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2018年3月

松下圭一『日本の自治・分権』岩波新書

 1996年つまり22年前の新書である。著者は丸山眞男の門下生であり、また旧民主党代表として首相になった菅直人が所信表明演説でとりあげたことがある、「市民」第一主義ともいうべき「市民社会」を軸とした政治学を説く政治学者である。
 松下は、日本は1960年代ころから近代化が成熟して農村型社会を脱して都市型社会に入り、国家が政治課題を推進する近代化の時代を過ぎ、「市民」が主導して地域的個性を尊重した自治体行政を推進する時代になった、あるいはなるべきだとする。これまでのように、国が法律を作って自治体に執行を委任・委託するような仕組みでは、多様な地域の条件・要望に対応できず、国の省庁の縦割り所管によりバラバラに行政が押し付けられ、全国の低位平均化が生じ、国の立法遅滞に拘束されて時代遅れ・時代錯誤の行政となる、という。これを改めるためには、「市民」が前面にたって自治体の位置づけ、仕組みを全面的に作り替え、国の政府と対等に立つ自治体政府をつくり、外交・国際政策までも自治体でおこなうべきだとする。
 私も、地域の状況はそれぞれに相違があり、地方自治の内容について自治体の独立的な行政がもっと拡大するべきだとは思うし、松下がいうように条例をきちんとつくり実施するために、政策法務部門を確立したほうがよいとも思う。しかし、私にとってもっとも理解しにくいのが「市民」という存在でありその定義である。松下は「国民国家」を否定しているので、「国民」を否定し「市民」に置き換えるべきだと主張しているように思える。さらに「外交」「国際政治」をも自治体が担うべきと主張するにおよんでは、私には受け入れがたい。「国民」を護る「国民国家」という枠組みが不要であるとは思えない。
 ちいさな本なのに議論に重複が多く、肝心なところの論及が薄いようにも感じた。基本的なところで納得できない論考であるが、地方自治の目的・方法・改善の方向性などについて参考にできる言及は諸所にあるので、一読の価値はあるといえる。

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進藤榮一『東アジア共同体をどうつくるか』

 2007年1月発刊というから、11年前の著作である。数年前の民主党政権の終わりころ、鳩山由紀夫氏の民主党が「東アジア共同体」をさかんに唱え、無責任な「進歩派・リベラルメディア」が声高に後押ししていたので、少しその内容を知っておこうと思って買った本であった。ところが幸いにして民主党政権は退き、「東アジア共同体」の話題も消え去ってしまった。その間私もいろいろ取り紛れてしまい、この本も「積んドク」になっていたのを、偶然「発見」して読んでみたのであった。
 著者は、開発途上国への支援として、ODAを軸とする政府開発援助を中心に据える一方で、開発途上国に経済活動で介入する民間企業の利益追求を強く警戒する。たしかに我々一般人も長らくそう理解していた。しかし
平野克己が『経済大陸アフリカ』中公新書で説くのは、利益をもとめる民間企業が開発途上国に参加して、民間企業側の利便性・利益のためにCSR(Corporate Social Responsibility企業の社会的責任)を重視しながら、開発途上国とウイン・ウインの関係を構築することこそが、永続性を維持し長期的に開発側にも歓迎される、という。これは開発途上国の状況を長い時間スパンにわたって観察し熟知した現場主義的研究者の鋭い指摘で、目からうろこが落ちるようなインパクトがあった。進藤榮一の開発途上国に対する眼は、「上から目線」ともいうべきすでに古い思考のようである。
 著者は、「市民社会の進展・普及」が開発途上国を政治的に民主化し「改善」して、経済的に豊かさをもたらし格差を是正していく、というがこれまでの歴史的事実はいくつもの反証を示している。この書の刊行から11年経過し、中国は経済大国となったが、政治的民主化からほど遠く、国内の経済格差は甚大で、中国政府が自ら認めた国内暴動発生件数は2012年時点で年間18万件という恐るべき状態である。チベット、新疆ウィグルのみならず日本の尖閣諸島への侵略行動もますます拡大する一方である。
 著者は、アジア共同体はアジアのめざましい経済発展を契機としてはじまり、共同体実現がさらなる経済成長をもたらす、と経済成長に結びつけて主張する。しかし経済はいかなる体制においても成長が連続するものではない。成長が鈍るあるいは停止したとき、共同体参加国同士で責任の押し付け合いが発生しないとは言えない。EUも、近年のゴタゴタの重要な一因は不況である。
 著者が説く「市民」や「市民社会」という概念がきわめて曖昧でうさんくさい。「市民」が主導する「ろうそくデモ」が韓国に発生し現在の文在寅政権を誕生させたと報道されている。私はそのような「市民社会」は断じて望まない。わが国で前の政権を担当した菅直人も「市民社会」の主唱者であった。「市民社会」が優れているというなら、実例で示してほしい。
 前掲の平野克己が指摘したことだが、アフリカに「資源の呪い」という事象がある。資源のような雇用を生まない産業で経済成長が実現すると、むしろ所得格差が著しく拡大するのである。また平野克己は、経済成長が立ち上がり人口が増加するとき、その経済成長が持続して国民全体に富が均霑するためには、前提条件として食糧の自足が必須であり、そのために農業の生産性改革が重要だとする。重要なのは貧困や経済成長の経済的・社会的諸問題を正しく把握して、適切な対処法を見つけ出して実行することであり、観念的に「市民社会」「共同体」などと唱えてもなんの意味もないのである。
 著者は、ミャンマーを「軍事独裁」というだけで非難し、韓国は選挙が実施されたことで「民主主義国家」として賞揚する。これもあまりに観念的・形式的と言わざるを得ない。政治は理念や形式ではなく、結果がよくなければ国民は不幸となる。私自身2000年前後ころに、フィリピンで、インドネシアで、マルコスやスハルトを懐かしがる何人もの人々に逢った。進藤が述べることは、善意にとらえれば理想主義的、率直に言えば机上の観念論・愚論に過ぎない論点が多々ある。
 そして政治的な面では、なぜそうなるのか理解できないほどに、中国に対して好意的であり、アメリカに対して否定的である。11年前でさえ中国の軍事費や二酸化炭素排出量は、進藤の言うような生易しいレベルではなかったし、現在はずっと増大している。11年前は直接的な尖閣諸島問題はまだ発生していなかったかも知れないが、すでに南シナ海のEEZ問題はあった。それに対するとらえ方も、私は進藤にまったく首肯しがたい。
 11年経過した現在では、EUはイギリスの離脱が決まり、ギリシア問題などが残り、EU参加国に深く影を落とし、ギリシア首都の港湾運営権が中国に買収される事態になっている。アジアでは、北朝鮮が「日本列島を原爆で海に沈める」とその政府トップが公言する異常な事態になっている。
 私は、日本であれ他の国であれ、国益にかなう範囲で、ミクロにはそれぞれの民間企業が利益を見込める範囲で、いずれの国へも積極的に入って行って活動することは望ましいと思う。進藤も言うとおり、物質的にも情報的にもグローバル化は不可逆的に進展しているので、国家の枠に止まらない活動はより重要であり必須である。国境をまたぐことができない国家の政府に代わって、活動範囲に拘束を受けない民間企業がこれまで以上に多くの役割を期待される、と平野克己が指摘する通りである。
 その一方で、それぞれ国民を擁する国家という存在は、人間の個人間のような「友情」や「信頼関係」というものを、本来的に期待できないのである。したがって、グローバルな活動は常に一定の距離感をもって「撤退の可能性」を前提に行う必要がある。国家の安全保障の自律性を損なうような「共同体」なら、参加にきわめて慎重でなければならないのは当然である。
 著者の進藤榮一の主張に対して、私はほとんど賛同できない。主張には賛同できなくても、感銘をうける、あるいは啓発を感じる本は多々あるが、この本には得るものがほとんどなにもなかった。
 進藤榮一は、旧民主党の鳩山由紀夫とも近かったらしい。民主党が政権から早々に去ってくれて、ほんとうに幸いであった。

