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高田屋顕彰館[菜の花ホール] 鳴門・淡路日帰り旅行(4)

 鳴門市から大鳴門橋を渡って、淡路島まで戻る。今日は残念ながら霧か霞かが濃くて、往きも帰りも渦潮がよく見えなかった。
 洲本市の西側海岸縁に都志(つし)という地区があり、そこに「ウエルネスパーク五色」と名付けられた高田屋嘉兵衛記念公園がある。その一角に「菜の花ホール」という高田屋顕彰館がある。1
 高田屋嘉兵衛は、寛政期から文政期まで(1790~1820ころ)海運に活躍した豪商である。嘉兵衛は、明和6年(1869) この地、淡路島洲本五色町(現在の都志)の百姓の長男として生まれた。幼少期から瓦舟などに親しみ、船を操ることに長けていたようである。22歳のころ、いち早く兵庫津に出ていた弟を頼って、回船問屋を営んでいた叔父の堺屋喜兵衛の下で働くようになった。船の操縦に優れていた彼は、やがて沖船頭と呼ばれる船頭に昇格した。24歳で故郷の網元の娘と結婚し、兵庫西出町に住居を構えた。そうしてやがて資金を貯えた嘉兵衛は、弟とともに事業拡大を図り、寛政9年(1796) には、蝦夷地まで活動領域を広げていた。松前藩が仕切る蝦夷地に新参者として来た嘉兵衛は、まだ未開発の箱館に目をつけ、蝦夷地での拠点としたようである。兵庫の西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉兵衛」の看板を掲げ本店を置き独立した嘉兵衛は、兵庫津・酒田・箱館を結ぶ北前船で西から酒・木綿・塩を運び、東からは魚・昆布・魚肥を運ぶという商いで富を貯えた。
  寛政11年(1799)択捉島開拓の任に就いて厚岸に来ていた近藤重蔵と出会い、ともに国後島と択捉島間の航路を開拓した。翌寛政12年(1800)に嘉兵衛は、択捉島に渡り、17か所の漁場を開き、アイヌに漁法を教えた。享和元年(1801)、択捉航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。
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