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2018年10月

ブリテン島周遊クルーズ (62)

トリニティ礼拝堂とブラック・プリンスの墓など
 聖歌隊席を奥へ進むと、大聖堂の端に突き当たり、そこがトリニティ礼拝堂である。Photo
 ここは1220年から1538年まで、聖トマス・ベケットの廟が祀られていた。ステンドグラスは12世紀のもので、聖トマスにかんする奇跡や物語が描かれているというが、私たちにはよくわからない。
 トリニティ礼拝堂から側廊に向かうとすぐのところに「ブラック・プリンスの墓」が鉄の柵に守られて安置されている。ブラック・プリンスとは、「エドワード黒太子(こくたいし)」と呼ばれ、1330年イングランド王エドワード3世の子として生まれ、16歳にしてフランス王フィリップ6世の軍と白兵戦を戦い勝利するなど、早くから優秀な軍人として活躍した王子であった。45歳で病死したとき、まだ父王が健在であったため、王にはならなかった。
Photo_2 さすが連合王国の国教の総本山で、すべての規模や装飾が抜きんでている。オーディオ・ガイドを聞きながら歩くだけでも、ずいぶん時間がかかる。
 聖堂の見学を終えて大聖堂を出て、境内の庭園でひと休みしていたとき、私たちが座っていたベンチに、ひとりのおばあさんが、端の空き席に座っても良いか、と尋ねてきた。もちろん結構です、と答え、ついでにしばし話ができた。彼女は、このカンタベリーの住人であった。彼女の古い友人のひとりに、最近仕事をリタイヤーした日本人女性がいて、少し前にベルギーを訪れたのちに彼女の自宅を訪れて1週間ほど滞在し、付近を観光して帰ったという。その日本人は、イギリスをたいへん気に入って、できたらしばらくの間住んでみたい、と言ってくれた、と。自分もぜひ日本を訪れてみたいが、残念ながらまだ果たしていない、と。ゆっくりきれいな英語で話してくれたので、私にもわかり易かった。彼女の日本に対する印象はとても良くて、日本人は穏やかで礼儀正しく、親切だと思っている、と。この日本人への好感は、彼女が遭遇したその日本人の方々の態度のお陰である。こうしてまた、地元の人とゆっくり話せたのは幸運であった。[完]

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ブリテン島周遊クルーズ (61)

カンタベリー大聖堂 ベルハリー・タワーと聖歌隊席の門
Photo 地下聖堂を周囲をめぐって、入った時と反対側の階段から登って、再び地階に出ると、上にはベルハリー・タワーの丸天井が見える。繊細な扇形を組み合わせた美しい天井である。
 その下に、大理石で造られたとても大きな、奥行きも大きな門がある。これは14世紀に造られたという。

Photo_2
 この門をくぐると、聖歌隊席(クワイヤ)に入る。ここの聖歌隊席はとても大きく、両脇の聖歌隊にはさまれて、多数の信者たちがここに入り、正式な礼拝を行う場所となっている。12世紀に大火災にみまわれ、いったんほとんどが崩壊してしまったが再建され、現在は、ゴシック様式の壮麗な内装となっている。

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ブリテン島周遊クルーズ (60)

カンタベリー大聖堂 地下聖堂(クリプト)
Photo 殉教の場から脇の階段を降りると、大きな地下聖堂(クリプト)に行く。ここは祈りを捧げ、黙想を行う静かな場所であり、中心部は撮影も禁止されている。
 この部屋は、カンタベリー大聖堂のなかでも最も古い部分で、11世紀のロマネスク様式(ノルマン様式)が今に残っている。半円型のアーチ、丸みのある天井、装飾が施された円柱などが特徴である。
 1170年の暗殺事件直後から1220年までの間、トマス・ベケットの遺体はこの場所に埋葬されていた。
 この日も、静かに祈る信者が何人もいて、キリスト教者でないものには少し憚られるような、荘厳な厳しい雰囲気があった。

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ブリテン島周遊クルーズ (59)

カンタベリー大聖堂 大司教トマス・ベケットの殉教
 1170年、この大聖堂のなかで、悲惨な事件が発生した。ときの大司教トマス・ベケットが、4人の騎士に突然殺害されたのである。
 フランス出身のイングランド王ヘンリー2世は、ノルマンディー公を兼帯して、長い内戦で疲弊していたイングランドを安定させた有能で学識に優れたエネルギッシュな王であった。彼は、トマス・ベケットを腹心とし、息子のヘンリー(若ヘンリー)の家庭教師をも任せるほど、信頼し愛顧していた。
 ヘンリー2世は王による教会支配を強化するため、また政教関係の難しい調整をさせるため、トマス・ベケットを1162年にイギリスの総司教座につかせた。しかしトマス・ベケットは、宗教と政治の関係にかんする限り、実はヘンリー2世の方針に真っ向から反対していた。大司教となったトマス・ベケットは教会の自由を主張し、ことあるごとにヘンリー2世と激しく対立するようになった。トマス・ベケットは1164年、国外追放に処せられた。
 1170年、イングランドに帰国したベケットは、直ちに親国王派の司教たちを解任した。これに対し、国王が大司教暗殺を望んでいると誤解した4人の騎士が、ヘンリー2世に無断で、カンタベリー大聖堂においてベケットを暗殺してしまった。ヘンリー2世が「あの厄介者を、誰か始末してくれないものか」と口走ったのを伝え聞いたともいわれている。その暗殺現場となったのが、ベルハリー北側の小さな部屋で、殉教の場(マータダム)として不気味な「剣先の祭壇」が設えられているところである。

Photo
 この事件で人々はベケットを殉教者とみなして深く崇敬するようになり、ローマ教会は即座にトマス・ベケットを列聖した。ヘンリー2世は追い詰められ、修道士の粗末な服装でベケットの墓に額づき懺悔をするとともに、ローマ教皇に降伏しなければならなくなった。この事件はさらに、ローマ教会への譲歩ばかりではなく、臣下の反逆や息子たちの離反、さらには十字軍派遣問題まで招いたのであった。

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ブリテン島周遊クルーズ (58)

カンタベリー大聖堂の発祥
 いよいよ大聖堂に入る。私たちが訪れたとき、大聖堂は大修復の最中であり、外壁の養生や天井などへの木材や布幕の覆いなどがあり、すべての様子を見ることはできなかった。Photo
 596年、聖アンドレアス修道院長であったカンタベリーのアウグスティヌスは、教皇グレゴリウス1世の命により、サクソン人が治めるケント王国への布教のために、約40人の修道士とともにイギリスへ派遣された。597年、ケント王国の王エゼルベルトに布教の許可を求め、カンタベリーに居住することと説教の自由を認められた。アウグスティヌスはその年に初代カンタベリー司教に任ぜられ、クリスマスまでに約1万人のイングランド人に洗礼を施し、翌年にはカンタベリー大司教に叙階された。601年、聖マルティンを記念してカンタベリーに建設されていた教会を復興するとともに、カンタベリー東方には後に聖アウグスティヌス修道院として知られる建物を建てた。
Photo_2 カンタベリーのアウグスティヌスは、ローマ式典礼を導入したが、慎重にイングランドの国情・習慣をよく尊重した。これはグレゴリウス1世の指導によるもので、すでにイングランドにある程度浸透していたケルト教会の影響を考慮したのであった。
 11世紀はじめ、ノルマン朝を興したアングロ・ノルマン人であるウィリアム1世は、アングロ・サクソン式の典礼や聖堂を嫌い、新たにロマネスク様式の大聖堂の建設を命じた。ウィリアム1世の死後の1130年、カンタベリー大聖堂が完成した。
 入場すると、ここも日本語をカバーするオーディオ・ガイドがある。あわせて、大聖堂の案内パンフレットに英語版と日本語版がある。あとで気づいたが、日本語版は、パンフレットもオーディオ・ガイドも、ともに英語版より改定が遅れていて、案内対象に記されている附番号がいくつかずれていて、混乱した。日本人の立場からは、もっとしっかり維持管理してほしいと思うが、多数の言語につねに対応するのは教会側も大変だろうとも思う。
 ひときわ広く大きく高い身廊の天井から、修復中のためなのか、いささか場違いのようなモダンな電球が多数並んで吊り下げられている。
身廊から聖歌隊席へ向かう境界付近の中央で、驚いたことに大きな三脚を立てて一眼レフカメラで、我が物顔に妻かガールフレンドかとおぼしき若い女性と、大きな声を掛け合いながら長々と写真を撮り耽っている不届きな若い中国人がいた。中国人のすべてがこのようだとも思わないが、マナーをまったく顧みない傍若無人な者がしばしばいて、世界中の人々の強い顰蹙を買っていることも事実である。同様な所業を、私も仕出かしたりすることが決してないよう、改めて心を戒める思いであった。

