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2017年11月

北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館 (5)

想像の世界と北斎の周辺(前)
Photo 想像の世界についても、北斎は多数の作品を残している。今回の展示ではほとんど無かったが、さまざまな妖怪や髑髏の絵があることも有名である。
 「鍾馗図」(文政9年1826)は、朱一色の濃淡のみで鍾馗像を巧みに描きあげた作品である。鍾馗(しょうき)とは、もとは中国の民間伝承に伝わる道教系の神のひとつであった。わが国では鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりすることもあったという。鍾馗の図像は、長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で睨みつけている姿として描かれた。端午の節句に絵や人形を奉納したりした。
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 北斎の三女お栄は、はやくから北斎の側で画業を手伝いつつ習い、文化期半ば(1810ころ)から作品を出していたと伝える。美人画では北斎でさえも、「余の美人画は、お栄に及ばざるなり お栄は巧妙に描きて、よく画法にかなえり」と、お栄の技量を称賛していたという。お栄は葛飾応為という画号で作品を残している。「月下砧打ち美人図」(弘化-嘉永期1844-54)が展示されている。この人の作品では、とくに光の効果、あるいは光の表情が重視されているようだ。光の表現が印象的な作品として、「吉原格子先之図」(弘化-嘉永期1844-54)がある。Photo_5


 

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館 (4)

目に見える世界(続)
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 北斎が84歳にもなったころの絵で「端午の節句図」がある。端午の節句を祝う道具を淡々とていねいに描いたものだが、西洋画にもある静物画と同様に、菖蒲の花を束ねる紙のすその皺にいたるまで、細かいところまで徹底して緻密に描写しようとしている。北斎にとっては、創作のための技能のトレーニングと位置づけていたのだろうか、と勘繰ってしまう。

 「冨嶽三十六景 五百らかん寺さざゐどう」(天保1-4年1830-33)がある。江戸時代後期、禅宗のひとつ黄檗宗の天恩山五百羅漢寺というお寺が現在の江東区大島町にあった。その建物のひとつに「さざゐどう」があった。サザエのようならせん型の回廊を登っていくとつぎつぎに仏像が配置されていて、堂内を進むだけで自然に巡礼できるような構造の高楼があり、高村光雲の『江戸維新懐古録』にも話題が登場する。当時展望台として人気があり、そのころは高楼上の欄干から富士山を眺望することができたらしい。その風情を描いた長閑な作品で、芸妓・子供・武士など様々な階級の人物を描き分けている。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館 (3)

目に見える世界
Photo 冨嶽三十六景シリーズに続いて、書肆西村屋与八の企画で「諸国滝廻り」というシリーズが発刊された。「諸国滝廻り 美濃ノ国養老の滝」(天保4年1833)がある。実際の養老の滝は、見上げるようなとても高い滝のはずだが、ここではかなり低めのコンパクトサイズとして描かれている。展示説明では、登場する人物像があまりに小さくならないように、敢えてデフォルメしたのであろうとの由。さらに滝はかなり抽象化され、滝の上方と滝つぼ付近を残して描写が大胆に省略されている。しかしながら簡素化された滝の水流は、一層勢いを増す。200年ほど昔とはとても信じがたいほどの思い切った表現である。そうした表現の斬新さ・新規性とともに、この絵からは北斎の敬虔ともいうべき滝に対する宗教的な真摯さをも感じることができる。
 滝に続いて次は「諸国名橋奇覧」が、おなじく書肆西村屋与八の入れ知恵で発刊されたらしい。「諸国名橋奇覧 摂州阿治川口天保山」(天保5年1834)がある。天保山は江戸時代の淀川河川整備事業で出た土砂を積み上げて作られた人口の小山である。海に近い安治川の河口にできたため大阪湾を一望でき、当時から行楽地として賑わった。この絵は橋の絵というよりは、パノラマ的な画面を意識して描かれたようだ。
 

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館(2)

富士と大波
1 北斎という希代の大芸術家は、還暦を過ぎてからようやく本領を発揮し、天才しか達し得ない境地を開花させたらしい。65歳ころの作品に「花見」(文政7-9年1824-26)がある。それまでの形式的な絵から一段抜け出し、鮮やかな着色のグラデーションで立体感を現し、表現のレベルを格段に上げている。色彩も華やかで、暖かみのある楽しそうな絵となっている。

