2024年2月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29    
フォト
無料ブログはココログ

« 須賀川市街散策 (5) | トップページ | 「ゲスのきわみ」のひとたち »

高齢者の誕生日

  私は67歳の誕生日を迎えた。
  若いころは、誕生日と言っても「またひとつ馬齢を重ねてしまったか」「あまりパッとしないまま年齢だけ過ぎていくな」などと思うことが多かった。しかし今では、こうして無事に年齢を重ねることができることだけで、その境遇と家族、そして周囲の友人・関係者に感謝する気持ちになる。
  ついここ2~3年に急に多数の同年齢のひとたち、たとえば高校や大学の同窓生が鬼籍に入った。それ以前は、たしかにたまに友人の死があったものの、私の主観としては「事故」的な死として捉えていた。ところがここ2~3年、私の感覚としては、急増した友人の死は「事故」ではなく「寿命」として切実に感じるようになった。
  死に至らなくとも、たとえば同窓会では、参加者の約四分の一程度の比率で「昨年は病気が発覚して、いろいろあって、幸運にもこうして復帰できて、同窓会に参加できた」という話題がある。ひとごととして見ると、そもそも病気になることが不運で、復帰できて「幸運」というのは腑に落ちない、などと傲慢に考えていたが、いまでは違って、こうして無事であること自体がとても幸福に思えるようになった。
  さらにそういう病災が、とてもひとごととして考えにくくなってきた。私は幸いにして今のところ内科的には問題はなく、しかし右脚膝が加齢型変形性関節炎で少し痛みがあり走ることができない、数年前腰痛に悩まされ、いまはマッケンジー法と腕立て伏せで骨格の矯正と腹筋・背筋の維持でなんとか無事に凌いでいる状況である。それでも、いつなんどき「致命的な疾患が見つかりました」ということにならないとは言えない、と本心から思うようになった。
  病気が現れなくても、老化現象はあきらかに発現している。かつては時間の有効利用のため、複数のタスクを並行して行っていた。ところが数年前から、そんなことすると、ときどきとんでもない失敗をするようになった。同時に確実にできることは、唯一になったのである。新たにものを覚えることはとても困難になり、かつて覚えていたことも、思い出すのに時間がかかる。
  思えば、20年くらい以前に読んだ文芸評論家中村光夫のエッセイに、老後の心身の変化や衰えを小説にしようとした、というエピソードがあった。私も今ではその中村光夫の心境がとても良く理解できる。
  あれができていない、これも不十分、という若いころの心境から、年齢を重ねた今では、いろいろ思うように行かなくとも、こうして何事もなく暮らせるということが、それだけでとても幸せなことだ、と素直に思えるようになったのである。
人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

« 須賀川市街散策 (5) | トップページ | 「ゲスのきわみ」のひとたち »

徒然雑感」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 高齢者の誕生日:

« 須賀川市街散策 (5) | トップページ | 「ゲスのきわみ」のひとたち »