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2019年4月

"Sapiens, A Brief History of Humankind" (3)

農業革命
 12,000年前に、次の大きな画期として「農業革命 Agricultural Revolution」があった。
 ホモサピエンスは、採取で知った植物のなかから、自ら種をまいて栽培することでより多くの食糧を得ることを開発し、農業を始めた。これは、食糧の増加、それにともなう人口の増加、定住化、それにともなう土地の価値の増加をもたらした。分業体制も進み、土地や灌漑などの大規模作業から、生活する集団も大きくなった。紀元前8,500年ころのジェリコの村は100人程度だが、紀元前7,000年ころのアナトリアのチャタルホユク遺跡の人口は5,000~10,000人ほどにもなっている。
 拡大して人口が増え、構成員が互いによく理解することが困難になった集団には、強力なリーダーが必要となり、都市ができ、帝国が発生した。紀元前5,000年ころには、現時点で最古と考えられているアッカド帝国が、メソポタミアにできていた。
 大勢のホモサピエンスをまとめるためには、みんなが共有して信じることができる作り話、言い伝え、神話(=fiction)が有効かつ必須であり、実際にその結束に強力に作用した。最近の研究でも、たとえば軍事組織で大勢の兵士を統制するためには、暴力などの実力はほとんど有効ではなく、兵士が共有して心から信じることができる何か、神、誇り、守るべき祖国・家族、男らしさ、金などが必要であることがわかっている。
 農業革命は、一方では麦や米などごく少数の植物種に集中的に依存すること、種まきから収穫まで長期間を要すること、から凶作、飢饉、洪水などのリスクを増大させ、「未来」に対する不安・脅威が発生した。天候や気候に対しても敏感になった。時間を意識し、環境を客観化するようになったのである。
 12,000年以上前、すなわち農業革命より以前の世界人口は、5~8百万人ですべてが定住していなかった。その10,000年後の  紀元元年ころには、27百万人ほどになっていた。このうち1~2百万人はいまだに採取・狩猟の非定住者であったが、すでに25百万人ほどが農業に従事していた。
 人々は農業のために、生産の基盤である土地に執着し、また奪い合うことで、簡単に逃げて難を逃れることもできず、人間集団の抗争・戦闘は熾烈になった。
 また農耕は、同じ土地に定着して活動すること、人間も定住することから、地球に対して与える影響が格段に高くなった。耕地を整備することで、木や草など栽培植物以外の植物を徹底的に殲滅し、さらに作物に近寄るさまざまな生物を害虫として殲滅した。作物を食べたり、踏み荒らしたりする可能性がある動物も最大限殲滅した。「家畜化」も一部の動物の生態系を著しく変換した。食用になる鳥をよく太らせて、飛んで逃げないよう動作の遅い鳥を改造して鶏とし、農耕に利用できる牛・馬などを人間に都合がよいおとなしい状態にするために去勢した。現代になって、古代の農耕時代は人間が自然環境と調和的・融和的に生活していた、という牧歌的な妄想があるが、実は人間の生態系破壊・環境破壊は、すでに農業革命の段階で格段に進行したのである。
 地球上の表面積は200百万平方マイル、内60百万平方マイルが陸地である。AD1400ころには、地球表面積の2%、4.25百万平方マイルが農耕地となった。

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"Sapiens, A Brief History of Humankind" (2)

人類の登場と認知革命
 135億年前にビッグバンで宇宙が生成し、38億年前から生物が地球上に出現した。そして250万年前から人類の祖先となる哺乳類が登場した。200万年前から1万年前までの間に、現在わかっている範囲で6種の人類種、あるいはその祖先に相当する哺乳類が存在した。そのなかには、ヨーロッパに分布していたネアンデルタール人などがいた。
 人類は、早くから道具を使い、火も80万年前から使用したらしい。「石器時代」と呼ばれる時代は、実は「木器時代」とも呼ぶべきもので、彼らが実際に使用していた道具のほとんどは木製であったと推測されるが、木材は腐敗して残らず、木器を作るために用いられた石器だけが残存したのである。
 大きな画期として70,000年前に「認知革命 Cognitive Revolution」を遂げたのがホモサピエンスであった。ここでのポイントは「抽象的なことを、表現・伝達・共有できる」ことである。チンパンジーでさえも「ライオンが来た」、「木の実がない」というような具体的で簡単なことは、メタ言語のようなもので伝えるという。しかし、物語や宗教のような抽象的なことがらを表現・伝達・共有できるようになったのは、ホモサピエンスだけであった。この特異で傑出した能力により、ホモサピエンスは柔軟に集結して、組織的に行動することができた。たとえばミツバチは、大量に集結して組織的に整然と行動するが、それは「知的」な行動ではなく、本能に刷り込まれた範囲であって、養蜂業者に巣のハチミツを横取りされても有効な対応ができない。ホモサピエンスは、個体としては軟弱だが、集合して事態に適合した柔軟な対応を組織的に実行できたので、凶暴な大型生物にも対応でき打ち勝った。
 ホモサピエンスは、食糧をもとめて集団を形成して動き回り、長い時間の間に非常に多くの種類の生物、とくに大量の肉を取 れる大型哺乳類をつぎつぎに殲滅した。種類の違う人類の間でも、出会ったときは殺戮の応酬が繰り返され、ネアンデルタール人など他の人種を絶滅させたようである。すでにこのころから、人間の環境破壊はすさまじいものであった。ホモサピエンスこそは、地球史上に出現したもっとも危険な生物であったということになる。
 生活環境のなかのさまざまな恐怖・脅威から、また安全の脅威であると同時に食べ物でもある動物、そして同胞や家族の死など、森の霊、動物の霊、死者の霊など、さまざまな身のまわりの存在から原始的な「宗教的概念」が発生した。これこそ「抽象的な概念」の典型である。
 このころのホモサピエンスの行動は、お互いがよく知りあえる範囲の、せいぜい数十人以内の少人数のグループで、植物の採集、動物の狩猟で動き回って生活していたと考えられている。