 「東海道名所一覧」(文政元年1818)がある。京から江戸までの東海道にそって散在する多数の名所を、デフォルメした絵図の上に細密画のように名所を描きこんでいる。デフォルメが著しいので場所の同定を直ちにはつけにくいが、ここでも主役は画面左上の富士山である。

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 70歳を過ぎて、いよいよ北斎ワールドが炸裂する。天保元年(1830)からはじまり、シリーズ作品として発表された「冨嶽三十六景」である。「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」(天保1-4年1830-33)は、北斎のいわば「顔」として、あまりにも有名な作品である。

1_3  私も何度も観ているが、けっして飽きることはなく、観るたびに見とれるのである。最近ある写真家が、いったいどの程度のシャッター速度を用いればこの絵の波頭の姿を忠実に撮影できるだろうか、そもそもこんな形状の波頭が実在しているのだろうか、と実験してみたという。その結果、5,000分の1の超高速シャッターでようやく北斎が描くような、まるで掴み掛らんばかりのヒトの手指のような波頭が、忠実に見事に撮影できたとのことであった。北斎の波頭の描写は、結果として決して単なる絵空事ではなく、科学的事実として検証されたのであった。北斎は、まさに「神の眼」を持っていたというべきか。

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 「冨嶽三十六景 凱風快晴」(天保1-4年1830-33)がある。これも幾度となく観た絵である。「赤富士」との名で極めて有名である。今回は、となりに展示されている「冨嶽三十六景 山下白雨」(天保1-4年1830-33)に注目した。「白雨」とは夕立を指す。富士山の山頂付近の上空では快晴であっても、山麓では雷雲で漆黒につつまれたなかで一瞬の稲妻が走り、激しく雨が降っている。こんな小さな画面で、構成も簡潔な絵でありながら、壮大な空間的ひろがりをみごとに表現している。この絵は、「黒富士」とも呼ばれるそうだ。

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 「冨嶽三十六景 東海道金谷ノ不二」(天保1-4年1830-33)もきれいな絵である。金谷は現在の静岡県島田市にある。「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と詠われた東海道最大の難所を描いている。江戸時代、大井川では架橋や渡船が禁じられていたために、川越しの人足や馬の背に、荷駄や人を乗せる徒渡しが行われていた。荒海のように波立つ大井川の対岸には島田宿が見える。ここでは波はけっして穏やかではないようなのに、波に心地よいリズムがあって、なんとなく長閑で楽しそうに見えるのがおもしろい。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館 (1)

 大阪天王寺のあべのハルカス美術館で「北斎―富士を超えて―」という展覧会が開催された。北斎のコレクションでも高名な大英博物館との国際共同企画だという。私にとって葛飾北斎はもっとも好きな画家であり、若いころから10回とまではいかないまでも数回以上はさまざまな会場で展覧会を観てきた。機会があれば何度でも観たい画家である。
 今回の会場は、わが国でもっとも高層の商業施設とされるあべのハルカスの16階にある美術館である。多くの美術館が月曜日に休館となるところ、たまたまこの日は開館して、私は午前中に別件で天王寺に近いところに所要があって、そうした偶然もあって訪れたのであった。会場に着いてみると、驚くほどの人だかりである。入り口に立て札があり「待ち時間50~60分」とある。さすがにうんざりしたが、この日は夕方にも別の予定があり、多少時間を余分に費やしても帰宅するよりはいいという事情もあって、入場することにした。まず入場券を購入するだけで、長蛇の列で30分を費やした。やっと入場券を得ると、次は入場の待ち行列で25分を費やした。入り口立て札の「警告」は実に正しい。

