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2018年12月

映画「ブルックリン」

 1950年代のアイルランドとアメリカを舞台に、ひとりのアイルランド人移民女性のこころの揺らぎを描く映画である。
 アイルランドの田舎町、年頃の娘エイリシュは、生まれた閉鎖的な町で自分の可能性を試す機会もみつからず、気持ちが晴れないまま日々を送っていた。それを知る姉は、エイリシュにアメリカのニューヨークに行って働くことを薦める。希望に胸を膨らませてエイリシュはニューヨークに行くが、慣れない新しい職場にも、アイルランド出身者中心の新しい人間関係にもうまく馴染めず、ホームシックになる。
しかしニューヨークでアイルランド移民の世話役をする親切な神父のアドバイスにより、会計学の学校に学び、徐々に実務能力を身に着け、同郷のアイルランドからの移民者の世話をしたりして、周囲に貢献できることを発見して、自信をつけて行く。そうして新生活に慣れたころ、ダンスパーティーでイタリア移民の青年トニーと出会い、やがて結婚する。
 ようやく幸せにめぐりあえたエイリシュだったが、突然姉の急死を知らされ、慌ててアイルランドに帰省して、そこで旧友たちと懐かしいひとときを過ごす。すっかりアメリカの豊かさと洗練された流行モードに馴染んだ彼女の姿が、友人たちの注目をあびる。そんなとき、幼馴染の青年ジムと再会し、すっかり立派な紳士になったジムにやさしく接してもらい、心が揺らぐ。しかし彼女はすでに既婚者であり、乱れる心を残しつつも、アメリカのトニーのもとへ帰るのであった。
 格別の問題はないが第二次世界大戦後低迷して閉塞感があるアイルランド、それに対してますます豊かさを増し華やかに希望に満ちているアメリカ。そのふたつの世界を知り、故郷の安心感と沈滞と愛着と郷愁、それに対する新しいアメリカの躍動感と希望と不安を経験する。アイルランドからアメリカに移民した人たちは、おそらく似たようなジレンマに襲われたのだろう。
 1847年のアイルランド大飢饉でのアメリカへの大量移民以来、アメリカではアイルランド系移民は一大勢力であり、移民としては決して少数派ではないだろうが、当事者に祖国と移民先との間でさまざまな思いがあるのは当然だろう。
 地味で繊細で内気な田舎町の少女から、華やかで洗練された美しい女性に成長していく姿を、アイルランド人女優シアーシャ・ローナンが好演している。全編に、何とも言えない切なさが漂う、クラシックで抒情的な作品である。

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アニメ映画「ザ・ブレッドウイナー」

 日本語版のタイトルは「生きのびるために」となっているようだ。
 舞台は、タリバンが実効支配するアフガニスタンの町である。主人公の少女パヴァーナが、イスラム原理主義をタリバンから強制され、本を読んでも、ブルカを着用せずに顔を出しても、ひとりで歩いても、物を買っても、すべてが禁止されて咎められる。男もほんのわずかのことでイスラムの教えに背いたとして逮捕され、殴られ、戦場に捨てられる。男手や親を失った子供たちは、自分で食べ物を手に入れなければ生きて行けないが、イスラム原理主義の制約のために、できることはほとんど残されていない。少女は、生きのびるために髪を切り男の子に変装して行動を始める。しかしタリバンの監視、戦争の災禍から身を守ることは、奇跡を追うにひとしい。
 アフガニスタンの現場で、実際に起こったことを当事者からインタビューを重ね、タリバン支配下の人々の生活の実態を描いた、ドキュメンタリー的要素の強いアメリカのアニメ作品である。
 かわいい絵から、そしてアニメ作品なので、つい子供対象の楽しい映画かと気軽に見始めたが、内容は重く、暗く、恐ろしい。なんとも感想を表わしにくいが、よくできた作品ではあるだろう。

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写真家ソール・ライター展 伊丹市立美術館 (下)

ソール・ライターの写真と絵1956
 ソール・ライターは、当初は画家を目指し、生計のために商業写真家となった。キャリアのはじめからファッション写真に執着はなかったようである。ファッション雑誌を彩る有名なファッション写真家の地位を獲得しつつも、中年で突然その道を捨て、ニューヨークのイースト・ヴィレッジで30年間余りをひっそりと暮らし、絵を描き、写真を撮る日常を過ごした。
 ソールは、カラー写真がようやく商業写真にのみ使われるようになった初期のころから、写真における色彩の重要性を重視して、隠遁的な生活の中で、大量のカラー写真を撮って、ため込んでいた。もともと消費期限が切れたフィルムで撮影して、資金の問題からプリントもせずに退蔵していた大量の写真が存在していた。30年の歳月を経て、写真技術の進歩のお陰もあって、それらが2006年以降に「発見」されたのであった。
Beyond_the_fringe1966 ソールは、「とるに足りないで存在していることき、はかり知れない利益がある」と言って、なんでもない日常のなかからさまざまな被写体を抽出した。撮影された対象の9割が、彼が暮らしたニューヨークのイースト・ヴィレッジの日常の景観であった。
 彼は、自分の心に響いたシーンをできるだけていねいに漏らさず撮影しようとしたのではないだろうか。私たちが記憶に残しているシーンというのは、とくに美しいとか、際立って特徴があるとかいうものでは、必ずしもない。ただ、ふと心に残るなにかがあったことはおそらく事実で、それは「見つめる」主体たる自分自身の心のなかに、対象を見たことに反応するなんらかの誘因が存在していたのであり、広い意味の感動を経験しつつそれを見つめていたのだろう。
 ソールは、イースト・ヴィレッジの日常風景から、そうした心に引っかかったシーンを丁寧に撮りためた。荒木経惟は、被写体が風景であろうが人物であろうが、その画面のなかにある種の「生命」「移ろい」「心理」を見ている。荒木経惟は、対象のなかに息づく命のうごめき、生々しさ、感情を愛しく感じるのだろう。ソールは、対象のなかみより、むしろそれを見つめる自分自身の心の動きに集中して、そのシーンが彼自身の心に響く痕跡のようなものを、生命・非生命を問わず、自分の宝物として捉えようとした。1950_2
 写真のモデルとして出会った女性に、ソームズ・パントリーという画家がいた。彼女はソールとともに長い間暮らし、互いにその芸術活動を刺激しあったようだ。ソールは、ソームズ・パントリーの顔・姿・ヌードを写真に撮影し、また絵画として描いている。
 ソールは、「絵は創造だ。写真は発見だ。」と言っていたという。たしかにソールの淡々とした写真のなかから、なんでもない日常のなかに、こんなにもしっかり存在している、あるいは輝いている、あるいは美しい、あるいは重たい、あるいは訴えている、さまざまな主観的に「印象深い」ものを見ることができる。その感動は、撮影された瞬間のものが写真画面として凍結されているから、作品はいつまでも新鮮で新しいのである。

