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2017年12月

「民主主義」と「信頼できる相手」と「外交」

 韓国政府は、一昨年日本と締結したいわゆる慰安婦にかんする日韓合意についてタスクフォースを結成して検証したという結果を、日本政府に提示してきた。
 これについて朝日新聞社説は、合意は尊重されるべきだとする一方で、以下のように述べる。

(社説)日韓合意 順守こそ賢明な外交だ  2017.12.28 朝日新聞電子版
(前略)
 文政権はこの報告(韓国外交省の作業部会による日韓合意の検証結果)を踏まえた形で、政府見解を来年にまとめるという。いまの日韓関係を支 える、この合意の意義を尊重する賢明な判断を求めたい。
(中略)
 一方、日本政府の努力も欠かせない。政府間の合意があるといっても、歴史問題をめぐる理解が国民の胸の内に浸透していくには時間がかかる。
 合意に基づいて設けられた韓国の財団は元慰安婦への現金支給を進め、7割以上が受け入れを表明した。関係者は「全員がいろんな思いがある中、苦悩しつつ決断した」と話す。
 さらに日本政府にできることを考え、行動する姿勢が両国関係の発展に資する。
 この合意を、真に後戻りしない日韓関係の土台に育て上げるには、双方が建設的な言動をとり続けるしか道はない。

 韓国のメディアである中央日報は、検証結果なるものの内容を記述したあと、以下のように述べる。

<慰安婦TF発表>韓日慰安婦合意に「非公開内容」あった…安倍首相、海外碑の処置も要求
2017.12.27 中央日報電子版
(前略)
  申ガク秀(シン・ガクス)元駐日大使は「非公開にすることにした内容を公開し、全体的に不完全だとか問題がある合意だと整理されたため、日本としては韓国政府が従来の合意を履行する考えがあるのかについて疑いがさらに強まる」とし「政府が対日政策を樹立するうえで選択肢が大きく制約される可能性がある」と懸念を表した。

 朝日新聞は、韓国の外交関係者でさえ指摘している外交当事者間の守秘義務違反への懸念にまったく触れず、その一方で今回の韓国の勝手で一方的な振る舞いに対して、日本側にも責任と義務があると主張している。そもそもこの日韓間に横たわる理不尽な問題を、ねつ造記事の長期間にわたる執拗な繰り返し報道によって招来した張本こそが朝日新聞であるにかかわらず、このような無責任な他人事の発言である。 

 読売新聞に以下のように報道される河野外務大臣の発言は、しごく当然である。

河野外相「非公表前提を公表、いかがなものか」 2017.12.28 読売新聞電子版
 河野外相は27日、日韓合意の検証結果を韓国外交省の作業部会が発表したことについて「韓国政府が既に実施に移されている合意を変更しようとするのであれば、日韓関係がマネージ(管理)不能となり、断じて受け入れられない」とする談話を発表した。
 合意について談話は、「正当な交渉過程を経てなされたものであり、合意に至る過程に問題があったとは考えられない」と強調した上で、「両政府間の合意であるとともに、国際社会からも高く評価されたものだ」として、着実な実施を強く要求した。
 河野氏は同日、訪問先のオマーンで記者団に、「非公表を前提としているものが一方的に公表されたというのはいかがなものか」と不快感を示した。日本政府は26日、韓国政府から外交ルートで内容の事前説明を受けた際、遺憾の意を伝えた。外務省幹部は「信義則違反で、外交交渉が成り立たなくなる」と憤りをあらわにした。

 以上のような日韓の報道のあと、次のような「やっばり」というべき韓国の報道があった。

文大統領が声明「日韓合意の手続きに重大欠陥」  2017.12.28 中央日報電子版
 【ソウル=岡部雄二郎】韓国大統領府は28日午前、日韓両政府が2015年末に交わした、慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した合意について、文在寅ムンジェイン大統領の声明を発表した。
 韓国外交省作業部会が27日に公表した検証結果を踏まえ、合意に至る手続きなどに「重大な欠陥があった」と指摘。「この合意で慰安婦問題は解決されないという点を改めてはっきりと申し上げる」とし、日本側に何らかの対応を求める考えを示した。
 日本政府は合意の見直しには一切応じない方針だ。声明は、「再交渉」や「破棄」などには触れていないが、文政権が今後、これらを主張すれば日韓関係が緊張するのは必至だ。文氏は声明で、「何よりも被害の当事者と国民が排除された政治的合意だったという点で、非常に痛恨だ」と述べた。
 外交省作業部会は27日、合意に至る協議が秘密交渉で進められ、被害者の理解を得られていない、などとする検証結果を公表した。