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"Sapiens, A Brief History of Humankind" (1)

 Yuval Noah Harari, "Sapiens, A Brief History of Humankind" ,Harper Publishing,2015を読んだ。人類の歴史をきわめてマクロスコピックに論ずる壮大な歴史書である。
 135億年前のビッグバンで宇宙が誕生し、途方もなく長い時間の後の250万年前に地球上に人類が登場し、7万年前に人類のうちの一つの種であった「ホモサピエンス」にのみ「認知革命Cognitive revolution」が起こった。これは「抽象的なことがらを、表現・伝達・共有できる」という能力を人類が獲得したことを意味し、これこそが画期的なできごとであった。この能力がホモサピエンスを「フィクションで統合する」ことを可能にし、それが弱小な体力に関わらず「柔軟で大規模な組織的協力作業」を可能にして、先行する各種の「原人」たちを絶滅させたのみならず、以後継続的に地上の夥しい種類の動植物を絶滅させつつ増殖していった。ホモサピエンスこそ、地上でもっとも危険な生物となった。
 12,000年前には「農業革命」が起こり、定住と食糧増産を達成して人口増加を実現し、大勢の人口を統合する王と帝国を発生した。これ以後は、貨幣・帝国・宗教の3つが軸となって、人類の歴史が進んでいく。この書では「帝国」の概念の定義が、通常の場合よりかなり広く、少し雑なところがある気もするが、もっと大きな論点からは問題としないのだろう。日本の古代大和朝廷も、ひとつの「帝国」である。ひとびとが統合するうえで、紀元前1,000年ころから発生した宗教の寄与は甚大であった。
 西暦1500年ころ、ヨーロッパに科学革命が訪れた。それまでは宗教の経典などに書かれたことだけが人間にとって知るべき必要十分なことであったのが、科学革命は「ヒトは無知であり、もっと知るべきことがある」とした。人々は、自分の居住地から遠く離れたところまでも探検して新しい知識を得ようとし、大航海時代が到来した。また科学知識は「進歩」の概念を、さらに貨幣をベースにした資本主義との結合から「成長」の概念をもたらし、軍事力の強化にも寄与して帝国の拡大・侵略を強力に後押しした。
 18世紀後半ヨーロッパで起こった「産業革命」は、エネルギーの変換を可能にして人類に新しい強力な動力と軍事力をもたらし、人間の生産を著しく増大させ、大きな経済成長を実現した。これを取り入れたヨーロッパの帝国は、世界全体を制圧する存在となった。また、資本主義を一層強化し、経済成長は大きくなり、金融の発展、社会秩序の変革までもが著しく進んだ。1945年には、世界の四分の一を占める人類史上最大の帝国としてイギリス帝国が存在した。
 第二次世界大戦後は、帝国が急速に、また比較的平和に世界から撤退し、また相対的に平和な(戦争による死者数が相対的に少ない)時代、豊かな時代となり、人々ははじめて「幸福とはなにか」を考えるようになった。その一方で科学技術の進歩は、科学による新しい生命の創生など、従来は「神の領域」とされてきた範囲にまでおよび、その倫理的妥当性など、今後解決すべき新たな問題を発生している。
 以上が内容のごくごく大雑把なトピックだが、当然この書はこんなメモでまとめられるようなものではない。
 ホモサピエンスの飛躍の原点が「抽象的なことがらに対する基本的能力」であること、その結果ホモサピエンスの登場以来、継続的に他の生物種に対するおびただしい殺戮・殲滅を繰り返し、地球環境を変化(=破壊)し続ける「もっとも危険な生物」であったこと、農業革命がひとびとの群れの構成人数を著しく拡大し、その統合のために宗教が決定的に重要であったこと、など非常に興味深い。大航海時代が、なぜヨーロッパによってはじめられたのかが、科学革命で説明されているし、その本質が人間の「無知の自覚」というのは、きわめて印象的である。
 私たちが日常的に考える範囲をはるかに超越したこの書のような思考は、たしかに非常に刺激的であり、読むものに感動をよびさますものである。
 英語版で読んだが、文章は短く区切られ、かつ平易な英語で書かれていて読みやすい。さらにKindleで読んだので文中の難しそうな単語には英語の説明が小文字で付記され、Kindle自体の辞書機能も使えるなど、私のように語彙の乏しい読者にはありがたかった。
 以下に、本書の内容についてダイジェストを記しておく。

