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2018年4月

伊能測量協力者顕彰大会式典 (2)

懇親会
 顕彰式典のあと、会場の部屋を移動して懇親会が開催された。

Photo 鈴木純子代表理事による冒頭の開会挨拶のあと、東京地学協会会長野上道男氏から祝辞があった。伊能忠敬の測量・地図にかんする業績はもちろん偉大なものであるが、彼の詳細かつ綿密な日誌の記録から、さまざまな貴重な情報が得られるとのことである。たとえば明治維新期の廃仏棄釈により多数の寺院が一時的にも廃棄・停止され、近世の神仏習合時の神社と寺院の関係などが不分明になった場合が多々発生したが、伊能忠敬の日誌には、測量で訪れた地の神社や寺院のことまでも詳細に記されていて、貴重な基本情報となっているそうである。その日誌に、たとえば私の祖先に関しては「文化2年(1805)10月9日、朝晴六つ時過ぎ西須磨村を出立、(中略)明石大蔵谷駅へ午時頃に到着、摂津・播州境(中略)垂水村にて大庄屋兵治郎出て大蔵谷駅、すなわち明石城下に止宿」と記されている。簡潔な業務日誌であるが、要を得た行き届いた記述である。
 8名ずつ円卓に着席してフランス料理をいただく。私と家人の隣には伊能忠敬研究会の会員の方がおられて、研究会の活動について話を聴くことができた。藤沢にお住まいとの由で、私たちもかつて18年間近く鎌倉に住んだことから、湘南地域の話でも盛り上がった。遠江国(静岡県)榛原郡の名主の子孫の方、肥前国(佐賀県)鹿島領に居住されていた方の子孫の方、肥前国(長崎県)大村領郷士の子孫の方など、さまざまな地域の方々とお話しする機会があった。

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伊能測量協力者顕彰大会式典 (1)

顕彰式
 東京学士会館で「伊能測量協力者顕彰大会式典」が開催された。私の祖先がたまたま200年余り前に、伊能忠敬測量隊の一行を測量の現地であった播磨国明石領(兵庫県明石市)で宿泊・調査に協力したとのことで招待を受け、家人とともに参加させていただいたのである。私と同様の伊能測量協力者の子孫が約120名、伊能忠敬研究会会員の方が60名、合計180名の参加者があった。北海道から九州まで全国からの多数の参加である。
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 冒頭に伊能忠敬研究会理事副代表の島根大学名誉教授高安克巳氏の開会挨拶があった。
続いて伊能忠敬研究会榎本隆充氏から顕彰の辞があった。榎本隆充さんは、榎本武揚の曽孫だそうである。榎本武揚の父は箱田良助といって、漢詩人として高名な菅茶山に師事したのち伊能忠敬の門弟となり、各地の測量に同行して伊能忠敬の死後「大日本沿海輿地全図」を完成させた人々のひとりである。
 続いて伊能測量協力者に対して感謝状が、伊能忠敬研究会代表理事鈴木純子氏から贈呈された。感謝状は伊能忠敬が全国を測量行脚したときの200年前の人たちに宛てられ、それを代理としてわれわれ子孫が受け取るのである。
 国土地理院長村上広史氏から来賓祝辞があり、感謝状を受け取った側の代表として幕府韮山代官子孫の江川洋氏から挨拶があった。

Photo 最後に伊能忠敬研究会名誉代表渡辺一郎氏から主催者御礼挨拶があった。渡辺一郎さんはかつてNTTに技術者として勤務したが、退職後ウォーキングを通じて伊能忠敬を知り深く魅せられ、伊能忠敬研究会を創設されたという。たまたま歩幅が69センチメートル余りで伊能忠敬と全く同じであったとおっしゃる。88歳とのことだが、頭脳も発声もとても若々しいのに感心した。

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和歌山市の桜散策 (6)