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小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ』中公新書

 企画院・通商産業省などの官僚を勤め、企業経営、日本新党の衆議院議員などを歴任した実務・実績の豊富な著者による「歴史エッセイ」である。
 著者は、世界の文明が滅びる3つの要因として、社会システムの機能不全、環境生態系の崩壊、モラルの頽廃をあげて、現代に危機感をもち、その現代を考え直すいとぐちのひとつとして、明治維新をとらえなおすべきである、とする。
 明治維新を慶応3年の王政復古から明治10年の西南戦争までとして、その間の政治・経済・社会の変動をできるだけ総合的に解き明かそうと試みている。
 著者は、この期間におこなわれた重要な改革を徴兵制・地租改正・学制改革の3つとする。鳥羽伏見戦に始まる戊辰戦争から明治新政府の諸改革とそれが生み出すさまざまな軋轢、明治政権内部の権力構造とその問題、朝鮮・台湾・琉球など外国との接触、国内のさまざまな不満や反政府勢力とその行動、などの諸事象の歴史的位置付けや意味を、総合的に解説する。
 著者は歴史家ではないので、史料やさまざまな歴史研究の成果を駆使してはいるが、学者間の議論・吟味を経た論考ではなく、あくまで著者個人の考えである。その点で、たとえば司馬遼太郎の歴史小説と類似の論考であるといえる。ただ歴史専門家の研究論文はテーマごと、事象ごとの、いわば細切れの議論になりやすく、本書のように時間的・空間的に総合化したものがすくないので、マクロな概略の知識を得るうえで一定度の価値がある。また専業の学者ではなく、実務経験の深い知識人としての、学問的考察とは別の見識もあると思う。この本がひとつの「歴史エッセイ」であり、歴史学の結論であると決めつけない限りはじゅうぶん意味ある著作であると思う。

