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2018年11月

10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (1)

 兵庫県立美術館で「10年ひとむかしと人は言う」との、少しおもしろそうなタイトルの企画展が開催されたので、大型連休の初日を神戸に出かけた。
 ちょうどこの日から「ジブリの大博覧会」という別の特別展が始まることもあって、美術館のエントランスはかなりの人だかりであった。ところが私が入場した企画展の展示場は非常に空いていて、肩透かしのようであったが、その分ゆったりと快適に鑑賞できたのであった。
 この企画は、兵庫県立美術館所蔵品を、大正7年(1918)から10年おきに、平成20年(2008)まで、のべ100年間にわたってそれぞれの10年おきの代表的な美術作品を展示する、というものである。

2008年・1998年
Photo
 展示の順序は、現在に近い平成20年からはじまり、順次遡って大正7年が最後となっている。冒頭の平成20年(2008)も、すでに10年も昔ではある。この年のできごととしては、2月のアメリカの狂牛病騒動とインドネシア・スマトラ島の大地震、5月の中国の大地震、北京オリンピック、9月のリーマンショック、そして年末のバラク・オバマ氏の大統領当選などがあった。Photo_2
  展示作品で興味深いのは、大岩オスカールの「雪雨」(2002)が、雪があるような寒い季節なのに、なぜか嵐のようにさまざまな家屋・車・動物などが吹き飛ばされ、洪水にながされる悲惨な大きな風景画である。この2008年の内外で発生した大地震や、少しのちの2011年の東日本大地震を予見したかのような絵である。やはり大岩オスカールの「www.com」(2003)は、これもまた5年ほど後の狂牛病騒動を予見したかのような絵である。
 平成10年(1998)のコーナーは、この展覧会でもっとも展示が少なく、この年に亡くなった高松次郎のインスタレーションと絵の2点のみである。この年には、長野冬季オリンピック、明石海峡大橋開通、米英のイラク空爆などがあった。当時私は、製造業で働いていたが、長期化した不況であまりあかるい雰囲気ではなかった。

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吉例顔見世11月興行 南座 (下)

11月興行夜の部
 夜の部は午後4時半から9時前までに、4つの演目があった。
 最初の演目は「寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)」である。源頼朝の寵臣となって富士山麓の巻狩りの総奉行を仰せつかった工藤祐経は、富士山を間近に見上げる屋敷で祝宴を催していた。その宴には大勢の源氏家臣たちの縁者や遊女たちが来ていたが、そのひとりに舞鶴がいた。舞鶴は源氏の勇将朝比奈義秀の妹であった。舞鶴は、祐経に二人の若者を連れてきて紹介する。それはかつて所領争いから祐経が殺害した河津三郎の子の曽我十郎・五郎の兄弟であった。二人は祐経を父の仇として仇討を実行しようとするが、頼朝の主宰する重要行事の寸前であり、今すぐ騒ぎは起こすべきでないと窘められる。時は正月でめでたい時でもあり、巻狩りの身分証明書である狩場の切手をもらった兄弟は、憤懣やるかたないものの諦めて立ち去る。このあと仇討実行の日を迎えるのだが、この舞台では新年の祝賀宴での敵同士の対面だけである。工藤祐経を片岡仁左衛門、和事の十郎をいつもは女形を演ずることが多い孝太郎が、荒事の五郎を愛之助がそれぞれ演じている。仁左衛門の工藤祐経は悪役だが、上座におさまって穏やかに話すだけで、さほど悪辣さを強調するでもなく、顔を真っ赤にして全身を震わせて怒り狂う愛之助の演技が見ものということだろう。河竹黙阿弥により台本が整理され、明治36年(1903)3月から演じられている現行の舞台では、正月などめでたい時に演じられることも多いという。Photo
 次は、二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎の親子三代が同時に襲名を披露する口上である。藤十郎が司会を勤め、仁左衛門がエピソードを紹介し、三人が順次口上を述べた。私たちが子供時代にテレビで見ていたころ青年期であった染五郎がこうして白鸚になり、6年前に舞台セリから奈落への転落事故に遭難して瀕死の重傷を負って回復した染五郎が幸四郎となり、その子でまだ13歳の中学生が背も高くなりすっかり歌舞伎役者らしくなってきて染五郎を襲名した。昼の部の父幸四郎との連獅子の競演も実に見事であった。とてもめでたいことである。
 三番目の演目は、幸四郎の弁慶と染五郎の義経による勧進帳である。無断で上皇から官位を得たことなどで兄頼朝の怒りを買い、奥羽の藤原氏のもとへ逃避行中の義経一行が、山伏装束で加賀国安宅の関に来る。すでに義経一行が山伏姿で奥州に向かっているとの情報が関守の富樫左衛門には届いていて、山伏はすべて捕らえて関を通過させないことになっていた。弁慶を先頭に関に来た義経一行は、俊乗房重源の東大寺再建の勧進をしていると富樫に説明する。富樫は、それなら勧進帳を読んで聞かせろ、と。弁慶は機転と知恵で偶然持っていたまったく無関係の巻物を勧進帳に見立てて、空で見事に朗読して富樫に感銘を与える、という有名な物語である。勧進帳読み上げの場面に続いて、剛力に扮した義経の嫌疑を晴らすため、主である義経を弁慶が金剛杖で打擲する場面、無事関の通過を認められて富樫たちが退いたあと、義経に弁慶が無礼を詫びる場面、そして再び登場した富樫から酒を振舞われた弁慶が、壇之浦の合戦に因んだ延年の舞を披露する場面、最後に先に関を去った義経を追って、飛び六方で見得を切りながら花道を去っていく場面まで、いつもながら見どころの多い舞台で、すっかり楽しめた。なにより襲名したばかりの幸四郎が、体の動きといい声の通りといい、まさに油の乗り切った素晴らしい熱演であった。
Photo_2 最後は「鴈のたより」という上方狂言の演目である。愛妾司を連れて若殿前野左司馬が有馬に湯治に来ていた。司はたまたま宿の裏手に髪結いを営業する五郎七が気になっていた。その様子に嫉妬した左司馬は、偽の恋文を使って五郎七をおびき寄せ辱めようとした。そこへ左司馬の家老高木治郎太夫が来て、偽恋文の企みを暴露して五郎七の窮地を救う。実は五郎七こそが元は武士であり、今は遊女に身を落としていた武士の娘司の許嫁であったことが判明する。五郎七を演じる鴈治郎は、いつもながら安心して見ていられる芸達者である。いささかファンタジー的でコミカルな面もあるこのような舞台には、最適の役者だろう。司を演じる壱太郎も落ち着いた美しさで絵になる。
 今回は、久しぶりの南座を満喫した。南座が戻ってきてくれて嬉しい、というのが率直な感想である。

