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2017年1月

彫刻大集合 兵庫県立美術館(3)

原有司男 など
  篠原有司男「モーターサイクル・ママ」(1973) がある。この人は、モーターサイクルに関わる作品が多数あるが、そのうちのひとつである。篠原有司男は、詩人の父と日本画家の母の子として昭和7年(1932) 東京に生れた。東京芸術大学に進学して、林武に師事して洋画を学ぶが、やがて中退して昭和35年(1960)「読売アンデパンダン展」で活躍していた吉村益信、赤瀬川原平、荒川修作らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を新宿ホワイトハウスで結成し、独自の前衛的な芸術創作活動を活発に行った。頭を「モヒカン刈り」にして、週刊誌のグラビアに掲載され、またテレビにもよく登場して有名となった。昭和39年(1969)、ロックフェラー三世基金の奨学金を得て、妻子とともに渡米しニューヨークに在住した。Photo
  そこでゴミ置き場から拾い集めた段ボールで制作したのが、この作品である。デフォルメされているが、いかにも高速でぶっとばしそうなバイクに乗っている人物は、半身が虹色の服を着た男性、半身がグラマラスでエロティックな裸体の女性である。男性が虹色の服を着ているのは、ゲイを現すという。当時はアメリカでも、現在いうところのLGBTは認められておらず、こうした異端的な人物を取り入れて、体制批判をしているようだ。
  内田晴之「静止 82-1」(1982) というおもしろい作品がある。見掛けは重量感がある金属の直方体が2つ、実はアルミ製でおそらくは軽量だろう。ひとつの直方体の上にもう一つの直方体が乗っかり、これがほとんど接合面積がない突き合わせで繋がっている。実は、空洞のアルミ直方体のなかに強力な永久磁石が内蔵され、その磁力の斥力で浮かんでいて、非常にあやうい静止が表現されている。実際、この地で地震が発生したとき、上側の直方体は、ゆっくり振動していたそうである。単純そうに見えて、実に奇抜な作品である。
  以上の他にも、いくつか興味深い造形があった。細部を省略したヴォリューム感で暖かみを表現するヘンリー・ムーア「母子像」(1978) と、その長年の親友であるというバーバラ・ヘップワースの「曲がった形」(1961)、鋼線と不織布で構成され風によってゆらゆら動くモビール彫刻を連作している新宮晋、などなどはこれからも是非作品を鑑賞したい。
小規模な企画展だが、私にとっては新しい発見があり、たのしい鑑賞であった。

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彫刻大集合 兵庫県立美術館 (2)

多彩な彫刻の前衛たち
  流政之の「よそおいの儀式」(1977) というステンレス製の作品がある。中程がくびれて、美しい女性が正装をしたような、美しいフォルムであり、スポットライトを浴びて白壁に移ったシルエットもとても美しい。流政之は、サムライ・アーティストとも呼ばれる世界的な芸術家・作庭家である。大正12年(1923) 長崎に生れ、東京・京都に育ち、立命館大学に進学、海軍予備学生を経て零戦搭乗員として終戦を迎えた。戦後は、世界を放浪しつつ独学で彫刻を学んで、以後さまざまな作品を創作してきた。昭和50年(1975)には、ニューヨーク世界貿易センターのシンボルとして約250トンの巨大彫刻『雲の砦』を創作したことで有名になった。彼は、彫刻のかたわら庭園も設計しており、東京天理教館庭園、皆生温泉東光園庭園などが知られている。Photo
  山口勝弘「作品(ハート)」(1963) がある。鉄ワイヤで作ったハート型の枠形に、ドンゴロスの布で覆った造形作品である。従来の「彫刻は石・金属などでできた固いもの」というステレオタイプに対抗して、敢えて柔らかい材料で造形を創作した。山口勝弘は、昭和3年(1928) 東京都に生れた前衛芸術家で、彫刻などの造形作家として、さらにわが国のメディア・アートの先駆者としても知られる。後の日比谷高校の前身東京府立一中を経て日本大学工学部と法学部に学び、美術を正式に学んだわけではなかったが、学生時代から造形芸術作品を制作していた。大学在学中の昭和23年(1948)、グループ展で抽象絵画を発表し、本格的に創作活動に入った。大学卒業後は、詩人滝口修造、造形作家北代省三、音楽家武満徹たちと、インターメディアの活動を目指して芸術家集団「実験工房」を立ち上げた。「実験工房」の活動は、音楽・美術・文学などに新たなテクノロジーを積極的に導入して、芸術の諸領域の融合を目指すもので、当時の芸術表現の最先端をいくものであった。昭和45年(1970)の日本万国博覧会では、三井グループ館の総合プロデューサーを務めた。以後、ビデオ・メディアを用いた表現活動を展開し、わが国この分野のリーダーとして活躍してきた。そのかたわら、筑波大学教授として、芸術専門学群総合造形領域において後進の指導にあたった。

