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2019年2月

ロマンティック・ロシア Bunkamura ザ・ミュージアム (3)

ロシアの街と人々
 イリヤ・レーピン「画家イワン・クラムスコイの肖像」(1882)がある。レーピンは、移動派の年長の先輩イワン・クラムスコイとは、ともに当時のロシア社会の問題に向き合い、改革のために戦う同志であった。彼は、音楽家アントン・ルービンシュテインの肖像も描いている。Photo
 市井のひとびとのようすについても作品がある。フィリップ・マリャーヴィン「本を手に」(1895)やパーヴェル・チスチャコーフ「ヘアバンドをした少女の頭部」(1874)、ニコライ・カサートキン「柵によりかかる少女」となど、いずれも穏やかで静かな絵である。
 ウラジーミル・マコフキー「ジャム作り」(1876)がある。ウラジーミル・マコフキーは、移動派の代表的な画家として、当時の社会問題や政治などにかんする発信が多かったが、あわせて庶民生活を描いた穏やかな世俗絵画も多く残している。「ジャム作り」では、農村の生活に多少の余裕のある農民なのだろうか、亭主らしい男が、あたかもとても大切な儀式であるかのように、荘重な表情と態度でジャムを作ろうとしている。ある意味、平穏でのどかな光景である。

Photo_2
 ワシーリー・コマロフ「ワーリャ・ホダセーヴィチの肖像」(1900)のように、愛らしい幼い女の子を描いた肖像画もある。
Photo_3 イワン・クラムスコイ「月明りの夜」(1880)は、幻想的な美しい絵である。白い装飾的な衣装をまとった若い女性がなぜかひとり森のなかで、ベンチに座っている。ただ、少し身体を斜めに傾げ、なにかを探っているのか、それとも何かの考えに耽っているのか、そこはかとなく不思議な光景である。この女性が姿をあらわしているのは、おそらく明るい月光に照らされているためであろう。樹木の間をくぐり抜けた月の光なのか周囲は暗いままで、そのコントラストが女性の姿を引き立てている。
 街の風景を描いたものとしてニコライ・グリツェンコ「イワン大帝の鐘楼からのモスクワの眺望」(1896)がある。
このころ、移動展覧会教会とは別に、モスクワ北東郊外のアブラムツェヴォに集まった芸術家グルーブがあった。スラヴ派の先駆けであるセルゲイ・アクサーコフが、このアブラムツェヴォの地を1843年買い入れ、ニコライ・ゴーゴリやイワン・ツルゲーネフといった作家を含む数々の文化人を暖かく迎え入れた。Photo_6
 この地は、そののち1870年に、先駆的なモスクワの実業家であったイワン・マモントフの息子、サッヴァ・マモントフに売却された。サッヴァは、父親と同様に、ロシアにおける鉄道敷設をリードした人物で、芸術やロシアの伝統文化へも関心も高く、その別荘に著名な芸術家を集め、芸術家村を作り上げた。そこにレーピン、コローヴィン、ワスネツォフ兄弟など画家や彫刻家が集まり、「アブラムツェヴォ派」と呼ばれた。彼らも、祖国ロシアへの愛情という点では、移動派と共通する。
 アブラムツェヴォ派のコンスタンチン・コローヴィンの作品として「小舟にて」(1888)がある。
Photo_5 20世紀となって1917年にはいよいよロシア革命が起こり、混乱と大変革の時代に突入する。世紀末のロシアは、その嵐の前の静けさともいうべき、全体として穏やかで優しい、しかしひそかな不安を隠した静かな芸術が存在した。もっともこの展覧会では、写実的絵画の、かつ移動派を中心とした一部の作品の展示なので、当時のロシアを代表するという保証はないのかも知れない。それでも、そのころのロシアに、精緻で丁寧で端正なさまざまな絵画があったことを、知ることができた。

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ロマンティック・ロシア Bunkamura ザ・ミュージアム (2)

