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2016年11月

松方幸次郎と松方コレクション (4)

印象派・ポスト印象派(下)
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 ポール・ゴーギャンが、タヒチに渡る少し前に描いた「水飼い場」(1886)という作品が展示されている。ここではすでに意図的な平面的表現法が現れ、私たちがゴーギャンに対して印象づけられている画風がわずかに現れつつある。Photo_2
  ロートレック「庭に座る女 ジュスティーヌ・デュール」(1891) がある。この絵は、今回の展覧会のポスターに使われた絵である。戦後フランスから370点ほどの絵画が日本に寄贈返還されたとき、フランス政府が「フランス芸術の精撰」として手放さなかった19点のうちのひとつである。この絵は、印刷版でみるとさほどのインパクトはないが、実物を眺めると、髪の毛と衣服の筆の流れが観る者の視線を引きこみ、対比として顔の表情と背景の落ち着きと首を包む赤色が浮かび上がる。全体として静と動が見事に感じられる。ロートレックの天才的な速筆の勢いが活きているのだろう。
  ジャン・フランソワ・ラファエリ「老人」という作品がある。ここで描かれている老人の顔の描写は、ゴッホの描写をも連想させる重厚な輝きがある。光を意識し、顔の皮膚の細かいところ、髭の描きこみなど、じっと眺めていて画面の奥に引きこまれるような魅力がある。
 彫刻では、オーギュスト・ロダンの「永遠の青春」(1881)がある。モーリス・シャバの「セーヌ河」という作品も、静と動が組み込まれた構図に、上品な空気感と温度を感じさせる描写で、とても美しい作品となっている。

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松方コレクション展 神戸市立博物館(3)

印象派・ポスト印象派(上)

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  カミーユ・ピサロ「収穫」(1883)がある。若いころクールベに感銘を受けて、やがてモネやルノワールとともに印象派として活動したピサロだが、1874年から8回開催された印象派展に一度も欠かさず出展した唯一の画家としても知られる。印象派の仲間では最年長であり、温厚で信頼あつい人柄だったようだ。写実と外光を重視しつつ新しい傾向としての印象派的表現をひかえめに導入している。画風は、点描や光の意識などで多少は変遷があるが、全体として淡い、黄色みの多い、まさにおだやかな絵だと思う。Photo_2
  クロード・モネ「ヴェトゥィユ」(1902) は光が輝くモネらしい美しい風景画である。
  ポスト印象派とされるセザンヌの「田園の奏楽」(1878) がある。ちいさな水彩画で、模写の習作だというが、とても美しく印象が強い。さすがセザンヌと慨嘆する。

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松方コレクション展 神戸市立博物館(2)

古典絵画から印象派前まで
 10点ほど古典絵画が展示されている。ゴッドフリー・ネラー「ハーバ准男爵夫人カサリン」(1700年ころか) が目につく。典型的な西欧美人の丁寧な肖像画である。ネラーは、ドイツ(当時の神聖ローマ帝国)に生れ、オランダでレンブラントに師事し、イングランドに渡って宮廷画家として活躍した。私の興味としては、アイザック・ニュートンの肖像画を4枚も描いていることに注目する。ギュスターヴ・クールベの作品も2点ある。「ニンフ」、「肌脱ぎの女」である。私はなんとなくクールベは「写実派」として、題材も労働者などをよく描いているように思っていたが、たしかに写実的ではあってもここに展示されているのはかなり印象がちがう。「肌脱ぎの女」は、白いドレスもあでやかな艶やかで色気溢れる女性である。
 印象派の前駆と位置づけされるバルビゾン派の画家たちの作品がある。コンスタン・トワロイヨン(1810-1865)は、フランスのセーヴルに生まれた。オランダ旅行で出合ったパウルス・ポッテルら17世紀オランダ動物画の影響を受けて、動物画家としての方向性を決定づけた。今回展示されている「市日」の羊の毛なみの見事な描写、「農耕」の牛の明るい光を浴びた美しい毛なみなど、印象派の先駆的存在とされるのももっともである。
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 シャルル・ドービニーは,風景画家を父としてパリに生れた。小舟をアトリエとしてセーヌ河やオワーズ川の水面から写生をして作品を創作したという。展示されている「レ・サーブル・ドロンヌ」も、光に対する強い関心が感じられ、やはり印象派の前駆と感じさせる作品である。
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松方コレクション展 神戸市立博物館 (1)

