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2017年5月

中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (15)

エルサレム旧市街へ  イスラエル①
  スエズ運河を抜けると、その翌日早くもイスラエルのアシュドット港に着いた。ここから陸路を66km余りでエルサレムに着く。
2   クルーズ会社が提供するお仕着せの観光バスツアーを利用しない私たちにとって、港についてタクシーを探し、値段交渉して乗り込む、という一連の作業は、いつも緊張をともなう。このときも、港からアシュドット市街中心までクルーズ会社が提供する無料シャトルバスで出たあと、タクシーを探した。何人か売り込みに寄ってきた運転手から、われわれはミハイルという若者を選んだ。この人は、1歳あまりのときグルジア(現在はジョウジア)からイスラエルにわたったアシュケナージで、現在46歳、子供が3人いるという。とても親切で適度に控えめで、大柄の感じのよい人であった。この運転手を半日チャーターできたおかげで、複雑なエルサレム市街のなかを迷わずに巡れた。
 
Photo
 アシュドットからエルサレムに向かってドライブの間、車の窓から眺める景観は、私たちがなんとなく抱いていた「砂漠が多い国」というイメージを根底から覆すものである。砂漠とは異なり、緑が多くとても豊かさを感じるのである。「肥沃な三日月地帯」という言葉があるが、まさに一目で違いがわかる。ペルシア湾からチグリス川・ユーフラテス川を遡り、シリアを経てパレスチナ、エジプトへと到る半円形の地域、すなわちイラク、シリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、そしてナイル氾濫原部のエジプトを含む地域である。地図でみると、イスラエルはヨルダンの隣国であり、ヨルダン川の右岸と左岸で向かい合うごく近接している国どうしにかかわらず、これだけ景観がちがうのである。Photo_2
 2時間近いドライブを経て、ベンツのタクシー車はエルサレムに着いた。旧市街に入る直前の商店街は、日本でいえば銀座通りのような瀟洒な商店街である。
  われわれは当初の予定通り、ヤッフォー門から城壁内の旧市街に入った。
  残念ながら、この日はギリシア正教のイースターであり、ユダヤ教のペサハという断食の日であり、エルサレムのほとんどすべての建物は閉ざされているという日であった。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (14)

スエズ運河通過
  ペトラ観光の翌日夜、われわれのクルーズ船はスエズ運河に入った。シナイ半島の東端のアカバを出航して、シナイ半島を迂回し、シナイ半島西端のスエズ運河に至ったのである。さすがに夜は、遠くに街の灯が見えるだけなので、翌朝からの見学を期待することにした。
3
  翌日は早朝5時半ころから10階のデッキに上がり、デッキを一周して、最後は船の先頭部分で運河を眺めた。
  スエズ運河の歴史は古い。古代には、紅海は今よりはるかに北方まで海が入り込んでいてスエズ地峡が狭かったこともあり、古代エジプトにすでに細い運河があったという。その後も、なんども閉鎖・開削の試行が繰り返され、ナポレオンもスエズ運河の建設を図った。いろいろな経緯があったものの、現在のスエズ運河ができたのは、ムハンマド・アリー朝のエジプトのもと、フランス人レセップスが1856年から着工したスエズ運河開削工事にはじまる。多大な労力・時間・費用を投入して、1869年スエズ運河は開通した。イギリスの執拗な反対や、さきの大戦後での中東戦争など、スエズ運河をめぐる利権はさまざまな政争や戦争に巻き込まれたが、なんとか現在にいたっている。
  この運河の両端の水位はほとんど差がなく、したがってパナマ運河のような閘門方式をとる必要はない。しかし、地中海と紅海とで、潮の干満差があるため、時間によりあるいは季節により海流が逆流を繰り返すという問題はある。このため、生物種の交絡などの環境問題が環境保護運動家から訴えられたりする。一隻のみ単方向、一車線のところもある。
  運河の全長は193km、幅205m以上、水深24mで、通過できる船の最大寸法(これを「スエズ・マックス」という)は、喫水20m以下、最大幅77m以下などの詳細な規定がある。
1   世界の近海航路を利用する船舶の7.5パーセントがスエズ運河を利用しており、2008年の統計では21,415隻が通過し、総計53億8100万ドルの使用料が徴収された。 1隻あたり平均料金は25万1千ドルとなる。スエズ運河は通行できる船舶の大きさ、総通行量ともにパナマ運河を上回っている。ちなみに、今回われわれのクルーズ船の場合、通行料は30万ドル(約3,300万円)だったそうで、この高額がネックとなって、今後このクルーズ会社のスエズ運河を通行するプランは大きく減少するとの由である。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (13)