ロシアの風景
 展覧会の展示では、春・夏・秋・冬の四季に分けて、それぞれの季節の風景画を展示している。ロシアは広大な土地があり、またその四季は大きく気候が変化する。Photo_2Photo_3 緯度が高く、相対的に陽射しが多くなく気温も低い期間が長いロシアでは、人々が短い春を待ちかね、愛おしむ。アレクセイ・サヴラーソフ「田園風景」(1867)を見ても、彼が春を心から慈しむ気持ちが伝わってくる。穏やかで暖かい春風、そのそよぎを浴びて陽光に輝くリンゴの木と枝、陽光を反射して輝く湖面、が気持ちよく描かれている。アレクセイ・サヴラーソフも、移動展覧会教会の創設メンバーのひとりであった。
 同じく移動派のイサーク・レヴィタン「樫の木」(1880)がある。樫の老木の力強さ、威厳を強調しつつ、穏やかな春の雰囲気を繊細に描写している。
 イワン・シーシキン「雨の樫林」(1891)は、夏とはいえさほど高温にならず、むしろ穏やかで快適そうな雨の日の風景である。ドラマのシーンのような抒情的な描写で、雨の日の湿度感まで表現している。
Photo_4 同じシーシキンの「正午、モスクワ郊外」(1869)は、高い空とその下の地平線まで続く道でロシアの広大な大地を表現している。さすがにこれだけ広大な平野は、日本では関東平野でさえ見いだせない。土地の広さを、空の高さと広がりで見事に表現している。
 ロシアの長く厳しい冬は、決して快いのもではないが、それでも樹氷の壮大で息をのむような美は存在する。ワシーリー・バクシェーエフ「樹氷」(1900)がそれである。彼は、何度も樹氷を描いているという。
 ほかにも、清く静かな雪景色を精緻に描いたミハイル・ゲルマーシェフの「雪が降った」(1897)がある。ニコライ・サモーキシュ「トロイカ」(1917)は、大胆な構図で躍動感あふれるトロイカのエネルギーを表現している。厳しいロシアの冬にも、それなりに大きな活気がある、と主張しているようである。

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ロマンティック・ロシア Bunkamura ザ・ミュージアム (1)

ロシア世紀末と移動展覧会協会
 渋谷のBunkamura ザ・ミュージアムで「ロマンティック・ロシア」と題された少しユニークな展覧会が開催された。ロシアの国立トレチャコフ美術館の所蔵品のなかから、19世紀末からロシア革命の前までの絵画を選出して展示するものである。

Photo_2
 トレチャコフ美術館は、歴史的には1851年帝政ロシア時代に、モスクワの商人で工場主であったパーヴェル・ミハイロヴィッチ・トレチャコフ(1832年-1898年)とセルゲイ・ミハイロヴィッチ・トレチャコフの兄弟が自邸に開いた美術ギャラリーから始まった。トレチャコフ兄弟により様々なロシアの芸術家たちの作品が収集され、現在では約13万点にのぼる収蔵品を誇るロシア最大級の美術館のひとつにまで成長している。
 ロシアの19世紀末は近代化が遅れ、社会に広範囲に歪が目立つようになり、不安定な社会情勢であった。農奴解放令が出されたのちも身分の違いは残り、民衆の権威や権力に対する反発は増加していった。そうした緊張した環境のなかで、文学ではトルストイ、ツルゲーネフ、ドストエフスキーなど、音楽ではチャイコフスキーやラフマニノフなど、諸分野に傑出した才能が叢生した。民衆を啓蒙しようとする動きも盛んになっていった。
 そのようななか、美術では「移動展覧会協会」が、アカデミズムの制約を嫌うイワン・クラムスコイらによって、1870年にサンクトペテルブルクに設立された。社会の問題や矛盾を告発し、また祖国愛をもとに郷土の自然の美にも注目する活動として、当時の民衆の生活に根ざした絵を写実的な手法で描き出した。イワン・クラムスコイによる人物画のひとつが、この展覧会のポスターに採用された「忘れえぬひと」(1883)である。
 移動展覧会協会は、ロシア国内、キエフ、ワルシャワなどまで、広範囲に移動展覧会を巡回し、地方に暮らすひとびとに芸術に触れる機会を与え、幅広く啓蒙的な貢献をした。この協会に加入した芸術家たちは「移動派」とよばれた。

