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2017年6月

中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (30)

アクロポリス山麓をめぐる アテネ③
  ローマン・アゴラから通行人に道を聞きつつ、アクロポリス遺蹟がある山の北側の山麓を歩く。ときどき古代アゴラ遺蹟を見上げることができ、ヘファイトス神殿跡が見えることもあった。西から東に向かう山麓のテオリアス通りを進む。Photo
 途中分岐があり、坂を降りてきた人に様子を聴くと、ここから2分ほど登ったところにとても眺望の良い場所があるとのこと。それにしたがい坂を登った。しばらくすると、たしかに北に向けてアテネ市街を見下ろす展望のよい場所があった。今日は、遺蹟の施設に入場できないので、すべてこうして外から眺めるだけしかできない。アクロポリスの丘は、さほど標高が高いとも思えないけれども、こうしてアテネ旧市街のほぼ全体を見下ろすことができる。遠くに山も見える。アテネ付近は、結構起伏の多い土地柄のようだ。

Photo_2

 ギリシアの都市国家は、互いに山脈を自然の国境として棲み分けていたが、平野においては隣国からの侵入を防ぐことは容易ではなかった。そこで丘の上に城を築き、国の最後の防衛拠点とした。これがアクロポリスであった。アクロは「高い」、ポリスは「町」を意味する言葉である。
Photo_3  アクロポリスの丘を、歩き初めは西から東に進んだが、展望の場所付近からはゆっくりカーブをまがって南に進むタラッシロ通りに入る。多少の上下を経て進むうち、アクロポリス遺蹟公園の入口に着いた。今日は入場できないけれども、私たちと同じような立場の観光客が多数たむろしている。私たちのクルーズ船のオプショナル・ツアーの団体もそこに見つけた。入場料は30ユーロ(約3,800円)だそうだ。なかがどんなのか不明だが、パルテノン神殿、音楽堂、劇場、アゴラなどさまざまなものが広大な地域に散在しているのだから、さほど高額とも言えないのだろう。
 ギリシア観光局の建物があるが、今日は休日で閉鎖されている。ただ公衆トイレも閉鎖されているのは、観光客に対して、いささかホスピタリティーが欠けるのではないだろうか。
 こうして「ギリシアの休日」を眺めていると、やっぱりナアと思ってしまう。EUから11兆円にも上る巨額の支援=債務をチプラス首相の「努力」でとりつけ、首都の玄関たるピレウス港を中国に買収されるような悲惨な財政破綻をしながら、こうして休日となると、これだけ大勢の外国からの観光客がいるのに、それをほったらかして「先進国並に」しっかり休むというのである。そんなのんびりできる状況じゃなかろう、と。こんな怠け者の国民性では、どのみち未来はないように思えるのは、私が日本人だからだろうか?

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (29)

ローマン・アゴラ アテネ②
Photo_4   モナスティラキ駅で降りると、駅前には広場がある。多分モナスティラキ広場だと推測できるが、ローマン・アゴラに向かうアレオス通りに入る道がわからない。駅売店の青年に聞いてみたら、幸いこの青年は英語が少しわかり、教えてくれた。やがてローマン・アゴラの入り口らしい場所にきた。この日は日曜日でほんらい大部分が休日閉館のうえに、ギリシア正教会のイースター祭日に重なり、すべての催しや会場は停止していて入場できない。なんでまたそんな日に寄港するのか、と言いたいところだが、船の運行の都合らしい。Photo_5
  ローマン・アゴラ遺蹟公園を外から眺める。それでもこの遺蹟のポイントである石柱群と「風の神の塔」は見える。
  ローマン・アゴラはローマ時代初期、つまり紀元前1世紀からしばらくの間のアゴラ(市場)の跡である。そのころこの地は、市場兼集会場として賑わっていたのだろう。大理石でできた八角形の塔「風の神の塔」は、紀元後1世紀の天文学者アンドロニコスが建てたもので、日時計・水時計・風見の3つの機能をもっていた。八角形の塔の8面には、それぞれの方角の神がレリーフとして刻まれた装飾的な建造物でもある。いまでこそ風化しているが、かつては壮麗な建造物であったと推測できる。
  このあたりからもパルテノン神殿らしき遺蹟を遠望することができる。
  この近くのみやげ物店で、家人が小さな布袋をまとめて購入した。日本とちがって、ここも一物一価の世界ではないようで、購入のたびに交渉が必要である。このような折衝に不得手な私がそれなりの努力をしたのだが、後にもっと安い店を発見することになる。
Photo_3

