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桂 敬一『現代の新聞』岩波新書

  古書店の放出コーナーで少し以前に、なんとなく買っておいた本である。1990年3月初版の岩波新書でかなり古いとは思ったが、なにか参考にならないか、と読んでみた。
  日本新聞協会を経て東京大学新聞研究所教授であった著者が、ジャーナリズムの本流としての新聞に対するさまざまな憂慮を述べている。
  冒頭には、1988年のリクルート事件、1989年の朝日新聞による「サンゴ事件」など新聞の社会的信用を喪失しかねない醜聞が多発したという話題がある。そして、昭和天皇崩御での新聞各社の「天皇制への組み込まれ」を指摘し、ジャーナリズムの復権が必要と説く。戦後復興期からはじまる記者クラブの問題、戦中の新聞統廃合の影響から抜け出せない戦後の全国紙・地方紙の体制・体質、高度成長で発展する一方で画一化が進んだ新聞のジャーナリズムとしての問題などが説かれる。そして、高度成長の後には新聞社同志の過当競争による経営の疲弊、広告収入の減少、政治への癒着、そして情報処理技術の進歩による紙面制作の変革、それに続く新聞対抗勢力としてのニューメディアとの関係の展望などが説かれている。
  著者は、「暴圧に屈せず、不正とたたかい、死を賭しても真実を書き貫く。脅しや誘惑に負けてペンを曲げるようなことはしない」ジャーナリズムの本分を尽くすことが必要と説く。もちろんその通りだろうが、読んでいて私には新聞ジャーナリズムというものを、ことさら特別なもののように買いかぶりすぎのような気がする。そもそもよい仕事をやり貫くことと、民間事業として経営を維持することの両立は、どんな民間産業でも共通であたりまえのことである。製造業なら、苦しくとも採算性を確保して事業を継続可能としつつ、精一杯努力して顧客が満足する製品を供給しなければならない。新聞も、民間業者として経営を維持しつつ、読者に良質の情報と見識を供給することこそが使命であり、それを両立することは当然のこと、あたりまえのことであろう。ジャーナリズムであれ、製造業であれ、総合商社であれ、経営維持のために本来の仕事の使命があやうくなる、などというのは、なんの言い訳も通用しないことである。
 ジャーナリズムを崇高なものというなら、従軍売春婦問題の捏造で日本国民に対して多大な迷惑をもたらした朝日新聞のような行動・態度をまず正しく糺し反省し、同様に「サンゴ事件」も糾弾するのは当然である。著者は、以前のサンゴ事件については「朝日新聞だけの問題ではない」とこの書のなかで述べ、この書から四半世紀後の従軍売春婦問題については、最近一部の報道番組などで「朝日新聞だけを糾弾するのでよいのか」などと、よくわからないことを言っている。
  本書の最初のころに触れている「記者クラブ」についても、早急に廃止するくらいの自己変革があって当然だと思う。この書の文章中で、読者を示すことばとして「大衆」「読者」「公衆」「市民」など、さまざまなヴァリエーションがあるが、全体として新聞ジャーナリズムはこれら読者層を「善導する存在」であるかのような、「上から目線」を感じる。不正な報道、粗末な報道は、ビジネスで供給する商品としては、排除すべき唾棄すべき「不良品」である、という至極当然であるべき認識が不足しているように感ずる。
  この書が発刊されたときからすでに四半世紀が経過し、環境の変化も大きい。この書では最新技術のように描かれているワープロ、電子編集、電子製版、ニューメディアなどは、いまや陳腐化し、普及し、もっと止揚され進歩した「インターネット社会」となっている。新聞の経営環境、競争環境も、はるかに複雑・多彩、かつ困難となった。たとえば、当時では普通の新聞読者は複数の新聞を読むことができないのがあたりまえであったのが、いまではインターネットを通じて、社説などは複数紙を簡単に読み比べることができる。いまやある新聞の購読加入者が、自分の購読新聞以外の新聞をまったく知らない、という状況はむしろ少ない。そしてわれわれ一般読者は、インターネットを通じて、新聞のほかからもさまざまな情報を容易に入手することができる。
  それでも、もっとも豊富で迅速な情報は、なんらかの新聞記者(あるいは放送記者)によるニュースであり、新聞記者がいなくなったら支障があるだろう。したがって新聞社あるいは新聞記者が存続することは、新聞に対して信頼を置けなくなっているわれわれにとってさえも、引き続き必要なことではある。いずれ、インターネットを経由したニュースについても、なんらかの購買、つまり対価の支払いの仕組みが必要となるのだろうが、いずれそんなに大規模な組織を必要としなくなるだろうから、相対的に低いコストで済むようになるだろう。すなわち、良質な情報を提供するプロフェショナルとしての記者の存在は、今後も確実に求められるはずである。
  いま話題となっている電波に関する「放送倫理」などの問題とは少し異なり、新聞をはじめとする多くのメディアでは、電波資源の有限性などはないので、それぞれが立場・旗幟を鮮明にして自由に発信すればよい。ただ、当然だがウソ・捏造は絶対に許されない。
  この著者が目指すような、いわゆる権力に対抗することを目指す「リベラルな」(この著者は自身をリベラルと言いたいようだが、ほんとうにそうだろうか?)ジャーナリズムも結構だし、この著者が忌み嫌うようないわゆる「保守的な」ジャーナリズムも結構だと思う。どんどんのびのびと自由にやってほしい。あくまでウソや捏造でないかぎりだが。
  印象としては、著者が振りかぶって主張しているわりには、ごく普通のことがいささか大仰に説かれているだけのような感じがした。

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コメント

こんばんは。ご無沙汰しております。

 私はこの新書は未読だし、著者の名も初めて知りました。しかし、記事を読んだ印象はブンヤの建前論。建前論を並べれば、大衆を操作できるという考えがあからさまですね。「大衆」「読者」「公衆」「市民」などの用語に、ブンヤの驕りがよく表れています。せめて読者諸兄姉とでも言えばよいのに。

 さらに著者は最近一部の報道番組などで、「朝日新聞だけを糾弾するのでよいのか」などとも言っていたのですか?これが他の企業ならば容赦せず糾弾するのに、新聞業界となるや身内のかばい合いをするえげつなさ。宮城の地元紙でも、新聞の御用文化人による朝日新聞擁護発言が幾つも投稿されていました。新聞社に自浄力を求めること自体、既に無駄と思っています。

 末尾の一文「著者が振りかぶって主張しているわりには、ごく普通のことがいささか大仰に説かれているだけのような感じ」は痛快ですね。尤も著者は大層な発言をしていると思っているかもしれませんが。

mugiさん、ご訪問いただきありがとうございます。メディアの堕落はひどいものですね。新聞もさることながら、テレビなどは「清原麻薬問題」、「ベッキー不倫問題」などを未だに延々と。たまに政治の話題かと思ったら、ゴシップばかり。今日も「学歴詐称のコメンテーター」の話題。プロレス実況で頭角を現した芸人のようなアナウンサーが10年以上も高給をとってニュース番組のMCができる程度ですから、高校卒の学歴詐称コメンテーターでも十分なのでしょう。

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