2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
フォト
無料ブログはココログ

« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »

2017年3月

出石散策 (4)

豊岡市役所出石支所・対面所跡
 出石城跡の登城門の北側、大手町通りと内町通りが交叉するところに、豊岡市役所出石支所がある。ここはかつて出石城三の丸の場所であり、「御対面所」があった。

Photo

 出石城は、はじめは城の中央を占める本丸にある御殿に、歴代城主が居住していた。ところが、南側に有子山を背負い陽差しに恵まれず、湿気も多く、あまり快適な御殿ではなかったようだ。元禄15年(1702)武蔵国岩槻藩からこの地に転封してきた松平忠周は、三の丸のこの地に「対面所」を建てて家臣や来訪者に対して応接するようになり、やがてこの対面所に居住し執務するようになったという。応接の部屋だけでなく、やがて家老以下の武士たちが執務する部屋も整備され、出石城の実質的な中核となったらしい。以後歴代の藩主は、ここに居住した。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

出石散策 (3)

有子山稲荷神社
 出石城跡の本丸跡の東端に、さらに有子山に登っていく「お城坂」とよばれる坂があり、石段が続く。石段は157段あって、有子山稲荷神社への参道となっている。参道の両脇には37基の朱の鳥居がならぶ。鳥居の石段を登り切ったところに、有子山稲荷神社がある。
Photo
 慶長9年(1604)有子山城主であった小出吉英が新たに出石城を築城するとき、前の居城があった和泉国岸和田にあった稲荷社から分霊を灌頂して、出石城の鎮護社とした。鳥居の石段を登って御社に来てみると、境内はかなり深く雪が積もっており、本田に近づくには足元がよくなく、正面鳥居前から一礼するのみとなった。入母屋造り唐破風付きの屋根を持つ立派な拝殿である。
 この神社は出石城の城域内にあるが、藩主が旧暦2月の最初の午の日に、城の大手門を開放して、領民に城内にあるこの社の参詣を許したといわれていて、そのときは身分を問わず誰もが参詣できたという点で、近世には珍しい御社だという。
  この石段をさらに登っていくと、有子山城跡に行くそうだが、今回は時間がなかった。

Photo_3

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

出石散策 (2)

出石城跡
 出石は城下町として発展し今日に至った。まずは出石城を訪ねよう。
 この地の歴史を考える時、まず山名祐豊(やまなすけとよ)があげられる。源氏新田氏一門の由緒をもつ山名氏は早くから源頼朝の御家人であったが、頭角を現したのは南北朝期から付従っていた足利尊氏が室町幕府を開いてからであり、室町時代の守護大名として山陰地方に広大な所領をもった。当時の全国66カ国のうち11カ国を山名氏が所領としたので「六分一殿」と呼ばれた。しかしやがて有名な応仁の乱で勢力を削がれ、そのあとも出雲の尼子経久、周防の大内義興、備前守護代浦上村宗らの圧迫を受け苦境に陥った。そんななか享禄元年(1528)山名祐豊が但馬守護家を継いで、垣屋氏・太田垣氏・田結庄(たいのしょう)氏・八木氏ら但馬の有力国人衆を次々と武力で征した。 
 この山名祐豊は、天正2年(1574)有子山の山頂に東西740メートル、南北780メートルにおよぶ大きな山城を構築して拠点とした。現在は有子山城跡となっている山城である。しかし天正8年(1580)但馬を平定にきた羽柴秀吉に攻められ落城する。山名氏に代わって城主となった秀吉は、本格的な野面積(のづらつみ)の石垣を建設して近世的な城郭に改めた。やがて城主は前野長康を経て文禄4年(1595)小出吉政と代わり、その子小出吉英(こいでよしふさ)は、慶長9年(1604)有子山を下って、その山麓に出石城を築城した。城域は東西400メートル、南北350メートルあったと伝える。元和元年(1615)には一国一城制となって、有子山城は廃城となり、この出石城が但馬国の唯一の城として存続した。