画壇への登場から還暦まで
Photo 江戸時代後半期70年間の長きにわたって精力的に活動した葛飾北斎は、宝暦10年(1760)江戸葛飾に百姓の子として生まれ、4歳で他家に養子に出るもそこも出て、貸本屋や木版彫刻師の下で働き、ようやく18歳のころ浮世絵師勝川春章の門下となり「春朗」を名乗ることになった。19歳のころの作品として「三代目瀬川菊之丞の正宗娘おれん」(安永8年1779)がある。「春朗」デビュー作とされる錦絵だが、色彩も表現もごく地味で、後の北斎を思わせる個性的な特徴は甚だ乏しいが、線や描写は素人目にも確かで、明らかに非凡であることがわかる。
 34歳のころ、勝川一門を破門され、琳派を慕って「宗理」を名乗った。このころの作品に「梅樹図」(寛政7-10年1795-98)がある。まだ北斎らしさがなく様式的だが、それでもさすがに上手と思う。参考出展として「亀図」という絵が写真で展示してある。文化期のはじめ(1804)ころ、「北斎」に改めたことの連絡通知を、この小さな絵を添えて知人たちに伝えたという。
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  「北斎」期の初期の作品として「日蓮上人図」(文化8年1811)がある。北斎は熱心な日蓮宗徒であった。日蓮上人が、眼尻がきりりと上がり、聡明で気の強そうな人物として描かれている。
 ここまでみても、北斎という画家がただ者でないことはわかるとしても、まだ後の北斎らしさ、自由奔放さ、エネルギッシュな雰囲気はほとんど見られない。北斎はすでに50歳を超えていた。

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呉座勇一『応仁の乱』中公新書

 歴史学者が著した専門的知識に基づく概説書であり、決して平易ではないはずだが書店で人気が極めて高く、数少ない「専門書」系のベストセラーとして評判の高い本である。「応仁の乱」は高校の教科書にも現れるが、名前だけ憶えていても、その内容となると私もほとんど知らなかったので、この機会に読んでみることにした。
 応仁の乱は応仁元年(1467)にはじまり10年以上にわたって、京と畿内近国、さらには越前・備前など周辺諸国にまで広がった、長期間かつ大規模な戦乱であった。
 応仁の乱の始まりは、守護でありさらに管領家でもある畠山家の内紛に、大守護大名ではあるが管領家よりは家格の劣る山名宗全が、畠山家内紛の一方の当事者畠山義就(よしひろ)を抱え込んで足利幕府政権を実質的に乗っ取ろうとしたことであった。山名は、将軍義政の親政打破を目論んだが、そこに至るまでには、さらに20年ほど遡る将軍義教の個性の強い政治があった。乱が始まると、山名は細川勝元と対抗するが、山名と細川の対立は、終始決定的に強いものではなかった。乱で細川方についた将軍義政だが、彼の優柔不断と大局観の欠如、さらに大名たちへの統率力の限界もあり、はじまった当初は京のなかのみの短期間かつ小規模で終息すると思われた戦争が、だらだらとなかなか終息せずに延々と続いた。山名も細川も自分の周囲に多くの大名・土豪を引き連れ、それら取巻きたちがそれぞれ勝手に動いたという側面もあった。終盤では山名宗全も細川勝元もともに病死したが、戦いはそれぞれの一族や追随者たちに引き継がれて継続した。しかし、双方ともに総じて戦意は低く消極的なのに、終わることのできない戦乱となった。当事者たちが当初想定していたのに反して延々と長引いたのは、近代の第一次世界大戦に似ている。
 なにより。戦争の当事者たちが何のために莫大な金・時間・人的資源のコストを払って意味の判然としない戦争を続けるのか、マクロにはわからなくなっている。
 この大きな戦乱の前後で、当然ながら権力構造も社会も大きく変わった。応仁の乱の前は、複数の国を統べるような大名たちがほとんど在京して、将軍の周辺にいて大名同士の交流もあり、多数の家臣たちや従者たちを引き連れて在京することで、京も繁栄した。しかし応仁の乱の後は、ほとんどの大名たちが国に帰り、在京するのは家臣のみとなっていく。大名たちは領国とより深く向き合うようになり、反面で将軍権力は地方にはおよばず、幕府は畿内政権の性格を強めていく。足利将軍権力は、権力を伸長はできないまでもそれなりに努力を重ねて強かに存続したようだ。私たちはなんとなく、応仁の乱で足利将軍権力がほとんど崩壊してそれが戦国時代を導いたと思っていたが、諸大名が国に帰ってそれぞれの領域支配を確立するようになったことが、戦国時代を導いた要因としてもっと意味がありそうだ。
 いつの時代でも、またどの戦争でもそうだろうが、戦争そのものが大きなインパクトをもたらすこともあって戦争そのものに注目しがちだが、戦争の前も後もしっかり見通さないと戦争そのものの歴史的位置付けができない、といういわば当たり前のことを改めて考えた次第であった。