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写真家ソール・ライター展 伊丹市立美術館 (上)

 伊丹市立美術館で、ソール・ライターという写真家の個展を観た。


ソール・ライターという写真家1948
 ソール・ライターは、1923年ペンシルバニア州ピッツバーグに、ユダヤ教の聖典であるタルムードを研究する学者の子として生まれた。そしてユダヤ教を専門に学びラビになることを目指して神学校に進学した。すでに12歳のとき母親からカメラを与えられ、絵画とともに写真に興味を持っていたソールは、23歳のとき神学校を去って単身ニューヨークに移り、アーティストを目指すようになった。当初は画家を目指していたソールは、抽象表現主義の画家リチャード・パウセット=ダートと出会い、続いて写真家ユージン・スミスとも出会った。ユージン・スミスは、ソールに写真を撮ることを強く勧めた。1946年からソールは、愛用していたライカで、モノクローム写真を撮り始めた。
1950_2 やがて1948年からは、コストの問題から消費期限切れのカラー・フィルムを用いてカラー写真を撮り始めた。当時は、芸術としての写真はモノクロームでなければならない、という時代であった。ソールは、生計を建てるために商業写真、とくにファッション写真に取り組み、ELLEやヴォーグ、そして男性誌エスクァイアやファッション誌ハーパーズ バザーの主力カメラマンとして活躍した。画家・ファッション写真家、そしてアート・プロデューサーとして活躍していたエドワード・スタイケンに認められたのもこのころであった。エドワード・スタイケンにより、1953年ニューヨーク近代美術館の「Always the Young Stranger」展にライターの白黒写真が展示された。
 しかしソールは、ファッション写真家として高名になっていた1970代終わりに、突然商業写真業界から姿を消してしまった。
 30年近く経った2006年ドイツのシュタイケル社から発刊された作品集でソールは再発見され、世界的にセンセーションを巻き起こした。ソールは、すでに83歳になっていた。さまざまなソール・ライターの写真作品の展覧会、出版が相次ぎ、2012年には「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」というドキュメンタリー映画が公開された。日本では昨年東京で回顧展が初めて開催され、ついでここ伊丹での開催となった。

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矢野暢・福士昌寿『日本を変えるシナリオ』中公新書

 昭和61年(1986)に発刊された新書であるから、発行後すでに32年が経過している。もうすぐ平成期が終わろうとしている今になって、この平成期を振り返る意味もあって、古い本をあえて読んでみることにした。これは政治学・国際関係論を専門とする京都大学教授と、経済企画庁に長らく務めた元官僚との、二人の対談録である。

 この書が書かれたときは、わが国は過去最大ともいえるバブル経済の最中であった。時代の雰囲気なのか、やはり日本の経済力、日本の経済成長について、今から思えばずいぶん楽観的である。日本は世界で先駆的に「顧客を神としてあがめる企業国家」になったし、これからもその延長上に成長する、としている。それを後ろで支えているのは日本独自の「官治国家」である。政治家は「官治国家」のなかで、時代をリードするわけでなく、「事件処理屋」として存在している。企業はどんどん発展し国際化を進める一方で、政府はそれに追いつけず、いずれ企業のほうから国家を選ぶようになる。そういう意味では、世界規模で国家という存在が崩壊しつつある。これらの経済や政治の議論では、いささか楽観的すぎたり、極端すぎたり、首肯しがたいものもあるものの、まだ議論の意味が理解できる。
 しかし、将来へ向けての社会論、文化論、社会思想論になると、「知識人」と自認しているヒトの放漫な雑談の域から出るものではなく、はたしてその議論にどの程度の意義・意味があるのか、私にはよくわからなくなる。
そういうわけで、全体としてはなかなか評価しにくいが、この書の欠点が著者の能力にあるとするのもいささか酷であろう。こうして振り返ってみると、30年さきの将来を予測するということが、いかにむずかしいかを思い知らされる。後半で問題視される人口問題も、現在わが国で取り上げられている「少子化」はほとんど意識されず、世界的な人口過大化や、せいぜい高齢者が増加する、という程度の関心である。
 もっと根本的には、まだこの時期には「進歩史観」や「科学技術への信頼・信仰」が強かったことがよくわかる。
 こうして過去の議論を眺めてみると、30年余りという年月は、意外なほど大きな変化、それも予測できない範囲の変化を積み重ねてきたことを、あらためて認識させる。
 読書の中身にはさほど得るものが多かった気はしないけれど、時間の経過、時代の推移ということの意味を、あらためて考える機会になった。