1

 江戸時代中期の宝永3年(1706)信州上田から、仙石政明(せんごくまさあきら)が58,000石で入部して出石城を修築した。仙石氏はこの後、出石藩を明治維新まで8代にわたって統治した。
 明治維新で、出石城の建物はすべて取り壊された。それから100年が経ち、戦後の昭和43年(1968)になって本丸東西に隅櫓が復元された。さらに平成6年(1994)登城門が復元され、登城橋もかけられて、現在の姿となった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

出石散策(1)

そば屋「近又」
  いつかは出石を訪れたいとながらく思いつつ、少し交通の便がわるいこともあって、ついつい機会を失ってきた。今回出石に一泊することを決断して、ついに念願が叶ったのであった。
  昼頃に出石に到着したので、先ずは有名であり憧れでもあった出石蕎麦を食べに出かけた。ホテルで薦めてもらった「近又」という店である。
Photo
  出石の蕎麦は全国的に有名であるが、その起源は江戸時代中期将軍綱吉の宝永期に、信州上田からこの出石に国替えで入ってきた藩主仙石政明(まさあきら)が、信州から持ち込んだ蕎麦である、という。仙石政明は大変な蕎麦好きで、信州随一の蕎麦打ち名人を連れてきて、それ以前にすでにこの地にあった蕎麦に信州伝来の技術を加え、この地の出石焼の小皿に盛って提供する現在の出石蕎麦ができたと伝える。蕎麦の実をそのまま丸挽きした少し黒っぽい自然な色、手作りでしっかり練ったコシのある歯ごたえ、そしてこの地の清水でつくった素朴な風情が魅力である。モットーは「三タテ」といい、挽きたて、打ちたて、茹きたて、とする。
  まあそういう能書きがあるのだが、店に入ると、立派な松の木が植え込まれた中庭のある座敷に通された。唯一のメニューたる出石蕎麦を注文すると、一人前5皿で蕎麦が供される。最初の一皿は塩味だけで蕎麦の味を確かめ、次におつゆだけで味わい、そのあと山芋、そして最後に卵で味わうと、さまざまな味が楽しめるという。実際食してみて、たしかに美味であった。地卵も山芋もおいしてが、なにより蕎麦そのものがおいしい。若いころなら、お替わりしてもっとたくさん食べただろう。
  初めて来た地で、最初においしいものを食すると、その地の印象が俄然よくなる。出石散策は、上々の滑り出しではじまった。
人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

佐和山散策(3)

佐和山城跡
 龍潭寺の裏山に登るような形で、佐和山への登山口から坂を登る。標高233メートルだが、坂はかなり急で、もし雨が降ったあとなら滑りやすいような土質である。途中に丸太で仕切った階段がところどころにあるが、ここは滑らないのでほっとしたりする。途中に「すずめバチに注意」という標識がある。さいわい早春だから心配はないが、夏場は歩きにくいかもしれない。
Photo  ゆっくり登ったので、約20分ほど歩いて西ノ丸跡に着く。少し平地があり、説明の看板がある。ここからはさほど急な坂ではなくなり、まもなく視界が開けてきて頂上の佐和山城跡に着く。ここからは、彦根市街を一望できる。
 城跡として残っているものはほとんどないが、ごく一部石垣の跡のようなものがある。
 この場所は、畿内と東国とを結ぶ結節点にあり、政治・経済・軍事のうえで重要な要衝であった。すでに鎌倉時代、近江守護職を勤め佐々木荘の地頭であった佐々木定綱の子佐保時綱が砦を築いていた。六角政頼・久頼・高頼・氏綱・定頼の代にわたって、六角氏が犬上郡を支配し、応仁の乱の後、家臣の小川左近大夫・小川伯耆守が城主となった。戦国時代になって佐々木氏が衰退し、かわって浅井氏が入った。やがて織田信長が配下の丹羽長秀を入城させて北近江六郡と若狭国支配の拠点とした。豊臣秀吉の時代には石田三成が入り、そのころ荒廃していた佐和山城を大改修し、近代的城郭を築いた。Photo_2
 関が原の合戦で石田三成が敗れ、そのあと徳川四天王の一人であった井伊直政がこの地に封ぜられた。しかし井伊直政は彦根城の築城をはじめ、子の井伊直継が彦根城を完成させ、以後井伊氏は彦根城に移った。こうして佐和山城は廃城となった。
 佐和山城は、こうしていつの時代も枢要の地としてときの最高権力者がもっとも信頼をおく武将に任されてきたのであった。
 彦根には電車で簡便に行くことができるが、佐和山まではなんとなく遠い印象があって、これまでついつい訪れることがなかった。けれども、こうして実際に歩いてみると、彦根駅から30分たらずほどで龍潭寺に着いて、さらに30分たらずで頂上にまで行くことができた。どこでも、思い切ってチャレンジすることが大切だと、改めて思った。
人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