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彫刻大集合 兵庫県立美術館 (1)

ロシア・アヴァンギャルド ガボ・ナウム
  兵庫県立美術館の「2016県美プレミアムⅢ 彫刻大集合」を鑑賞した。
  オーギュスト・ロダンとその弟子たちの作品からはじめて、現代彫刻のさまざまなヴァリエーションと発展について、簡潔にわかりやすく整理して展示したものである。41pptosm8vl
  まずガボ・ナウムの「構成された頭部No.2」(1966)がある。この兵庫県立美術館が阪神淡路大震災復興事業の一貫として2002年に開館したとき、美術展示室に向かう玄関のような場所に、この彫刻が展示されていた。私たち兵庫県立美術館を訪れる者にとって、長らく親しんできた彫刻でもある。ガボ・ナウムは、ロシア・アヴァンギャルドを代表する美術家・彫刻家である。1890年ロシアに生れ、1910年ドイツ・ミュンヘンで美術に関わらない薬学・工学・数学など、いわゆる理科系の学問に励んだという。その最中に、ヴァシリー・カンディンスキーとフランツ・マルクが提唱した「青騎士」を知り、深く感銘を受けた。1913年ころ、兄が滞在していたパリを訪れ、キュビスムに影響を受けた。まもなく第一次世界大戦のため、デンマークを経てノルウェーのオスロに移った。1917年のロシア・2月革命をきっかけとしてモスクワに戻ったが、1923年にはスターリンから逃れるために再びドイツに渡り、ベルリンに滞在した。ここでバウハウスとも交流し、創作活動を展開した。1932年以降は、パリ、ロンドンを経てアメリカに活動拠点を移した。この「構成された頭部」は、ガボ・ナウムの代表作ともされる美しい作品である。創作の最初、ガボ・ナウムは、これを20センチメートルくらいのごく小型の紙模型として試作し、そのあと鉄を溶接した構成でこの2メートルを超えるような大きな作品として完成したという。
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トランプ新大統領のアメリカ