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伊能忠敬と佐原 (4)

樋橋と伊能忠敬旧宅Photo
 伊能忠敬記念館に対して、小野川を隔てた向かい側に伊能忠敬旧宅がある。
 記念館から旧宅へ行くには、「樋橋(とよはし)」という名の橋を渡ることになる。この名は、水を運ぶための小野川をまたぐ大きな樋に由来する。江戸時代初期、佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送水するため、木製の大きな樋を小野川のうえに架けていたのであった。当時は、あくまで水を送るための施設であり、人がわたる橋ではなかった。やがて人がわたる便を考えて、木製の箱型樋の上面に、丸太の手すりをつけて、人が通れるようにしたのであった。その樋から、水がジャージャーと流れ落ちることが多々あったらしく、「ジャージャー橋」とのあだ名が残っている。昭和になって、コンクリート造の橋になったが、平成4年(1992)に現在の木製の橋に改められたという。
Photo_2 樋橋を渡って少し北側に正門がある。正門をくぐり抜けて右折すると、この屋敷の入り口がある。
 入り口を入ると、土間があり、土間に面した座敷が店舗の「帳場」となっている。この建物こそが、伊能忠敬が17歳で婿として入り、49歳で隠居するまで、30年間を生活した場所である。正門・店舗・炊事場・書院・土蔵からなる典型的な豪商の屋敷である。ここは昭和20年代まで実際の伊能家の居宅として使用され、貴重な伊能家史料を守ってきた屋敷であった。

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 現在残る店舗は、もとは土蔵であった場所を改装したもので、細長い帳場の奥に7畳半の部屋2間が続いている。店舗から本宅・居間である書院へつなぐ位置に炊事場がある。炊事場には、竈のそばに、忠敬が愛用した測量器具が現在は展示されている。
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 屋敷だけでなく、敷地も江戸時代より縮小したというが、建物の南側と東側には、水路を取り入れた端正な庭園がある。縁側からは、書院の部屋も覗くことができる。屋敷は、全体として贅沢さはなく、機能的でむしろ質素である。伊能忠敬とその子孫たちの質実さがうかがえるように思う。Photo_5
 屋敷の東側に、土蔵がある。これは、忠敬が養子に入る前からあったもので。近世中期の様式を忠実に残す貴重な建造物である。切妻造り、桟瓦葺き桁行7.28メートル、梁間4.53メートル、建坪46.23平米(14坪)で、土壁を厚く塗って耐火性を向上した構造となっている。もとは専ら穀物を貯蔵する蔵であった。昭和59年(1984)解体修復のとき、土蔵内部から文政5年(1822)の修理墨書銘が発見されたという。
 関東地方で古くから繁栄した都市は、「小江戸」とアピールすることがあり、ここ佐原もそのひとつである。ここの旧市街の町並みは、たしかにゆったりとした豊かさを感じさせるものがある。初冬のひととき、幸い天候にも恵まれ、快適で印象深いひとときを過ごすことができた。

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伊能忠敬と佐原 (3)

伊能忠敬記念館
Photo_2 旧市街地域のほぼ南端に、伊能忠敬記念館はある。旧記念館は昭和36年(1961)に建設されたが、展示面積が狭かった。平成元年(1989)に地元出身の高木啓司氏が3億円の寄付をしたことで、新記念館建設構想がスタートした。平成6年度に基本構想委員会からの最終答申、平成7年度に実施設計を行って建物建設に着工し、平成8年度に現在の建物が完成した。そして、平成9年度(1997)に展示室の工事を行い、平成10年(1998)5月開館した。