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ブリテン島周遊クルーズ (57)

カンタベリーの駅からカンタベリー大聖堂へ
Photo クルーズ船は、ドーバー港に降ろしてくれるという。ドーバーはホワイト・クリフ以外にはさほど目ぼしいものも知らないので、少しだけ脚を伸ばして、イギリス国教会の総本山であるカンタベリー大聖堂を訪れることとした。前日クルーズ船のカスタマーサービスで、港からドーバー・プライオリー駅まで行く交通手段について問い合わせたら、桟橋からバスが出ていて、一人5ポンド(750円程度)だという。4人で20ポンドになり、2km程度にしてはずいぶん高いな、との印象であった。
 ドーバー港に着くと、この港の建物はずいぶん大きく、かなり歩いてようやく外に出た。カスタマーサービスの言うとおり、バスが待っているが、これはまたクルーズ船会社との親密な提携が明白である。ちょうどタクシーも少数ながら待っていたので、4人でもあり、タクシーで行くことにした。ドーバー・プライオリー駅まで10分あまり8ポンドで済んだ。Photo_2
 ドーバー駅から、列車でカンタベリー・イースト駅まで乗車する。車中では、またフリーWi-Fiとスマホが活躍する。
 カンタベリー・イースト駅から、カンタベリー大聖堂まで、かつてカンタベリーの町を囲む壁であったシティ・ウォール要塞の上をたどって歩く。さすがにカンタベリー大聖堂に行く人が多いのか、私たちの周囲にも何人かの歩行者が常にいる。シティ・ウォールは日本にはないが、ヨーロッパの旧市街にはよくある光景である。ここでは壁のところどころに、見張ったり射撃したりするのに好都合な、小屋のような構造物がある。
Photo_3 町に入るとますます人が多くなり、同じ方向に歩く人たちが多かったので、少し安心して、あまり自分の位置を確認しないまま進んだが、少し不安になった。マップを示して現在地を通行人に聴くと、市街のメインストリートを行き過ぎていたことが判明した。やはりはじめて訪れる場所は、基本に忠実に、ストリート名を丁寧に確認しながら歩くべきだと、改めて反省した。
 ようやくメインストリートから折れるべき交差点を見極めて、カンタベリー大聖堂の入り口に来た。やはり入場希望者は多く、長い待ち行列ができていた。
 私たちのすぐ後ろに、同じクルーズ船のカードを胸に下げた4人の家族連れがいた。声をかけると、アメリカのテキサスから来たという。夫は白人だが、妻はかなり濃い色の黒人だ。いずれもかなりのインテリのようだ。ご夫婦ともにとても気さくな人で、待ち行列で待つ間いろいろ話ができた。彼らは家族連れでもあり、1台タクシーを借り切って、港からホワイト・クリフ、カンタベリーと、順次周遊しているという。それはなかなか良いアイデアですね、私も2度ほどテキサスに行ったことがあるが、テキサスはアメリカの中でも、人々のテキサス人としての独立意識が強いらしく、独特の雰囲気だ、というと、にっこり頷いていた。この人たちは、私たちがこの日の帰り道の途中、ドーバー港の近くを歩いているとき、チャーターしたタクシーのなかから、手を振って声をかけてくれた。

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ブリテン島周遊クルーズ (56)

ドーバーのホワイト・クリフ
 いよいよこの度のクルーズ旅行の最終日程となった。朝起きて、バッフェ・スタイルのレストランに行くと、眼前に大きくホワイト・クリフが広がっている。
 ブリテン島の東南端ドーバー海峡に面している有名な断崖である。ロンドン南方の低丘陵地帯ノース・ダウンズの東端にあり、断崖の高さは110メートルもあり、なかなか壮観である。断崖は主に白亜(白ないし灰白色の軟質泥状の石灰質岩石細粒)で構成されているため白く輝いて見え、所々に黒いフリント(燧石)が混ざっている。断崖の一部が途切れ、そこにドーバーの港がある。対岸の大陸のひとびとが、イギリスを「白の国(Albionアルビヨン)」と呼んだのも、このホワイト・クリフをもってブリテン島を指したことによる。
2
 イギリス海峡の最も狭い部分でヨーロッパ大陸に対峙しているドーバーの白い崖は、イギリスにとって重要な自然の要害であった。地政学上つねに大陸からの侵略に脅かされてきた地であり、断崖は侵略に対抗する自然の防壁として大きな機能を有していた。また飛行機の時代が到来するまでは、ドーバー海峡の船運が大陸との間の主要交通路であったので、白い断崖はイギリスを訪れる人たちが最初に見るイギリスの景色であり、同時にイギリスを去る人たちが最後に見る景色でもあった。

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ブリテン島周遊クルーズ (55)

セントピータース・ポートについて
Photo セントピータース・ポートは、ガーンジーの首都である。人口18,000人の小さな町だが、歴史的経緯から、フランス・ノルマンディーとイングランドの文化が両立しているという。ただ今回私たちは、コーネット城とハイ・ストリート付近しか見ていないものの、表示や地元の人々の言葉など、やはりイギリス的な雰囲気の方が優勢に思えた。1940
 中世以来のこの町の主な産業は、一部の農業の他は漁業であった。アナゴやサバなどを塩漬けにして外国まで輸出することも行われ、魚市も繁盛したという。19世紀末ころから蒸気船が普及し始め、1930年代には灯油エンジンが漁船に搭載されるようになった。
 また19世紀には、セントピータース・ポートの港は、帆船を駆使して、ロンドンと提携しつつ世界の貿易港に発展した。しかし、1880年代には蒸気船が台頭して一時衰退した。一方、人々のビジネスや観光などの海外旅行が海路で増加したことで、ヒトの海上交通の拠点として、セントピータース・ポートは繁盛した。これは、蒸気船の台頭にも対応したが、20世紀後半の飛行機旅行の台頭で大きく後退を余儀なくされた。
1930 20世紀初頭から、重要な輸出品目としてガーンジー種の牛が加わった。ガーンジー原産の乳用種で、黄色味が強く風味がよい乳質を特徴とする。フランスのブルトン種やノルマン種を基礎に改良したもので、毛色は黄褐色の地に白斑があり、多くは額に星がある。おなじチャネル諸島のジャージー島で産するジャージー牛にくらべてひとまわり大型で、骨太で粗野な感がある。性格はジャージー種ほど神経質でなく、環境に対する適応性も優れている。その適応性がかわれて、海軍士官リチャード・E・バード少将率いるアメリカ南極探検隊に参加し、基地で牛乳生産をしたという有名なエピソードがある。日本にも明治末から輸入され、かなり広く販売されている。
 また、1900年代から、花崗岩を蒸気船でロンドンに運び、空の船をニューPhoto_2
カッスルにまわし、そこで石炭を搭載して島に持ち帰る、という形の貿易が繁盛した。ガーンジー島の暖房や温室栽培のための石油の需要が急増したのであった。
Photo_3 文化面のエピソードとしては、ヴィクトル・ユーゴーの滞在がある。彼は53歳のとき、第二帝政をはじめたナポレオン3世を批判して、ここセントピータース・ポートに15年間亡命することになった。ここに滞在しているとき、彼は海事の安全と人命救助に大きな関心を寄せ、1859年10月の北海の嵐で難破した2隻の船から45人の人命を救済したアブラハム・マーチン船長を個人的に褒章して話題となった。
コーネット城でずんぶん長い時間を過ごしたが、残り少しの時間を、セントピータース・ポートの町の散策とした。
 セントピータース・ポートは、現在は、観光と金融をおもな産業とする近代的な町に生まれ変わっている。町の景観もすっかり近代化し、ハイ・ストリートのいたるところで、銀行や商店が提供するフリーWi-Fiが、建物の外、道路上で、誰でもが利用することができる。

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ブリテン島周遊クルーズ (54)