佐和山散策(2)

龍潭寺の襖絵・庭園
Photo  方丈のそれぞれの間には、森川許六の襖絵がある。森川許六は、明暦2年(1656) 彦根に生れた300石取りの上級藩士であったが、とても多芸な人で、剣術・馬術・槍術に秀でるだけでなく、漢詩・和歌・俳諧に長じていたという。俳諧では、近江蕉門の古参であった江左尚白に師事し、元禄4年(1691)江戸に下向したときに蕉門十哲の宝井其角・服部嵐雪に指導を受けた。元禄5年(1692) 当時江戸深川に住んでいた松尾芭蕉に入門し、芭蕉より、六芸に通じた多芸の才人であったことから「許六」と言う号を授けられたと伝える。絵は、狩野探幽の弟である安信に学び、芭蕉門下のなかでは、許六が絵の師であった。Photo_2
 このお寺は、大きな庭園があることでも有名である。方丈の南側に面して「ふだらくの庭」と名付けられた枯山水の広大な庭園がひろがる。
 大小の多数の石を敷き、観音菩薩の浄土である補陀洛山(ふだらくさん)の一帯をなぞらえた江戸初期の枯山水庭園である。白砂は大海、砂紋はさざ波、庭の向こう側の垣根は水平線、池に浮かぶ島が補陀洛山をそれぞれ表すという。
 彦根は勝手な印象としては地方の城下町と思っていたが、思いのほか大きく立派な寺院があると感銘を受けた。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

佐和山散策(1)

龍潭寺と井伊家
 しばらくぶりに彦根を訪れ、今回は初めて佐和山を歩いた。
Photo  佐和山の麓に、彦根藩主井伊家の菩提寺たる龍潭寺がある。龍潭寺は、もとは遠江国遠江国引佐郡、つまり浜名湖の北、JR東海道線金指駅に近い井伊谷郷に、天平5年(733) 行基によって創建された。龍潭寺は平安中期からこの井伊谷の豪族であった井伊氏の菩提寺となり、室町時代末期ころに臨済宗妙心寺派の寺院となった。
 慶長5年(1600) 井伊氏が佐和山城に転封となったとき、龍潭寺五世昊天禅師を招いて遠江国から分寺し、この地に建立したのがこの寺である。かように井伊家にとてもゆかりの深いお寺である。龍潭寺は佐和山城があった佐和山全体を所有しており、この寺の境内から登山道に入ることになる。
 元和3年(1617) 諸堂が完成し、近江で最大級の禅刹となった。


Photo_2

 拝観料を支払ってお寺の建物に入ると、ここでは三脚を使用しない限り写真撮影が可能だという。平日の参拝者は少ないので、広い建物のなかを、ほとんど私たち一行だけが独占したような、贅沢な気分で拝観ができる。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

城崎温泉街散策(4)

温泉寺本堂・本坊
 ロープウエイで大師山を下る途中、中間の温泉寺駅で下車して、温泉寺本堂を拝観する。
 突然観光客が激減し、私たちとあと二人連れの年配女性の四人だけとなって、まず正面にある本坊に入る。最初靴を脱いで室内にあがったときは、お寺に人影は見えなかったが、われわれが上がり込んだことが電気的なセンサーに関知されたのか、チャイムが小さく鳴ってお寺の係の女性が現れた。われわれ四人は、この方からお堂のなかの案内を受けることができた。

