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「狩野山楽・山雪展」京都国立博物館 (上)

  京都国立博物館で「特別展覧会 狩野山楽・山雪」と題した展覧会が開催されたので、家人と一緒に鑑賞に出かけた。今年の春は、本格的な寒い冬のあと2月下旬から早めに暖かくなって、桜の開花は例年より10日余りも早いという意外な展開となった。ところが開花してから天候が安定せず、寒暖が繰り返し、すでに7分方桜も散った今頃になって、季節が1カ月以上も逆戻りしたかのような、昼間に雨天ぎみで10℃あるかないかという思わぬ寒さとなった。Photo

  さて、展覧会である。寒い天候のためか、日曜日というのに館内は空いていた。
  狩野山楽は、永禄2年(1559) 近江国蒲生郡に、浅井長政の家臣木村永光の子として生まれた。名は光頼と言った。父永光は、狩野元信に絵を師事する文人でもあった。光頼も早くから狩野家に絵を学んだようだ。やがて浅井長政は織田信長に滅ぼされるが、光頼はそのあと豊臣秀吉に仕えた。この秀吉の命令によって光頼は狩野永徳の養子となり、以後その高弟として狩野姓を名乗るようになった。山楽は武士を続けることに意欲を示し、絵を真剣に学びつつも決して武士をやめなかったという。武士でありながらも、天正期に、安土城の障壁画や正親町院御所の障壁画の制作に参加し、その才能を認められていた。天正18年(1590) 9月、東福寺法堂の天井画を制作中に師 狩野永徳が倒れ、山楽が制作を引き継いで完成させた。その功績が認められたこと、また淀君の父浅井氏の家臣であったことなどから、狩野家の血筋ではなく狩野家門弟の番頭格であったにもかかわらず、以後豊臣氏のさまざまな建設工事にかかわる絵画制作に、狩野派を代表するかのように重用されるようになった。
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   しかし、こうして豊臣氏の寵臣であったことが、徳川家康の政権になってから逆境をもたらす。大坂の陣で豊臣氏滅亡のあと、豊臣方の残党として嫌疑をかけられ、一時八幡に身を隠すが、九条家の取りなしや徳川秀忠の理解もあって、やがて武士を捨てて絵師として許され、家康に拝謁、京で創作活動に専念することになった。
 「車争図屏風」(慶長9年 1604) は、九条家の要請に基づいて創作した早い時期の作品で、大勢の人物を丹念に描いた力作だが、図中に家康とおぼしき人物が登場している。「親鸞像」(元和10年 1624) は、本格的な仏画の技法を用いた肖像画で、山楽が絵画の技法の研究・習得に熱心であったことを示す作品である。
  江戸では将軍家奥絵師として狩野探幽が活躍し、狩野本家として軽淡瀟洒な画風で人気を博して栄華を誇っていた。それに比べると京で絵師として活動する山楽の一派は、狩野京派として独自の装飾的で豪快な画風の研鑽を積むことになった。
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  妙心寺に伝わる「龍虎図屏風」(桃山時代) は、永徳を受け継ぐ山楽の明るく希有壮大な画風をよく現す、力強く美しい作品である。
  このほかにも、展示にあった大徳寺の「紅梅図襖」(桃山時代) や「牡丹図襖」(桃山時代) なども山楽の代表作とされる。

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