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ボヘミアン・ラプソディ

 映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観た。
 「クイーン」は、私が社会人になった同じ年にデビューしたロックバンドであった。名前だけは何度も聞いたことがあったが、とくに詳しくは知らなかった。ビートルズやローリングストーンズは幼いころから親しんでいたが、年を経るにつれて、遅れてレッドツェッペリン、ディープパープルなど、そしてこのクイーンを少し知るようになった。
 この映画は、リードヴォーカルのフレディ・マーキュリーを主人公にして、1970年ころのフレディの加入・クイーンの結成から、不和・解散を経て、1985年イギリスでの「1億人の飢餓を救う」と謳う世界規模の大チャリティーコンサートでの大成功までを描くものである。
 どんな分野でも、オリジナリティに卓越した人物は安易に妥協せず、周囲とトラブルを起こし勝ちである。オリジナリティに優れた者たちが集まったら協調することが難しいのは当然であろう。しかしその一方で、いかにオリジナリティに優れた人物でも、その発想を実現してなんらかのモノを実現しようとすれば、自分一人きりでできることは限られている。自分と違う見方で厳しく批判してくれる存在は、創造には重要である。独創と協調との併存・両立という問題は、アートのみに限らない普遍的な難問である。この映画でも、その矛盾、緊張、分裂、和解があますところなく描かれている。
 音楽など芸術は、ユヴァル・ハラリがいう「フィクションの創造」であり、その典型である。ひとびとは彼らの卓越した「フィクション」に感動し、陶酔し、熱狂する。この映画と前後して読んだユヴァル・ハラリ『サピエンス全史』の文章が、頭の中で反響して、一層印象深い映画鑑賞となった。
 映画のストーリーそのものは、事実とかなり乖離がある、との批評もあるそうだが、芸術としてのこの映画にとって、そんなことは些末なことに過ぎない。まったくの作り話のなかにさえ、真実がありうる。なかなか充実した良い映画作品だと思う。

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那覇・台湾クルーズ (20)

航行中の船内生活
Photo_37    今回のクルーズ旅行は、沖縄、横浜、名古屋と、唯一の外国台湾基隆への寄港で、主に国内の旅行であり、雰囲気も台湾と日本のものであった。以前に参加した中東やブリテン島などのクルーズ旅行ではアメリカや欧州の乗客が多かったのと異なり、乗客は日本人が多く、それに合わせて食事も日本食的なものも多くあり、その意味では馴染みやすい面もあった。
1_2  毎晩、40分から1時間弱のショーが劇場で催される。この度はこれがいつも満員で、開演時刻の20分程度前から入場しないと座席が確保できない、という状況であった。ショーは、マジック、オペラや映画の音楽の演奏、オペラ歌手のワンマンショー、アクロバット、などで、半分以上の演目はまずまず満足できるものであった。 Photo_38
  劇場以外の場所でも、たとえばイギリス人落語家「ダイアン吉日」の英語・日本語混淆の落語という興味深い演目などもあった。ダイアン吉日さんは、イギリスのリバプール生まれの女性で、若いころにバックパッカーとして世界20か国以上を放浪して、たまたま30年近く前に日本の文化、とくに着物に出会い、深く感銘し魅せられて、日本に定住した。そして桂枝雀の英語落語を知り、弟子入りして1998年から本格的に落語を勉強したという。外国人にも日本人にもわかりやすいように工夫をこらした英語での創作落語、古典落語を得意とする。今回は古典落語「ときそば」を、現在の彼女の住処であり大好きな大阪にちなんで「ときたこやき」として、英語と日本語の両方で解説的に話を進めていく。日本語も完璧で、なにより落語の技能もしっかりしている。私たちは、たまたま「キャプテン・パーティー」に参加したいため、途中で退席したが、なかなか印象的なパフォーマンスであった。
Photo_39  私たち乗客が参加する催しは、さほど多くはなかったが、フィットネス・クラブのほか、ズンバ・ダンス、バルーン・ドロップ、日本語と英語のカラオケなどがあった。
 旅行日程のうち2回はフォーマルの服装でのディナーがあった。食事時などの従業員のサービスは、まずまず良好であった。

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那覇・台湾クルーズ (19)

ヘリコプターによるクルーズ客の緊急救出
 私たちの船が、台湾の基隆港を出て、2日間の行程で横浜に向かっているその1日目の午前11時ころ、船室に緊急放送が鳴り響いた。船内に緊急を要する事態の人が発生したので、まもなくヘリコプターが飛来して、最寄りの沖縄の病院に緊急移送する、ついては甲板の上と一部上層階の部屋(フィットネス・クラブなど)はしばらく立ち入り禁止となる、というものであった。放送の内容には、どのような緊急を要する病態なのかは不明だが、なんらかの重篤な病変が乗客のひとりに発生したのだろう。
 私たち乗客は、冷静に昼食を摂りにカフェテリアに行ったが、ここでも2回目の放送があり、今から30分ほどのうちにヘリコプターが飛来するが、乗客は冷静に待機ください、という。しかし1時間以上経過しても、ヘリコプターが飛来するような音はない。
 かなりたくさんの人たちが、立ち入り禁止が出ていない範囲の最上階の露天の場所に出て、ヘリコプターを待った。そのうちに、ヘリコプターではない哨戒機のような小型飛行機が上空を旋回して、やがて去っていった。たくさんの人たちが、かなり寒い屋外で、上空を見上げつつヘリコプターの到来を待ち続けた。
 ヘリコプターが飛来したのは、最初の放送があってから3時間以上が経過したころであった。そのとき船は往路の航路から少し北側の沖縄沖を通過していて、航行速度は大幅に落としていた。それでも停止したわけではない。ヘリコプターは、最初に接近したときは旋回し、やがて最接近してピタリと船の真上10メートルくらいの位置に相対的に停止した。ヘリコプターは、精密に船と同じ方向に同じ速度で動いているのである。ヘリコプターのホバリングは、映像ではなんども見たことがあるが、こうして実際に直視すると、その優れた精度に改めて感動する。
ヘリコプターから、人がひとりロープを下げて船の甲板に降り立った。その降りるスピードの速さに、私たちは一様に驚いた。こんなに急速に甲板に降り立って、よく骨折などを生じないものだと感心した。まもなく二人目が、同じように下りた。
 するとヘリコプターはいったん船から離れ、遠くへ飛び去った。ここまでは、ヘリコプターから2人の救助員が船に降り立ったところである。おそらく救助対象の患者の船室から甲板への移動や、その患者のヘリコプターへのつり上げの準備を、2人の救助隊員を中心に進めているのだろう。