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武田龍夫『福祉国家の闘い』中公新書

 外交官として長年スウェーデンに住み、スウェーデン語に堪能な著者による本である。
 スウェーデン社民党は、社会主義の決定論を拒否し、資本主義の競争原理と社会主義の分配原理をミックスして第三の道を作り出し、きわめてプラグマティズムに徹した政権政党となった。「すべての人は満足すべき生活への権利をもつ」という平等原理を採用し、「胎児より墓場まで」のスローガンを謳う福祉国家を目指した。これは1960年代にはかなりの成功をもたらした。しかし1970年代から経済成長の低迷に遭遇し、いやおうなく「経済成長なくして福祉なし」の現実を体験・痛感することになった。ところが日本の福祉関係者はスウェーデンを、現実をまったく無視するほどに美化し理想化した。著者は、そのような思い入れはすでに反知性的である、とする。ヘーゲルが言う「知性とは客観的態度のこと」であるべきだからである。スウェーデンには学ぶべきところも多いけれども、学ぶべきでないところもある。そして最大の問題は、風土と精神文化の違いであり、さらに日本とスウェーデンとは、基礎的条件がまったく違うとする。
 スウェーデンの中立主義はプラグマティズムから、内実は実にエゴイズムに満ちたものとならざるを得ず、それは必ずしも批難されるべきものではないが、決してきれいごとではない、という事実を歴史的事実から説く。スウェーデンの国防政策は、侵略者に対して攻撃による犠牲を極大化させる警告に基づくもので、言わば小国の抑止理論である。スウェーデンの外交と国防は、過去の「屈辱の中立」によって贖いえた平和のための行動の哲学として、現実的理想主義の立場である。スウェーデンの「武装中立政策」は、事実としては中立でもなんでもなく、西側NATOとの緊密な協力関係を裏で維持してきたことが、議会関係委員会の討議記録と証言などですでに明らかになっている。国際政治の情勢を注意深く観察し、交戦国からのある要請は拒否し、ある要請は受諾しあるいは条件付で受け入れ、または他の要求と相殺しあるいは部分的に同意を示し、その他驚くべき柔軟な現実適応の能力を発揮して、国際法には実際はあきらかに違反しつつも、事実において中立を維持したのが実態である、という。もちろん重要な収入源として兵器輸出活動は古くから堅持し続けて全世界におよぶ。
 スウェーデンも、犯罪の増加に悩んでおり、男女関係や夫婦関係の悩みは尽きない。社会福祉の反面としての政府の国民管理の強さに対する国民側の不安や不満も決して小さくないという。
 それらのことが、さまざまな事実を例にあげて実証的に述べられている。
 著者は、ひとつの側面としてはスウェーデンでは成熟した民主主義が実現され、かなりの範囲で国民の要請に誠実に応えており、かなり良質の政治・社会を実現しているという。それでも理想の社会も政治も、現実の世界には存在しないのであり、日本と類似のあるいは異質の多くの問題を内包しているのであり、一部「識者」が唱えるようなスウェーデンへの妄想にもとづくかのような全面的礼賛・賛美に対して強い警告をならしている。
 岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』岩波新書や、山井和則『世界の高齢者福祉』岩波新書などを読んだ人には、ぜひこの本も読み合わせて、軽薄な「(〇〇国)では-のかみ」的論調を客観化していただきたいと思った。

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岡沢憲芙『スウェーデンの挑戦』岩波新書

 ずいぶん前に購入しながら「積んドク」状態であった1991年発刊の本である。
 著者は日本を「経済の論理・効率の論理だけで他の国を評価し、競争・成長至上主義で国民を集団ヒステリーに追い立てている企業社会の戦士」の国とし、対してスウェーデンを「女性・高齢者・障碍者・在住外国人・・・すべてにやさしい」国と評価する政治学者であるから、当然ながらそのようなヒトの意見・主張であるとして、一定のバイアスを前提に読むことになる。ただ、日本が少子化時代に突入し、人口ボーナス時代から人口オーナス時代に入っていることから、人口が少ない国でそこそこうまくやっているらしいスウェーデンの国家運営から、なにか参考にできることがあるかも知れないとの期待もあった。
 スウェーデンをさきの大戦前から主導してきたスウェーデンの「社民党」の政治運営について詳述している。社民党が戦後まもなく、マルクス主義的綱領から脱皮して「社会民主主義」の実現を目指し、プラグマティズムに徹して少数与党の微妙で難しい政治運営を巧みに進めてきたことを具体的に叙述する。国民の要望を見据えて、議会運営では「妥協」をモットーとしてやりくりする。高度の福祉を重視するが、その実現のためには経済成長が必要であり、労使関係に配慮しながら軍事産業をも重要視して市場経済の推進を図る。
 このような論考を読むと、1990年東京NHKホールで「ベルリンの壁崩壊とソ連の行方」をテーマとして開催された国際シンポジウムの場面を思い出す。とつぜんソ連代表の改革派でゴルバチョフ側近のひとりであったアファナーショフが「我々がほんとうにやりたかったことは、実は日本で実現されてしまった。」と発言すると、アメリカ代表の官僚のひとりが「そのとおりだ。日本こそ経済活動に対して政府・通商産業省の指導・介入が大きくて、まったく社会主義経済ではないか。」と返した。司会・進行のNHK高島肇久が「いや、今日はソ連の話をしていただきたいので・・・」と、慌てて話題を変えたことを、印象深く記憶している。後日のNHKテレビの録画放送では、その興味深い場面はカットされていたが。
 現在のわが国の社会保障予算は、一般会計のなかで費目別最大の33.6%(33兆円)を占め、民間負担分を合わせると全体で120兆円以上、GDPの4分の1までになっており、著者がいう「福祉か成長か」などという呑気な段階ではない。また、私は著者が口をきわめて礼賛するスウェーデンの社会民主主義的方針にとても賛同できない。
 私には、政治運営についてはわが国戦後政治の、吉田茂の少数与党政権以来の自民党政権の歩みが、この本で述べられているスウェーデン社民党のものと、かなり重なって見える。もちろんわが国の与党は、スウェーデンのように「社会民主主義」を標榜するものではなかったが、アファナーショフやアメリカ高官が指摘したように戦後復興のため政府がかなり多面的・重層的に民間経済活動に介入していたし、プラグマティズム、妥協、持続性、などの側面はかなり共通している。政治の実践は、理念や構想だけてなく権謀術数とも表現される多面性や妥協など、一筋縄で行かないマネジメントが必要である。
この本で紹介されている政党政治の運営にかんしては、わが国の場合はむしろ野党が参考にして見習うべきことが多いように思う。著者があげる「自己省察・自己批判」などが、ほんとうにスウェーデン社民党で実行されているとするならば、これこそわが国の民進党・立憲民主党・希望の党・日本維新の会などは取り入れていただきたい。私も、現在のところわが国に政権を預けうる第二の政党が未だ存在しないのは、自民党が弛緩・堕落する惧れから不安であり不満である。この問題もつまるところは、著者がしきりに述べているとおり、指導者に有能な人材を得なくては達成できない、ということだろう。実際つい最近、民主党政権は人材の枯渇・能力の不足をいかんなく露呈していた。
 人口が減少したときの国家運営の参考になるような側面は、残念ながら無かった。この本が書かれてから、平成期の30年間がほぼまるまる経過しているが、本質的な部分についてはまだ有効だと思う。著者の主張には首肯しがたいところが多々あるものの、スウェーデンの貴重なケース・スタディーの紹介としては、十分意味のある本である。