松方幸次郎と松方コレクション
Photo_3  薩摩閥の明治元勲のひとりに松方正義がいるが、その子として慶応元年(1865)に松方幸次郎は鹿児島に生れた。旧制第一高等学校の前進の大学予備門に入学したが、学校の方針に反発して退学となり、アメリカに渡り、ラトガース大学、ついでエール大学に学び、24歳で法学博士号を取得した。帰国後首相であった父松方正義の秘書を勤め、30歳のとき父の同郷の親友で実業家であった川崎正蔵にみこまれて、株式会社に改組したばかりの川崎造船所の初代社長となった。積極的な経営を行い、とくに大正3年(1914) からはじまった第一次世界大戦で造船需要が急拡大したのに対応し、急速に事業を拡大した。その最中であった大正5年(1916) ロンドンに滞在していた幸次郎は、ベルギー人でイギリスで活動していた同年代の画家フランク・ブラングィンと出会い、意気投合して彼のアドバイスにもとづいて大量のヨーロッパ絵画を購入しはじめた。ヨーロッパ絵画の収集は10年余り続き、この間2,000点以上におよぶ絵画を購入したと言われている。そのために、第一次世界大戦のなかを船で現金を運送するというリスクをも冒したと伝える。ただ、大正13年(1924) にはわがわが国の美術品の輸入関税が100%という排斥的なものとなり、幸次郎のヨーロッパでの購入品の多くが日本に運び込まれずヨーロッパに残ることになってしまった。
  大正7年(1918) には、フランスの宝石商アンリ・ヴェヴェールが持っていた浮世絵8000点を売却するという情報を得て、それを一括購入した。これらは明治維新の後、日本から流出したもので、幸次郎としては日本の文化遺産・芸術遺産を里帰りさせたいとの意志があった。Photo_4
  しかし第一次世界大戦が集結したあと造船業界は大不況に見舞われ、さらに昭和2年(1927) からの金融恐慌は松方幸次郎の事業を危機に陥れ、それまでに困難をかいくぐって日本にもたらされた約1,300点の作品群は売却を余儀なくされて散逸することとなった。このとき、浮世絵のコレクションは一括して皇室に献納され、帝室博物館(現在の東京国立博物館)に移管され、現在に至っている。
  関税の問題などでフランスに残され、第二次世界大戦をくぐり抜けた絵画・彫刻370点余りは、戦後吉田首相まで入って度重ねた交渉の末、昭和34年(1959) 留め置かれた19点を除いてフランスから「寄贈返還」された。このコレクションを軸として、ル・コルビジエの設計を得て東京上野に国立西洋美術館が創設された。フランスが自らの文化の精撰であるとして手放さなかった19点が残ったのであった。今回の展覧会では、このうち5点が展示されている。
  松方幸次郎は、収集をはじめた当初よりこうして収集した作品群をひろく日本国民に展示・鑑賞させて日本と欧州の文化交流に貢献したいと考え、信頼するフランク・ブラングィンに「共楽美術館構想俯瞰図」(1918ころ) を描かせていた。40年余り後、戦争をかいくぐって、幸次郎の構想の少なくとも一部が国立西洋美術館として実現したということになる。

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藤田嗣治展 兵庫県立美術館 (5)