私たちのまわりの従業員たち
  クルーズ船内のディナーは、食事時間を指定登録すると、クルーズ期間中毎日同じテーブルで同じウエイター(またはウエイトレス)とアシスタントウエイター(またはアシスタントウエイトレス)とが応対することになる。今回私たちの担当をしてくれたのは、ウエイトレスがギリシア出身のナタリアという25歳のきれいな女性、アシスタントウエイターがウクライナ出身のマイコラという23歳のハンサムな青年であった。幸い二人とも誠実でまじめで親切な人たちで、私たちはとても満足した。
1  やがて少し親しくなったので、ナタリアに彼氏のことを聴くと、フィアンセをあっさり紹介してくれた。ひとつ上の階のレストランで働くインド人で、背が高くハンサムな青年で、わざわざディナーの最中に呼び出してくれたのであった。正式につきあっていることを会社に報告すると、船中で同じ部屋に居住できるという。来年末までに結婚する、というので、将来計画を聴くと、ナタリアはいずれどこかの国で陸上に新しい職を探したいと。彼らの少なくとも一部は、今の仕事をずっと続けていくわけでもないようだ。
  このように、同じ船に勤務で乗りあわせたことで知り合い、恋愛したり結婚したりというケースは、決して少なくないようだ。たとえば船内の劇場の舞台裏を案内してくれた劇場担当者の説明員は、たまたま二人とも船内で知り合った人と結婚しているとの由であった。
  朝と昼の食事は、別のバッフェー式のカフェで摂る。そこでもテーブルごとに担当ウエイターが決まっていて、テーブルの片づけと拭き掃除、飲み物のサービスをしてくれる。ただここでは指定席ではなく毎回テーブルを変わるので、固定の担当者というわけではない。ウエイターも、当然人によって気のつく人、サービスの良い人、そうでない人など、さまざまである。Photo_2
  私の部屋の掃除・ベッドメーキングの担当者は、インドネシアバリ島出身の実直な青年であった。彼の弟は日本語を学んでバリ島のホテルに勤めているという。毎日、一部屋につき昼前と夕方の2回、タオル交換、掃除、ベッドメーキング、トイレタリ補填などを行う。1人につき19室を担当するというが、かなり大変な仕事だと思った。
  船内の生活では、毎日さまざまなスポーツイベントや、カルチャースクール、さらにはカラオケなど、乗客が参加する催しが毎日ぎっしりある。それらのそれぞれに担当者がいる。
  すべての従業員は、名前と出身国が明記されたバッジをつけているので、誰がどういう態度であったか、乗客にはわかる。そういう情報をもとに、クルーズが終わったあと、クルーズ会社が乗客にアンケートをとって、従業員の勤務評定を行う。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (12)

バーブ・アッシーク・トリクリニウムを馬で行く ペトラ遺蹟⑦
1   ペトラ遺蹟はまだまだ先があるけれども、私たちのように船から港に出て、日帰りで観光する場合には時間的にもどこかで引き返す必要がある。今回は、ローマ円形劇場あたりで引き返すこととして、もときた道、すなわちエル・ハズネ、シークを経て、バーブ・アッシーク・トリクリニウムの端まで歩いた。
Photo   この遺蹟公園では、入場料に馬に乗る料金が含まれている。ただし、馬子に対するチップが必要であり、これが5ドルくらい要るという。女性2人がぜひ馬に乗ってみたいということで、帰りには上り坂になるバーブ・アッシーク・トリクリニウムを馬で行くことになった。
  馬子たちはゆっくり馬をひいてくれたので、女性2人は安心して乗馬を楽しめたようで、かなり満足できる経験だったらしい。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (11)

ローマ円形劇場 ペトラ遺蹟⑥
Photo_3   ファサード通りを少し奥へ歩くと、まもなく前方に「ローマ円形劇場」が見えてくる。私たちは歩きながら低い目線で眺めるので、円形劇場というものの遠くからは座席だけしか見えない。このような様式の劇場は、古代ギリシアの影響を受けローマ人たちが発展させたもので、半円形の観衆席が特徴である。かつてローマ帝国の版図であった北アフリカ、中東、南ヨーロッパの各所に見ることができるそうだ。
  ここは、グレコ・ローマン様式の劇場で、紀元前1世紀ころ最盛期の王アレタス4世によって創建されたと伝える。その後、やはりナバタイ人の王マリクス2世が改装工事を行い、紀元106年以降のローマ支配下時代にはさらに観客席が拡張され、45段、約8,500人の観衆を収容できる巨大な劇場となった。しかし363年の大地震によって大きく破損し、現在も多くの部分が破壊されたままとなっている。
  1960年代に発掘調査が行われ、頭部を欠いたヘラクレス像などが発見され、現在はペトラ博物館に収蔵されている。Photo_2
  このような劇場は通常は演劇、パントマイム、合唱、演説などに用いられたが、ここでは当初主に葬礼用として用いられ、アレタス4世が自分自身の葬儀場として建設したともいわれている。
  この劇場の周辺には、多数の横穴があり、いずれも墓穴であったろうとされる。家人が近づいて穴のなかに入ろうとすると、遠くでみるよりも段差も大きく、先に中に入っていたアラブ系らしい女学生が手を引っ張ってくれた。
  かように、この遺蹟では人間の死とその葬送というテーマが非常に大きいようである。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (10)

ファサード通り  ペトラ遺蹟⑤
  エル・ハズネを過ぎた通りはアウター・シークと呼ばれ、通路の幅が急に広くなる。ここは多数のラクダやロバ、そして衛兵が騎乗する馬などが多数行き交い、当然ながらその糞がいたるところに散らばっている。糞の掃除をするベドウィンの従業員もいたるところにたむろしているが、働きぶりは緩慢にみえる。臭いを避け脚元に注意しながら歩いていくと、左側に大きなファサードがならぶのが見える。ファサード通りと呼ばれる。これは多数の墓である。
  ファサードの装飾には、さまざまな細かい説明があるが、風化が進んでよくわからないのと、古代の葬送文化に疎い私にはよく理解できていない。

Photo

  これらの岩窟墓は、東方のメソポタミア、西方のギリシアの文化的影響が顕著であり、ギリシア様式の柱、アッシリア様式の階段状の装飾などがみられるという。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (9)