Photo_35

 数分して、遠方から再びヘリコプターが来て、船の上に位置を固定した。もちろん船は、低速とはいえ進行中である。ヘリコプターは船の真上にしっかり位置を固定し、ローブを船の上に垂れ落とした。するとまもなく、隊員のひとりが患者を抱きかかえてロープで吊り上げられた。これもかなり速かった。もうひとりも追ってロープで吊り上げられ、直後にヘリコプターは飛び去った。甲板上の乗客たちから拍手が起こった。
 予想以上に待ち時間が長かったが、救出の瞬間は感動的であった。

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那覇・台湾クルーズ (18)

  徳川園 徳川美術館「尾張徳川家の雛まつり」
 ちょうど雛祭りシーズンで、それにちなんで「尾張徳川家の雛まつり」という特別展が開催されていた。Photo_33
 京都を起点として花開いた寛永文化をうけて、寛文期(1660年代)に京都の雛屋次郎左衛門が創作した雛人形は「次郎左衛門雛」と呼ばれ、平安時代の王朝風を連想させる大きな丸顔、細い目、かぎ鼻、小さな口が特徴である。
その発展様式として、「享保雛」(享保年間、1720年代ころ)は面長な顔、切れ目、そして静的な能面のような表情が特徴となる。しかし衣装は装飾性に富むようななった。この様式は、元禄時代を経て発展した富裕な商人のあいだで普及したという。
 そして雛人形の様式は「有職雛」で朝廷の仕来りを基準に徐々に整理され、幕末以降の標準的な様式となった。内裏様は衣冠束帯、直衣、狩衣が、御姫様は十二単がそれぞれ基準となった。
Photo_34    今回の展示のハイライトは、第11代藩主徳川斉温(なりはる 文政2年(1819)5月~天保10年(1839)3月)の継室として京都近衛家から輿入れした福君(さちぎみ)の輿入れにかかわる諸道具と、雛祭り関係の人形道具との展示である。天保期の道具と人形であるが、輿入れにともなって制作されたさまざまな道具や衣装が展示され、それらを忠実に模し制作技術も忠実に踏襲した、際立って手の込んだミニチュア版としての雛人形・道具があわせて展示されているのである。不幸にも20歳そこそこで夫君の徳川斉温が亡くなり、それを追うように福君も同様な夭逝であったこともあり、こうしてほとんど手つかずのきれいな状態でそれらの道具や人形が残されているのである。たしかにこれは、見応えがあった。
 ともあれ帰船の制限時間が早かったので、私たちは早々に徳川園から立ち去らねばならなかった。

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那覇・台湾クルーズ (17)

徳川園の庭園
Photo_28  この日は、たまたま桃の節句の当日であり、庭園内の「龍仙湖」で「流し雛」が行われると、バス停から徳川園まで案内いただいた人から聞いたが、入園時に受付の人に尋ねてみると、「流し雛」はまず流す雛人形をそれぞれ自分で制作し、そのあと順番に自分で湖に浮かべるという段取りであり、全体で数時間を要するとの由であった。私たちは、船に午後3時半までに帰ることが必要であり、徳川園に着いたときがすでに午前10時を過ぎていたから、確実に帰船するための余裕を考慮すると2時間余りしか時間がなく、到底無理であった。
Photo_30   庭園入り口から入ると、最初に「虎仙橋 こせんきょう」を渡ることになる。渓谷美を表現する人工的な清流が設えられ、虎仙橋はその上に架かっている。この流れは、秋には紅葉が樹木の間を縫うように流れて龍仙湖にそそぐので、「虎の尾」と名付けられている。
 虎仙橋を渡り終えると、林の中の小路のような設えとなって、そこをさらに進むと「大曾根の瀧」がある。この瀧は、落差6メートルの三段の滝で、上・中・下の各段の岩の組み方を変えて、水しぶきの表情をそれぞれに異なるように設えてある。この滝の背後の山は、この徳川園のなかでもっとも高く、龍仙湖の水面から約11メートルの標高差であるという。Photo_31
 大曾根の瀧の後ろ側にまわると、木立にかこまれたこじんまりした休み処として「四睡庵」がある。「四睡」とは、禅の境地を表す画題のひとつで、豊千禅士・寒山・拾得の三人が虎と寄り添って眠る情景で、禅の真理、妙理、境地を示すとされる。この四睡庵のすぐ脇に「水琴窟」という名のちいさな蹲がある。手水鉢の地下に穴をあけた常滑焼の瓶を逆さにして埋め、水滴が穴から下に落ちると、瓶が共鳴体となって反響して澄んだ音を奏でる。小堀遠州がアイデアを考案したとも伝えられている。私たちも実際に水を落として、反響の音を聴くことができた。
Photo_29  四睡庵から庭園の縁に沿って少し歩くと、龍仙湖を区切る「西湖堤 せいこてい」がある。白楽天や蘇東坡など、中国の文化人たちが愛した景勝である中国杭州の西湖の湖面を分ける堤防を模したもので、東京小石川後楽園、広島縮景園などの大名庭園にも取り入れられている様式である。
 龍仙湖の脇の緑のなかに、藁でおおわれた牡丹の花がところどころにある。冬牡丹も華やかで美しい。