 日本時間の1月21日未明午前2時、アメリカ合衆国に新大統領としてドナルド・トランプ氏が就任した。その模様がテレビを通じて報道され、わが国のメディアでもさまざまな議論が報道されている。
  「世論調査」によるとトランプ氏の支持率は40%程度と、前代未聞の低いものである、という。たしかに相対的には低いのだろう。それでも「世論調査」の数字そのものが疑わしいという事実は、大統領選挙を通じてわれわれが目の当たりにしてきたばかりである。アメリカのメディアによる世論調査では、大統領選挙の結果が判明するときまで、ついに一貫してヒラリー・クリントン候補優勢のままであった。新大統領就任式のすぐ前に行われたバラク・オバマ氏の「最後の記者会見」がやはり報道されていたが、オバマが去るにあたり涙を流して別れを惜しむ記者があり、オバマ氏からもまた記者たちに対して何度も感謝の言葉があった。美しい風景ではあるが、いかにこれまでオバマ=民主党政権とメディアの関係が親密であったかを如実に現すものでもある。アメリカにおいても、メディアの中立性・公平性などは期待できそうにないことは、大統領選挙中の「世論調査」で証明された。史上空前の低支持率とはいえ、少なくとも選挙において、多数派の支持を得たからこそトランプ氏が大統領に選出されたのである。そういう事実を重視しないで、あいもかわらず「かなり偏向している」と考えざるを得ないアメリカ・メディアの「世論調査」の数字や見解のみをとりあげて「大変だ」「変だ」と報道しているわが国のメディアについても、その浅はかさと視野の狭さを指摘したい。
 今回の大統領就任式では、「トランプを大統領として認めない」とする人たちのデモや、一部暴力沙汰までが報じられた。私はこうした行為は、民主主義国家の国民として断じて恥ずべきものであると思う。いかなる結果であろうが、自らも認めたきちんとした制度と方法に基づいて選挙を行い、その結果として選出された大統領である。結果が出てから、その当選者が気に食わないとして叫び、暴れるのは明らかに不当で愚かである。こんなことをしていると、たとえば中国など民主主義的な手続きを経ないで政治を行っている国から、民主主義もあんなにいいかげんで危ういものだと批難されかねない。私は少し前の日本の民主党政権に徹底して反対であったが、それでも選挙で民主党が勝利してしまったからには、あの鳩山由紀夫や菅直人の首相ですらやむを得ないものとして認めていた。合意したルールのうえでの結果はいかなる結果であれ認めて受け入れるということは、民主主義では必須である。
 関連して、このたびの就任式に、アメリカ民主党議員が60名余りも参加をボイコットした、という。なんとも情けない話である。アメリカ民主党も、この程度のものなのか。
  そして、新大統領トランプ氏の最初の演説である。この内容は、率直に言ってみすぼらしいものであった。「アメリカを偉大にする」と言えば言うほどアメリカを矮小化する結果となっている。まるで開発途上国のリーダーのような演説であった。
 ただ、このようなトランプ氏が過半数の支持を得て当選した、という厳然たる事実がある。それは、これまでアメリカが進めてきたアメリカの大国としてのリーダーシップ重視やポリティカル・コレクトネス、つまりきれいごとの主張が、多くのアメリカ国民にとって、うんざりするものとなってきた、ということであろう。政治には理念が在らねばならない、あることが望ましい、とは誰もが考えるが、国民の多数にとってその結果が自分たちにまったく響いてこない、という焦燥感・倦怠感が蔓延していたのであろう。アメリカの多数の人々が、そういう感覚になっている、という事実を、私たち外国人もよく認識してつきあう必要があるのだろう。
 そのうえで、わが国としてどうすべきなのか。トランプ氏の演説では、かなり極端な内向きの姿勢が表明されている。日本への防衛協力についても「タダ乘り論」的な発言もある。日本にとっては望ましくないけれども、他国の事情をとやかくいうこともできない。日本はこの際、とくに安全保障に関して、基本的なことから考え直してみる必要があるだろう。さきの大戦後70年以上、わが国はさいわいにして平和を継続することができた。その要因は何であったか。「平和憲法」とされる日本国憲法の第9条による非武装・不戦の誓いが貢献したのか、それとも日米安全保障条約によるアメリカの軍事力の傘が貢献したのか、日本国民がまじめに向き合って深く考えてみることが必要である。もし日米安全保障条約が平和の維持にとって、より大きな要因であると考えるなら、憲法を改正して自主的な防衛力をきちんと確保し、そのうえでアメリカなどとの連携を図っていくことが必要だろう。防衛大臣が「防衛費」を「軍事費」と言い間違えたとかで、貴重な議会の時間を消耗したり、自称大新聞が大々的に報道したり論じたりするようなピントが外れた安穏とした「言論」ばかりではすまされない事態が近づいているのではないか。
 私は政治的には保守派であると思っており、したがって予測しがたい事態、リスクについては最小化を図るべきだと考えるので、もし自分がアメリカ人だったとしたらトランプ氏には投票しないだろう、と思っていた。しかしアメリカの民意がトランプ氏を当選させたのであるから、われわれはトランプ大統領を前提に考えて行かざるをえない。日本人の多数が無意識のうちにアメリカの軍事力に依存していたのではなかったか、そういう基本的なことを再考するよい機会となるのではないだろうか。