 一般に、日本と韓国とはともに民主主義にもとづく国家であり、価値観を共有する隣国であり、友好善隣関係を一層推進すべきである、と言われる。友好善隣関係を一層推進すべきということには、なんら反対すべき点はない。しかし、「民主主義」の実質・内容、そして「価値観を共有する」については、われわれ日本からみて深刻な疑問と懸念がある。
 現代世界では、とくにアメリカが主導して「民主主義」を重要な判断基準とし、たとえば中東諸国に対して厳しく対処する傾向がある。しかし数年前の「アラブの春」騒動でも判明したとおり、選挙を導入して実施したりする形式的な改革だけで「民主主義国家」が創出できるわけではない。
  韓国は、さきの大戦後の李承晩政権、日韓基本条約を締結した朴正煕政権などを経て、1987年盧泰愚大統領が民主化宣言をした。たしかに議会も大統領も選挙によって選出するシステムはできた。ところがさきの大戦以後、下野した元大統領はいずれも新政権によって厳しく糾弾され、投獄されたり激しく攻撃されたりすることが一貫して続いている。自分たちが選出した指導者を、熱狂をもって排撃することが国民的習性となってしまっている。国民に一貫性が欠如しているのか、気まぐれなのか、それともまともな指導者に欠如しているのか、外からは真相がわからないが、要するに望ましい民主主義が未だに成熟していない、端的に言えば典型的な衆愚政治に陥っていることは間違いないだろう。
 日本も、さきの大戦直後には占領軍総指揮官マッカーサーに「12歳の子供程度の国民」と揶揄されたり、つい最近にもあの「民主党」に政権を預けてしまったり、といささか心もとない部分はあるのかも知れない。それでもすでに百数十年前に国際問題として不平等条約を経験し、国家としての約束・信頼関係たるもののなにかを艱難辛苦を伴いつつ理解し体得してきた。少なくともこのたびのような事象に関する限り、韓国のレベルとは雲泥の差であろう。
 上に引いた文在寅大統領の発言「何よりも被害の当事者と国民が排除された政治的合意だったという点で、非常に痛恨だ」との、民主主義国家では信じられない言葉が、あろうことか韓国を代表すべき大統領の口から発せられたのである。文在寅大統領は、韓国国家を代表して、ほんの2年前の自分の国たる韓国が、信用できない間違った国家だと公言したのである。そんなことをヌケヌケと口走る文在寅大統領と韓国を、日本はじめ他国はどうしたら信用することができるのだろうか。
 現状のような韓国は、国家として到底信頼をおくことはできないことが明確である。いくら「反共産主義」、「反非民主主義」で同じ側にある、と言ってみても、信用できない相手との協力関係はほとんど意味を持たない。
 河野外相がいうとおり、日本はごく妥当な対応に徹したらよい。