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那覇・台湾クルーズ (16)

名古屋 徳川園の沿革
 いよいよ最終日程の名古屋港に着いた。港の金城埠頭ターミナルからシャトルバスが出て、数分であおなみ線「金城ふ頭」駅に着く。ここから約30分で名古屋駅に行くことができる。この「あおなみ線」は、昭和25年から国鉄貨物船として名古屋港金城埠頭と名古屋駅の間で運行していたものを、平成16年(2004)から旅客営業をはじめ、名古屋臨海高速鉄道株式会社に営業移管して運営されている、名古屋港と名古屋都心をむすぶ貴重な交通機関である。Photo_26
 あおなみ線で名古屋駅に着いたが、ここで徳川園に行く市バスに乗り継がなければならない。改札口で市バスの乗り場を聞いたが、あおなみ線の改札口は太閤通口にしかなく、大きな駅構内をぐるっと歩いて、ようやく桜通り口の南側にある市バス停留所にたどり着いた。
 バスに乗ったが名古屋の市街は広く、「徳川園新出来」のバス停まで30分近くかかった。バスを降りて間もなく、徳川園にこれから行くという地元の人に出会い、ついていくことができた。バス停から10分近く歩いて、ようやく徳川園の入り口に着いた。船を降りてから、早くも1時間半ほどが過ぎていた。
Photo_27  徳川園は、第二代藩主であった徳川光友が、元禄8年(1695)自らの隠居所として名古屋城本丸から東に3キロメートルほど隔てたところに大曾根屋敷を造営したことを起源とする。13万坪におよぶ広大な屋敷であったが、光友の没後この地は尾張藩家老の成瀬・石河・渡邊の三家に譲られ、さらに明治22年(1889)からは名古屋城を明け渡した尾張徳川家の邸宅となっていた。
 第19代当主義親は昭和6年(1931)、邸宅と庭園を名古屋市に寄贈し、市が改修工事ののち「徳川園」として一般に公開した。しかしさきの大戦で大空襲により、ほとんどの建物と樹林が焼失した。戦後は、近代的な都市公園として全面改修し、運動公園などとして市民に利用されてきたが、平成13年(2001)から日本庭園として全面的な再整備を行い、平成16年(2004)に新しい徳川園として開園したのであった。したがって園内の庭園と建造物のほとんどは、平成13年以降に新築されたものである。

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那覇・台湾クルーズ (15)

横浜 港の見える丘公園から外国人墓地
 アメリカ山公園から外国人墓地の前を過ぎ、海側に少し歩くと港の見える丘公園に着く。ここも20年くらい前までは何度も訪れた場所で、眺望には印象が残っているが、公園そのものはあまり鮮明な記憶はない。しいて言えば最後に訪れた大佛次郎記念館だけは、記憶が鮮明に残っている。Photo_24