フランスへの帰化と晩年
  傷心にすっかりやつれた藤田がパリに戻ってみると、かつて親しく交わった多数の芸術家たちが亡命したり死んだりしていて、パリにいてもなお孤独が続いた。ただ、ピカソだけは再会でき、親交を深め、終生親しく交友したという。
  1955年、藤田は夫婦でフランス国籍を得て、日本国籍を抹消した。1959年には72歳にしてランス大聖堂でカトリックの洗礼を受け、名前を「レオノールフジタ」と改めた。
1949   フランスに戻ってからの藤田の画風は、かつての乳白色時代に戻り、ふたたび精力的に創作活動に励んだ。5回結婚したのに子供に恵まれなかった藤田は、観念的な理想の子供の像をなんども描いている。また、それまでキリスト教に関する絵を描いても、それは入信したわけではなく勝手な理解で自由に描いていたが、改宗以後はカトリック信者の立場で、宗教画として創作に励んだ。
  そして1965年79歳のとき、洗礼を受けたランス大聖堂に感謝を示したいと礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ(通称シャペル・フジタ)」の建設を志し、その全体設計、ステンドグラス、そしてフレスコ壁画などの創作を開始した。1966年8月末、最後のフレスコ壁画完成とともに教会は落成した。この直後、藤田は体調を崩し入院生活となり、膀胱癌が発覚し、転院を繰り返して1968年1月、スイスの病院で81歳で亡くなった。
  富裕な家に生れ、希望通りの留学を早くから実現し、バリでは多くの友人に恵まれ、すでに30歳代から画家として成功した。芸術家としては恵まれた人生であったといえる。しかしその一方で、日本とヨーロッパの文化の狭間に立ってその相剋に悩み、さらに戦後日本の、とくにその一部ジャーナリズムの、手のひらを返したような不当な「戦争への反省、戦争犯罪糾弾」の、スケープゴートを探すような戦争関係者叩きに会い、日本国籍を棄てるほどの傷心をも経験した。1949_2
  画家としての活動では、まれに見る確かで確実な高い技量をもち、また新しい画風を追求する進取の精神を維持していた。当時の狭量で偏った世論(実は一部ジャーナリズムと一部活動家だけかも知れないが)のために日本から追放したようになってしまったのは、つくづく残念である。
 10年ぶりに鑑賞した藤田嗣治の回顧展も、また認識を新たにできた貴重な機会であった。[完]

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藤田嗣治展 兵庫県立美術館 (4)

戦争絵画と戦争犯罪糾弾
  1938年ころから、藤田は小磯良平たちとともに従軍画家として中国にわたった。やがて陸軍美術協会理事長に就任し、以後終戦まで戦争絵画に専念することとなった。父が軍人であり、彼自身も画家として戦争に参加できることに誇りを感じていたのだろうと推測する。多数の戦争絵画を創作した。代表作とされるのが、今回も展示されていた「アッツ島玉砕」(1943) である。戦意発揚が求められたのだろうが、この作品などは戦争の悲惨さのみが現れ、戦争推進に役立ちそうにないと思われる。もちろん他には、まさに戦意発揚的な作品もあったのかも知れない。

1943
  戦争が終わった後、藤田が従軍して戦争絵画を描き、戦争推進に加担したとする「画家の戦争責任」は、実はGHQからは咎められず、むしろ日本人画家たちや日本のジャーナリズムによって糾弾された。その結果、戦後の日本美術界は、戦争責任に関して内輪もめとなっていた。
  こうしたなか、藤田はGHQから、戦中の日本の戦争絵画の収集を依頼された。これはアメリカ側に「戦争画を集め、『日本の占領』をテーマとしたアメリカの展覧会に出品する」目的があったためであったが、日本国内の画家たちやジャーナリズムから、GHQによる戦争責任追求のための証拠集めと勘繰られ、藤田はこの点からも大きな反感を買った。
  朝日新聞1945 年 10 月 14 日付「鉄筆欄」に、「美術家の節操」と題する藤田を激しく批判する文章が掲載された。
「まさか戦争犯罪者も美術家までは及ぶまいが、作家的良心あらば、ここ暫くは筆を折って謹慎すべき時である。自分の芸術資質を曲げて、通俗アカデミズムに堕し、軍部に阿諛し巧い汁を吸った茶坊主画家は誰だったのだ。その娼婦的行動は彼ら自身の恥ばかりでない。美術家全体の面汚しだ(中略)新日本の出発のために芸術家の負うべき使命は大きいのだ。須すべからく節操あるべし」とする宮田重雄の記事であった。ここでも朝日新聞が、あらぬ疑惑の捏造に加担していたのである。
  藤田は、こうした国内画壇の内輪もめに嫌気がさしたのか、敗戦の翌年からパリに戻ることを望むようになった。フランスからはすぐにビザがおりたが、日本側からの出国許可がなかなか降りない。そこで藤田は、まずアメリカにわたってからパリに行くことにした。ところが今度は妻の君代の出国許可が降りなかったという。それらの原因は不詳だが、ともかく藤田は単身で先にアメリカにわたり、1949年3月になってようやく君代とアメリカで合流して、ようやくともにパリに向かった。
  1949年アメリカに向かうとき、藤田は以下の言葉を残している。
「絵描きは 絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界水準になって下さい」
  このようなゴタゴタをともなう藤田の渡米・渡欧は、またしても日本の画家たちの反感を募らせた。朝日新聞をはじめとしてジャーナリズムは戦争犯罪を逃れるための逃避行と報道した。