和歌山城紅葉渓庭園・二の丸庭園など
 天守閣をゆっくり見学したあと、こんどは新裏坂を下り、護国神社に来る。
この神社は国内の他の護国神社と同様に、戊辰戦争以来の国家的戦役での戦没者を弔うために和歌山でも明治13年(1880)から実施されてきた招魂祭を契機とし、昭和12年(1937)木造流れ造り44㎡の御社殿および木造平家一棟114㎡の社務所がささやかに創建されたのが嚆矢であった。昭和14年(1939)内務省令により全国一斉に招魂社は護国神社と改稱され、内務大臣指定神社となった。のち火災で全焼したこともあったが、現在の社殿は平成4年に再建されたものである。
 残念ながら、私たちが来たころにはすでに夕刻で閉館となっていて、境内に入ることができなかった。
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 天守閣の下を右回りにまわって歩き、砂の丸広場の横を経て紅葉渓庭園(もみじだにていえん)にいたる。これは正式には「和歌山城西之丸庭園」というが、庭園内には紅葉が繁茂して国の名勝に指定されていることから、紅葉渓庭園の通称でしたしまれている。
ここは、江戸時代の初期、紀州藩初代藩主徳川頼宣が和歌山城北西隅の西之丸に隠居所の御殿と共に造営した池泉回遊式庭園である。虎伏山麓の斜面からの湧水を利用した2段の池と瀧を設け、さらに内堀の一部をもうひとつの池として庭園に取り込むことで広がりをもたせており、内堀の畔に池亭「鳶魚閣」を配している。江戸時代初期築造の大名庭園として日本屈指の名園と評されていた。明治維新後は長らく荒廃していたが、文化庁主導で1970年代より大規模な発掘調査と復元整備が開始され、昭和60年(1985)国の名勝指定を経て、平成18年(2006) 西の丸庭園と二の丸庭園をつなぐ御橋廊下が復元されて、現在に至っている。

Photo_2 さらに歩くと、二の丸庭園に来る。ここも大勢の花見客が、満開の桜の下ででにぎわっていた。
 二の丸は二の丸御殿があったところで、城主の日常生活の場であった。実際に初代頼宣と第14代茂承以外の藩主は、二の丸御殿に住んでいた。ここの二の丸御殿は江戸城本丸御殿を模していたため、表・中奥・大奥に分かれていた。大奥があるのは、江戸城・和歌山城・名古屋城のみであったという。表は紀州藩の藩庁、中奥は藩主が執務を行う通常時の生活空間、大奥は藩主の正室や側室たちの居所として使用された。二の丸御殿の表・中奥に相当する場所が現在は二の丸広場として開放されている。
 和歌山城を出て、復路は駅までを歩いた。メインストリートの「けやき大通り」を東に歩くだけだから、道に迷う心配はない。この大通りは、歩道がとても広くて、散策にとてもやさしい快適な道となっている。途中たこやき屋さんに立ち寄り、たこやきとビールを楽しんだ。たこやき屋を出たころには、長くなった春の夕もさすがに暮れかけて、けやき大通りの直線の道路の信号機の列が、まるでデコレーションのためのイルミネーションのようにぎっしり並んで見えて、規則的に赤・黄・青と点滅を繰り返すのがおもしろかった。もしかしたらけやき大通りの交通信号の配置の平均間隔は少し短いのかも知れない。
 帰路の電車に乗ったころには春の日もすっかり暮れて、車窓から見事な明るい満月をゆったり眺めることができた。絶好の春の快晴のなか、和歌山の桜花に浸った、最後に名月のおまけまでついた、とても充実した一日であった。

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和歌山市の桜散策 (5)