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吉例顔見世11月興行 南座 (上)

11月興行昼の部
 京都南座は、2016年1月から耐震補強工事を含む全面的な改修工事が行われ、ほぼ3年ぶりにこの11月新開場となり、待望の顔見世興行が開催された。通常は、年末の12月のみの興行だが、今年は新装開場と南座創設400周年記念ということで、11月と12月の2か月にわたって顔見世興行が執り行われることとなった。Photo
 慶長8年(1603)京の市中で出雲阿国がかぶき踊りをしたことが歌舞伎のはじまりとされ、芝居町として発展してきた京四条河原にこの南座が設置され、以後400年にわたり歌舞伎エンターテインメントの中心であり続けたことによる、とされる。
 この度は私も待望の新開場であり、待ちかねた顔見世でもあったので、11月興行を昼の部と夜の部の両方を、さらに12月興行の夜の部と、合計3度にわたって、家人とともに鑑賞することとした。
 昼の部は、午前11時30分から午後3時30分まで、休憩をはさみつつも5時間という長時間の鑑賞である。
11
 最初の演目は「毛抜(けぬき)」である。公家の娘がべつの公家の家に輿入れする予定であったのが、その娘「錦の前」に奇病が発生したとして婚約解消の危機となる。その娘の髪が激しく逆立つという奇病だという。その詳しい様子を探ろうと、嫁ぎ先となっていた公家の家臣粂寺弾正が「錦の前」を訪ね、その奇病の様子を実見する。そのとき、偶然ふと取り出した自分の毛抜きが、突然ひとりでに踊りだすこと、鉄製の小柄も同様に踊りだすことを発見して、実は屋敷の天井裏に巨大な磁石が隠しおかれ、「錦の前」の鉄製の櫛を引き上げて人工的に髪を激しく逆立てていたことを解明する。さらにその裏に、「錦の前」の実家を乗っ取ろうとする家臣八剣玄番の陰謀があることを摘発して、御家騒動を解決する、という物語である。巨大な磁石のからくりという、歌舞伎にしてはいささか奇抜な設定が特徴のユニークな演目である。初演は寛保2年(1742)で、天保3年(1832)からは歌舞伎十八番の中に入れられた。しかし嘉永3年(1850)を最後に上演されることがなくなり、演目としての伝承は途絶えていたらしい。ようやく近代になって古劇の復活を志していた二代目市川左團次が、この「毛抜」の復活に取り組み、明治42年(1909)9月明治座で復活上演した。今回は、四代目市川左團次が主役の粂寺弾正を、敵役八剣玄番を亀鶴が演じている。
 2番目の演目は「連獅子」である。今回御披露目口上を行った十代目松本幸四郎と八代目市川染五郎との親子共演が見ものである。これまでに私は、別の俳優たちによる連獅子を何度か観たが、今回は幸四郎・染五郎親子の「狂言師右近・左近の舞踏」、愛之助・雁治郎の「僧蓮年・僧遍念の舞踏」、そして再び幸四郎・染五郎親子の「親子の連獅子」、と豪華で充実した内容であった。愛之助・雁治郎もいつもながら達者で楽しい演技だが、今回は13歳の新染五郎の初々しいシャープな舞踏がなかなか魅力的であった。父の新幸四郎も、いよいよ歌舞伎役者として円熟期に入りつつあることをアピールするような見事な演技であった。
 3つ目の「恋飛脚大和往来 封印切 新町井筒屋の場」は、容貌に優れ気立てもよいが、飛脚屋を率いる商人としてはいささか頼りない忠次郎と傾城梅川の恋の逃避行の端緒となる事件を描いたもので、これに続く大和新口村の場とともに、歌舞伎では馴染みのある演目である。今回の仁左衛門・孝太郎の親子共演は、私も以前に観たことがあるが、少しずつ演技内容を変えて、毎回新鮮なものとして鑑賞できるように工夫しているようだ。こうした色好みで少しだらしのない男を演ずる仁左衛門も、まさに一流である。
 最後の演目は「鈴ヶ森」で、鶴屋南北作「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)」という物語の一部である。稀代の侠客幡随院長兵衛と白井権八の出会いとなった鈴ヶ森での雲助一味(実は夜盗)との戦闘の場である。さまざまな趣向を凝らした切りあいシーンが続くが、ここでの主役は20歳前の前髪姿の牢人白井権八で、愛之助が演じている。最後の方で時間的には少しだけ、それでも存在感十分に登場するのが幡随院長兵衛で、新白鸚が演じている。愛之助は、たいていの場合登場すると、少しなりともユーモアのある軽妙な演技を交えて、それがまたこの役者の魅力でもあるのだが、今回はずっと一貫して生真面目で礼儀正しい青年武士を演じていて、新鮮といえば新鮮である。白鸚も、さすがの貫録ある上品な演技をしている。

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ルーブル美術館展 (3)