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池内恵『現代アラブの社会思想』講談社現代新書

  わが国ではイスラム教の宗教や文化について、なかなか良い情報が得られないが、そのなかで冷静かつ説得的な論評をメディアに発している池内恵氏の書を少し学んでみることにした。2001年末ころの脱稿で、9.11事件直後の情勢を背景に論じられたものである。
  イスラム教が主要な宗教となっているアラブ世界にとって、最大の画期となったのは1967年6月の第三次中東戦争(六日間戦争)でアラブ側がイスラエルに完敗したことであった。これによりそれまでアラブ世界の統合を主張して期待の星であったナセルの威信がゆらぎ、1970年のナセルの死によって、アラブ世界の希望・アラブの夢が喪失した。
  このあと急速に勢力を伸ばしたのが急進的なマルクス主義であり、シリアのヤースィーン・ハーフィズとサーディク・ジャラールはシリアの民族主義政党バース党やエジプトのナセル政権がプチ・ブルジョアに染まった政権であったがためにイスラエルに敗戦したと主張した。マフムード・フサインは「絶えざる人民の蜂起」を唱え、もしエジプトに人民勢力の政権ありせば、決してイスラエルに負けることはなかったと主張してマルクス主義の普及を図った。マルクス主義革命の敵を、イスラエルとそれに染められたアメリカと設定し、中国の文化大革命、ベトナム戦争のベトナム共産党を賞賛した。彼は、急進的マルクス主義とアラブ民族主義とを革命の二本柱とした。1967年からしばらくの間は世界的にも学生運動が高揚し、1968年5月にはフランス・パリで五月革命事件も発生した。マルクス主義の伸長と普及には、当時の世界情勢も加勢した。
  しかし、五月革命を経て、ついに1990年代以降はマルクス主義への期待もできなくなり、イスラム主義は、絶望的な迷路に陥ってしまうことになる。
  イスラム教は、コーランの記述が基本であるが、そこには革命の具体的手続きは記されていない。このためアラブ世界では、「イスラーム的解決」論として、解決をもたらすための方策ではなく、「既に問題が解決した状態」を描写することが重視され、そこにみちびく道筋については、驚くべき水準の楽観論が支配するようになった。このことが現実問題へのイスラームの対応において、きわめて悲惨な結果をもたらすことになる。
  イスラム主義は、その理想の世界実現に向かって運動を力説するが、それは①現状にたいする強い不満と批判をもたらし、パレスチナ問題のイスラエルやアメリカとの和平に徹底して反対する、②スーダンでは軍事クーデターで政権掌握を達成して急進的なイスラム主義改革を断行するが、激しい内戦を引き起し、現在にいたるまで悲惨な殺戮が繰り返されている、など成功しない政権担当勢力としての活動、③外敵への抵抗勢力として、イスラム主義を唱えたジハード、自爆テロなどを実行する、などをもたらしている。
  後半では、イスラム主義が考える「終末論」について、ユダヤ教にはじまる詳細な展開が説明される。さらにイスラムの指導者や教徒たちが、コーラン、ダニエル書、ハディース集などの記述を、現在の政治・社会情勢に結びつけ、さまざまな陰謀論が喧伝されていることを解説している。
  私は、東南アジアで実際に仕事をし、イスラム教徒の人口としてはむしろアラブよりはるかに多いインドネシア、バングラディシュ、パキスタン、マレーシアなどのイスラム教徒の人たちと交わる機会があった。そして、何故中東でのみイスラム教徒がかくも過激になるのか理解しかねていたが、この書によりかなり理解できるようになった。
 イスラム教徒がなぜ無宗教を宣言するマルクス主義に親しく接近したのか、いささか疑問であった。しかしこの本によると、イスラム教とマルクス主義に少なからず類似点もあるように思った。「イスラーム的解決論としては、解決をもたらすための方策ではなく、既に問題が解決した状態を描写することが重視される」というイスラム教の実態は、マルクスもやはり具体的な共産主義社会への移行手続きについてほとんど述べていなかったという事実と似通っている。ただ、マルクス主義は一応「経済の段階的発展説」を提示して、実現性は反証されてしまったものの、ひとまず道筋らしきものを述べていた。イスラム教のように、ほとんど無いよりは相対的にはマシだったかも知れない。さらに敢えて言及するなら、マルクス主義もイスラム教も、いずれも「問題が解決した状態」であるべき「理想的な状態」ですら、さほど鮮明に説得的に提示できていなかったのではないか、とも思う。いずれにしても、具体性の乏しい夢想的な楽観にもとづく運動は、イスラム教もマルクス主義も、悲惨な結果を招くことを歴史的に実証している。
  まあともかく、新書として簡潔に明晰な解説がされていて、とても良い書であると思う。