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平野克己『経済大陸アフリカ』中公新書

 さきの大戦の後、雨後の筍のように独立国家が叢生して、いまや人口10億人、うち都市部だけでも4.7億人、55か国の規模になったアフリカは、1970年代末ころから20年以上の長期不況に陥り、「貧困大陸」のイメージが定着していた。それが2000年ころから急速に経済成長が進展した。それは石油・天然ガス・レアメタルなどの資源価格の高騰によるものであった。
 アフリカのその高度成長には、中国の大きな関与があった。中国は目覚ましい経済成長を継続しているが、その成長は典型的には鉄鋼の大量生産など、きわめて大量の資源を必要とするものであり、それ自体が世界的な資源価格暴騰を発生したとともに、その資源調達先としてアフリカを求めた。中国は植民地開発的でも、開発援助でもなく、自国に必要な資源の安定的確保のために、「協力」「共生」「ウイン・ウイン」の姿勢でアフリカに深く関与した。
 一方西欧先進国は、これまで開発途上国に対する「援助」、典型的にはODAなどを通じて、経済的見返りを求めない協力・支援をあるべき理念としてアフリカ・アジアに対してきた。そんななか1980年代からNIES(Newly Industrializing Economies)と呼ばれる東アジア・東南アジア諸国が、低廉で豊富な労働力を利用して製造業を軸に、輸出主導型の経済成長段階に入り、以後開発途上国とはアフリカに限られるようになった。
 ところがアフリカでは、経済成長と貧困解消とが連動しない、という大きな問題が判明した。第一は資源産業がほとんど雇用を生まないために、賃金などで資源販売の収入を大衆に均霑させる産業上の仕組みが存在しない。第二は農業が低生産性のまま取り残され、急激に増大した都市人口を食わせるために多くの食料輸入が必要となり、さらに食料価格が暴騰しせっかくの資源収入を新たな生産構造構築にまわせないのである。食料価格が高いために、非熟練労働者を含めて労働賃金を低くできないという深刻な問題もある。「資源の罠」と呼ばれる現象である。これは資本による「搾取」あるいは「収奪」ではなく、社会・産業構造の問題である。対策としては、まず農業の生産性向上が必須である。
 さらにBOP(Base of the Economic Pyramid)ビジネスやCSR(Corporate Social Responsibility企業の社会的責任)などが、崇高な理念に頼るのではなく、参入企業の応分の利益を確保しつつウイン・ウインの民間的展開を維持できることが、先進国側からの持続的介入にとって重要であることが説かれている。
 アフリカは大陸だがあまりに多数の国家に分割され、ひとつの国の経済規模が日本のひとつの県に満たないような状況が多くある。このような状況のなか、本質的に国境を超えうる民間企業の参加は、国別に分断を強いられるODAなど政府系・公的支援よりはるかに有益に貢献し得る点も重要なポイントである。
 以上のほか、南アフリカ共和国などの「アフリカ人による産業創生・経済成長」の例など、一部に過ぎないものの成功例も紹介され、今後アフリカ自身が、また日本が目指すべき方向について論じられている。
 ちいさな本であるが、内容はとても密度が高く、非常に感銘を受けた。

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伊丹市芸術家協会展 伊丹市立美術館

 伊丹市立美術館で「伊丹市芸術家協会」の創立30周年を記念して美術展が開催された。今回は、絵画・工芸・彫刻・書・写真の60点ほどの展示である。
 絵画部門では、まず興味をひいたのが熊木清一「愛は、愛を愛することをバナナアイス」という奇妙な題名の、絵画というより金属のコラージュの作品である。中央に女性と思えるトルソが金属の溶接板金加工で立体的に造形されていて、周囲をやはり金属の細い枝が伸びた樹木が囲み、リンゴの果実もある。おもしろいきれいな作品だが、題名は私には不可解である。小林富士男「往き交う刻」は、海岸に面する風景を極端に視点を上昇させて、通常の風景画であれば青空にあたる画面上半分に海を配置して、多くの船を浮かばせる。特異な超現実的な構図を導入することで絵に時間と動きを暗示させている。芝原千恵「箱の生物」は、一見ごく普通の生物のように見えるが、なんでもない普通の木の枠(箱)を果物などの生物に少し不自然な配置でからませるだけで、絵としてはとてもシュール・レアリスティクになっている。意外にもおもしろい絵である。今回の展示では、全体に抽象化した絵画作品が多数をしめる中で、東海林恭子「花の窓辺」がその具象性でかえって際立っている。実際の窓にふさわしいほどの大きめのカンバスに、窓、窓から見える庭の景観、窓の周辺の鉢植えの花、花瓶などなど、ありふれた身近な対象をごく普通に描写している。ただきわめて巧妙な技法なのか、描かれた画面がごくわずかひずみを含み、揺らいでいる。この揺らぎが静かな動きを与えて画面をそこはかとない超現実的な明るいダイナミックな雰囲気にしている。今回の絵画作品のなかでは、私にはこの絵がいちばん印象が深かった。
 工芸部門では、片山晴被古「共生(漆・木)」が新鮮であった。壁掛けの絵のような風情の作品だが、素材は漆器でコラージュのように組み合わせていて、漆によるピンク・茶色・銀色などの色彩が鮮やかで「漆は美しいな」と自然に感じさせる。星野尚「ラマンチャ」は、寄木細工のような手法で、木材の木目や木地の色をうまく使って絵を構成する。素朴な木の色彩と質感が、中世の南欧を連想させる素朴さに不思議にぴったりしていて、とても雰囲気のある作品となっている。
 彫刻部門では、黒野敬三「ナースの誇り」がインパクトがある。がっちりした、しかし少し疲れたような表情のナースの頭部だが、眼が前に焦点を結んでいない。なにか内面に葛藤かあるいは不満があるようだ。
 写真部門では、木下毅「秋思(しゅうし)」が新鮮である。秋の落ち葉が積もった山の水辺の景観を撮影したものだが、よほど明るい景色であったのかあるいは思い切った長い露光時間で十分絞り込まれたシボリにより大きな被写界深度をとって、近景も遠景もまるで絵画のように焦点が合っている。そして画面の真ん中には、赤や黄色に紅葉した落ち葉があり、それらが個々には特段のものではないのに、景観としてとても美しい。「写真のような絵」と言われることがあるが、これは「絵のような写真」だ。
 全体を通じて思ったのは、このような作家ひとりにほとんど作品ひとつのみいう展覧会は、観るものにはなかなかむずかしいということである。典型的には「個展」のように、ひとりの作家について年代を追って作品の変化や進化が追えるような場合は、作家と作品について理解しやすいが、そうではなく突然唯一の作品だけに向きあうというのは、観るほうはかなりしんどい。このような場合、せめて作品の題名が観る側にとってヒントになるような、意味のある、意味の深いタイトルにしていただきたい、というのが私の素朴な願いである。
 伊丹市にこんなに大勢の芸術家がいたのか、といささか驚いた。予想以上に興味深い鑑賞であった。

