2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
フォト
無料ブログはココログ

« ダラス散策その2 | トップページ | 佐々木信夫「都知事は時代が決める」 »

萩・津和野小旅行

 会社の懇親旅行で春の萩と津和野を訪れる機会があった。4月16日金曜日の朝、大阪を新幹線で出発、昼過ぎには小郡駅に着いた。このところ天候が不安定で、週間予報によるとちょうどこの1泊2日の旅行が雨ということであったが、幸いにして予想外の好天に恵まれた。小郡からバスで秋芳洞へ向かう。大学生のころだからかれこれ30年近く前に、この世界的な鍾乳洞を見学したはずだが、こうして再訪してみると、いろいろなことをすっかり忘れてしまっていることを再認識する。
 もっとも、小郡から秋芳町まで向かう道は、30年前とはまったく異なって、すっかり新しいトンネルと道路になっているらしい。秋芳洞の入口に来ても、前に訪れたときのことを思い出すことができない。入口のゲートを入ると、よく手入れされた池のある美しい前庭があるが、この景観は全く思い出せない。おそらく、比較的最近整備されたのではないかと推測する。いよいよ鍾乳洞に入ると、ここはさすがに思い出が蘇る。
 2~3億年前の石炭期などという途方もなく太古の時代に、海底に沈んでいた当時の各種の生物の死骸から、石灰成分が集まり、膨大な石灰岩層が形成されたという。それが造山運動によって隆起し地上に現れ、水に溶けてカルスト地形と、その下の鍾乳洞を造ったということである。自然の営みの時間的・空間的な壮大さに、あらためて畏敬の念を新たにする。入口近くの広大な洞穴である「青天井」、少しずつ水に浸食された石灰岩と、その窪みに溜まる水との組み合わせでできる「百枚皿」という奇観、巨大な石筍である「洞内富士」、鍾乳石の集まった「傘づくし」、高さ15メートルにもおよぶ巨大な石灰華である「黄金柱」、などを順次見てゆく。全長10キロメートルにもおよぶ巨大な鍾乳洞であるが、こうして見学者が入ることができるのは、そのうちの1 キロメートルのみであるという。
 ほんの数センチメートル成長するのに、数百年かかるということで、人間の一生が如何に短いはかないものであるのか、またこのような壮大な自然現象に比べて、人間の営みがいかに小さなものであるのか。こういう景色は、かえって我々を元気づけてくれる要素がある。
 秋芳洞を出ると、その上の秋吉台に登る。隆起した石灰層は、雨水によって浸食され、水たまりからドリーネというなだらかな窪みを生じ、ドリーネの底から少しずつ地中に入った水が、鍾乳洞を形成する。石灰岩の白い岩肌が青空に映え、なだらかなカルスト地形に、あたかも羊が放牧されているかのように見える。2月末の山焼きを経て、ちょうど岩の間に緑の芝が育ったばかりという美しい景色である。
 秋吉台からは、バスで宿のある長門市へ向かう。長門市は、最近早逝の女流詩人、金子みすずをアピールしていて、われわれの宿泊したホテルでもところどころに、金子みすずの詩を掲げている。みすずの詩はやさしく美しい。彼女の創作活動に対して、夫は理解がなく、病気になった彼女を一方的に離縁したため、ひとり娘と別れて暮らすことに絶望したみすずが自殺するに至ったという。一般に金子みすずにまつわる話では、夫に対する非難の傾向がある。しかし、詩人の才能も性格も、単純に同情だけで済ませるようなものではないことは、中原中也の例でもわかることである。美しい詩を書くことで、またやさしい詩を書くことで、その作者が美しい心を持っている、あるいはやさしい心を持っていると、単純に想像することもできないと思う。夫婦のことは夫婦の当事者でないと、本当のところはわからないと考えたほうが無難だろう。