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京都一乗寺詩仙堂(下)

2   59歳のとき、比叡山山麓の一乗寺村のこの地に凹凸窠(おうとつか)と名付けた山荘を建て、終の棲家と定めた。凹凸窠とは、でこぼこした場所に建てられた住居という意味である。趣向を凝らした広い庭園は、丈山がみずから設計して長い時間をかけてじっくり造園していったものである。この山荘のひとつの主要な建物が丈山自ら描いた詩人の絵を掲げた「詩仙の間」であったことから、やがて「詩仙堂」と人々から呼ばれるようになった。正式名は「六六山詩仙堂丈山寺(ろくろくざんしせんどうじょうざんじ)」と号する曹洞宗の寺院である。
 江戸時代後期の、やはり文武に優れた大名として高名な肥前国平戸藩主松浦静山(まつらせいざん)によると、静山と同時代の高名な儒者で幕府文書行政の中枢を担っていた林述斎は、丈山を文武兼備えた模範的人物の典型と賞賛し、丈山の遺蹟であるこの詩仙堂をけっして廃絶してはならないと、文政4年(1821) の石川丈山百五十回忌を前にして、詩仙堂の修築を行い、その永続のために広く募金を呼びかけた。さらに三河国碧海郡泉村にある丈山の居址に、その子孫の都築氏の依頼を受けて「石川丈山故居遺址碑記」を書いたと伝える。Photo
  私が石川丈山を知ったのは、富士川英郎『江戸後期の詩人たち』筑摩叢書 を読んだのがきっかけであった。この本のなかで、石川丈山はわが国の近世漢詩の先駆的大家であると記されていたのが印象に残った。
  このように永きにわたって広く尊敬を集める人物の遺蹟が、こうして京の静かな地に今も残っているのは、同じ日本人として誇りに思える。
  京都はすばらしい地であるが、唯一の欠点は観光客をはじめ常に人が多すぎることである。しかしこの詩仙堂は幸いにしてまだ観光ジャーナリズムに乗っていないためか、訪れる人がごく少なく、京都郊外の風情と長い歴史の雰囲気に浸れる貴重な場所である。

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京都一乗寺 詩仙堂 (上)

  秋の一日、京都北部の一乗寺を散策した。
Photo   この地を訪れるのは、ほんとうに久しぶりである。京都はごく近いと思っていて、かえって稀にしか訪れないところも多い。もう半世紀も以前、弟が大学に入学することになり、下宿を一乗寺に決めたことから、その引っ越しを手伝いにこの近辺に来たのが最後であった。当時は、この付近も随分鄙びていて、下宿近辺にはお店がごく少なかったように記憶している。いまでは京都郊外とはいえ、かなり充実した落ち着いた住宅地となっている。
  さて、詩仙堂を訪れる。歩いていて見逃してしまいそうなささやかな門がある。そこを入って石段をのぼっていくと、「老梅関」という門があり、その先に詩仙堂の玄関がある。
  さすがに半世紀も経ったためか、私には建物についての記憶はほとんど残っていない。ただ、庭園についてはかすかに記憶が戻ったような気がする。1
  この山荘は、江戸幕府初期に徳川家康に仕えた文武の達人として高名な石川丈山が建てたものである。戦国時代末期に三河国の徳川家譜代家臣の家に生れた石川丈山は、慶長3年(1898) 徳川家康の近侍となり、大坂夏の陣に参戦したが、功を急いで抜け駆けし家康に厳しく譴責されるという事件を経験した。家康が石川丈山に期待して可愛がっていることが周知されていたので、敢えて厳しく接したためとも伝える。これを機会に石川丈山は浪人となり、妙心寺に隠棲して漢詩に耽っていた。親交のあった林羅山の勧めにより藤原惺窩に師事し儒学を学び、また駿河清見寺の説心和尚に禅を学んだ。武芸にもきわだって優れて名声があり、士官の誘いも数多あったが、一途で頑固な性格もあって一切応じなかったという。しかし後に病気がちな母を養うために紀州浅野家に仕え、浅野家転封に付従って安芸国に移った。母の死の後浪人に戻り、京に帰ってふたたび隠棲した。

