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サグラダ・ファミリアとガウディ 兵庫県立美術館(3)

 展覧会の最後のコーナーが「サグラダ・ファミリア」である。
 実はガウディは、建築家としてまだ名声を確立していなかった30歳過ぎころからこのプロジェクトに参加していた。Photo
  民間カトリック団体である「サン・ホセ協会」が、すべて個人の寄付に依存して建設する贖罪教会として計画し、当初は建築家フランシスコ・ビリャールに無償で設計を委託した。1882年3月19日に着工したが、正統的ではあってもあまりに特徴がない設計に対して、計画責任者から反論が出て、翌年にビリャールは辞任することとなった。フランシスコ・ビリャールの「サグラダ・ファミリアの構想図」が展示されているが、たしかになんの変哲もない建築とはいえる。その後を引き継いで2代目建築家に任命されたのが未だ無名であったアントニ・ガウディであった。ガウディは期待に応えて設計を全面的に練り直し、それ以後1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組むことになった。
  アーチは放物線状に造形され、鐘楼には自然主義と象徴主義を取り入れた前衛的な彫刻が導入され、詩的で有機的な印象をもつ、巨大な彫刻作品のような建築物として構想された。
  この独創的で巨大な建造物の設計・建設は膨大な時間と労力を必要とした。このプロジェクトに関わりつつも、並行してガウディはさまざまな公園、都市、邸宅、そして内装品などをつぎつぎに完成させ、ゆるぎない名声を確立していった。それでもサグラダ・ファミリアはなかなか建築が進まない。
  サグラダ・ファミリアのプロジェクトに参加して30年ほどが経ったころ、ガウディは信仰を深めて他の仕事をやめ、このサグラダ・ファミリアの建設に専念するようになった。このころからガウディは、親族や友人の相次ぐ死、続いて最大のスポンサーであり理解者であったアウゼビ・グエイの死が彼を襲った。おりしもそのころからバルセロナ市の財政悪化にともなう建設資金の枯渇など、経済的な危機が重なって襲った。それでも、ガウディはサグラダ・ファミリアの建設推進に没頭した。
  それから12年ほど経過した1926年6月、ガウディは路面電車に轢かれてしまう。そのころのガウディは、身なりにまったく頓着せず、そのため浮浪者と間違われて救助が遅れ、死に至ったともいわれている。

Photo_2
  生前のガウディが実現できたのは地下聖堂と生誕のファサードなどのみであった。それにも関わらずこれらは2005年にユネスコの世界遺産に登録された。
  現在は第9台目の設計者となったジョルディ・ファウリがリーダーとなって、ガウディのライフワークであったこのプロジェクトが継続され推進されている。当初は300年かかるといわれたプロジェクトだが、サグラダ・ファミリアの世界的名声から、1990年代以降は訪問者の増加で財政状況を好転させ、また一方でIT技術を含めた建築技術の進歩とあいまって、2026年には完成見込みとされている。
 途方もなく膨大で長期にわたる建築プロジェクトである。当然ながら、建造と並行して修復が必要となっている。大変なプロジェクトだと、改めて感じる。
私も是非完成したサグラダ・ファミリアを実際に見てみたいと思うが、そのころに元気にスペインまで出かけることができるだろうか。
  「ガウディと井上雄彦」展ということだったが、私にとってはガウディのプレゼンスが大きすぎて、ほぼ全面的にガウディの展覧会であった。[完]
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