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國重惇史『住友銀行秘史』講談社

 偶然この本が話題となっているのを知って購入した。
 読んでいるうちに、あのバブルのころをかなり鮮明に思い出した。私はちょうどこのころ、企業グループで新たに設立するシンクタンクへ出向した。その辞令をもらった副社長から「最近は経済が急変している。フローの意味が著しく減って、ストックが異常に重みを増している。その様子と原因・要因を調べて理解してこい」と言われた。
 異常な景気過熱とともに、インフレが進み、なかでも不動産価格・地価が急騰して、ささやかな土地、ちっぽけな一戸建て住宅が、軒並み1億円の大台を超えた。私たちのようにまっとうにサラリーマン生活をする者にとって、一生費やしてもそこそこの一戸建てマイホームはとても持てそうになかった。その一方で、少し目先の効く(そのように見えた)人たちは、いとも簡単に億円単位の収益を獲得した。目に見えて物価が上昇するので、たいていの人たちは日常的に高額の買い物や消費を平気でしていた。
 イトマン事件はそのような環境のなかで発生した。老舗の中堅繊維商社であったイトマンが、創業者一家の経営者が絶えたのをきっかけに、メインバンクから社長を迎え、その社長も無能ではなく、当初は順調に業績を拡大した。しかし、おりからのバブルで本業とは異なる不動産に参画するようになり、その推進のため伊藤寿永光という生まれついての詐欺師をイトマンの役員に迎えてしまった。伊藤寿永光は、許永中というこれまた反社会的勢力とも関わる詐欺の専門家とつながっていた。伊藤と許という詐欺の天才に見込まれ、つけ込まれ、さんざん金づるとして利用されたイトマンは、自らの巨大な損失補填を住友銀行に頼った。伊藤と許は、今度は住友銀行を金づるにした。
 伊藤と許を除いては、イトマン事件関係者にほんとうのワルと言うべき人物は存在しない。ただ、少し小賢しく、少しケチくさく、ささやかな欲望に逆らえなかったという人たちは、たしかに少なからず存在した。その弱みを伊藤と許は巧みにつけ込み、彼らを深みに陥れていった。結果として、戦後有数の大きな経済犯罪事件となった。
 私は偶然にも、この事件関係者の何人かを間近に見て生活していた。そういう意味では、まったくの他人事とも思えないし、懐かしさすら感じる。
 この本を読んで、私自身は到底このような仕事はできないと思った。私は、地味地な製造業で堅実な技術者として過ごせたことが幸いであったと思う。まあしかし、あのバブルという背景がなかったなら、やはりこのイトマン事件も発生しなかったと思う。
 著者は、四半世紀ぶりに当時の極秘メモをもとに、この事件の裏側を克明に開示してくれた。とても貴重な貢献であると思う。ただ、事件を外から見た概要についての説明は少ないので、この本を理解するためは、多少イトマン事件についての予備知識が必要だろう。さらに、やはりバブル時代の雰囲気をほんとうに理解できない限り、この事件に対するほんとうの理解はむずかしいと思う。