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 入館すると、最初に日本全図の大きなディスプレイがある。現在の観測衛星ランドサットによる正確な地図と、伊能忠敬の制作による地図とが、一定時間間隔で交互に表示される。経度方向は少しだけズレがあるが、緯度方向はきわめて正確である。200年以上昔、航空写真どころか、測量器械にさえこと欠いた時代に、歩測と間縄、路程車、鉄鎖など簡単な測量器具と初歩的な天体観測だけでこれだけ
の成果を得たのであった。落語家立川志の輔さんはこれを見て、心から感動して、長い時間をかけて自作の伊能忠敬の1時間半にわたる長編伝記落語、内容はほとんど講談のような作品を制作されたのであった。
 伊能忠敬は、延享2年(1745)九十九里の小関三治郎の子として生まれた。17歳のとき、当主が亡くなって21歳の寡婦 達(みち)が子供とともに残されていた佐原の名家伊能家へ、婿養子として入った。忠敬は米商・運輸・酒造・炭・金融など多角的に営業を拡大し、36歳で名主を拝命し、3万両(30~40億円)ともいわれる財産を蓄積した。
この間、34歳のときには、奥州松島へ旅し、また48歳のときには伊勢神宮へ旅している。このころには、すでに天体観測や測量に興味を持っていたらしく、旅のなかで緯度・方位の観測を行っていたという記録がある。
そして49歳の時、息子を説得して隠居を決め、翌年から江戸に移って幕府天文方高橋至時(よしとき)に入門した。忠敬は、若いころより読書・俳諧に加えて、天文学などいわゆる理科系の学問に深く興味を持ち、中国経由の文献を収集してかなりの勉学を積んでいたので、高橋至時はそれを認め、早くから高度な西洋式天文学を教えたという。Photo_4
 彼は、地球の寸法を知りたかった。江戸のなかを歩き、歩測での距離と、天文観測での緯度から、緯度1度の地表面の距離を計算した。しかし師の至時は、それでは計測距離が短すぎて誤差が大きい、せめて江戸から蝦夷までくらいの距離を測らないといけない、と指導した。これに応えて忠敬は、まったくの自腹で現在の貨幣価値で1,000万円以上を投入して、蝦夷までの測量旅行を断行した。第一回の測量は、寛政12年(1800)忠敬55歳のときであった。この結果副産物として、第2次測量の結果を合わせて、江戸から蝦夷までの海岸線の詳細な地形が明らかになった。享和3年(1803)まで毎年、計3回の測量を行い、東海~北海道南部までの詳細な地図が完成した。それまでの測量で、緯度1度の地表長は28.198里と見積もった。この数値は、当時の世界最先端であったフランスのジェローム・ラランドによる計測値28.206里とほとんど一致していた。忠敬の地図の出来栄えが将軍徳川家斉の知る処となり、その地図の精緻さに感動した家斉が忠敬を登用することとなった。これ以後、第5回(畿内・中国)から第10回(江戸)まで、文化13年(1816)までに6回にわたる測量が、幕府の後ろ盾を得て実施された。私の祖先(明石大蔵村大庄屋)が協力したのは第5回のことであった。
 忠敬が用いた各種の測量器具が展示されている。24時間を59,000カウントで時間を計測する垂揺球儀という振り子時計や、当時最先端の国産望遠鏡(堺の業者の製造による)などもある。
 記念館を出て、すぐ前のレトロな喫茶店「東京バンドワゴン」でカフェオレを頂いた。大きなカップに、ミルクコーヒーがなみなみと注がれていた。

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伊能忠敬と佐原 (2)

小野川と伝統的な商店など
 JR成田線の線路沿いの道から小野川両岸の旧市街に入ると、古くは江戸時代以来、比較的新しいものでは大正・昭和時代のレトロな建物が軒を連ねている。

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 小野川は、ここからほんの1キロメートルほど北で利根川に合流する、この地域の母なる川である。小野川両岸には、ところどころに船着き場が設えられ、それぞれの商店が舟運へのアクセスを確保していたことがわかる。
 小野川周辺の旧市街地区を川面から眺める遊覧船が運行していて、観光客を乗せて、30分に一回程度川面を往復する。いまは冬に差し掛かりシーズン・オフなためか、観光客は多くない。
Photo_3 「忠敬橋」と名付けられた橋を軸にして、旧市街が小野川と直角方向にもひろがっている。
その入り口にあたるところに「植田屋荒物店」がある。このお店は、江戸時代後期から営業する荒物屋で、金物、蝋燭などの生活消耗品、生活雑貨品など、さまざまな日用商品の、もとは卸売業であったという。大きな土蔵は天保期のものを明治期に建て替えたものがいまに残っているといい、さすがに太い丸太と白壁が印象的である。今は、この土蔵のなかを店舗に使用している。

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 小野川の東側、ちょうど「町並み観光中央案内処」の対岸に「正上」という商店がある。寛政3年(1832)の建造という商家の建物で、もとは油商であったが、天保3年(1832)から醤油業を営んだ。このあたりは醤油の醸造でも江戸時代から有名であった。戦後は醤油を用いた佃煮の製造販売を主に営業した。明治初年に建築された袖蔵とともに、建築当初のまま残っている貴重な建物だという。現在は「いかだ焼き」という佃煮のお店となっている。Photo_5
 「忠敬橋」を東に折れて少し歩いたところに、赤いレンガ造りの西洋風建築がある。これは大正3年に建てられた三菱銀行佐原支店本館の建物で、現在は「三菱館」として、市の観光業務に使用されている。明治13年(1880)川崎銀行佐原支店として、当時の清水満之助本店、現在の清水建設が設計・施行したものを、三菱銀行が引き継いだのであった。階高の高い総2階建てで、懐かしい美しい外観である。
  これらの他にも、多くの伝統的建築物が並んでいる。

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伊能忠敬と佐原 (1)

佐原駅
 今年の春、偶然のきっかけから「伊能忠敬測量協力者顕彰会」に参加する機会を得て、伊能忠敬歿後200年法要に参列したこともあり、一度伊能忠敬記念館とその旧宅を訪れたいと考えていた。12月になって、それがようやく実現したのである。