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大エルミタージュ展 兵庫県立美術館 (7)

美術大国の狭間のドイツ・イギリス
Photo_5 最後のコーナーは、美術に関する限り華々しさはなかったが、独自の宗教的あるいは政治的変遷を経験して、18世紀以降頭角を現すに至ったドイツとイギリスを取り上げる。
 ルネサンス期ドイツで人文主義と宗教改革の影響を受けつつ活躍したルカス・クラーナハは、はやくから高名な画家であった。今回は「林檎の木の下の聖母子」(1530年頃)が展示されている。私もこの絵は学校の美術の教科書などで見た記憶がある。動きのない画面構成だが、独特の人間味と品性を湛える印象的な絵である。
 18世紀後半のイギリスの肖像画として、トマス・ゲインズバラ「青い服を着た婦人の肖像」(1770年代末)がある。丁寧な描写で優雅でかつコケティッシュな美しい女性像である。Photo_8
 このたびの展覧会は、ルネサンスから近代初頭までの時期をくだりつつ、ちょうどそれぞれの時代の美術を牽引した国ごとに、その芸術の特徴と代表的な作品を順次紹介するという、まとまりのよい巧みな企画で、鑑賞する側からみても理解しやすく、とてもわかりやすい構成となっていた。
全部で85点と、私の鑑賞能力のキャパシティーにてらして最適なボリウムでもあった。会期の比較的はじめの方の日程で、かつ平日ということもあり会場内も混雑なく、至極快適に鑑賞することができた。

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大エルミタージュ展 兵庫県立美術館(6)

ロココの花咲くフランス
Photo 17世紀フランスは、ルイ14世絶対王政の最盛期を迎えた。重商主義でヨーロッパでも抜きん出て富裕な国家となったフランスを主導したのは、財務長官コルベールであった。コルベールは、王立絵画彫刻アカデミーを再編し、美術についての中央集権体制の柱とした。そこでは厳格な秩序と安定した絵画世界を追求するプッサンに代表されるような古典主義様式が指導方針となった。そしてルイ15世のころには、ロココ様式が中心となった。ヴァトーやブーシェ、フラゴナールに代表される、優雅で軽快、遊び心や郷愁を取り入れたロココ絵画がフランスで花開いた。ロココ絵画は経済的繁栄を背景に成長しつつあった新興中産階級に受け入れられ、芸術家のパトロンとなった彼らの好みが反映されるようになっていった。
 ニコラ・プッサン「エジプトの聖家族」(1657年)は、エジプト記を題材とする絵画としては珍しく、エジプトへの旅路ではなくエジプト滞在中の聖家族を描いている。場面がエジプトであることを示すため、背景にはエジプトのセラピス神が櫃に入れられて神殿に運ばれる隊列と、遠くに聳えるオベリスクが描かれている。構図は、中央にマリアが赤の衣服で正三角形の基調に配置され、均整のとれた安定な古典主義的なものとなっている。Photo_2
 ジャン=オノレ・フラゴナールとマルグリット・ジェラール「盗まれた接吻」(1780年代末)は、まさに振興ブルジョアジーの好みに適合した絵なのだろう。裕福そうな若い娘が、突然物陰から現れた若い男に引き寄せられ接吻される。娘は、驚きつつも男の方に身を寄せ、眼は隣室に大勢いるらしい他の人々に気取られなかったかを気遣っている。富裕な階層の人々の「戯れの恋」のひとこまなのだろう。
 ユベール・ロベールという画家は、ヨーロッパ諸国の廃墟の景観を描くことで名声を博した人物であった。その代表作とされるのが「運河のある建築風景」(1783年)である。おそらくヴェネツィアの運河とローマの神殿とを組み合わせたものを描いているのだろうが、限られた画面の中に壮大なひろがりと重みを感じさせる荘重で美しい絵である。

