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ボストン美術館と日本美術 日本美術の至宝展 大阪市立美術館(1)

  老朽化による取り壊しが懸念されたのち、最近ようやく大阪市で存続が決まったという大阪市立美術館で、アメリカのボストン美術館での10万点にのぼる大量の日本美術コレクションから、仏教美術と近世絵画の一部を展示する催しがあったので、ゴールデンウィークにしては珍しく肌寒い一日を、家人と一緒に鑑賞にでかけた。
  ボストン美術館の日本美術コレクションは、まずはなによりもフェノロサ、ビゲロー、岡倉天心の3人の努力によるものである。
  明治維新がなり、明治新政府は高等教育機関として東京大学を創設し、先端的知識を教育するために欧米から教官を招聘した。そのひとりがアメリカからきた法学・哲学の専門家 アーネスト・フェノロサであった。明治11年(1878) で、彼は25歳であった。彼は美術の専門家ではなかったが、まもなく日本の美術に強く魅せられ、教え子のひとりであった岡倉天心とともに、日本の古寺にあった美術作品を蒐集しはじめた。当時は廃仏毀釈の政策があり、多数の仏教美術は二束三文で放置されていた。当初は素人のために古美術蒐集も失敗が多かったようだが、狩野永悳(かのう えいとく) という狩野派の画家に師事して日本画を本格的に研究し、やがて自信をもって蒐集に励むようになったという。明治15年(1882) からは、第一回内国絵画共進会の審査員を勤め、わが国の美術界の政策に公式に参与することになった。明治23年(1890) アメリカに帰国すると、ボストン美術館東洋部長として、日本美術の紹介と蒐集に尽力し、ボストン美術館における日本美術コレクションの基礎をつくった。
  ウィリアム・スタージェス・ビゲローは、アメリカの富裕な医師であったが、美術に造詣が深く、明治15年(1882) 初来日以来なんども来日し、フェノロサと岡倉天心を助けて日本の美術作品の蒐集に協力した。明治23年(1890) ボストン美術館の理事に就任、彼自身の膨大な日本美術コレクションは、後にボストン美術館に寄贈された。展覧会の冒頭に、「ビゲローの肖像」という絵が展示されている。明治時代の絵で、絹のうえに墨で描くという日本画的な技法で描かれているが、ビゲローの写真をベースにきわめて写実的に描写された洋画風の作品である。
  岡倉天心は、文久2年(1862) 福井藩士で武士を捨てて貿易商として活躍していた父のもとに生まれ、英語塾で英語を学んだ後、明治8年(1875) 東京大学の前身であった東京開成学校に入学、政治学と理財学を学んだ。学生のなかでも英語が得意であったことから、フェノロサの助手として活動し、その縁からフェノロサと親交がはじまったという。明治13年(1880) 17歳で東京大学を卒業し、文部省に勤務、つづいて専修学校(後の専修大学) の教官となった。フェノロサとはひきつづき協力して日本美術の研究・探査・蒐集の活動を継続した。明治19年(1886) から東京美術学校創設の準備のために、欧米へ視察旅行に出かけた。明治22年(1889) 東京美術学校が開校し、のちに岡倉天心は校長も勤めた。明治37年(1904) ビゲローの紹介で渡米し、ボストン美術館の中国・日本美術部に勤務、のち部長となった。展覧会の冒頭に、岡倉天心を深く尊敬していたという平櫛田中による「岡倉天心像」というブロンズ彫刻がある。浮世の欲望やしがらみから離れ、孤高に釣りを楽しむ岡倉天心の境地と風貌を表現している。

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