和歌山城天守閣
 表坂を上りきると緩やかで広くゆったりした坂道を経て、天守閣に到着する。いまでは本丸御殿は残っておらず、途中に「本丸御殿跡」との説明板がある。

Photo この城の歴史は、天正年間(1580年代)に紀州征伐に戦功があった豊臣秀吉の弟秀長に対して、秀吉が紀州と和泉の2か国を加増し、この地に築城を命じたことにはじまる。それまでは「若山」と呼ばれていたこの地を「和歌山」と表記したのは、このときにはじまると言われている。時代が下り、関ヶ原合戦ののち、東軍に属した浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられて紀州藩主となり入城した。そして元和2年(1619)徳川家康の十男である頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮としての御三家・紀州徳川家が成立した。当時和歌山は、他の御三家の拠点である水戸や尾張に比べるとずいぶん田舎に見えて、当初頼宣は落胆し嘆息して入府したと伝える。しかし付家老安藤氏などに激励され支えられて、以後代々の城主が城の増築・修築を重ね、大天守と小天守を連結した連立式の天守閣を確立し、姫路城、松山城と並ぶ日本三大連立式平山城を完成するなど、有数の名城となった。
 江戸時代に入ってから何度も火災などに見舞われ、修築・改築を繰り返した。現在残っている城域は、かつての最大域の約四分の一に過ぎないという。
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 明治4年(1871)明治維新政府の廃城令により廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築されてしまった。二の丸御殿は明治18年(1885)に大阪城へ移築され、昭和6年(1931)より大阪市迎賓館(紀州御殿)として使用され、さらに戦後は米軍施設として使用されたが昭和22年(1947)失火で焼失してしまった。ここ和歌山城については、明治34年(1901)年、本丸・二の丸のあった一帯が、和歌山公園として一般開放されるようになった。しかしさきの大戦で、和歌山大空襲により、天守などの指定建造物11棟すべてを焼失した。
 戦後復興としては、昭和32年(1957)岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定され、翌昭和33年(1958)東京工業大学・藤岡通夫名誉教授の指導で天守閣などが鉄筋コンクリート造で再建された。昭和58年(1983)、明治期末に老朽化・崩壊した大手門と一之橋が復元された。
 天守閣は先述のように大天守と小天守の連立構造となっていて、さらに建物としては、乾櫓、二の門櫓、楠門、台所などを菱形の回廊で連結した天守曲輪を構成している。中は博物館的な展示室になっていて、なかなか見応えがある。

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和歌山市の桜散策 (4)

和歌山城一の橋・大手門
Photo JR和歌山駅を降り立ち、昼食を摂るレストランを探した。駅構内の観光案内所で聴いたお薦めの店は、残念ながらいずれも予約でいっぱいとの由であった。同じ和歌山で、電車で10分もかからないとはいえ、中心の市街地とお寺と医科大学の町とでは、ずいぶん混雑の様子が違うことをあらためて認識した。
 昼食後、和歌山城が駅から1.3kmとのことなので、貸自転車がないか探してみた。ふたたび駅で尋ねてみると、なんと地下街の一隅に貸自転車の業者があるという。行ってみると、今日はすでに全車貸し出し済だそうだ。やはり県庁所在地は観光客間でも競争が激しいということか。
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 とりあえずお城までの往路は路線バスで行くことにした。駅の正面から「けやき大通り」を西に一直線で、「公園前」のバス停で下車すると、そこは和歌山城一の橋・大手門の真ん前であった。
 お堀にかかる一の橋をわたり、大手門をくぐると、眼前に庭園が拡がり、大勢の花見客が集まっている。紀三井寺とは違って、この混雑の雰囲気は京都・大阪に近いといえる。

Photo_3 表坂という石段を登って、天守閣をめざす。ここ和歌山城は、たとえば姫路城とか、彦根城とかと比較すると、お城のなかの道・通路が広々とゆったりしている。江戸時代からこのような道であったのか否かは直ちには不明だが、なんとなく御三家にふさわしい豊かさ、余裕を感じさせる快適な道が続く。戦争のための城なら、狭くて曲がりくねった道も防御のために必要かも知れないので、この城は戦争のためというより平和時の政治センターとしてつくったということかもしれない。天守閣は、標高49メートルの虎伏山(とらふすやま)の頂上にあるので、かなり上ることになる。道の途中からは南東方向に「岡口門」が見えて、南方向の城域内にはわが国では珍しい城内動物園がみえる。

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和歌山市の桜散策 (3)

紀三井寺本堂と多宝塔
 新仏殿から北の方向に本殿がある。江戸時代の宝暦9年(1759)建立された、入母屋造本瓦葺きの建物で、細部には禅宗様式が見られるという。観音堂とも称されている。
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 この本堂のすぐ前には桜の開花宣言の目安となるソメイヨシノの標本木(和歌山地方気象台季節観測用)がある。桜の開花宣言は標本木の花が5、6輪咲いたときと定義されている。紀三井寺の桜は早咲きの桜として知られていて、近畿地方に一足早い春の訪れを知らせてくれるのだそうだが、今年に限っては近畿の他の多くの地域と大差がなかったのではないだろうか。
Photo_2 本堂のすぐ南西に隣接して、多宝塔がある。勧進縁起によれば、室町時代の文安6年(1449)ころの建立と推定されている。四天柱内の内陣に五智如来坐像を安置している。
 各種の絵様、彫刻、須弥壇から室町時代中期の様式をしめしているとされる。周囲の桜花が青空と多宝塔の朱色に映えて、とても美しい。
 帰りは、来た道とはちがう裏門に出る道を下った。この裏道は石段ではなく長い曲がりくねった坂となっていて、障害のある人などは車でかなり高い場所まで登ることができるようになっている。裏門は、楼門よりかなり駅に近づく場所にあって、私たちは幸いにして30分に1本の電車に待ち時間なく乗り込むことができた。
 こうして午後になって、今度は和歌山城に向かった。