エル・ハズネ  ペトラ遺蹟④
  1.2kmにわたるシークの薄暗い渓谷道を歩いていくと、突然眼前に壮麗な建物が現れる。「ファラオの宝物殿」ともよばれる「エル・ハズネ」である。映画「インディジョーンズ最後の聖戦」でも有名なシーンで、ペトラ遺蹟のハイライトでもある。Photo
  この巨大な建造物は、紀元前1世紀にナバタイ王アレタス4世が建造したと伝える。葬祭の儀式をとりおこなうための墓、あるいは葬祭殿であったとされる。建造にあたっては、岩山の壁面を、徐々に削りながら建造されたらしい。大変な工事である。
  岩山あるいは岸壁に浮かび上がる高さ45メートル、幅30メートルの巨大なファサードは、きわめて装飾的である。エジプトやギリシアの影響が深くみられ、アレクサンドリア・ヘレニズム様式でつくられている。
  ファサード中央最上部に彫刻されている「壺」は永遠のシンボルであり、バビロニアでよくみられるものだという。ここにはエジプトのファラオの宝が隠されているという言い伝えがあり、それを信じたベドウィンが銃撃した跡が残っているという。そのすぐ下の正面にはエジプトの女神イシスが彫刻されている。
  また、ファサード最上部の両脇には、死者の魂を運ぶとされる4体のワシが配置される。
  正面のイシスの両側には、ギリシア神話に由来する勝利の女神「ニーケー」(ローマ神話のヴィクトリア)と幸運の女神「テュケー」が彫り込まれている。その外側両脇を4体のアマゾネスが固める。
 全部で12本の柱はギリシアのコリント様式で、12の「月」を表すという。下からはよく見えないが、ペディメントと下段の柱との間に彫られた7つのグラスは「週」を、ペディメント上部に横に並ぶ30の花は「日」を表すという。
Photo_3  エル・ハズネの装飾的な彫刻は、ナバタイ文化のうえに周辺のギリシアやローマの影響を取り入れたものである。
 ペトラ遺蹟全般にそうだが、エル・ハズネの付近にはとくに衛兵が多数滞在していて、適宜観光客の求めに応じて写真に写ったりしている。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (8)

シーク ペトラ遺蹟③Photo_3
  オベリスクの墓を過ぎると、道は急に険しい岩の渓谷の狭い通路となる。これは「シーク」と呼ばれる。オベリスクの墓からエル・ハズネまでの1.2kmにわたる渓谷道である。頭上に迫りだす岩の崖の高さは60~100メートルにもおよぶ。ペトラ中心部へと続くゲートウエイであり、ナバタイ人が水源地から水をひいていた水路の跡やダムの跡がところどころにみられる。
  当初は、ヘロデ王やアレタス4世などによって石畳が敷かれていたが、そののち何度もこの地を襲った洪水などで現在では石畳はほとんど残存しない。現在ある石畳は、ヨルダン政府が最近整備したものであるという。
Photo_2   古代からこの地域では水は重要な問題であったらしく、ナバタイ人は高度な用水路の技術をもっていたらしい。シークの道の両側にはいたる所に水路跡がある。飲用水を引いていたと推測される素焼きの水道管の跡もある。もうひとつの用水路は灌漑用とみられ、開放された溝で構成されている。
  さらにこの地特有の洪水に対しては、洪水を防ぐためのダムが整備されていた。しかし現在にいたっても洪水は発生していて、1963年にはフランス人観光客23人が洪水に呑み込まれて亡くなったという。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行(7)

オベリスクの墓とシークまでの道 ペトラ遺蹟②
 遺蹟入り口からシークまでの道のりは、「バーブ・アッシーク・トリクリニウム」と呼ばれる緩慢な下り坂となっている。かつて死者のために饗宴の儀式がとりおこなわれた場所とされる。この付近の建物は、基本的にはペトラ遺蹟を最初に創建した紀元前1世紀から紀元後1世紀ころのアラブ人の一種ナバタイ族の様式によるが、柱は、パルテノン神殿と同様なドリス様式が取り入れられ、古代ギリシアの影響が明らかである。
Photo
 その建造物のひとつが「オベリスクの墓」と呼ばれているもので、建物の上部に聳え立つ4つの尖塔がエジプトのオベリスクに似ているために、後世からそのように呼ばれるようになった。建物のなかには5つの埋葬穴があり、外側には貯水槽がある。水に関わる施設が高度で数も多いということも、このペトラ遺蹟の大きな特徴である。
 その墓は、ナバタイの王アレタス1世のものではないか、との説がある。オベリスクの真ん中に彫刻されている人物は、エジプトの女神イシスだともいうが、かなり風化が進んでいて、私たちには鮮明には見えない。ペトラ遺蹟にある多数の墓のなかで、このような明確に装飾的と思えるファサードを備えたものは、このオベリスクの墓だけである。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (6)