Photo

 この温泉寺の本坊には十一面千手観音像が安置されている。説明を聞いたあと、本坊の奥まで入って、ごく間近に仏様を拝むことができた。この十一面千手観音像は、木像として800以上の手がある非常に珍しい檜製の木像である。たしかに前後の奥行き方向に多数の手が重なって多層構造となっていて、実に多数の手があるのがわかる。室町時代の作という。本坊の横の廊下をめぐって本堂に入る。ここにはこの温泉寺の本尊である十一面観音像が安置されている。これは秘仏で、33年にいちどずつご開帳になるという。2メートルを超える大きな木像であるといい、日常は扉の奥に安置されている。来年の5月から千日間ご開帳になるというので、できれば訪れたい。
 思っていたよりずっと大きな立派な本坊と本堂で、私たちはとても感銘を受けた。お堂の周辺には、10日ほど前の大雪の残雪が、まだうずたかく積もっていた。京都や奈良とはまた一味ちがう古いお寺のよい雰囲気があった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

城崎温泉街散策(3)

ロープウエイ山頂駅と温泉寺奥の院
 ようやくロープウエイに乗ることができたが、これがまた満員であった。混雑したゴンドラ内は、若い人たちの雑談が賑やかで、ゴンドラ内スピーカーからの景観や大師山の説明がほとんど聞き取れない。ともかく7分ほどで山頂に着き、展望台に登った。

Photo

  ここからは、城崎温泉の町並みと、その向こうにゆったり流れて日本海にそそぐ円山川を眺める。豊岡盆地を生成しゆたかな水資源を提供する但馬地方の母なる川である。幸い天気がよいので、眺望がよい。わが国は、ヒトの住んでいる地域が全国土の一割にも満たないというが、こうして町並みを遠望すると、なるほどと納得する。厖大な比率の山林のおかげで、台風などの水害も大きく緩和されるし、四季を通じて水資源に恵まれていることを、改めて考える。
  山頂駅のすぐ側に温泉寺奥の院がある。これはごくちいさな建物で、平成22年(2010) に再建されたばかりと真新しい。
Photo_2
 どういう由来あるいは経緯かはわからないが、真新しい吉田兼好の歌碑がある。
花のさかり但馬の湯より帰る道にて雨にあいて
しほらしよ 山わけ衣春雨に 雫くも花も 匂ふたもとは
との歌が刻んである。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

韓国大統領弾劾と韓国の今後

「勝った」弾劾賛成派の市民ら叫ぶ 朴大統領に罷免宣告
朝日新聞電子版 2017年3月10日14時21分
 「勝った。我々はやった」。韓国の憲法裁判所が10日午前11時20分すぎに朴槿恵(パククネ)大統領の罷免(ひめん)を宣告した瞬間、ソウル市鍾路(チョンノ)区にある裁判所近くでは、罷免に賛成する市民たちが立ち上がり、口々に叫んだ。涙を流す人やシャンパンを振りまく人もいた。
 賛成派の人々は午前9時前から(中略)仁寺洞(インサドン)近くで集会を開始。「弾劾を貫こう」「今日で決まりだ」などと叫びながら、路上に設置された画面で憲法裁判所による宣告の生中継を食い入るように見つめていた。
 反対派の市民は「これで民主主義国家か」「お話にならない決定だ」と憤った。反対派も午前9時前から、(中略)集結。大音量で愛国を呼びかける歌を流しながら、合間に「弾劾却下」「国会解散」などと絶叫していた。宣告後は「裁判所を粉みじんにしろ」という怒号も上がり、一部は裁判所に近づこうとして警官隊ともみ合いになった(後略)。

朴大統領を罷免、5月にも大統領選 韓国憲法裁
朝日新聞電子版 2017年3月10日13時38分
 (前略)与野党は大統領選に向けた準備を本格化させる。韓国の調査機関「リアルメーター」が6~8日に実施した次期大統領選に関する世論調査によると、進歩(革新)系で最大野党「共に民主党」の文在寅(ムンジェイン)前代表(64)が、支持率36・1%でトップを独走している。野党系の候補は慰安婦問題で日本側との再交渉を求めている(後略)。

