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2018年9月

ブリテン島周遊クルーズ (35)

聖パトリック大聖堂 二つの大聖堂問題
 クライストチャーチ大聖堂を出て、パトリック・ストリートを南に10分ほど歩くと、聖パトリック大聖堂に着く。この大聖堂は、アイルランド最大の規模を誇る。Photo
 ここまでもいくつかの大聖堂を観てきたが、「大聖堂」とは、元来ローマカソリック教会で司教区の中心になる教会堂のことで、教区司教の正規の座席(主教座=カテドラ)をもつ聖堂という意味で、司教座聖堂とも呼ばれる。英国聖公会すなわちイギリス国教会でもほぼ同様に司教座を持つ聖堂をいう。アイルランド国教会もイギリス国教会に属すので、これに準じる。
 イングランドの教会が、16世紀の中頃ヘンリー8世の離婚騒動などを経て、イングランド国教会としてカソリックから独立したとき、アイルランド内の教会も同様に教義が変更されプロテスタント化した。
Photo_2 このときアイルランド人の大半がカソリック信仰者であったものの、政治的にアイルランド国教会が国教と定められた。アイルランドのそれまでの教会財産のほぼすべてが、アイルランド国教会に強制的に引き継がれることとなったので、今日でもアイルランド内の教会や教会が保有する財産の多くはアイルランド国教会が所有している。当然、圧倒的多数派のカソリック信者の不満は大きかった。1871年になってようやく自由党政権ウィリアム・グラッドストン内閣時に、アイルランド自治拡大の一環として国教としての地位が廃止され、以後正式には「アイルランド聖公会」と呼ばれるようになった。現在、アイルランド聖公会はアイルランド島でカソリックに次いで2番目に大きな教会である。
 以上のように、大聖堂は司教座があるはずである。ところがこのダブリンの司教座は、さきほど訪れたクライストチャーチ大聖堂にあり、ここ聖パトリック大聖堂には存在しない。この聖堂の統括は、司教Bishopの代わりに1219年から置かれている首席司祭 Deanによって統率されている。最も有名な首席司祭が、あとで触れるジョナサン・スウィフトである。1870年からは聖パトリック大聖堂をアイルランド島全体のための「国立大聖堂」と位置づけ、運営は聖堂参事会 (chapter)が合議制で行うことになった。聖堂参事会の委員はアイルランド国教会の12の主教区全体から選ばれ、また2007年からは他教派の聖職者も参事会に加わっている。

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ブリテン島周遊クルーズ (34)

ダブリン クライストチャーチ大聖堂
 ダブリン城の北側の出入り口を出て、少し西に歩くと、十字路に面してクライストチャーチ大聖堂がある。タクシー運転手が言っていたとおり、ここでは建物の名前と説明の標示は、ケルト語系のアイルランド語とゲルマン語系の英語の表記を併記している。Photo
 ダブリンには、このクライストチャーチ大聖堂と、後で訪れた聖パトリック大聖堂の二つの中世以来の大聖堂がある。このクライストチャーチ大聖堂は、より古い方である。
 クライストチャーチ大聖堂は、宗教改革以後はローマカソリック教会から離れ、現在はアイルランド国教会のダブリンおよびグレンダーロッホ連合主教区大聖堂である。
 この大聖堂の最初の建物としては、1038年に当時ダブリンを治めていたデンマーク系ヴァイキングの王シトリック・シルケンベアードが最初のダブリン司教であったドナートと呼ばれる人物のために木造で建造したものと伝えられている。1172年に当時の大司教ローレンス・オトゥールとノルマン人騎士ストロングボウが、石造の聖堂を建てた。そのストロングボウの石棺が、現在もこの教会の身廊の脇に置かれている。フランス西北地方ノルマンディーから出たノルマンディー公ウィリアムが、1066年にイングランドの王位につき、ノルマン朝=アングロ・ノルマン人(フランス封建貴族)によるイングランド支配をはじめた。このアングロ・ノルマン人勢力が1170年、ストロングボウに率いられてダブリンを征服した。そのストロングボウが1176年にこの大聖堂に埋葬されたのである。ダブリンでは「大切な商談はストロングボウの墓前でする」という慣習ができ、1562年聖堂の南身廊の屋根と壁が被災して崩壊したとき墓石も破壊したが、ストロングボウの墓石は、この慣習のためにきちんと修復・再建されたという。
Photo_2
 この教会は、大規模な地下礼拝堂があることでも注目されている。1692年にジェイムズ2世がダブリンに滞在したときの聖櫃と燭台が安置されている。珍しいものとしては、猫とネズミのミイラが透明ケースに収められて展示されている。
Photo_3
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ブリテン島周遊クルーズ (33)