遺蹟入り口・ジン・ブロックス ペトラ遺蹟①
 約2時間ほどのドライブを経て、ようやくペトラ遺蹟の入り口に到着した。われわれのタクシー運転手は、この遺蹟間近の街に住んでいるそうだ。彼の兄は憲兵として国に勤務し金持ちだという。随分坂を登る高台にある街である。Photo_2
 入場券を購入するため券売場の2つの窓口の列にならぶ。途中で、この列は現金のみ、クレジットカードはこっちだけ、という。はじめから窓口に標示すべきだと思うが、それも日本人故なのか、こちらの人たちは無頓着のようだ。入場料は、宿泊する外国観光客は50JD(ヨルダン・ディナール、約8,000円)、日帰りの場合は90JDもする。ちなみに地元民の入場料は1JDのみで、50~90倍もの格差がつけられている。
Photo_3   いよいよペトラ遺蹟の回廊に入る。入ったばかりのところは、太陽光が照りつけるなか、砂漠の荒涼たる景観がひろがっている。少し歩くと、ほどなく「ジン・ブロックス」という高さ数メートル以上の大きな直方体の石がならぶ場所にくる。
  ジンDjinnとは、アラビア語で「精霊」を表す。人間の霊とはまったく別に、神の精霊があってそれがこの石に宿るとされる。精霊は水のそばに宿るとされ、もともとこのジン・ブロックスは、水の流れの近くに建てられていたという。しかし、近年の研究者の見解では、やはりなんらかの墓であった可能性が高いという。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (5)

ヨルダンとアカバ港
  マスカットを出航して、5日間の洋上生活ののちに、ようやく船は紅海の東側の北端であるヨルダンのアカバ港に入った。イスラエルとエジプトが奪い合いを繰り返したシナイ半島の東側、ヨルダンとイスラエル、そして現在シナイ半島を掌握するエジプトが、狭い湾を奪い合う場所に位置している。イスラエルとは、ヨルダン川と死海が国境を成す。
  こうした狭小で、政治的・軍事的にきわめて緊張をはらむ地域である。寄港まえに船内で行われた観光案内のレクチャーで、アカバから北上して観光地に行くとき、ほんの少しの西側への移動でイスラエルに入国できるが、距離が近いと思って気軽にイスラエルに入国してしまうと、厳しい国境管理のために容易にヨルダンに戻れず、船の出航に間に合わない事態が発生しかねないので、決して安易にイスラエル側に入らないように、との厳しい注意があった。
  ヨルダンは、イスラム教の創始者たるムハンマドの血統を誇るハーシム家の国王が世襲支配する王国である。この国の国王アブドゥッラー2世と美貌の王妃ラーニアの夫妻は、私たちがヨルダンを訪問する直前の4月6日に訪米して、トランプ大統領夫妻を訪問した、とニュースで知った。イスラエル、イラク、シリアの間に打ち込まれた楔のような位置にあるヨルダンは、米政府とアラブ諸国を取り持つ同盟国として欧米で広く認知され、紛争に揺れる中東で大国並みの政治的役割を果たしてきたという評価もある。Photo
  ヨルダンは資源の乏しい国として学生時代に学んだ記憶があるが、30年くらい前になって天然ガスが採掘されるようになり、オイルシェールも発見され、またリン鉱石も輸出する。しかし国全体としてはかなり貧しい。最近では、シリア他の紛争国からの大量の難民流入が大問題で、1年くらい以前には60万人以上の難民がいたという。これは私たち観光客にも、不安材料のひとつである。
  アカバは、ヨルダン南部の拠点都市で、海に近いこともありヨルダン国内では相対的に温暖な地とされる。ペトラ遺蹟があるヨルダン中部へ電力を供給する発電所もあるらしい。
  中東諸国とのビジネス経験も豊富な同行の友人が、事前にネットでアカバ港からペトラ遺蹟までの往復のタクシーを予約していてくれていたが、港でそのタクシー運転手がなかなか見つからない。実は、ネットの返事では私たち顧客側の名前を標示した紙を掲げてくれるはずが、その業者の名前、しかも「スーザン」を「スザンヌ」と書くという実にアイマイでいいかげんな対応であったことがあとでわかった。ともかく一瞬焦ったものの無事タクシー運転手をつかまえて、韓国起亜製の乗用車に乗り込み、予想以上に立派な道路を120km/hrの高速で突っ走ることとなった。ここでは速度制限は120km/hrだという。

Photo_2

   折しも3日前の4月7日、アメリカ軍がシリアの空軍基地を巡行ミサイル攻撃した。そんななか少し驚いたのは、ペトラに向かう途中2時間ほどのドライブで、2回も検問にかかったことである。シリアやISなどが間近にある国でもあり、厳重な警戒が必要なのだろう。シリア国境から300kmもない。私たち外国人から見たら、とても危ない地域に思える。
  車窓から眺める風景も、緑のまったくない典型的な砂漠で、豊かさがほとんど感じられず、私たちには絶望的とも思える風景だが、運転手はヨルダンが好き、国を愛しているという。自分の国だから当然なのだろうが、あらためて彼らの祖国愛を再認識する。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行(4)