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アメリカ大統領選挙に思う

  11月9日の夕方、トランプ氏がアメリカ大統領選挙に勝利した。これは私にとって、7月はじめの英国EU離脱国民投票と同様に、とても意外であり、また大きな懸念を引き起こす結果であった。
  トランプ氏が勝利した要因について、今頃になってさまざまな人たちが発言しているが、やはりもっとも大きな原因は、オバマ政権に対するアメリカ国民の不満であろう。オバマ大統領は、演説を得意とする「言うだけ」のリーダーであった。ほとんどなにも実行せず、アメリカの地位と威信を漸減させ、国際的にはアメリカの関与の低下を顕在化して、ISの発展、中国の増長、ロシアの暴挙などを招いた。国内に対しては、ジャーナリズムの基盤でもある中間層や、一部の不法移民やまじめに働かない人たちにケアをした反面で、経済的下層の人たち、普通にまともに働き納税して黙っていた多くの人たちを放置した、少なくともそのように捉えられたことが問題である、とされる。リベラルというより典型的左派のマイケル・ムーア監督が、忘れられた階層をまともに取り上げた偉大なリーダーとしてトランプを応援する演説をしたこともあった。
  さらに関連するが、国民の切実な変革への希求があったようだ。オバマ政権閣僚のヒラリー・クリントンでは現状からの変化がまったく期待できず、もううんざり、というイメージが、とくに女性を含む若年層に強かったようだ。
  それにしてもである。英国の国民投票といい、今回のアメリカ大統領選挙といい、メディアが報道する情報がいかにいいかげんか、あるいは著しく偏っているか、という事実に改めて呆れ返る。全米100社ほどのメディアのうち、共和党を支持するものは1割以下、トランプを支持したのはわずかに1社だったという。メディアは、公正・真実の報道と謳いつつ、実際には自分が支持する勢力に不都合なこと、不愉快なことは報道しない。われわれは常にそう実態をしっかり認識しつつ、常に情報を吟味して判断する必要がある。
  いわゆる識者というのも、ほとんどアテにならなかった。国内でトランプの勝利を明確に予言していたのは、元大阪市長の橋下徹氏と超ベテラン・ジャーナリスト 木村太郎氏のみであった。
  私は保守派だから、どうしてもトランプのような破天荒な人物が大統領になることに、不安と懸念を禁じ得ない。たとえば、アメリカ・ファーストで外国の防衛には深入りしないと発言するトランプに対して、あと半年も経たないうちに中国軍が尖閣諸島に上陸して、トランプの出方を試す可能性がある。そのとき、わが国がどう対応するのか、すべきなのか、それこそ政治家は深く真剣に議論すべきである。議員のつまらぬ失言などで揚げ足をとって審議が停止する、などという怠慢で馬鹿げた態度はまったく国益に反するのである。
ともあれ外国のリーダーをわれわれが選べるわけではないから、よくも悪くも与件として、それを前提条件として、日本のこと自分のことを考えて行動していかねばならない。わが国の政治も、新たな厳しい試練が課せられたということだろう。

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藤田嗣治展 兵庫県立美術館 (3)

藤田の新しい展開
  藤田は、1931年には新しい愛人マドレーヌを連れて、自分の個展を開催するために南北のアメリカ大陸に旅行した。この展覧会ではこれ以降、さきの大戦の戦中までを「さまよう時代」とするが、作品を見る限りでは、藤田が自信喪失したり、スランプに陥ったようにはまったく見えない。たしかに色彩はぐっと増加して、もはや乳白色に拘らなくなっている。しかし、いざ描写に注力しようと思ったらただちに写真のような描写もできるし、タッチを少し荒々しくして新鮮な雰囲気を出すことも、日本画風の表現も自由自在達成できる、という技能には感心する。1932
  アルゼンチンのブエノスアイレスでは、6万人の観衆が展覧会に訪れ、サイン会には1,000人以上が列をなしたという盛況ぶりで、引き続き高い人気を博していたのであった。
  4人目の妻となったマドレーヌは、しかし急逝してしまう。1934年に日本に帰国した藤田は、日本の風俗を絵に描くが、すでに長い間外国に過ごしたあとであったため、彼の日本人風俗を見る目は、ほとんど外国人の目であった。それがために、日本人から「藤田はまるで外国人だ」と反感を買うこともあった。
  1935年には25歳年少の日本人女性 君代と知り合い、5度目の結婚をする。この君代とは、以後生涯連れ添った。東京での生活は、アトリエも囲炉裏・自在鉤をもつ純粋な和風とし、徹底した日本人風の生活を送ったという。
  藤田を迎えた日本側の絵画市場も複雑であった。日本の絵画愛好家の趣向は、藤田の描く中南米の風俗や外国人が見たかのような日本の風俗に不満であった。さらに戦争の影響もあり、どうしても西欧風を感じさせる藤田の絵画は「敵性絵画」として忌避されることもあったという。藤田は、日本にいて孤立するようになった。

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藤田嗣治展 兵庫県立美術館(2)