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (28)

アテネ地下鉄 アテネ①
  ハイファを出航して1日の海上生活ののち、最後の寄港地ギリシアのピレウス港に到着した。Photo
ピレウスは古代からアテナイの外港都市として繁栄した港町で、地中海とヨーロッパを結ぶ海上交通・海運の要衝であり、現在も地中海沿岸で最大規模の港湾都市である。コンテナ埠頭での取扱貨物量でも、また地中海クルーズの拠点としても地域での存在感は大きい。しかし経済が破綻してすっかり病んだギリシアは、2016年4月中国国営企業にこのピレウス港の管理・整備・開発の権利すべてを売り渡した。ここを10年ほど後に再訪したら、すっかり景観も変貌して、もしかしたら中国の軍事拠点に変貌しているのかも知れない。
 さて、この日はアテネの散策だが、このアテネ散策だけは、いつもの友人夫妻との4人での行動ではなく、私たち夫婦2人のみであった。いつもの頼りになる友人がいないので、その意味ではいささか緊張した。
Photo_2   家人も私も、街を散策するときはできるだけ公共交通機関を使って移動したいと思っている。地元の雰囲気がよくわかるからである。
 下船したターミナルから地下鉄ピレウス駅までは、徒歩20分程度と聞いていたので歩くことにした。しかし波止場というのは地理的になかなかわかりにくい場所である。居合わせた地元の人たちに聞いてみるが、あまりわかりやすい情報は得られない。少し歩いていくと、観光バスが止まっていて、呼び込みがあった。「今日アテネは全面的に休日で、地下鉄も止まっている。観光バスしか移動手段がないよ」と真顔でいう。これには不安を感じたが、家人がともかく駅まで行こう、と言ってくれたので、思い切って歩き続けた。
  教会のある場所近くで6人連れのアメリカ人グループに出合った。私たちと同様、地下鉄駅まで歩くのでついてこい、という。声をかけてくれた男性は、私より少し若い程度の中高年で、ケーブルテレビの仕事をしていたという、ユタ州出身のモルモン教徒だと、聞かれる前に言ってくれた。このグループは、いずれも私たちと同じクルーズに参加している人たちであるらしい。グループの一人は、スマホのナビゲーション地図を使っていて、ひとまず安心した。Photo_3
  30分余りも歩いて駅についたが、この駅は地下鉄ではなく通常の鉄道駅であった。駅で駅員に聴くと、少し戻った場所に地下鉄駅があるという。ちょうど地下鉄駅の近辺が工事中で、道路から入り口がみえにくくなっていたようだ。ようやく駅について、キップを購入し、あわせて100ユーロの札をくずすこともできた。ピレウスからアテネ市街の中心部にあるモナスティラキ駅まで1.4ユーロ(約180円)約20分の道のりである。
  この駅のプラットフォームで、ひとりの大柄な老人と出会った。ひとなつっこく英語で話しかけてきて、日本は美しい国だ、日本人に会えてうれしい、と言って座席にも隣り合って座ってくる。ポリ袋とカートのついた大きな荷物を引っ張って、なにかうさんくさい印象もあったが、モナスティラキ駅の手前まで隣り合わせの座席にいた。彼はアテネ市内の家賃月120ユーロの安い下宿に住んでいて、古本を扱う仕事をしているという。若いころスウェーデンのイエーテボリの学校で英語を学び、かつて日本のパナソニックにかかわる仕事をしたことがあり日本を少し知っている、ともいう。ギリシアで英語を話すひとはさほど多くないようだ。
 ともかく、しばらくしてやっと最初の目的地である地下鉄モナスティラキ駅に到着した。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (27)