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トマス・ペイン『コモンセンス』

 サムエル・モリソン『アメリカの歴史』を読んでトマス・ペインの存在を知り、アメリカの独立に大きく貢献したとされるThomas Paine, “Common Sense”を読むことにした。
 60ページ程度のごくみじかい英文パンフレットだが、内容は濃い。最初に、あらゆる人民は暴政に対して反乱する権利がある、とおそらくルソーの思想から説く。続いて当時のアメリカの宗主国たるイギリスの王政を、キリスト教の立場からそもそも神の意志に反する不当な制度であって、王位の世襲制がきわめて不合理なことを一般論として指摘したうえで、現実に無能で暴虐であることを指摘する。そして、アメリカがイギリスの支配を受けることの愚かしさと独立の利益を、具体的に指摘する。アメリカ大陸は宗教改革の寸前に発見され、世界の迫害を受ける人民の避難地として神から与えられた地であり、すでにイギリスのみならずヨーロッパ全体から人々が到来している。それなのにイギリスだけに服属し、イギリスから貿易・外交の制限を受け、その意のままに収奪されることの愚かしさをよく考えなければならない。遠く離れてアメリカ大陸の状況をよく把握する術も意欲もないイギリスに、これからもあらゆる重要なことを時間をかけて請願し、遠いところの他人事としか考えない連中のいい加減な判断に従い続けるのか。われわれはアメリカ大陸に居住する人間として、子孫に良い生活環境、国家、政治体制を残さなければならない。われわれは自らの判断で自分たちのための法律を作らなければならないが、それここそが「独立」なのである。さらに単に独立の必要を叫ぶのみでなく、アメリカの現状を詳しく分析して、経済的にも、政治的にも、軍事的にも独立することが可能であることを具体的に説明する。そしてアメリカの新しい政治体制についても提案している。
 イギリスの田舎町に職人の子として生まれたトマス・ペインが、仕事にも結婚にも失敗してアメリカにわたった時、すでに37歳になっていた。当時アメリカ大陸内では、独立推進派、イギリスとの和解派、さらに日和見派の3つに分かれて議論があり、当初トマス・ペインは和解派であった。それが、1775年4月のレキシントン・コンコードの戦いでイギリス軍の暴虐とアメリカ民兵の勇気を見て、完全に独立派に変わったという。レキシントン・コンコードの戦いの直後からトマス・ペインは『コモンセンス』の著作に着手したが、流動的な情勢を鑑みて、また引き受けてくれる出版社を探して、出版は1776年1月になった。発売されるとこのパンフレットは空前のベストセラーとなり、50万部をアメリカ大陸で売った。当時アメリカ大陸の人口は250万人ほどというので、文章を読むことができる人々のほぼ全員が読んだことになる。そして半年後のアメリカ独立宣言に、この内容がかなり踏襲されていた。
 論述はごく冷静で論理的であり、予想したより扇動的な感じが少ない。内容は新しい理論や思想などのように抽象的ではなく、現状を詳しく観察し分析して、わかりやすく具体的に解説している。これはまさに優れたジャーナリストのものである。さらにありがちな「いわゆるジャーナリスト」や「いわゆる識者」とまったく異なるのが、改革の必要性の指摘だけでなく、改革の方法とその実現可能性の検討、さらに改革後の政治運営のビジョンまで綿密に考察して具体的に提案していることである。本来ジャーナリストというのは、こうあらねばならないのだろう、と改めて思った。わが国の「いわゆる識者」や「いわゆるジャーナリスト」たちには、真摯に反省して少しでもトマス・ペインに近づく努力を求めたいが、おそらく能力不足なのだろう。
 また、このパンフレットが対象とする場所も時代も異なるものの、日本の現状にてらして考えると、決してひとごととして放置できない指摘がある。わが国は、憲法で軍事力の保持を否定して、安全保障をアメリカの軍事力に依存しているが、アメリカは当然ながら自国の利益以上に他国たる日本を護る義務などないのである。そのような根本を蔑ろにしたまま現状を継続することの危うさを、われわれ日本国民は真剣に考えなければならない。
 Thomas Paine, Common Sense (Amazon Classics Edition) Kindle版は、現代英語とは少し違って古語的語彙・表現もあり、私にはいささかむずかしかった。総じて文章が長く、構文をとらえるのに苦労することもあった。岩波文庫版の小松春雄訳『コモン・センス』1976の助けを借りながら、ようやく読み終えた次第であった。
 ともかく、現実の政治を大きく変革したパンフレットの力と事実に、あらためて感動する。