クルーズ船の従業員たち
  クルーズ船の運営組織は、大きくは船を運行するソフト担当の部門、船の機械系を維持管理するハード担当の部門、乗客の居住空間を管理するサービス部門の3部門からなり、総従業員数は800人程度という。
  船長はスウェーデン出身の人物で、航海士、通信士、警備員の他、船の運行と安全に関わるすべてを統括し、さらに航海と船に関わるすべての総責任者である。機関長はクロアチア出身の人物で、船の機械系全般を管轄している。ホテル長はポルトガル出身の人物で、船室全般、食事、乗客へのサービス、さらにエンターテイメントを含むさまざまな船内サービス全般を統括する。Photo
  以前この船の船長を、女性が勤めたことがあった、という話を従業員のひとりから聴いた。女性の船員も珍しいが、とくに船長というのはめったにないという。
  最大の従業員数を束ねているのは、食事と船内サービスを統括するホテル長である。そのなかでも食事を担当する賄い部門は、最大の従業員数を擁する。コック・ウエイター・アシスタントウエイター、バーテンダーの総数はかなりの人数におよぶ。船室のテレビに船内専用放送のチャネルがあって、そこで賄の部門長がインタビューに出ていた。彼は職歴30年以上で、最初はアシスタントウエイターとして働き始め、つぎにウエイターとなり、料理長を経てついに全体の部門長になったという。このように長期にわたって船に勤務する人は多数派ではないようだ。
  船室の掃除・ベッドメーキングをする人たちは、多くはインドネシアなどの開発途上国から来ている。これらの下級の従業員は、朝6時ころから昼間の3時間ほどの休憩をはさんで深夜2時ころまで仕事に拘束されるという過酷な勤務である。乗船勤務も相対的に長期にわたり、半年以上続けて乗船し、下船して取れる休暇期間は1カ月以内程度と短い。給与はよくわからないが、かなり安いものと推測する。
Photo_2   人数の多い賄方では、コックが比較的地位が高いようだ。船中で親しくなったひとりの男性コックは、インドのムンバイ出身の独身で、黄色・青色・赤色の3つのネクタイが階級としてあるなか、最上の赤ネクタイである。彼は2カ月の休暇をとるため、クルーズ航程の途中寄港地イスラエルで下船して、飛行機でムンバイに里帰りした。給与は月30万円以下程度だが、乗船勤務中は住居・食事などがすべて与えられ、金を使う必要と機会がないため、それなりに金も貯まるという。若いうちに世界各国を見て回りながら修行するという意味ではひとつの有力な仕事なのだろう。ウエイターやアシスタントウエイターは、世界各国から来ている。実際に会って覚えているだけでもインド、ケニア、南アフリカ、ウクライナ、モンテネグロ、クロアチア、中国、フィリピン、など。ただ、パキスタン、バングラディッシュ、シリアなどはいないという。紛争地区や係争地の出身者は、会社側が警戒しているのかも知れない。給与が高くないためか、また拘束期間が長いためか、ごく上層を除いてアメリカ人はほとんどいない。日本人は乗客でも2,300人のうち6人しかいないこともあり、従業員は皆無であった。
  休暇については、上層の乗組員については、拘束期間が短く休暇が長い傾向がある。船長や部門長クラスの人たちは、2カ月乗船して2カ月休暇をとる、というパターンが多いそうだ。また彼らの場合、家族を1カ月ほど優待価格で同じ船に乗せることができるともいう。もちろん負うべき責任の違いはあるだろうが、船内の従業員は格差が明確で大きい社会である。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行(3)

マスカット寄港
  ドパイを夕方出発したクルーズ船は、2日目の正午ころに隣国オマーンの首都マスカットに入港した。船が港に近づくと、砂漠特有の険しい茶色のはげ山が連なるなかに、忽然と近代的ビルがならぶ特異な景観が現れる。私たちにはいささか珍しいこのような景観を、着岸寸前の甲板から眺めていたとき、ある日本人風の女性から家人が声をかけられた。その女性は私たちと同年代で、ニュージーランド在住で、クルーズでこれまで多数の旅を重ねてきた方だという。ドバイに以前きたとき、気温が50℃近くになっていて、下船をやめたこともあった、という。幸いこの日は、30℃代だったのだろう、比較的暑さがましであった。

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  オマーンは、古代期には気候がもっと穏やかで、銅鉱山があったりして、紀元前3,000年ころから人びとが住んでいたという土地柄である。紀元前2世紀ころからアラブ人が移住してきて住み始め、7世紀ころにはイスラム教が普及してペルシアに対抗し、16世紀初頭からポルトガルの支配下となった。しかし17世紀末にヤアーリバ朝がポルトガルを追い出してマスカットを奪回、さらに東アフリカ東岸にまで勢力を拡大して、このオマーン海洋帝国が19世紀末まで存続した。海洋交通の要衝に立地していたため、ヨーロッパの大航海時代には列強と折衝して交通拠点の利用を取引材料になんとか独立を守っていたようである。こうした経緯から、オマーンはこの地オマーンと、アフリカ(現在のタンザニア)のザンジバル島にわかれた領土をもっていたが、1856年サイード大王が死去して国土が2つに分かれ、通商の船が帆船から蒸気船へと代わったこともあって急速に衰退したという。1891年にはイギリスの保護国となり、さきの大戦ののちザンジバルとオマーンは別々に独立を果たした。政情も不安定な時期があったが、現在はスルタン・カブース家の絶対君主制の国家となっている。石油・天然ガスの他、クロム・銀・金を産出する。外国からの出稼ぎも多く、実勢の全人口の7割程度がオマーン国民である。ムスリムの他に、ヒンドゥー教やキリスト教を信仰する人たちもいる。
  マスカットの街は、港から歩いて市街に行ける。約20分余り歩くと、スークが集まった中心部に着く。途中銀行があったが、火曜日なのに休業していた。まるでモスクの建物のような外見のハンバーガー店もある。
  市街地は小さいが、スークは放射状に複雑にひろがっている。家人が、布地を商う商店に入って、パシュミナのショール布地を購入した。