乳白色の裸婦
  このころに、日本画的表現と日本画の画材からヒントを得た独自の乳白色の表現を確立し、その独創的表現方法から高い評価を得るようになった。藤田は、セルフプロデュースにも努めて、日本画の面相筆という細い毛筆を手に持ち、おかっぱ頭に丸眼鏡という独特の風貌を自画像としてアピールすることもした。こうした名声とユニークさとで、藤田はパリでも数少ない成功した画家、高名な画家となった。1920年代、藤田が30歳代後半のときである。
1923
  このころの作品のひとつに「五人の裸婦」(1923) がある。5人の裸婦は、それぞれ寓意をもち、布をもつ裸婦は「触覚」を、耳をさわる裸婦は「聴覚」を、手を口に触れる裸婦は「味覚」を,犬をしたがえる裸婦は「嗅覚」を、そして中央で正面を見据える裸婦は「視覚」を、それぞれ表すという。
  この他にも「乳白色」を特徴とする淡い色調の裸婦の作品が多数展示されている。あらためてじっくり眺めると、乳白色、すなわち白っぽい裸婦の背景は、やはり乳白色に近い白っぽい着色で、裸婦も背景もともに微妙なかすかな陰影が描きこまれている。裸婦はその絶妙なかすかな陰影で驚くほどの豊かな量感・立体感が現れる。一方背景は、これも微妙なアンジュレーションを描きこむことで、裸婦とまったく異なる質感を現し、裸婦のなめらかさと量感を強調することに成功している。このあたりの描写戰略とそれを成功させる技巧は、さすがである。
  展示されている絵に「青衣の少女」(1925)という作品がある。これは、この絵のモデルの少女が、父にサプライズ・プレゼントをしたいと藤田に自分の肖像画を頼んだが、幼くもあり価格を破格に安くしてもらったという。少女の父への心情に感じた藤田は、よろこんで安価で絵を描き、無事少女は父に贈呈した。しかしあとで顛末を知ったその父は、その倍額をさらに藤田に支払ったという。当時の藤田の高い人気が窺えるエピソードである。
  しかし、藤田は高い人気を得る一方で、その独特の風貌や業界での高評価への嫉妬などから、毀誉褒貶の激しい画家でもあったようだ。こうした生活環境の急激な変化もあって、2人目の妻とは別れ、やがて藤田は「ユキ」とあだ名したベルギー出身の学生モデルと親しくなった。リュシー・バドゥというこの女性は、肌が雪のように白いということからの銘名らしい。この人をモデルとした絵も展覧会に出ている。教養もあり美しい女性であったが、いささか酒癖がわるく、またフランス人の詩人と愛人関係を続けたこともあり、藤田と結婚したものの長くは続かなかったようだ。
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藤田嗣治展 兵庫県立美術館(1)

ヨーロッパ留学まで
 兵庫県立美術館で「藤田嗣治展」が開催されたので、真夏の酷暑に堪えて、家人とともに神戸に出かけた。今回は「生誕130周年記念」と題されているが、ちょうど10年前のやはり真夏、京都国立近代美術館で開催された「生誕120周年記念」の「藤田嗣治展」を鑑賞したことを思い出す。1910
  藤田嗣治の絵は、なんど見てもよいので、ためらわずに来たのである。家人も、藤田嗣治のファンである。
  藤田嗣治(1886~1968) の生涯の概要については、すでに珈琲ブレイク45で記したので重複をさける。今回の展覧会でとくに印象深かったことを軸に、備忘録として記しておく。
  藤田は、富裕な軍医、それも森鴎外を継いで軍医総監に登り詰めた父の四人兄弟の末っ子として、富裕な学生時代を送った。東京美術学校に進学して黒田清輝に師事したが、当時はわが国美術界がヨーロッパの印象派をターゲットに改革中であり、黒田からは「明るい色彩」「西欧的な画風」を強く求められて、藤田は反発したという。卒業制作で「自画像」を描いたが、いささか古典的な暗い印象の絵であったためか、どうみてもしっかりした技巧が感じられるのにかかわらず評価は下位という厳しいものであったという。
1917   1910年に東京美術学校を卒業した藤田は、まもなく女学校の美術教師であった鴇田登美子と出会い結婚した。父にも絵描き志望を認められ、幸い富裕でもあったので、藤田はヨーロッパ留学を望み、1913年からパリに留学することになったが、どういうわけか単身で留学し、そのためもあって鴇田登美子とは1年半あまりの短い結婚生活に終わった。
  バリのモンパルナスに済むようになった藤田は、まもなくアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと友人になった。さらに彼らを介して、後のエコール・ド・パリの中心となるジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと親しく交友を結んだ。こうして、ヨーロッパの美術界が、日本でもてはやされていた印象派にとどまらず、自由でもっと進歩的・開放的であることを知った藤田は、独自のスタイルを模索しはじめた。古典的な画風を取り入れて描いた作品のひとつとして、今回展示されている「収穫」(1917)は、このころの作品である。1929
  パリでの生活をはじめてわずか1年後には第一次世界大戦がはじまり、日本からの送金も途絶え、戦時下では絵もさっぱり売れなくなり、生活は困窮した。2年間ほどそういう状態が続いたが、やがて戦争も収まり、ようやく生活も改善に向かったころ、藤田はフランス人モデルのフェルナンド・バレエと2度目の結婚をした。しばらく後に、初めての個展を画廊で開いたが、さいわい著名な評論家たちの高い評価を得て、絵も少しずつ高い値がつくようになった。
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坂口安吾『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』