コードとモード
 ルネサンス以降のヨーロッパでは、社会の近代化にともなってブルジョワ階級が次第に台頭し、有力な商人や銀行家から、さらに下の階層まで、自らの肖像を絵画や彫像で顕示したい、残したいという需要が発生した。こうした肖像は、古代より培われた上流階級の肖像表現のコード(決まった表現の仕方・表現上のルール)を踏襲しつつ、一方では時代・地域・社会に特有のモード(流行)を反映しながら、じつに多様な展開を遂げていった。Photo
  コードとしての衣服や装身具の描写は、モデルの社会的地位や役割を伝え、その存在の永遠性を記念する機能を担った。さらに時代のモードに即した衣服や装飾品は、モデルの人柄や個性、そして彼らの一瞬の生の輝きを伝える役割を果たした。
 ヴェロネーゼ「美しきナーニ」(1560年)は、ルネサンスのヴェネツィア女性ならではの優雅なドレスや宝飾品の繊細な描写によって、モデルの魅力を際立たせている。これは、1914年にルーブル美術館に所蔵されて以来、ルネサンスの肖像の最高傑作の一つとされてきた。高級娼婦、貴族の女性、あるいは観念的な理想の女性像、などこの絵のモデルが誰かについては、さまざまな議論があったという。具体的な人物として、ヴェネツィアの貴族マルカントニオ・バルバロの妻、ジュスティニアーナ・ジュスティニアーニとする説も有力であった。
Photo_2 結局多くの研究者は「美しきナーニ」をジュスティニアーナというよりも、貴族の既婚女性の肖像とみなし、かつ貴族の家庭の理想的な母親像の表現をそこに読み取った。彼女の上質なビロードのドレス、真珠の首飾りなどの豪奢で優雅な装いと、左手の薬指にはめられた指輪が、この説を裏付ける。胸元を四角い形に大きく開けたドレスは、当時ヴェネツィアで流行していたスタイルだが、未婚の女性は着用できなかった。また手を胸に当てるしぐさは、伴侶への忠実を示すポーズと解釈されている。
 サンドロ・ボッティチェリと工房「赤い縁なし帽をかぶった若い男性の肖像」(1480年頃)がある。今回の展覧会の目玉らしく、この絵もポスターやパンフレットを大きく飾っている。縁なし帽とカールした長い髪は、当時のフィレンツェの富裕階級の男性に特有の装いとされている。モデルは特定されていないが、フィレンツェのメディチ家最盛期の当主ロレンツォ・イル・マニフィコの従兄弟であった、ロレンツォ・トルナブオーニ(1465-1497)とする説もある。若々しく利発で生気に満ちた容貌である。
 中世ヨーロッパでは、宗教画が主役で、宗教的場面の片隅に寄進者を描き入れるかたちで肖像表現が慎ましやかに挿入されたりした。しかし14世紀イタリアのフィレンツェに始まったルネサンスの時代になると、人間性を尊重する文化のなかで独立した肖像画が誕生した。当初は古代の肖像メダルにならい、モデルをプロフィール(横顔)で描くのが一般的であったが、15世紀後半には正面や斜めを向いた肖像が描かれるようになった。フィレンツェで活躍したボッティチェリとその工房が手がけたこの絵でも、男性はやや斜めを向き、涼しげな眼差しをこちらに向けている。Photo_3
 レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン「ヴィーナスとキューピッド」(1657年)がある。この絵は一見、愛の女神ヴィーナスとキューピッドを描いた宗教画に見えるが、ヴィーナスは内縁の妻として後半生のレンブラントを支えたヘンドリッキェをモデルとし、またキューピッドも、おそらく彼らの間の娘コルネリアをモデルとして描かれたと考えられている。最初の妻サスキアを1642年に亡くしたレンブラントは、息子ティトゥスの乳母ヘールチェを愛人としたのちに、家政婦として雇ったヘンドリッキェとも愛情を育み、彼女の肖像画を何点も手がけた。ヴィーナスの優しげな微笑みは、ヘンドリッキェの穏やかな人柄をしのばせているようだ。17世紀オランダのレンブラントは、聖書や神話を主題にした歴史画のほか、肖像画・自画像によって名声を博した巨匠である。この絵は長年、レンブラントの弟子や工房による制作とされてきたが、近年の研究によって見直され、レンブラント自身の作とされた。
Photo_4 エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ル・ブラン「エカチェリーナ・ヴァシリエヴナ・スカヴロンスキー伯爵夫人の肖像」(1796年)という絵がある。
 絵のモデルはロシアのスカヴロンスキー伯爵の美貌の妻、エカチェリーナ(1761-1829)である。画家ヴィジェ・ル・ブランは、伯爵が大使としてナポリに駐在していた1790年に夫妻と親交を結ぶ機会を得て、以後夫人の肖像画を何度も手がけた。
 王妃マリー=アントワネットのお気に入りとして肖像画家としての名声を得ていたヴィジェ・ル・ブランは、1789年に勃発したフランス革命のためにフランスを逃れ、ヨーロッパ各国に新たな活動の舞台を求めていたのであった。
 この絵の制作時点でエカチェリーナは34歳で、3年前に夫に先立たれ、若くして未亡人となっていた。絵のなかでエカチェリーナは、白い首筋に豊かな巻き毛を垂らし、東洋風のターバンと青いショールで美しく装い、甘い眼差しを投げかけている。たしかに誰が見てもにおいたつような典型的な美女である。モデルの魅力を最大限に引き出すヴィジェ・ル・ブランの肖像画は、上流階級の女性たちの間でどこの国でも大いに人気を博したという。
 フランツ・クサファー・メッサーシュミット「性格表現の頭像」(1771~1783年頃)という奇妙な頭部の彫像がある。ぎゅっと目をつぶり、への字に曲げた口をテープでとめて、耐え忍ぶような、なんとも苦渋に満ちた表情である。Photo_5
 オーストリア人フランツ・クサファー・メッサーシュミットは、後期バロック様式と初期新古典主義様式の彫刻家であり、ウィーンのアカデミーで教授を務め、伝統的な肖像彫刻を制作していた。しかしある時から次第に精神を病み、1774年に離職し、1777年に移り住んだブラスティラヴァで1783年に没するまで、自分をモデルにしながら、さまざまな表情の奇妙な頭部像を連作した。それらは生前には公開されず、没後にアトリエで69点が発見され「性格表現の頭像」と名付けられた。展示作品はそのうちの1点である。
 多くはない同時代の証言によれば、妄想に悩まされ続けた彫刻家は、顔と身体の一部をつまんでしかめっ面をし、自身を苦しめる病をなんとかコントロールしようとしていたそうである。それゆえ「性格表現の頭像」の制作は治療のためであったとも考えられるが、少し違う角度からは、顔立ちと性格の相関関係を研究した近代観相学の先駆けとも考えられる。
 オーギュスタン・パジュー「エリザベート・ルィーズ・ヴィジェ・ル・ブラン」(1783)というタイトルのテラコッタの胸像がある。素焼きなのにとても繊細な塑像で、モデルの表現としても、美術作品としても、とても美しい。モデルに対する強い愛情の結果なのだろうか、印象に残る作品である。
今回の展覧会は全部で112点と、少し多めの展示だが、なんとか集中力を維持して鑑賞できた。私にとって、初めて観る作品が多く、非常に興味深いひとときであった。