クルーズ船内の生活(下)
 昼食は主に野菜を摂るようにしていた。3回の食事をしっかり摂り過ぎると、老化した身体では夕食時に食欲がなくなってしまう。
 午後も同様で、一回のクルーズではすべて経験しきれないほど多数のクラスが同時並行で用意されている。エクササイズ系以外に、トランプやチェスなどの遊戯系や、クイズやパズル、さらには工芸教室のようなものもある。私たちも、ベネチアの舞踏仮面を自分でつくるというクラスを経験した。
 ほとんど毎日、昼間の劇場を会場にして講演会がある。寄港地での観光の案内、宗教に関する講演、船内施設の説明などのレクチャーである。
 私たちはディナーの時刻を午後8時半からと指定していた。それに対して、毎晩行われるショーは、8時からと10時半からの2回、あるいは7時からと9時半からの2回となっていて、ディナーとぶつからない方でショーを観ることになる。Showtime_flyrights
 ショーは、ピアノやヴァイオリンのクラシック演奏会、ジャズの演奏会、ジャズやポップスの歌手の舞台、マジシャンの舞台など、毎日内容が変わる。時間はだいたい1時間10分から1時間半余りで、通常のショーより少し時間が短く、緊張感が続く範囲である。すべてが大満足とはいかないが、多くはなかなか楽しめた。
 ディナーは毎日同じテーブル、同じウエイトレス、同じアシスタントウエイターである。前菜・メイン・デザートは、幾皿とってもよい。実際にはそんなに食べることもできないけれど。日本料理がないのが長期的には寂しいけれど、食事の質はわるくない。私たちは偶然ながら良いウエイトレスとアシスタントウエイターにあたったので、とても快適なディナーを毎晩とることができた。おかげでクルーズが終わって帰国すると、2キロほど体重が増加していた。
Photo  ディナーのあとは、日によってショーを観るが、それ以外にはディスコやカジノ、それにカラオケもある。カラオケには一度参加してみたが、意外にもかなり大勢が集まっている。いずれの国もカラオケが好きな人たちが大勢いることを体験した。希望すれば選曲して登録し、順番に舞台に出て歌うことになる。私も1回だけ「想い出のサンフランシスコ」を披露した。こんなに大勢の前で歌うのは初めての経験であった。興味深いのは、舞台にあがった人を聴衆は意外によく覚えているらしく、私もこのあとエレベータの中や廊下などで出会った人から、名前のかわりに曲名で呼びかけられて握手を求められたりする機会があった。
 そういう次第で、海上を航海するだけの日々も、けっして退屈することはなかった。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (26)

クルーズ船内の生活(上)
 クルーズ船で旅行するにあたり当初心配したのは、長い船旅で港に着岸しない期間をすっかり退屈してしまうのではないか、ということであった。そういう有り余るかも知れない時間のことを考えて、私は少し本を持参していた。しかしそれはまったく杞憂であった。
  以下は実際に完全に毎日励行したわけではないが、だいたいの日課のイメージである。
 朝はだいたい6時過ぎころに起きる。フィットネス・クラブは6時から開いているが、私はまず10階デッキのジョギング・ウォーキング・トラックに出て、3周から5週(1.2キロ余りから2キロ程度)ほどゆっくりジョギングし、そのあと時間調整分を歩く。
 7時からは、フィットネス・クラブでのストレッチ・クラスに入る。このためには、6時半ころから場所とりのマットを確保しておく必要がある。この講師はさほど熱心でなく親切でもないが、内容はなかなか充実していて、あとはすっきりした気分になれる。これは7時30分ころに終わる。
Photo  それから朝食である。たいていはブュッフェ・スタイルのカフェで朝食を摂る。まず座席を確保して、自由に食材を取りにでる。前菜、スープ、メインディッシュ、デザート、コーヒー・紅茶、ヨーグルト、果物などなど、ほとんどなんでもある。焼きたてのオムレツも好評で、オムレツの中味を選択・注文でき、待ち行列ができる。飲み物は、ウエイターに頼むこともできる。朝食は、ディナーと同じレストランでも可能で、ただそこでは食事はすべてウエイターに注文してサービスしてもらって食べることになる。
 午前9時からは、4階デッキの船内広場Centrumでフィットネス・ダンスに参加する。テンポの速い音楽にあわせて、講師のいうとおりの振り付けをこなす。ここでは講師も同じ向きの手足を動かすらしく、左右は意識して真似ないと逆になる。これは40分程度で、十分な運動量ですっかり汗をかくPhoto_2
 このあとは、甲板でチェアーに座って寛ぐなり、ジャグジーで風呂がわりに寛ぐなり、ちいさなプールで運動するなり、ボルダリングをするなり、エアロビクスなり、いろいろなスポーツ・エクササイズプログラムがある。もちろん人気の高いプログラムとそうでないものがあり、人気が高いものは早くから会場に行って、スペースを確保することも必要である。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (25)