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 東京日本橋の宿から、電車を乗り継いで2時間半近くで、ようやく千葉県香取市の佐原駅に着いた。この駅舎は、伊能忠敬旧宅あるいは佐原の伝統的町並みからヒントを得たらしく、近世の商家の様式となっている。そして、駅前には大きな「伊能忠敬翁」の銅像が聳え立っている。現在は、まずは伊能忠敬を地元のヒーローとして、観光開発を進めているようである。逆光で少し顔が見えにくいが、この春に東京の富岡八幡宮で見た銅像とは、容姿がかなり違っている。こちらの方は、かなり若くて、ずいぶん高い鼻が特徴である。Photo_2
 この地は、明治20年に「佐原町」が町制として成立し、伊能忠敬の子孫であろう伊能権之丞・他の地元有力者が「下総鉄道」(後の成田鉄道)を明治26年(1893)設立したのが鉄道運輸のはじめであった。この佐原駅は、明治31年(1898)から開業している。路線は、我孫子と成田の双方に向かったが、我孫子との間の方が交通量は多かった。駅からは、馬車や人力車が使われた。大正5年(1916)からは、北総自動車によるバスの運行も始まった。大正8年(1919)には、すでに佐原公園に「伊能忠敬銅像」が建てられたという。近世以来、この町を流れる小野川の舟運は物資輸送の主軸で、鉄道・バスなどの開始後も河川の船舶輸送は並行して発展した。大正9年(1920)成田鉄道は国有化された。
 駅の観光案内所で観光マップをいただき、伊能忠敬旧宅・記念館への行き方を確認する。旧市街の風致地区をゆっくり見ながら、約20~30分で記念館に着くという。
 いったん駅から少しだけ南に下り、すぐ左折してふたたび線路に沿ってしばらく東に向かって歩くと、利根川の支流である小野川に至る。ここから南南西に旧市街地区が続いている。

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吉例顔見世12月興行 南座

 南座での顔見世の12月興行を鑑賞した。夜の部はいつもより遅い午後4時50分の開演であった。

12 最初の演目は「義経千本桜 木の実・小金吾討死・すし屋」である。これは『平家物語』を底本としながら、平治の乱で源氏に敗れた平氏一族の残党に対する源氏の追討の一環のエピソードの物語である。平清盛の子で武勇・人格に際立って優れ人望を集めていた平重盛には維盛(これもり)という嫡子がいたが、源平合戦で敗れて自死したと伝えられている。しかし、この舞台では、実は生きて高野山に逃れた、ということになっている。
 維盛の妻若葉の内侍と、その子六代の君が、重盛にかつて仕えていた主馬小金五という若侍に連れられて、高野山の維盛をたずねる旅の途中、大和国吉野の街道筋の茶店に立ち寄っているところから「木の実」の舞台が始まる。幼い六代の君が、木から落ちた木の実を拾って遊んでいると、遊び人風の男が通りかかって、礫で木の枝を打ち、たくさんの木の実を落として六代の君を喜ばせる。ここまでは、ごく平穏な風景である。しかし実はこの男「いがみの権太」とあだ名の名うてのワルで、謀って小金吾から金を巻き上げる。この茶屋は実は、権太の女房である小せんが営む茶店で、六代の君と同じくらいの年頃の男の子が遊んでいて、後の展開の伏線となっている。
 「小金吾討死」の場では、若葉の内侍の一行が旅を行く途中で、大勢の源氏の追手に襲われ、大立ち回りの末、小金吾はついに切り殺されてしまう。舞台はさまざまな派手な振り付けが見もので、とくにたくさんの縄をつかった殺陣の振り付けがおもしろい。そこへ近くの村のすし屋の親父弥左衛門が通りかかり、死んだ小金吾を発見して、なにやら不審なふるまいを始めるところでこの場は終わる。
 最後の「すし屋」の場では、この店の主人弥左衛門が権太の父であり、ここに維盛が店の見習いの使用人に身を窶して滞在している。ここへ偶然若葉の内侍と六代の君が迷い込み、維盛と喜びの再会を果たす。その事情を、たまたま金の無心に来ていた放蕩息子の権太が立ち聞きして、悪知恵を働かそうと動き出す。親父の弥左衛門は、かつて重盛に命を救われたことがあり、命がけで重盛の子の維盛を救おうとしていた。この店の鮨は、桶に米を入れて発酵させる押し鮨で、そのため多数の空桶が置いてあるが、この取り違えがストーリー展開の鍵となり、悪だくみを図っていた権太は、弥左衛門にその罪を咎められて刺殺される。しかし、死に臨んだ権太は、実は父の意志を理解しており、弥左衛門が切り取って桶に隠していた小金吾の首を、維盛の首と偽って、さらに自分の女房と息子を、若葉の内侍と六代の君に取り換えて源氏の追手に差出して、自分と家族を犠牲にしてまで維盛とその妻子を救おうとしていたのであった。
 ワルの権太が肉親への愛情から、自己と妻子を犠牲にしてまで改心を示し、さらには褒美として与えたられ頼朝の陣羽織のなかに、維盛に対する「出家すれば放免する」とのメッセージがあって、頼朝の度量の大きさが表現されたり、とストーリーはかなり複雑である。
 さらに、父親に刺されて出血しつつも、その瀕死の苦しみの中で事情と心情を説明する権太の長い長い往生際は、百川敬仁『日本のエロティシズム』ちくま新書、2000によれば、日本特有の「もののあわれ」に関連して、観衆の情動を喚起する演出として古くからよく用いられた演出であるという。断末魔の苦しみにあえぎながら告白することが、権太の真心の真実を証明するのであり、劇中の権太という配役は、死を目前にしたこの短い時間のためにこそ生きている。歌舞伎舞台としては、やはり仁左衛門の年齢を感じさせない溌溂として機敏な美しさが際立つ。
 2番目の演目は、「面かぶり」という長唄囃子による舞踏である。13人の囃子をバックに、ただ一人鴈治郎が踊る。観衆全員の視線を、まさに一身に集めてのかなり長時間の演技は、さすがにプレッシャーがあると思うが、鴈治郎はさすがに安定感と安心感のある舞台であった。
 3番目は「弁天娘女男白浪(べんてんむすめ めおのしらなみ)」で、「浜松屋見世先より」と「稲瀬川勢揃い」の2場である。女に化けて商店を荒らす弁天小僧菊之助が、店に寓居していた日本駄右衛門に正体を見破られ、それでも意地を張って金を奪おうとするお話しで、弁天小僧演じる愛之助のコミカルで軽妙な演技と、最近はテレビでもすっかりお馴染みとなった南郷力丸演ずる右團次との掛け合いが見せ場である。日本駄右衛門演ずる芝翫は、いまではすっかり貫録がついて、老練で重厚な演技といえる。勢揃いでの、それぞれゆかりの地名を随所に取り入れた口上は、やはり山場として聴きごたえがある。
 最後は「三社祭」で、清元による悪玉・善玉2人の掛け合い舞踊である。善玉の片岡千之助は孝太郎の子だが、祖父仁左衛門に似て美貌で、期待の18歳である。悪玉を演じた中村鷹之資は、五代目中村富十郎の古希のときの子で、少しぽっちゃりしているが、この人もまだ19歳の新鋭である。鷹之資の舞踏はとてもキレがあって、なかなか良かった。
 夜の部が終わったのは、午後10時少し前であった。さすがに顔見世だけあって、とても充実した、延べ5時間にわたる中身の濃い舞台であった。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (5)