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「ハナヤ勘兵衛の時代デェ」 兵庫県立美術館

  兵庫県立美術館の小企画として「ハナヤ勘兵衛の時代デェ」という写真展があった。
Photo   「ハナヤ勘兵衛」とは、昭和初期から戦後にわたって兵庫県芦屋市を拠点に、写真機材店、カメラ設計者、そして写真家とし活動した桑田和雄の写真家としてのニックネームである。桑田和雄は、明治36年(1903) 大阪市西区に生れた。大正時代の17歳のとき父からカメラを与えられ、写真に強く興味をいだくようになり、やがて写真家をめざすようになった。大阪の写真機材商で見習いとして働くかたわら、写真の修行として上海に出かけて写真を撮った。昭和4年(1929) 富裕層の多い芦屋市に目をつけ、ここで写真機材店「桑田商会」を開業した。写真家としては「ハナヤ勘兵衛」を名乗って、当時芦屋を中心に活動していた中山岩太、紅谷吉之助、高麗清治、松原重三たちと「芦屋カメラクラブ」を結成した。当時は、世界的に新興写真運動が活性化しつつあった時期であった。
  戦後の昭和22年(1927) に、京都大学卒の技術者西村雅貫とともに「甲南カメラ研究所」を設立し、カメラの設計にも参画した。ここで開発されて話題となった小型カメラが「コーナン16」であり、製造はミノルタが行った。「コーナン16」は、私も中学生のころ、カメラに興味をもっていたときに実物に触れたことがあった。また、甲南カメラ研究所は、私が現役で技術者として働いていたとき、ささやかなコンタクトがあった。Photo_2
  ハナヤ勘兵衛の代表作とされるのが、昭和12年(1937) の「ナンデェ!!」である。これは、同一人物の動きをブレで表現し、少し動きのずれた3つの画像を一枚に配置シモノデ、躍動的な人物の動きを表現している。
  昭和初期の街の風景や、戦中・戦後のさまざまな風景、さらに写真の現像・構成技術を駆使したコンポジション的な作品など、多様な作品群がある。
  時代の制限もあって小さな作品が多く、現代では普通になってしまった大型プリントはないので、鑑賞は目を凝らしてすることになる。写真作品から感じられるのは、感覚的に感性で撮影する、というより思索的・構成的な作品が多いように思う。
  モノクロームの作品のみだが、色彩がないことで却って想像が刺激されて、画面がいっそう美しく感じるという効果がある。
Photo_3   多数の作品が展示され、私としては、カメラに興味をもち始めた少年時代、現像などに熱中した中学・高校時代を思い出し、また子供時代の街の風景を思い出し、全体に郷愁を楽しむ鑑賞となった。
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大阪松竹座 壽初春大歌舞伎

