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収容所のその跡 鳴門・淡路日帰り旅行(3)

 大正9年(1920) までには、収容されていたドイツ人俘虜たちはすべてドイツに送還され、収容所は廃墟になっていった。ただこの地での3年間のうちに、9人のドイツ人俘虜が病気などで亡くなり、その墓が建てられた。3
  すっかり廃墟となって草木が生い茂る場所であったが、昭和20年(1945) わが国がさきの大戦で敗戦し、満州から大勢の引揚者が帰国するにおいて、この場所は臨時の宿所として利用されることになった。このとき、この地に幼少期を過ごした少年のひとりに、のちに高校野球で大活躍し、プロ野球選手として過ごし、現在はタレント活動をしている板東英二氏がいた。板東英二氏の回顧録に、この板東収容所跡の想い出が記されている。
  昭和23年(1948) に引き上げてきた高橋春枝さんという女性は、草むらのなかにドイツ語で記銘された慰霊碑を発見し、定期的に周辺を掃除し、献花を続けた。このことが昭和35年(1960) 徳島新聞の記事に掲載され、この記事を読んだ当時のドイツ大使ハース夫妻と神戸総領事・ベルガー夫妻が、この慰霊碑を訪問した。一方、ドイツでは坂東俘虜収容所で収容生活をした仲間がドイツ各地で「バンドー会」を結成していた。昭和37年(1962)、バンドー会会員ライボルト氏が在ドイツ日本国大使館に対して坂東俘虜収容所の近況を知りたいとの手紙を出した。この手紙が発端となり、坂東(現在の大麻町)とバンドー会が再び交流を始めることになった。昭和38年(1963)、坂東のこの地で慰霊祭が行われた。続いて翌年、高橋春枝さんに、ドイツ政府からドイツ功労勲章が贈られた。
  ドイツ館は、このようなドイツ兵俘虜と地域の人々との交流を顕彰するため、昭和47年(1972)、元俘虜たちから寄贈された資料を中心に建設された。しかし築後20年をこえて施設の老朽化や収集資料の増加により手狭になってきたので、平成5年(1993)、東四国国民体育大会のメイン会場の1つが鳴門市となったことを記念して、新ドイツ館の建設が計画され、同年10月現在の地に新築移転されて現在に至っている。
  ここを訪れ、学芸員から板東俘虜収容所の経緯を聴いた。松江豊寿所長、高木大尉のドイツ人俘虜の人権・立場を尊重する方針・態度も立派であるが、私はドイツ人俘虜たちの真摯な行動に感銘を受けた。こうして収容所管理者の側で俘虜を尊重して厚遇しようとしても、大勢の俘虜たちのうち、ただひとりでも秩序を乱す者が出ると、すべての周囲の人々の配慮や努力が水泡に帰してしまうはずであった。ドイツ人の秩序を重んずる規範的性向に、あらためて敬意を感じる。
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