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  私は女性の服装や素材について疎いので、まったくの聞きかじりだけだが、ショールやストールの素材として、カシミヤ(Cashmere)、パシュミナ(Pashmina)、シャトゥーシュ(Shahtoosh)があり、シャトゥーシュは最高級品であるが絶滅保護種のチベットアンテロープの毛を用いるので商品としてはほとんど存在せず、カシミヤ山羊からとられるカシミヤと少し高級なパシュミナがあるという。カシミヤ山羊の顎髭毛を用いてより繊細で柔らかく強いのがパシュミナだそうだ。いずれにしてもインドやパキスタンなどが主な産地であり、このオマーンが産地ではないのだろうが、このマスカットでさまざまな布地が売られているという。
  いくつか店をまわったが、いずれの店も最初は200ドル以上の高い値段を主張するが、いろいろ折衝したり、また断って店を出ようとしたり、駆け引きをすると半値以下になったりする。私たちがまわった店は、いずれもインド人の経営であった。また、高級品の布地は、蝶番と鍵のついた木箱に納められていたりする。商品販売の経済活動を観察する対象としては、それなりに興味深いものである。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行(2)

ドバイの市街とアブラ
  船からドバイには、タクシーで行くしかない。今日はクルーズ船の出航ということで、多数のタクシーが船の近くまで来ている。港に入るために一定のルールと料金がいるため、タクシー運賃は割高となり、乗る前に概算値を聞き出して交渉することが必要となる。私たちが乗ったタクシー運転手は、これもまたインドのケララ州出身の男性であった。
Photo   市街と港の間にある川を渡る渡し船がある。「アブラ」という小舟で、地元の人びとの公共交通機関として存在しているので、料金も1ディルハム(約30円)と安価である。小さな船に乗り込んで、数分で対岸に着く。世界のどこも同様だが、こうして地元の人たちと一緒に公共交通機関に乗り込むのは、その土地の雰囲気を知るには最適である。イランから来たという人もいた。このUAEという国は、さまざまな仕事をもとめて世界中から人びとが集まっており、実勢人口の20%程度しかUAE国民がいないという状況だそうである。Photo_2
  アブラで対岸に着くと、すぐにスークと呼ばれる商店街がある。中東の街の商店街は、比較的似通ったこうしたスークとなっていて、狭い路地の両側に多数の店がひしめき、賑わっている。アブラの乗船場近くで待つタクシーに戻るために、再びアブラに乗る。アブラは小さな船で、乗客がいっぱいになったら出発する。10分に一回くらいの頻度のようだ。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行(1)

  このたび、客船による外国旅行、いわゆるクルーズ旅行をした。家人の友人の推奨とアドバイス、さらには同行がきっかけとなった我々にとっての初体験である。成田から飛行機でUAEアブダビに行き、一泊ののち160kmを約2時間バスでドバイに移動した。UAEはすでに気温が40℃近い砂漠の高温地帯である。Photo
   ドバイは新しい市街地で、アブダビの莫大な石油の富の支援も得て、2007~08年ころに壮大な建設ラッシュがあり、ブルジュ・ハリファという高さ828m、206階の世界でもっとも高いビルも建設された。そのころは世界中の四分の一のクレーンがこの地に集中していたともいわれる。しかしそのあとのサブプライム問題による世界不況で急激に落ち込み、そのとき隣国のサウジアラビアが$20B(約2.2兆円)もの莫大な援助をしたという。

ドバイから乗船まで
  ドバイの航空会社のバスターミナルからタクシーに乗り換えて、ドバイの市街に出る。主な目的は、ドバイに来た友人が薦めるおいしいナッツの店である。インド・ケララ州から来たというタクシー運転手は幸い親切な人で、辛抱強く目的のナッツ店を一緒に探してくれた。この街の商店街は、どこも似たような雰囲気で、一度訪れたことがありまた名刺をもらったからといっても、再訪することはさほど容易ではないようだ。ドバイは住所の表記方法が、訪問者にとってわかりやすい表現となっていないこともある。ようやく見つけたナッツ店で、お土産として美味なナッツを購入したが、数キロの重い荷物となった。
Vision_of_the_seas_305x204   ドバイのクルーズ・パッセンジャーズ・ターミナルに着いたが、港湾内に入ってから道は何度もジグザグに進み、なかなか船にありつけない。港という場所は、見た目よりもはるかに複雑なようである。
 われわれが乗る船は、Vision of the Seasという名で、78,717トン、全長279m、幅32.2mの中規模のクルーズ船で、約2,300人の乗客を載せる。最近は電動機を動力として駆動し、そのため低騒音で高い操作性を達成しているという。そのためディーゼルエンジンで発電している。10階のデッキには、一周380mのジョギング・トラックがある。
 船のチェックインのあと、まだ出航までに時間があり、チェックインした荷物もすぐに船室(キャビン)に配達されるわけではないので、しばしドバイ市街の散策に出かけた。

