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2017年7月

「遙かなるルネサンス」神戸市立博物館 (3)

ローマとグレゴリウス13世拝謁
Gregory_xiii   そしてついに遣欧少年使節は1585年3月23日、ローマで、ローマ教皇グレゴリウス13世に拝謁した。グレゴリウス13世は、ボローニアの富裕な商人の家に生れ、名門ボローニア大学で法学を修め、後進に教鞭をとった。36歳のとき教皇パウルス3世に招かれてローマに移り、教会の法務を勤めた。教皇ピウス4世のとき枢機卿に任命され、宗教革命に対抗してカトリック教会の刷新と自己改革を議論したトリエント会議にも参加した。自ら学問を好み、また周囲にも奨励した。有名なグレゴリウス暦を採用したことでも広く知られている。このグレゴリウス13世が中央に描かれた絵画「ヨーロッパ内外にセミナリオを設立するグレゴリウス13世」(17世紀初頭)が展示されている。
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「遙かなるルネサンス」神戸市立博物館 (2)

トスカーナ大公国(下)
Photo  絵画の最初は「フランチェスコ1世・デ・メディチの肖像」(1570年)である。遣欧少年使節がトスカーナを訪れたとき、トスカーナ大公であった人物である。遣欧少年使節は、1585年3月2日ピサに着き、ピサ宮殿において、このフランチェスコ1世・デ・メディチに拝謁した。フランチェスコ1世・デ・メディチは、神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世の娘ジョバンナを妃とし、8人の子供を得たが、ジョバンナが存命中からヴェネツィア富豪の美貌の娘ビアンカ・カッペロを愛人とし、ジョバンナが急死するやビアンカを妃とした。ビアンカの肖像画も2点展示されている。遣欧少年使節が訪問したとき、伊東マンショとダンスをしたと伝える。その肖像画も展示されているが、たしかに美人である。
  フランチェスコ1世・デ・メディチの一族にはスキャンダルが多く、悪名高い大公であったとされる。肖像画も、この類の肖像画にありがちな聡明さ、優雅さを敢えて表現したというよりは、いささか狡猾な、あるいは高慢な人柄を表したようにも思えるのは、観る側の先入観からだろうか。Photo_2
 そのメディチ家の少し先代にあたる人物に、この展覧会のポスターに用いられた美しいヒロインがいた。「ビア・デ・メディチの肖像」(1542年ころ)である。富も権力もあるメディチ家に誕生し、その可憐さから一族の愛情と期待を一身に背負ったであろう王女であったが、不幸にも6歳を待たずに亡くなったという。幼いにも関わらず完成された優雅さと美貌をもって描かれている。もちろん彼女が生きた時代は、日本の遣欧少年使節が到着する以前のことであった。

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「遙かなるルネサンス」神戸市立博物館 (1)

 神戸市立博物館に「遙かなるルネサンス―天正遣欧少年使節がたどったイタリア」という展覧会を鑑賞した。日曜日ということもあってか、かなりの来場者で賑わっていた。
 わが国戦国時代の後期、九州のキリシタン大名たちが派遣した遣欧少年使節があった。大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年、伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、原マルティノ、中浦ジュリアンが、天正10年(1582)2月長崎を出航し、マカオ、マラッカ、ゴアを経て、1584年8月ようやくポルトガルのリスボンに到着、それから7カ月後の1585年3月イタリアに着き、約1年近くイタリアを廻り、1586年4月ポルトガルのリスボンから帰途につき、長い航海を経てようやく1590年7月長崎に帰着したのであった。8年半にわたる大旅行であった。旅行の最中に、派遣元の大名であった大村純忠、大友宗麟が相次いで死去し、帰国時には天下人となった豊臣秀吉によってバテレン追法令が出るなど、日本国内の事情は大きく変わってしまっていた。

トスカーナ大公国(上)
Photo  冒頭には、当時ヨーロッパでつくられた地図のうち、日本が登場するもの2つが展示されている。いずれも形が実際と大きく異なるうえに蝦夷すなわち北海道が存在しない。当時の日本人の認識と同じということは、日本国内の情報から作成したものなのだろうか。またいずれも日本の国土面積を少し大きめに見積もっている。金銀の世界的生産国として、存在感が多少は実際以上に大きかったということだろうか。
  そして美術工芸品の最初は「リヴォルノ港の景観を表したテーブル天板」(1604年)である。貴重な瑪瑙やジェルストーンを多用し、象嵌技術で豪華に制作された調度品であり、ヨーロッパの豊かさを誇りたい意志を感じる。

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パリ・マグナム写真展 京都文化博物館

京都文化博物館に「パリ・マグナム写真展」を鑑賞した。
1952   パリ・マグナムという写真家集団は、ロバート・キャパが世界的に有名であるが、私はそのマグナムという名前だけしか知らなかった。展覧会の説明によると、さきの大戦後1947年にアンリ・カルティエ・ブレッソンを発起人として、ロバート・キャパ、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって、写真家自身による写真家の権利と自由を守り主張することを目的としたグループとして発足したという。
  展覧会は5つのセッションから構成され、マグナム結成以前の作品群、復興の時代1945-1959、スウィンギング・シックスティーズ1960-1969、多様化の時代1970-1989、解体の時代1990-2017 として全131点が展示されている。
  さすがにプロの写真家だけあって、ほとんどの写真はとても美しい。ほとんどすべての写真は、時代の空気感を漂わせた環境条件を表す風景と、そのなかにさまざまな表情を表す人びとの姿との、ふたつの焦点で構成されている。1949_2
マグナムの写真家は、主に報道や出版で写真を通じて政治や社会を批判し、社会変革を訴えることを基本方針としている。さきの大戦については、フランスがドイツに占領されたヴィシー時代の報道写真、そして1944年8月25日のパリ開放とレジスタンスの雄姿などの写真が多数展示されている。しかし、フランスに直接縁のない私としては、フランス人はそもそもドイツに占領されるに至ったことを真剣に反省すべきであって、英雄的に解放を勝ち取ったということ自体は、実はさほど誇れるようなことではないのではないか、と思ってしまう。さらにこの一連の写真を眺めると、ひとごとではない、と感じる面もある。日本では民間会社1社の経営ミスによる損失額と同程度の国家GDPに過ぎない北朝鮮が核兵器をもって日本をはじめとする周辺国を暴力で脅かし、韓国の経済規模に満たないロシアが大量の核兵器・通常兵器を所有するがゆえに軍事大国としてシリア・ウクライナをはじめ世界中を荒し回っている。中東やヨーロッパではISのテロも深刻化している。そんな危険な時代・危険な国際環境のなか、わが国の一部メディアは「政府の疑惑」なるものをでっち上げ、倒閣さえすればあとの日本はどうなってもかまわない、と言わんばかりの行動を続け、国民も俳優の不倫や離婚騒動のテレビ報道に浸っている。1940年ころのフランスのように、日本も北朝鮮や中国に理不尽に侵略されてしまう可能性はないと断言できるのだろうか。
1996   2015年11月のパリ同時多発テロ事件についても、何枚かの写真がある。マグナムの主張によれば、フランスが移民を差別し貧困に陥れたことが原因である、という。振り返れば、私たちが若いころ「人種差別」というと、かならずアメリカの黒人差別が典型的な事例として取り上げられ、ヨーロッパの人びとはアメリカを痛烈に批難していた。「世界」をはじめ、そういう類の雑誌の記事がたくさんあった。いまでは、アラブや中東の難民を受け入れて世界中のメディアから賞賛を受けたフランスやドイツで、差別的処遇を受けて強い反発を感じた移民の一部が、ホームグローン・テロリストとして、このパリ同時多発テロをはじめとするさまざまなテロ行為を行っている。移民を受け入れても、移民を決して差別しない、と断言できる国など決して存在しないのが現実である。マグナムが理解し主張するほどには、現実世界は単純ではない。
  私は、すでに報道や出版の写真について、見方がかなり慎重かつ懐疑的になっている。ベトナム戦争のときも、写真家が「捏造」してピュリッツアー賞を取った報道写真が、世界中の世論を偏向的に煽ったことがあった。最近も、トルコ南西部の海岸で発見された3歳のクルド系シリア人の幼児の死体の写真が、世界中の人びとの関心を集めて、西欧諸国はもっと移民を積極的に受け入れるべきだ、さらに日本ももっと移民受け入れに積極的になるべきだ、との安易で無責任な世論を喚起した。写真は、表現力・影響力・伝搬力に優れるだけに、訴求力が強いきわめて有力なメディアの手段ではあるが、一方的な主張をもとに撮影され報道され伝達されると、まちがった場合に悪影響も甚大となる。
  いろいろなことを考えさせる展示会であった。
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2017年大阪松竹座「レビュー春のおどり」 

  大阪松竹座でOSKによる「レビュー春のおどり」を鑑賞した。
 OSKのこのような催しを観るのは、私にとっては初めてであった。ただ、3年前同じ松竹座で「道頓堀パラダイス」という演劇を観た。これはOSKが大正11年(1922) 創立されたときのエピソードを題材にしたものであった。そのとき舞美りらが出演していたが、今回も登場した。高世麻央、桐生麻耶などが主演クラスのようで、さすがの美声を聴かせてくれたが、私にはOSKの知識が乏しい。2017_osk_2
  前半は、「桜鏡〜夢幻義経譚〜(ゆめまぼろしよしつねものがたり)」という題で、源義経の誕生から死までの物語を、華やかな歌劇として上演している。歌舞伎や文楽で「義経千本桜」として構成される内容を、OSKに適合した舞踏レビューに仕立て直したものだという。義経の誕生、牛若丸時代の五條大橋での弁慶との出会い、屋島・壇の浦の合戦、静御前との出会い、そして奥州平泉で藤原氏のもとでの最期までを綴る。尾上菊之丞が作・演出・振付を担当している。華麗な服装で華やかな画面をつくり、よく訓練されたたしかな踊りで舞台を引き締めている。ストーリーが進むテンポもよく、あっと言う間に終演となった。
  後半は、「Brilliant Wave(ブリリアントウェーブ)~100年への鼓動~」という題の舞踏中心の舞台である。中村一徳作・演出だという。あと5年で創業100周年を迎えるOSKの、いわば前祝いのようなイメージで制作・演出をしたものだという。華やかなラインダンスもなかなか素晴らしかった。動きがきびきびと敏捷で、アイドル・グループと違って完成された舞踏と歌唱は、当然ながらさすがである。これも全体のテンポがよく、まったく退屈しない良い舞台であった。
  偶然の機会で鑑賞した舞台であったが、良い印象が残った。

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七月大歌舞伎 大阪松竹座新築開業二十周年記念興行

 京都南座が修築のため長らく休業しているので、歌舞伎を観る機会が減ってしまっている。しばらくぶりの歌舞伎を大阪松竹座で観た。1
 この度の目玉は、片岡仁左衛門主演の盟三五大切(かみかけて さんご たいせつ)である。盟三五大切は、四代目鶴屋南北作の歌舞伎世話物の狂言で、文政8年(1825)9月、江戸の中村座で初演されたと伝える。昭和51年(1976)国立劇場で復活上演された。『忠臣蔵』と『四谷怪談』を背景として融合し、鶴屋南北らしいグロテスクな見せ場と趣向を取り入れた通し狂言である。
 『忠臣蔵』の討ち入りでもっとも多くの敵を斬ったと伝えられる剣客不破数右衛門を主人公としている。彼が討ち入り前の潜伏の時期に、御用金百両を盗賊に盗まれるという失態を演じ、そのため主家を追われ、薩摩源五兵衛に身をやつし、失った百両の金策をする中、逆に船宿を営む三五郎(実は徳右衛門倅千太郎)に百両を騙し取られ、凄惨な殺人鬼と化してしまう。そのような源五兵衛が元の数右衛門に戻って、晴れて討ち入りするという物語である。
 武勇にすぐれながら芸者への恋慕に我を忘れ、ついに凶暴な罪を犯す。その一方で武士として、もと主君の恨みを晴らすため、艱難辛苦を堪えようともする。色恋、忠義、武士の誇りなどと、世間の人情との格差と軋轢と綾がこの物語の主題のようだ。それにしても、あまりに多数の人びとが簡単に殺され、これでもかというほどの残酷なシーンが続く。これが鶴屋南北ワールドなのだろう。ストーリーとしては、かなり理不尽さを残していて、鶴屋南北が武士社会に対してかなり批判的にとらえていたことが窺える。
 こういう一種の悪役を演じても、片岡仁左衛門は映えて美しい。役者仁左衛門は、悪役を好むのではないだろうか。三五郎を演じる市川染五郎も、源五兵衛の若党を演じる尾上松也も良い味を出していた。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行(36)

ベネチアちょい散策
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  クルーズも終わり、ベネチアで解散となった。朝8時過ぎに下船して夕方4時にベネチア空港から帰途につく予定だったので、荷物をしばしベネチアの鉄道駅に預け、友人夫妻との4人で少しだけベネチアを歩いた。  最初の目的は、友人夫妻が家族へのお土産に購入したいと考えていたコーヒー粉の容器の購入である。コーヒー、とくにエスプレッソの粉を収納し、ハンドルをひねるとちょうど1回分の量が排出されるという容器で、これは日本には販売されていないらしい。Photo_3
  雑貨店のような店、日用品販売のような店など、いくつか心当たりを訪ねて聴いてみたが、そのような商品はない、わからない、と。いくつかまわって諦めかけていたとき、ある電気製品のお店で、偶然日本語を学んだという若い女店員さんに出会うことができた。そして上手な日本語で的確にめぼしい店を教えてくれた。
  メインストリートから外れるのは、私たち来訪者にとっては勇気がいる。教えてもらったおかげで、なんとか路地に入り込み、2度橋をわたり、目的地に到着できた。小さな店であったが、目的の品物が入手できたのであった。ベネチアにきて、偶然日本語を話すかわいい女性に会えたことが、とても幸運であった。これも旅の醍醐味であり、楽しみである。
Photo_4   ベネチアの中心街は、大勢の人びとで混雑している。われわれは運河の岸の小さなカフェでエスプレッソとワインをとってしばし休憩した。ベネチアともなると緯度も高いためか、4月下旬に入ろうとするのにかなり寒い。道行く人たちの服装もかなり寒さに対応したものとなっていて、これまでクルーズで慣れ親しんだ服装の印象とは異なる。
  家人とわたしの2人は、最後に鉄道のサンタ・ルチア駅の前に川を隔てて聳える緑色のドームが印象的なサン・シメオネ・ピッコロ寺院という寺院を訪れた。礼拝堂はきれいに内部装飾が施されていて、カトリック系の寺院らしい荘厳な雰囲気がある。撮影禁止である。懐中電灯を借りて地下を見学するコースが2ユーロで提供されている、というので2人で入ってみた。地下空間は意外に広い。おそらくお墓があったものと推測する。

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  こうして私たちの旅は終わり、ブリュセル経由で成田に向けて飛んだ。(完)

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (35)

アカデミー・アテネ大学・国立図書館 アテネ⑧
  モナスティラキ駅からパネピスティミウ駅まで地下鉄で行くこととした。モナスティラキ駅でトイレを借りようと、構内にいた掃除のおばさんに聴くが、英語がわからないらしい。英語が少しわかるらしい人を紹介してもらったが、やはり半分身振りによるものである。ようやく探り当てた駅のトイレは、通常は鍵が施錠されていて、使いたいときは駅の事務所に行き、職員に鍵を開けてもらうというものであった。駅の公衆トイレとはいえ、さまざまである。
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  パネピスティミウ駅に着いて地上に上ると、パネピスティミウ通りを隔てて眼前に東南側からアカデミー(ギリシア学術院)・アテネ大学・国立図書館の3つの建物が聳立していて、ネオ・クラシック三部作の建築といわれている。3つとも、デンマーク出身の建築家、テオフィル・ハンセンによる設計で、19世紀中頃に建造されたものである。
 アカデミーは、ギリシア政府の科学に関する最高行政機関である。古代、プラトンが主宰した「アカデメイア」にちなんで名付けられた。「アカデメイア」は紀元前 387 年ごろにプラトンが創設した哲学者のための排他的な学問の場であった。アカデミーの正面には、4本のイオニア式円柱がある。そして入り口には向かって右にプラトン、左にソクラテスを写した像が配置されている。
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  アカデミーの建物の北側にならんで建つのがアテネ大学である。ここは法学・経済学・芸術学の3分野のキャンパスだそうで、他の学部や分野については、他地域にキャンパスがあるという。しかし、休日・イースター祭日とはいえ、キャンパスに学生や教員の人影がまったく見えない、完全な無人というのも日本の大学との比較からいうと信じがたい光景である。また柵の外ではあるが、大学の敷地内にはポツポツとホームレスのような風体の人たちが毛布にくるまってうずくまっていて、私たちが近づくと、わけのわからないうめき声やわめき声を発したりしている。
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  大学の北側に隣接して、国立図書館がある。これも大理石をふんだんに用いた贅沢な建造物である。
  ふたたび地下鉄パネピスティミウ駅に戻り、オモニア駅で乗り換えてピレウスに戻った。ところが、オモニア駅で乗り換えた電車のなかで、家人が集団スリに襲われた。電車に乗り込んだ直後、家人が空いた座席に座ろうとするのをひとりの若い太った女が通路をふさいで妨げた。その一瞬、別の男が家人のショルダーバッグに黒い布をかけて、あっと言う間にチャックを開けたようだ。家人が気づいて小さく声を上げると、幸い近くの乗客がなにか声を発してくれて、犯人グループはすっと消えていった。幸運なことに結果的に被害はなかったが、怖いいやな思いをした。いやはや、いろんなことがあるものだ。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (34)

エムルー通り・ミトロポレオス大聖堂・アギオス・エレフテリオス教会  アテネ⑦
  国立公園から国会議事堂・無名戦士の墓を通ると、シンタクマ広場に出る。ここからこの日のスタート地点のモナスティラキ広場まで、エムルー通りをほぼ一直線である。Photo_3
  エムルー通りは、アテネの銀座通りのようなおしゃれで近代的な商店街で、ここはギリシアの歴史や伝統にはかかわらない近代的雰囲気の通りである。私は約30年前に、学会の帰途予定が変わって偶然アテネに半日ほど立ち寄り、大急ぎで街を瞥見したことがあったが、そのときの印象では、アテネは日本の数十年前のような貧しく汚い街という印象であった。それから月日が経過して、いまではアテネの街もすっかり垢抜けしてきれいになったという印象である。こうしてせっかくきれいになった街並みだが、近年のギリシアの経済破綻は残念であり、今後が心配である。本来は町並みがきれいになって、国民も自信をつけ、明るい気持で前進することは素晴らしいことである。ところが、ギリシアの経過と現状を見ると、バブルのような現象で一見豊かになったかのような景観を得て、国民はすっかり安心し、錯覚し、慢心し、努力を怠ったままで時間だけが過ぎたようである。
Photo_4   途中、少しだけエムルー通りから外れて、ミトロポレオス大聖堂を見る。1840年から15年間かけて建造された建物で、アテネで最大規模を誇る大きな聖堂である。大統領の宣誓式などの公的行事もここで執り行われるという。大理石をふんだんに用いた豪華な建築物である。
ミトロポレオス大聖堂のすぐ隣には、対照的にごく小さなかわいい印象のアギオス・エレフテリオス教会が建っている。これは12世紀に建造されており、ミトロポレオス大聖堂と対照的に古い建物である。教会の外壁には、古代アテネのレリーフが施されている。Photo_6
  ミトロポレオス大聖堂の前のちいさな広場から、パンドロスウ通りに入る。ここは少し古い伝統的な雰囲気の商店街である。ここを抜けると、この日の散策スタート地点であったモナスティラキ広場に出る。
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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (33)

ザッペイオン国際展示場と国立庭園 アテネ⑥
  国立庭園は、日本にもあるような広大な緑地である。ここはアテネ国立公園とゼウス神殿の間にあり、1869年ギリシア議会がこの地に近代オリンピックのため建物を建設することを決議したのであった。近代オリンピック復活の功労者であり、またこの建物の建設に出資したのがEvangelos Zappasでという人物であった。しかし彼は、1878年の建物完工を前にこの世を去った。

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  1896年の第1回近代オリンピックアテネ大会でフェンシングの会場として使われ、1906年のアテネオリンピックではオリンピック村の施設として使われた。また2004年のアテネオリンピックではプレスセンターの施設として使われた。その名にちなんで「ザッペイオン」と名付けられたこの建物は、改装されて現在は国際展示場および会議場として使用されている。1
  建物は、ギリシアの建築様式を用いた点でも、国際的に高名であるという。
  このザッペイオンの北側に、塀に囲まれた広大な国立の緑地公園がある。なかには鳥を放し飼いにするコーナーや藤棚などがあり、静かで自然豊かな市民の憩いの場所となっている。「亀と魚の池」は、いささか驚いた。さほど大きくない池だが、池の中島には、びっしりと全面に沢山の亀が貼りついていて、一見して亀の集合とは思えなかった。不気味でもあり、ユーモラスでもある奇景である。
  私たちは、藤棚の下のベンチにしばらく休息した。緑の多い公園は、日本の緑地とさほど雰囲気は変わらないくつろぎの空間であった。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (32)