ダブリン城の中に入る
Photo_4 城内に入るとき、手提げかばんは問題とされないが、リュックサックは荷物預かり所に預けなければならない。ここの係員の人たちも、とても感じの良い人たちであった。
 入館すると、最初に大階段がある。そして正面の扉の上には、アイリッシュ・ハープの国章がはめ込まれている。イギリスの王族がここを訪れたり儀式に来訪したりするとき、この階段で写真を撮影することが多いそうだ。そんなに大きな階段というわけではないが、それだけ威厳があり美しい階段と言えよう。壁には、多数の王族や貴族の肖像画が掲げられている。Photo_2
 ステート・コリドーは、シャンデリアと天井の装飾がきわだつ豪華な雰囲気の回廊である。シャンデリアは、ダブリンの南にある町ウォーターフォードにある世界的ブランドによるウォーターフォード・クリスタル・ガラスであるという。また私たちが訪れたときは、国際親善イベントとして、東欧のジョージア共和国(以前のグルジア)の貴族の衣装が展示されていた。
 王座の間には、その名のとおり王が座るための王座が真ん中に据えられている。イギリス統治時代に、国王を迎えるために置かれた部屋である。ボイン川の戦いに勝利したオレンジ公ウィリアムに贈られたと伝えられている冠がある。この部屋をはじめ、各部屋に敷かれている絨毯は、アイルランド北部のドニゴール州でつくられる世界的な高級絨毯だそうだ。
 応接間やピクチャー・ギャラリーなど、来客をもてなす空間にはすべて、美術館であるかのように多数の絵画がかかげられ、申し分ない豪華絢爛なものとなっている。

Photo_3

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ブリテン島周遊クルーズ (32)

ダブリン城

 タクシーで中心街の観光インフォメーション・センターに連れて行ってもらい、そこでマップと観光案内パンフレットを入手した。それに従い、まずダブリン城を訪れることとした。Photo
 ダブリンの街は、歴史が古いこともあってか、道路が曲がりくねっていて、歩いているとどの方向に進んでいるのかわからなくなることがある。しばらく探るように歩いているのを見てか、品の良さそうなおばあさんが声をかけてくれたので、さいわい道を聞き、ようやくダブリン城にたどり着いた。敷地は大きいが、入り口は少し入り組んでいた。
 ダブリン城Dublin Castleがある場所は、10世紀以前にヴァイキングの砦があった場所であるという。1170年にノルマン人に征服され、1204年にアングロ・ノルマンのジョン王によってアイルランド支配の拠点として、ダブリンに頑丈な石の壁で囲まれた街が作られた時、街の南東端のダブリンの街全体が見渡せる高台に、四隅に強固な円形の砦を持つダブリン城が建てられた。以来1922年にアイルランド自由国に公式に譲渡されるまで、700年以上にわたってアイルランドにおけるイギリスの支配の象徴的存在であり、何度も襲撃の対象となった。
 1534年、フィッツジェラルドの反乱で砲撃を浴びて大破し、1560年にヘンリー・シドニーによって総督の邸宅として新しく再建された。1684年に再び火災にあい建物のほとんどが失われたが、1688年にウイリアム・ロビンソンの設計で再建された。さらに18世紀の中ごろには修復が加えられた。こうして、さまざまな年代の建物様式が組み合わさった城となり、現在、石造りの円塔であるノルマン・タワーのみが建築当初のものとして残っている。現在残っている建物は、ほとんどが18世紀から19世紀に再建されたものである。
Photo_2 1922年までこの城には、大英帝国のアイルランド総督府が置かれていた。中庭の南側にあり代表的な広間であるステート・アパートメンツは、1680年から1830年にかけて作られたもので、今でも大統領就任式、ヨーロッパ議会の会議など、国の重要な式典・行事に使用されている。
かつての王の礼拝堂であったチャペル・ロワイヤルは18世紀のもので、1943年に三位一体教会の名でローマカソリックの教会になった。今日では、文化センターのようなものとして使われている。
 700年にわたる「被支配の象徴」というべき建造物だが、独立後のアイルランドは東アジアの某国と異なり、決して破壊したりはせず歴史遺産のひとつとして大切に保全している。「歴史に正しく向き合う」姿勢である。
 城域に入ってすぐ目につく高い塔を持つ建物がベッドフォード・タワーである。これはダブリン城の最初の門の西側にあったタワーの上に、18世紀に建てられた。1907年のエドワード7世とアレクサンドラ女王の公式訪問の4日前に、ベッドフォード・タワーから戴冠式の宝石類が盗まれたが、犯人は捕まらず結局謎のまま、とのエピソード―ドが残っている。現在は、一般訪問者は入館できない。