 港の見える丘公園は、その名のとおり港に停泊する船やそのまわりの景観が一望できる。春の気配の絶好の快晴である。ここからはベイブリッジのほぼ全容を眺めることもできる。その左側には、私たちのダイヤモンドプリンセス号も、その右手の風力発電の大きな風車も、少し遠くに見える。Hjblack
 外国人墓地の入り口に戻ると、この日は開放日で、一般人が入場できるという。良い機会なので、初めて園内に入ることにした。
 墓地に入ると、上り下りの多い小路の両側に、さまざまな形のお墓が建てられている。入り口に近いところに「快楽亭ブラック」という芸名をもっていた、最初の外国人落語家の墓がある。この人はHenry James Blackといい、独立前のオーストラリアに1858年(安政5年)生また人で、国籍はイギリスであったが、後に日本に帰化したという。
Jdiack   先ず彼の父が来日して横浜居留地で初の英字新聞『週刊ジャパン・ヘラルド』の記者となったのち、後を追って母とともに日本にきた。その父は、別の新聞を立ち上げて明治政府を激しく非難したことで日本に居づらくなり、家族とともに上海に移った。しかしそのとき18歳になっていたヘンリーは、単身で日本に残留する選択をした。
 彼は、日本の師匠について奇術を演じたり、一時アメリカに行ったりしたのち、以前から親交があった2代目松林伯圓という講談師に弟子入りした。しかし当時は、外国人が寄席に出演することすら政府の許可を必要とする時代であった。伝手を頼って政府外務省に掛け合うなどさまざまな苦労をし、また親戚や知人から芸人活動することに猛烈に反対されてアルバイトで暮らすなど、波瀾万丈であったようだ。紆余曲折の末、明治17年(1884)に落語家三遊亭圓朝・3代目三遊亭圓生らの属する三遊派に入ることができ、明治24年(1891)より快楽亭ブラックを名乗って落語の寄席にあがるようになった。そのあと日本人女性と結婚して、その結婚がイギリスの新聞で大きく取り上げられるなどした。
 べらんめえ調をあやつる青い眼の噺家として人気を博し、ときには歌舞伎の端役に登場したり、手品を披露したりし、催眠術を実演したりもしたそうである。関東大震災からまだ日の浅い大正12年(1923)9月、白金三光町の自宅で、満64歳で亡くなっている。Photo_25
 このほか、日本国有鉄道株式会社の「準鉄道記念物」と指定された、John Diackという、明治初期に新橋~横浜間の鉄道敷設のための測量に従事した技師の墓などもある。
 外国人墓地を出て、横浜人形の家を経て、再び山下公園のプロムナードを歩いて、最後に山下公園の西端にあるコンビニでビールを買い、コンビニの海側にあるテラス・テーブルでしばし寛いだ。絶好の好天の午後、ベイエリアをたっぷり歩き回ったあとのビールは、喉と食道にしみわたった。

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那覇・台湾クルーズ (14)

山下公園からアメリカ山へ
 赤レンガ倉庫の中のお店で、少し買い物をしたり焙煎珈琲をいただいたりして、海側に出てみると、ちょうど市民マラソン・リレーの大会が行われていた。絶好の早春の快晴のなか、さぞ心地良いことであろう。Photo_21
 海沿いの小路をのんびり歩いて過ぎて、山下臨海線プロムナードの橋上路に入った。左手に私たちのダイヤモンドプリンセス号を眺めつつ、山下公園へ向かう。
 山下公園は、20年弱ほど湘南に住んでいたころは、たびたび訪れたなつかしい場所である。ベイエリアのあちらこちらが四半世紀以前とはかなり印象が変わってしまったが、この山下公園はじゅうぶんに以前の面影をとどめている。
 山下公園を過ぎて元町商店街のスタート地点にくると、ここは以前とはずいぶん変わっていた。アメリカ山の山裾を切り開いて地下鉄元町・中華街駅の上に商店のビルを建設し、そのビルのなかのエレベーターやエスカレーターを介して、地下鉄駅から直ちにアメリカ山に登られるようになっている。
Photo_22

 アメリカ山公園は、全国初の立体都市公園であり、横浜開港150周年となる平成21年(2009)に一部開園し、平成24年(2012)に全面開園となった新しい施設である。
 このあたり一帯は慶応3年(1867)以来、開港された横浜港の外国人居留地があったところである。このアメリカ山がある場所は、当初アメリカ公使館のために予定されていたが、当時のアメリカ公使ヴァルケンバーグはこの地に住まず、現在の山手中・高等学校の場所に住んで、ここには代わりにアメリカ公使館書記官であったポートマンが住んだ。明治9年(1876)からはイギリス人医師ウィーラーが住み、大正12年(1923)9月の関東大震災でウィーラーが死ぬと、永代借地権が民間に売り渡され、以後は民有地となった。
 さきの大戦敗戦後、アメリカ軍によって接収され、米軍の住宅が建てられた。昭和46年(1971)になって返還されて国有地となり、平成16年(2004)横浜市が取得して、ようやくアメリカ山の整備に至ったのであった。

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那覇・台湾クルーズ (13)

横浜 汽車道から赤レンガ倉庫へ
Photo_19  船を降りると、シャトルバス・サービスでJR桜木町駅まで行くことができた。ここから横浜港周辺の景色を楽しみながら、汽車道を歩いて赤レンガ倉庫へ向かった。汽車道は、明治44年(1911)開通した旧横浜駅と新港埠頭を結ぶ臨港線(税関線)の廃線跡の一部にあたる約500mの区間を、レールを残したうえで緑地として整備したものである。私たちが大阪に移転する少し前に整備されたので、あまりなじみがなかった。板張りを取り入れた、快適な遊歩道である。
 この汽車道の中ほどには、「港二号橋梁」という古い鉄橋がある。通行する機関車の重量化にともない明治30年ころから導入されたアメリカ系トラス橋の遺構として貴重なものだそうだ。
 汽車道を渡りきると、ナビオス横浜の下をくぐって赤レンガ倉庫に向かうが、その南側の広場では「パンのフェス2019」という催しが開催されていた。入場料を支払って会場に入り、さまざまなパンを味わうということらしいが、私たちは時間の制約があり、参加できなかった。