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ルーブル美術館展 (2)

権力の顔
Photo 肖像芸術の大きな役割のひとつが、権力の表現であった。王や皇帝など最高権力を掌握した君主たちは、自らの似姿である肖像をつくらせ顕示して、配下や民衆に権勢を広く知らしめようとした。このような場合、誰が見ても権力者だと分かるように、時代・地域・社会の文脈に応じて構築された表現コード(決まった表現の仕方・表現上のルール)が用いられている。
 「ハンムラビ王の頭部」(イラン出土)というごく小さな金属の像がある。しかしこれは、古代オリエントの最も有名な肖像作品の一つに数えられるという。縁のある被り物と、頬からあごを覆う髭は、古代メソポタミアの王の肖像表現として典型的なものだそうだ。この男性の相貌はかなり高齢に見え、そのため43年の治世を誇り「目には目を、歯には歯を」で高名なハンムラビ法典を制定した老練な賢者であったバビロニアのハンムラビ王(在位:前1792-前1750)を表現したものと推測されていた。しかし今日の鑑定では、ハンムラビ王の治世より前の制作と推定されていて、モデルについては、ハンムラビ王に攻略された都市国家ラルサの王リム・シン1世(在位:前1822-前1763)、あるいは彼の祖父で、バビロン第1王朝の2代目の王スムラエル(在位:前1880-前1845)とする説がある。Photo_2
 「アレクサンドロス大王の肖像」(イタリア出土)がある。一見なんでもないようだが、大王の肖像と聞いてじっくり眺めると、その立派な鼻筋と、賢そうな眼差しが印象的である。古代ギリシア北部のマケドニアから出て大帝国を作り上げたアレクサンドロス大王(在位:前336-前323)は、ごく限られた芸術家のみに自身の肖像制作を許したという。その一人が、ギリシアのクラシック期を代表する彫刻家リュシッポス(前390-?)であった。展示されている彫像は、リュシッポスが制作したブロンズの全身像「槍を持つアレクサンドロス」(BC330頃、現存せず)の頭部のみをローマ時代に模刻したものである。現在ではリュシッポスの作品は1点も現存しないが、その作風は適度な理想化を加えつつ、モデルの個性を生き生きと表現したものであったと伝えられている。前髪を逆立てた独特の髪形をはじめ、大王の容貌の特徴を最もよく伝える貴重な作例とみなされており、後世の芸術家たちからも常に手本とされたという。
Photo_3 「トガをまとったティベリウス帝の彫像」(1世紀)は、大きな彫刻である。第二代ローマ皇帝として、質素な一枚布の羽織り物たるトガを纏ってまだローマ市民の意識を保ち、左手に演説原稿を持ち、人々に語りかけるため右手を前方に向け、熱意をもって語りかける姿である。彫刻家は、ローマ市民の心を維持した理想的な皇帝として、表現したかったのであろう。絵画「銅鎧をまとったカラカラ帝の胸像」(3世紀)は、すでに皇帝として超絶した権力を掌握し、傲岸不遜な表情である。しかし当時のローマは内外に不安と危機がせまり、カラカラ帝の強力なリーダーシップがローマ市民の人気を得たという。いずれの彫像も、皇帝の異様とも思えるほどの大きく立派な鼻が印象的である。
 フランス革命で断頭台に消えたヒロインの胸像がある。ルイ=シモン・ボワゾ「フランス王妃マリー=アントワネットの胸像」(1782)である。私たちがよく見る美術作品のアントワネットの容貌は、いずれもよく似通っていて、王妃の容貌をかなり忠実に表したものと思われる。Photo_4
  ただ、ルイ=シモン・ボワゾは、最初に制作した作品で、もう少し大きめに目鼻などを表現したところ、傲岸不遜に見えたらしく大いに不評であったので、少し控えめに見えるよう修正したところ好評を得て、たくさんの複製をつくることになったという。展示されている胸像もその複製の一つである。同じような容貌でも、些細な部分を少し変えただけで印象が大きく変わるという事実は、私たちの日常でも遭遇する。
 アントワーヌ=ジャン・グロ「アレコレ橋のボナパルト」(1796)は、オーストリア軍に敢然と立ち向かい撃破した27歳のナポレオンの雄姿で。この展覧会のポスターにも用いられている絵である。ナポレオンは、グロが自分の姿を描くことを高く評価し、とくに取り立てて多くの作品を作らせた。

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ルーブル美術館展 (1)

 大阪市立美術館で、ルーブル美術館展が開催された。今回のテーマは「肖像芸術 ─人は人をどう表現してきたか─」というものである。


記憶のための肖像
 なぜ人は肖像画あるいは肖像彫刻を制作し残すのか? その理由のひとつは「記憶のため」であるという。古代エジプトでは、棺にミイラを格納し、その上からマスク彫刻をかぶせた。そのマスクの肖像は、亡くなった貴人の写実よりも、未来に蘇ったときの理想の顔であったという。しかし時代が下ると、同じエジプトでもマスク彫刻は板に描いた絵に替わり、さらに理想像でなく故人の面影を偲んで写実的な肖像に変遷したという。Photo
  そのひとつの例として「女性の肖像」(AD2世紀、エジプト・テーベ)がある。王族の若い女性のようだが、写実といいつつも美化しているのか、とても清楚で美しい肖像画である。それでも同時に、現代でも街を歩いていそうな、とても身近な感じもする。2,000年も昔から、実は人間の容貌がさほど変わっていないことをあらためて感じる。たしかにそういう意味では、写実的なのかも知れないと思う。
 シリア・パルミラから出土した「女性の頭部」(AD150-250年、石灰岩)がある。これは副葬品としてかなり量産されたというが、当然手作りで、とても美しい女性の彫刻である。
Photo_2 時代が大きく下って、18世紀末のフランス革命時の油彩画がある。ジャック=ルイ・ダヴッド「マラーの死」(1794年頃)である。フランス革命のジャコバン派の闘士ジャン=ポール・マラー(1743-1793)は、『人民の友』紙で激しい王政批判を展開した。しかしマラーは、1793年7月13日、皮膚病の治療のため湯につかっていたとき、対立するジロンド派の若い女性シャルロット・コルデーによって刺殺された。その翌日国民公会は、ジャコバン派の画家ジャック=ルイ・ダヴィッドに、マラーの肖像画の制作を依頼した。4ヶ月後に国民公会に寄贈された肖像画はたちまち評判となり、レプリカが制作された。そのうちの1点がここに展示されている絵である。ダヴィッドはカラヴァッジョの「キリストの埋葬」から、だらりと腕を垂らすポーズを取り入れ、左手にはなにかメモを広げ、入浴中も革命のために懸命に思考をめぐらせていたようだ。なかなか逞しい肉体として描かれている。光はマラーの姿を荘厳して浮かび上がらせ、マラーは革命の「殉教者」として表されている。