  友人のコメントがきっかけで、坂口安吾『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』岩波書店、2008 を読んだ。解説によると、坂口安吾の全期間にわたる代表的エッセイが精撰収録されている、という。
  370ページ近くにわたる分厚い本だが、坂口安吾の言いたいことは一貫していて、人間には頭脳があり、知識があり思想があり倫理があるが、その一方で肉体があり苦悩があり悲哀がある。この頭脳と肉体の両面にわたっての思想であり感情であり情緒でなければ本物ではない、というものである。そしてそういう本来的に多面性をもった人間の「孤独」から「本質」や「生きる意味」を絞り出すことこそが小説あるいは文学である、とする。この視角から、小林秀雄、徳田秋声、志賀直哉、島崎藤村などを次々に批判する。その批判の舌鋒は宮本武蔵にまで及ぶ。
 表題作のうち「日本文化私観」については、私はさほど感銘を受けなかったが、「堕落論」はこれが書かれて発表された時代背景を考えるとき、大きな反響を獲得したことはよく理解できる。さきの大戦で、政治のため、また戦争を継続・維持しようとする社会のため、坂口安吾たち国民はさまざまな規範を外から強いられて、坂口安吾が「人間の本質」というところのものを抑制され踏みにじられた、という意識が強かったのだろう。そういうさまざまな外部からの柵を否定して、人間本来の姿・状態を取り戻すことこそが安吾の言う「堕落」であり、すなわち理不尽な外部からの規準の限りにおいての「堕落」であって、もちろん一般的意味での堕落ではない。
 坂口安吾という人は、小説家だけあって文章はしっかりしているし、用いる言葉・語彙も慎重かつ正確に選ばれているし、実に緻密で誠実な文学者であると思う。「無頼派」と呼ばれたらしいが、このエッセイ集だけでも、単なる「淪落者」あるいは「無頼者」にほど遠いことはわかる。頭脳も肉体も理性も感情もある人間の本質の立場で考え、捉えるべきだということを主張しているのであって、結果として坂口安吾の言っていることは実にわかり易いし、納得性も高い。読み手にとって、安吾の主張の多くは、受け入れることが容易だろう。
 その反面、人間の多面性に対して常に全面的に配慮し覆うような立場という視角は、読み手にとってわかり易いけれども、大部分の主張には既視感がある、誰にとっても陳腐である、という傾向が必然的にともなう。大変な熱弁で説いていて、ひとまずなるほどとは思う。誰でもがなんとなく感じたり、思ったりしていることを、文学者らしくわかりやすい文章にしてくれている、と感じることも多々ある。しかし優れたエッセイにある「はっ、とする」、「目から鱗」などという、感動する、感銘を受ける、というような、思いがけないことに出合うような、新鮮さを感じるような指摘が少ないのである。
 坂口安吾は人間の多面性を常にベースに置くべきだというが、人間の思考はときに意図的に偏った視角で人間の特定の部分的側面を掘り下げることで、はじめて新鮮な事実や真理が明らかになることもあるのではないだろうか。
 あと相対的には些細なことだが、坂口安吾は「文章が美しいなど意味がない」という。しかし、私は永井荷風や福永武彦の美しい文章が好きであり、そのような美文はこの後も作家に期待しており、安吾のこの意見には同意することができない。
 全編を読んで、それなりに充実した時間であったけれども、坂口安吾のエッセイは、後々まで印象に残り記憶に残りそうなところが意外に少ないのも事実である。

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