内田健三『現代日本の保守政治』岩波新書
ちょうど昭和がおわった1989年の3月に発刊された政治評論である。東京オリンピック閉幕とほぼ時を同じくして、1964年11月に池田隼人から政権を受け継いだ佐藤栄作からはじまって、1987年11月中曽根康弘から指名されて首相に就任した竹下登までの、昭和の最後の四半世紀にわたる日本の保守政治、自民党政治の回顧的概説である。振り返ってみると、昭和時代の戦後の後半期に相当する。
戦後の復興がようやく軌道にのって経済成長が目立つようになった池田政権時代のあとをうけて、佐藤栄作は「自主防衛」と「経済援助」を政策の二本柱として戦後政治の総決算を密かにめざしていたという。佐藤政権成立の前年1963年は、ケネディ大統領暗殺、フルシチョフ退場・ブレジネフ登場、イギリスの政権交代で労働党政権発足、中国核実験、と矢継ぎ早に世界で大きな事件や変動があった。ケネディにはじまるベトナム戦争の激化、対中国関係正常化の葛藤、日韓基本条約仮調印、ILO87号条約批准があった。そして1971年7月にまったく突然の米中接近がニクソンによって実現された。国内では、公害問題が勃発して、また沖縄返還の代償として日米繊維問題に悩まされた。そんななか、佐藤は7年8か月の長期政権で、沖縄返還を成し遂げた。自民党支配の絶頂期に長期政権を担当した幸運な指導者であった。
この佐藤栄作時代の自民党支配の絶頂期、その佐藤政権末期に、世界と日本の経済の変調の兆しが出ていた。ベトナム戦争の負担とその対策としての「2つのニクソン・ショック」すなわちドル・ショックと中国ショックであった。この閉塞状況を打開する期待を担って、1972年7月、異才の宰相田中角栄が登場した。田中は、首相就任早々ハワイに田中・ニクソン会談を行い、椎名悦三郎自民党副総裁を台湾に派遣して根回しのうえで、1972年9月電撃訪中して日中共同声明を発表し、台湾を切り捨てて日中国交正常化を宣言した。内政では「日本列島改造論」を首相就任直前に発刊し、国土の総合開発と経済の新展開を説いた。これにもとづく大型補正予算でインフレの進行、地価暴騰、景気過熱を引き起こし「狂乱物価」を招いた。さらに1973年10月、アラブ石油輸出国機構(OPEC)が産油量削減・石油価格引き上げに踏み切り、長らく続いた高度成長時代は終わりを告げた。1972年6月からくすぶっていたアメリカのウオーターゲート事件が重大化し、1974年8月ニクソン大統領が辞任に追い込まれると、軌を一にするかのように『文芸春秋』の立花隆・児玉隆也の「田中角栄研究―その金脈と人脈」で田中の過去の政治活動にからむ疑惑の土地ころがし・資金づくりを問題化し、ついに1974年11月田中は辞任した。
政治の倫理性を問われて失脚した田中の後継者は、個人の政治的能力以上に、田中によって失われた自民党の信頼を取り戻すことが最大の条件であり、保守政権存亡の危機への切り札として、自民党長老椎名悦三郎の裁定で三木武夫が指名された。三木武夫は、まず政治改革を目指し、党総裁公選規程改正・政治資金規正法改正・公職選挙法改正に取り組み、政治資金規正法改正・公職選挙法改正はかろうじて達成したものの、党総裁公選規程改正は党内の田中・大平派の反対で未達となった。さらに独占禁止法改正案を試みたが、企業活力を弱め国際競争力を削ぐ怖れありとして廃案となり、このころから三木と椎名の関係は悪化した。外交では1975年の金大中事件、国内では公労協のスト件スト問題、そしてロッキード事件が発生して、総選挙で自民党結党以来初めての過半数割れに陥り、ついに三木は辞任した。1976年6月、自民党の内部抗争から自民党を飛び出した河野洋平等の「新自由クラブ」は総選挙で17議席と躍進した。三木政権の置き土産は、防衛費の1%枠の閣議決定であった。
三木を継いだのはもと大蔵官僚のエース、岸伸介の秘蔵っ子、佐藤栄作の後継者と早くから首相になることが期待されていた福田赳夫であった。急速に台頭した田中角栄に首相の座をさらわれ、4年半遅れてようやく実現した福田赳夫首相を、著者は「遅く来過ぎた首相」という。三木政権のなかでは、三木ー福田と田中―大平が対立し、福田赳夫はすでに三木政権時代から日本経済運営の実質的な最高責任者であった。自民党の改革については「党改革実施本部」を設立して自ら本部長となり、「総裁公選規程」を改正して「総裁予備選」を導入した。内政では「経済の福田」を自任したものの、不況が続き完全失業者数が年間100万人を超えた。アメリカでは、1977年1月カーター民主党政権がスタートした。中国との日中条約の締結を実現したほか、東南アジア諸国連合(ASEAN)に向けて「福田ドクトリン」を発表し、日本の外交基本方針を明らかにした。しかしわずか1期2年の任期を過ぎて初めての総裁選挙で、自ら新規導入した予備選で福田は大平に敗北してしまった。
