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京都大学の英語による講義

  下記のような新聞記事があった。

 京都大は13年度から5年間で、欧米などの外国人教員を約100人増員し、主に1、2年生が学ぶ教養科目の講義の半分を英語で行う方針を決めた。文部科学省によると、国立大では全国初の試み。同大学が取り組む教養教育改革の柱と位置づけ、国際的に活躍できる人材育成を目指す。学内の教員からは「物事の本質を理解させるためにも日本語での授業を減らすべきではない」と反対の声も出ており、議論を呼びそうだ。(毎日新聞 2013年03月12日)

  英語の初等教育については、すでにさまざまな意見が出ている。小学校から英語を学ばせるべきだ、という意見、日本語の方が大切だから英語に特別に注力するのはおかしい、という意見、他にもっと大切なことがある、などなど。
  私は、小学校から英語を教えるのは賛成しないが、大学の講義を英語で行うという今回の京都大学のプランは、とても良いと思う。言語は学び、知的活動を行うためのもっとも基本的な知的インフラであり、まずは日本語の基礎を幼少期に確立することはきわめて重要である。すべてに優先してまずは日本語の基礎を固める、という観点から、小学校の時期には英語教育などで生徒に負担や混乱を与えることなく、日本語の教育に専念すべきである。そして、中学・高校と、現在のように英語を教育していくのがやはり妥当だと思う。
  そして英語が身につくためには、外国語として学ぶだけではきわめて不十分で、それを実践的に使う機会、つまり英語=外国語をツールとして使用してなにかを実践する、という機会がぜひ必要である。したがって、大学課程の一部を、英語で講義して実践する、というのはきわめて合理的である。
  単に英語そのものを学んだのみでは不足であり、それを実際に使う機会がないと、身につかない。これは私自身も切実に体験したことである。そういう観点からは、講義する側のカリキュラムにおいても、英語の必要性・必然性が納得できるような内容に、少しでも近付く努力をしていただくことが望ましい。英語による講義に対して懸念する人たちが心配するのは、なんら英語導入の必然性・納得性のない内容では、講義を受ける学生も興味を持てないだろう、ということがあると思う。英語を使ったたらこそ理解が深まる、そういう内容をぜひ考えていただきたい。
  もちろん、京都大学の一部の先生方が懸念するように、英語の能力があまりに低すぎたりすると、講義が成立しない。京都大学の学生でも、英語が苦手な者もいるだろう。それでも、京都大学レベルの学生は、素質として英語をまじめに勉強すれば十分キャッチアップできるはずである。そういう意味で、まずは京都大学などの上位の大学からこういう試みを始めるということは、これからこういう動きを他に普及させるためにも望ましいことである。
  京都大学でまずはじめて、その成功が他の大学にも刺激を与えて、こういうシステムが多くの大学に普及していくようになれば、わが国の知的インフラの向上のために、非常に望ましいことだと思う。このプランに期待したい。

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徒然雑感」カテゴリの記事

コメント

宇宙の成り立ち、古代文明の有様、外国の実情などを知る場合にも、我々は英語を使わなくてはならない。
外国人が我々日本人を理解する場合にも、英語を通して行われている。かな・漢字を通して理解されているわけではない。
だから、英語は、我々にとって単なる一外国語ではなく、とりわけ重要な国際語というにふさわしい情報交換の手段となっている。

英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっている環境で生活していれば、そのうちに、英語も上達する。

我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしそのものが成り立たない。

日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境が整わないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みのようなものになっている。

日本の学生のために英語環境を整えることが、英語力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのが効果的である。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人の ’あるべき姿’ の一つと考えることが大切である。

国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要である。
英語を実用の言語とする政治指導者の先を見据えた努力が欠かせない。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。

英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。彼等は、生涯、日本人のような歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能なことではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになる。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義がある。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。

一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育は存在しない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。つまり、一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人の価値は低い。

我が国には「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。

大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にとどまっている。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。

日本人は、国連中心主義が好きなようだ。
国連の議場で世界の人々を説得するためには、自己の言葉に冴えが必要である。
議論のできない人があえて国連中心主義を唱えるのは、自己の他力本願を表明するための手段という結果になるのであろうか。


http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/


http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

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