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映画『フェンス』

 2016年アメリカで公開された映画で、デンゼル・ワシントンが監督・主演した作品である。原作は、舞台劇の『Fences』をもとに制作されたもので、原作は1983年オーガスト・ウィルソンの戯曲だという。
  舞台のはじまりは1950年代のピッツバーグ。主人公トロイは若いころは非行も多く逮捕歴もあったが、愛妻ローズに出会って改心し、今は実直にごみ収集作業員として働いている。一緒にごみ収集をするボノは、長年の白人の親友である。
  今は改心して、毎週の週給を妻に手渡すことだけを目標にして生きるトロイは、堅実な生活・生き方をかたくなに尊重し、ミュージシャンを夢見て正業につかず、久しぶりに帰って来て金を貸してくれとねだる息子ガブリエルにも、またスポーツの才能を認められ、大学のフットボールチームからスカウトされているもう一人の息子コリーにも一切耳を貸さず、ただ「音楽や学校などいらない、早く働け、日銭を稼げ」の一点張りである。
  トロイは、不良生活をやめたあと、野球をやって非凡な才能を発揮したが、すでに年齢的にプロ野球選手にはなれなかった。それをトロイは、黒人差別のせいだと考えていた。黒人の息子たちに、甘い将来は絶対にないとかたくなに信じ込んでいた。
  トロイは、どういうわけか家の周囲にフェンスを作ろうとし、フットボールを練習したいコリーにその手伝いを厳しく命じた。
  運転免許もなく文字すら読めないトロイだが、精勤が認められ、昇進してごみ収集車の運転手に配置転換となった。ピッツバーグで最初の黒人運転手であった。しかし親友のボノは、トロイが地元のバーで働くアルベルタと浮気していることを知る。ボノは、トロイの家庭の維持のため、トロイに浮気をやめるようにアドバイスするが、トロイは聴かない。やがてアルベルタの妊娠と出産、さらに出産時にアルベルタが死ぬという事件が起こる。怒り狂った妻ローズは、それでも生れた子に罪はない、と赤子を育てる覚悟を決める。
  10年ほどたったある日、トロイの葬儀が行われた。葬儀に立ち会うため訪問した息子コリーは海兵隊員になっていた。もうひとりのミュージシャンを目指していた息子ガブリエルは服役中だったが葬儀のための臨時出所で帰っていた。彼らは、かわいい少女に成長した、ローズが育てた義妹に出会う。
  ストーリーにはそこはかとない不条理が漂い、画面構成には演劇の影響が明らかに感じられる。人種差別問題がひとつの大きな軸だが、単純に人種差別反対を訴えるものではない。私たちの世代が若いころに流行した、カフカやカミュの世界に印象が似ているようにも思う。フェンスは、そこに生きる人たちの心の壁、差別の壁、個人の内面の相剋する多面性の相互間の壁、などさまざまな不条理の象徴なのだろうか。
 トロイを演じるデンゼル・ワシントン、ローズを演じるヴィオラ・デイヴィスをはじめ、キャストはいずれも表情豊かで説得力があり、迫力がある。出演者はわずか数人だが、ストーリーのひろがりは大きい。たしかに優れた表現芸術だろう。2時間ほどの上映時間があっと言う間に過ぎた。

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建前と本音の乖離と危機

 最近になって「日本の製造業の落日」として報道されるような事件があいついで発生している。2017年10月ある代表的な鉄鋼メーカーで、鉄鋼材料の検査が製造現場で社内規準、つまり社内ルールを違反していたことが発覚した。続いて同様な事態が、複数の化学材料メーカーでも露呈した。これらは、製造段階の規準が工学的必要水準に比べて十分に余裕をもって厳しいものとしていたことが問題の発端であった。これらの規準を厳密に順守しなくとも、実用上はほとんど問題が発生しないことを、製造当事者たちが知っていた、少なくともそのように思っていたために、結果として杜撰な対応となった。そうなった背景には、製造業側の立場としては、ユーザーから求められる厳しいコスト削減の圧力があった。正しい対処としては、コスト削減に対して、品質にかかわらない検査規準を見直すことを製造側がユーザーに説明・提案し承認を得て検査規準を改定することから始めるべきであった。
 そしてつい最近、とうとう現実に大問題を発生しかねない製造過程でのルール違反が発生した。新幹線の車体を支える基幹的な部品の強度が、製造過程での規準が守られずに、ついに強度不足となった。メーカーの製造現場で、ラインのリーダーが正しく製造規準を伝達・指示していなかった、というのである。
 後者の問題は、一見前者の問題と関係が少なそうに見えるが、根本でつながる問題である。一般に機械の設計において、十分な安全率を織り込んだ設計をするので、製造において、感覚的に不必要に思えるほどの余裕を規準に与えることがある。新製品の場合は、とくに「余裕」が大きめになりがちである。製品を作りこんでいくと、その余裕分の実態がより明確になることも多い。製造当事者は、「本音」では「規準値は余裕をとりすぎだ」と思い込んで、規準値を「建前」とみなしてしまったのだろう。しかし、品質を維持するための規準をルールとした以上、それを遵守しないことは根本的に問題なのである。
 製造側は、規準が必要以上であり、ユーザーのコスト削減などの要請に応えるために合理的に製造ルールを見直すことが必要なのであれば、ユーザーと折衝してルール改定を着実に実施して、製造ルールが常に「建前」でなく「本音」として遵守すべきもの、遵守できるものとしておくことが必要である。
 しかし一度メーカーとユーザーとで取り決めたルールを改定することは、実際には容易ではないことが多い。ユーザー側の担当者の立場とすれば、万万が一のリスクをあえて被りたくないとの気持ちもあろう。一方で長期にわたって供給を受けるユーザーの立場としては、メーカーに対してコスト低減を求めたいのも実情である。こうして事態の推移の谷間に取り残された「実際の必要以上の規準値」が「本音と建前」の乖離を暗黙のうちに広げ、上記のような問題や事件を引き起こしていたのである。
 以上の「日本の製造業の落日」と報道されている問題にかかわって、私は別の問題を連想した。「憲法改正問題」である。「日本国憲法」のさしあたっての大きな問題は、第9条のとくに第2項である。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

  この第2項は、ごく素直に読んで自衛隊は憲法違反と理解すべきものである。しかし歴代の政府は、自衛隊は日本の国防のために必要であると判断したうえで、憲法の条文をさまざまな理由付けのもとにきわめてテクニカルに「解釈」することで「自衛隊は違憲ではない」と説明してきた。これも「建前」と「本音」の深刻な乖離である。そのため、自衛隊の行動にさまざまな制約をともない、現実の軍事的脅威にたいしてまともな対応ができないのではないか、という素朴な懸念が多くの国民に共有されるようになってきた。しかし、実際に憲法を改変するとなると、なかなか議論も行動も進まない。憲法についても、「建前」と「本音」の深刻な乖離に実は厳しく直面しながら、多数の国民は危機感の欠如、長い時間の惰性、そして怠慢もあって、「建前」と「本音」を一致させるというごく当たり前のことができないでいるのである。
 規準やルールは、納得して約束したことは、誠実に正確に遵守することが正常な行動の基本であり原点である。裏返して言えば、誠実に正確に遵守できるように規準やルールをつくらなければならない。メーカーはユーザーと真剣に向き合って検査規準を妥当に改正して、それをしっかり誠実に遵守しなければならないし、日本国民は現在の日本をとりまく環境を真剣に考えて自衛隊の存在を必要とするなら、妥当な憲法改正をしなければならないのである。

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間人「かに旅行」と城崎温泉散策

 今年も晩冬の楽しみのひとつである「かに旅行」に出かけた。この冬は例年以上に寒かったが、2月初旬の厳しい寒波のあと中旬から寒さが緩和し、2月終わりには小春日和が重なったりした。京都からJR山陰線で福知山に向かう車中からみる景色は、早春の気配を告げる明るい陽射しと青空と、山にかかる残雪との対比が美しい。京都丹後鉄道で福知山から網野に向かう路線では、景観の所々に根雪が増えてきた。Photo
 網野駅から宿の車にピックアップしてもらって、行きつけの間人海岸に面した宿に向かう。途中、宿のご主人から近況を聞くと、やはりこの冬は寒さが厳しく、いつになく雪が多かったという。列車の運転中止も頻発し、道路の雪かきも大変だったそうだ。交通手段が長く停止すると、地域の生活物資の供給にも支障が出るだろう。この日も気温は内陸部の福知山より確実に低く、雪もたしかに多いと感じた。
 いつものように、宿につくと温泉につかり、そのあと「かに三昧」のディナーとなる。いつもながら明らかに食べ過ぎるのだが、かには不思議に胃にもたれたりしない。実際このたびも、食後すぐは食べすぎ感が強かったものの、一晩寝た翌朝は、多彩なメニューの朝食を完食した。

Photo_2 翌朝は「春の嵐」という表現がまさにぴったりの強風が吹き荒れ、宿の窓から見る海の波頭が白く大きくなっていた。風の「ゴーッ」と響く音もすさまじい。この地では、秋の台風はさほどではないが、発達性温帯低気圧による「春の嵐」は実に恐ろしいという。
 さて、宿をでて京都丹後鉄道の網野駅に着いてからがひと波乱であった。宿から駅までの車でも、強風のためか交通量は少なかったが、車中でもあり風は海岸ほどには強く感じなかった。しかし駅に着いて聞くと、列車は強風のため運転が止まっていて、1時間以上待たざるを得ないという。しかたなく、最寄りのコンビニまで歩いて行ってコーヒーを飲んだりしつつ、列車の再開を待つこととなった。
Photo_3
 こうしてかなり遅れて、昼過ぎになってようやく城崎温泉に着いた。たしかこの時期に、太師山への城崎温泉ロープウエイの途中駅にある温泉寺の本堂で「十一面観音菩薩」の御開帳があると思って城崎温泉観光案内所で聞いてみた。案内窓口に二人の若い女性がいて、親切に相談に乗ってくれたが、そのひとりは日本語がとても上手な白人外国人女性であった。ただ問題は、ここでも「春の嵐」の強風で、ロープウエイは休止中だという。やむを得ず到着が遅れたため予定より時間も少なくなっていたことでもあり、あとは温泉街の散策とショッピングで過ごすこととした。1年ぶりに見慣れた温泉街をぶらつくのも楽しい。
 これまでに何度か訪れた極楽寺に立ち寄ってみると、この境内の有名な石庭もすっかり雪で覆われていた。
 昨年も立ち寄っておいしい地酒を教えていただいた酒店に入って、利き酒を楽しんだ。今年は「但馬」という朝来市の「此の友酒造株式会社」の地酒を味わった。これがなかなか美味だったので、多少重くて嵩張るのも厭わず、一升瓶を購入して頑張って持ち帰った。この貴重な一升瓶は、3日を待たずに空になった。

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館 (7)

日本人のゴッホ巡礼
Photo ゴッホの亡骸はオーヴェールの墓地に葬られた。わずか半年後の1891年(明治24年)1月にユトレヒトで没したテオの亡骸は、ユトレヒトの墓地に埋葬されたが、1914年(大正3年)年兄フィンセントの隣に移葬され、これ以後兄弟は仲良く永遠の眠りについた。
 フランスでのゴッホの死から間もなく、こんどは日本で、かねてから西欧の芸術に深い関心を示していた小説家の武者小路実篤、画家の岸田劉生・斎藤與里や、美術史家の児島喜久雄らの「白樺派」やその周辺の文学者・美術家たちが、ゴッホの作品や生涯を熱心に日本国内に向けて紹介し始めた。それは静かな熱狂の渦となり、大正から昭和初期にかけて、少なからぬ日本人がゴッホの作品と人生の軌跡を求めてオーヴェールへと赴くことになった。
Photo_2
 大正3年(1914)、洋画家の山本鼎と森田恒友がオーヴェールを訪れた。ゴッホの最期を看取ったポール=フェルディナン・ガシェは、すでに明治42年(1909)に亡くなっていた。生前ほとんど売れなかったこともあり、ゴッホの作品の多くが没後もガシェの元に残され、息子ポール=ルイ・ガシェがそれらを大切に保管していた。当時はパリで見ることのできたゴッホの作品はごくわずかであり、彼の作品と足跡に触れることを求めた日本人たちは、オーヴェールをゴッホ巡礼の地と定めることになった。
 モーリス・ド・ヴラマンクとモーリス・ユトリロに傾倒した佐伯祐三も、ゴッホに深い感銘を受けたらしく、オーヴェールを訪れて「オーヴェールの教会」(1924)を描いている。

1933  土田麦僊・小野竹喬ら国画創作協会の中心メンバーとなった日本画家たちも、オーヴェールを訪れていた。近代ヨーロッパ絵画の表現を積極的に摂取し、清新な日本画の創造を目指した彼らにとって、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンに代表されるポスト印象派の芸術は、大きなインスピレーション源となったらしい。
  新潟県に生まれた精神科医式場隆三郎は、ゴッホの精神疾患に関する論文で学位を取得したのち、多数のゴッホの研究書、書簡集の翻訳、複製画による展覧会、複製版画制作などの活動を通じて、ゴッホの芸術と生涯を世に広めるのに多大な貢献をした。
  式場隆三郎の歌の師でもあった斎藤茂吉も、医学研究のためヨーロッパに留学し、西洋美術、とりわけゴッホへの関心を深めていった。オーヴェールで茂吉は、ゴッホをテーマに歌を詠んでいる。斎藤茂吉は、オーヴェール巡礼に先立って、オランダのハーグに、当時まとまったゴッホ・コレクションを有していたクレラー=ミュラー家をおとずれた。実業家アントン・クレラーの妻ヘレーネが収集したそのコレクションは、現在は貴重なゴッホ・コレクションとしてオッテルローのクレラー=ミュラー美術館で公開されている。
  今回のゴッホ展は、日本の浮世絵がゴッホの芸術に与えた影響、そしてゴッホの芸術とその生涯が日本の芸術や文化に与えた影響について考えるという視角から、かなりユニークな企画に基づくものであった。関連する浮世絵や日本人画家の作品もかなり多数展示された。こうして展示を観賞してみると、日本の美術の水準の高さ、その普遍性を改めて認識する。また日本の芸術家が、早くから西欧の芸術に単なる模倣目的でない、本質的な視点での関心を持っていたことにも気づかされた。総展示点数が180余りと、いささか多すぎて疲れたけれど、とても良い展覧会であった。[完]

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館 (6)

遠ざかるジャポニズム (下)
 ぶりかえす精神疾患の発作の合間にもゴッホは描き続け、それらの作品の中にはまだなお浮世絵の影響を感じさせるものが残った。

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「ポプラ林の中のふたり」(1890)がある。ポプラがいちめんに立ち並ぶ樹林だが、左手には道が画面奥に向かって展開し、林のなかに立つカップルは、顔が不分明なままで、脚もとは茂みのなかに溶け込んでいて、なにか現世の人間でないかのような雰囲気さえ漂う。背景は空が見通せるわけでなく、暗い群青色に沈んでいる。この明るいポプラの樹林は、絶望的な闇のなかにけなげに咲く夢の世界なのだろうか。おそらくゴッホの精神の内面が表現されたものだろう。Photo_2
 サン・レミの精神病療養所に入ってからは、庭の片隅や植物をクローズアップで描いた作品が増えた。「蝶とけし」(1889)という絵がある。これはまるで日本画の花鳥図のようでもある。
 フランス政府は植民地画家デュムーランを日本に派遣した。彼は日本主題の絵を発表しはじめた。
ゴッホが日本の浮世絵に魅せられる契機にかかわった画商ビング は、1890年に国立美術学校で大浮世絵展を開いた。そして1891年、日本美術が初めてルーヴル美術館に購入された。
 1890年7月28日、画商ビングは、浮世絵展の功績をみとめられて、レジオン・ドヌール勲章を授与された。まさにこの同じ日ゴッホは、オーヴェールの屋根裏部屋で死の床に横たわり、日付の変わった翌29日、しずかにこの世を去った。ゴッホの最期を看取ったのは、医師ポール=フェルディナン・ガシェであった。

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館 (5)

遠ざかるジャポニズム (上)
Photo ゴーギャンとの共同生活に破綻したゴッホは、精神を病んでしまった。そして一方では、日本という国そのものも1889年に立憲制国家になり、ヨーロッパにおいても、日本はもはや想像を膨らませる対象としての「楽園」ではなく、現実の国家として見られるようになっていった。ヨーロッパの多くの人々が「日本の夢」から目覚めさせられるようになったのである。ゴッホからも、ジャポニズムは徐々に遠ざかり、手紙でも日本について語ることはほとんどなくなった。
 「オリーブ園」(1889)という作品がある。このころからゴッホの描写には、独特のうねりが増加してゆく。なにかの寓意が写実に折り重なっているようでもある。それでも表現は力強さを増し、青色を基調とした独自の描写からは、自然の生命力が感じられる。

Photo_2
 「渓谷」(1889)という作品がある。全体の描写のトーンからは、かつてのジャポニズム的な印象ははるかに弱まっているが、画面構成を見ると、中央の遠景に小さく山肌が配置され、人物が風景に溶け込んだように控えめに描きこまれ、まるでデフォルメされた山水画のようでもある。

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館 (4)

南フランスでのジャポニズム時代 (下)
 「アイリスの咲くアルル風景」(1888)は、ゴッホが想像する「日本的な」明るい光に満ちた、太陽光があふれる黄色の世界として描かれている。
Photo
 南フランスで、ゴッホの絵は、いよいよ日本の浮世絵に強く影響されるようになった。「寝室」(1888)は、ゴッホがゴーギャンの到来を待ちわびていたアルルの「黄色い家」の寝室を描いた作品である。「日本人はとても簡素な部屋で生活した。そしてその国には何と偉大な画家たちが生きていたことか」、「陰影は消し去った。浮世絵のように平坦で、すっきりした色で彩色した」といった言葉がテオへの手紙に残っている。陰影は排除され、平坦で鮮やかな色面で構成されていて、ジャポニズムの深化がうかがえる。
Photo_2 「タラスコンの乗合馬車」(1888)も、高い地平線が導入され、鮮やかで平坦な色面遣いで構成され、はしごの斜めのラインが画面を引き締めている。いずれも浮世絵の影響だという。ゴッホは「タルタラン(ドーデの小説)に出てくる年老いたタラスコンの乗合馬車の嘆きをおぼえているだろうか」と言っている。
 ゴッホは、自然の中に生き、深い思想と真の宗教をもち、信頼できる友人と兄弟のように生活する貧しく素朴な人間として創作に専念する、というような生活を理想とした。そしてその理想を実現すべく、ゴーギャンと「黄色い家」での共同生活を始めたが、その生活は1888年12月の「耳切り事件」で崩壊してしまった。それでもその直前までの、ゴッホが日本を夢見ていたわずか1年ほどの期間は、彼にとってもっとも創造力に満ち、そしておそらくもっとも幸福な時期だったのだろう。

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ゴッホ展―巡りゆく日本の夢―京都国立近代美術館(3)

南フランスでのジャポニズム時代(上)
Photo 約2年パリに滞在したのち、1888年2月ゴッホは南フランスのアルルに移った。ゴッホは、南フランスを「フランスにおける日本」と思い込んでいたという。ゴッホがアルルに到着したとき、思いがけず一面の雪景色に遭遇した。その風景が、ゴッホが浮世絵でイメージしていた日本の景色に重なって「まるでもう日本人の画家たちが描いた冬景色のようだった」と深く感動したという。そこで描いた作品が「雪景色」(1888)である。通常の西欧絵画に比べると地平線がかなり高く配置され、すなわちかなり上から見下ろしたような視角に相当する。右上から左下に斜めに画面を横切るラインも特徴であり、これも浮世絵によく採用される基本構成法だという。Photo_2
 ゴッホはパリ滞在中から、ピエール・ロティの異国趣味小説『お菊さん』を熱心に読んでいた。ゴッホは日本を直接見聞したことが無かったので、小説から日本の雰囲気を探ろうとしたのだろう。その小説のなかで、お菊さんという少女が、夾竹桃の花と一緒に登場することがあったらしい。そんなことから、ゴッホにとって夾竹桃は普通より重要な位置づけにあったのかも知れない。「夾竹桃と本のある静物」(1888)という作品がある。夾竹桃の花は、生命のみならず感情までもっているかのように感じる。

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