ハイファのバハーイー庭園 イスラエル⑪
  少し時間が余ったこともあり、私たちは最後にハイファのバハーイー庭園を見学することにした。タクシー運転手にバハーイー庭園の最上部まで連れて言ってもらい、そこからは徒歩で庭園を降りて、ハイファ市街を歩いて船に戻る、ということになった。
  バハーイー教は、「バハイ」とも呼ばれる新しい世界宗教である。神学的にはアブラハムに遡る一神教であるが、モーセ、イエス、ムハンマドらに加えて、アブラハムの宗教に含まれていないゾロアスター、釈迦などの世界の全ての大宗教の創始者も神の啓示者であるとして包含している。そして、バハーイー教の創始者バハーウッラーはそれらの最も新しい時代に生まれたひとりであるとされている。Photo
  1844年イランの商人であったセイエド・アリ・モハメッド(1819-1850)は、「神が現したもう者」の先駆者・準備する者と自覚し、アラビア語で「門」を意味する「バーブ」を名乗った。彼が開いたバーブ教は、実質的にはイスラム教から独立した宗教とみなされている。彼はイランのムスリムから激しい反発を受け、政府の弾圧を蒙り、1850年処刑された。しかし信徒たちは彼が予言した「神が現したもう者」を探し続けた。
  イランの高級官僚の家に生れたミルザ・ホセイン・アリ(1817-1892)は、バーブ教の当初よりの信者であったが、1852年に政府に拘束されテヘランで獄中生活を送った。この獄中生活のなかで、彼は自分こそがバープが言っていた「神が現したもう者」であると自覚するに至り、9年後イラクのバグダッドに追放されたときにそれを宣言し、「神の栄光」を意味するバハーウッラーの称号を名乗った。これがバハーイー教の本格的な開始であった。
2   バハーウッラーの教えはほとんどのバハーイー教徒に受け入れられたが、バハーウッラー本人は政府によって最終的には当時の監獄の町であったアッコーの牢獄に移され、そこで絶命した。そのあとは彼の長男アブドル・バハーが継いで、指導者となった。
  アブドル・バハー以後、世界的な宣教が精力的に推進され、いまでは世界189ヶ国と46の属領にひろがり、信者の総数は500~600万人とされる。キリスト教についで、世界的にもっとも普及した宗教だそうである。
  この庭園は一般に無料公開されているが、教団指定のツアーに参加することが必要である。ツアーはヘブライ語、英語、イタリア語など説明する言語ごとに設定されていて、順番に実施される。私たちは時間的にタイトであったため、説明は理解できないが、こっそりヘブライ語のツアーに入り込ませていただいた。
  庭園から港を臨むと、われわれが乗るクルーズ船がみえた。
  エルサレムとハイファ・アッコーにきてみて、率直な感想は「イスラエルの人たちは意外に外国語、とくに英語がそんなに話せない」ということ。ヨーロッパの比較的小さな国、たとえばスカンジナビア諸国、スイス、ベルギーなどは、町で出合う人たちの大抵が英語を解する。イスラエルも大きな国ではないし、私が仕事で出合って人たちはトップクラスのインテリたちだったこともあって、とても英語に堪能な人たちだったこともあるのか、勝手にイスラエルの人たちはみんな英語がよくできるのだろう、と錯覚していた。
  最近の国際情勢の緊迫、テロの増加など、中東のとくにイスラエルは危険が多そうで、今回の旅程でもいちばん緊張する場所だったが、幸いにして無事に過ぎたことは幸いであった。ヨルダンのペトラ遺蹟もそうだが、イスラエルの歴史も、途方もなく古くからの長い歴史を背負っているので、よくわからないながらも圧倒された。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など一神教の、恐るべきとも言えるエネルギーの息吹にも触れることができたように思った。とても印象の強い観光であった。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (24)