 ひとことで言って、なんともひどい、せつない光景である。思わず、自分が韓国に生れなかった幸運を思う。
 朴槿恵は、ついこの前の2012年大統領選挙では得票率83.9%で圧勝し、翌2013年大統領就任時の支持率63%というように、国民の圧倒的な支持を得ていた人物である。それがいまでは多数の国民から忌み嫌われ、罷免決定直前の世論調査では朴氏弾劾への賛成世論は77%にも上り、弾劾判決がでると多数の国民がその弾劾に喝采をあげるという。この国民の意識や感情が、私には理解できない。
 韓国は国民投票で大統領を選出するのであり、国民は朴槿恵を大統領に選んだのである。その自分の意志と行動を、韓国国民たちはどのようにとらえているのだろうか。今回の韓国大統領弾劾では、かつて朴槿恵に投票した人たちの多数が、その弾劾を「喜んでいる」ことになる。かつて自分が推挙した人間が、いくら想定外の問題を引き起こして罷免せざるを得ないという事態になったとしても、その状況に対して「勝った。我々はやった」、「涙を流す人やシャンパンを振りまく人もいた」となるのは、民主主義国家の国民としてあまりにも無反省・無自覚・無責任ではないか。
 朴槿恵をはじめから支持しなかった人たちにしても、韓国のこのような現状に手放しで喜べる事態ではないと思う。朴槿恵を今でも支持している人たちにしても、「これで民主主義国家か」「お話にならない決定だ」と憤っているだけではなんの進歩もない。今回のような失態が発生したことに対して、それぞれが真剣に事実に向き合って、事態の深刻さをよく把握し、どうすべきか考えなければならないだろう。
 少し前にわが国でも、民主党政権から現政権に交代して、そのとき私はたしかに心底から安堵したが、決して単純に喜べる気持ではなかった。なぜあの劣悪な民主党を選挙という民主的手段で勝たせてしまったのか、自分が民主党に投票したのではなかったにしても、民主主義が非常に危うい側面をもつことを経験した以上、とても手放しで喜ぶことはできなかった。
 こんな状況を見ていると、韓国という国とその国民が政治的にきわめて未成熟であると思わざるを得ない。一部の「識者」やメディアは、韓国の「分裂」が問題で心配だというが、国民の「無反省・無自覚・無責任」はそれ以前の深刻な問題である。最近では、日韓合意という国家同士の約束の重みをほとんど理解せず、またも「従軍売春婦問題」を通じて反日的行動を活発化させているらしい。このような未来のない思想・感情・行動を続けているかぎり、韓国の未来への展望は到底開けそうにない。韓国人の個々人は生れる国を選べないので、私はその個々人に対しては特段の感情や意識はないが、国に対してはなんらの期待も信頼もできない。わが国政府としては、韓国に対して少し距離をおいて、期待せず、与えず、干渉せず、しばらく静観するのが妥当であろう。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

城崎温泉街散策(2)

温泉寺山門とロープウエイ
 こんなに天気がよいので、これまで何度も訪問しながら未だに登ったことがないロープウエイに乗ってみようと、温泉街の一番奥にあるロープウエイ山麓駅に来た。ところがあいにく平日は運行ダイヤが少なく、40分近く待たないと乗れないという。仕方なく、まずは山麓駅近くにある温泉寺山門を見学することにした。

Photo

 このロープウエイは、標高231メートルの大師山山頂に至るのだが、この大師山全体が温泉寺の境内である。山麓には山門と薬師堂が、ロープウエイの中間地点にある温泉寺駅には本堂、多宝塔、そして城崎美術館が、山頂駅近くには山頂展望台と温泉寺奥の院がある。2
 温泉寺は、山号を末代山(まつだいさん) という高野山真言宗の別格本山である。寺伝では、天平10年(738) 高野山の道智上人が開いた寺であるという。それに先立って、諸国をめぐってこの地に来ていた道智上人が養老元年(717) 四所明神の御告げで千日の修行を行ったところ、その修行の場所から湯がわき出て、それがこの城崎温泉の起源となったとの伝承もあり、山号と寺号は聖武天皇から賜ったと伝える。城崎温泉の守護寺でもあり、この地の重要な拠点寺院である。
 温泉寺山門は、江戸時代文化年間(1810前後) に建立された八脚二重門の立派な門で、正面両側には立派な仁王様が安置されていることから仁王門とも呼ばれる。なかなか凝った意匠と細工の門で、よく見ると精密な彫刻が随所にある。
 ロープウエイまでの残りの待ち時間は、すぐ側に開店しているジェラート店で、ソフトクリームを買って食べた。私はジェラートよりも乳脂肪が多くて軟らかいソフトクリームの方が好きなのである。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

