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ポンピドゥー・センター・コレクション展 兵庫県立美術館(2)

フルーツ・オブ・パッション
  「フルーツ・オブ・パッション」のコーナーでは、まずアダム・アダク「去年の夏」(2002)という作品がある。さきの大戦のさなか、ナチスに占領されたポーランドでの市民デモの様子が淡々と寂しげに描かれる。隣には画家の親類の男性の絵、その隣には画家の父が軍服を着て、スターリンのミニュメントの前で写真を撮ってもらっている風景、さらに隣にはバルト海の浜辺の海水浴場でのニーノ、最後にそのニーノが少し歳をとったポートレイト、と5枚の絵がならぶ。強国の暴力に翻弄されたポーランドの悲哀を感じるが、果たしてこれを観るひとすべての人々が同じように感じるのだろうか。作品の表現の印象としては、主張はごく抑制的で、これを見て何を思うかは観衆に任されているようだ。
Photo
  ファラー・アタッシ「作業場」(2011) がある。赤と青のタイルのような小さな四角形が大きな白い背景のなかに多数描かれる。その配置は精密に計算されていて、画面の上半分を見つめると、描かれている空間が部屋のなかにあるかのように思える。ところが、画面の下方を見つめると、一件おもちゃの家の並びのように見えた建物の絵が、人が住まうように町に見えたり、また一部の家が小高い丘のうえにあるかのようにも思える。目の錯覚を利用した、おもしろい作品である。
  レアンドロ・エルリッヒ「眺め」(1997-2005) がある。暗い展示室の壁に、ブラインドが配置された小さな窓があり、その窓からブラインドを経由してとなりのビルの住人たちの私生活がそれぞれの窓から覗けるかのような配置となっている。それぞれの窓にはあたかも窓から中が覗けるかのようにディスプレイが配置され、動画で人々の生きざまが示されている。見られることを全く意識しない人々の姿を、勝手に覗くというスリリングな印象がある。
  ハンス・ペーター・フェルドマン「影絵芝居(パリ)」(2011) は、おもちゃ・人形・日用品を小さな回転テーブルに載せて、横からライトで照明し、反対側の壁に影絵を投影している。影絵のおもしろさのなかに、なんとなくもの悲しい印象がある。Photo_2
  イザ・ゲンツケン「無題」(2006) は、ガラス・シリコンなどを短冊状に切り出し、紙テープや糊でくっつけて合体させ、規則性・リズム・光・透明感を感じさせる造形を構成している。構成要素それぞれの実体としては平凡だが、構成することで美を生成する、という表現なのだろう。アンディ・ホープ1930「ローランド」(1996-2003) は、まずは作者の名前に興味を引かれた。この作者は、本名をアンドレアス・ホーファーというが、憧れのアンディ・ウォーホルからアンディを、希望の意味からホープを、そしてさきの大戦の前の最後の平和な時代として1930を取り入れて命名したという。ただ、作品そのものは平凡であり、いわゆる名前負けの印象である。

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