アッコーのオカシ美術館   イスラエル⑩
 
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モスクの近くに「オカシ美術館」がある。オカシというのは、この町を愛した画家アヴシャローム・オカシ(Avshalom Okashi 1916-1980) の名による。彼は1948年にこの町に来て以来、終生この町を愛し居住した。イスラエルの代表的画家のひとりであり、アッコーで美術を教え、またハイファ大学芸術学部において教鞭をとったという。
  作品群は現代美術であり、美術作品は言語を超えて私たちにも困難なく鑑賞できる。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (23)

ジャーマ・アル・ジャッザール   イスラエル⑨
  アッコーには美しい緑色のドームと高いミナレットをもつモスクがある。ジャーマ・アル・ジャッザールという名のモスクである。Photo
  オスマントルコの総督であったジャッザール・アフマド・バーシャーがサンタ・クローチェ大聖堂の跡地に建造したものである。ふんだんに大理石をもちいた豪華な建造物で、アラベスク模様、シャンデリアなどはまさに華麗である。ローマン様式の柱は、ここから100kmほど南のカイザリアという町から運ばれたものだという。
  またここには、ムハンマドの頭髪が保管されているとされる。
Photo_2   神聖な場であり、実際ひとりの信者がなかで丁寧かつ熱心に礼拝を行っているが、ここも撮影禁止ではない、というのが私たちにとっては少し意外である。
  正面がメッカの方向になっていて、ムスリムたちはこの方向に向かってなんども丁寧に礼拝を繰り返す。
  一応入場料のようなものとして1ドルを支払うが、その金額が有料トイレと同額ということになんとなく気づいてしまう。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (22)

テンプラーズ・トンネル   イスラエル⑧
  十字軍は第一次の勝利の後、聖地奪還に満足してしまって多くは帰国してしまい、中東地域に残されたキリスト教勢力(=十字軍国家)は不安定になってしまった。これに対処すべく12世紀初頭にテンプル騎士団が結成された。この騎士団は、修道会であり、戦闘員の軍団であり、またキリスト者の資産管理団体でもあった。彼らは中東地域のキリスト教拠点を維持するため、軍事的・経済的拠点を積極的に構築した。アッコーにも12世紀後半、要塞を構築し、また居住区をつくった。

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  テンプラーズ・トンネルは、市街西部の要塞と市街東部の港とを地下トンネルでつなぐもので、トンネルの天井の低い部分は、腰を曲げてようやく通過できる高さである。全長は350m で通り抜けると港に出る。低いトンネル部分は岩石を斧で切り開いて、また高い部分は斧で切り出した石を組み合わせて構成しているという。 
  このトンネルは、1994年に偶然発見され、1999年8月から一般公開されるようになった。専門分野は異なるものの、ひとりの技術者としては、今から900年も前に、よくこんなしんどい大変な工事を完成させたものだと、改めて感心する。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (21)