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ブリテン島周遊クルーズ (31)

ダブリン リフィ川沿いのモニュメント
 これまでブリテン島の各地を巡航してきたが、今度はブリテン島から海を隔てたアイルランド島のダブリンを訪れる。ダブリン港からダブリンの中心街までは数キロ程度離れているので、どうやって行こうか、と考えた。クルーズ船のカスタマーサービスに問い合わせると、クルーズ船主催のツアーでなければ、中心街まで一人19ドルでシャトルバスがある、という。朝下船した桟橋には、たしかにクルーズ船会社が提携したシャトルバスが何台か来ているが、そこでも待ち行列がある。一方タクシーもパラパラと到着して、待ち行列の客を順次乗せている。私たちは4人グループなので、タクシー代が30ユーロ程度以下ならタクシーの方が有利である。ここは思い切ってタクシーを待つこととした。Photo
 そんなに長く待つこともなく、タクシーに乗ることができた。聴くと20ユーロもかからないだろうという。このタクシーの運転手は、とても話し好きで博識であった。
 途中リフィ川に沿って走るが、まずサミュエル・ベケット橋を紹介してくれた。アイルランドで伝統的に愛好されている楽器に「アイリッシュ・ハープ」がある。少し小型で木の枠に現代ハーブと異なり金属製の弦を張ったもので、アイルランドの国章として用いられている。そのアイリッシュ・ハーブの形を導入した美しい橋が、このサミュエル・ベケット橋である。
 サミュエル・ベケットは、1906年アイルランドのダブリン州フォックスロックの裕福な中流家庭の次男として生まれた。ベケット家は、1598年のナントの勅令でアイルランドに亡命したユグノーの子孫と主張する、フランス系アイルランド人である。ダブリンのトリニティ・カレッジで、英語、フランス語、イタリア語などを学び、その後1928年から2年ほど、パリ高等師範学校で教師の職を得た。ベケットはパリでジェイムズ・ジョイスと知り合い、影響を受けた。ベケットはジョイスの口述筆記や複写なども手伝った。後にダブリンのトリニティ・カレッジで教えたりしてパリに戻り、第二次世界大戦になった。彼はフランスのレジスタンスグループに加入して活動したが、ナチスの捜索を逃れるため住居を転々とし、小説も書いた。戦後はフランスで執筆活動を本格化し、1952年、戯曲『ゴドーを待ちながら』を発表し、これは世界の現代演劇に多大な影響を及ぼした。私も、大学生時代に友人の薦めで、このごく少人数の翻訳劇を観た。そして1969年、ノーベル文学賞を受賞した。文学や戯曲の分野で、新しい表現方法を切り開いたことがその理由だった。
1847 運転手は、さらに1847年のアイルランド大飢饉の話と、リフィ川岸に繋留されているジーニー・ジョンストン号、そして大飢饉のモニュメントを紹介してくれた。
 1845~52年、アイルランドを激しい飢饉が襲った。1801年にアイルランドは大英帝国に併合され、アイルランド島全域がロンドン政府の支配下となった。この結果、アイルランド出身者を含む地主の大部分がブリテン島に居住するようになり、アイルランドの内地の実情への関心が低下していた。一方農業のみが主要産業であったアイルランドの貧しい小作人たちは、小作納入分以外の自分たちの食用としては、麦よりカロリー生産性が高いジャガイモを専ら栽培するようになっていた。そこへ、ジャガイモの疫病の大流行が発生したのである。ほとんど唯一の食糧となっていたジャガイモの収穫を失った農民は、飢餓に瀕した。さらにアイルランドの内地事情に疎いロンドン政府と地主層は、自分たちの収入と食糧の確保のため、容赦なくアイルランドから食糧を輸入し続けた。いわゆる飢餓輸出をアイルランドに強いたのである。当時の人口データは、人口調査の未整備、1922年のアイルランド内戦による史料の焼失などで正確には分かっていないが、100万人以上が飢饉で死亡し、200万人以上がブリテン島、アメリカなどアイルランド島以外へ流出したと言われている。アメリカ第35代大統領ジョン・F・ケネディの曽祖父も、このときアメリカに渡ったのであった。この大量のアイルランド移民の子孫は、アメリカで最有力のカソリック勢力となり、プロテスタントが主流のアメリカの政治・社会に大きな影響を与えることになった。Photo_2
 ちなみに、アイルランドの人口は、大飢饉直前の1841年に約800万人であったのが、2007年でも約600万人と、大飢饉以前の人口に未だに復帰できていない。アイルランドは19世紀の人口に比べて20世紀の人口が減少している、西欧では唯一の国となっている。
 ジーニー・ジョンストン号は、船長47mの小さな帆船だが、1847年から1855年にかけて16回の航海で約2,500人のアイルランド人をアメリカに運んだという。単純平均で150人以上の人々がこの小さな船で、はるばる大西洋を渡ったのである。いかばかり苦しく心細かったことであろうか。帆船は2002年に復元されて「飢饉博物館」として使用されている。船内は、当時の7週間にわたる大西洋横断航海のようすを忠実に再現して展示され、ガイドもいるというが、私たちは時間の制約から、入館しなかった。

