2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
フォト
無料ブログはココログ

« 國重惇史『住友銀行秘史』講談社 | トップページ | 藤田嗣治展 兵庫県立美術館 (5) »

藤田嗣治展 兵庫県立美術館 (4)

戦争絵画と戦争犯罪糾弾
  1938年ころから、藤田は小磯良平たちとともに従軍画家として中国にわたった。やがて陸軍美術協会理事長に就任し、以後終戦まで戦争絵画に専念することとなった。父が軍人であり、彼自身も画家として戦争に参加できることに誇りを感じていたのだろうと推測する。多数の戦争絵画を創作した。代表作とされるのが、今回も展示されていた「アッツ島玉砕」(1943) である。戦意発揚が求められたのだろうが、この作品などは戦争の悲惨さのみが現れ、戦争推進に役立ちそうにないと思われる。もちろん他には、まさに戦意発揚的な作品もあったのかも知れない。

1943
  戦争が終わった後、藤田が従軍して戦争絵画を描き、戦争推進に加担したとする「画家の戦争責任」は、実はGHQからは咎められず、むしろ日本人画家たちや日本のジャーナリズムによって糾弾された。その結果、戦後の日本美術界は、戦争責任に関して内輪もめとなっていた。
  こうしたなか、藤田はGHQから、戦中の日本の戦争絵画の収集を依頼された。これはアメリカ側に「戦争画を集め、『日本の占領』をテーマとしたアメリカの展覧会に出品する」目的があったためであったが、日本国内の画家たちやジャーナリズムから、GHQによる戦争責任追求のための証拠集めと勘繰られ、藤田はこの点からも大きな反感を買った。
  朝日新聞1945 年 10 月 14 日付「鉄筆欄」に、「美術家の節操」と題する藤田を激しく批判する文章が掲載された。
「まさか戦争犯罪者も美術家までは及ぶまいが、作家的良心あらば、ここ暫くは筆を折って謹慎すべき時である。自分の芸術資質を曲げて、通俗アカデミズムに堕し、軍部に阿諛し巧い汁を吸った茶坊主画家は誰だったのだ。その娼婦的行動は彼ら自身の恥ばかりでない。美術家全体の面汚しだ(中略)新日本の出発のために芸術家の負うべき使命は大きいのだ。須すべからく節操あるべし」とする宮田重雄の記事であった。ここでも朝日新聞が、あらぬ疑惑の捏造に加担していたのである。
  藤田は、こうした国内画壇の内輪もめに嫌気がさしたのか、敗戦の翌年からパリに戻ることを望むようになった。フランスからはすぐにビザがおりたが、日本側からの出国許可がなかなか降りない。そこで藤田は、まずアメリカにわたってからパリに行くことにした。ところが今度は妻の君代の出国許可が降りなかったという。それらの原因は不詳だが、ともかく藤田は単身で先にアメリカにわたり、1949年3月になってようやく君代とアメリカで合流して、ようやくともにパリに向かった。
  1949年アメリカに向かうとき、藤田は以下の言葉を残している。
「絵描きは 絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界水準になって下さい」
  このようなゴタゴタをともなう藤田の渡米・渡欧は、またしても日本の画家たちの反感を募らせた。朝日新聞をはじめとしてジャーナリズムは戦争犯罪を逃れるための逃避行と報道した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

« 國重惇史『住友銀行秘史』講談社 | トップページ | 藤田嗣治展 兵庫県立美術館 (5) »

美術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1444830/68461883

この記事へのトラックバック一覧です: 藤田嗣治展 兵庫県立美術館 (4):

« 國重惇史『住友銀行秘史』講談社 | トップページ | 藤田嗣治展 兵庫県立美術館 (5) »