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2017年 吉例顔見世興行 ロームシアター京都

 京都南座は、昨年2016年の1月から休館して修築工事のために使用できないので、昨年末は先斗町歌舞練場で歳末恒例の顔見世が興業された。私たちはそのときは観劇しなかったが、どうもその臨時会場は手狭なこともあって、来場客から評判がよくなかったらしい。そして今年も南座工事完了が間に合わず、今回は岡崎のロームシアター京都で吉例顔見世興行が行われた。
 私は、このロームシアター京都で催し物を鑑賞するのは初めてである。この会場は昭和35年(1960)に、京都市の2000席を超える本格的大型コンサートホール「京都会館」として創建されたのを前身とする。建物の老朽化で2012年から閉館していたが、大規模な改装工事を経て、2016年1月「ロームシアター京都」として生まれ変わった。工事費用を拠出した地元の大手電子部品メーカーローム社が命名権を買い取ったことによる。建築物と設備は最新鋭で、美しく快適な会場となっている。顔見世はメインホールで催されたが、座席数も多く、舞台から遠い座席もじゅうぶん高く見通しよくなっていて、その点では南座より鑑賞しやすいといえる。ただ、本来がコンサートホールであるため、歌舞伎には必須の花道はない。
 さて、家人と二人で鑑賞したのは、夜の部の4つの演目であった。
2017
 最初は「良弁杉由来(ろうべんすぎのゆらい)十二月堂」である。この物語の主人公良弁大僧正は、奈良時代に実在して奈良東大寺の初代別当となった人物である。伝記として、近江国の百済氏の出自で、幼いころ野良仕事をする母の側から鷲にさらわれ、助けられて寺で育てられて高僧となり、30年後に母と再会したという話が伝えられている。そんなことから、明治期に歌舞伎に取り入れられた。
 若くして東大寺の別当に上り詰めた良弁大僧正は、孝心を実現したいと幼くして生き別れた母を探していた。自分が拾われたと聞いた大きな杉の木の下を訪れ、日々懸命に祈った。するとある日、みすぼらしい老女が現れ、身の上話をはじめた。老女はもと「渚の方」という貴族夫人であったが、いなくなった幼子を探し求めて放浪するうち今のような落ちぶれた姿になってしまったという。そして自分の息子は、家宝の小さな仏像を納めたお守りを持っているはずだ、と。良弁は、母の形見として大切に持ち続けてきたお守りを出すと、その袋の中に小さな仏像が出てくる。こうして母と子が長い別離を乗り換えて再開を果たす、という物語である。渚の方を藤十郎が、良弁上人を鴈治郎がそれぞれ演じ、親子の歌舞伎役者の共演である。まもなく86歳になるという藤十郎の達者ぶりには畏敬の念を禁じ得ない。
 次の演目は、「俄獅子(にわかじし)」である。
 俄獅子とは、かつて江戸吉原に毎年8月1日から晴天日のみ30日間を通して、芸者・幇間(ほうかん)が、仮装をして凝った踊りの新曲を見せた年中行事があり、「吉原俄(よしわらにわか)」と呼ばれていた。この年中行事の催しと獅子舞を組み合わせて舞踊化したものが、歌舞伎に取り入れられたのである。江戸っ子気質である粋と洒落っ気に加えて、吉原の廓情緒として「吉原俄」の雰囲気を、長唄舞踊で表現するのである
 主役は二人の芸者であり、時蔵と孝太郎が演ずる。ワキとして、襲名披露した橋之助・福之助・歌之助の三兄弟が3人の鳶頭を演じる。真夏の吉原との設定であり、照明も明るく、軽快で明るく華やかな舞台である。
 3番目の演目は、「人情噺文七元結(にんじょうばなしぶんしちもっとい)」である。
 この演目は、もともと幕末・明治の落語の巨匠であった三遊亭圓朝の創作人情噺であった。情話の中におかし味を持たせなくてはならないという難しい要件から、難しい一題とされ、逆にこれができれば落語家として一人前と見なされたという。
 明治初期に、花のお江戸を我が物顔に闊歩する薩長の田舎者に対して、江戸っ子の心意気を示そうとして創作したと伝える。主人公左官長兵衛を橋之助改め芝翫が、その娘おひさを壱太郎が、和泉屋手代文七を七之助がそれぞれ演ずる。そして舞台も終わり近くになって、鳶頭伊兵衛を演ずる仁左衛門が登場して、芝翫・橋之助・福之助・歌之助の襲名披露の口上をした。ほんの一寸の出番だが、仁左衛門が登場すると舞台がぱっと華やかに、かつ引き締まるのは、さすがである。
 最後の演目は、「大江山酒呑童子(おおえやましゅてんどうじ)」である。武勇を誇った源頼光と、大江山に潜む怪物酒呑童子の対決を長唄舞踏で演じる。酒呑童子を勘九郎が、源頼光を七之助が演じる。男役の七之助もなかなか美しくてよい。
 今年は南座が休業のため、歌舞伎を観る機会が少なかったので、うれしい貴重な機会として、しっかり満喫した。