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2017年度高槻ジャズストリート 第二日目

  二日目は、まず阪急高槻市駅コンコースの「中野・西脇・衛藤カルテット」から入った。ナット・キング・コールのナンバーを中心に、低音の迫力ある中野翠のヴォーカルをたっぷり聴いた。Photo_2
私は日常ではさほど音楽、とくにポップスやジャズを聴くわけではないが、たまにこうして生演奏で聴く機会があると、こんなに良い楽曲があったんだ、と発見する。ナット・キング・コールは私でも知ってはいるけれど、個々の楽曲は知らないものも多い。すでに知っていた「ルート66」、「スマイル」などだけでなく、他にも心に滲みる良い曲がたくさんあることを今年も再認識した。
次は国道171号線北大手交差点にある高槻市姉妹都市センターで「jaja」を聴いた。
Jaja   秋山幸夫のサックスを軸とするカルテットだが、今回はクラシックピアノの木村カエを加えて演奏している。楽曲はすべてオリジナルだという。13年ほど前にホリプロからメジャーデビューをして、そのあと絶賛されたり苦労したりということらしい。演奏はエネルギッシュできびきびしている。秋山のサックスは、切なく歌いあげる情緒的な表現が特徴で、プロらしく個性も魅力もある。十分楽しめた。Yamajiman
  そのあと、高槻第一中学校グランド会場に行って「ETHNIC MINORITY」を聴こうとした。ところが、段取りや準備の問題か、演奏開始が20分も遅れてしまった。それに加えて運悪く天候があやしくなり、風が強く吹き出して寒くなってきた。野外会場は少しつらくなり、早々に退散して高槻現代劇場に向かった。当初は高槻市立桃園小学校の野外会場に、元フライドプライドのShihoさんの演奏を聞きに行く予定であったが、寒さを避けて室内会場に切り換えたのである。予定外でもあり、たまたま座席がとれた現代劇場文化ホール2階展示室会場に入った。
ここではプログラムが変更されていて、公式ガイドブックに掲載されているミュージシャンではなく、代役としてYAMAJIMANの演奏が聴けた。ヴォーカルの山嶋真由美がリーダーをつとめる5人組である。
声量よりはしっとり表現するタイプのヴォーカルで、とくに最後の「この素晴らしい世界」がよかった。私もずっと前からルイ・アームストロングの歌を知ってはいたが、改めて感動した。
今年は、いろいろ他の雑事もあって、制限された時間のなか多少慌ただしく会場を歩き回ったが、思った以上におもしろく、楽しめた2日間となった。

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2017年度高槻ジャズストリート 第一日目

  今年も早くもジャズストリートの季節となった。朝晩は涼しいものの真昼はすっかり暖かくなり、今年ものんびり歩きまわることにした。
  まずは近場のJT医薬総合研究所会場に入って「シーラカンス・クラブ」というギター中心の小グループの演奏を聴く。なつかしの昭和メロディーという感じで、ペドロアンドカプリシャスやサザン・オールスターズなどを聴かせてくれた。
  次は幕間の15分で移動できる範囲として、芥川商店街の「Birth Act」という名のバーに入る。こうして、日頃縁のない商店街のバーや飲食店に入ってみるというのも、高槻ジャズストリートのひとつの楽しみである。ここではRe:VOXという名の4人グループのポップスを聴いた。説明によるとVoxというのは「物質」を意味し、グループ名は「物質に帰る」という意味だという。4人の演奏がよく合っていて大音量にもかかわらずうるさくない良い演奏だが、マイク・ミキシングがよくないのか、伴奏とくにドラムの音量が相対的に大きすぎて、ボーカルがほとんど聞こえないという難点があった。せっかくの演奏なのに、舞台装置側に問題がある。これは、肝心の店の印象にも影響してしまう。
  そこから少し歩いて、高槻市立桃園小学校グランドに行き、若手ミュージシャン「K」の演奏を聴いた。小学校グランドの全体を会場にした広い場所にかかわらず、会場はほとんど満員で、座席はもちろん立っていてもほとんど余裕がない。なかなか人気があるらしい。たしかに伸びのあるリリカルな声は、声だけでも魅力的である。トークもまずまず上手といえる。このセッションは、私も十分楽しめた。
  桃園小学校を出て、城北通商店街に行く。この付近は会場は沢山あるがどこも満員で入れない。たまたま少し余裕があった「こなもんBar IMPACT」いうバーに入る。ビルの3階にある小さなスペースで、演奏者もたった一人でがんばる「熹与詩天七」のギターの弾き語りによるブルースである。アメリカのなつかしのメロディーを、歌詞を日本語に訳してオリジナルで演奏している。プロとしては、テクニックはあるが演奏にもう少し色気がほしい、というところか。
  帰途を考えて、最後は市役所総合市民交流センターの会場で、PEPPERというジャズ・バンドを聴いた。ぺぇさんという名のボーカルと、服部則仁のサックスを軸とする7人グループである。とても音量豊かでエネルギーに満ちた迫力満点のステージであった。さすがにプロらしいところを感じさせてくれるベテランの演奏である。途中、親族の中学生らしい子供の演奏者も飛び入りして、楽しいステージとしていた。私も十分満足した。
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ライアン・ガンダー展 国立国際美術館