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ブリテン島周遊クルーズ (30)

グラスゴー中心部からグリーノック港への帰途
 私たちは、スコットランドに詳しくない旅人であり、クルーズ船に帰着する時刻1730は厳守だから、時間的余裕をもって帰途についた(つもりであった)。1時間あまり余裕をもって帰船するつもりで行動したのである。来た道を逆に辿って地下鉄、スコットランド鉄道と乗り継ぎ、順調にグラスゴー中央駅まで帰ってきた。さて、ぎりぎりの予定より2本早いダイヤの列車に乗ろうと、プラットフォームを電光掲示板で検索し、該当のプラットフォームにきたところ、終着駅なのにまだ列車が入線していない。まだ少し時間があるし多少は入線が遅れることもあるだろう、とタカをくくっていたが、出発時刻を過ぎても列車が来ない。心配がよぎり、入線済みの別の列車の車掌に聴いてみたところ、私たちが乗るつもりだった列車はキャンセル、つまり運行中止だという。同じように車掌や駅員に懸命に問い合わせている人たちのうちに、私たちと同じクルーズ船に帰るブラジル人女性の3人組がいた。一緒になっていろいろ調べていくうち、さらにもう1本の列車も運行中止だという。さすがに私たちは動揺した。日本の鉄道のように分単位で正確に運行することまでは期待しなかったものの、列車の運行停止がかくも簡単に、しかも2本も連続して発生するのは、想定外であった。3
 結局、当初考えていた列車の1時間あまり後の列車に乗ることになった。これはほんとうにぎりぎりなので、グリーノック駅に着いたら、速足で急ぐか、タクシーを捉まえる努力をするか、などとブラジル人グループとともに議論があった。
 ともかくこれ以上の遅延が発生しないことを祈りつつ、列車に乗った。ブラジル人3人グループは、サン・パウロからきた若い学生世代の娘、その母、そして祖母であった。祖母は、2か月前に1週間余り日本の東京・京都・奈良などを観光旅行したという。日本はとても良いところだと言ってくれた。ブラジルには日系移民の活躍もあり、日本に対しては概してとても良い印象だという。先達のまじめな努力と善行に感謝する。
彼らは列車に乗ると、長い電話をかけ始め、またスマホ操作に熱中し始めた。下車してから聴くと、列車に乗るとフリーWi-Fiがあるので、ブラジル本国への電話とLINEをしていた、という。私たちのクルーズ船は、衛星通信しか手段がなく通信容量がごく小さいこともあり、スマホやパソコンでの通信がとても高価で、ほとんど使用できない。しかし、列車に乗ったときだけでも通信が簡単に無料でできることは、とても貴重な情報であった。これ以後私たちも、列車に乗るたびにフリーWi-Fiのお世話になった。
 結果的には、列車はほぼ予定とおりにグリーノック駅に到着し、余裕はなかったものの、私たちは徒歩で無事に門限以前にクルーズ船に帰着した。最後にどっと疲れた1日であった。
 ブラジル3人組は、この日は娘さんの提案で、グラスゴー大学のみを訪問して学内をゆっくり見学したのだ、という。かなり旅慣れたグルーブのようだ。折しもサッカー・ワールドカップの最中で、ブラジルはかなり強いのだが、調子はベストではない、勝ち進んで優勝できるのか心配している、とも言っていた。