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和歌山市の桜散策 (2)

紀三井寺新仏殿と大千手十一面観世音菩薩
 楼門を入ると、眼前に231段の長い急な石段がそびえる。

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 この石段の途中に「紀三井寺の三井水」と記された説明板があり、その隣に湧き水がある。この「清浄水」と、ここから南に100メートルほどの山腹にある「揚柳水」、そして北へ400メートルほどの場所にある「吉祥水」の3つを「紀三井寺の三井水」と言うそうである。この名草山の古道に沿って湧水し、古来尊く貴重なものとされてきたと伝えられ、「紀三井寺」の名前の由来とされている。
Photo_2 石段を登りきると境内の中心部に至り、まず「大千手十一面観世音菩薩」を安置する新仏殿がある。五輪塔に擬した鉄筋コンクリート造の3階建てで、平成14年(2002)に竣工した真新しい建物である。
 このなかに安置されている「大千手十一面観世音菩薩」は、木造の仏像としては最大のものだそうで、高さが12メートルという。仏師松本明慶の作で、京都の工房で制作した寄木造の像を現地で組み上げている。耐震性を確保するため、木造内部に鉄製の心棒を立て、枠木で像を固定する構造としている。この木像は平成19年(2007)完成した。まさに金ぴかの仏像で、私たちがありがたく拝む多くの仏像とは雰囲気が違うが、本来は仏教でも金色に輝く仏像を愛でていたのである。
 新仏殿の3階の回廊からは、和歌山の市街を見下ろすことができる。遠くにマリーナシティ、住友金属和歌山製鉄所、淡路島までも見える。すぐ前には和歌山県立医科大学の新しい建物が見えている。JR紀三井寺駅は、紀三井寺参拝の拠点だが、同時に日常生活では県立医科大学の学舎と付属病院の拠点なのだろう。
 眼下には、咲き誇った桜花を見下ろす。もう今年も四分の一が過ぎ去ったのだ。

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和歌山市の桜散策 (1)

 大阪府に住んでいる私は、実は隣の和歌山県を訪れることがあまりない。訪れる機会としては、串本の本州最南端や、友が島へ行く途中や、白浜温泉などがあったが、和歌山市への訪問はおそらく初めてであった。このたびの最大の目標は桜花見物である。 

庭のパン屋さんと紀三井寺楼門
 JR和歌山駅から各駅停車に乗り換えて紀三井寺駅に着くと、ごく小さな駅だが、トイレはとても新しくきれいなのに感動した。京都や大阪の桜の名所は、たいていどこも大勢の人だかりでごった返すのだが、ここは紀三井寺が近畿でも有数の桜の名所であるわりには、人だかりが多くない点で快適そうだ。駅のすぐちかくに「庭のパン屋さん」という名のちいさなパン屋さんがあった。焼き立てパンだというので、しばし立ち寄った。
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 名前のとおり、庭に石の窯があり、そのまわりにテーブルと椅子がいくつかあって、そこで焼き立てパンを食すことができる。コーヒーもあって、寛げるようになっている。同じ場所に、手製のレーザー・クラフトを売るコーナーもある。ともかく人が多すぎないので、ゆったりした感じで落ち着けるのが心地良い。
 パン屋さんを出てすぐの場所にも、ドライ・フルーツとジャムのお店がある。地元がミカンなど柑橘類の産地だから、当然このようなお店も多いのだろう。
 そこから10分ほど南に歩くと、紀三井寺の正門にあたる楼門があった。

Photo_2 紀三井寺は、正式名を紀三井山金剛宝寺護国院と言う。真言宗系の独立寺院として救世観音宗総本山を名乗り、この山内に6寺、末寺を14もち、それらを包括している。宝亀元年(770)、唐から来た僧 為光が日本各地を行脚していたとき、ここの名草山山頂から一筋の光が発せられているのを見た。光の元をたどって山に登った為光は、そこで金色の千手観音を感得した。為光は自ら十一面観音像を彫刻し、その金色千手観音像を草堂を造って安置した。こうして千手観音を秘仏として納めたのが紀三井寺の始まりであると伝承されている。
 楼門は、室町時代の永正6年(1509)に建立されたもので、後になんどか加修されて、桃山時代の様式を残しているとされる。三間一戸、入母屋造、本瓦葺である。金剛力士像を安置している。門の朱色が満開の桜花に映えて、ほのぼのと美しい。