  楽しみにしている歌舞伎だが、昨年から京都南座が修築工事となり、恒例の顔見世もなかったりして、少しご無沙汰の歌舞伎を大阪松竹座に楽しんだ。この度は中村橋之助あらため中村芝翫、その3人の子の新橋之助、福之助、歌之助の4人の一斉襲名披露を兼ねている。2017_2
 最初の演目は「吉例寿曽我」である。この演目は、正月を言祝ぐものとして延宝期(1670年代)から演じられているらしいが、河竹黙阿弥によって整理されて明治36年(1903) に上演されたものが現在の原型となっているとされる。通常は、巻狩りの総奉行を仰せつけられた源頼朝の重臣工藤祐経の屋敷で新年の祝賀行事の場に、小林朝比奈が曽我十郎・五郎兄弟の二人の青年を引き連れてきて、工藤祐経と彼を親の仇と狙う曽我兄弟とが出会う、というものである。今回の舞台では、工藤祐経本人は登場せず、所要のため来ることができない工藤祐経の代りに、その妻たる梛の葉(なぎのは)が登場し、曽我兄弟は、まだ少年の曽我箱王と曽我一万であり、また舞台は新春の屋外となっている。ここで今回襲名した新中村橋之助が小林朝比奈を、福之助が箱王を、歌之助が一万を、それぞれ演じている。初々しいがまだ声ができておらず、発展途上という感じである。それを梛の葉を演じる秀太郎が舞台を引締めている。
 二番目の演目は「梶原平三誉石切」である。鶴岡八幡宮に参詣に集った平家方武将の大庭三郎と弟の俣野五郎、そして梶原平三景時がいて、そこへ娘梢をともなった老人六郎太夫が訪れ、平家の武将大庭に向かって家宝の刀を300両で買い取ってほしいという。大庭は剣豪でかつ目利きとして高名な梶原平三に目利きを頼む。梶原はまちがいなく希有な名刀と判定するが、意地の悪い俣野が試し斬りをしないと真偽がわからないと主張し、とうとう「二つ胴」といって2人を重ねてその胴を一気に切断する、という方法が試されることになった。しかし試し斬りできる罪人はひとりしか都合できず、しかたなく六郎太夫が自ら試し斬りされることを志願する。試し斬りに臨んだ梶原景清は、二つ重ねの上の罪人の胴だけをまっぷたつに斬り、下の六郎太夫を救う。しかしこの結果に俣野・大庭兄弟は納得せず、刀の購入を断って去っていく。残った梶原景清は六郎太夫と梢に、300両が実は頼朝の再挙兵に必要な大切な軍資金であり、梢の許嫁は源氏の武将であることを聞き出す。梶原は、自分こそさきの石橋山合戦で平氏に敗れた頼朝を窮地から密かに救い出し逃がした張本人である、と告げる。そして、この刀はほんとうに希有な名刀である、と証明するために梶原は石の手水鉢をまっぷたつに斬る。梶原は、これから頼朝のために命を懸けて戦うつもりであり、この刀を300両で自分が買うと六郎太夫に告げる。梶原平蔵景時を中村芝翫、大庭三郎を雁治朗、俣野五郎を橋之助がそれぞれ演じている。
 最後の演目は、「恋飛脚大和往来新口村」である。これは一昨年ちがうキャストで上演を観たことがあり、ストーリーは知っていた。今回は、片岡仁左衛門が主人公の亀屋忠兵衛とその父の孫右衛門とをひとり二役で演じていた。こうして順に舞台が進むと、やはり仁左衛門の姿容貌と清澄なその声がきわだつ。声がよく通るうえに発音がきわだって明瞭でありセリフがとても聴きやすい。もちろん動きも美しい。やはり歌舞伎の千両役者たることを改めて確認した。
 新春公演にふさわしく、舞台設定はとくに明るく美しいものが設営されている。中村橋之助・福之助・歌之助の三兄弟も、これから経験を積んで父親たる中村芝翫の域をめざすことになる。そして将来の目標としては片岡仁左衛門のような存在を目指してほしい。