アッコーの十字軍の町  イスラエル⑦
  13世紀にこの地に到来した十字軍にかかわる史跡をあつめて「十字軍の町」とひとくくりにした観光地となっている。約1,200円程度の入場券を購入して、順次見て回るシステムである。入場券を購入すると、有料トイレを1回だけ使用でき、2回目からは毎回100円程度のトイレ使用料を徴収されることになる。イスラエルも公衆トイレは少ないので、トイレに関する情報も観光する者には大切である。Photo
  12世紀初頭から13世紀末期の1291年にマムルーク朝アシュラフ・ハリールにより追い出されるまで、このアッコーの地に十字軍の実質的な国家的組織が存在し、さまざまな活動を行っていた。そのときの主要な施設・史跡が集合する中心部を見学するのである。
この遺蹟の特徴は、広大な地下施設の遺蹟である。12世紀ころの史跡だが、騎士のホール、地下聖堂、病院・施療院、商店街通り、などが展開する。詳細はよくわからないが、印象としては十字軍のムスリムに対する乱暴や残虐性を指摘するよりは、十字軍がこの地に医療や経済的繁栄に貢献したことの方を主に取り上げているように思う。
Photo_2   入場者は、入り口でワイヤレス・イヤホンを借り受けて、場内の指定場所に立ち止まって説明を聴く。言語は、ヘブライ語・英語・スペイン語・フランス語・ドイツ語・ヨルダン語・中国語・ポルトガル語・イタリア語などがあるが、残念ながら日本語はない。どうやら中国はやはり訪問客が多いらしい。係員に聴くと、日本人の来訪者はやはり少ないとの由であった。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行(20)

アッコーの旧市街  イスラエル⑥
  エルサレムを観光した日の夜クルーズ船はアシュドット港を出航し、翌朝早くイスラエルのもうひとつの寄港地ハイファに到着した。
  ハイファ港からの出航は午後4時と早いので、観光は半日といささかせわしない。ハイファから50kmほど北にあるアッコーを訪れたいと思い、当初は鉄道で移動することを想定しつつ下船した。しかし下船して鉄道の駅に行く途中で、タクシーの売り込みに逢い、交渉のすえタクシーで行くことに変更した。運転者は30年近く前に3年間ほどアッコーに住んでいたことがあるという警察官出身の人物で、独特のなまりのある英語でよくしゃべる。悪い人物ではなさそうだが、前日のひかえめな印象の運転手とくらべると、いささか強引でうるさい印象がある。
Photo
  1時間ほどのドライブでアッコーの旧市街に着く。この地は、地中海の交易の要衝として、すでに紀元前16世紀からフェニキア人が住み着いて繁栄していた。そのあと、十字軍、エジプトのイスラム国マムルーク朝、オスマントルコなどの支配を受けた。現存する寺院や市街地の古い建物は、アッコー・ガラリア地方の総督であったジャッザール・アフマド・バーシャーがいた18世紀ころのオスマントルコのものが多いという。19世紀初頭ナポレオンがエジプト・パレスチナ遠征に通過し、そのあとイギリスの統治下に入った。1948年のイスラエル独立後は、旧市街にはおもにアラブ人、城壁外の新市街には主にユダヤ人が住んでいる。アッコーは、オスマントルコ統治以降英国統治下のころまで、「監獄の町」でもあった。ここもヨーロッパの古い街なので、旧市街は城壁に囲まれている。ただ治安上城壁には勝手に登ることはできないらしい。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (19)

聖墳墓教会  イスラエル⑤
  ヴィア・ドロローサを突き抜けて、少し坂を上ったり下ったりして聖墳墓教会に着く。ここも残念ながら、今日は中に入ることができない。

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  聖墳墓教会は、イエスの墓、天使の礼拝堂などの複数の礼拝所を複合した施設で、中東地域のキリスト教会行政の中心となっているという。
  キリスト教をはじめて公認したローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、325年イエスが磔刑にかけられたゴルゴダの地に教会を建立することを命じた。しかしそれまでに帝政ローマの下で紀元1世紀のうちに2度にわたるユダヤ戦争でエルサレムは破壊され、ゴルゴダの場所がよくわからなくなっていた。326年にエルサレムを訪れたコンスタンティヌスの母ヘレナが、当時はヴィーナス神殿となっていたこの地で磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物を発見して、この地をゴルゴタに比定したと伝えられている。このヘレナを讃えた聖ヘレナ教会と、十字架発見の聖堂もこの聖墳墓教会のなかにある。しかしいずれも私たちは見ることができなかった。
  聖墳墓教会の前を過ぎてしばらく歩くと、最初に来たダビデの塔に着く。エルサレムの旧市街を急ぎ足でざっと一巡したわけだが、当初懸念していた安全の問題も杞憂に過ぎ、ほっとした観光であった。ホーリー・シーズンということで、エルサレムを訪れる信者の数も通常より多いらしく、とくに午後からは一層街が混雑していた。建物のなかに入ることができなかったのがとても残念だが、とくにユダヤ教徒たちの熱心な信仰の姿を目の当たりにできたことば、とても印象に残った。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (18)