2-2019
 赤レンガ倉庫のそれぞれの建物は、明治末から大正初めに新港埠頭保税倉庫として建てられたものである。当時、幕末の横浜開港からすでに半世紀が経ち、港湾施設として近代化が課題となっていた。明治38年(1905)施設拡張のための埋立てが完了し、引き続いて埠頭の拡張と陸上設備(上屋、倉庫、鉄道、道路)の整備が進められた。赤レンガ倉庫はこの後期工事の中で、国営保税倉庫として建設されたのであった。さきの大戦の敗戦後には、GHQによって接収され、接収解除ののち1960年代までは貿易の拡大にともなって大いに活躍したが、1970年代以降は貨物のコンテナ化が進展して取り扱い貨物量が激減して本来の用途がなくなり、1980年代からはテレビドラマや映画のロケ用としての場所となった。 Photo_20
 昭和末年のテレビドラマ「あぶない刑事」のエンディングで、赤レンガ倉庫がロケ地とされて注目を浴びたこともあった。平成元年(1989)には倉庫としての役割を終え、その後しばらく放置されていた。
 1992年(平成4年)、「横浜みなとみらい21」の整備にともない、横浜市が赤レンガ倉庫を国から取得し、周辺地域と一体的に再整備がすすめられた。また関東大震災で倒壊した横浜税関事務所の遺構や旧・横浜港(よこはまみなと)駅のプラットホームなども復元され、山下公園まで続く山下臨港線プロムナード(汽車道)も整備された。こうして、平成14年(2002)、赤レンガ倉庫を中心とした付近一帯は、展示スペース、ホール、広場、店舗からなる横浜赤レンガパークとしてオープンした。

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那覇・台湾クルーズ (12)

横浜港入港
 3月となり、さすがに日の出が早くなってきた。東京湾に入った船は、横浜港のすぐ前でベイブリッジをくぐる。このとき、私たちのダイヤモンドプリンセス号の最高部の高さが、ベイブリッジの底面からさほど余裕がないので、私たち乗客はベイブリッジをくぐるときの様子を、興味を持って見つめることになる。朝も早くまだ甲板上は寒いけれど、ベイブリッジの底を眺めたい乗客で混雑する。
  Photo_17
 居合わせたひとりの船客の解説によると、このダイヤモンドプリンセス号は船の大きさのわりに最高部の高さが低いので、ベイブリッジをくぐれる船としては最大級だという。したがってこのクラスの大きさの船は、普通は少し東の大黒埠頭に接岸せざるを得ないのだそうだ。
Photo_18
 ベイブリッジを通過すると、我々の眼前に横浜ベイエリアの美しい眺めがひろがる。私たちは、16年前までかなり長期にわたって湘南地区に居住していたこともあり、懐かしい景色である。おりしも、横浜港には豪華客船「飛鳥」が着岸していた。
 この横浜で、一緒に旅行していただいた東京居住の友人夫妻が下船された。

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那覇・台湾クルーズ (11)

  九份 阿妹茶楼
1_1   聖明宮から坂道を下っておりる途中に、眺望がよい喫茶店としてガイドブックに紹介されている阿妹茶楼(あめちゃろう)があった。最初は場所がよくわからなくて、この商店街の組合事務所のような建物に入って、そこにいた現地のひとに尋ねてみたところ、親切に教えていただいたのであった。
 店内に入り、店員さんから誘導されるままに階段を上がると、屋上のテラスの席がひろがっていて、幸いいちばんせり出したコーナーの座席に座ることができた。
8  ひとりの男性店員がテーブルにきたので、メニューの内容を聞いた。どんな飲み物やお菓子が出てくるのか、よくわからないところもあり、結局台湾ビールと紅茶をとることにした。坂道をしばらく歩き続けて喉が渇いていたこともあり、ここの台湾ビールはとても美味しかった。
Photo_16  眺望のよさそうな場所なのだが、あいにく曇天で霧がかかっていて、遠景はよく見えない。それでもよく気の利く快活な店員さんと、渇きを潤すビールのお陰で、しばし楽しく快適な時間を過ごすことができた。ここではWi-Fiも使用でき、しばらくぶりに日本の家族にメールを送ったりすることもできた。
 阿妹茶楼を出て、坂を一気に下り、バスターミナルに着いた。路線図によると、ここから基隆港へバスで帰ることもできそうだが、どういうわけかバスの発車時刻の情報が一切表示されていない。タクシーを何台か打診したが、ここでは標準料金表のようなものを根拠に、往路より高額の料金を主張する。よくわからないままではあったが、往路より少しだけ高い料金で妥協して、タクシーで帰った。それでも全体を考えると、ずいぶんコストパフォーマンスの良い散策であった。

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韓国に対する私の感覚

【コラム】「反日」と「嫌韓」の間
2019年03月29日09時32分 [ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版]
 韓日関係が悪化している。韓国が強制徴用賠償判決に続いて財産差し押さえを決定すると、日本が報復関税や送金制限などのカードに触れながら対抗している。両国国民の感情的な争いも激しくなっている。韓国では「日本戦犯企業が生産した製品」ステッカーを貼ろうという条例案が登場するなど反日感情が高まっている。(中略)
  それでも解決の糸口は見えない。学者らは両国の長い文化・歴史観の違いを理解すれば解決法が見えるかもしれないと話す。韓国は名分を重視する朱子学的思考、日本は実利を重視する陽明学的思考に習熟しているため、過去の問題の解決もこうした根本的な理解の上で進めるべきということだ。
  日本と韓国で教授を務めた金容雲(キム・ヨンウン)元漢陽大大学院長は韓日葛藤の根本を民族の集団無意識の「原型史観」で説明する。金氏は著書『風水火』で「大義を前面に出す韓国とは違い、日本は『勝者が正義』いう形で生存を重視する」とし「韓国 が『歴史の立て直し』に執着する半面、日本は過去を流れてきた歴史として認識するが、このような違いを知ってこそ道が見える」と言う。(後略)