1978年12月からの大平正芳政権は、福田赳夫以上に党内基盤が脆弱で、大平の急死でわずか1年半の短命であった。1979年10月韓国の朴正熙大統領射殺、同11月イラン米大使館人質事件、同12月ソ連のアフガニスタン軍事介入と国際情勢は激変に見舞われた。国内では、米ダグラス、グラマン両社の海外不正支払い問題があり、一方では60年代以降革新自治体を続出させた地方自治体の選挙で、東京都の鈴木俊一知事、大阪府の岸昌知事など保守への回帰があり、ようやく保守復調の兆しが現れた。しかし1979年10月の総選挙で、大平は財政再建のため「一般消費税」を選挙の争点にしたのが裏目となり、過半数割れの敗北を喫した。このあとの国会で首班候補を自民党として一本化できず、主流派の大平と反主流派の福田が競う前代未聞の事態となり、自民党の党内分裂が白日の下にさらされた。「自民党40日抗争」である。こののち大平内閣は、野党の攻勢と党内反主流派の非協力に苦しんだ。そんななか、1980年5月社会党から提出された内閣不信任案が、全野党の同調と自民党内反主流派の造反・欠席により可決され、大平は衆議院解散に追い込まれた。それを受けた衆参両院同日選挙の最中、大平派は急死した。ところがこの大平の急死が、思わぬ自民党の大勝をもたらした。
大平の死と総選挙の大勝利は、自民党に70年代の混迷と内部抗争と決別し保守支配再構築への始動を要請した。「大平政治の継承」が錦の御旗となり、そんな空気のなかで、またも政治運営能力より党内調整力を求められ、大平派の大番頭で調整型政治家たる鈴木善幸が新総裁に選ばれ、1980年7月鈴木政権が発足した。鈴木は、ひたすら派閥抗争の休止、挙党体制の回復による自民党政権の継続と安定に注力し、政治浄化、政治倫理の確立を強調した。政権発足から1981年4月までの政権前半は国際情勢も平穏で、国内経済も不況を脱出し順調で、環境に恵まれていた。そんななか、鈴木首相―中曽根行管長官体制下で行政改革が具体化され、「臨時行政調査会」が設置され、臨調会長に土光敏夫経団連会長が内定した。こうして順調とみられた鈴木政権が最初に躓いたのが1981年5月の鈴木訪米・日米首脳会談であった。会談後の日米共同声明の「日米の同盟関係」「同盟の役割分担」の解釈として、訪米帰国後に鈴木は、「同盟に軍事的意味合いはまったくない」「役割分担に日本の新たな軍事的負担は背負わない」と、共同声明の軍事色を極力薄める発言を繰り返し、外務省や党内から批判されることになった。このような国際常識の無視、外交的無知をさらしたことで、鈴木首相の威信は大きく傷ついた。このころ、党内の田中派は急速に拡大・膨張していた。行財政改革は進まず、赤字脱却のめども立たなかった。「公職選挙法改正」は、通常国会の大幅延長という強硬手段で法案成立に持ち込んだ。不測の波乱として教科書検定問題が発生し、韓国・中国に対する「ことなかれ的」な解決として「政府の責任において是正する」との回答でしのいだが、これはあとに大きなツケを残すことになる。しょせん一時しのぎの政権は、1年4か月の短命で終わった。
1982年11月総裁予備選を経て、田中の後押しを得た中曾根康弘が首相に就任した。閣僚人選は、田中派に深く配慮したものとなった。中曽根は、首相就任から日の浅い1983年1月電撃的に韓国に全斗煥大統領と首脳会談し、鈴木政権時代に合意に至らず日韓間の不協和音を生んでいた経済協力を40億ドル支援で解決し、さらに続けて訪米して中曽根・レーガン会談で「ゆるぎなき日米同盟関係」を再確認した。このときのインタビューで出たのが日本列島の「不沈空母」化であった。田中支配との批判を受けた中曽根であったが、1985年2月田中角栄が脳梗塞に倒れて政治的に再起不能とり、田中支配は終焉した。このときから1986年7月の衆参同日選挙大勝ころまでの1年8か月が、中曽根政権の全盛期であった。中曽根は、行政改革、財政改革、教育改革の3大改革を軸に積極的に動いた。