な着眼と表現で暑い夏の陽差しを表している。佐野賢使「都会」(昭和35年: 1960) は、画面は夜の帳とそのなかに浮かぶビルの明るい灯だが、それを色漆で斬新に表現している。
  美術という活動は、意外に本源的なものである。明治維新直後の混乱さめやらぬ明治9年(1976) から工部美術学校が創られたし、さきの大戦直後の昭和21年(1946) には、早くも日展が再開している。日展の系譜は一貫して政府主導であり、美術界の権威確立のためのひとつの手段であった。当然、この活動に対する反発や対抗も発生し、さまざまな別動隊の活動があった。そういう部分も含め、結果としてはおおいにわが国の美術界の発展に貢献してきたことは事実であろう。
  明治以後の一連の作品を見て、率直に感じるのは、わが国近代美術の技術のたしかさ、巧みさである。美術の技術的水準は、なかなかのものである。同時にとくに洋画では、西洋近代美術の二番煎じのような印象があり、驚きが少ないと言える。しかしわれわれが西洋絵画、西洋美術に感銘する心理の一部には、普段見ることのできないものを見る驚き、エキゾチズムへの憧れが混入しているだろう。「反」日展を標榜する美術運動を発生させて刺激するためにも、アンチの根源としてのオーソリティが必要なわけであり、やはり日展には大きな存在価値がある、ということをあらためて認識した観賞であった。 (2007.9.1)

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