城崎温泉街散策(1)

城崎温泉の市街散策と地酒
 今年も家人とともに丹後半島に「かに旅行」して、その帰途城崎温泉に立ち寄った。私たちの場合、城崎温泉を訪れるのはいつもカニのシーズン、つまり冬季であるため、日本海側に位置する城崎は、この時期たいてい天候が優れない。傘をさしつつ寒さに肩をすくめて街中を散策して、気ままに温泉につかる、という繰り返しである。ところが今回は例外的に天候に恵まれ、青空と春の訪れを思わせる暖かい陽差しの下で城崎温泉街散策となった。駅を降り立ち、荷物の多くを駅のコインロッカーに預け、軽くなったリュックザックを背負って、街に繰り出した。

1

 平日ということもあって、街の人出はさほど多くない。観光客には、女性が多く、なかでもかなり年配の女性グループが多い。私たちも高齢者だが、日本の高齢化を改めて感じる。
 今年の城崎訪問のひとつの収穫は、立ち寄った酒屋さんでいつものように立ち飲みをして、ひとつとてもおいしい地酒を発見したことである。養父市の鉢伏高原の麓にあるというちいさな酒造メーカー「銀海酒造有限会社」がつくる「銀海」という日本酒である。ほとんど夫婦だけというこじんまりした酒造メーカーのご主人が中心となって、出石町のある農家がつくる無農薬米をたいそう気に入り、この米の特性を最大限発揮しようと開発した酒であるという。そういう説明で酒屋さんのご主人が薦めてくれたので、薦められるままにひとくち飲んでみたが、これがとてもおいしい。すでに旅の終わりで荷物が膨らんでおり、今回は一升瓶を買って帰るわけにいかなかったが、次の機会には是非ほかの土産をやめてでも「銀海」の一升瓶をもって帰ろう、と決意したのであった。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

知恩院おてつぎ運動50周年特別公開(4)

勢至堂
 山亭の庭園を突き抜けて出たところに勢至堂の墓地がある。ここには徳川家三代のお墓もあるという。その墓地を突き抜けて下ったところに、勢至堂のお堂がある。このお堂は知恩院で現存最古の建造物で、戦国時代の享禄3年(1530)に再建されたものが残っている。七間四面単層入母屋造本瓦葺、桁行21メートル、梁行20メートルの堂々たる建造物である。この場所は、法然上人が終焉を迎えるまで念仏を行い、教えを自ら広めた大谷の禅房の故地であり、知恩院発祥の地である。

Photo

 残念ながら外からはよく見えないけれど、堂内の正面に掲げられている額に「知恩教院」とあり、これは後奈良天皇の宸翰であり、知恩院の名の起源となっているという。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

知恩院おてつぎ運動50周年特別公開(3)

山亭
  方丈庭園の脇にある山に登る小径をしばし登っていくと、山亭に至る。勢至堂の客殿である。

Photo

  霊元天皇の皇女浄林院宮吉子内親王の宮殿を宝暦9年(1759) この地に移設したもので、明治時代に大改修し、さらに平成10年(1998) 内装を改修して今に至る。吉子内親王のお墓は、境内の勢至堂墓地にある。この山亭の庭園は、江戸末期から明治期に大改修されたが、江戸末期の様式をよく残す貴重なものである。山亭北側から西側にぐるっと廻る形式となっており、京都の町並みが見下ろせる恵まれた立地にある。
  山亭の座敷は、申請すれば一般人が写経できる場所となっている。私が訪れた日も、ひとりの女性が写経に没頭していた。写経をする合間に縁側から外を眺めると、京の市街をゆったり一望できる絶好の立地であり、いかにも快適そうである。私もいずれ写経などもやってみたい、と思った。

人気ブログランキングへお気に召せばクリックください

« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »