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2017年10月

大エルミタージュ展 兵庫県立美術館 (1)

 ロシアを代表するエルミタージュ美術館の収蔵作品の中から、17~18世紀バロック、ロココの時代に活動した「オールドマスター」による絵画85点を鑑賞できる特別展が兵庫県立美術館で開催された。

エカチェリーナ2世
 展覧会の冒頭を飾るのが「戴冠式のローブを着たエカチェリーナ2世の肖像」である。
北ドイツの軍人貴族の子として生まれたゾフーは、幼少期から男勝りで利発な少女で、乗馬、フランス語に秀で、着実に知性と教養を積んだ合理的な女性に育った。伯父の縁で14歳のときロシア皇太子候補となり、翌年ロシアに渡り、持ち前の頭脳とエネルギーで舞踏、ロシア正教、ロシア文化を猛勉強して吸収し身につけていったという。
 16歳で皇太子ホルシュタイン公ピョートル・フョードロヴィッチと結婚した。しかしピョートルは少し知的障碍があり、正常な夫婦生活ではなかったという。25歳でのちのバーベル1世となる皇太子を出産したが、その実の父はピョートルではなく、宮廷公認の久しく付き合いのあった愛人であったという。
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 1761年エカチェリーナ32歳のとき、エリザヴェータ女帝が死去し、夫はピョートル3世として即位し、エカチェリーナは王妃となった。ピョートル3世は王位を継承したものの、能力不足から外交などに失政も多く、そのうえエカチェリーナを排して以前からの愛人を王妃につけようしとたり、ドイツに長期滞在中にルター派に改宗してロシア正教会を弾圧したりした。ロシア正教に改宗してロシア文化にしっかり馴染み、勇敢で教養があり、才気煥発なエカチェリーナは、貴族や官僚たちから、王よりも慕われ頼りにされるようになっていた。
 やがて軍とロシア正教会の強い支持を背景に、エカチェリーナはクーデターを敢行した。この時エカチェリーナは、ロシア軍伝統の緑色の軍服で男装となり、自ら馬上で指揮を取ったと伝えられる。よほどピョートル3世に信望がなかったのか、クーデターは無血で成功した。
 こうして戴冠式を迎えたときの姿が、この肖像画である。女性として優れた容姿には描かれていないが、自信に満ちて堂々としているのは実際の風貌なのだろう。
 エカチェリーナ2世は、当時ヨーロッパで流行していた啓蒙思想を好み、自ら啓蒙君主を自認して、人文学者を重用し、自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興など、啓蒙思想に基づいた近代化政策を強力に推進した。1764年にドイツから美術品をまとめて買い入れたことが、エルミタージュ美術館創設のきっかけとなった。
オスマン・トルコとの露土戦争に勝利し、ボーランドを分割・併合し、ウクライナやバルカンにまでロシアの版図を拡大するなど、ロシアを世界的大国に育てることに多大な貢献をして、大帝と呼ばれるまでになった。

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民進党出身議員たちの醜態

 10月の衆議院選挙で急遽設立された「希望の党」が、大量の候補者を擁立しながら当初の期待を裏切って、全立候補者の2割ほどしか当選できなかった。この厳しい結果を受けて、希望の党の両院議員懇談会が開催された。そこでは非公開のなかで、専ら小池百合子代表への非難・糾弾に終始したという。実際に当選した議員の大部分は民進党出身の議員たちであり、小池氏を非難している議員たちも民進党出身の議員たちであったという。
 しかしながら、希望の党が民進党に合流あるいは連携を言い出したわけではない。民進党の前原代表が小池氏に申し入れたのである。民進党の低迷と「希望のなさ」から、なんとしても当選したいがために、藁にもすがるようにひとえに「小池人気」に便乗したのである。にもかかわらず、結果が悪かったことを小池氏ひとりのせいにして自ら反省しない、できないというのは、見ていてこの上なく見苦しく、グロテスクでさえある。
 民進党の議員たちが総じて人気がなく選挙で勝てないのは、彼らの能力が足りず、したがって魅力がないことが要因である。大量の民進党議員たちが合流したのちの、希望の党の選挙公約・政権構想があれほど貧しかったことを、小池氏のみの責任にはできない。政権奪取を謳いながら、新政府の首班指名の候補すら提示できない、という事実を彼ら自身どう考えているのだろうか。要するに、ただ何とかして当選したいだけで、政権を運用するためのなんの考えも展望もない。
 テレビの画面で画像と音声で生々しく放送されていたが、民進党から希望の党に移って立候補し、小選挙区で落選し希望の党で比例復活した山井和則という議員は、選挙活動の最中に蓮舫氏の応援演説を得たとき「憲法改正なんて反対だ。希望の党なんてやってられない。選挙が済んだら民進党に帰らせてもらいたい。」と蓮舫氏に訴えていた。この男は政党というもの、選挙の基本的なルールというものをまったく理解していないのだろうか、あるいは政党や有権者を愚弄しているのだろうか。そもそも「踏み絵」に甘んじたことに「一点の曇りもない」と思っているのか。いずれにしても政治をまともに実行することを蔑ろにして、なりふり構わず議員になりたいだけ、あるいは社会人としてあるまじき全く信用がおけない人物であることが鮮明である。
 希望の党のなかにさえ、ごく僅かかも知れないか、松原仁氏という相対的にはまともな議員も居るには居る。彼は、小池氏に希望の党代表辞任を求めるのではなく、一緒に党の再出発を目指すべきだと発言していた。これこそ立派でもなんでもなく、ごく自然な普通のまともな考えである。小池氏はむしろ、東京都知事として東京都民からこそ厳しく責任を追及されるべきである。
 今回のような騒動は、もとの民主党、そのあとの民進党という存在が、いかに稚拙で無能で烏合の衆にすぎない連中であったかを、改めて露呈した。こんな人たちが3.5年もの間わが国の政権を握っていたのである。思い出すだけでも、気持ちが暗くなる。有権者も深く反省しなければならない。

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2017年衆議院選挙と「希望の党」騒動

 台風の雨風のなかで衆議院選挙の投開票が行われたが、選挙結果はほとんど無風の与党圧勝に終わった。今回の選挙の最大のトピックスは、やはり「希望の党」である。
 昨年夏の東京都知事選挙で小池百合子氏が大差で圧勝したのが、すべての始まりであった。悪評のなかで辞任した舛添要一前都知事が残した懸案を相次いで「リセット」し、都議会で一部議員から嫌われていた自民党都議会議員の重鎮内田茂氏を引退に追い込み、多くの国民が嫌っている森喜朗氏と東京オリンピックの件で激しく対立してみせ、やはり敵の多い石原慎太郎氏を引きずり出して築地市場移転問題で糾弾するという「政治ショー」を相次いで演じた。自民党を悪者にしたい朝日新聞・毎日新聞系のメディアは、この「小池人気」にすぐ飛びつき、懸命に拡散し応援した。
 小池氏が「問題提起」した築地市場移転問題では、結局出口戦略に困って「ひとまず豊洲に移転するが、築地を活かす」という、冷静に考えれば矛盾する、あるいは極めて無駄の多い、取ってつけたような劣悪な弥縫案を提案した。ところが「小池人気」に酔った東京都民はこの提案の致命的な質の悪さに気付かず「都民ファースト」なる小池会派を支持して都議会選挙で大勝させ、自民党の歴史的惨敗をもたらした。まさに「小池フィーバー」というべき現象が巻き起こった。朝日新聞・毎日新聞系のメディアは、最高潮に熱狂し欣喜雀躍していた。
 そこに安倍首相から、衆議院解散・選挙の日程が入った。選挙公示日が近づいたなか、小池氏は衆議院議員選挙に向けて、新政党「希望の党」の結成と独自候補者擁立を宣言した。なんとか「安倍首相打倒」を実現したい朝日新聞・毎日新聞系のメディアは、これにも飛びついて「小池フィーバー」を毎日喧伝した。
 そこに民進党の新代表に就任したばかりの前原誠司氏が、驚くべき行動に出た。衆議院選挙に民進党としては候補者を一切立てず、民進党の衆議院議員候補は全員希望の党から出馬する、と宣言したのであった。この決断は、前原氏の独断であった。さらに驚いたことに、民進党の議員たちは、全員がこの前原提案を受け入れたのである。
 民進党の衆議院議員たちは、全員が機嫌よく「希望の党」の党員として無事に立候補できて、人気がなくて冴えない「民進党」としてよりも、勢いのある新政党で、もっと良い条件で選挙を戦えると思いこんだ。そこへ小池氏から「政策の方向性が同じでない人は、排除する」と宣言されて、民進党は大混乱に陥った。小池氏は、希望の党の候補者公認の条件として、憲法改正を否定しない、現実的な防衛政策に反対しない、などの注文をつけ、「誓約書」として提出させた。これをメディアは「踏み絵」と報道した。小池氏の方針が「意外にも」保守的であることに気付いた左翼系メディアは、急速に小池氏と希望の党を警戒し始めた。
 民進党の衆議院議員たちは、行き場を失い混乱し動揺した。結局過半数が「踏み絵」に甘んじて希望の党から出馬する道を選択した一方で、一部の民進党衆議院議員たちは、「踏み絵」を拒んで無所属で立候補する道を選んだ。そしてついこの前の民進党代表選挙に立候補して前原氏に敗れた枝野幸男氏が「立憲民主党」という「リベラルの受け皿」となる新党を、まさに衆議院選挙公示直前に創設した。最初は枝野氏ただひとりの新党であったが、民進党を出て無所属で立候補しようとしていた議員も相次いで加わり、あっという間に数十人の規模になった。この動きは、「筋を通した」潔い行動と受け取られ、左翼政党を応援したいメディアも懸命に支援し、結局予想以上に成功をおさめ、50議席ほどながら野党第一党に上り詰めた。
 一方、「安保法案反対」のプラカードを掲げて国会議場内で暴れたり、あるいはシールズなどの「市民運動」に加担して叫んでおきながら、小池氏の「踏み絵」に屈服した議員たちのいる希望の党は、急速に勢いが衰えていった。選挙結果として、もっとあとに結成された立憲民主党にさえも、議席数で及ばなかった。
 希望の党の敗因として、メディアは小池氏の「排除」という強い言葉が災いであったとし、それに応えて小池氏もその言葉を悔やむと発言している。私は、この見解には賛同しない。政党という存在は、かつて前原氏も言ったように「当選のための互助会」であってはならないのは当然であり、政策の方向性が一致できない者が集まるのでは、失敗に終わった民主党・民進党の二の舞に終わるだけである。「排除」は、政党として必要な要素である。むしろ希望の党が反省すべきは、なんの具体性・説得性もない空疎な政権構想・選挙公約の内容にある。選挙公示にあたって小池氏が発表した希望の党の政権構想・選挙公約は、ほんの30分もあれば誰にでも作文できるような、思い付きや、あるいは他の政党や政治家から耳障りのよい言葉を適当にピックアッブして、なんの趣向も工夫もなく継ぎ接ぎ・コピペしただけの、これほどヒトの心に響かないものはない、という代物であった。おそらく小池氏は、東京都議会選挙の前に苦し紛れに放った「ひとまず豊洲に移転するが、築地を活かす」が、予想以上に都民に安易に好意的に受け入れられたので、安心し、慢心し、油断したのではないだろうか。それまでにも「ワイズスペンディング」など、空虚な言葉遊びの好きな人ではあった。敗北の原因を単に言葉遣いの問題に矮小化するようでは、小池氏にも希望の党にも未来はない。正攻法で堂々とまともな政策構想を出せなかったこと、その能力を欠いていたことをしっかり認め、そこを反省しなくてはならない。
 民進党議員たちが、ここまで追い詰められ翻弄されたことについては、第一に前原誠司氏に責任がある。彼は、民進党が左翼議員を抱えてこのままでは政党としてまともな運営ができないと考えたからこそ今回の行動に走ったのかも知れないが、それにしても民進党のメンバーたちにとっては、この上なく迷惑なことであった。あれだけ多くの「同志」の運命を左右することを断行するにしては、あまりに拙速で、考えが甘い、見通しが甘い、脇が甘いと言わざるをえない。彼なりには一生懸命努力しているつもりだろうが、リーダーにはもっとも不適格な人物である。
 小池氏と前原氏に共通する性向がある。ふたりともしばしばインタビューなどで「仲間とよく話し合って」と発言している。二人とも、このような発言は、実はその場しのぎのはぐらかしに過ぎない。二人とも、肝心なことをしっかりしかるべき仲間と議論した形跡がない。肝心なことほど、拙速に思い付きの独断で決めてしまう性格らしい。もちろん結果がいちばん大事であって、結果が素晴らしければ「英断」ともてはやされるが、結果が悪ければ単なる短慮、愚行となる。
 今後の東京都知事小池氏も多難であろう。どうやら築地の女将さんたちも、築地市場移転問題について、小池氏がまったく頼りにならないことに気付き始めたようである。こんなことなら舛添要一氏の方がはるかにマシだった、とも思い始めかねない。
 最後に息抜きに下手な替え歌をひとつ(「どんぐりコロコロ」のメロディーで)。

   踏み絵にヒヨッた議員さん 小池にはまってサア大変 やっぱりバッジが恋しいと
   泣いてはマエハラ困らせる~

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出水翼アートワーク展

 出水翼さんの3回目の個展が、大阪市北区中崎のIRORIMURAというギャラリーで開催された。

20170201
  およそ2年ぶりだが、少しずつ変化がみられる。彼女の最大の個性は、対象の非常に細かなところまでとらえて丁寧に表現することで、その姿勢に変化はないが、その表現の仕方が一層緻密さ、精密さを増した。自然のなかにひっそり息づくさまざまな小さな生命が存在を現し、静かに控えめに輝きを放つ。光の表現も深みと奥行きが増した。風景画が多いのだが、その場所の空気感、温度、においまでもが静かに自然に伝わってくる。
  いよいよこの人の「画風」が形成されつつあるようだ。

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渡辺一郎『伊能忠敬の歩いた日本』ちくま新書(2)

日本全国地図創成の大事業
 事業を離れた忠敬は、上方から幕府に招聘されて天文方として江戸に勤務していた高橋至時(よしとき)に出会い、やがて上総から江戸に移り住んで天文学。暦学を師事した。
 忠敬は、天文学への興味から地球の寸法を計測することを考え始めた。そのためには十分な距離を隔てた地点で緯度を正確に測定することが必要である。このために江戸から蝦夷地まで距離を実測して緯度の差を計測することを考えつき、考えただけでなく驚異的な実行力で成し遂げた。この時点では目的は地図の制作ではなかった。

Photo しかしこの最初の計測事業で、江戸から蝦夷東海岸にわたる、かつて存在しなかった高い精度の沿海地域の地図ができた。これが幕府の関心を惹き、以後地方ごとの測量事業が成功例の積み重ねとして継続・拡大された。最初の測量の旅は全く自費であり、100両(約1,200~1,500万円)を費やしたという。事業に成功して金に困らなかった忠敬ならではの事業の始まりであった。
 伊能忠敬による日本地図測量事業は、21年間にわたり計10回実施された。回を重ねるごとに幕府からの支援も拡大し、測量部隊も大きくなっていった。とくに第4回のあと将軍家斉が直覧におよび、以後は天下の事業となった。事業が大きくなり幕府が肩入れするようになると、さまざまなところから賂や誘惑がしのびよる。忠敬がそれらに陥らず、着実に事業だけに専念できたのは、単に彼が清廉だからのみでなく、金に頓着せずに済ませたことが大きいと思う。
 伊能忠敬が残した地図は、江戸時代が終わるまでは幕府の専有物として原則秘伝の扱いであった。明治に入ると、帝国陸軍が制作する地図の元図として使用され、やがて出版されたが、忠敬の制作からすでに50年以上が経過していた。日本地図として伊能図が全面的に改訂されたのは、伊能忠敬がつくってから100年以上経った昭和4年(1929)であった。
 長期にわたり体力的にも精神的にも激務であったはずの測量事業を、第二の人生として成し遂げた伊能忠敬は、まさに偉人であるが、人並み優れた行動力と実行力を支えた大きな要素のひとつは、隠居までに事業で蓄えた財力であったと思う。100年先をみとおした卓越した洞察力とともに、この基盤としての金の要因にも注目すべきだろう。

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渡辺一郎『伊能忠敬の歩いた日本』ちくま新書1999

伊能忠敬の前半生―成功した事業家
 わが国で最初に本格的な地図を、日本全国にわたって測量し作成した先駆者として、私も伊能忠敬の名前は知っていた。しかしその人物や仕事の詳細については、ほとんど知るところがなかった。このたび偶然この書を知り、読んでみたのであった。
 この本のお陰で、伊能忠敬という人物がどういう存在であったのか、その仕事・業績がどういうものであったのか、わたしにとっては、はじめてはっきりしたイメージを得ることができた。
Photo
 まず伊能忠敬というひとが偉大であったその基盤は、49歳まで営々と誠実かつ懸命に働いて、十分な財力を蓄えたことであった。伊能忠敬は、延享2年(1745)上総国、現在千葉県の外房九十九里浜の小関村に名主小関家の三男として生まれた。いくつかの偶然ともいうべきめぐり合わせで、17歳のとき、生家からは少し離れた佐原の酒造家伊能三郎右衛門家に婿入りすることになった。伊能三郎右衛門家では、たまたま当主か亡くなって、21歳で子持ちの未亡人の年下の婿となったのであった。婿入りしたときの伊能三郎右衛門家は、赤字に転落していたわけではなかったものの、当主をなくして苦境にあった。有能な実業家として忠敬は事業に邁進。拡大し、酒造のみならず運送業、薪問屋、貸家、農業、米商、金融業と現代の総合商社のように多角的に事業を展開して、一大豪農商となった。32年間働き、49歳で隠居するまでに3万両以上の財座を積み上げたという。現在の貨幣価値に換算すれば30~40億円くらいに相当する。

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木村尚三郎『歴史の発見』中公新書

 ちょうど半世紀前1968年発刊のフランス中世史家による新書である。材料としては西欧史をもちいるが、論ずることは歴史学の基本的な考え方、つまり歴史哲学というべき内容である。
 「歴史的思考」とは何かについて、まず「現代社会とはなにか」を過去の社会を考察することで析出させるのが歴史であり、その過去の社会すなわち現代とは異なる異質な社会への思考実験としての問いかけこそが歴史学であるとする。史料に基づいて過去を再構成するのだが、当然その営為はそれを行う歴史家が抱く問題意識に規定される。
 現代につながる「近代」をまず定義する。近代とは個の論理、すなわち私の論理が確立する時代である。そこでは法律体系として、国家と個人の間の権利義務関係を規定する「公法」と、国民相互間の横の権利義務関係を規定する「私法」とが明確に分離される。そこでは「私的所有権」が確立している。
 時代区分の基軸は「地縁的組織集団」である。統一的権力を内在する地縁的組織集団ができて、それが領域的強制力を確立したのがヨーロッパでは11世紀ころであり、それ以前を「先史時代」とする。
 農村共同体ができ、地縁的農業組織集団が確立し、それを封建領主が率いるのが11~13世紀である。地縁的農業組織集団が地縁的工業組織集団にとって代わられ、それをベースに近代市民社会が構成されるようになるのがヨーロッパでは20世紀ころである。この間の過渡期たる14~19世紀は、封建社会が崩壊してゆき絶対主義が現れ、市民革命が続き、マルクス主義も出てくる。このような歴史の流れをマクロなウィジョンとして提示する。
 興味深いエピソードとしては、イギリスは歴史的にみると、未成熟な農業経済社会から一挙に地縁的工業組織集団へ脱皮したという特異性をもち、そのため社会の特徴として、私的所有権を含む「個の論理」や市民社会の理念が希薄で、公法と私法も未分離な部分を残し、たとえば成文法としての憲法を未だに持たないこと、などを指摘している。
 以上の諸点は、わたしにとっても理解しやすいものであるが、さすがに半世紀前の論考だけに、現在ではあてはまらないところもある。たとえば、この本が著された当時は資本主義陣営と社会主義陣営とが対立して冷戦構造をなしていた。さらに冷戦構造は安定期に入り、資本主義下でも経済活動に広範囲に国家の行政指導が入り込み、私的所有権ですら一定程度国家権力に組み込まれ、資本主義と社会主義とが接近する傾向があった。たとえば西側ではフランスでは広範囲に国家行政が経済活動に介入し、そのことが時代の趨勢をリードしているような印象すら存在した。わが国の1950年代の戦後復興なども、典型的な国家主導であった。しかし1989年を画期としてマルクス主義陣営が崩壊し、現在は新自由主義という言葉さえ出るほど経済は政治・行政から距離を置くようになっている。そのような時代遅れの点もあげられるが、不易の真理を多々学べる良書である。
 私は最近になってささやかながら日本史に取り組んでいる者だが、広く歴史的についての基礎的な論考として、非常に啓発的で興味深い読書であった。

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呉善花『韓国併合への道』文春文庫

他人事でない自立できない国家の悲劇
 このたび、「韓国併合」について、ふたつの新書を読んだ。ひとつは海野福寿『韓国兵併合』岩波新書、1995であり、もうひとつがこの呉善花『韓国併合への道』文春文庫、2000である。
 この本の最大の特徴は、著者が韓国人であり、朝鮮の長い歴史の積み重ねに基づく朝鮮半島の人々の政治感覚と政治風土について解説があることである。私の場合は、この種の記述に触れるのが初めてであり、もちろんこの本だけですべてを理解したように思ってはいけないのだろう。それでも、とりあえずはひとりの韓国知識人の歴史の見かたとして貴重である。
 呉善花氏は、韓国併合の結果を導いた最大の要因は、日本の問題以前に、当時の朝鮮側の政府や人々の側に問題があったとする。有史以来中国を宗主とする華夷秩序体制の下で真の独立した国家運営を求めもせず、したがって経験せず、19世紀末の西欧列強の進出に対して中国・ロシア・日本などの近隣の強国に強く依存する他に生き残る術を見いだせない国であったことが、結果として日本の韓国併合を結果した。
 この書を読むと、翻ってわが国の今後が深く憂慮される。憲法9条さえ堅持すれば平和独立が維持できるなどという空論は論外としても、いつまでもアメリカの傘の下でいいのかという素朴な憂いが擡げてくる。日本単独で平和を維持するのも現実味がないが、一定度の自立を実力として保持しない限り、わが国の自立・独立はありえないだろう。
 歴史に関する著作は、たとえ同じ史料に基づいていても、その解釈やそれによる歴史像が大きく隔たることがある。著者の思考のバックグラウンドがそれぞれ違うのだから当然である。多様な人々の著作を読んでみないといけないと思うととともに、深刻な問題がけっして他人事ではない、と思い至ったのであった。

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海野福寿『韓国併合』岩波新書

 著者の海野氏は自ら外交史の専門家ではない、という。なのになぜ外交史を軸とするこのような書を記すに到ったのかについて、1993年平壌で開催された「日本の戦後処理に関するピョンヤン国際討論会」に参加し、「従軍慰安婦問題」や「強制連行問題」を議論したところ、北朝鮮側の主張は「従軍慰安婦問題」「強制連行問題」などの個々の問題以前に「日本の朝鮮支配全体の責任」を問うものであった、という。日本の植民地支配そのものが正当性・道義性を欠いていたから、「従軍慰安婦問題」や「強制連行問題」をひきおこしたというのである。
 海野氏は、これを問題提起として「にわか勉強」で研究の末「韓国併合は形式的適法性を有していたが、正当でもなく道義性もない」という結論に達したとする。
 この書は、明治5年(1872)のわが国明治新政府使節の朝鮮派遣、続いて発生した江華島事件からはじまる。それに続く日本と朝鮮の間のやり取りについて、不平等条約、壬午軍乱、甲申政変、日清戦争、大韓帝国成立、日露戦争、大韓帝国の保護国化、朝鮮内の義兵闘争、そして韓国併合にいたる国際政治過程について、主に外交を軸に説いている。
 海野氏は、明治初期の江華島事件から韓国併合まで、40年間一貫して日本は朝鮮の植民地化を目指し、朝鮮を見下しながら、常に侵略の推進に邁進してきたとする。清国に対しては前近代の「華夷秩序」を背景に朝鮮の宗主国を主張はしても、朝鮮を服属させてはいなかったし、朝鮮の内政。外交に介入してはいなかった、と一定度擁護するが、日本の政治家については、たとえば韓国の併合に反対して保護国化を主張し朝鮮の教育普及・殖産興業をはかった伊藤博文でさえ「思いあがった、独立冨強の名分をふりかざす侵略主義者」とする。海野氏からみると、明治時代から日本人は朝鮮に対して終始一貫して稚拙で卑怯で卑屈で悪意に満ちた存在であったかのようである。人数がかなり多かったわりにたいした成果もなかった義兵蜂起など朝鮮側の民衆運動に対して、過大とも思える評価をしているのも特徴である。
 史実に対する評価の面では、以上のように首肯しかねるところが多々あるが、史料に基づく事実関係の部分については、得るところもある。
 いわゆる「自虐史観」とは、こういう考えなのだろうと理解した。

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山内昌之『中東複合危機から第三次世界大戦へ』PHP新書

 2016年4月発刊の新書だが、このような分野の状況は変化がきわめて早いため、すでにこの書に登場する何名かのプレイヤーは交代していたり、新たな大事件が発生していたりする。それでもこの書に述べられていることはきわめて啓発的である。
 中東の当事者としてのキープレイヤーは、イラン、サウジアラビア、トルコである。その間に新たな問題児としてIS(ISIS、イスラム国)とクルド族が入り込んだ。シリアとイラクには、自ら事態に対処する能力を、さらにはその意欲さえも喪失しつつある。そこへ外部から深く介入するプレイヤーが、ロシアであり中国である。アメリカは、オバマ政権時代を経てよくも悪しくも影響力が大きく減退した。エジプト、ヨルダンなどは、ドイツ、フランスなど西欧諸国なみの影響力もないようだ。
 中東の大きな要因は、イスラム教である。私は遠い日本にいてリベラルを自称する呑気なひとたちの発言なども聞き、スンニ派とシーア派の対立なんて大きな問題ではないのでは、などと思っていたときもあったが、実はこの宗派間の対立も深刻な問題でありつづけている。スンニ派のサウジアラビア、トルコ、そしてISがあり、対してシーア派のイラン、シリアがあり、かつてスンニ派が多数派で今ではシーア派国家となったイラクがあり、イラン周辺のバハレーン、UAEなどの沿海地域にも多数のシーア派が隠然と入り込んでいるという。
 大国で力はあるが王室の腐敗から国内的にも国際的にも信頼を獲得しがたいサウジアラビア、政教分離にいち早く取り組んでムスリム近代化の優等生国家となり権謀術数も駆使して周辺諸国との問題を抑え込むことに成功してきたかにみえていたが、大トルコ主義への郷愁とポピュリズムから最近綻びが目立ってきたエルドアンのトルコ、核兵器開発をめぐってなんども国際的経済制裁に逢いながらも強かにかいくぐって着実に目標に漸近し、かつ巧妙にシーア派勢力を通じて中東全域に影響力拡大を図るシーア派のリーダーたるイラン、自国領内チェチェンから大量のIS戦闘員を出しつつもシリア実質支配を通じて中東での利権確保、さらにはクリミア領有を通じてヨーロッパ介入に余念のないプーチンのロシア、新疆ウィグルに自らの火種を抱えつつギリシアなどをいとぐちに中東さらにはヨーロッパへの触手を虎視眈々と探る共産党独裁の中国など、まるで映画の「仁義なき戦い」が遠くおよばないような凄まじい様相である。
 私たち日本人は、すぐ近くの尖閣諸島問題でさえ関心が高くない呑気な雰囲気で、中東の問題がメディアに上ることも少なく、あまりに無知なことに改めて驚く。小さな本だが、わが国を代表する中東問題専門家が解説する内容は広く重く深い。

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突然のパソコン故障とささやかな新たな挑戦と

 実は去る7月末ころから9月初旬まで1か月以上、私のパソコンが故障して作文・メール・ブログなどの作業一切がまったくできなかった。
 今年も2011年の東日本大震災以来、酷暑の1週間弱を除いてエアコン無しで過ごし、したがってPCも36℃ほどの中で使っていた最中、突然PCが停止して動作しなくなってしまった。「熱暴走」という現象で、CPUの空冷ファンの故障が想定されるとのことで、やむなく修理に出した。ところが、修理の過程でハードディスク・ドライブのエラーが異常に増えていることが判明して、ハードディスク・ドライブの取り換えが必要となり、当初の予想をはるかに超える大ごとになってしまった。
 旧ハードディスクのテータの救済は、幸いにしてほぼデータ回収でき、1か月以上かかった修理を終えたPCが9月初めに帰ってきたのだったが、そこからがまたひと騒動であった。
 OSは5年前近く前に購入した時点のWindows 8にもどり、故障時点で存在していたすべてのデータはすっかり空になっていた。OS をWindows 8から Windows 8.1にヴァージョンアップ、メールとインターネットの回線接続、メールアドレスとメール送受信データの復元、ワークファイルの復元、自分が追加して使用していたすべてのアプリケーション・プログラムの再インストール、プリンターとの接続、などなど実際にやってみると思いのほか手間と時間を要した。OSのヴァージョンアップや種々の設定は、日ごろやる作業ではないので、PCメーカーやネットワーク・プロバイダーに電話して、細かに指示を仰ぐことになる。その間、インストールや再起動、ソフトの更新などマシン時間がかかる場合は、いったん電話を切って、PCが落ち着いてから再度電話をかけなおす、というサイクルを何度も繰り返さなければならない。
 PCメーカーもネットワーク・プロバイダーも、電話すればすぐ出てくれるわけではなく、短くて10分、長いときは数十分待たされる。これが何度も繰り返される。
結局、PCの再立ち上げに、ほぼまる4日を費やした。
 この度は、これまでのテータの復帰と原状回復を最優先に、ともかく修理・再立ち上げとしたが、このPCもすでに5年近く経っており、近いうちに新機種に更新する必要もあるだろう。そこで、今回の事故で考えたのが、私自身が「親指シフトキーボード」から卒業すること、であった。私はキーボードを使い始めた28年前からずっと「親指シフトキーボード」を使用してきた。「親指シフトキーボード」だと老人の私でも、なんの苦労なく迅速に日本文のキーホード入力ができた。しかしながら、最近はいよいよ「親指シフトキーボード」愛用者の絶対数が減ってしまったのか、OSのヴァージョンアップへの対応が覚束なくなってきたようだ。私としても今後のPC更新に備えて、準備に取り掛かる必要を切実に感じ始めたのであった。
 日本語入力を「ローマ字変換」にすべきか、「ひらがな直接入力」にすべきか、という悩ましい選択がある。これまで「親指シフトキーボード」でワンストロークで1文字を入力することに慣れ親しんできた身には、いまさら1文字ツーストロークの「ローマ字変換」は、やはり抵抗があった。そういうわけで、68歳を過ぎた老骨に鞭打ちつつ「ひらがな直接入力」を修行中であり、いまもこの文章を覚束ない手つきで「ひらがな直接入力」で綴っている。
 そういう次第で、老身に様々なことが立ち向かってきた盛夏がようやく過ぎつつある。

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海北友松展 京都国立博物館 (4)

龍の連作と集大成の月下渓流図
  展示の最終付近に一括して現れるのが「雲龍図」である。北野天満宮、建仁寺塔頭霊洞院、勧修寺など、さらに遠く海外にまで買い取られて行った「雲龍図」は、海北友松のひとつの代表的な作品群なのだろう。たしかにいずれも迫力満点で充実した名作尽くしである。しばし黙して眺め入る。
 

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  そして、最後の展示作品が「月下渓流図屏風」である。 

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  この作品は、1958年からアメリカ・カンザスシティーの「ネルソン・アトキンズ美術館」に所蔵されているものを出張展示しているものである。高さ1.7メートル、幅3.5メートルの屏風2双構成となっている。早春の夜明けとおぼろ月の優しい光が、もやに煙る渓谷を照らす景観が情感豊かに描写されていて、光と影が交錯し、やさしく暖かく、とても心地よい日本の自然が見事に表現されている。海北友松の集大成との説明がある。
  会場はかなり混雑していて、自由に自分のペースで鑑賞することが少しむずかしい状況だったが、全部で76点、しかもすべてがかなりの大作で名作ぞろいであり、3時間弱ほどの疲労を感じながらも緊張を継続できる充実した鑑賞であった。

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海北友松展 京都国立博物館 (3)

円熟の全盛期
  60歳から70歳といえば、とくにこの安土桃山から江戸時代初期のころを考えると、すっかり老境のはずだが、この海北友松という人はなんとこのころ絶頂期を迎えたのである。
  画風に余裕というか、遊びというか、独自のおおらかさと優しさが出てくる。

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  「野馬図屏風」という作品がある。ここで描かれる馬は、速筆で一筆書きのように簡潔に、かつユーモラスでかわいらしく描いている。これを描いている友松の顔が微笑んでいるように思える。  

Photo_2
  「浜松図屏風」という作品がある。ここでは、まるで俵屋宗達や尾形光琳をずっと先駆けるかのような、時代を超越してモダンな感覚あふれる絵である。金色、緑色、そして茶色のたった3色で大きな画面を埋め、その大胆さ、単純さ、自由さ、そして大きさは観るものを圧倒する。
Photo_3  「網干図屏風」となると、さらにおもしろい。このように漁場の干し網を主題に絵を描くというのは、当時は友松の他には決していなかったろう。しかもここでは、網の干し具合、つまりまだ濡れている網、かなり乾いた網、すっかり渇ききった網のそれぞれを、緻密に見事に描き分けている。題材や構図が大胆なうえに、技術が冴えわたっている。どうだ、よく見ろ、と友松がつぶやくのが聞こえるような感じがする。
  「禅宗祖師・散聖図押絵貼屏風」は、とても美しい絵である。友松の技巧のすべてが現れているように見える。

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