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映画『博士と彼女のセオリー』

  2014年制作のイギリス映画『博士と彼女のセオリー』を観た。宇宙物理学者で「ビッグ・バン」で世界的に高名なスティーヴン・ホーキングの半世記を映画化した作品である。
  ケンブリッジ大学で物理学を学ぶ大学院生であったスティーヴンは、同じ大学の文学部大学院に学ぶジェーンと出会い恋におちる。しかしまもなくスティーヴンは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、余命2年を宣告される。周囲が反対するなか、ジェーンはスティーヴンとともに生きることを決意し、二人は結婚する。身体の運動機能や発話機能がどんどん失われていくなか、スティーヴンはブラック・ホールやビッグ・バンに関する新しい理論や仮説を提案し、世界的に注目されるようになる。やがて二人の子供にも恵まれ、大変な苦労ながらも順調に見えた二人の生活であったが、過大な負荷に加えて子供をきちんとした環境で育てることがむずかしいなど、ジェーンのストレスは限界となる。そんななか、ジェーンの母の提案がきっかけで知り合った教会聖歌隊リーダーであるジョナサン・ジョーンズがホーキング家に出入りするようになる。そして、いろいろ想定外のできごとが発生して、ついに二人は離婚し、ジェーンはジョナサンと、そしてスティーヴンは看護士の女性と再婚する。
 ストーリーの主役は、やはりホーキング博士の妻ジェーンである。将来が見通せない絶望のなかでスティーヴンとともに生きることを選択し、命懸けで懸命にスティーヴンに尽くすが、生身の人間として主張すべきは主張し、自分の意志で行動し、徹底して自分の生き方を貫く強靱な人物である。結婚も、スティーヴンの命と引き換えに声を失う咽頭切開手術も、離婚も、いずれも常に決断はゆるぎない。彼女の決断力・行動力・忍耐力・実行力は、なみたいていのものではない。
  スティーヴンも、厳しい病気に見舞われ過酷な生活を強いられるが、ジェーンという優れた伴侶と多くの良い友人に恵まれ、ある意味とても幸運な人生である。ジェーンと出合えなかったとしたら、現在に至る70歳を超える寿命も、学問上の業績も、子供のいる家庭も、いずれも到底達成できなかっただろう。
  スティーヴンは学者として並外れた活躍をしたし、ジェーンも並外れた努力をして、ふたりで協力して大きな実績を残した。それでも現実の人生はきれいごとだけでは済まない、もっとドロドロした、生身の人間らしい部分が必ずある。この映画はそういう側面も真摯に描くことで、観るものにとってはむしろ清々しいリアリティを与えている。
  私はこの映画に垣間見える、科学や学問の長い伝統を誇るイギリスの大学や学会とそれを支える文化にも興味を惹かれた。
  映画として、なによりもスティーヴンを演じるエディ・レッドメインと、ジェーンを演じるフェリシティ・ジョーンズのすばらしい演技に魅了される。ひとつには、エディ・レッドメインはケンブリッジ大学美術史専攻の卒業生、フェリシティ・ジョーンズはオックスフォード大学卒業生であり、この映画の舞台であるケンブリッジ大学のような独特なアカデミックな舞台背景に自然にとけ込めるということもあるだろう。
 鑑賞のひとときは、実に密度の濃い2時間であって、想い出に残る良い映画であった。

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足立美術館 島根県安来市(7)

日本庭園(下)
Photo  回廊をさらに進むと、再び広大な枯山水庭を、こんどは遠くの山並みを借景として眺めることになる。さいわい今日は快晴で、庭の緑はいっそう美しい。もうすぐ紅葉の時期となるが、そのときは背景の山肌がきれいに紅葉し、庭園内の常緑樹の緑、そして枯山水の白との見事なコントラストができる。また真冬には、一面の雪景色となり、ちがった白銀の美が鑑賞できるという。
 さらに回廊を進むと、こんどは「池庭」と名付けられた池の周囲を取り囲む中庭風の庭園に至る。この場所は、この足立美術館が開館した当時は玄関があったところで、玄関を入って最初に見る庭園がここであった。いまでは入館後奥に入り込んでもっとも奥の庭となっている。池には多数の鯉が遊泳して、私たちがイメージしているオーソドックスな庭園といえるだろう。Photo_2
 そして最後に行き着くのが「白砂青松庭」と名付けられた庭園である。この美術館の代表的コレクションである横山大観の作品のひとつ「白砂青松」をモチーフに、オーナーである足立全康が自ら心血を注いで設計した庭であるという。なだらかな白砂の丘陵に大小の松をアクセントをつけて並べ、その端には池を配置し、その池の奥には人工的な滝を造り、そこから渓流が流れ落ちて池を潤すように設えられている。多数の石は、鳥取県産の佐治石を用いている。赤松と黒松の絶妙な配置も見事である。
 庭園も絵画のコレクションも、足立全康氏の鑑識眼の鋭さ、的確さを十分に示している。たった一代でここまでの芸術遺産を成したことには、心底敬服する。
  大阪府の自宅からパッケージ・ツアーのバスに乗って、日帰り旅行という強行軍で足立美術館を訪ねたが、まずまず満足のできる鑑賞であった。またもう一度、ゆっくり一日がかりでこの美術館を訪問したいと思う。[完]
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