キダシネオン通りから英国教会へ アテネ⑤
Photo   ハドリアヌス門から再びアマリアス大通りをわたって、古代トリポッド通りと呼ばれた聖地と市場を結ぶ道を北西方向に上り、小さな広場を右に折れると「キダシネオン通り」というアテネ旧市街でもっとも賑わう商店街に入る。ここは道幅も狭く、古き良き時代という雰囲気をもつ商店街で、「アテネが空になる」といわれたこの休日かつイースター祭日にさえ、大勢の人びとで溢れている。
  そんななかを歩いていると、ある野外レストランのウエイターに呼び止められた。日本人とわかるのだろう、「この店は日本の旅行ガイドブックに掲載されている」というようなことをカタコトの英語で熱心にアピールする。私たちが持参していた旅行ガイドブックを指して、ここを開いてみろ、そらそこだ、と言って「ヴィザンティーノ」という店の掲載ページを指した。実際、この店がグルメ・ガイドのページに掲載されているばかりか、よくみると観光マップ・ページのなかにさえ場所が記されている。Photo_2
  ガイドブックには「味に定評あり、値段も良心的」とある。この店はよほど熱心に出版社に働きかけ、また広告費も出したのかも知れない。まあこれも縁だし、昼食時でもあったので、ここで簡単な昼食をとることとした。ピザと地ビール「アルファ」をとった。これが意外においしい。ビールも、あっさりした味で、歩きまわってきた渇きを癒した。なかなか見つからず少し心配していたトイレの問題も片づいた。ひとまず満足できるランチであった。
Photo_3   ランチを終えて、私たちは再び歩き始め、キダシネオン通りの終わり付近にある英国教会にきた。「セント・ポール教会」とも「アングリカン教会」とも表記されている、19世紀に建てられたというひっそりしたたたずまいの教会である。ここからまたアマリアス大通りに出て、ふたたび通りをわたり、ザピオン公園に向かった。

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中東・スエズ運河・ギリシア クルーズ紀行 (31)

ハドリアヌス門・教会・ゼウス神殿 アテネ④
  ギリシア観光局を過ぎて東に出て、バスが通行するアマリアス大通りに出ると、ハドリアヌス門が見える。Photo
  大通りをまたいでハドリアヌス門の真向かいに宗派は不明だがキリスト教会があり、門が開いていた。ここまですべて扉が閉まっている街を歩いてきたので、ついつい覗き込んでみると、なかにいた若い男性が手招きする。ふと中に入ってみると、無線イヤホンを私たちに貸してくれて、教会の礼拝堂に招かれた。ちょうど牧師さん(礼拝堂の装飾が簡素なので、おそらくプロテスタント系だと推測する)が講話(説教)をしておられた。英語の翻訳を無線イヤホンで聴くわけだが、無線の状態がわるいのか、頻繁に音声が割れてノイズも大きく、とても聞きづらい。どうやら「愛と死」についてのお話で、イスラム教や仏教にも触れたのちに、この愛と死についてもっとも真摯に教えを与えたのがイエス様だということらしい。イヤホンをつけている人たちも、集まっているなかの2割くらいいた。外国人の住人だろうか、それとも私たちのような観光客だろうか。15分ほど聴いていたが、やっとお話も終わったので教会を出た。
  教会を出て大通りをわたり、ハドリアヌス門の真下に出た。ローマ時代の2世紀に建てられた大門である。高さ18m、幅13.5mの堂々とした門である。門の東側から眺めると、背景にアクロポリス遺蹟を遠景として見ることになる。このように、ちょうど東京でいろいろな場所から富士山を見るように、ここではアテネ市内のさまざまな場所からアクロポリス遺蹟を眺望することができる。
Photo_3   ハドリアヌス門の南東側に少し行くと、ゼウス神殿の遺蹟公園がある。これも入場できないが、幸いにして外からでも十分眺めることができる。この場所はかつてゼウス神の聖域とされ、104本のコリント式の柱がならんでいたという。現在はそのうちの16本が残っている。この神殿は2世紀に、ハドリアヌス皇帝のときに完成した。最初は紀元前515年にアテネの僣主ペイシストラトスが建造を試みたが、失脚してしまって工事が中断した。ついで紀元前2世紀にも工事が再開されたが、やはり工事推進者の死によって中断し、結局紀元後の2世紀にやっと完成したと伝える。
  ハドリアヌス皇帝は、ローマの五賢帝にあげられる名君とされる。ローマの版図を広げたトラヤヌス帝につかえて、パルティア戦争などで多くの軍功を重ねたが、トラヤヌスのあとを継いで皇帝になると平和主義に転換し、帝国各地をあまねく訪問して帝国の安定化と繁栄に尽くした偉大な皇帝であるとされている。
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