ヴィア・ドロローサ  イスラエル④
Photo   歎きの壁の広場を挟んで壁と反対側には、エルサレムの旧市街にあわせた擬古的なデザインのアパート群が建っている。これらのアパートはエルサレム旧市街のなかにあるため、とても高価だそうである。多くはアメリカの富裕なユダヤ人が購入している、という。ユダヤ人たちは世界中にディアスポラして、現住所はアメリカやヨーロッパ、アフリカなどさまざまであっても、やはり信仰の郷里たるイスラエル、とくにエルサレムに家や墓を所有する、というのが生涯のひとつの夢であり目標である、ということらしい。Photo_2
  歎きの壁から、本来は神殿の丘の外壁内に入って、岩のドームなどせめて外形だけでも間近に観たいところだが、この日は残念ながらホーリー・シーズンですべて休日・閉鎖であり、われわれは止むを得ずヴィア・ドロローサに向かった。そのため、ムスリム地区に入っていく。ムスリム地区は、これまた雰囲気が一変する。ムスリム地区特有のスークが続く。
  やがて運転手の導きにしたがい道を曲がってヴィア・ドロローサに入る。ヴィア・ドロローサはとても有名なはずだが、この道に入る分岐点の標示は実にささやかで、われわれが自分で歩いていたらきっと見落としたのではないか、と思う。
Photo_3   ラテン語で「苦難の道」を意味するヴィア・ドロローサは、キリスト教ではイエスの最後の歩みを意味し、イエスが、総督ピラトの官邸から刑場のあるゴルゴダの丘まで、十字架を背負わされて歩いた道のことである。このような悲しく荘厳な由緒をもつ小道なのだが、現在では参拝者や観光客でごった返す、狭くて長い混雑した商店街となっている。家人はこの商店街のひとつの店で、ペンダントを購入した。イスラエルはユーロやドルも通用する。例によって一物一価に非ず、時間をかけた値段の交渉が必要であった。
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歎きの壁  イスラエル③
  ダビデの墓を出て、ふたたびシオン門からエルサレム旧市街に入る。アルメニア人地区からこんどはユダヤ人地区に入る。東に向かって城壁に沿って歩くと、眼前にオリーブ山が見えてくる。ゲッセマネの園がある山である。オリーブの油搾りを意味する「ゲッセマネ」はかつてオリーブの庭園があり、イエスがユダに裏切られ捕らえられた場所であり、聖母マリアが埋葬された場所でもある。オリーブ山には、この他に「万国民の教会」や「マグダラのマリア教会」もあるという。Photo
  ユダヤ人地区をさらに進むと、やがて神殿の丘の「岩のドーム」が見えてくる。遠景の岩のドームを背景にして、タクシー運転手ミハイルと写真を撮った。ミハイルは伸長も高いが、横にも大きい人である。
  エルサレム旧市街は、意外にきれいに整備された場所であるが、起伏があって坂の上り下りが頻繁にある。しかも道はたいてい小道でさまざまな方向に走っているので、私たち訪問者にはとてもわかりにくく、迷いがちである。今回は幸いよいタクシー運転手の導きにより、迷わず効率的に歩くことができた。
2
 