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加藤尚武『20世紀の思想』PHP新書

 生命倫理、環境問題を主な研究課題とする倫理学者による現代思想の解説書で、1997年、つまり20世紀末時点の発刊の書である。
 「哲学」とは、古今東西の思考、自然科学から人文科学までのあらゆる領域にわたって相互理解の可能性をもたらすような、地球規模で通用する理性のことである、との考え方に立って書かれている。その観点からすると、20世紀の哲学は、人間の知識を全体として見通しのきくものと成しえていないし、その活動があまりに欧米中心となっていて、相互無理解の状況である、と指摘する。
 18世紀はニュートンの「数学的理性」とカントの「人間の理性」とが、圧倒的な宗教的力の下に棲み分けていた時代であった。しかし19世紀になると、理性はもっと大胆に自己主張するようになり、宇宙の真理のすべてを抱え込もうとした。「理性化による進歩」という思想が生まれ、自由こそが人間の根源的な在り方だということになった。そんななかヘーゲルは「国家理性の思想」を提案し、国家主権こそがすべてに優先して存在して「国家固有の権利」を持ち、唯一歴史という法定でのみ審判を受けると考えた。
 20世紀は、前半が戦争の時代、後半が科学技術の時代であった。進歩史観が普及する一方で資源や環境の有限性に直面するようになり、「無限の進歩」の信仰にも疑義が生じた。そして世界規模の残酷な戦争を経て、近代の国民国家の自決主義はきわめて危険なものであることも経験した。未だにこの悪夢に対する解答は得られていない。
 19世紀末、J.S.ミルは「自由主義の原則」というべき重要な提唱をしていた。師であったベンサムの功利主義に基づきながら、多数決における少数者の利益の保護、他者に危害を与えない限りは刑罰などの個人への干渉を慎重にすべきであること、「愚行権」の尊重、など現代にもそれ以上の代案が見つかっていない基本的な基準を提示していたのである。
 カール・マルクスは、それまで多くの思想家が、人間と動物の違いを、理性があるか否か、宗教があるか否かで区別していたのに対して、生活手段を製造するのが人間の根本的特性であるとした。人間が生きる生産関係を包含する生活様式のなかに生まれることで、ヒトは自分の生を発現するので、その生活様式が世代を超えて伝えられていくのであり、そのシステムを「構造」と呼んだ。人間は初めから社会的存在であり、人間性は社会性と切り離すことができない。そして生産と経済(下部構造)の変化と政治文化(上部構造)の変化とを機械的に対応づけた。ダーウィンの進化論から強く影響を受け、社会も変化し進化するとし、資本主義社会の仕組みそのもののなかに、それを崩壊と破綻に導かざるを得ない内在的要因があり、革命を経て社会が進化していく、とした。
 フリードリヒ・ニーチェは、宗教も道徳も後にして、人生をあるがままに受けとめ、与えられたすべての運命を全面的に受け入れることこそが、生きることの根本だとした。この理性のしがらみを脱出した衝動的ともいえる生の肯定を、具体的に「性欲」に置いて、人間を理解するうえでその意味の重大さを探求したのがフロイトであった。
 フロイトとほとんど同じ時代を生きたのが、フッサールであった。フッサールは、我々が体験する現象を見つめる自分自身の「意識」を信頼して、この自己に内在する意識こそが人間のあらゆる思考・知識の源泉である、とした。このフッサールの方法を展開して独自の「存在への問い」の哲学を構築したのがハイデガーであった。彼は本当の意味での存在は「人間存在」のみである、とする。そのハイデガーの哲学を自己流に消化して、ハイデガーとは全く別方向の個人的内面性に向けて思索し、最後にはマルクス主義に接近して、ひととき世界的にスター的哲学者としてもてはやされたのがサルトルであった。あくまで自我の内発性を純化して、自我のなかに意識の志向性を見出しそうとした。
 これらの思想家の他にも、解釈学・構造主義、科学の哲学、社会性・正義、日本の西田幾多郎・丸山眞男にいたるまで、実に簡潔かつ的を射た解説がされている。
 古今東西の思想、自然科学から人文科学までのあらゆる領域に、相互理解の可能性を作り出し、人類共同の意志決定・合意形成が可能なようにしなければ、地球規模で通用する理性が機能せず、たとえば悲惨な戦争をその意図もないままに引き起こすかも知れない、との加藤の指摘は重い。ちいさな本だが良書である。

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ビュールレ・コレクション展 (9)

モダン・アート
 ビュールレ・コレクションの大半は1940年以降の10数年間に収集されたが、抽象絵画など当時の現代美術は含まれていない。コレクションの中で最も新しいものは20世紀初頭のフォーヴィスムやキュビスムなど、その後の絵画の急激な変革を導いたモダン・アートの作品群である。短い時間に目まぐるしい変化を遂げたそれらの作品群は、20世紀初頭の絵画革命の熱気を生き生きと伝える。Photo
 ジョルジュ・ブラックは1908年以降、ピカソと共に物体を平面的な小さな面に解体して、それらを再構成するキュビスムの絵画を創り上げた。「ヴァイオリニスト」(1912)は、切子面で分割された画面要素が、立体的に再合成される典型的なキュビスムの絵である。演奏者のイメージは細かく分解されているが、ヴァイオリンの4本の弦とf字孔ははっきりと認識できるように描かれ、よくみると演奏者の姿が浮かび上がる、と解説に書いてあったが、私にはついに演奏者が浮かばなかった。
 そしていよいよパブロ・ピカソである。「イタリアの女」(1917)は、私にはとても魅力的な作品だ。平面に分割された要素のそれぞれの色彩のバランスが、とても絶妙で心地よいのである。「花とレモンのある静物」(1941)も分割要素の立体的再合成というコンセプトの典型的な例であるが、画面構成にしまりがあって、心地よい緊張感があり、観ていて楽しい作品である。
Photo_2 アンドレ・ドラン「室内の情景」(1904)は、精密に設計された画面構成で、タッチはフォーヴィスムのようで、なかなか理知的な魅力的な作品だと思う。
 展示の最後は、クロード・モネ「睡蓮の池、緑の反映」(1920ころ)の大型油彩で締めくくられている。
 ドイツに公務員として生まれたエミール・ゲオルク・ビュールレ(1890-1956)が、さきの大戦前から武器商人として活躍し成功して財を成し、スイスに移住してスイスで印象派とポスト印象派を中心としたコレクションを蓄積した。このたびはそのコレクションから日本初公開の作品群を多数含む展示をしたのであった。全展示点数は64点と、最近の企画展覧会としては少なめだが、鑑賞するにはちょうど良いレベルの数で、しかもほとんどが人気の高い印象派の名品ばかりで、とても充実した鑑賞であった。

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ビュールレ・コレクション展 (8)

20世紀初頭のフランス絵画
Photo 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ポスト印象派やセザンヌ、ゴーギャンなどの独創的な芸術を追って、さまざまな新しい流れが派生した。この展覧会では、主にゴーギャンから影響を受けた流れについて、8点の展示があった。
 まず多くの芸術家が憧れたポール・ゴーギャンである。タヒチに移ったゴーギャンは、パペーテを経て1901年に、マルキーズ諸島のヒヴァ・オア島アトゥオナに移住した。西洋の文明社会から逃れ、タヒチでの生活を始めて以降、ゴーギャンは現地の人々を鮮やかな色彩と平面的な表現で描き出した。「贈りもの」(1902)は、新しい命の誕生を祝って花を贈る現地の風習を描いた作品で、タヒチ時代の様式に加えて、女性の肌のより繊細な色調表現が認められる。この平面的で原色を多用する技法は、後進の多くの芸術家に強い影響を与えた。Photo_2
 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック「コンフェッティ」(1894)は、イギリスの製紙会社J.&E.ベラ社のために制作されたポスターの習作だそうである。コンフェッティとは、カーニバルの時に使用される紙吹雪を意味している。楽しげな表情を浮かべる女性は、ロートレックが長年描き続けていた女優のジャンヌ・グラニエをモデルとしている。おそらくごく短時間に、最低限必要なところだけをサッサッと描いたように思えるが、実に簡にして要を得た、ミニマムだけど忘れがたい魅力的な絵である。ロートレックの典型的な、面目躍如の作品だと思う。

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ビュールレ・コレクション展 (7)

フィンセント・ファン・ゴッホ
Photo セザンヌと並ぶポスト印象派の代表的画家として、ファン・ゴッホがいた。ビュールレ・コレクションは、この画家についても充実した所蔵品を誇るという。ゴッホは画家としての活動期間がわずか10年であったが、そのうち後半の6年間から今回6点が出品されている。
 「古い塔」(1884)がある。廃墟となった教会を、過去の重み、伝統の重みを表す存在として、またすべての命の死後の墓として、全体に暗いトーンで描いている。ゴッホのオランダ時代の内面重視の絵で、印象派に出会う前の作品である。
 「自画像」(1887)は、パリに出て、印象派に出会った後の作品である。ゴッホ特有の厚塗りがみられる。Photo_2
 「アニエールのセーヌ川にかかる橋」(1887)は、ゴッホの精神の落ち着きが感じられ、水の生き生きとした輝きから、ゴッホの未来への希望が窺える。おそらくゴッホの幸福な時代であったろう。
 「日没を背に種まく人」(1888)は、ミレーの有名な作品のカバーで、大きな太陽と、浮世絵からヒントを得たと推測される画面を大胆に斜めによぎる太く大きな木が印象的である。
 「花咲くマロニエの枝」(1890)は、ゴッホのまさに最晩年で、精神的にも不安定な時期であったが、この絵からは不安や異常は感じられず、つかの間の安定期の作品なのかも知れない。ただ、背景の空の波紋のような襞のような描写は、少し不気味である。

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ビュールレ・コレクション展 (6)

ポール・セザンヌ
 ポール・セザンヌは、印象派の芸術家として、またポスト印象派の芸術家として、さらに後進のキュビスム、フォーヴィスムなどの新しい動きに大きな影響を与え続けた芸術家として、まさに芸術界の巨人である。芸術の巨人に共通な傾向として、人生のそれぞれの時期に、それぞれ違う手法や表現を創造することもしている。
Photo ビュールレ・コレクションは、このセザンヌの作品を多数所有していることも特徴だという。今回の展示では、時期が違い、したがって画風が違う6点が展示された。
 「聖アントニウスの誘惑」(1870)は、画面左上隅に聖アントニウスを描き、画面の主役は3人のエロティックな女性像である。しかし女性たちは体形も容姿もむしろ醜く、クールベかドラクロアの影響なのか、絵の具の厚塗りで暗い雰囲気に塗りこめられている。このような画法をセザンヌは「クイヤルド(Couillarde)」と名付けた。これは「大きな睾丸」という、いささかナンセンスな意味をもつ名前であり、若いころのセザンヌの画壇への反発を表しているという。初期のセザンヌの絵は、暗いバロック風の宗教的主題の絵が多かったという。
 「風景」(1879)では、ピサロの影響を感じさせる静かで穏やかな画風となっている。Photo_2
 「扇子を持つセザンヌ夫人の肖像」(1888ころ)では、まさにセザンヌらしいと言うべきか、画面の要素分割と再合成で立体的表現を導入している。
 「赤いチョッキの少年」(1890ころ)は単純そうなきれいな肖像画だが、詳しく観ると実に戦略的である。赤、茶、青、そして白の色面がはっきりした単純な形と範囲で仕切られている。一度使った色を別の場所にも使い、色幅を制限する事で画面に調和を生み出している。何本もの斜めの線が交差し、互いに影響し合ってバランスをとっている。たとえば、左側のカーテン、少年の曲がった背中と左腕など。そして少年の右腕の「二の腕」は不自然に長い。セザンヌは、どこにでもあるシーンを分解し、それを最初から知的に組み立て直しているのである。セザンヌは印象主義に、古典主義と強い主知主義を織り交ぜた、と言える。
 ポール・セザンヌ「庭師ヴァリエ」(1906)がある。セザンヌは1902年、南仏レ・ローヴの丘に新しいアトリエを建てた。ここから少し坂を上るとサント=ヴィクトワール山を一望できた。セザンヌは、この絶好の場所で最晩年を過ごした。その身の回りの世話もしていた庭師ヴァリエは、最後のモデルでもあった。ここでは水彩画のような大ぶりで軽やかなタッチが特徴である。

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ビュールレ・コレクション展 (5)

印象派の人物画
Photo 印象派の画家のなかで、とくに人物を描くことに秀でていた2人としてエドガー・ドガとピエール=オーギュスト・ルノワールを取り上げて、計7点の作品を展示するコーナーである。ドガは、常に実験的な挑戦を続け、対象とする人物の動き・姿勢(ボーズ)を冷静にとらえ、その一瞬を画面に生き生きと記録した。ルノワールは、伝統的な絵画表現の手法や作法を尊重しつつも連続的に現代化への努力を積み重ね、対象の人物の命の輝きを多彩な色彩によってキャンバスに留めた。この対照的な画家ふたりだが、長い年月を経ていま眺めると、やはりともに「印象派」ということに頷ける。Photo_2
 エドガー・ドガ「リュドヴィック・ルピック伯爵とその娘たち」(1871)がある。リュドヴィック・ナポレオン・ルピック伯爵は、ドガの友人であり、芸術家として印象派展への出品経験もあるような人物であった。その彼と娘二人を描いた肖像画である。自由闊達で大胆なすばやい筆致で、簡潔に、かつ要点をしっかり押さえたドガらしい絵である。
 ピエール=オーギュスト・ルノワール「泉」(1906)がある。この絵でまず引き込まれるのが美しい金髪である。この金髪の表現は、本当の金箔を貼り付けた「金色」よりも、はるかに「金色」であり、冷たい金色でなく暖かい金色である。肌を彩る色も、よく見ると緑色、青色など、いわゆる肌色から遠い色彩を巧みに配合して、血液が循環して生命が輝く肌を見事に表現している。この作品を描いた時、ルノワールはすでに65歳であった。そのうえたびたびリウマチの発作に見舞われ、手の関節が変形して絵筆を持つこともつらい状態で、健康状態はかなり深刻化していた。しかし創作意欲は全く衰えず、生命力豊かで、豊麗で美しい裸婦が見事に描き出されているのである。

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ビュールレ・コレクション展 (4)

印象派の風景
Photo 印象派というと、光や明るさが大きな主題で、人物、風俗、静物など多様な対象が描かれているが、やはり初期のバルビゾン派以来、風景画はとりわけ重要な位置を占めるだろうことは、われわれ門外漢も知っている。光の輝き、光を映す自然や風物の明るさ、そのなかに漂う空気感、などが前面に現れる風景画こそが印象派の代表と言えるだろう。Photo_7
 カミーユ・ピサロ「ルーヴシエンヌの雪道」(1870)がある。パリ郊外のルーヴシエンヌは、ピサロが暮らしていた町であり、落ち着いた保養地であり、文学者や画家、中産階級が散策したり別荘を持ったりする土地柄であった。しかし普仏戦争がはじまると、ピサロの一家は戦禍をのがれてロンドンに移った。この絵は、ロンドンに移る直前ころのルーヴシエンヌの冬景色を、愛着を込めて描いたもののようである。雪を照らす光と、ピサロ特有の清涼な空気感が心地よい。ピサロのもうひとつの展示作品「会話、ルーヴシエンヌ」(1870)も、戦争前の平穏な町の日常のひとときを見事に切り出して表現している。
Photo_3 アルフレッド・シスレー「ハンプトン・コートのレガッタ」(1874)がある。風景に溶け込んで、それでもしっかり存在感がある赤色の宮殿、豊かな樹木の緑、光を受けてきらめく水を、軽やかな筆致と簡略化した構図で生きと描写している。 
 クロード・モネ「ジヴェルニーのモネの庭」(1895)がある。モネは、3年間嫌々ながら住んでいだポワシーから、1883年にジヴェルニーに移り住み、1926年にこの世を去るまで、自然豊かなこの地を愛して住み続けた。この絵では、シャクヤク、ゼニアオイ、バラ、アイリスなど、色とりどりの花を愛でるモネの義理の娘、シュザンヌ・オシュデが描かれているが、人物は花や緑に溶け込み、点描のような細かい筆触で、優しく暖かい雰囲気を表現している。Photo_4
 エドゥアール・マネ「ベルヴュの庭の隅」(1880)がある。マネはこの作品のころから、若い時に感染した梅毒が進行して、左脚の壊疽が進んでいた。その保養もあって夏の間はパリ近郊の別荘で過ごしていた。この絵はその庭で描かれた。マネ自身の体調にかかわらず、戸外で制作されたこの作品は、軽やかな筆の運びと明るい色彩が印象的である。このころになると、マネの画風も典型的な印象派という感じになっている。
 クロード・モネ「ヴェトゥイユ近郊のヒナゲシ畑」(1879)もほぼ同じころの作品だが、赤色の花の中に人物が溶け込み、花と緑と光が主役の絵である。

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ビュールレ・コレクション展 (3)

19世紀のフランス絵画
 19世紀のフランス絵画は、なにを描くかという主題より、日常のなにげない一瞬をとらえるなど、テーマの表現より、いかに描くかということに関心が移っていった時期だという。Photo
 カミーユ・コロー「読書する少女」(1845ころ)は、少女がポーズをとることなく、読書にふけっているごく自然な姿を描いている。レアリスムのはじまりである。ポーズを否定するのはギュスター・クールベ「狩人の肖像」(1850ころ)も同じである。
 ウジェーヌ・ドラクロワ「モロッコのスルタン」(1862)がある。ドラクロアは、若いころ公務としてモロッコを訪れ、その時のスルタンであったムーレイ・アブドゥッラフマーンに謁見したことがあった。そのときよほど強い印象を受けたのか、それから30年後にこの絵を描いているのである。多数の従者たちを従えた威厳に満ちたスルタンの姿を、畏敬の念をもって描いている。
Photo_2 エドゥアール・マネ「オリエンタル風の衣装をまとった若い女」(1871)がある。オリエンタルといっても、ヨーロッパからみた「当方」なので、この絵の女性は中東の人なのだろう。私たちが想定する東洋の人ではない。気怠そうにたたずむ姿は、衣装のエロティシズム以上に深い倦怠感を感じさせる。マネの関心の対象は、女性そのものでも、エロティシズムでもなく、この珍しい衣装そのもののようである。顔はかなり適当に描いているのかも知れないが、薄いヴェールのような衣装の襞や重なりの陰影は、きわめて念を入れて描き込んでいる。

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ビュールレ・コレクション展 (2)

ヨーロッパの都市
 イギリスでは、17世紀ころから18世紀にわたって「グランド・ツアー」という、富裕な若者がおもにイタリアとフランスに向けて、数か月から数年の長期の旅行をすることが流行した。学業の修了期に、外国の政治・文化・芸術を見分して学ぶというもので、教師が同行することもしばしばであった。その対象となった、当時の先進都市たるバリ、ヴェネツィアなどは、格好の画題となった。Photo
 アントーニオ・カナール(カナレット)「サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂、ヴェネツィア」(1740ころ)がある。カナレットは、当時すでに景観画の画家として高名であったが、その絵は先ずきわめて精緻な描写がきわだつが、よく見ると空・雲・水などが、そのころの風景画にしては意識的に表現されていて、絵画技術というより絵画対象への着眼という意味で、およそ100年後の印象派を先取りしているとも思える。ビュールレは、自らのコレクションの中核を19世紀後半の印象派・ポスト印象派の作品としつつも、歴史的な広がりを与えたいと考えていたらしい。このカナレットの絵は、印象派絵画の先駆として、大いに興味を持ったのであろう。
Photo_2 クロード・モネ「陽を浴びるウォータールー橋」(1900ころ)がある。フランス人モネは、1870年ロンドンに移った。普仏戦争が始まった時であった。モネは、亡命したフランス人芸術家のネットワークを築いて滞在した。こうしてロンドンに深くかかわったモネは20年後にロンドンを再訪し、この地の建造物を題材とした作品を多数残した。これはそのひとつで、霧がかかったテムズ川とウォータールー橋とそこに降り注ぐ光を描いている。このころのモネは、まだ白内障が進んでいなかったと思うが、ロンドンの霧を強調してか、橋の形の描写はきわめて朧気である。
 ポール・シニャック「ジュデッカ運河、ヴェネツィア、朝」(1905)がある。点描画の典型のような風景画だが、意図的な平面的表現と、個々の点が大きいのが目につく。

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ビュールレ・コレクション展 国立新美術館 (1)

 久々に東京の国立新美術館にきて、「ビュールレ・コレクション展 ― 至上の印象派展」を鑑賞した。
肖像画
Photo 冒頭にオランダの画家フランツ・ハルス「男の肖像」(1660ころ)がある。印象派以前の、写実的で精緻な描写に感銘を受ける。この絵を描いた時、ハルスはすでに80歳代であったというが、画風と筆致はとても若々しく活動的に見える。
 ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル「アングル夫人の肖像」(1811)がある。この絵は、夫人の顔を精緻に丁寧に描いた半面、衣服はごく大雑把に描いているのが特徴である。すくなくとも衣服の部分は、未完か試作かなのだろう。
 アンリ・ランタン=ラトゥール「パレットを持つ自画像」(1861)は、近代風俗画としての写実的な面と幻想的な表現とが同居した少し不思議な絵である。かつて松方コレクションに収められ、現在はビュールレ・コレクションの所属となっているというのも興味深い。Photo_2
 ピエール=オーギュスト・ルノワール「アルフレッド・シスレーの肖像」(1864)がある。イギリス人の富裕な両親のもとフランスのパリに生まれたアルフレッド・シスレーが、まだ若くて両親の経済的支援をえてゆたかに暮らしていたころの肖像画を、画家の仲間でかつ親友でもあったルノワールが描いたものである。シスレーがまだ生活苦に見舞われる以前の、若々しく知的でしかも繊細そうな風貌が、伝統的な描写でていねいに表現されている。
 エドガー・ドガ「ピアノの前のカミュ夫人」(1869)がある。カミュ夫人は、ドガが受診していた眼科医の妻で、ピアニストでもあった。敬愛のこもったきれいな絵である。

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映画「アンセイン」

 キュリアウーマンとして、ビジネスの最前線で華々しく活躍するソーヤーは、母のもとを離れ一人で懸命に生きているが、悩みも心の闇もある。とくに2年間ほど執拗なストーカーに悩んでいた。つい近所の精神科の病院に、軽い気持ちでカウンセリングを受けるが、これが彼女の想像を絶する恐怖体験への入り口となった。ほんのわずかの面談での何気ない発言と、内容をよく確認しないままサインした契約書のために、あれよあれよという間に精神病の疑いとして強制的に入院させられ、その理不尽さに抵抗しようとすると、精神異常による暴力行為として入院期間を延長されてしまう。精神病院のなかには、ほんとうの精神病患者もいれば、ソーヤーのようにそうでない者もいる。なんとその病院に、彼女をつけ狙うストーカーであるデヴィッドが、病院のスタッフとして在籍していることが判明する。
 精神病院の患者の立場はとても弱く、スタッフの力は相対的にとても大きい。精神病患者というレッテルだけで社会の信用をすべて喪失し、病院から脱出する術を得られなくなる。追い詰められて、病院の地下病室という牢獄よりも過酷な場所に閉じ込められ、そこへデヴィッドが現れる。まさに死ぬほどの極限の恐怖に見舞われるソーヤー、それでも彼女は知恵を振り絞って脱出を果たす。しかしそんな経験は彼女を蝕み、ほんとうの恐怖症になっていたらしい。
 ミッシェル・フーコーがいう「精神病院が精神病患者を生成する」という命題を実証するかのようなストーリー展開であり、通常のスリラーよりはるかに恐ろしい映画である。
 主演のクレア・フォイの演技に魅了された。監督は30年前に『セックスと嘘とビデオテープ』というきわめて製作費の小さい画期的な映画で、突然高い評価を得て大監督になったスティーブン・ソダーバーグである。登場人物の表情・セリフに出る以上の、ストーリー展開や画面の緻密な構成による心理表現が巧みである。あっという間に終わってしまうような、緊張感が続く良い作品である。
 

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