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映画『ラ・ラ・ランド』

  2016年のハリウッドの話題を席捲した大ヒット映画である。映画に疎い私でさえ、タイトル名だけはしっかり頭に入っていた。
  時代背景は不可思議である。登場する風景や自動車などは1950年代を感じさせるが、一方で現代ITの典型たるスマートフォンが登場して、そこはかとなくシュールな印象を漂わせる。主演のエマ・ストーンは、現代的というよりはとても古風な容貌である。ストーリーは冬・春・夏・秋・5年後の冬、と5部構成となっていて、ストーリーの内容そのものは、昔からあったような映画女優とジャズ演奏家の夢多く、苦悩多く、儚く、しかし着実でもある恋愛物語である。
  女優の卵も、ジャズ演奏家も、ともに自分の夢や構想を大切にして譲らず、しかし挫折し妥協もし、それでも懸命に生きている。しかしその一方で恋には齟齬を生じ、結局は結ばれない。とても破天荒で現実離れしている雰囲気のなかで、語られる事実はまことに現実的でもある。誰もが大女優になるわけではないし、音楽家として成功できるわけでもないし、愛する人と結ばれるわけでもない。それでも、それらさまざまな要素が絡み合う現実に対しては、誰でも共感できる要素があり範囲がある。そういう意味で、さまざまな面でふわふわした、夢見心地のようでありながら冷徹な現実をも現しているこの映画に、それぞれが感銘をうけることができるのだろう。
  大変な好評を得たことも、たくさんの賞を獲得したことも、しっかり納得できる良い映画だと思う。

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箭内昇『メガバンクの誤算』中公新書

 長期信用銀行に長年勤め、役員にまで登りつめたのち経営陣を批判して飛び出した著者が、内部を知り尽くした銀行業界の内幕・問題・課題を暴き出した書である。
 アメリカではいち早く1971年のニクソンショックを契機として、銀行界は「変動の時代」に突入して危機を迎え、ビジネスの形態が変わり、業態が変わり、そのなかで多くの銀行が破綻した。日本でも危機は静かに訪れてはいたが、大蔵省の護送船団方式に守られて変革を怠り、旧態依然のまま表立った破綻もなくバブルに突入した。かたやアメリカでは、かつてのようにすべての銀行を破綻から救うことはせず、延焼を防ぐという政策がとられ、それぞれの銀行が競争環境の中で生き残りのために積極的に新しいチャレンジを繰り返し、変革を推し進めた。しかし日本では、相変わらず預金と貸付のみの旧態依然としたビジネスで、ただバブルの景気高揚だけに乗っかって華々しく成長したかに見えていた。ところがバブル崩壊で一気に弱みが現れ、日本の銀行界は深刻な危機に陥った。1990年代の10年間だけで、アメリカと日本の銀行の企業競争力の格差は、数十年でも追いつけそうにないと思えるほどに拡大してしまったという。
 以上のような内容は、製造業に従事してきた私にとってほとんど知らなかったことであり、金融業界の特殊性を知らされてその実情に驚く。しかし、銀行ならでは、あるいは銀行だけの問題や危機とは考えられない深刻な事実も指摘されている。典型的には、経営に不正が絡む企業業績の悪化である。これこそ企業に致命的なダメージを与える。最近わが国の大手製造業に、このような大問題が多発してしまっている。著者が指摘する経営者のモラルこそは深刻で重大な問題であるが、決して銀行だけの問題ではない。
 15年も前の本だが、非常に刺激的で興味深く一気に読んだ。