 翌朝は、前日ほどに快晴とはいかないが、まずまずの天候である。先ずバスで萩市に向かう。ここもやはり約30年前に訪問したはずなのだが、ほとんど記憶がないことに気づかされる。松蔭神社に降り立つ。幕末に生まれた吉田虎二郎は、幼少時代から利発な子であり、10歳そこそこで毛利家当主の前で進講したという。はやくから世界情勢と日本との関係に腐心し、日本を救いたい一心で国外脱出を図って失敗、さらに謀叛の企ての罪により生まれ故郷の萩に幽閉されるが、これから死刑で世を去るまでの1 年余りの間に、高杉晋作、桂小五郎、前原一誠、伊藤博文、などをはじめ、多数の勤皇派の重要人物を教育した。学者の研究によると、彼の学問自体は早熟の才能から博識ではあっても、基本的には過去の成果の範囲を出るものではなく、独創性はとくにないという。しかし、二十才台に夭逝した学者であるから、どこまで独創的で大きくなり得たかはやはり不明である。伊藤仁斎は数十年かけてライフワークとしてオリジナリティ豊かな世界を構築したというし、荻生徂来も中年以降に大きな仕事をしたという。さらに、
河上徹太郎がいうとおり、高潔で誠実な人格から、少なくとも教育者として非凡な人であったことは間違いない。松下村塾の遺跡を見て、その小ささに改めて驚くとともに、人間の歴史に対する偉大な個人の影響力の大きさについて、あらためて考えさせられる。私は一般的には、たとえば司馬遼太郎が説くように、個人の才能が歴史を動かしたという考え方には、基本的に反対である。歴史の流れは、個人の能力を超えるもっとマクロな必然性の下で進んでいると思っている。それでも、そのマクロな流れの中で、やはり大きな影響力をもった人格というものはある。
 萩を出て、山口と島根の県境を越えて、津和野町に向かう。津和野は萩に比べても、一層小さな町で、有名な掘割とその中を泳ぐ鯉の群れを、これも30年ぶりにかすかに思い出すのみである。掘割に沿って建つ「藩校養老館」は、かつて森鴎外、西周などの明治初期の地元出身の偉人たちが学んだ場所である。
  歩ける自由時間がわずかにあったので、西周と森鴎外の生家を訪ねた。川に沿った静かな道を約20分歩くと、西周の生家に着いた。西は津和野藩御展医の子供として生まれ、将軍慶喜の顧問として、また明治以降は、初代東京高等師範学校校長や政府高官などを歴任した幕末・明治初期の哲学者である。残念ながら今年年末までは旧家屋の修復とのことで、建物の中へ入ることはできなかった。藁葺きの旧家にはビニールの覆いがかかり、門の前の粗末なパネルで西周の紹介がしてあるのみである。
  西周の生家の川向かいに森鴎外の生家がある。森林太郎は、やはり津和野藩主の御展医の子供として生まれ、西と同様に藩校養老館に学んだあと、11歳のときに東京英語学校へ移る。したがって、この生家は森鴎外がわずか10歳余りまでのごく幼少期のみを過ごした場所である。この家の環境そのものが、森鴎外の人となりや業績にどのように影響したかという意味では、いくら偉大な知識人とて、しょせんは幼少期のみの滞在であり、そんなに大きな影響があったとは思えない。それでも、決して大きくはないが、しっかりした家柄を偲ばせる日本家屋である。今でものどかな田舎風景であるが、幕末の緊張時代に、津和野のようなのんびりしたところのごく狭い範囲の地区から、西周や森鴎外という傑出した人材が輩出したことは、この環境との対比から興味深い。
 今回は、会社の懇親旅行であり、自由時間もごく少なく、じっくりと歩き回ることができなかったが、それでも約30年ぶりに訪れた山口・島根は、印象深いものであった。またぜひ機会をつくって、ゆっくりのんびりと、このあたりを散策したいものである。(1999.4.25)

 

人気ブログランキングへ

« ダラス散策その2 | トップページ | 佐々木信夫「都知事は時代が決める」 »

散策」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 萩・津和野小旅行:

« ダラス散策その2 | トップページ | 佐々木信夫「都知事は時代が決める」 »