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「What we see 夢か、現か、幻か」 国立国際美術館

  大阪中之島の国立国際美術館で、映像作品の企画展として「What we see  夢か、現か、幻か」を鑑賞した。
  8人のアーティストによる映像作品を展示したもので、すべて動画による作品である。  この企画の趣旨は、案内パンフレットに以下のように記されている。
いま、「現実」と「虚構」との間に明確な境界線を失いつつある現代社会の有り様を鏡写しにしたかのような映像作品が、次々に登場しています。そして作家たちは、その虚実ないまぜとなった作品の中で「真実」の行方を私たちに問いかけます。情報や映像が氾濫する現代社会において、映像表現に呈示された現実や虚実における本質的な「真実」の所在を考察しようとするものです。
  鑑賞しての私の率直な感想を記す。
  まず、絵画作品と異なり動画映像の作品であるから、作品に「時間軸」の要素が入る。その結果、鑑賞するタイミング・時間は、作品に拘束される。鑑賞する側の思考や感情の流れは、作品の動きの進行に縛られる。鑑賞者側では、どうしても作品のペースに乗らなければならないのである。今回の展示会も、結果として鑑賞にかなり長時間を必要とした。絵画は時間軸がないので、鑑賞する側としては自分のペースで絵画に対峙し、時間を超越して画家と向き合う醍醐味がある。画家が納得いくまで真剣に向き合った絵画の画面を通じて、私は画家と向き合い対話することが実感できる。動画映像は、そういう作者との向き合いが、かえって困難になっている。
  さらにこうした映像作品の特質でもあるが、動画映像だけで作品を構成する場合と、音声・音響を併用する場合とで、表現手段と表現方法がかなり異なってくる。今回の出展作品のなかでは、たとえばジャオ・チアエン「レム睡眠」(2011) は、ひたすら眠る登場人物が、ふと目覚めてことばを発する、という設定である。1990年代に台湾が東南アジア諸国から労働者を受け入れるようになったことに対して、新たに発生した問題、その労働者たちの心理や主張を表現しようとしたものである。この場合には主な表現は「ことば」になり、画面は環境設定・背景に退くようになる。クレメンス・フォン・ヴェーデマイヤーの作品も音声を導入したものだが、ここではフィリピンで実際にあった虚偽の未開民族「タサダイ族」の事件を題材に、「真実とは」を問いかけようとしている。いずれも、表現方法としてことばを使うために、「詩」あるいは「報道記事」と対抗することになり、作品には洗練されたことばや文章、あるいは説得的でロジカルな文章が必要になると思う。その観点からは、これらの作品の場合、いかにも粗雑な感じがする。このような問題を訴えようとするとき、感覚だけで訴えるのは不十分である。こういう感覚的な表現だけで、このような複雑な社会問題を、観る者に理解させ、納得させるのは、問題の性質上あまりにリスクが大きいことに、少なくとも私は強く警戒感をもつ。
  シブリアン・ガイヤールのイラクのバビロン地域の画像も、歴史史跡や風土が戦争や文明で破壊される問題を表現しようとしているが、このままでは「だから、どうしようというの?」という感じになっている。ペイ・シイ・トゥー「ヴィジブル・ストーリー」は、アンリ・ルソーなどの絵画作品を背景にして、20世紀の歴史に犠牲者として登場した人々を取り入れた作品だというが、これも同様な印象である。
  全体の印象としては、複雑で微妙な問題を訴えることを目的として表現し伝達するには、こういう表現方法は底が浅い印象を持ってしまう。メッセージや思想を伝えるのならもっと適した方法があるだろう、こういう表現ならもっと適した内容があるだろう、というのが私の率直な感想である。

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