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母の死に関して思ったこと

  母が逝った。臨終の後、葬儀社へ搬送し、湯灌に立ち会った。遺体はすでに生命は失われているが、遺族にとっては単なる物体ではない。通夜式・葬儀で宗教的様式にしたがって弔い、告別式で親族・知音が最後の面会を行い、火葬場に送り届けるまで、特別なものである。母の遺体を包む装束も、遺体を納める棺桶も、棺桶を埋めつくす花も、すべて遺族や親族、そして母の死を痛む人たち全員の心が乗り移ったものである。
  母は、幸いにして94歳6カ月の天寿を全うした。母の遺体を身近にして、ふと思った。この遺体が、もし自分の幼い子だったとしたら、あるいは将来を楽しみにする青年だったとしたら、または働き盛りの仕事をやり残した壮年だったとしたら、悲しみや悔しさはいかばかりであったろう。ましてその生命が、事故あるいは事件で突然奪われたものであったとしたら、私はとても平静ではいられなかっただろう。
  すでに生命が失われても、こうして形が残っている段階では、遺体はただの物体ではない。天寿を全うした母に対しても、私たち遺族は、母の在りし日のシーンをさまざまにフラッシュバックのように思う。もしもこの遺体が、事件などで殺害された遺体であったとしたら、遺族の心は想像すらできないくらいにひどく深く傷つくだろう。その犯人に対する憎しみが、強烈に増倍されるのは当然であろう。
  たとえば16年前の桶川ストーカー殺人事件では、母親がかけつけた警察の冷え冷えとした遺体置き場で、被害者女性の遺体は全裸で処置台の上に放置されていたという。たとえ遺体ですでに生命が失われていたとしても、警察側のそんな処置や態度は到底許されるものではない。そんなに極端でひどい場合でなくとも、殺害された被害者の遺体を引き取ったときの遺族の悲しみ、犯人に対する憎しみ、無念さは、多少とも想像できるような気がする。私的な報復・復讐が法的に禁じられているわが国で、安易に「死刑廃止」などと主張する人たちには、是非真剣に考えていただきたい。
  母が天寿を全うし、ひとは誰しも死を迎えることに納得し、私たちはこうして遺族・親族・知音で丁寧に母を見送ることができて、幸いであった。悲しみというよりも寂しさがあるが、私たちも母もそれなりに納得できると思うからである。

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