1928年・1918年
 昭和3年(1928)は、金融恐慌を受けて経済低迷と財政難に苦しむなか、田中義一内閣が、国際協調外交から軍事重視の傾向へ転換し、山東出兵から張作霖爆殺事件にいたる不安定化の時代であった。海外では、ソ連でトロツキーが失脚し、イタリアでファシスト党が創立した。国内では日本共産党の一斉検挙があった。Photo
 このように不安感をはらむ時代ではあったが、大正デモクラシーの余韻も残り、美術活動も活発で、多くの若手画家は西欧絵画の習得に励んでいた。経済的に余裕のある者、あるいはスポンサーを得た者は、積極的に海外に留学して才能を研鑽した。外国に出ることが叶わなかった者は、国内で研鑽を積んだ。
 明治以来のひとつの目標であった西欧絵画の技術の習得という点では、多くの画家が未だぎこちないが、留学というチャンスのお陰かあるいは才能なのか、佐伯祐三と国吉康雄は、ひときわ一段群を抜いたレベルを感じる。
Photo_2 大正7年(1918)は、私の父が就職活動に苦労した大不況の最中であった。「大学は出たけれど」という言葉が流行した時代であったと聞いている。ロシア革命の余波を受けたシベリア出兵から派生した米騒動への対応で失脚した寺内内閣のあとを受けて、わが国初の本格的政党内閣との触れ込みで原敬内閣が誕生した年であった。日露戦争以来続く厳しい財政難と軍拡の慢性的過重負担のなか、国民生活のためのインフラ整備と大正デモクラシーの醸成が務められた。
 64年も後の1982年になって、少年時代の記憶をもとに描かれた絵として岡本唐貴「『自伝的回想録』より」として米騒動のことが描かれている。岡本唐貴にとって、米騒動はよほど強烈な印象だったのだろう。
 展示されているこの時期の絵画は、日本の古くからの伝統的絵画の延長戦上のものと、新たに取り入れた西欧絵画の系統のものとのふたつの流れがある。とくに版画では、日本の伝統的技術と表現に則った作品は、当然ながらしっかりした優れたものが多いように思える。
 こうして100年間にわたるわが国の美術を概観できた。ヒトの人生は短いもので、高齢の私でさえ自分の経験したこととつきあわせて鑑賞できるのはせいぜい50年程度に過ぎない。それでもこうして時代を軸に美術作品を眺めると、当然ながら美術創作活動も時代背景に規定されている面があるわけで、その意味ではより理解しやすい、鑑賞しやすい側面があることを改めて感じた。同時に、これまで過ごしてきたささやかな自分の道のりを、美術を通して見つめなおすひとときでもあった。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (4)

 