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ブリテン島周遊クルーズ (29)

グラスゴー ケルヴィングローヴ美術館 ヨーロッパのルネサンス以降の絵画
 マティス、ルノワール、ピカソ、セザンヌ、ゴッホやブラックの絵画では、日本でこれまでに観たことがないものもあった。Photo
 とくに感銘を受けたのは、15世紀~17世紀のオランダの非宗教画・風俗画である。ファン・ダイク、ルーベンスなどは日本でも高名で一部は観ることもあるが、風景画のヤーコプ・ファン・ロイスダール、エフベルト・ファン・デル=プール、ヤン・ファン・ホーイェンなど、また静物画のウィレム・ファン・アールスト、ウィレム・カルフ、フロリス・フアン=シューテン、ラッヘル・ライスなどは、私は多分初見だと思う。非常に充実感のある、どっしりした作品群だと思った。こういった重厚な作品群の存在が、後のヨーロッパ近代絵画飛躍の基礎となっただろうことが、素人の私にも理解できる気がする。
 ひとつおもしろいと思ったのは、ジュール・ブレトン『刈取り』とジヤン・フランソワ・ミレー『落穂拾い』を並べて展示し、ほぼ同様な対象を同様なタッチで描きながら、ミレーの作品では人物の顔の表情をほとんど描写しないが、ジュール・ブレトンの作品では人物の表情を実に丁寧に描写している、と解説している。
 また、美術展示を見て気づいたのは、スコットランド女王メアリー1世にかんする作品や記事が多いことである。肖像画として描かれるメアリーは、いずれも美しい。やはりスコットランドでは、悲劇のクイーンたるメアリーは、永遠のアイドルなのだろう。

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ブリテン島周遊クルーズ (28)

グラスゴー ケルヴィングローヴ美術館 ダリ『十字架のヨハネのキリスト』
 スコットランドとヨーロッパの絵画のコーナーは、さすがに豊富である。近代絵画では、印象派やキュビスムなどのコレクションも充実している。Photo
 ガイドブックに必見とあるサルバドール・ダリ『十字架のヨハネのキリスト』を見た。「十字架のヨハネ」とは、16世紀後半の聖人で、神秘主義的な神学を唱え、独自の十字架のキリスト像のドローイングを描いたと伝えられている。1951年、それまでシュールレアリスムの作品をおびただしく描き、すでに世界的名声を確立していたユダヤ人画家サルバドール・ダリは、突然カソリック教に帰依し、400年前に十字架のヨハネが描いたとされるドローイングにインスピレーションを得て、斬新な構図のキリスト像を描いた。魚や漁師がいる湖の上空に、十字架に磔にされたイエス・キリストが浮遊している絵である。通常、磔にされたキリストの絵は、下から見上げられた構図だが、この絵はキリストを真上から見下ろしている。基本構成は、キリストの腕の形と身体で形作られる逆三角形と頭部の円形で構成されており、三角形と円の組み合わせは三位一体を表現しているという。また頭部の円はプラトニックな思考を暗示し、「すべての事象は3で存在するのではなく、円を含めて4である」という意味で、統一性を表しているという。もうひとつの特徴は、キリストの肉体がアスリートのように鍛え上げられた逞しい筋肉美として描かれていることである。「私は三角形と円から成る幾何学的なパースを考案した。それは私のこれまで美学の結集である。私はキリストを三角形の中に置いたのだ。」とダリは述べている。
 グラスゴー市は、この作品を著作権ごと高額で買い取った。市民の一部は、貧困にあえぐ人々が多い当時の市財政にふさわしくないと強く批判した。グラスゴー長老会派は、ユダヤ人ダリのカソリック的内容の絵に激しく反発した。
 さまざまな評判や批判を経て、現在ではこのダリの作品は、このミュージアムで最高の人気を得る展示物となっているそうだ。

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ブリテン島周遊クルーズ (27)

グラスゴー ケルヴィングローヴ美術館&博物館
3 いよいよケルヴィングローヴ美術館&博物館に入場する。一息いれようと、入り口すぐにあるカフェでコーヒーを飲んだ。紙コップに入れたコーヒーだが、日本のものよりひとまわり大きい。しかし予想外の好天と高温(といっても20℃程度で湿度低く快適)で喉も乾いていたから、とてもおいしくいただいた。Photo
 入り口のあるフロアはカフェやお土産店が主だが、あと2つのフロアにわたって考古学的な展示を含むスコットランドの歴史、動植物などの自然、そしてスコットランドを軸とした絵画・彫刻などの美術と、広範囲かつ大量の展示がある。ここも時間の制約から、欲張らずに美術を重点とし、あとは瞥見するにとどめて鑑賞した。
 先史時代については、スコットランドの石器時代は紀元前2,500年より以前から始まっているという。そのころはケルト人すらいなかったろうから、なかなかわからないが、残された石器の破片の放射線分析などでそのような推定をするのだろう。キリンやアフリカゾウの剥製など、興味深いものもたくさんあるが、そのあたりも足早に通り過ぎる。

