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高田屋嘉兵衛とゴローニン 鳴門・淡路日帰り旅行(5)

 こうして成功した豪商として順調な人生を歩んでいた高田屋嘉兵衛であったが、あるとき突然、当時の日本外交の問題に巻き込まれてしまう。それまでには、彼に直接関係のないような、幕府とロシアの長い確執があった。
 寛政4年(1792) ロシア使節ラックスマンが来日し、当時の老中首座松平定信に交易を提案した。ロシアとの扮装を恐れる一方で、「鎖国の祖法」を翻してまで開国するリスクを回避・棚上げしたい松平定信は、長崎での折衝を約束する信牌を渡して帰国させた。それから12年経った文化元年(1804) その信牌を持参したレザノフが長崎に来航し、半年に渡って江戸幕府に通商をせまった。しかし幕府からなんの回答も得られず、レザノフは武力行使による説得しか通商を開く道はない、と考えるに至り、部下ニコライ・フヴォストフに対して、樺太の松前藩居留地の襲撃、さらに択捉島駐留の幕府軍への攻撃をさせた。4
  こうして日露関係がきわめて険悪となっていたさなかの文化8年(1811)5月、軍艦ディアナ号で千島列島の測量を行っていたヴァーシリー・ゴローニンが、国後島の泊に入港したとき、国後陣屋の役人に騙されて捕えられ、松前で幽囚の身となった。驚いたディアナ号副艦長のピョートル・リコルドは、ゴローニン救出のため、フヴォストフが樺太・択捉で捕虜とした日本人を解放して、ゴローニンの様子を探った。そしてゴローニンを回収するために、日本船を拿捕してさらなる情報入手と交渉を図った。そこへたまたま通り掛かったのが高田屋嘉兵衛が乗った観世丸であった。文化9年(1812) 8月のことであった。
  高田屋嘉兵衛は、同行の4人とともにペトロハバロフスクに抑留された。そこで嘉兵衛はロシア語を学ぶと共にリコルドとも話し合う機会があった。嘉兵衛は、ロシア人とも親しみ、信用を得ていった。
  ようやく文化10年(1813) 5月、リコルドとともに嘉兵衛たちは、ディアナ号で国後島に向い、国後陣屋でゴローニン釈放の折衝が始まった。嘉兵衛は、日本側の役人を代行してむずかしい折衝を行い、ようやく9月になってゴローニンが釈放・帰還され、嘉兵衛も日本に帰国できることとなった。
  嘉兵衛は、帰国当初は罪人扱いされることもあったようだが、やがて藩主蜂須賀治昭から褒賞を授かり、商業に復帰し、港や道路の修築などに貢献したという。文政10年(1827) 59歳で亡くなっている。
  学芸員の方は、大学ではフランス語を専攻されていたとの由で、いろいろくわしく館内を説明いただいた。
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