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信頼できない隣国と、わが国の将来

安倍氏にひと泡吹かせた1枚の写真
2017年11月08日 中央日報/中央日報日本語版
  ドナルド・トランプ米国大統領が7日午後、青瓦台(チョンワデ、大統領府)で開かれた国賓晩さんで、慰安婦被害女性の李容洙(イ・ヨンス)さん(90)と抱擁を交わした。
  この日、青瓦台関係者は李容洙さんを晩さんに招いたことについて、韓国メディアの京郷新聞を通じて「トランプ大統領が日本に行って韓国にも来られるのに、慰安婦問題と韓日歴史問題を韓国の大統領としては扱わざるを得なかった」とし「トランプ大統領がこの問題に対してバランスの取れた見解を持ってほしいという意味ではないか」と説明した。

「独島エビ、話題になるとは全く」韓国外務次官が答弁
2017年11月10日 朝日新聞電子版
 韓国政府が7日に主催したトランプ米大統領の歓迎夕食会に日韓が領有権を主張する竹島の名前を冠した「独島(トクト)エビ」を提供し、元慰安婦の女性を招待した問題で、韓国の林聖男(イムソンナム)第1外務次官は10日、「儀典関連の部署が検討して決める。その過程で、このようなメニューが話題になるとは全く予想できなかった」と語った。国会答弁で述べた。

 私は引退したひとりの老人であり、いまや政治や社会を動かすことなどとてもできない。朝日新聞や毎日新聞、あるいは民進党から派生・拡散した議員たちのように、「国民の意志を代弁する」などという根拠のないなたわごとを言うつもりもない。ただ、市井の一老人の感想を記すのみである。
 韓国のこのたびの外交上のこの上もない無礼、国家間の約束の一方的な破棄を現す行動については、この背景に中国の指示があった、あるいは上に引用した朝日新聞の擁護記事のように儀典裏方の独走によるミスに過ぎない、などとさまざまな説明がある。
 それらのいちいちに対しては、私はほとんど関心がない。ひとつだけはっきり言えることは今回のことで、韓国という国が、日本人に韓国を一層念を入れて嫌悪させることにだけは大成功したであろう、ということである。
 感情の問題を排除して理性的に考えるならば、韓国は信頼を置ける相手ではない、という一点に尽きる。暴走する北朝鮮に対して日米韓で協力して対処するというのが国際政治としての建前であり、それを直ちに否定することもないが、わが国の本音としては、韓国を信用できないことを大前提としてすべてに取り組む必要がある。
 北朝鮮が米国と戦って負けようが、中国が北朝鮮を潰そうが、あるいは北朝鮮が核兵器を確立して生き残って日本を一層脅迫することになろうが、いずれの結果も日本にとっては、現状の延長上ではない、ということをしっかり認識しなければならない。いずれの結果となろうが、日本には、現在よりもはるかに厳しく自立が求められるだろう。
 日本人が、現在の日常生活・社会生活を極端に転落させずに生き残るためには、憲法・軍事・防衛など、これまで野党や朝日新聞などのメディアが必死になってタブーとして封印してきたことがらを、国民的に真剣に議論してやるべきことを進めなければならないだろう。残された時間は、多くない。

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大エルミタージュ展 兵庫県立美術館 (5)