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河上肇『貧乏物語』岩波文庫

 大正5年(1916)大阪朝日新聞に連載された経済学エッセーであるから、今からちょうど100年前の著作であり、ずいぶん古い本である。
 産業が発展して国としてはとても豊かになったはずの英国にさえ、①健康な生活を維持できないほどの貧乏に喘いでいる人々が多数いるという事実があり、②そのように貧乏な人々が発生する原因はなにか、そして③いかにすればその貧乏を根治することができるのか、この書が説くのは、この3つである。
 内容は非常に懇切丁寧に説きすすめられているが、ごく簡略化してまとめれば、貧乏な人々が発生する原因は、金持ちが奢侈をするため、製造者が必要な製品を製造するかわりに本当は必要でもない奢侈品ばかりを製造し、貧乏人に必要な物資を生産する余地がなくなり必需品の供給が欠乏することによる、とする。だから富裕な人々が奢侈を停止して、製造者が万人に必要な製品を製造するようになれば、貧乏の問題はなくなる、とする。
 この「奢侈」「贅沢」は「必要」の反対であるけれども、この区別が一般に考えられているものとはいささか異なる、というのがこの本の重要な論点のひとつである。われわれ自身の肉体的生活、知的生活、そして道徳的生活の向上発展を図り、さらに利他的に他のひとびとの肉体的生活、知的生活、そして道徳的生活の向上発展を図るような目的で費やされる場合は、大きな費用をかけても決して「奢侈」「贅沢」にはならない、という。そういった観点から逆に、意味のない消費はたとえ金持ちがさほど大金を費やさない場合でも「奢侈」「贅沢」である。金持ちでない人が高価な食事をする、あるいは高級な品物を所有するという場合にも、もしさきほどの意味がたしかにあるばあいには「奢侈」「贅沢」とはならない、というのである。
 説かれている内容のポイントについては、ほとんど納得できる。ただ、少なくとも現代の実感からみて、生産者が利益を求めて奢侈品の製造に傾注するがために万人に必要な製品の製造が抑制される、という説明は説得性に欠ける。生産者が利益を求めるなら、総需要が大きいことが重要で、単純化すればより大きな市場を期待できる製品を製造するのが正攻法である。つまり企業としては、単価に総量を掛け算した総需要が大きいものをターゲットにするのが通常である。たとえば衣服の生産を例にとると、単価は高くても数量が見込めない高級ブランドの衣服より、ユニクロのように多少単価は低くても大量の顧客数を見込めるような衣服を扱うことが、利益の最大化を達成できると考えることが一般的である。
 さらに、私企業は利益を追求しようとして、社会にかならずしも有益でない、むしろ有害な商品でさえどんどん製造・供給する、と著者はいうが、現実はそうでもない。少し大きな企業ともなると、従業員もそれなりの多数となるが、そうなるとその従業員たちが生産する製品が多少なりとも顧客やユーザーに喜んでもらえる、有益と思ってもらえるようでなければ、従業員に意欲をもって懸命に働いてもらうことはできず、結局事業はうまくいかないのである。
 なぜ貧困が発生するのか、という問いに対しても、近年さまざまな説が登場してきている。ジョン・ケネス・ガルブレイス『The nature of Poverty 』では、1950-60年ころのインドの貧困の様子を長期間にわたって著者が現地観察した結果から、かなりの範囲で人々が自らの貧困に自発的に慣れ親しんでしまう強い傾向がある、と説く。ガルブレイスはアメリカの学者のなかでもとりわけリベラルな人であり、単に偏見と片付けられない。デビッド・S. ランデス 『強国論―富と覇権(パワー)の世界史』では、経済活動を国別に考察した著者は、その国民のもつ生活文化が経済活動の成果に大きく関与しているとする。たとえばイスラム教の国では、製造業や生産活動を宗教活動にくらべて軽視しがちで、そのため全体として経済的生産性が大きく低下している、と指摘する。この事実は、私自身もシンガポールに赴任中に体験したことでもある。
 そういったいくつかの頷きがたい点や問題点があるが、河上肇のこの本は、全体としてはとても良い本だと思う。社会主義者、マルクス主義者と聞いていた河上肇だが、この本から感じるのは、よくある浮ついた軽薄な左翼ではなく、実に慎重で思慮深く、どちらかといえば保守的な性向をベースに着実な論理展開がなされていて、その点からも好感がもてる。たしかに、若い人たちに推奨できる一冊である。

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2017年の紅葉見物 (3)

高台寺
 円山公園からちょっと南下すると「ねねの道」と名付けられた小路にでる。ここは観光スポットとして、紅葉シーズンか否かに関わらず年中賑わう遊歩道である。この小路に面して高台寺がある。入り口に至るアプローチは、ごく狭い小路となっているため、大勢の紅葉見物客でぎっしり埋まっている。
1
 境内への入り口の庫裏の白壁に映える紅葉が、すでに美しい。
 ここも境内はなかなか広大である。
 この寺院は、豊臣秀吉夫人の北政所ねねが、秀吉没後その菩提を弔うため出家して高台院湖月尼と号し、慶長11年(1606)にこの東山霊山の山麓に開創したもので、正式には高台寿聖禅寺という。寛永元年(1624) 建仁寺の三江紹益禅師を迎え建仁寺派の禅寺となった。徳川家康は高台院ねねを篤くもてなし、多大の財政援助を行い、寺院は壮観を極めるものとなったという。