ガーンジー コーネット城の歴史
 コーネット城の歴史は、日本ではなかなか知る機会がない。幸い城内に「コーネット城の物語の博物館」があり、その歴史を説明パネルと人形や模型を駆使して説明している。Photo
 考古学的には、8,000年ほど前から中石器時代のヒトが狩猟・漁労の生活をしていた形跡がある。紀元前4,000年ころ農業がはじまり、人びとは定住へと向かったようだ。紀元前2,000年ころまでに鉄器が導入され、この地域でブリテン島と大陸ノルマンディー地方との人々の交流が始まっていた。ノルマンディー公ギヨーム2世が1066年イングランドを征服して、イングランド王ウィリアム1世(ウィリアム征服王)となり、ガーンジー島はイギリス王室直轄地とされた。ガーンジーは、イギリス王室の代官である総督が統括・支配し、そのもとに守備のための駐屯兵が配備された。
Photo_2 大きな画期は、イギリスの清教徒革命であった。これは「内戦Civil War」時代として大きく展示されている。1642年発生した清教徒革命にかんして、ガーンジーのピーター・オズボーン総督は一貫して議会派を支持したので、国王派から攻撃を受けることになった。コーネット城は国王派に包囲されたが8年間持ちこたえ、1751年議会派の艦隊によって解放された。しかし1672年末、ハットン総督のとき、一筋の稲妻が火薬庫を大爆発させ、総督の家族を含む多数の死者を出すという悲惨な大事件が発生した。これは、コーネット城の防衛能力を著しく削ぐような大事件であった。3
 1786~90年には、爆発対策の兵舎が多数建設された。しかし恐るべき湿気で、役に立つものとはならなかった。1847年にはすべてを作り替える提案がなされた。このように修復は図られたものの1790年ころまでにコーネット城は衰退していて、ナポレオン戦争のころには、ほとんど役に立たなかった。
1800年代に入ると、城内の要塞は砲弾対策のため屋根がつけられ、主要砲台には大型の大砲が整備され、地下火薬庫も追加された。1860年にコーネット城は、セントピータース港の整備の一環として防波堤で港と結合された。1901年には、12ポンド速射砲が設置された。このころまでは未だフランスを仮想敵国として懸念していたが、1914年第一次世界大戦がはじまると、フランスは同盟国となった。コーネット城の役割は、セントピータース港を防衛することであった。要塞の上の見張り台からセントピータースの町に向けて、手旗信号が頻繁に発せられた。
Photo_3  第二次世界大戦のときの1940年、フランスがドイツ軍によって陥落し、ガーンジーを含むチャネル諸島を維持できる見込みがなくなり、コーネット城はドイツ軍に占領された。
 ドイツ軍は、コーネット城を大西洋に対する防衛拠点とみなし、さらに海軍からの防衛のみならず空爆に対する防衛を加え、城内に多数のコンクリート屋根やコンクリート壁を増設し、艦船と飛行機を砲撃するための新たな砲台を追加した。こうして城内の様子は短期間に大きく変貌させられた。この結果コーネット城は、イギリスで唯一大英帝国空軍の痛烈な爆撃を受けた要塞となってしまった。

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ブリテン島周遊クルーズ (53)

セントピータース港とガーンジー
 北ウェールズのホーリーヘッドを出たわれわれのクルーズ船は、1日半の航海を経てブリテン島の南、フランスのノルマンディーの北西の海に浮かぶチャネル諸島の2番目に大きな島であるガーンジー島セントピータース港に着いた。この港は9万トンのわれわれのクルーズ船は着岸できず、艀船による上陸である。Photo
 ガーンジーは、イギリス女王を君主とするイギリス王室の属領である。ただしイギリス連合王国には含まれないので、内政に関してイギリス議会の支配を受けず、独自の議会と政府を持つ。欧州連合に加盟せず、通貨はスターリング・ポントである。イギリスの海外領土や植民地と異なり高度の自治権をもち、イギリスの法律や税制および欧州連合の共通政策は適用されない。ただし、外交と国防に関してはイギリス政府に委任しており、主権国家ではない。
 紀元前6,500年頃までガーンジー島は現在のフランス本土ノルマンディー地方と陸続きであった。先住民は紀元前5,000年頃に農耕民族に追い払われた狩猟民族であるといわれている。933年、ノルマンディー公ギヨーム1世はチャンネル諸島を含む領地をブルターニュ公国から奪った。1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世はイングランドを征服し、イングランド王ウィリアム1世(ウィリアム征服王)として戴冠した。ノルマンディー公ウィリアムである。それ以来ガーンジー島は、歴代イギリス王室の直轄地となっている。住民は、イギリス人とアングロ・ノルマン系フランス人で、宗教はイギリス国教会が65%、カソリックが35%である。
Photo_2 ブリテン島とフランスの間の交通・軍事の要衝に位置する天然の良港であるため、日本の沖縄にも似て、古代から大国に狙われ、後で述べるように複雑な歴史を経てきた。かつては漁業、貿易、軍事がおもな生業であったが、近年は観光とタックス・ヘイヴンの金融を生業としている。
 私たちが上陸した日は日曜日だったこともあり、クルーズ船で押し寄せる我々観光客や、自撮りをいたるところでやりまくり声が大きい中国人らしいアジア系の観光客に加えて、地元や近在からの観光客も多く、セントピータース港はとても混雑して賑わっていた。
 私たちは、まずコーネット城に行った。桟橋から徒歩で20分くらいであった。

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ブリテン島周遊クルーズ (52)

バンガー大学内のコーヒーショップと港への帰路
 帰路は、ふたたび大学のなかを通ることとし、コーヒーショップで喉を潤すことにした。
 大学のメイン・ビルディングのなかには、少しおしゃれなレストランと、生協の食堂のようなところ、そして隣接するコーヒーショップとがある。お腹が空くには至っていないのでレストランではなく、コーヒーショップに入った。Photo
 ここは、係の人はいるが、料金を支払うと紙コップをくれて、コーヒー・コーナーで機械を自分で操作して受け取るという仕組みである。機械にチャレンジしてみたが、コーヒーが思ったように出てこない。ここもコーヒー豆をまずその場で挽いて、さらに機械で湯を通すのだが、コーヒー豆が出てこないようだ。係の女性にその旨告げると、機械の一部をトントンと叩いて、なんとか解決してくれた。
 大学のコーヒーショップも、なかなか落ち着いて快適であった。
 こうしてバンガーでの快適な散策を終えて、鉄道でホーリーヘッド駅まで帰ってきた。ここから、来た時のように15分程度で、シャトルバスで船まで帰ると想定していた。
 ところが、シャトルバスはなかなか来ないし、やっと来たバスは、ホーリーヘッドの町のいくつかの拠点でクルーズ船の人たちをピックアッブしてまわり、40分ほどもかかってようやく帰船したのであった。
 このバスのなかで隣り合わせたのが、オランダから来たというおばあさんであった。アムステルダムから20kmくらいのところに住んでいて、今回のクルーズがアムステルダム発着というので、利便性から参加した、と。これまで他社のクルーズには何度も参加し、日本へもクルーズで行ったことがあり、東京・京都・奈良などはすでに訪れた、と。彼女はこのたび、私たちが参加する旅程の直前に、この同じ船がアムステルダム発着でロシア・バルト海沿岸をまわるクルーズにも参加していて、私たちの2倍の旅程を過ごしているという。ロシアのセントピータース・ブルクもなかなか良かった、とも言った。こういった長期のクルーズ愛好者も結構多いようだ。

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ブリテン島周遊クルーズ (51)

展望台から見るアングルジー島

Photo
 教えてもらったとおりに道を進むと、いったん坂を登り、そのあとかなり下った。つまり、バンガー大学があるちいさな山の北方向の裏側に展望台はあった。Photo_2
 展望台のすぐ下には牧草地がひろがり、牧草を機械ではぎ取ってロールにして、運搬用のフォークリフトのような機械で集積場にゆっくり運んでいる。のどかな落ち着いた光景である。大型犬を散歩させている人もいる。ゆったりした好天下の心地よい場所で、しばらくゆっくり休憩した。
 前方の遠景として、小舟が行きかうメナイ海峡をはさんで、アングルジー島が眺望できる。また、この付近の住宅地は、かなりゆったりした高級住宅地のように見える。

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ブリテン島周遊クルーズ (50)

バンガー大学
 図書館の前の道をさらに進むと、大学のある丘の麓に突き当たる。左に折れて少しのところに、大学の入り口への階段がある。そこを登ると、新館の建物のひとつに入る。受付カウンターのようなものがあり、職員らしい人がいたので、大学を少し見学したい旨を言うと、このすぐ横のエレベータで5階まで上がると近道だよ、と親切に教えてくれた。
Photo
 エレベータのお陰で、大学のメイン・ビルディングがある丘の上にすぐたどり着いた。そこで通りがかった若い女性に、大学の一部を見学して、続いて大学を抜けてマップにある展望台に行きたいが、どのように行けばよいか、と尋ねた。彼女は大学生でまだ入学したばかりだと言い、だいたいの道を教えてくれた。
 バンガー大学は、1885年にウェールズ大学の一部として勅令を受けて開学した公立大学である。第2次世界大戦中には、ロンドン大学の学生がバンガーに疎開して就学を継続した。1977年には、女性教師養成校であったセント・メアリー・カレッジと合併し、1996年には、バンガー・ノーマル・カレッジと合併するなど、規模を拡大させ、現在は学生数が1万人を超える大学に成長した。2007年にウェールズ大学から独立し、ウェールズ大学バンガー校から、バンガー大学へと改称した。

Photo_2 ①人文学部、②商学・法学・教育・社会科学部、③自然科学部、④物理学・応用科学部、⑤健康・行動科学部という分類の5つの学部から構成される総合大学である。イギリスらしく、オックス・ブリッジと同じく「物理学部」と物理学が独立学部になっているのが興味深い。教育評価ランキングで英国トップ15大学に位置づけられ、ウェールズで最上位の教育を提供する大学とされている。この丘の上には大学本部があり、各学部の建物は町中に散らばっている。学部生8,200人、大学院生2,400人、大学職員2,000人の、大規模な大学である。
 メイン・ビルディングに入った。ビル入り口の扉は、自動ドアであった。廊下は、建物はかなり古いが、掃除がよく行き届いていて、とても快適な雰囲気である。
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 講義室のひとつを少し覗いてみた。内装はすっかり近代化され、少人数向けの機能的で快適そうな空間となっている。
キャンパスは細長く北東に続いているようだが、途中女性の二人連れに出会ったので、展望台への道を尋ねた。途中まで付き添って案内してくれるという。彼女たちは学生ではなく、この大学に勤務しているのだ、と。

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ブリテン島周遊クルーズ (49)

バンガーの町の図書館
Photo_2 大学は丘の上にあり、そのすぐ下の道路に面して、市立図書館のような小さな建物があったので、少し立ち寄ってみることにした。
 日本の地域図書館と同じような本棚と閲覧室があり、事務員の人が2人ほど動き回っていた。トイレに行ってみると、鍵がかかっていて入ることができない。図書館の事務員に、トイレを借りたいと申し出ると、鍵を貸してくれた。ここでは、そういうシステムになっているようだ。 Photo_4
 ちょうどサッカー・ワールドカップのプレリミナリー・リーグが終わろうとしていたが、そのそれぞれの試合の最新結果をパソコンのインターネットで調べて、館内の掲示板に記していた。日本がリーグ戦を勝ち抜き、決勝トーナメント進出が決まった直後だったので、日本から来たというと、おめでとうと言ってくれた。
このなかでも、フリーWi-Fiがあると、掲示されていた。

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ブリテン島周遊クルーズ (48)

バンガー大聖堂
 やがてハイ・ストリートの終りに、バンガー大聖堂が左手に見えてきた。
Photo バンガーの歴史は、525年聖デニオールがこの場所に修道院を建てたことにはじまる。この修道院こそがバンガー大聖堂のはじまりであった。つまりバンガーの町は、この大聖堂とともにあったといえる。1073年にノルマン人により破壊されるが、やがて再建された。その後もジョン王やエドワード1世の攻撃を受け、修復と増改築が繰り返されたという。外壁は石造り、内部は白壁の木造建築である。15世紀に作られた木彫のキリスト像がある、立派な聖堂である。Photo_2
 私たちが訪れた時は、まだ午前9時半ころで、入り口に記してある開場時刻10時までには間があったが、堂内にいた上品そうなおばさんが、今はみんなで掃除をしているところであり、その支障がなければぜひ入ってください、と言っていただいたので、なかに入った。
 数人の地元の人たちが、ボランティアで早朝の掃除に励んでいる。身廊の脇に、幼児用のコーナーがあり、小さな幼児が備え付けの絵本や玩具で遊んでいた。私たちが来たのを見て、珍しく思ったのか、かくれんぼをするかのように、椅子の下に籠ってしまった。掃除に来ている人たちは、いずれもフレンドリーな人たちである。
Photo_3 大聖堂を出て、大聖堂のすぐ横にある公園を歩いていたら、外国からの訪問者とわかったからか、ひとりのおばあさんが声をかけてくれた。これから大聖堂に行くので、ぜひ一緒にいらっしゃい。少し前に事故があってステンドグラスが2枚壊れたの、それで募金を集めて修理して、今はすっかり良くなっているの、と話してくれた。遠方からたくさん人が来るけど、あまり大聖堂には来ないのよ、とも。ちょうど今さっき大聖堂を訪問させていただいたばかりです、これから大学に行きたいが、どの道を行けばよいでしょうか、と答えた。こうして大学への道を教えてもらい、そちらに向かった。彼女の親切と大聖堂に対する愛着は、よくわかった。

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ブリテン島周遊クルーズ (47)

バンガーの町
 8時52分発ロンドン行きという列車に乗った。この列車は。日本での快速電車に相当し、適宜停車駅を飛ばして、特別追加料金なしに6時間ほどでロンドンまで行くのである。すでに知った通り車内にはフリーWi-Fiがあり、私たちも他の乗客も、多くの人たちがスマホに見入っている。私たちには、日本の家族や知人と連絡が取れる貴重なチャンスなのである。Photo
 30分弱でバンガー駅に着いた。さすがにひっそりした感じの町である。観光インフォメーション・センターのようなものもなさそうで、頼りのマップは、唯一日本のガイドブックに掲載されているごく小さな図のみである。まちがった道に入らないよう、まず駅員にハイ・ストリートへの道を確認した。
Photo_2 バンガーは、ホーリーヘッドがあるアングルジー島とごく狭いメナイ海峡を隔ててブリテン島側に位置する人口13,700人ほどの町である。イギリスでは最小のシティの一つであるとともに、ウェールズにある6つのシティのひとつで、最古のシティでもある。古くはバンガー大聖堂の町として、近年はバンガー大学を中心とした大学町として広く知られているらしい。学生でない人の半数がウェールズ語を話すという。たしかに町の表記は多くが、まずウェールズ語で記され、次に英語表記が続く。
 まずバンガー大聖堂に向かって、この町のメインストリートであるハイ・ストリートを歩く。日本でいうと、昭和レトロのようなノスタルジックな町並みである。通りに面してスーパーマーケット、小さなホテル、雑貨屋、教会、など生活感のある店舗や施設がならぶ。どういうわけか、理容店の数がずいぶん多い気がする。
 ハイ・ストリートは、大聖堂の方向にゆるやかな上り坂となっている。

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ブリテン島周遊クルーズ (46)

ホーリーヘッド港からバンガーへ
Photo_2 ダブリンで2日間の滞在の後一晩の航海で翌朝、船はホーリーヘッドに入港した。ダブリンとホーリーヘッドは100km弱と近接していて、フェリー船などの交通も多い。ホーリーヘッドは、ウェールズの西北端にある岬のようなアングルジー島の西端にある。厳密にはアングルジー島からフォー・マイル橋を渡った西側のごく小さな島ホリー島にある。地理的好条件から、4,000年前からブリテン島とアイルランド島との接点として人々が行き来していたことが、考古学的に認められているという。1839年ロンドンーリバプール間に鉄道が開通したとき、アイルランド島とブリテン島との交通路としてリバプールに追い越されたが、まもなく1850年にホーリーヘッドの鉄道駅が設置されると、基幹的な積出港として復活した。Photo_3
 この地は、とりたてて観光名所があるわけでもなく、クルーズ船の人たちは思い思いに散策したり寛いだりする。私たちは、あまり情報はないが、ウェールズの地方の町をのんびり散策しようと、ホーリーヘッドから近いバンガーの町を訪れることにした。
Photo_4 桟橋のあるところから、クルーズ船会社が提供する無料シャトルバスで、鉄道のホーリーヘッド駅まで連れて行ってくれた。駅でバンガーに行く列車の発車時刻・運賃・到着までの時間などを聞く。この駅はかなり古くて閑散としていて、営業を縮小したのか駅員が一人しかいない。駅員への問い合わせにも待ち行列ができる。ここで同じクルーズ船にメキシコからきた娘・母・もう一人の若い女性の3人グループと居合わせた。彼女たちは旅に出発する前にメキシコで鉄道のオープン・チケットを購入済で、バンガーよりかなり遠いチェスターまで行くので、その列車を問い合わせるのだという。行列の待ち時間に、私は駅窓口の脇のパンフレット棚を探り、時刻表を見つけて列車を検索した。私の番が回ってきたので、時刻表で探した列車と時刻を駅員に確認した。駅員は、時刻表と5分ほど違う時刻を告げた。私が時刻表を示して再確認すると、列道の時刻はわずかのズレだが頻繁に変わる、いま最新情報をコンピューターで調べた、と答えた。外国の鉄道は、いろいろむずかしいと再認識した。

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ブリテン島周遊クルーズ (45)

ダブリントリニティ・カレッジの研究の一端
 せっかく大学に来たので、ひとつだけでも大学の研究にかんする見学をしたいと思い、サイエンス・ギャラリーという場所を訪れた。ここでは、アイルランド軍との共同研究として、宇宙関連開発プロジェクトを推進しており、その途中経過の展示報告があった。Photo
 植物の炭酸同化作用と光の波長との関係について、太陽系のうち地球に比較的近い惑星の光環境を疑似的に生成し、植物の生長速度を観察している。当然ながら地球の太陽光のスペクトルがベストだが、金星の光環境もある程度の期待が持てることがわかった、という。
Photo_2 人間のゲノム構成に近いDNAを持ち、かつできるだけ小さく軽い生物として、ミバエ(実蠅)fruit fliesがある。このミバエを、宇宙環境を模した環境に置いて、どのようにどの程度サバイバルできるかを3年計画で調べている、という。もっとも厳しいのは温度で、これはマイナス50からプラス50℃を超えると、とても生命は保つことができない。重力は、ミバエの場合は想定以上に耐える。光は青から近赤外までなら大丈夫、などのデータが蓄積されつつある、と。その他、地球環境の細菌・温度・ガスなどの変動の、シミュレーションによるサバイバルの検討、火山活動の活発化にどの程度まで適応できそうか、火山の変化が海中のプランクトンの生態にあたえる影響など、データを蓄積しつつある、という。
 説明してくれた女子学生は、大学院に進学したばかりだといい、研究がおもしろくてしかたがないという雰囲気であった。若い人たちは、世界のどこでも希望の星であり、こういう人たちと接するのは気持ちが明るく楽しくなる。今後一層の健闘を祈りたい。
 クルーズ船に帰って、グラスゴーの鉄道駅で知り合ったブラジル人3人組に会ったとき、彼らがダブリンのトリニティ・カレッジを訪れた時の話を聞いた。3人組のクール・ビューティ風の若い娘さんが、トリニティ・カレッジのオールド・ライブラリーの前で、この大学の学生に声をかけ、「オールド・ライブラリーに入って「ケルズの書」を見たいんだけど、時間がないの。どうしたらいい?」というと、学生がついておいでと言って、観光客の待ち行列とはまったく違う学内専用の入り口から、すぐに無料で中に入られて、3人でゆっくり見学した、と。おそらく、ここの女子学生とその父兄、という感じで、うまくやったようだ。残念ながら私たち老人の4人組グルーブには、学生風のヒトはおらず、真似はできない。

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ブリテン島周遊クルーズ (44)

ダブリンのトリニティ・カレッジ
Photo 国立考古学・歴史博物館を出て、前の道を北の方向に少し歩くと、トリニティ・カレッジのキャンパスに突き当たる。大学の入口は少し西側にあるので、さらに200メートルあまり西に歩く。すでに午後3時半をまわっていたので、入り口にいた学生さんに門限などがないか確認したが、5時半ころまでは大丈夫という。入り口のある校舎を突き抜けて、フェローズ・スクエアという広場に出た。広場の北側にはオールド・ライブラリーという図書館の建物がある。この中のロングルームというところに「ケルズの書」というケルト芸術の最高峰とされる世界的な貴重図書が展示されている、というので、大勢の人たちの待ち行列ができている。これも事前のインターネット予約が推奨されていて、当日からの入館はなかなか困難だ。当然私たちはあきらめる。Photo_2
 ダブリンのトリニティ・カレッジは、アイルランド最古の国立大学である。イングランド女王エリザベス1世により1592年創立され、400年以上の歴史と伝統があり、アイルランドでの最高の地位と権威を持つ学府である。私になじみのある分野では、1951年物理学の教授アーネスト・ウォルトンが、ノーベル物理学賞を受賞している。加速器を改良して、陽子をリチウムの原子核に衝突させて、ヘリウムの原子核に変換させることに成功した。世界最初の人工的原子核反応であった。他分野では、すでに触れたが、ここの卒業生であったサミュエル・ベケットが1969年ノーベル文学賞を受賞している。政治関係では、保守主義の先駆的思想家エドマンド・バークがいる。作家のオスカー・ワイルドも世界的に有名だ。政治家では、アウンサン・スーチーがここで学んだ。卒業生の有名人は、枚挙にいとまがない。

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ブリテン島周遊クルーズ (43)

国立考古学・歴史博物館
 美術館の裏側に、国立考古学・歴史博物館がある。ごく近くのはずなのに、建物の出入口の位置関係なのか、思ったより長く歩いて、ようやく博物館に入った。ここも入館料は無料だが、オーディオ・ガイドは有料で、しかもごく一部の宝物室のみとのことなので、今回はやめた。
Photo
 フロアーの構成は、周囲を取り巻く回廊形式の展示室があり、さらに特集コーナーのように中央部に展示がある。そのような構成のフロアー2階分に、ぎっしり展示がされている。ここもじつくり鑑賞したら、まる1日でも足りないだろう。
 考古学では、やはり紀元前3,000年近くの太古の遺物なるものが展示されている。旧石器、新石器、初期の鉄器などが多数ある。少し気になったこととして、日本、中国、韓国など東アジアと比べると、青銅器・銅器がほとんどなく、かなり早くから鉄器が普及したような説明になっている。
 中世以降になると、さまざまな装飾品、宝物が出てくる。織布や刺繍などもある。
 歴史展示については、中世以降が中心である。歴史の詳しい説明というより、各時代の物品をできるだけ示して、具体的、視覚的に訴えようとする方針らしい。ヨーロッパらしい、さらにはノルマンらしい、アイルランドらしい品物を見るという観点からは、なかなか充実した展示がされていると思う。

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ブリテン島周遊クルーズ (42)

アイルランド国立美術館のカフェテラス
Photo 絵画の鑑賞というのは、なかなか体力を消耗するし、頭脳や神経も疲労する。新館エリアの真新しいカフェテラスでひと休みした。ここの若い女性店員は、日本人に負けないくらい良く働く。コーヒーを注文すると、まずコーヒー豆を挽く機械をスタートし、機械が挽いている間に陶器製のカップを用意して顧客から勘定を済ませる。豆が挽き終わったのを確認して焙煎して、客に引き渡す。ひとりで品物の準備・引き渡しとお勘定を手際よく迅速にこなしている。日本では当たり前のように見ているが、外国にきてこのようなきびきびした動きを心地よく見るのは珍しい。
 大きな器に入ったコーヒーは、これまた美味で、疲れが取れたような気がした。明るく清潔感のあるカフェテラスは景観にも優れ、かなり混んでいたが、とても快適であった。

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ブリテン島周遊クルーズ (41)

アイルランド国立美術館 イェイツ一族の活躍
 今回鑑賞した展示の中で、私がとくに興味をひかれたのがアイルランドの代表的詩人ウィリアム・バトラー・イェイツの一族の、エピソードと絵画作品である。Photo
 ジョン・バトラー・イェイツ(1839-1922)は、画家であった。彼は4人の卓越した子を持った。
 長男がウィリアム・バトラー・イェイツ(1865-1939)である。彼は父の薦めから、当初ダブリンのメトロポリタン工芸学校に美術を学んだ。しかし彼の才能は文芸において開花し、ロマン主義、神秘主義、モダニズムを吸収し、アイルランドの文芸復興を促した世界的に知られる詩人となり、1923年ノーベル文学賞を受賞した。
 二人の娘スーザン・メアリー・イェイツ(1866-1949)と、エリザベス・コルベット・イェイツ(1868-1940)は、エベリン・グリーソンとともに、1902年に工芸組合ダン・エメール・ギルドを創設した。
Photo_2 次男ジャック・バトラー・イェイツ(1871-1957)は、イラストレーターとしてスタートし、26歳ころから水彩画を、39歳ころから油彩画を発表した。西アイルランドの生活を初期の主要テーマとして写実的な作品を描いていたが、成熟するにつれて表現主義的な抽象的作品を多数創作するようになった。
 アン・イェイツ(1919-2001)は、ウィリアム・バトラー・イェイツの娘である。ロイヤル・ヒベルニアン・アカデミーに学び、1930年代からAbby Theatreの劇場デザイナーを勤め、やがて主任デザイナーとなった。1940年代から画業にもどり、1943年の第一回リビング・アート展覧会に出展した。Photo_3
 展示では、父ジョン・バトラー・イェイツの「自画像」を観ることができた。
また弟ジャック・バトラー・イェイツの作品は、ひとつの部屋を借り切って10点以上が展示されていた。ヨーロッパ絵画が、印象派、後期印象派、キュビスム、フォービズム、表現主義、などと変遷していた時代を背景に、彼が描いたヴァラエティに富む作品群は、なかなか興味ある印象深いものであった。
 これらの他に、オランダの画家だが、数日前訪れたアムステルダムのダム広場を描いた絵もあり、興味深かった。

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ブリテン島周遊クルーズ (40)

アイルランド国立美術館 フェルメールの「手紙を書く婦人と召使」
 ガイドブックによると、もうひとつ見落とせない展示作品としてヨハネス・フェルメール「手紙を書く婦人と召使」があげられている。
Photo ヨハネス・フェルメールは、17世紀のバロック期を代表するオランダ人画家である。1632年、デルフトに絹織物職人でパブ兼宿屋を営む父のもとに生まれた。彼の生涯の詳細はあまりわかっていないらしいが、画家のギルドであった聖ルカ組合に親方画家として早くから登録され、以後組合の理事を務めていたことから、生前に十分認知され高い評価を得ていた画家であったと推測されている。しかし、おそらく寡作であり、残っている作品数がごく少数であるため、18世紀になると絵画の世界から忘れられていたらしい。
 フェルメールの画風は、映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。19世紀になって、それまで絵画は理想的に描くもの、非日常的なもの、というのが主流であったのが、それに反旗を翻して民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーが現れた。このような時代背景の中で、写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が再び人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなった。
 「手紙を書く婦人と召使」を眺めても、画面全体の緊密な平衡感覚、光と登場人物および静物との対応関係、静止した対象を描きながらも時間の流れが自然に伝わるような計算されつくした巧みな画面構成、などとかなり小さな絵でありながら表現世界のひろがりは大きく、素人目から観ても見事な絵であると思う。

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ブリテン島周遊クルーズ (39)

アイルランド国立美術館 カラヴァッジオの「キリストの逮捕」
 すでに失われたと永らく思われていたカラヴァッジオの「キリストの逮捕」が1990年、ダブリン市内のイエズス会の施設で見つかり、ここアイルランド国立美術館で公開されることになり、当時大きな話題になった。Photo
  この絵の周辺は、さすがにつねに多くの観衆が集まっている。ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは、ルネサンス期のあと16世紀末から17世紀初めのバロック初期のイタリア人画家で、カラヴァッジオの通称で知られている。ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアで活動した。生前から人気が高く、注文主やパトロンに困ることもなく、経済的にも余裕があったはずだが、奇行が多く「2週間を絵画制作に費やすと、その後1か月か2か月のあいだ召使を引きつれて剣を腰に下げながら町を練り歩いた。舞踏会場や居酒屋を渡り歩いて喧嘩や口論に明け暮れる日々を送っていたため、カラヴァッジョとうまく付き合うことのできる友人はほとんどいなかった」との記録がある。あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く緻密な手法と、光と陰の明暗を明確に描き分ける表現は、ヨーロッパのバロック絵画の形成に大きな影響を与えたという。

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「十月歌舞伎」松竹座

 市川齊入と市川右團次の襲名披露を兼ねた十月歌舞伎公演が大阪松竹座で開催された。京都南座が改修工事でながらく休館していることもあって、久しぶりの歌舞伎鑑賞である。Photo
 最初の演目は、華果西遊記(かかさいゆうき)である。三蔵法師・孫悟空・猪八戒・沙悟浄の天竺をめざす一行が、西梁国という女人だけの国をおとずれたときに、蜘蛛の魔物に襲われるが、機知と武勇と忍術に秀でた孫悟空の活躍で三蔵法師をみごと救済する、という冒険物語である。孫悟空はこの日お披露目の市川右團次が、孫悟空の分身の子役をやはりこの右團次の実子右近が演じる。
 市川右團次つまりもと右近は、私はこれまであまり知らなかったが、最近テレビの人気ドラマ「陸王」に出演して、すっかりなじみになったベテラン俳優である。手品のような細かい芸、きびきびしたアクション、そして子役の右近とともに天井からのロープに吊られての空中浮遊と、なかなかもりだくさんの演出が取り入れられている。軽妙でコミカルな味もあって、楽しい雰囲気の舞台となっている。全体として、美しい舞台となっている。
 つぎは二代目市川齊入と三代目市川右團次の襲名披露の口上である。実はこの二つの名跡は、幕末から大正時代にわたって上方歌舞伎を牽引した名優初代市川右團次が淵源だそうだ。天保末期に生まれ、嘉永期に初代右團次として早替わりや宙乗りなどのケレンを得意とし、立役、女形、老役、敵役など幅広い役をこなす一方、舞踊も得意とした、とても芸達者な役者であったらしい。彼は明治42年、60歳代半ばになって長男に二代目右團次の名跡を譲り、自らは初代市川齊入を名乗るようになった。
 右之助改め二代目市川齊入は、初代市川齊入の曽孫にあたる。右近改め三代目右團次は、日本舞踊飛鳥流家元の飛鳥峯王の子として大阪に生まれ、少年時代から上京して三代目市川猿之助の部屋子となって修行しつつ慶応義塾大学法学部を卒業、昭和の終わりころから活躍している。そして今回、右近を実子に継がせて、その御披露目もこの日同時にした。まだ幼いが声が大きく、仕草が可愛くて役者としての華が期待できそうである。
 次の演目は「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」という世話物である。江戸の火消し組「め組」の鳶仲間と、相撲取のあいだに起こった文化2年(1805)の実話にもとづき、明治時代に竹柴基水の作で上演されたものである。力士と鳶の意地の張り合いから大勢を巻き込む大喧嘩となるが、最後は火消し組を管轄する町奉行と相撲を監督する寺社奉行の仲介によって収まったという話である。め組の頭辰五郎を市川海老蔵が、力士のリーダー四ツ車を市川右團次が、それぞれ演じている。右團次のここでは重厚な演技が、そして海老蔵の美貌とよく通る声が印象的である。
 最後は、海老蔵が主演する新作歌舞伎舞踊「玉屋清七」である。スクリーンいっぱいに花火を映し出し、ラストシーンでは実物の花火を舞台上で披露し、さらに観客席にまできらびやかな紙吹雪をまき散らす斬新な演出である。観衆の多くが、すっかり堪能した様子であった。
 いよいよ今年の歳末から京都南座が再開する。今後の歌舞伎に、一層期待したい。

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ブリテン島周遊クルーズ (38)

アイルランド国立美術館
 ダブリンの2日目である。昨日で要領がわかったので、迷わず港のタクシー乗り場の待ち行列に並び、アイルランド国立美術館までタクシーで行った。Photo
  この日の運転手は、インド系なのか色黒の人で、英語がアイルランド訛りでなく、私たちにはわかり易い発音をする。聴くと、アメリカに14年間過ごして学校に学んだことがあり、現在40歳だという。アイルランドのギネス・ビールの話をすると、アイルランドではとくにグレート・ワー(第一次世界大戦)以前は良い水が少なく、労働者は相対的にビールで喉を潤すことが多かった。そういう事情を知らずに、たとえばアメリカ人は「アイルランドの飲んだくれ」などと罵った。ギネス・ビールは、ドラフト(生ビール)でもラガー(熱処理済)でもなく、製造時に二酸化炭素をあまり発生しないような製造法を工夫して作っているので、美味しいし悪酔いしにくい、などと熱心に解説してくれた。技術内容はよくわからないところもあるが、アイルランドのビールに対する彼の深い愛情はよく理解できた。また、たまたまそのタクシーには、日本製のダッシュボードやカー・エレクトロニクスが搭載されていて、速度や温度などの日本語での表示を、わざわざ見せてくれた。Photo_3
 アイルランド国立美術館は、鉄道王であったアイルランド人ウィリアム・ダーガンが、1853年5月にダブリンで産業展示会を開催し、その収益とダーガンが所有していた絵画コレクションを寄贈して、1864年竣工・オープンした。そのウィリアム・ダーガンの銅像が、建物の正面にそびえている。開館時は120点程の所蔵品であったが、1901年にミルタウン伯爵夫人が約200点の絵画を寄贈するなど徐々に増加して、現在は約1万点を所蔵している。
 美術館に着いて、いつものようにリュックサックを預け、ここでは入場無料なのに英語版だがオーディオ・ガイドがついていて、借りて館内に入った。
 2000年のミレニアムを記念して大改装がはじめられ、ようやく2016年完成して、現在は旧舘と新館とで構成される。展示会場の構成はかなり複雑で、うっかりしていると自分がどこにいるのかわからなくなる。そんなときは、館内の所員に尋ねると、わざわざ同行して案内してくれた。ここの人たちも、とても親切である。

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サムエル・モリソン『アメリカの歴史』第3巻

 アメリカの1901年から1963年、アメリカ的な「進歩的革新主義」の時代、第一次世界大戦、大恐慌とニューディール、第二次世界大戦、そしてついに世界最大の経済・軍事国家となって、ソ連・中共の共産主義と冷戦で対立する著者の執筆時点まで、大統領でいうと、第26代セオドア・ローズベルトから第35代ジョン・F・ケネディまでの時代である。
 南北戦争の荒廃から復興する過程で、アメリカは科学技術の発展、工業化の進展を成し遂げ、経済的に大きく成長した。たとえば「鎖国」により外国とかなり途絶していた日本が、ほんとうに遅れをとったのは、さほど遠い昔ではなく、まさに19世紀前半ごろからのことである。明治初年に岩倉遣欧使節団に参加した日本人が、西欧には約30年で追いつくことができるだろう、と判断したのは実に正鵠を射ていた。
 そんななか、アメリカは、経済・社会・行政・財政において、さまざまな歪が顕在化するようになった。第26代大統領セオドア・ローズベルトは、それを社会主義のようにひっくり返してやり直すのではなく、「建設的に」政治の力で規制・是正することを目指した。このセオドア・ローズベルトと、それに続くウィリアム・タフト、ウッドロウ・ウィルソンの3人の大統領の時代は、進歩的保守によるアメリカ的革新主義の時代であった。この時点でも、ハミルトンの集権(=連邦主義)とジェファーソンの州権(=分権主義)とが主要な対立軸であった。
 セオドア・ローズベルトは、国内では大企業のトラストを規制し、国外に向けては世界の繁栄のために尽力した。その間、いずこも同様らしく、無責任なあるいは悪意のメディアの非難に晒されて苦労することが多々あった。
 1900年から、大恐慌がはじまる1927年の間は、政治はあまり変わらない一方で、社会的には大きな変化(=前進)があった。アメリカは、世界最高レベルの経済力を達成し、軍事的にも巨大パワーとなり、「世界を民主主義によって安全にする」十字軍となって、ヨーロッパを離れたのである。
 ウィルソンは、ハイチとメキシコに武力行使を行ったが、成果はなかった。第一次世界大戦に対しては、はじめは中立を目指したが、やがてドイツのUボートによる公海上の襲撃をうけて、議会に反対派が多い中、連合軍に大きく遅れて参戦した。結局、第一次世界大戦は連合軍が勝利したが、ウィルソンの理想論的な講和条約案は、なによりもアメリカ議会の賛同を得られず、案に含まれる国際連盟に、発案者のアメリカ合衆国が参加できない、という苦い結果となった。
 ウィルソンのあと、凡庸な共和党大統領3人の時代があり、1933年からフランクリン・D・ローズベルトが大統領に就任した。おりしも大恐慌のさなかで、経済復興のためにF.D.ローズベルトは、ニューディール政策を強力に推し進めた。しかし、ニューディール政策のいくつかは最高裁判所により憲法に違反するとして否認された。それでもこの思い切った革新的な政策は、第二次世界大戦後のF.D.ローズベルト亡き後になっても、アメリカ経済にかなり大きな貢献を提供し続けた。第二次世界大戦の勝利、そのあとの朝鮮戦争と、アメリカは膨大な戦費を費やしたが、すでにアメリカはそれに耐えうる経済力をつけていた。
 第二次世界大戦の後は、アメリカにとって最大の外交問題はソ連・中華人民共和国などの社会主義国との冷戦となる。
 また、植民地が独立する場合、1945年以前は植民地の宗主国側が派遣した植民地指導者が独立を主導して独立後統治したが、1945年以後は植民地の原住民側が反抗して独立し、原住民側が独立後統治するものが主流となった。そこでは民衆も指導者も「国民国家」の経験も知識も乏しかった場合が多く、当然独立後は難渋・混乱した。
 アメリカ史の、とくに19世紀半ば以降について、アイルランド系の移民の活動が注目される。彼らは、アメリカ創生者たるプロテスタントではなくカソリックであり、プロテスタントが主流のアメリカ政府に対して批判的になりがちで、もともとイギリスに反感が強く、結束も強かったようだ。現在、日本で無責任なメディアや「識者」たちのみならず、経済学者の一部までもが、労働力不足への対策として、移民の導入を訴えている。「多様性」を増してそれを尊重することが国力の増強につながるなどと、楽観的あるいは無責任な希望的観測もある。アメリカの黒人奴隷やアイルランド系移民などの歴史的経緯を考えても、移民の増強策は、私はリスクが大きすぎると思う。
 また、アメリカは建国以来、議会制民主主義で大統領制をとったが、議会との調整・妥協はつねに大統領を悩まし続けていた。日本では、たとえば橋下徹氏が「首相公選制」を提唱するように、選挙で大統領を選出する大統領制では大統領が圧倒的な権力を掌握しているかのように思いがちだが、実際は飯尾潤氏がいうとおり、むしろ議院内閣制の首相のほうが権力は大きいようだ。
 私は、アメリカの歴史については、これまで中尾健一『新大陸と太平洋 世界の歴史11』中公新書、1975、ポール・ジョンソン『アメリカ人の歴史』全3巻、共同通信社、2001、を読んだのみで、詳しい通史は未読であった。ポール・ジョンソンの書はモリソンの半分程度の大部だが、先史時代の記述が薄いこと、タイトルのとおり主に指導者の列伝のような記述なので、史実そのものの記述と解釈についてはこのモリソンの書に比べると少ないことなどから、今回の読書は非常に興味深く勉強になった。
 アメリカという、比較的他の国々から独立して独自に発展したように思える国においても、その歴史的経緯とそのなかの葛藤、その襞の深さには、十分に多彩なものがあり、すくなくとも私たちが高校などで学ぶ程度のごくごく単純な知識と理解では、現在のアメリカについて理解が到底おぼつかなく、安物のメディアやいいかげんな「識者」に騙されてしまう懼れがきわめて高いと思った。

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ブリテン島周遊クルーズ (37)

ダブリンのパブ
Dunnes 3つの観光スポットをめぐってきて、夕方になり、城も教会も博物館も閉まる時刻になったので、ひと休みにビールでも、ということになった。朝タクシーの運転手から、テンプルバー地区は値段が高いが、少し外れたグラフトン・ストリート近辺が値段も手ごろで内容も良くお薦めだよ、と聞いていたので、グラフトン・ストリート方向に歩き、そのすぐ脇のキング・ストリートのDunnesというパブに入った。道路にはみ出してテラス席があり、その店舗の雰囲気が良さそうだったからである。
 さっそくGuinnessビールで、1日の観光無事終了を乾杯した。おつまみにとったタラの揚げ物も、なかなか美味であった。絶好の晴天と、この地方では例外的という暖かい天候のなか、かなり長時間しっかり歩き回ったので、すっかり喉が渇いていた。このビールは喉と腹に滲み入った。Dunnes_2
 店内の雰囲気はとても良く、地元の人らしい客も、カップルで、小グルーブで、あるいはひとりで、それぞれ静かに夕方のひとときを憩っているようであった。店員も穏やかで優しく、ダブリンの印象が、朝のタクシー運転手に加えてまたひとつ良くなった。
 店でタクシーの捕まえ方を聴くと、さいわい店のすぐ近くにタクシー・スタンドがある、と。ほろ酔いの良い気分のまま、タクシーで港まで帰った。このときのタクシー運転手も、とても感じの良い人であった。

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サムエル・モリソン『アメリカの歴史』第2巻

 アメリカの1815年から1900年、独立戦争後の対英関係修復、国内政治の整備、インディアン政策、ジャクソニアン・デモクラシー、南北戦争とその復興までの時代、大統領でいうと、少し重複して第2代ジョン・アダムズから第24代グロバー・クリーブランドまでの時代である。
 イギリスとインディアンに対する戦いのヒーローとして輝かしく登場した英雄、第7代大統領アンドリュー・ジャクソンは、ジャクソニアン・デモクラシーをもたらした。ジャクソニアン・デモクラシーとは、エスタブリシュメント層や啓蒙的知識人層ではなくアメリカ人民の国民国家を基盤にして、かつ普遍的な価値のアピールではなく、アメリカ市民個々人の平等と尊厳への強いコミットメントに特徴づけられる。そして合衆国政府の役割は、国内のアメリカ人民の物理的な安全と経済的な安寧を保障することによって、国家の運命を成就させることにある、とする。アメリカでは、連邦─州─地方の結束が強まっていった。政治構造としては、急進vs保守、連邦主義vs州論、個人の忠誠vs地域社会の責任、の対抗関係が軸となった。
 モリソンは、アメリカのデモクラシーの預言者はトーマス・ジョンソンであり、英雄はアンドリュー・ジャクソンであり、大司祭はラルフ・ウォルドー・エマソンである、と述べている。エマソンは、たとえ自由な制度があったとしても、本人自身が物理的にも精神的にも自由でなければけっして解放されないとし、憎悪と偏見を捨てて、デモクラシーの帰結を考え抜くことが必須であると断言する。これは、現代にもそのまま通用する警告である。
 南北戦争は、奴隷制を否定して黒人奴隷の解放を目指したが、その実現は容易なことではなかった。人権や人道の見地から黒人奴隷の問題を指摘・糾弾することはたやすいが、解放された黒人たちが、生業にありつき、自立を実現することは容易ではなかった。一部の黒人奴隷を除いて奴隷解放を自覚的に望む黒人奴隷はごく少数で、多くの黒人奴隷が南軍に従軍した。1839年のアミスタッド号事件では、奴隷運搬船で暴動を指揮した黒人奴隷サンケは、逃亡に成功してアフリカに帰ると、今度は奴隷貿易商として身を立てた。アフリカのなかでは、部族同志が頻繁に戦い、勝者が敗者を奴隷にすることは、ヨーロッパ人の介入よりはるか以前から常態であった。事情を理解していたリンカーン大統領は、けっして最初から奴隷廃止を主張しなかった。結局、黒人問題は、緩和され改善されてはいるものの、現在にいたるまで解決はしていない。
 黒人奴隷の場合は、白人が形成した社会構造に順応する意志と指向性があった。しかし、インディアンは、白人の社会習慣、文化を全面否定して、けっして同化を望まなかった。その結果、インディアンの多くは白人と戦って殺され、生き残った人たちは手狭な居留地に収容されて生活することになった。人道的・人権的に問題を指摘するのはたやすいが、現実の解決は難しい。もとをたどれば、ほとんどの白人たちは、アジアの一部からヨーロッパに侵入・侵略した人種たちの子孫である。誰がどこに権利があるのか、議論は単純ではない。
 アメリカの西部開拓には、大陸横断鉄道の整備が甚大な貢献をした。しかし巨大な鉄道会社は、一方で賄賂・利益誘導をはじめ、さまざまな悪の張本人でもあった。アメリカの発展には、これら民間の活力と、それを支える膨大な移民、そして奴隷の、いずれも政府外の力の貢献が著しく大きい。
 ヨーロッパも同様なのだろうが、日本と著しくちがうのは、政治・社会・文化の全体にわたって、宗教、具体的にはキリスト教の影響がとても大きいことである。政治理念でも、初等から高等にいたる教育でも、アメリカでは宗教の存在がとても大きいことは、私たちもよく理解しておく必要がある。
 私がこれまで漠然とアメリカについて持っていたイメージが、実に貧しく表面的かつ断片的であったことを思い知った。

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ブリテン島周遊クルーズ (36)

聖パトリック大聖堂 ジョナサン・スウィフト
Photo クロムウェルのイングランド国教会弾圧に抵抗した祖父を持ち、新天地を求めてアイルランドに移住した父のもと、その父の死後にダブリンで生まれたのがジョナサン・スウィフト(1667~1745)であった。彼が生まれてすぐ、母は彼を置き去りにして家を去ったため、彼は伯父のもとに育てられた。母の愛情を知らなかったことが彼に異様な女性関係を、祖父の反骨精神が彼の思想と行動を導いたといわれている。優秀な少年は19歳でダブリンのトリニティ・カレッジを修了し、ロンドンに出て、辣腕の外交官としてイングランド政界に活躍していたウィリアム・テンプルのもとで、秘書のような立場で働きつつ、一流の知識人であったテンプルから、その膨大な蔵書とともにさまざまなことを学んで、ダブリンに帰った。

Photo_2 30歳になるまでにアイルランド国教会で司祭の職を得たが、33歳のときテンプルが亡くなると、ジョナサンはアイルランドの狭い世界よりロンドンでの政界への進出を図った。35歳でダブリンのトリニティ・カレッジから神学博士の学位を得たのち、著作活動を始めた。彼は、ロンドンに何度も滞在し、トーリー党のブレーンとしても活動し、アイルランドに落ち着くつもりはなかったようだ。結局政界進出はならず、ダブリン聖パトリック大聖堂の首席司祭に任命されて、アイルランドに大部分の時間を過ごすことになった。著作活動は増え、50歳を過ぎたころから、それまでの政治生活での経験を反映した、批判と皮肉とエスプリに満ちた「ガリバー旅行記」を発表した。
 彼は何人かの女性との交際を経験したが、遺言により、その中のひとりで8歳の少女時代から交流があり、生涯にわたって親しく接したステラとともに、この聖パトリック大聖堂の身廊に埋葬された。
 ほんとうはイングランドで政治の道に進みたかったようだが、聖パトリック大聖堂の首席司祭という高い地位を得て、それまでの半生の怨念のはけ口のようにして後世に長く読み継がれる文学史上に不朽の名作を残した。ジョナサン本人の気持ちとしては、失望が大きかったのか、それとも達成感が大きかったのか、非常に興味深い人物ではある。

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サムエル・モリソン『アメリカの歴史』第1巻

 アメリカの先史時代から1815年、すなわち独立戦争に次ぐ2回目の対英戦争まで、大統領でいうと、初代ジョージ・ワシントンから第4代ジェームズ・マディソンの途中までの時代である。
 まずこの時代にかんしては、植民地という施策に対する評価について考えさせられる。新大陸たる北アメリカ大陸の現在のアメリカ合衆国の大部分は、イギリスの植民地であった。膨大な面積を持ち、さらに気候条件にも恵まれたため、開拓するべき余地が莫大にあった。
初期の植民地アメリカを経済的に支えたのは、タバコと砂糖であった。イギリスは、同時期のカナダに対するフランスなどよりは相対的に多数の植民者を派遣したが、それでも圧倒的に不足し、周辺ヨーロッパからの移民を歓迎した。それでもなおまったく不足したことが、アフリカから大量の黒人奴隷を導入した理由であった。その事情は、カリブ海や南アメリカでも同様であった。なお、カナダの開発・独立・発展がアメリカに比して遅れたのは、立地環境条件の他に、フランスでは入植に投入できた人口が圧倒的に少なかったのである。
 植民当事者たちの艱難辛苦は、凄まじいものであった。先住民たるインディアンから襲われて命を落としたり、気候異変や虫害による凶作などで餓死したりと、おびただしい屍を数えた。「植民地」と聞くと、植民地主義のこと、その政治倫理的なことしか、われわれ普通の日本人は想定しないが、実際に現地に入植した人々の苦労や業績にも正しい評価をする必要を考えさせられた。
 そしてアメリカが英国から独立するについては、30歳代後半にイギリスからアメリカに渡ったトマス・ペインという卓越した思想家が注目に値する。田舎の職人の子として生まれ、グラマー・スクールに学んだだけで高等教育は受けていないが、アメリカ独立革命と、さらにその後のフランス革命の理論的指導者として、現実の歴史の進展に多大な足跡を残した。もちろんマルクスなどは、その意味でこの人に匹敵するだろう。良し悪しはともかく、このようなレベルの政治思想家は、わが国には現れなかったのではないか。ただ、その「思想」あるいは「思想的プレゼンテーション」が、現実の歴史の進展に大きな影響をもたらす一方で、その思想の中身の独創性や新規性が、後世大きな議論を引き起こすことはなかった。その意味では、思想家というより、ある種のアジテーターだったのだろうか。そういう意味では、わが国明治維新期の吉田松陰などに似た位置づけなのだろうか。直接トマス・ペインの思想の中身に触れていないので、私にはなんとも言えない。
 アメリカ合衆国は、入植以来すでに育み保持していた「自由」を「維持・保持」するために、イギリスに対して独立戦争をしたのであって、新たに自由を求めて独立を望んだのではない、とモリソンは理解する。これは、私には新鮮な解釈であった。そういうアメリカ人からみると、フランス革命が、いかにも胡散臭い危険な暴動に見えたのも当然だったかも知れない。日本には、いまだにフランス革命を自由・平等をもたらした栄光の金科玉条のようにみる人たちが多いが、私はエドマンド・バークやアメリカの政治家たちに賛同する。
 独立したアメリカの議会が、有産者=見識の代表として上院を、無産者=大衆の代表として下院を設計した事実は、注目に値する。現在の日本について考えると、参議院はやはり不要だろう。
 アメリカ創世記のリーダーたちの奮闘を顧みても、政治において、理性的判断のみに傾注することの大いなる危険性(典型的にはマルクス主義)と、経験的判断に依存すること(通常の議会制民主主義)の限界を思う。所詮、現実の政治にすべての国民をいつも満足させることはできないのである。少しでもベターな、よりマシな政治を追求し続けることこそが必要であり、またそれしかないのだろう。
 そして、アメリカの歴史を貫く2つの政治思想の流れが紹介されている。ジェファーソン流民主主義とハミルトン流民主主義である。ジェファーソン流民主主義は、商業・金融およびその基盤たる都市を、腐敗しがちで信用できないものとし、ヨーマン(=自立農)が農村を基盤として主導する共和主義を目指すべきとする。総じて当時のイギリス的な議会制に反発し、初期のフランス革命を支持する。もっともナポレオン以降のフランス革命には断固反対する。州権を重視し、個人権を尊重し、連邦の権限は最小限を是としている。これに対して、ハミルトン流民主主義は、都市の商人・金融界を尊重して経済成長を重視する。州権を制限して連邦権の強化を図る。この2つの流れは、それぞれ変遷しつつも、現代にいたるまで綿々と続いているようである。
 私は、これまでアメリカが独立する以前の歴史について、詳しい叙述を読んだことが無かったので、非常に印象深い読書であった。

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