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鎌倉・金沢文庫散策 (3)

金沢文庫
 庭園の脇の隧道をくぐると、神奈川県立金沢文庫がある。
Photo 称名寺と縁の深い金沢文庫(かねさわぶんこ)は、北条実時が病で没する直前の1275年(建治元年)ころ、居館内に蔵書を集めて金沢文庫を創設したのが起源とされる。文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる大量の文書や書籍が収められていた。嘉元4年(1306)、称名寺造営料獲得のため元へ交易船(寺社造営料唐船)が派遣され、称名寺の僧俊如房(快誉)が乗船したことが、金沢文庫の古文書に記録されている。
 金沢北条氏滅亡後は、菩提寺の称名寺に文庫の管理がゆだねられたが、寺運の衰退とともに蔵書も次第に散逸してしまった。徳川家康や前田綱紀などのときの権力者も、ここからかなりの数の文書や書籍を抜き出したと言われている。現在も日本各地に「金澤文庫」の蔵書印が捺された古写本が残っている。
現在、頼朝および北条家にかかわる重要な史料が、鶴ケ丘八幡宮をはじめ他の場所ではほとんど散逸したりなくなったりしたりしているなか、ここ金沢文庫のみ貴重な史料が豊富に残存するという。ここは貴重な史料の宝庫なのである。Photo_4
 ちょうど私が訪れたときは、「顕れた神々」というタイトルの特別展が開催されていた。中世の仏教について、「唱導資料」を軸にして、関連する美術品や仏像とともに展示するものである。唱導資料とは、法要や勧進などの儀礼の場で読み上げられた、表白や説草などの文集で、いわば説教の台本のような資料である。中世の主要な社寺の縁起や神仏にまつわることが説かれている。具体的には、伊勢神宮、春日大社、八幡宮などのさまざまな神のすがたを浮かび上がらせる。展示内容はかなり専門的で、私自身は仏教の歴史についても、またとくに中世の仏教についても、あまり知識がないので、展示内容がかなり難しく感じた。この分野に興味あるひとたちには、充実した内容の濃い展示だったのかも知れない。
 むずかしい展示と格闘して、疲れて展示館を出て、称名寺庭園に帰ってくると、すでに傾いた陽光が池の水面と朱塗りの太鼓橋を照らして、美しい光景を楽しむことができた。

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鎌倉・金沢文庫散策 (2)