Photo 広大な庭園は、小堀遠州の作によるもので、桃山時代を代表する庭園とされる。この日は、ここで婚礼を挙げたばかりの新郎新婦が、列席者たちとともに記念写真を撮っていた。Photo_2
 境内の東端の高台には、時雨亭と傘亭と名付けられたふたつのユニークな茶室がある。ともににじり口ではなく、普通に立ったままひとが通ることができる初期の茶室構造となっていて、とくに時雨亭は1階を吹き抜けの水屋、2階をお茶の間とする非常に珍しい2階建て構造を採用している。このふたつの建物は、ともに千利休の意匠によるもので、伏見から移したという。
 今年の紅葉は、正直なところいささか期待外れであったけれど、こんなにごく近場で美しい落ち着いた良い場所があることを改めて知り、そのうえ久方ぶりの快晴のなか、気持ちよく散策できたことはとても幸いであった。

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2017年の紅葉見物(2)

知恩院と円山公園

1 青蓮院を出てほんの少し下ると、知恩院の大きな境内である。ただ、今は大修復工事の最中で、御堂などの様子は平常時とはかなり異なっている。それでも、修理中の御影堂と経堂との間あたりのところに、見事に紅葉した楓があった。広大な境内のごく一部の一角だが、季節柄大勢の人だかりができている。Photo
 知恩院をさらに少し下ると、円山公園となる。ここも、全体からみると一部ではあるけれども、きれいな紅葉があった。ついこの前にこの同じ場所を、夕日の暑い日差しを避けながら歩いたことを思い出す。月日の経つのは、とても速い。

Photo_2
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2017年の紅葉見物(1)

 今年はかなり暑い真夏のあと、短い秋がすぎて急速に寒くなった。この気候の推移から、なんとなく紅葉は期待できそうだと思っていた。ところが11月に入って葉が色づくころから雨の多い秋となった。予定した紅葉見物の日程が相次いで雨天となり、ともかく雨を逃れて紅葉を見たいと出かけたのが今回であった。

青蓮院3

  阪急河原町駅から、四条通りを東に歩き、祇園に八坂神社を抜けて円山公園に出て、知恩院の前を北に少し上ると青蓮院である。
 入り口には、天然記念物のクスノキの大木が2本聳える。一見はさほど大きそうには見えない門構えをくぐり、寺院のなかに入る。
 青蓮院は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡寺院のひとつである。当初は比叡山山頂の東塔南谷にあった房のひとつであった。平安末期に行玄大僧正が京都に院の御所に準じて殿舎を建てられ住居とした。久安6年(1150)最勝寺経供養の日を祈祷により晴天にしたことにより、この住房を皇后の祈願寺として、青蓮院と称されることとなった。行玄大僧正は藤原師実の子であったが、そのあとも明治にいたるまで門主は皇族あるいは五摂家の子弟に限られた。

1 室町時代に第17世門主となった尊圓親王は、書道にとくに秀でて和風と唐風を融合した日本独自の書風を樹立し、これが「青蓮院流」として後世に伝えられた。私たちが目にできる多くの古文書の書風も、基本的にはこの書法を基準としている。
 応仁の乱では兵火に逢ったが、徳川幕府は殿舎の造営に尽力し、17世紀に東福門院の旧殿を移して宸殿とした。18世紀後半には、天明の皇居火災のときこの青蓮院を仮御所とされ、ここ境内の小御所に滞在された。
2
 境内は外から想像するよりもはるかに広大で、仮御所として用いられただけあってか、洗練された美にあふれた空間である。相阿弥・小堀遠州・大森有斐がそれぞれ作庭したという庭園も素晴らしい。
 肝心の紅葉だが、期待していたほどには真っ赤な紅葉が多くはなかった。庭園の手入れをしているらしい人に、家人が訪ねてみたが、今年はちょうど今くらいが盛りでしょうとのことであった。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館(7)

