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老いの雑感

  ふと文学者 中村光夫の、老いるということに関して書いたある随筆のことを思い出した。もう20年以上も前のことで、タイトルも内容もほとんど忘れてしまったが、文筆家の多くが「老い」について書かないので、敢えて自分は書いてみる、身体の変化、こころの変化、そして前向きに「老い」に向き合っていきたい、というような内容の文章だったと思う。その文章を読んだ当時は、私はまだ40歳前後で「老い」について、さほど現実味を帯びて感じることがなかった。時が経ち還暦をとうに過ぎて、今ではすっかり実感がある。
  中村光夫が書いていたように、私も自分なりに「老い」にしっかり向き合っていきたいと思っている。「気持ちを若くもたなければ」、「若々しさを保たないと、老け込むよ」などという声をよく聞く。そういう人たちに敢えて反論する気もないが、私は素直に、相応に老いを感じ、味わいたいと思っている。
  実際、身体も頭も、確実に「老い」は迫っている。家人が食べ物の栄養バランスをよく考えてくれているお蔭もあって、幸い内科的には健康体である。しかし、数年前から腰痛が慢性化しつつあり、毎日マッケンジー法という予防体操をして凌いでいる。筋肉も間接も老化のためか、軽いジョギングをすると、ときどき軽い筋肉離れや関節痛を起こす。トイレの回数が増えたり、排便に以前より時間を要したりする。なにかにつけて、若いころのようにテキパキと捗らないのである。
  頭脳の方も同様である。典型的には40歳ころから直線的に記憶力が減退している。よく顔を合わせる人にたいして、すぐに名前が出てこないで大変失礼をしてしまったりする。読みたいその時に、自家所蔵本がすぐに出てこない。新しいことを学ぶにも、到底若いころのようには捗らない。
  でも、こうして「老い」を感じるまでに長生きできたことに、まずは素直に感謝したい。もちろん今までの長い時間、思うようにいかないことも多く、たいしたこともできなかった。反省すべきことは多々ある。けれども、後悔するようなことはほとんどない。ささやかとは言え、私なりには誠実に、精一杯やってきたと自負している。結果は、それこそ神の思し召しとして、不平を言わずに率直に受け入れたい。
  私の身の回りにも、心ならずも若くして亡くなった友人や知人がいる。自ら命を絶ってしまった人もいた。こうして与えていただいた貴重な寿命であり生命であるから、精一杯大切にしたい。しかし、運命として死が訪れたら、思い残すことはないし、静かに落ち着いて死んでいきたいと思う。私の父は、延命治療を断り、寝ついて2週間経たずして亡くなった。立派な最期であったと思う。私も、すでに家族に「延命治療を断る」旨の依頼書を手渡している。もちろん延命治療を行う・行っている人たちに対して、なんら文句を言う気持ちはないし、そういう立場も大いに尊重する。少し前に、麻生太郎大臣が、延命してまで生きたくない、との趣旨の発言をして、メディアや野党にさんざん攻撃されたことがあった。私も麻生氏に同感だが、さすがに大臣・政治家の発言としては、いささか問題もあるだろう。私は政治家でも大臣でもないので、率直に言って問題はなかろう。
  「老い」のために、身体能力も知的能力も衰えていて、これからさらに劣化が進むだろう。それでも、それぞれの時点でできることはある。できる範囲内で、自分なりにやりたいこと・できることをやる。そうすれば、それなりに自分が「進歩」していることを実感でき、充実感があり、幸福感がある。「老い」から逃げず、しっかり向き合って、残された貴重な時間を、自分なりにできるだけ有効に過ごしていきたいと思う。

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