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藤田嗣治展 兵庫県立美術館 (5)

フランスへの帰化と晩年
  傷心にすっかりやつれた藤田がパリに戻ってみると、かつて親しく交わった多数の芸術家たちが亡命したり死んだりしていて、パリにいてもなお孤独が続いた。ただ、ピカソだけは再会でき、親交を深め、終生親しく交友したという。
  1955年、藤田は夫婦でフランス国籍を得て、日本国籍を抹消した。1959年には72歳にしてランス大聖堂でカトリックの洗礼を受け、名前を「レオノールフジタ」と改めた。
1949   フランスに戻ってからの藤田の画風は、かつての乳白色時代に戻り、ふたたび精力的に創作活動に励んだ。5回結婚したのに子供に恵まれなかった藤田は、観念的な理想の子供の像をなんども描いている。また、それまでキリスト教に関する絵を描いても、それは入信したわけではなく勝手な理解で自由に描いていたが、改宗以後はカトリック信者の立場で、宗教画として創作に励んだ。
  そして1965年79歳のとき、洗礼を受けたランス大聖堂に感謝を示したいと礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(通称シャペル・フジタ)」の建設を志し、その全体設計、ステンドグラス、そしてフレスコ壁画などの創作を開始した。1966年8月末、最後のフレスコ壁画完成とともに教会は落成した。この直後、藤田は体調を崩し入院生活となり、膀胱癌が発覚し、転院を繰り返して1968年1月、スイスの病院で81歳で亡くなった。
  富裕な家に生れ、希望通りの留学を早くから実現し、バリでは多くの友人に恵まれ、すでに30歳代から画家として成功した。芸術家としては恵まれた人生であったといえる。しかしその一方で、日本とヨーロッパの文化の狭間に立ってその相剋に悩み、さらに戦後日本の、とくにその一部ジャーナリズムの、手のひらを返したような不当な「戦争への反省、戦争犯罪糾弾」の、スケープゴートを探すような戦争関係者叩きに会い、日本国籍を棄てるほどの傷心をも経験した。1949_2
  画家としての活動では、まれに見る確かで確実な高い技量をもち、また新しい画風を追求する進取の精神を維持していた。当時の狭量で偏った世論(実は一部ジャーナリズムと一部活動家だけかも知れないが)のために日本から追放したようになってしまったのは、つくづく残念である。
 10年ぶりに鑑賞した藤田嗣治の回顧展も、また認識を新たにできた貴重な機会であった。[完]

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