神の領域
Photo_2 小波瀬と江戸を往復しつつ老躯にむち打ち、なおエネルギッシュに創作に励んでいた北斎は、80歳代の後半になっても新しい表現を追求し続けた。「流水に鴨図」(弘化4年1847)では、流水は大胆に様式化を遂げ、表現に余分が一切無くなり、とても簡素で、それだけに一層鮮烈な表現を達成している。
 90歳にあと少しという嘉永2年4月に亡くなるが、その年の正月に、絶筆ともいうべき作品群のうち2点が展示されている。そのひとつが「雪中虎図」(嘉永2年1月1849)である。
死期の近づいていることを明確に知りながら、なお前を向き上を目指して、まるで龍のような手足で力強く逞しく突き進もうとする北斎自身が、ストレートに表現されている。
 そしてもうひとつの作品が「富士越龍図」(嘉永2年1月1849)である。北斎が終生愛してやまなかった富士から火葬を連想させる黒々した煙が立ち上り、その煙のなかに北斎の魂たる龍が昇天して行く。北斎は「人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原」という辞世を残しているが、私はこの絵こそが北斎の真の辞世だと思っている。
Photo_3
 展覧会の会期末が迫っていたからなのか、それとも北斎の人気がやはりずば抜けて高すぎるのか、大変な混雑のなかで、「恐れ入りますが大変混雑しています。あと少し早めにお進みいただくよう、お願い申し上げます。」と何度も係員に急き立てられ、多くの作品を群衆のわずかな隙間越し、頭越しに鑑賞するという、まれにしか体験しないような厳しい鑑賞であった。それにもかかわらず、やはり思い切って鑑賞に出かけて、待ち行列に耐えて、鑑賞を達成したことを、全く後悔なく幸福であった、と思う。
 卓越した基本的な技能を備え、人並み優れた長寿に恵まれ、それでいて常人の何倍もの苦労を重ねた上に到達した葛飾北斎の芸術は、際立って独創的で完成度が高く、自由奔放で、エネルギッシュで、さらに畏まらずのびやかで、遊びがあり明るくて、とても楽しい芸術であることを、何度鑑賞しても感じることができる。いかに天才とは言え、真剣に集中して禁欲的に全身全霊を打ち込んでこその見事な出来栄えなのに、そうしたことに伴いがちな重さ・堅苦しさ・近寄りがたさなどがまったく感じられず、そこはかとなく余裕・ユーモア・ホスピタリティ・やさしさが感じられる。やはり希代の芸術家である。

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北斎―富士を超えて― あべのハルカス美術館(6)

想像の世界と北斎の周辺(後)
 北斎は80歳を超えた最晩年にいたって、天保の改革による理不尽ともいうべき質素倹約令で仕事が激減したり、放蕩者であった孫の行状で悩んだり、脳卒中あるいは尿路結石の持病が悪化したり、と経済的にも身体的にも精神的にも苦労の多い老後をすごしていたらしい。

1 そんななか、信濃国小布施の豪商高井鴻山の招聘に応じて北斎は娘のお栄=葛飾応為とともに小布施を訪れ、そこで逗留して画業に励んだのであった。
 85歳のころ小布施に半年ほど逗留した北斎は、東町祭屋台の天井絵『龍図』と『鳳凰図』を描いた。小布施ではかつて夏祭りの際に、各町が一基ずつ祭屋台を巡行させていた。このときの『鳳凰図』の下絵が、今回展示されている。「鳳凰図天井絵彩色下絵」である。暗い藍を基調にした背景に鮮やかな朱色で彩られた鳳凰が描かれる。
翌年、再び小布施を訪れた北斎は上町祭屋台に取り組み、濤図(なみず)『男浪(おなみ)』と『女浪(めなみ)』を描いた。小布施町の外では初めての公開となった「濤図(なみず)」(弘化2年1845)である。
Photo
 ここで濃い青色つまり群青色の絵の具として当時最先端の画材たるプルシアンブルーを用い、薄い青には顔彩の藍を、そして薄い緑色には緑青(ろくしょう)を用いている。渦の奥の波をプルシアンブルーの濃い群青で、前面の波を藍の薄い青で、さらに手前の波を緑青の薄い緑で描くことにより、色の明るさと濃度の階層の使い分けで見事に立体的な表現を実現している。この作品の制作には、浅からず娘のお栄=葛飾応為が貢献しているというのが、最近の研究の結論であるらしい。

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