1948年・1938年
 昭和23年(1948)となると、私が生まれる前年であり、私個人の経験からは完全に離れる。インド独立の父マハトマ・ガンジーが暗殺され、朝鮮半島で朝鮮民主主義人民共和国ができた。国内では、美空ひばりが全国的にデビューし、現在のホンダの前身である本田技研工業株式会社ができた。極東国際軍事裁判が東京で行われた年でもあった。Photo
 さきの大戦の敗戦からまだ日が浅く、日本国内は荒廃が収まっておらず、物資も食糧も不足し、多くの人々は貧しい生活を余儀なくされていた。
 芸術では、文芸評論家の花田清輝、美術家の岡本太郎、文学者の野間宏が、前衛的な総合芸術の研究会として「夜の会」をつくった。椎名鱗三、埴谷雄高、佐々木基一、安部公房、関根弘らもくわわった。「リアリズム序説」「対極主義」「反時代精神」「創造のモメント」といった研究発表を軸に、アヴァンギャルド芸術をめぐる熱い討論がかわされたという。
 展示された絵画を見ると、田中幸之介「ミシンと女」、伊藤清永「室内」のように、戦争が終わって貧しくとも平和が到来したことに安堵した作品と、田中忠雄「鉄」、上野省吾の『銅版画集』のように、敗戦後の厳しい生活を暗示的にあるいは直接的に表現した作品との、大別して二通りがみられる。当時のひとびとにとっては、そのいずれもが実感だったのたろう。山本敬輔「ヒロシマ」は、あまりにパブロ・ピカソの「ゲルニカ」に似すぎていて、さすがにいかがなものか、と感じてしまう。
Photo_2 昭和13年(1938)は、さきの大戦がいよいよ抜き差しならぬ段階に陥っていく時期であった。私が生まれる10年以上前のことで、当然私に当時の記憶はありえないのだが。ヨーロッパではドイツ・ナチスがオーストリアを併合してますます勢力を拡大し、ユダヤ人への迫害がはじまっていた。日本は、中国との戦争がはじまり、国家総動員法が公布され、1940年開催予定であった東京オリンピックを返上した。当然不穏な環境であったろう。
 阿部合成の「見送る人々」は、すでに何回かみたことがある。青森に生まれ、旧制中学で太宰治と同級で過ごし、京都で絵を学び、この「見送る人々」で画壇から認められた。出征していく若者を見送るひとびとを描くが、画面の右手に自分の顔を描き込んでいる。他の大勢の登場人物が醜く付和雷同するのに距離を置き、視線もそらして一線を画している。この描き方は、大衆に対する侮蔑と自分は知的に優越していることを強調したい表現に思えて、あまり感じのよいものではない。まあしかし、当時の不穏な世情を表したとは言えるだろう。一方で、浅原清隆「郷愁」や古家新「養魚場」のように、平穏できれいな作品もある。
 

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映画「今夜、ロマンス劇場で」

 綾瀬はるかと坂口健太郎が主演する、ファンタジーである。映画助監督が映画を愛するあまり、なつかしのモノクローム映画のシーンからヒロインの御姫様を引き出してしまい、ファンタジーの世界で淡くはかない恋物語を展開する、というお話しである。ストーリーは、主人公の助監督の最晩年の回顧談となっていて、どこまでが彼の実体験で、どこからが彼の夢想なのかさえ明確ではない。しかし映画の世界とは、またその魅力とは、本来そういうものなのだろう。
 綾瀬はるかは、この浮世離れした幻の御姫様を演ずる女優として、まさにぴったりである。相手役の坂口健太郎は、最初は役柄にふさわしいのか心配したが、見ていくにつれて優れた俳優だと再認識した。その老後の最晩年を演じた加藤剛も、すっかり弱弱しい老人になって、あまりにぴったりで感動した。加藤剛は、この7月に亡くなったが、最後の演技だったのかも知れない。
 現実にはありえない、まさに荒唐無稽なお話しではあるが、映画としては決して軽んじることができないひとつの真理を表わしているのだろう。

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北岡伸一『国連の政治力学』中公新書

 10年余り前でまだ企業で働いていたころ、興味をもつて新刊書として購入したものの、いろいろ取り紛れて放置してしまった。本棚を整理しているときに見つけて、遅ればせながら読んでみた次第であった。
 私たち日本の一般大衆にとって「国連」の印象はあまり芳しいものではない。常任理事国という特権的な5か国があって、大事な案件に限ってたいてい中国やロシアの拒否権で望ましい行動はできない。人権委員会というのがあって、韓国や中国の暗躍で、クマラスワミ報告などという理不尽な日本を貶める声明が出る。日本にとって害はあっても益がほとんどないように思えるのに、分担金は世界でもトップレベルに近い。
 最近は存在感が薄いけれども10年ほど前までは、小沢一郎氏が「国連中心主義」を提唱して、メディアでもてはやされたりしていた。ほとんどウンザリという印象が強かった。
 しかしこの本で、国連に自ら飛び込んで、前向きに国連のため、日本のために働いた第一級の政治学者の体験にもとづく国連論を読むと、私たちももっと国連に対してまじめに向き合わないといけない、という気持ちになった。
 世界に200ちかくに達しようとするほどの数の国家があり、巨大国も微小国も、豊かなくにも最貧国も、みな同じ発言力を担保されている組織であるがため、理念的には理想的、現実にはほとんで決定できないという深刻な事情を、冷静に受け止めて、それでも世界中のどの国ともコンタクトできる貴重なルートであることを、しっかり強かに活用することが大切であることを思った。
 机上で、あるいは頭の中だけでの議論ではなく、この本のような最前線の実務体験に基づいた論考を、今後もつぎつぎに出版していただきたい。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (3)