坂を下っていくと、右前方向に岩のドームと歎きの壁が見えてきた。まだ午前中だが、歎きの壁の前の広場には大勢のユダヤ教信徒たちが群衆をなして集まっている。
  これらは「神殿の丘」と呼ばれる場所で、かつてはユダヤ教の神殿が建っていたという。バビロンの捕囚から帰還したユダヤ人たちはここに神殿を建て、さらにヘロデ王が改修した。しかし紀元70年ローマのティトス将軍がこれを破壊した。そのとき神殿を囲む西側の外壁が、かろうじて破壊を免れて現在まで「歎きの壁」として残されているのである。「西の壁」とも「歎きの壁」とも呼ばれる。神殿が破壊されて以来ユダヤ人たちは、1967年までは年に一回しか許可されていなかった来訪のたびに、帰郷の夢をいだいてここで祈るようになった。とくに神殿破壊の日とされる7月か8月の特定日には、多くのユダヤ人たちがここに集まり、神殿の再建とメシアの来臨を断食しながら祈る。彼らは、それぞれの悲願を紙切れに記して壁の石の間に差し込む。夜になって石の間にたまった夜露がその紙をつたって落下するようすが、ユダヤ教の聖書にでてくる壁に生えるヒソプの草をつたわる涙のようにみえることから「歎きの壁」と呼ばれるようになったと伝える。
  ユダヤ教徒たちは、壁に頭をこすりつけ、あるいは頭を打ちつけ、真剣に聖書を読んで祈っている。私たちユダヤ教に無関係な者も、彼らと同様に壁に近づくことが許されているけれども、彼らの真摯な迫力に気押されて、撮影も壁への接触も憚られ、少し壁からはなれた場所で丁寧に一礼した。2,000年近くにわたって、門外者にはただの石壁に過ぎないものに真剣にぬかずき祈るユダヤ教徒たちの信仰のエネルギーを間近にみて、ユダヤ教あるいは一神教の強烈な信仰のパワーを再認識する思いであった。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行(16)

シオンの丘 イスラエル②
Photo_4   ヤッフォー門を入ると、眼前にダビデの塔が聳える。残念ながらこの日は、このなかに入場することができない。ダビデの塔をまわって、アルメニア人地区に入り、ここを南下してシオン門から一旦旧市街を出ると、シオンの丘に建つマリア永眠協会が見えてくる。旧市街の通路は、それぞれ大きくはないがよく整備され、掃除も行き届き、さすがに先進国の都市という雰囲気で不潔感、汚さ、猥雑さとは無縁の雰囲気である。
  アルメニアという名は、私たちにはあまりなじみがないが、黒海とカスピ海の間、アゼルバイジャン・グルジア・トルコに隣接する小さな共和国として現在に至っている。古代ローマ帝国、ササーン朝ペルシアなどの大国に翻弄されながら、紀元1世紀キリスト教発祥からまもなくキリスト教が普及し、紀元301年世界ではじめてキリスト教を国教とした国であり、民族である。この後も、セルジューク朝トルコ、モンゴル、ティムール帝国などに翻弄され、10世紀ころ民族は散り散りにディアスポラする苦難の時代を経た。Photo_2
  マリア永眠教会に入る。ここは聖母マリアを祀るエルサレムで最大規模の教会である。ネオ・ロマネスク様式の、天井の高い大きな礼拝堂がある。これは当然ながら、キリスト教の施設である。まだ新しいきれいな教会だが、創設は1910年だという。
  マリア永眠教会を出て、すぐ隣接するダビデ王の墓に行く。ここに祀られるダビデ王は、紀元前1,000年に遡る太古の人物である。羊飼いから身を起こし、イスラエル初代王サウルの死後王位を継ぎ、エルサレムを都とし、40年にわたって統治した英雄である。
  ユダヤ教の礼拝所では、男女が分かれて別々に祈る。私たちはユダヤ教徒に混じって、入り口で白いナイロン製の簡易キッパを借りて頭上に載せ、ダビデの墓にぬかずく。こんなに真剣なユダヤ教徒たちと、真剣な礼拝だが、写真撮影は禁止されていない。大勢の信者たちが混雑しているものの、やはり敬虔な雰囲気があって、写真を撮ることもいささか憚られるような気分である。
Photo_3   このようにユダヤ教とキリスト教の聖地であるエルサレムでは、数千年の年月を軽々と飛躍したような遺跡や建物が狭い地域にひしめいている。
  日本も歴史ある豊かな国であるが、ここでははるかに古い歴史を引きずって現在にいたって世界中から敬虔な信徒が集まっていることに、改めて感銘を受ける。

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