  イギリスの特異な芸術家ライアン・ガンダーの展覧会が、大阪中之島の国立国際美術館で開催された。1_3
  ライアン・ガンダーは、1976年生れのイギリス人で、イギリスとオランダで美術を学んだ。日常出会うさまざまな事象を、独創的な感覚でとらえ直して芸術にする、というアプローチらしい。日常の平凡なものを取り上げて、架空の状況を設定したり、意外なもの同志を結合したり、意図的に一部を除去したり隠したり、時空を超えるような発想をしたり、など既存の前衛芸術をさらに超えようとする斬新な芸術を目指しているようだ。
Gander_pic02_2   絵画については、彼は制作された絵画作品そのものではなく、絵画を描くときに用いたパレットに注目する。そのパレットをたくさん並べてアートとする。つまり絵そのもののでき映えではなく、その絵が創作された過程に思いをいたす、ということだろう。
  人間の姿あるいは姿勢を表現するものとして、金属の棒、長いねじ、金属球とスペーサーからなる人工的な関節、などを組み合わせた人体模型をつくり、それをさまざまな姿勢にセットして、人間の心理や行動を現す。「機械と安定のための演劇的枠組み」という副題がついている。G
  部屋の空間に、多数の「矢」のような鉄線を多数突き刺して並べる。「ひゅん、ひゅん、ひゅうううん  あるいは同時代的行為の発生の現代的表象と斜線の動的境界についてのテオとピエトによる論争の物質的図解と」という長たらしいタイトルの作品である。おそらく「矢」の配置や方向などが問題なのではなく、それが多数群衆していること、全体として勢い・エネルギーが感じられることがポイントなのだろう。
Img_6_m   展覧会ポスターのタイトルを飾ったのは「あの最高傑作」という題をつけられた作品で、人間の眼と眉毛の模型を壁に埋め込んだもので、その前に人が対峙すると、人の気配を感じて眼を閉じたり廻したり、眉を動かしたりするしかけとなっている。なんとなくユーモラスであり、しかし見方を替えると「人間の豊かな表情」なるもの、も実はこんな具合にパターンが決まったきわめて条件反射的なものが多いのかもしれない、などと考えてしまう。
  今回の展覧会では、この美術館の常設展のレイアウト・デザインをライアン・ガンダーが担当していた。これはこの美術館の収蔵作品を展示するもので、ライアン・ガンダーはなんらかの類似点をもつ作品をふたつずつ並べて展示することで、観るものに新しい発見、発想、感覚を引き起こそうとしている。ここで展示されている作品はライアン・ガンダーのものではないが、むしろそれゆえに、彼がどのようにモノを観ているのか、なにを考えているのか、が却ってわかりやすい、というおもしろさを感じることができる。
  「コンセプチュアル・アート」というらしいが、私にはあまりに奇抜でわかりにくいが、新しい発想の視角芸術というものが、わからないながらも少しは楽しめたように思った。
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映画『ドライビング Miss デイジー』 

  エティハド航空国際便の機内エンターテイメントで、映画『ドライビング Miss デイジー』を観た。1989年のハリウッド映画で、アカデミー賞作品賞他4部門で受賞した名作だという。
  さきの大戦直後のアメリカ南部アトランタを舞台に、モーガン・フリーマン演じる黒人運転手ホークと、富裕なユダヤ系老婦人デイジーとの心の交流を描くドラマである。
 貧しい境遇のなかまじめで熱心な教師として働いてきたデイジーは、息子の事業の成功でいまは富裕になったものの、決して成り金的なふるまいをしたくない。老いても自分でキャデラックを運転しようとするが、運転をあやまって隣家の垣根に突っ込んでしまう。見かねた息子は、母の反対を押し切って黒人運転手ホークを雇った。最初はホークを受け入れなかったデイジーだが、ホークの正直でまじめな人柄を徐々に認めるようになる。
 やがてデイジーのもうひとりの従僕であった家政婦のアイデラが急死して、デイジーはますますホークに頼るようになる。ホークは、デイジーにとって、信頼のおける面倒みのよい従者であった。
 あるときKKKによってユダヤ教徒が集まるシナゴーグが爆破されるという事件がおこり、黒人とともに迫害を受けるユダヤ人として、デイジーはマーチン・ルーサー・キング牧師の講演を聞きに行こうと息子を誘うが、息子は事業上の付き合いを考えて講演会同行を断った。デイジーにとって、ホークは息子以上に信頼する親しい友人となっていった。
 ある日、デイジーは認知症の症状を現す。やがて老人ホームに介護つきで入所したデイジーを、すでに引退した老いたホークが訪ねる。息子を追いやり、ホークとふたりだけで談笑するデイジー、この場面で映画は終わる。
 なによりホークを演じたモーガン・フリーマンの控えめでいぶし銀の演技が光る。デイジーを演ずるジェシカ・タンディも素晴らしい。彼女はこのとき80歳で、史上最高年齢でアカデミー主演女優賞を獲得したそうだが、老人のひとりとして私は、セリフを記憶し、身体を動かして素晴らしい演技ができる、ということに敬意を感じる。
 心がやすまり温まるヒューマン・ドラマは、いつの時代も良い。
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出石散策(16)

出石永楽館と現代歌舞伎・落語
Eirakukan2015omote2  永楽館が会場を貸し豊岡市出石町が興行主となって、毎年「永楽館大歌舞伎」が催されている。片岡愛之助が新妻藤原紀香を連れて会場に訪れると、大喝采を浴びるという。平成27年興行では「出石の桂小五郎」という演目で、片岡愛之助が出石に潜伏する桂小五郎を演じて好評を得たという。やはり出石と桂小五郎は、切り離せないエピソードとして今に生きているようだ。こういう地元独自の演目を組むことができるのも、伝統的な城下町のメリットである。地方自治体の予算を使うけれど、地域振興としては評判がよい。
 また、もうひとつの人気の興行が落語である。これも毎年桂米朝一門が訪れて寄席を行い、大層な盛況となるという。米朝が亡くなったあとでも、桂ざこばなどの高弟が来訪して、場を盛り上げる。Photo
 落語については、関連する興味深いエピソードもある。出石の町を散策していて、ふとあるお米屋さんの店先を通り掛かると、正面に「但馬国立いずし落語笑学校」と黒々と墨で記された立派な看板が掛かっていた。興味をひいたのでお店の方に聴くと、出石永楽館での落語寄席がきっかけとなって、毎週1回このお店の二階で希望者が集まり、落語家を先生として落語学校を実施しているという。
 こうして出石永楽館は、いまでも町の伝統遺産として町のシンボルのひとつであり、町の人びとに貢献している。
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