 つまらない話題なので、コメントはごく簡略にしておく。
 私は幼少期より、学校で、近隣住民との関係で、また社会人になっても仕事にプライベートに、親疎あわせてかなりの数の韓国人や在日の人たちとつきあいがあった。そんな経緯もあって、韓国・朝鮮の歴史を少し読んでみたり、ハングルを少しかじってみたりしたこともあった。仕事のみでなく、プライベートでの韓国旅行も何度かあった。かつては、総じて韓国の人々に対して、親近感もあり、尊敬もあった。親しい友人もあった。日韓友好を目的とする会合に参加したこともあった。
 しかしここ数年来は、少なくとも国家としての韓国に対しては、親しみも、敬意も、関心も無くなっている。従軍売春婦問題にはじまり、日本海などの名称問題、竹島問題、そして最近の軍艦島問題、レーダー照射問題など、よくもまあこれだけ理不尽なことをたて続けに吹っ掛けてくるものだ、と心底から呆れている。
 私を含め多くの日本人の思いは、「嫌韓」というより「韓国を信用・信頼できない」というものであり、できるだけ韓国とは関わりたくない、というのが本質的なところである。たとえば日韓共同宣言は勝手に破棄するし、レーダー照射問題では呆れかえるような虚言ばかり連ねるし、到底信用できる、信頼できる相手ではない。信用も信頼もできない相手とはつきあう価値がない、つきあわない方が良い、と考えるのは、ごく自然である。
 信用・信頼できない相手に、いったいなにを期待できるというのか。軍事面、経済面のいずれにせよ、信用も信頼もできない相手には、期待できるものなど何もない。北朝鮮問題などで日韓の協力が必須、などと一部のメディアはたいして考えもせずに無責任に喚き、政府も「建前」の上ではやむを得ず言っているが、私たち市井の庶民から見たら、なんの期待もできず、努力する価値もない。韓国が繁栄しようが衰退しようが、どうでもよいことである。
韓国は、国として信用と信頼を完全に喪失した。それだけのことである。ただ、人間同士の個人的なつきあいもそうだが、いったん失った信用や信頼をとりもどすことは、なかなか容易なことではない。
 上記に引用した韓国のメディアは、日本側の、普通の日本人のそうしたパーセプションをまったく理解していない。「過去の問題の解決もこうした根本的な理解の上で進めるべき」、「このような違いを知ってこそ道が見える」などと、まったく的外れの無意味なことを連ねている。まあ、ムン・ジェインを大統領に撰ぶようなお国柄だから、仕方ないと思うべきなのかも知れない。
 もっとも、韓国の個々のひとびとに対しては、特段の感情はない。彼らは、生まれた国を選ぶことはできなかったのであり、気の毒とは思うものの、強いて嫌おうとするものではない。ムン・ジェインを大統領に撰ぶような奇妙な文化にはなんの興味もないし、韓国レストランにはとんと脚が向かないし、テレビ番組で韓流をやっていたらしずかにチャネルを切り替えたり立ち去ったりするけれども、韓国からの観光客に道を尋ねられたときには、他の国の人に対するのと同様に、笑顔で、できるだけ丁寧に愛想よく対応している。

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那覇・台湾クルーズ (10)

九份の聖明宮
 市立九份国民小学校から少し降りて、もと来た旧市街の店がならぶ小路にいくまでの間に、中華風の華やかなお宮がある。聖明宮という。屋根の端がそり返って上に跳ねがっていること、そして屋根の上に複雑な形の装飾がぎっしり詰まっているのが特徴である。ここは商売繁盛の神様として崇敬を集める関聖帝君を祭る宮殿である。関聖帝君とは、後漢末期に劉備に仕えた武将「関羽」が神格化されたものである。2_1
 関羽は元来、主君劉備に仕える忠臣として、勇猛な優れた武将として伝えられてきたが、清の時代になって乾隆帝が関羽を財の神に封じたと伝えられ、以後は専ら「財産拡大の神、繁盛の神」として崇拝を集めている。中国では、大陸・台湾を通じて、もっとも多くの廟に祀られるのがこの関羽=関聖帝だという。ともかく、中国は神様においても、現世利益、財産の増加が民の最大の願望であるらしい。
聖明宮の前の両側には、媽祖と文昌帝の廟が向かい合って建っている。

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媽祖(まそ)は、航海・漁業の守護神であり、中国沿海部を中心に広く崇敬を集める道教の女神である。尊号としては、則天武后と同じ天后が付せられるもっとも地位の高い神である。日本でもオトタチバナヒメ信仰と混淆して広まった。親しみをこめて媽祖婆・阿媽などと呼ぶ場合もある。
文昌帝は、文章を司る神であり、学問の神として、とくに科挙をめざす受験生から広く崇敬を集めた。
 ここ聖明宮は、ジャニーズ事務所の男性アイドルグループA.B.C-Zのファースト写真集『五つ星』で表紙の撮影場所として用いられたという。

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