この時期、行財政改革は、財政主導の福祉国家論から「小さな政府」、規制緩和、民間活力の利用、官業民営化論など、マクロな時代的要請・流れに沿うものとして期待されていた。工業化社会から脱工業化社会への産業構造転換、国際化・情報化・高齢化など社会構造の変革の潮流に、行財政システムがいかに対応すべきか、という大きな課題であった。中曽根は、土光臨調の「増税なき財政再建」の答申を受けて、国鉄分離・民営化を推進した。電電公社・専売公社の民営化も実現した。教育改革では、臨教審を設置して3年間の審議のうえで1987年8月最終答申を提出した。外交では、中南米・中近東・アフリカを除く世界37か国を歴訪した。1985年には、日本の経済協力総額がOECD開発援助委員会加盟国のなかでアメリカを上回りトップとなった。こうした目覚ましい活躍の勢いに乗って、総裁任期の延長を実現し、5年の長期にわたる首相任期を全うすることになったが、最後の1年は、売上税問題、防衛費問題、そして選挙大勝がもたらした自民党の内部の弛緩・油断がめだつようになり、さらに地価高騰が激化したことが追い打ちをかけ、ついに1987年11月に中曽根政権は幕を閉じた。
1987年11月竹下登は首相に就任した。閣僚人事は指名者たる中曽根の影が強くかつ派閥均衡の布陣であった。竹下新首相は、政策課題として首都圏の地価高騰の抑制、日米経済摩擦の緩和、税制改革の3つをあげた。まず臨時国会で緊急の地価鎮静策を講じ、高値安定ながら頭打ちの状況までは達成した。竹下・レーガン会談を経て二国間交渉を続行し、貿易自由化の品目・時期について最終決着をみた。税制改革は、大平・中曽根の挫折・失敗のうえにたって、慎重きわまる準備と根回しを丹念に積み重ね、1988年末についに達成した。その間、リクルート疑惑が国民の政治不信を招き、現行税制の不備と不公正を際立たせて、政府・自民党の税制改革を遅らせた。そしてこれ以後リクルート疑惑が内閣支持率を急落させた。この本が発刊された1989年3月の少しあと、6月に首相を辞任している。
著者内田健三の過去四半世紀にわたる自民党政権の総括はかなり正鵠を射たものだと思うし、自民党の制度疲労の指摘も半分以上首肯できる。しかしたとえば、福田赳夫が自ら新規に導入した総裁予備選挙で、党員132万人、党友17万人、合計149万人の投票で大平正芳に8万票差で敗北したことについて、田中派の策謀による、としているが、私の記憶にもとづく素朴な感覚では、政治の現場をよく知らない多数の国民は、福田赳夫が大蔵省のエース出身でアタマがよさそうと聞いても、いつも苦虫を咬みつぶしたな難しい表情に親しみが薄くて、大衆的な投票だと負けるのも頷けた。いかに田中とはいえ、150万人もの多数を操ることができるのだろうか。また時代背景もあってか、憲法改正問題にほとんど関心がないこと、靖国問題などでの韓国・中国側の不合理・理不尽にまったく触れていないこと、など首肯しかねる部分もある。
著者の内田健三は、保守政党たる自民党のこれまでの政権運営をかなり評価しつつも、自民党一党支配というひとつの政治体制があまりに長期にわたって固定することで、流動性を失って硬直し腐食し、やがて崩壊にいたる危機であるという。自民党の支配体制が制度疲労していて、なんらかの抜本的改革が必要だとするのである。しかし内田自身がいうとおり、政治改革、政党改革は言うは易くとも実現はなかなか難しい。内田健三のように、現状の欠点を鋭く知悉しているジャーナリストでさえ、いざ「まともな改善案」となると、なかなか良案を提案できないのが現実だろう。
かねてより世界の他の先進国で実現されているような、政権交代可能で、かつまともに政治運営ができるしっかりした保守政党が存在し、いわゆる二大政党制が実現することが現実的な解決策なのだろうと思う。近年日本に実現した「民主党政権」は、党のなかに保守派には程遠い、現実の政治を真剣に考えない、よく言えば「観念的」わるく言えば「ただのサヨク」のような議員たちが多数いて、到底政権を安心して任せ得るものではなかった。さらにそれ以前に、政治運営能力の未熟さ・稚拙さ・能力の欠如などをあますところなく露呈していた。あんな事態は決して繰り返したくないというのが、多くの日本国民の素直な感覚だろう。日本にも、代替可能なまともな政党が切に待望されるのである。
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