身近な宗教画のスペイン
 16世紀に世界をまたにかけた海洋帝国として隆盛を極めたスペインは、17世紀に入って王国としては斜陽期を迎えたが、スルバラン、ムリーリョ、リベーラなどの優れた画家がつぎつぎに登場し、ようやく独自の絵画芸術が確立して「スペイン絵画の黄金時代」を迎えた。対抗宗教改革のリーダーのひとりフェリペ2世を輩出したこの国では、禁欲的で敬虔なカトリック信仰の普及・拡大を目指して、宗教美術がそのための重要な媒体とみなされた。聖書の伝説やカトリックの教えを、身近な現実のエピソードとして理解し表現する点にスペイン宗教絵画の特徴がある。
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 フセペ・デ・リベーラ「聖ヒエロニムスと天使」(1626年)は、神学者としてのキャリアの初期はキリスト教にさほど興味を抱かなかったヒエロニムスが、荒野で修行の最中に最後の審判のラッパを吹く天使に驚いて天使がいる上方を見上げるところを描写している。暗闇の中で劇的に浮かび上がる光と、それによって生じる深い陰影による豊かな感情表現と、徹底した写実性、清澄な色彩による抒情的な表現が特徴である。ヒエロニムスは、後に聖書をはじめてラテン語に翻訳し、それが以後長らくカソリックの標準となったという重要な神学者である。
 スペインでは、聖母マリアの信仰も大いに普及した。フランシスコ・デ・スルバラン「聖母マリアの少女時代」(1660年頃)は、代表的なマリア像のひとつである。ここではマリアがごく身近な、聡明で信仰心の篤い愛らしい少女として、親しみやすく描かれている。

Photo_2 バルトロメ・エステバン・ムリーリョ「幼子イエスと洗礼者聖ヨハネ」(1660年頃)という絵がある。聖書には、イエスの幼少期に後に使徒となるヨハネと出会ったという記事は存在しないが、イエスや聖人たちに対して親近感をもつように敢えて創作した場面を描いたものだという。先のマリア像と同じく、イエスもヨハネも幼い頃は稚い可愛い幼児であることが強調されている。
 同じくムリーリョが描いた作品として「受胎告知」(1660年頃)がある。大天使ガブリエルがまだ若い娘であるマリアのもとを訪れ、神の子の懐妊を伝える有名な場面である。これは学校の教科書にも出てくる有名な絵である。

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大エルミタージュ展 兵庫県立美術館 (4)

市民絵画が発展したオランダPhoto_2
 ルネサンスを経て急速に通商産業国家としての地位を確立したオランダは、中産市民階級という新しい活気に溢れた芸術支援者を得て、絵画の一大黄金時代を迎えた。平易で親しみやすい風俗画、風景画、静物画など、世俗的な絵画が求められ、需要階層は大富豪のみならず新興中産階級にまで拡大し、多彩で多数の絵画が制作された。画家たちは、無理して需要に特化せずとも自分の得意とする分野の作品群を専門的に絞り込んで腕を磨き、それでも生計を見込めるようになったのである。その結果、絵画は迫真の描写力で日常的な事物をとらえた作品が多数制作され、「現実の鏡」とも呼ばれ、広く市民に愛されて家庭の壁を飾るとともに、その市民生活全体の繁栄ぶりを国外に伝えるものともなっていった。
Photo_3 そんな中でもレンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインは、敢えて専門を限らず、きわめて広範囲の絵画を自由自在に創作する万能型の偉大な例外であった。今回は「運命を悟るハマン」(1660年代前半)という作品が展示されている。ユダヤ人出自のペルシア王妃エステルは、ユダヤ人の殲滅を企てた高官ハマンを王に告発して、ハマンを死刑とした。画面は極めて簡素な構成で、中央に沈鬱な表情で悲嘆にくれるハマン、右手にペルシア王、左手にハマンを曳き立てる獄吏と、たった3人のみが描かれている。暗い背景に浮かび上がるハマンの表情から、彼の内面心理が窺える。Photo_4
 フランス・ハルス「手袋を持つ男の肖像」(1640年頃)は、当時大きな需要があった富裕階層の肖像画である。右手を胸にあてるボーズは誠実を表すというが、微笑む表情からはむしろ得意げな様子がうかがえる。
 信仰市民たちの家の壁を飾ったであろう静物画としては、ヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘーム「果物と花」(1655年)がある。テーマは当時流行した「ヴェニタス」すなわち「この世のはかなさ」であり、描かれた果物や花たちは、成熟した今を盛りのものがあるのと同時に、萎び衰えたものも丹念に描きこまれている。

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大エルミタージュ展 兵庫県立美術館 (3)