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スーパー歌舞伎Ⅱ「ワンピース」大阪松竹座

 スーパー歌舞伎は、昭和61年(1986)に三代目市川猿之助が始めたもので、古典芸能としての歌舞伎とは違う演出による現代風歌舞伎だという。第一作は梅原猛の脚本による「ヤマトタケル」であった。平成26年(2014)からは、「スーパー歌舞伎II(セカンド)」として、四代目市川猿之助を中心として上演されている。私にとっては、スーパー歌舞伎の鑑賞は今回が初めてである。また、私はまんがマンガに疎いので、「ワンピース」なる連載物語も知らなかった。Photo
 物語は、主人公ルフィーが野心あふれる海賊として世界中の海を暴れまわるが、今回は幼少時から兄と慕っていた大海賊の遺児エースの危機を命がけで救おうと、敵の世界帝国海軍と華々しく戦うというものである。
 松竹座の舞台に回転台とセリ上がりがあるのは知っていたが、回転台の中に回転台のほぼ全幅にわたるような大きなセリ上がり台が3つもあって、しかもこの度は滝を舞台上に構成して、本当の水をいちばん上のセリから溢れさせるという、舞台装置の最新技術を駆使した大胆な舞台演出である。その滝のなかでは大立ち回りが演じられ、前の方の座席にはかなりの水しぶきがふりかかる。そのため、前方5列の座席には、観客全員に水除けのフード付きビニールポンチョと荷物保護のビニール袋、さらに追加の水除け用ビニールシートが配布される。私と家人はちょうど5列目の座席だつたので、それらをまとって鑑賞した。
 マンガの画面を舞台上に再現させるため、舞台の幕や背景にさまざまな動画や静止画の映写が行われ、普通のスポットライトのみでなく、赤・黄・緑・青・白色などさまざまな色彩のレーザービームも使用されている。
 そしてスーパー歌舞伎のひとつの目玉が「宙づり」である。松竹座の会場の天井から吊り下げたスチール・ワイヤーで何人かの俳優が観客の頭上を飛び回るのである。
 まさに最新の技術をできるだけ広汎に大胆に導入して、観客を楽しませようとの演出が展開される。
 主人公ルフィーを演じる尾上右近の凛々しく軽やかな動きは、ルフィーに適役である。ルフィーが兄と慕うエースを演じる平岳大は、歌舞伎役者ではないが、体格も容姿も優れてこれも適役である。この二人の育ての親たる伝説の大海賊白髭は、市川右團次が演じている。この人は最近テレビ・ドラマ「陸王」で見たが、重厚で貫録ある演技はさすがである。もちろんいつもの歌舞伎とはずいぶん雰囲気が異なるが、歌舞伎界以外の演技者をも登場させ、ユーモアも感動もあり、これはこれでとても楽しめる舞台であった。

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2018年 近場の花見 (下)

Jt 少し歩いて、JT研究所の構内の通り抜けを観ることにした。例年なら4月上旬の1週間を一般市民に対して開放してくれるのだが、今年は1週間ほど開花が早い。会社なので、年度末をまたがるような予定変更は難しくて、まだ開放していないかも知れない、などと心配しながらJT研究所に行ってみた。幸いにして、例年とちがって3月下旬なのに開放してくれていた。ここの桜も見事である。家族連れで来ていた少年は、小学校に入学する前なのだろうか、私立小学校の制服らしいものを着て、桜花の前で母親らしい女性からなんども写真を撮られていた。本当の入学式のころには、今年の場合は桜はすでに散ってしまっていそうだから、事前に入学の記念写真を撮っているのだろう。Photo
 翌29日には、高校の同窓生とともに、旧茨木川あとの桜通の桜の下で、ささやかな宴会を催した。同窓生たちも、すでに1割余が他界している。こうしてみなで集まって季節の変わり目を桜花見物で寿ぐことも、いつまでできるのだろうか。この日もわずかにPM2.5の霞はあったようだが、引き続き絶好の快晴であった。他愛のない話で、どんなことを語ったのかほとんど覚えていないけれど、たのしいひとときであったことだけは間違いなく覚えている。
 4月2日になって、さすがに桜もかなり散ってしまっただろうと思いつつ、カメラなど持たずに手ぶらのランニング姿で、軽いジョギングを兼ねて摂津峡公園を訪ねてみた。この日も飛び切りの快晴だったからである。驚いたことにそこは桜花の満開の盛りであった。
 今年は、思いのほか贅沢な花見三昧を過ごすことができた。こんなに素晴らしい快晴が続いた花見シーズンは、私はおそらく初めての経験であった。

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2018年 近場の花見 (上)

 今年の花見シーズンは、突然始まった。1月、2月は例年以上に厳しい寒さがあり、3月に入ると急に寒さが緩和し、そのあと暖かい日と寒の戻りがなんどか目まぐるしく繰り返し、3月の下旬には急に開花情報が飛び交うようになった。1
 3月28日、例年の感覚からもう少し先だろうと高をくくっていたが、絶好の快晴であり、すでに開花が進んでいるとのことで、家人と自宅近くを散策することにした。
 芥川桜堤公園に行ってみると、桜はすっかり満開に近づいている。よく見るとまだごく一部つぼみも残っているので、7~8分の開花なのだろう。3_2
 平日ながら、かなりたくさんの人出があり、春休みの子供たちが芥川の河川敷公園のなかで、あるいは堤防の斜面で遊んでいる。子供たちにとっては、見事に咲き誇る桜はすぐに飽きて、春の暖かい陽射しのなかで川の水と戯れたり、堤防の斜面を滑り台にして上ったり下りたりすることに熱中している。春は一般に天候が不安定なことが多く、桜の盛りと快晴が一致することもそんなに多くない。でも今年は雲一つない典型的な快晴の下で桜花が輝いている。
 堤防の桜並木の真下で、しばらく座り込んで目の前に垂れ下がる桜の枝の桜花を楽しんだ。暖かい。ほんの1週間ほど前の寒さが嘘のようだ。

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小磯良平と吉原治良 兵庫県立美術館 (4)

成熟の時代と晩年
Photo 小磯良平は、母校である東京芸術大学の講師に招聘され、のちに教授となり、後進の指導にあたるようになった。このような環境変化もあってか、「窓の静物」(1955年)のようにマチスの画風を思わせるような構図や描写があったり、「神戸風景」(1957年)のように意図的に表現を簡素化あるいは抽象化したりする試みも見られるようになった。「静物」(1964年)では、静物と題しながら人物が大きく描かれているのもおもしろい。学生たちと接することで刺激もあり、ときに葛藤もあったかも知れない。いずれにしても小磯良平は、画業にますます邁進したようである。
 吉原治良は、1952年抽象芸術の振興を図って「現代美術懇談会」を結成し、さらに吉原のもとに糾合した関西の若手の作家たちで1954年「具体美術協会」をつくり、そのリーダーとなった。吉原治良も、自分のもとに集まってくる若手たちに、かつて自分が藤田嗣治から教えられたように「決して他人の真似をするな」と説いて、わが国の抽象芸術の発展に邁進した。
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 1960年代になって、吉原治良は「円」を自分の抽象表現の主要テーマとして打ち出すようになった。「まるをひとつ描くだけでも、大変むずかしくてエネルギーが要る」と言っていたという。私にとっては、このような抽象表現はむしろわかりやすい。彼が描くさまざまな「円」は、それぞれに個性や表情が感じられて魅力的である。
 1964年の東京オリンピックは、経済的に戦後のひとつの画期であったが、美術界にとっても、とくに小磯良平と吉原治良にとって大きな転換期であったようだ。

Photo_3 小磯良平は、後進たちとの葛藤を乗り越えて再び独自の静謐で上品な絵画世界、小磯ワールドの完成に向かって突き進んだ。小磯の描く女性像は大部分が上品な美人である。そして小磯は、モデルの女性のとくに外面の美の特徴に細かく注意して観察しているようだ。彼の「好み」のバターンがあり、自分の好みの顔にであったとき、とりわけ描写に気持ちよく打ち込むことができたのではないだろうか。絵画ではないが写真家の荒木経惟の場合、写真技術としては美しい人をとてもきれいに撮影する十分な技術を持ちながら、被写体の内面を投影するためなのか、意図的に微妙な醜さや蔭を映しこむことがある。小磯の場合は、モデルの内面に関心をもつよりも、美しい対象を美しく描くことに専念したように思う。これはこれで、画家としてのひとつの王道だと思う。
 吉原治良は、吉原製油株式会社の社長を勤めつつわが国の抽象芸術の牽引者のひとりとしてエネルギッシュに創作活動を展開したが、1972年67歳のとき、クモ膜下出血で急逝した。指導者を喪失した芸術家団体「具体」は彼の死とともに消滅してしまったが、その先駆性はいまでも高く評価されている。
 今回の展示会は、兵庫県出身の同年代の二人の画家を取り上げ、昭和の初期から昭和末まで、昭和時代全体を通じてのわが国美術の展開を概観したものであった。たったふたりだけの座標軸でもこれだけの深みのある展望ができるということに、改めて感慨があった。

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小磯良平と吉原治良 兵庫県立美術館 (3)

1950-60年代の戦後復興期の活動
Photo_2 さきの大戦の終戦は、吉原治良にとっては明らかに大きな画期であった。終戦の日の玉音放送を涙を流しつつ聴いたと述懐している。このころに描いた作品が「牛と鶏」(1945年)である。彼には珍しくごく具象的な絵となっている。家族を疎開先に引き集めて日々の食生活が大きな関心事となっていたことが関係しているように感じる。「防空演習」も、戦中の厳しい暮らしを描くが、なにか空虚でそらぞらしい空気感が漂う。戦後に入ると、「少女と七羽の鳥」(1950年)など、吉原治良は鳥を描くことが多くなった。「鳥はどこにでもいるし、どこにあらわれても違和感がない。ずっと描いてきた魚は、地上に描くとその存在自体が非現実的で、ちがう意味を持ってしまう」と言っている。
 「小さな噴水」(1948年)は、ユーモアのなかに、人間の生命と人間性の尊重を主張しているようだ。抽象画も復活させ、さまざまな試行を繰り返しつつ深化をめざしているように感じる。多数の「無題」あるいは「作品」と題された抽象絵画群が展示されている。観る側にとっては、この展覧会のように同じ画家の一連の作品群を整理してまとめて鑑賞できる場合は、画家の意図や指向性など作品の背景の情報がある程度あって、相対的には分かりやすい、あるいは鑑賞しやすいと言えるが、それでもこれらのように題名に全く情報が与えられないのは、やはり鑑賞しづらいというのが実感であり本音である。画家の側からすれば、絵を提供するから観る側で自由に考えて理解せよ、ということかも知れない。それでも画家も方もできるだけ観る人に伝えたいことがより平易に伝わるように努力を怠るべきではない、と私は思う。題名になんの情報も与えないのは、ある種の独りよがりか、自信過剰のようにさえ感じることがある。
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 小磯良平は、戦時中の経験を前向きに生かした群像表現を発展させ、戦時中の「斉唱」(1941年)を発展させて「働く人と家族」(1955年)など、青木繁を連想させるような力強い作品も発表した。「二人の少女」(1946年)は、静かな落ちついた筆致に、戦争が終息してほっとした画家の息遣いが感じられる。

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小磯良平と吉原治良 兵庫県立美術館 (2)

1930-40年代前期の充実と激動の時代
 小磯良平は、美術界でも世評でもその高い技量と上品な作風から高い評価を得て、活発に作品を発表していった。「横たわる裸婦」(1931年)、「裁縫女」(1932年)など、精緻で上品な、まさに正統派の絵画である。「踊りの前」(1934年)は、小磯の充実した技量を遺憾なく発揮した絵となっている。「中禅寺湖」(1935年)では、それまでよりは少し光を意識したような、また描写に一部抽象化を取り入れる試みなどが窺える。
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 吉原治良は、それまでにもシュールレアリスムの影響はあったが、藤田嗣治の批判の影響か、このころには抽象絵画の方向に進んでいった。「海辺の静物」(1931年)、「菊(仮題)」「朝顔の女」(1931-33年)、「潜水夫と犬」(1931年)などは、なにか見たことがあるような感じがするが、溌溂とした新鮮さが魅力である。「作品3」(1934年)くらいになると、なにかよくわからないなりに独自性があるように思える。
3 小磯良平は、その描写技術と品格の高さが軍部にも注目されるに至り、1938年から陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に派遣された。従軍画家としての作品には、人物を描いた「軍人の肖像」「外国の兵士」「外人肖像」(1942年)などがあるが、小磯は軍事に関係なく、対象となる人間の表情を素直に正面からとらえて描いている。戦場を描いたものとして「香港黄泥涌高射砲陣地奪取」(1943年)、「カンパル攻略」(1944年)などがあるが、絵は場面の景観としての美を淡々ととらえて描いたかのようで、戦意高揚とか軍人礼賛とかの印象はほとんど感じられない美しい絵である。興味深い絵として大型の「ビルマ独立式典図」(1944年)がある。アウンサン率いるビルマ独立義勇軍(BIA)が、日本軍の支援を得てイギリスと戦い、昭和18年(1943)8月1日、独立準備委員会が建国議会の成立と独立を宣言して「ビルマ国」が誕生した、その式典を描いたものである。美術評論家植村鷹千代によると、大勢のビルマ新政府関係者や日本軍関係者の人だかりの後方から情景をとらえざるを得ず、式典の中心たる場所と人々に視線を導くために、大勢の取り巻きを暗く描き、中心部は遠くて小さいがしかし明るく描くことで画面に浮かび上がらせるという巧妙な手法が導入されている。このような戦争絵画の経験は、小磯に「群像表現」という彼にとって新鮮な経験をもたらし、このあとの展開に繋がっていくことになる。
 戦争に入ると、抽象絵画は世間から忌避されるようになり、吉原治良はひっそりと抽象絵画を描くとともに、写生画を二科展に出すなどの雌伏期を過ごした。

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小磯良平と吉原治良 兵庫県立美術館(1)

 小磯良平と吉原治良という、ともに阪神地区出身の二人の個性が異なる画家の特集展示会である。正統派で優等生的な画家である小磯良平と、独学の前衛抽象画家のリーダーであった吉原治良という、一見ずいぶん違う組み合わせである。 

1920年代初期の作品
 小磯良平は、1903年(明治36年)神戸市に富裕な貿易商の子として生まれ、兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫県立兵庫高等学校)に進学、そこで生涯の友で後に詩人となる竹中郁と出会った。その後小磯良平は東京美術学校に進学して主席で卒業した。友人の竹中郁は、旧制中学時代にラグビーをしていたらしく、小磯良平の卒業作品でラグビーのユニフォーム姿でモデルを勤めている。
  吉原治良は、1905年(明治38年)大阪市の油問屋の御曹司として生まれた。その家業は後に吉原製油となり、現在のJ-オイルミルズとなっている。大阪府立北野中学校在学中に油絵をはじめ、関西学院高等商業学部に進学、卒業した。フランスに遊学して帰国ののち、1928年に初個展を開き、また公募展などにも絵画を出展した。
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  展示の冒頭に、ともに20歳過ぎ1925年ころの自画像がある。小磯良平の自画像は、いかにも優等生の絵で、生真面目にていねいに描かれている。吉原治良の自画像は、ヨーロッパの近代絵画の知識からなのか、少しキュビスム的で、画面右側は陰で暗くして背景の黒に連続的に溶け込むような表現となっていて、素人ながらモダンでしっかりした絵となっている。その2~3年後1927-28年ころの、やはり自画像がともにあるが、この短期間のうちにいずれも肩の力が抜けて、より自由にしなやかに自分をとらえて描いている。
 小磯良平は、学生時代から裸婦、着物婦人などを端正に描き、有名な出世作「T嬢の像」(1926年)で帝展特選を受賞した。順風満帆・新進気鋭の青年時代であった。
 吉原治良は、父の稼業を継承すべく製油工場に働きつつ、工場の空き部屋をアトリエとして絵を描くなど、オーナー一族のメリットを生かしつつ独自路線で画業を研鑽し続けた。「人形のある静物」(1924年)は、静物画というより夢のなかの世界を自由に描いたような絵である。決して上手に描いてやろうとはしていない。このころ吉原治良は、好んでさまざまな魚を描いていた。魚は、非常に多くの種類が容易に入手でき、絵のモデルとして便利だった、と述懐している。「鯔とチューリップ」(1928年)は、当時吉原治良がある程度自信をもつに至ったころの作品であったらしい。伝手を頼って藤田嗣治に会う機会を得たとき、吉原治良は、かなり期待を抱いてこの絵を藤田に見せた。ところが藤田からは、この絵ではあまりにさまざまな他の画家の特徴や要素が入りすぎていて個性が全くないと、厳しく批判されてしまい、そのときはかなり落ち込んだという。

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