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ブリテン島周遊クルーズ (26)

グラスゴー ケルヴィングローヴ美術館までの道程とグラスゴー大学
Photo スコットランド鉄道のハイ・ストリート駅に戻り、今度は鉄道でクイーンズ・ストリート駅を通過してパルティク駅で地下鉄に乗り換えて、ケルビンホール駅まで行く。パルティク駅で乗り換えるとき、スコットランド鉄道駅で購入した「オールデイ・チケット」が、そのままでは地下鉄のワイヤレス・チケット・システムに適応できないことが改札口で判明した。駅員を探して聴いてみると、地下鉄のチケット売り場で「オールデイ・チケット」を提示して、ワイヤレス対応の地下鉄1日チケットを新たに発行してもらうのだという。慣れない外国人にとつては、いろいろ難しい。Photo_2
 このグラスゴーの地下鉄は、地下鉄道トンネルの極小化を狙ってか、外形がまるくて小さくつくられている。ドアは円筒側面に湾曲し、これまた少しかがんで出入りする。
 ケルビンホール駅を降りて、ダンバートン通りを10分あまり歩くと、ケルヴィングローヴ美術館&博物館Kelvingrove Art Gallery and Museumに着く。そこまでの途中に、グラスゴー大学がある。今回は時間がないので中に入ることができなかったが、すでに書いてきたように、アダム・スミスやジェームズ・ワットをはじめ数多の世界的頭脳を輩出する名門大学である。わが国のウィスキー製造の先駆者「マッサン」こと竹鶴政孝も、ここでウィスキー醸造の基礎を学んだ。

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ブリテン島周遊クルーズ (25)

グラスゴー プロバンド領主館
 聖マンゴー博物館を出て、ガイドブックにある「プロバンド領主館」を探したが、すぐには分からなかった。ネクロポリスの方へ歩いたり、少しハイ・ストリート駅よりの別の教会の方まで歩いたりと少し迷ったが、ペットボトル入りの水を売る特設の売店で聞いた情報をもとに、ようやくたどり着くことができた。Photo
 この建物の前には、いわゆるイングリッシュ・ガーデンとも少し異なるきれいに刈り込まれた庭園がある。これは15世紀にこの付近にあった聖ニコラス病院の薬草園を想定して再建されたもので、「聖ニコラスの庭」という。庭の様式は、ルネサンス時代の庭園様式にしたがっていて、一部にケルト文化の影響もあるとされる。つい最近の2010~2013年に、植物の植え替えを行ったばかりだという。
2 さて、プロバンド領主館だが、3階建てで入り口はきわめて小さい。日本人の私たちでさえ、少しかがんで出入りすることになる。しかし入ってみると、中は意外に広い。
 この建物は、1471年に建設されたもので、グラスゴー最古の家であるとされる。もとはグラスゴー大聖堂に勤務する、牧師が住む牧師館であつた。グラスゴー大聖堂が建設された当時は、この建物以外に40あまりの牧師館があり、このあたりは大聖堂の敷地内であった。それらは1550年代の宗教改革で、大部分が放棄され破壊され、あるいは民間の手に渡った。たったひとつ残ったこの建物は、1400年代スコットランドの住宅様式の、貴重な遺物となっている。3
 18世紀の史料によれば、この建物にはプロヴァンの領主を勤めたものが居住したことから、Provand’s Lordshipとして知られるようになったという。その後、富裕層の洋服仕立師、ビール醸造者などと所有者が移り変わり、1階を商店、2・3階をアパートに使用されたこともあったようだ。その後も所有者がさまざまに推移したのち、1906年この屋敷がグラスゴーに残る貴重な中世建築物であることを知るに至ったグラスゴー市民のグルーブがProvand’s Lordship協会をつくり、やがて所有者から買い取って文化財として保全と貸し出しや見学受付をするようになった。1978年、修復費用などの問題から、Provand’s Lordship協会は屋敷をグラスゴー地区カウンシルに譲渡した。
 特段の宮殿でも寺院でも教会でもないごく普通の建物で、550年ほども昔の石造りの住居が今に残ることは、地震が多い日本では到底考えられない。さらに、スコットランドの人たちが、古い家屋を古い様式のまま使用することを好む性向があることが、このような文化財を今に残す大きな要因なのだろうと推測する。わが国にも江戸時代中後期の古民家が全国に少数ずつあるが、やはり大切に残せたら、と思う。

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ブリテン島周遊クルーズ (24)

グラスゴー 聖マンゴー宗教博物館
 グラスゴー大聖堂の後ろには「ネクロポリス」という大規模な墓地がある。Photo
 また、大聖堂のすぐ近くに聖マンゴー宗教博物館がある。聖マンゴーとは、6世紀の伝説的聖人で、グラスゴー大聖堂を創建した人物と伝えられている人だが、その名を冠したこの博物館は、世界中の宗教を中立的にわかり易く説明する展示がなされている。宗教博物館という名からは、なにか堅苦しい取つきにくいイメージを推測したが、館内の雰囲気はいたって明るく軽い。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などヨーロッパ・中東起源のもののみでなく、バラモン教、仏教、ヒンドゥー教など、さらにはオーストラリア原住民の宗教などまで、詳しく展示・説明がある。展示は、人形やビデオなどを積極的に導入し、なによりもわかり易さを重視する姿勢がうかがえる。
Photo_2 また、日本人造園家の設計による「禅ガーデン」が、博物館の前庭となっている。日本の枯山水の石庭をモデルにしたもので、枯山水は通常は白砂だが、ここでは入手の都合からなのか、粒の大きい白い砂利が代わりに使われている。日本人としてこういう場所に造園していただくことはうれしいが、このタイプの庭園は造成するだけでは不十分で、日々ていねいに掃き清めたりするメンテナンスが必要だが、さすがにそこまではできないらしい。いささか荒んだ哀れな風景となっているのは、少し残念ではある。

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ブリテン島周遊クルーズ (23)

クイーンズ・ストリート駅からグラスゴー大聖堂へ
18 ジョージ・スクエアのすぐ近くにクイーンズ・ストリート駅がある。ただ、スコットランドに限らないのかも知れないが、駅といっても必ずしも特段のわかりやすい建物があるわけでなく、スコットランド鉄道のマークが記された看板のみが頼りである。駅に着いても、入り口によっては改札口があるのみで、チケット販売をしていない場合もある。途中なんども通行人に駅とチケット売り場の在り処を訪ねた。ようやく「オールデイ・チケット」を購入して、「エディンバラ行き」の列車に乗る。われわれはクルーズ船で来たので、スコットランドの北端を迂回して来たが、ここからエディンバラまでは100kmもないのだ。一駅のみ乗りハイ・ストリート駅で下車した。
2 ハイ・ストリート駅を下車して、駅のすぐ前のキャッスル・ストリートを北の方向に1kmほどゆるやかな坂を上がると、荘重なグラスゴー大聖堂が見えてくる。
 グラスゴー大聖堂は、中世12世紀に創建され、宗教改革のときいったん大部分が破壊されてしまつた。宗教改革の後、ジェイムズ6世が聖堂維持費を負担して修復を図るなど、なんども修復・増改築を重ねて16世紀ころから現在のような姿になったという。スコットランド式ゴシック建築様式を今に伝える貴重な大聖堂である。現在は、スコットランド国教会のグラスゴー長老会の司教座教会となっている。
 内陣と呼ばれる聖堂内の中央の空間は、きわだって高い天井が特徴である。床から高い天井に向かって並び立つ両側の重厚な柱の列は壮観で、荘厳で非現世的な雰囲気を形成している。

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 正面と両脇にある美しい大きなステンドグラス群も、とても印象に残る存在である。

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ブリテン島周遊クルーズ (22)

グラスゴー中央駅からジョージ・スクエアへ
Photo_2 グラスゴーの街は、エディンバラより少し広くて、徒歩だけで観光するには時間も足りないので、鉄道と地下鉄を使いたい。ガイドブックによれば、「オールデイ・チケット」というグラスゴー近辺の鉄道と地下鉄を1日限り乗り放題という割引チケットがあるらしい。中央駅で問い合わせると、近くのクイーンズ・ストリート駅で買えるというので、そこまで歩いていくことにした。エディンバラ旧市街と異なり、ここは古い建物が近代的な市街と同居していて、よく言えば活気がある。エディンバラに比べ、自動車の交通量もずいぶん多い。
Photo_3 交錯した大通りをいくつか歩き、まもなくジョージ・スクエアという広場に出た。「PEOPLE MAKE GLASGOW」と書いた赤い幟をいくつも立てた広場には、数体の大きな銅像がある。そのひとつにジェームズ・ワットの銅像があった。
 ジェームズ・ワットは1736年、私たちが上陸した港町グリーノックで、船大工兼貿易商人の子として生まれた。祖父は数学教師であり、母親は名門の出自で高い教育を受けた教養ある女性であったという。
 18歳のとき、彼は計測機器の製造技術を学ぶためロンドンに行き、通常4年かかる課程を1年で修了し、スコットランドへ戻って機器製造の事業を始めようとグラスゴーに住んだ。当初彼の新事業はうまく進まなかったが、グラスゴー大学に導入された天文学機器の修理・調整の仕事で、彼の高い技術力が教授たちに見いだされ、1757年にグラスゴー大学内に工房を構えることになった。この背景には、アダム・スミスの協力があり、ワットは大学内に多くの友人・協力者を得ることができた。ワットはここで「蒸気機関」のアイデアと初期の実験の存在を知り、大いに興味をひかれた。自己流で実験装置を作ったりもした。ジョゼフ・ブラック教授からは熱力学を学び、動力機関の理解のために潜熱が重要であることに気づき、ピストン部分とは別に設けたチャンバー(分離凝縮器、復水器)で蒸気の凝縮過程を行い、シリンダーを常に注入蒸気と同じ温度にすることで効率が著しく改善することを発見した。Photo_4
 さまざまな実験を繰り返し、かなり効率の高い蒸気機関を試作すると、その工業化・事業化に取り組んだ。資金集めにはずいぶん苦労したが、1775年にマシュー・ボールトンというパートナーを得てボールトン・アンド・ワット商会を設立し、苦労の末大成功をおさめ、一代で莫大な資産を得た。ワットは、理論を実用に結び付け社会に還元する真の優れた技術者であり、イギリス産業革命の中核的推進者であった。この地の人たちとしては、「イギリスの産業革命」として世界に知られているが、実はスコットランド人の貢献こそが認められるべき、との気持ちがあるのだろう。
 ジョージ・スクエアに隣接して、グラスゴー市の市議会議事堂がある。

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ブリテン島周遊クルーズ (21)

グリーノック港からグラスゴー中央駅へ
Photo_2 インバーゴードンを出港して丸一日航海の後、船はスコットランドの古都グラスゴーの港グリーノックに入港した。グラスゴーの中心街までは、また鉄道で行くことにした。ここも桟橋から鉄道駅まで、徒歩で20分くらいかかるという。船を降りるとき、グリーノック市街のマップをもらって、それを頼りに歩き始めたのだが、道路の名前がなかなかわかりにくい。ビルの壁の一部に小さなプレートが貼ってあって道路名が記されていたりするが、その数が少ないようだ。もともと観光立地の土地柄でもないので、地元の人たちに自明の標識の整備には、インセンティブがないのかも知れない。Photo_3
 でも私たちはなんとか駅にあまり遅れずに着かないと困るので、10分弱ほど探り探り歩いたのちに、数少ない地元らしい通行人に声をかけた。20歳そこそこの若い女性で、たまたま同じ方向なので、途中まで案内できるからついてきなさい、と言ってくれた。彼女は隣の町で働いているという。日本からクルーズ船で来た、グラスゴーに行きたい、というと、グラスゴー大学か、と。できればグラスゴー大学も行きたいが、1日弱しかなく、時間がないので大聖堂とミュージアムくらいは見たいと答える。グラスゴー大学はとても良い大学で、世界的な人材を多数出しているのを私も知っている、というと、彼女はうれしそうに賛同し、親しい知人に大学院生がいて、とても良い場所だと。まもなく彼女が乗るバスのステーションに着き、この方向に3分くらいで鉄道駅に着く、と教えてもらった。この旅で出会う地元の人たちは、いずれもとても穏やかで優しく、親切な印象であった。
 駅は、建物としてはごく小さく目立たない。チケットを買う。今度は、チケットはすべて往復乗車券ということまでは分かっていた。約30分間の快速電車で、グラスゴー中央駅に着く。駅のインフォメーション・デスクでマップをもらうが、そこに掲載されているのは中央駅付近のみで、ミュージアムや大聖堂は範囲外である。

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