称名寺
Photo たまたま観たテレビ番組で、称名寺と金沢文庫についての紹介があり、私自身この地をじっくり訪れたことがこれまでなかったので、このたび訪れることにした。
 鶴ケ丘八幡宮からバスで簡単に行くことができる。バスが京急金沢八景駅に着くと、この付近は大規模な道路工事の最中で、通常とは少し違う道らしいところを通って金沢シーサイドラインというモノレールに乗り、「海の公園南口」という駅で降りた。シーズンオフでもあり、ここで降りたのは私一人きりで、駅には観光地案内マップもなく、道には称名寺への道案内の標示も見当たらず、少しとまどいながらもなんとか称名寺の南端の、赤門に行きつくことができた。
Photo_2 称名寺は、北条氏一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時(1224-1276)が正嘉2年(1258)、六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)がその起源とされる。文永4年(1267)から、真言律宗の寺となった。金沢北条氏一族の菩提寺として発展・拡張し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備された。しかし鎌倉幕府滅亡とともに金沢北条氏が滅び、以後寺も衰退した。降って江戸時代に入ると大幅な復興が実現し、現存する建物が再建された。さらに、大正・昭和にわたって順次文化財指定と再整備が進められ、昭和62年の庭園苑池の保存整備事業を経て、現在の姿になった。Photo_3
 北条実時は、金沢実時(かねさわ さねとき)とも称し、金沢流北条氏の初代である。鎌倉幕府第2代執権として、北条氏執権体制を確立した北条義時の子実泰(さねやす)の子として元仁元年(1224)生まれた。つまり北条義時の孫である。やがて伯父で得宗家当主・鎌倉幕府第3代執権の北条泰時の邸宅において、烏帽子親泰時のもとで元服した。泰時の嫡孫北条経時が得宗家の家督を継ぐにあたり、泰時は経時の側近として同年齢の実時の育成を図った。4代執権北条経時、5代北条時頼政権の側近として引付衆を務め、建長5年(1253)には評定衆を務めた。文永元年(1264)には得宗家外戚の安達泰盛とともに越訴頭人として幕政に関わり、8代執権の北条時宗を補佐し、寄合衆にも加わった。このように、みずから得宗となることはなかったが、得宗の側近として政権中枢に深くかかわる重鎮であった。
 赤門をくぐって参道を進むと、やがて仁王門が見えてくる。ここをくぐると、広大な庭園と池があり、池にかかる朱塗りの太鼓橋を渡ると、金堂があり、その右手には釈迦堂がある。

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鎌倉・金沢文庫散策 (1)

鶴ケ丘八幡宮
 小旅行の最終日、鎌倉と金沢文庫に少しだけ脚を伸ばした。Photo
 久しぶりの総武横須賀線で、鎌倉に着く。東京市街に比べればここ鎌倉の街の風情は相対的には変化が少ないといえる。駅を降りたって鶴ケ丘八幡宮の段蔓に行く。
 ここで、段蔓の設えがかなり変わっていることに気づいた。本宮にお参りしたときに任務に就いておられた警備員の方に聴いてわかったが、4年前の2014年秋、通路のメンテナンスと桜木の老朽化の整備の一環として、全面的な修復工事をしたとのことであった。2016年3月に完成し、若木のため心配された春の桜花も、今年はきれいに満開して、ひとびとを喜ばせたとのことである。路面は、最近よく用いられている滑りを抑制した舗装がなされ、石灯篭の列も一心された。かつての赤い木製の灯篭はすべてなくなった。あの赤い木の灯篭も、地元名士の名前が書いてあったりして、それなりに雰囲気があったが、全体にすっきり、さっぱりと、清潔感ある参道になっている。
Photo_2 段蔓を過ぎて大鳥居をくぐり、参道を本宮に向かって進むと、大銀杏が見えてくる。東日本大震災の前年にあたる2010年3月、春の嵐の強風で思いがけず名物の大銀杏が根元から倒れたのであった。倒伏の後、境内に設けられた「芽吹きを祈る記帳所」には多くの人々が訪れ、わずか1ヶ月半で記帳数は6万人を超えたという。倒伏から1か月の後には元の場所のヒコバエから小さな若芽が芽吹し、小さな銀杏の葉を茂らせながら枝は成長して、現在は数メートルにまでに成長している。Photo_4
 倒れたた樹幹部分は、再生可能な高さ4メートルに切断し、元の場所の近く西側に移し替えられた。ここからも新芽が出ている。双方はともに「御神木」として祀られている。
 かつて鎌倉市内に18年ほど住んで、関西に帰ってすでに15年以上が経ったが、この地に滞在したころは私も若かったし、子供の成長期でもあり、思い出は多い。かつては境内のなかに県立美術館があって、なんども鑑賞に訪れた。週末のジョギングのコースの通過点でもあった。たしか2回ほどのみだが、ここに初詣にきたとき、あまりの参拝者の多さに驚いたことも鮮明に思い出す。私にとっては、かけがえのない思い出の場所である。

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ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (5)

晩年の画業
Photo 1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリーに邸宅を購入して、そこに定住した。このころの作品に「星月夜」(1924)がある。エーケリーの自宅玄関先から眺める夜の景色を描いたもので、遠く見下ろす街の灯り、邸宅を囲む林、ゆったりした庭の拡がり、その地面に長く伸びる、おそらくムンク自身の月光の影、そして景色の上半分を覆う満天の星と、ここでは老年を迎えてようやく落ち着いたムンクの精神状態が現れているように思う。マルク・シャガールを連想させるような優しい絵である。
 1912年からは、ケルン分離派展の招待作家に登録され、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンとならんで特別展示室を与えられた。1922年からは、フレイヤ・チョコレート工場の食堂の壁画を制作し、1925年には、クリスチャニアからオスロに改名した首都の、新市庁舎大ホール正面壁画を手掛けた。Photo_2
 このころでも、若いころから何度も描いてきた同じテーマで、作品を制作している。「二人、孤独な人たち」(1935)も30年近く描き続けているように見えるが、こうしてわざわざ2人の男女を近接させて描くことで孤独を表現するという発想がおもしろい。この2人の登場人物が、見事に背景に溶け込まず、なぜか遊離している。「浜辺にいる二人の女」(1935)もムンクがながらく格闘してきたテーマである。ムンクにしてみれば、このような画題は自分の「課題」としてどこまでも探求することができたのだろう。
Photo_3 最晩年の「自画像、時計とベッドの間」(1943)は、それまでに自分が描いてきた、まるで自分の子供たちのような作品群を壁にぎっしり貼りつめて、大きな時計を配置し、斬新な赤と黒のボーダー模様の毛布を敷いたベッドを置いた部屋に、飄々とたたずむムンクがいる。針のない時計は、永遠を表すのだろうか。名声を獲得して何不自由ない画家だが、自分はこれだけあればじゅうぶん満足だ、と宣言しているようである。
 ムンクは、「自然をカンバスの上に表現する」印象派の隆盛のあと、世紀末芸術と呼ばれる「人間の内面を表現する」絵画の先駆者として、当初は「ムンク事件」のように排斥されたこともあったものの、アール・ヌーボーのフランス、ドイツ表現主義が流行したドイツなどで好意的に迎えられ、中年期には大いに名声を獲得した。
 しかし個人的な内面としては、肉親の多くを失い、また蝕んだ病気や精神病に悩まされた。その一方では、その苦悩こそが彼の独創性の原動力になり、結果として偉大な画業を達成したともいえる。
 今回の展示は、101点という多数の作品で鑑賞する私もずいぶん疲れたが、10年前の展覧会以来のまとまった展覧会で、ムンクを見つめなおすとても良い機会であった。
 ムンクは、もちろん傑出した画家であったが、彼が生前から認められて画家としては恵まれた生涯を送ったことにかんして、考えるところがあった。彼は芸術家として、精神的な自由をなにより重視したはずである。ただ、彼はあわせて自分の画業のために、単なる精神の自由、発想の自由のみでなく、生涯をかけた画業の戦略をとても大切にしていたように思う。「生命のフリーズ」などの大きなテーマを設定し、その構成を設計し、時間をかけて構築し、構成要素を着々と蓄積する賢明な戦略と実行力があった。このような画家は、さほど多くないだろう。興味深い鑑賞であった。

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ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (4)

画業の成功と精神病院入院
Photo こうして画業は順調に推移し、名声を博したが、1902年6月恋人のトゥラ・ラーセンとの行き違いからピストルの暴発事件に遭遇し、左手中指を損傷するという災難に遭った。このあと、彼は精神的にも不安定となり、アルコールにのめり込むようになり、画家仲間との喧嘩沙汰など生活が荒れるようになって、画業を進めつつも、ついに1908年コペンハーゲンのダニエル・ヤコブソン教授の精神病院に、自発的に入院した。
Photo_2 翌年退院して、ノルウェーの郊外の町を移りつつアトリエをつくり、画業に励み、1911年からはクリスチャニア大学講堂の大壁画の制作に取り掛かった。これは1916年完成した。
 この時の作品のひとつが、「太陽」(1913)である。退院以後のムンクは緊張感を失い、生気がなくなったと批評されることもあるらしいが、私は、これはこれでなかなか充実した良い作品だと思う。クリスチャニア大学、すなわち現在のオスロ大学の講堂大壁画の中心的な作品であるとされる。
 同じころの作品として「疾駆する馬」(1912)がある。たしかにこれはかつてのように人間の内面をえぐるような絵ではないが、強調された遠近法と色彩のインパクトで、馬の力強い疾駆のようすが見事に表現されている。Photo_3
 肖像画としては「フリードリヒ・ニーチェ」(1906)が印象深い。ニーチェは、すでに1900年に死去していたので、写真を頼りに描くのだが、ムンクは当初書斎のなかにニーチェを描こうとしてその試作もあるらしい。しかし結局「絶望」や「叫び」と同様な構図の背景のなかに描くこととした。ムンクの中では、登場人物の内面を描こうとするとき、彼なりのいくつかのモチーフとしての画面構成があって、自分の意図にもっとも適合するものを、その持ちコマから選び出して採用するのだろう。描き方も、対象として巨匠を描くという物々しさよりも、むしろさっぱりと簡潔な筆で鋭く描いているのが新鮮に感じる。画家が描く巨匠の作品として、むしろふさわしいと思う。

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ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (3)

「生命のフリーズ」の完成
Photo ムンクは、ドイツ滞在の後しばらくパリに住み、1897年中ごろからクリスチャニアの南の町オースゴールストランに住み、油彩画の制作に集中するようになった。まもなく彼は、トゥラ・ラーセンという女性と深くつきあうようになった。そしてベルリン分離派展で、これまでの30年近くにわたる「愛」「死」「不安」つまり「生命」をテーマとする一連の作品22点をまとめて、「生命のフリーズ」として公表した。ここには、後にムンクの重要作品とされるものの大部分が包含されている。
 魂の叫びとして「叫び」「絶望」「不安」「赤い蔦」など、女性が主導権をにぎる男女の愛として「吸血鬼」「灰」「マドンナ」など、強く融合しまたどうしても行き違える愛としての「接吻」「別離」「二人、孤独なひとたち」などがある。
 世界的に有名な絵「叫び」(1910ころなど)は、実は描かれた人物が叫ぶのではないらしい。ムンク自身がフィヨルドと市街を見渡すところでの実経験として、日没の陽光と炎を吐くような雲が、自然を貫いてひどく大きな終わりのない叫びを発するように感じたのだ、というのである。

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ムンク展─共鳴する魂の叫び─ 東京都美術館 (2)

パり留学とベルリン時代
1895 1889年、政府奨学金を獲得したムンクは、2年半のパリ留学の機会を得た。しかしパリに到着して間もなく、父の訃報を受け取った。ムンクは、その直後移ったサン・クルーという町で「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ」と書き残した。これは「サン・クルー宣言」と呼ばれるようになった。これは、後のライフワークたる「生命のフリーズ」のモチーフの契機であると言われている。
 このころ、ムンクは、ピサロやモネなど印象派から多いに啓発を受け、またゴッホやロートレックから技法を学んだという。デッサンにも励み、ムンクの重要な修行時代となった。
 1892年初めにいったん帰国したムンクは、まもなくドイツにわたり、1896年初めまでベルリンに滞在した。このころからムンクは「生命のフリーズ」の構想を意識するようになったという。このころから、彼の絵は、戦略的な単純化、平面化とともに、デフォルメを導入するようになった。
Photo このころ30歳を過ぎた自画像(1895)は、野心・活気・エネルギーよりも、メメント・モリともいうべき、死を意識した内向的なものと変わっている。画面の下には、腕が2本の骨として、寓意的に配置されている。
 「死と春」(1893)は、窓辺の明るい春の陽光と、ベッドに横たわる少女の死体とを対比させた重い雰囲気の絵である。両親の死に加えて姉と弟まで失った影響が、深い悲しみと不安に結実していて、生、死、転生などを連想させる。「絶望」(1894)は、このころから何回か描かれた有名な「叫び」と非常によく似た構図で描かれている。ノルウェーに生まれ育ったムンクにとって、フィヨルドの光景は故郷であり、レーゾンデートルのように心に貼りついたものなのかもしれない。
Photo_3 「接吻」(1895)は、愛し合い抱き合う男女が、裸で分離しがたく融合している。窓のカーテンは、ここでは開かれ、外見を構わない態度が示されている。この「接吻」というテーマも、ムンクによって何度も描かれ、それぞれ微妙にニュアンスの異なった表現がなされた。
 ブローチ、エヴァ・ムドッチ(1903)は、ムンクが魅せられた女性のひとりだそうだ。この画面構成は、このころに前後して多数描かれた「マドンナ」(1902)とも共通している。「マドンナ」では、胸が開けられ、画面の縁に胎児あるいは精子が描き込まれて、人間の性欲やエロティシズムがより一層強調されている。
Photo_4 このように、彼の絵は1890年ころの印象派などと異なり、人間の内面を主題とする精神性の強い表現となっていった。それは1892年にベルリン芸術家協会の招きで開いたムンクの個展が、理事の過半数の反対表決によりわずか1週間で打ち切りを強いられた、いわゆる「ムンク事件」などの強烈な周囲からの反発とともに、徐々に「世紀末芸術」を追求していたフランスやドイツの芸術家たちから共感と賛同を得るようになっていった。
 「赤と白」(1900)は、二人の女性を描き、その服の色で女性の性格を大胆に割り切って表現する、という観念的な絵としている。白は無垢・純真を代表して表現し、対して赤は情熱・奔放。成熟を表すのである。そのため、色のコントラストを戦略的に強調する描写となっている。

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「ムンク展 ─共鳴する魂の叫び─」東京都美術館 (1)

 東京都美術館で、10年半ぶりにエドゥァルト・ムンクの特集展覧会が開催されたので、ともかく鑑賞した。

誕生から青年期まで
 エドゥァルト・ムンクは、1863年ノルウェーのオスロ(当時の名は、クリスチャニア)から100キロメートルほど北東の町ロイテンに、軍医も務めた富裕な医師の長男として生まれた。彼には1歳年長の姉、2歳年少の弟など、4人の兄弟がいたが、5歳の時母を結核で亡くし、14歳のとき姉をやはり結核で亡くし、26歳でパリ留学中に父を亡くした。さらに、30歳代前半ドイツ滞在中に、医師であった弟を亡くし、妹は精神病院に入院した。こうして幼いときから生涯にわたって家族に多数の深刻な病気と死を経験し、ムンクは人間の死や精神にいやおうなく深刻に向き合うこととなった。1882
 信心深かった父は、母の死後いちだんとキリスト教にのめり込み、厳格な態度で子供の教育に臨んだという。それでも初期の「自画像」(1882)は、青年の意志と力にあふれる姿でオーソドックスに描かれている。
 妹ラウラを描いた油彩化画や、母の死後ずっとムンク家にいて家政と子育てをしてくれた母の妹であるカーレン・ビョルスタの肖像画もある。ごく正統的な画法による、丁寧な作品である。
 技術者になることを求める父をなんとか説得し、首都クリスチャニアの工芸学校に進学したムンクは、ここでクリスチャニア・ボヘミアンと呼ばれるアナーキスト作家ハンス・イェーゲルが率いる文化活動グループに参加し、ボヘミアンやマルクス主義に接近した。ムンクは、ボヘミアンから霊感と活気を与えられたが、独断的なその態度には嫌悪感を持った。1885年ころから数年間、人妻ミリー・タウロウとの禁じられた恋愛に陥り、恋の苦悩も味わった。

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