バロック美術のフランドル
Photo 17世紀になると、ルーベンスが出現するなどフランドル地方はバロック美術の一大センターとなった。とくに現在のベルギーにあたる北フランドルは、アントウェルペンを中心として対抗宗教改革の拠点となり、カトリック改革のさまざまな運動に連動してカトリック復興を目指す宗教建築・宗教絵画が隆盛した。そのような活気のなかでペーテル・パウル・ルーベンスは、健康的な官能美に溢れる豊満な裸婦などを華麗な色彩で描いた歴史画や神話画をつぎつぎに発表して広範囲に名声を獲得するとともに、美術界ではバロック様式の確立に貢献した。ルーベンスの工房は、ヴァン・ダイクやスネイデルスなどの、後に17世紀前半のアントウェルペンで活躍する画家たちの修行の場となり、ルーベンスという巨大な存在を中心にして様々な才能が開花した。
 ペーテル・パウル・ルーベンスと工房「田園風景」(1638-1640年)は、バグパイプを担ぐ羊飼いの青年が森の中で若い女性を抱こうとする場面を描いたエロティックな作品だが、光の効果と見事な色彩と筆致で下品に陥らず、広く人気を博しそうな美しい絵となっている。
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 ピーテル・ブリューゲル「スケートをする人たちと鳥罠のある冬景色」(1615-1620年)は、少し前に別の展覧会で無彩色の下絵を観た。ブリューゲルの絵は、たしかにずば抜けて細かい描きこみの多いことがわかる。
 アンソニー・ヴァン・ダイク「王妃ヘンリエッタ・マリアの2人の侍女:カーク夫人アン・キリグルーとおそらくはストレンジ男爵夫人シャーロット」(1630年代末)がある。ヴァン・ダイクらしい鮮やかな色彩と精密な筆致で、美しい赤と白の衣服の質感、さらにその衣服の襞の美しさをいかんなく表現している。
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 フランス・スネイデルス「鳥のコンサート」(1630年代-1640年代)は、徹底した精密描写でさまざまな鳥を描く。たしかにその描写力には感服するが、まるで精密なな静物画のように描きあげられた絵画は、私には生きた鳥というより、むしろ剥製がならんでいるかのように見える。

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大エルミタージュ展 兵庫県立美術館 (2)

近代美術の発祥地イタリア
 最初のコーナーは「イタリア: ルネサンスからバロックへ」という題で、ルネサンスを牽引しローマ教皇の居処たる大都市ローマと当時の世界通商のセンターであったヴェネツィアを擁するイタリアのルネサンスからバロックまでの華やかな絵画がならぶ。
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 ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、ルネサンス美術全盛期のヴエネツィアを代表する画家である。独自の秀でた色彩感覚と精緻な筆遣いで圧倒的な人気と名声を獲得した。「羽飾りのある帽子をかぶった若い女性の肖像」(1538年)は、当時ヴェネツィアに流行した美人画で、X線分析によると、女性の頭部を描いた上からさらに華やかな羽帽子を描きこむ手法を採用しているという。ベルナルド・ストロッツィ「トビトの治癒」(1632年)は、聖書の外典あるいは続編とされるもののなかに伝えられる、捕囚の地に流浪するトビトという男を題材にした絵である。ある偶然の不幸で失明したトビトに対して、息子のトビアが苦労して漁獲した怪魚の内臓を使って眼の治療をしている場面を描く。トビトはこの治療のお陰で視力を回復して、偶然出会った女性サラを娶ることになる。人間や生物の生命、血、父を救いたい息子の意志などを、鮮烈な色彩で表現している。
Photo_2  ポンペオ・ジローラモ・バトーニ「聖家族」(1777年)は、古典的でみごとな調和を保ち美しく描かれた作品である。美しい人の顔は、時代にかかわらないことがあらためてわかる。エカチェリーナ2世の息子パーベル1世が大いに気に入って購入したものだと伝える。
 カナレット(本名ジョヴァンニ・アントニオ・カナル)の「ヴェネツィアのフォンダメンタ・ヌオーヴェから見た、サン・クリストーフォロ島、サン・ミケーレ島、ムラーノ島の眺め」(1724-1725年)という、とても長いタイトルを付けられた絵がある。300年ほど昔のヴェネツィアの風景だが、驚くべきことに現在もかなりの風情が残っている。イタリアの伝統遺産尊重の賜物なのだろう。

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