1968年・1958年
Photo 昭和43年(1968)は、私はまだ大学生であった。この年は国内外で激動の年であった。ソビエト連邦の強圧下に呻吟していた東欧諸国がようやく動きだし、チェコスロバキアでブラハの春がはじまり、また長びいていたベトナム戦争では、転換点となったテト攻勢がはじまり、アメリカではマーティン・ルーサー・キング師が暗殺され、戦後世界の進歩的知識人たちが大きな期待を注いでいたフランスの五月革命が敗北に終わった。日本の一般社会では1989年のベルリンの壁崩壊が社会主義の終焉との印象だが、ヨーロッパ思想界では、五月革命敗北をうけてフェリックス・ガタリとジル・ドゥルーズが「アンチ・オイディプス」を発表して、すでにベルリンの壁崩壊の20年以前から共産主義・社会主義革命実現への希望が潰えていた。国内では、霞が関ビルが竣工し、イタイイタイ病が公害病に認定され、川端康成のノーベル賞受賞が決まった。三億円事件も発生した。そして日本全国の大学で学園紛争がまん延し、学生ストライキ、学舎籠城、デモ、内ゲバなどが各所で発生していた。
 私は、この年はじめてアメリカのロサンゼルスを訪れ、いろいろ印象深い経験をした。美術界では、マムセル・デュシャンが亡くなって、わが国でもささやかながら展覧会などの話題となったことを覚えている。Photo_2
 理科系に興味が偏重していた私が偶然美術に興味を持ち始めたのは、高校生活後半時代の片恋からであり、本格的には大学に入ってからであった。
 横尾忠則は、大学紛争たけなわのこの時期ころから学生たちにも人気者となったが、このころはまだアングラ芸術家であり、日陰のアーティストという感じであった。
 このたびの展示でも、マルセル・デュシャンのコーナーがあり、彼が美術を眼に訴える芸術から精神に訴えることを唱道したと説明があるが、私たちには、レディメード、すなわち芸術家が自ら制作しなくとも、有り合わせのモノであっても視角を変えて新しい美術的価値を見つけ出すことができれば、それは芸術的創造だ、と主張したことが新鮮であった。この時期の美術作品として、サルバトール・ダリの作品が何点か展示されている。見方によってはきれいな絵の日本のマンガにも見えるが、当時からなんとも不思議な魅力を感じた。
Photo_3 昭和33年(1958)は、私は小学校4年生であった。この年に月光仮面がテレビドラマとして放送されたこと、今上天皇が正田美智子さん、つまり現皇后と婚約されたことなどは、朧気ながら記憶に残っている。ほかにも東京タワーが竣工したこと、日清食品がチキンラーメンを発売したことなどがあるらしいが、私の記憶にはさだかでない。
 展示には、アルベルト・ジャコメッティの「石碑Ⅰ」というブロンズ像がある。ジャコメッティは、独特のやせ細った人物の塑像で人気が高かったそうだが、このころはすでに晩年であったようだ。国内では1951年に戦後前衛芸術活動の代表的な画家のひとりであった瑛九が、既存の画壇の権威主義的な傾向に異議をとなえて「デモクラート美術協会」を設立し、泉茂、池田満寿夫、吉原英雄、靉嘔などが集まった。関西では、吉原治良のもとに糾合した関西の若手の作家たちで1954年「具体美術協会」ができた。こうしてわが国の抽象絵画の活動は大いに勢いづいた。ここでは、瑛九の版画集の作品や靉嘔「アダムとイブ」、白髪一雄の「作品Ⅱ」などが展示されている。
 しかし、ここにならんでいる抽象絵画の油彩は、なぜこんなに申し合わせたように絵の具を徹底的に厚塗りしているのだろう。それぞれに独創的な絵画表現を探求した、と聞いているが、これではみんなワンパターンではないか。さすがに、当時小学生の私がこれらを知ることはなかった。渡辺一郎の「架線」もある。浜田知明「飛翔」も、今となってはありふれた表現かも知れないが、四角の箱からヒトの顔と脚が出て、空中に浮遊するという構成の発想はおもしろい。

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10年ひとむかしと人は言う 兵庫県立美術館 (2)

1988年・1978年
B_2 昭和63年(1988)は、バブルの真最中で、そのあと20年間続く平成不況直前の昭和最終年であった。ファミコンのドラゴンクエストが大流行し、青函トンネルが開業し、東京ドームが開場し、瀬戸大橋が開通した。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件という奇怪な悲劇もあった。そして昭和天皇が危篤となり、急遽日本国内に自粛ムードが広がったときでもあった。私自身の思い出としては、長らく過ごしてきた関西を離れ、首都圏に生活するようになってすっかり落ち着いたころであった。仕事でもさまざまな問題を抱えて、残業時間もずいぶん長かったけれど、好景気の環境から後のような逼塞感はなく、それなりに明るく過ごしていた。最近過労死がメディアに取り上げられて大問題になっているが、当時はもっと長時間の残業も珍しくなかった。やはり将来に希望がもてる時代だったと言えるのかも知れない。しかし一方では、地価が上昇しすぎてまともな給料取りの生活では生涯かかっても土地付きの住宅を購入することは至難のこととも思えた。Photo
 当時人気が高かった写真週刊誌の表紙を担当していた三尾公三の「画室の女(B)」(1988)は、画面を構成するそれぞれの要素は小ぎれいで貧しくないけれど、それらのモノも人物もなにか足りず、満足感がなく、虚無的でさえある。
 木下佳通代「88-CA497」(1988)は、意味不明のタイトルの抽象画だが、カンバスの白地に長短・太細のさまざまな黒い直線を描き込んだ作品で、印象として活気・混迷・逼塞の諸要素を感じさせる。
 その10年前の昭和53年(1978)は、東京池袋にサンシャイン60が竣工し、成田に新東京国際空港が開港し、日中平和友好条約が調印された年であった。私は企業勤務の生活に順応して、社員組合の役員を勤めたりして、予想外の本務以外の仕事で忙しいという経験をしていた時期であった。横尾忠則がすっかり大家となって、大手メーカーの商業宣伝ポスターの制作をしている。浜田知明や元永定正の象徴的あるいは超現実的な表現の作品も、このころには違和感なく定着しているように思える。
 前田常作の仏教画がいくつか展示されている。私はこれまでこの画家については知らなかったが、充実した落ち着いた作品が並んでいる。

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